技術全般

1)日本初の市電「京都チンチン電車」

1)世界および日本での市電営業運転経過
 「琵琶湖疏水の百年」誌によると、世界での市電の実用的成功は、明治十二(一八七九)年のベルリン博覧会で二十人乗りの無蓋客車を小型電気機関車で運行させたのが最初で、明治十四(一八八一)年にベルリン郊外で商業運転され、明治十六(一八八三)年にイギリスがドイツ技術を導入して営業し、明治二十一(一八八八)年にアメリカで営業されている。そして、田辺朔郎と高木文平が明治二十一年の秋に渡米して、アメリカの水利事情と水力発電の調査を実施した時、ボストン郊外のリン市で開業した直後の市電を見学している。
 日本では、明治二十三(一八九〇)年に東京電灯KKの藤岡市助技師長が欧米を視察した時、アメリカから二台の電車を輸入し改良を加えて上野公園で開催された「第三回内国勧業博覧会」に出品し、公開運転したのが日本最初の顔見せだあった。
 京都では、田辺に同行した木文平が明治二十六(一八九三)年に京都電気鉄道KKを設立し、明治二十八(一八九五)年に京都岡崎で開催された「第四回内国勧業博覧会」に合わせて、"日本最初の水力発電による電力を用いた営業用市街電車"を運行した。
「チンチン電車」の名は、運転手や車掌が、車内に張った紐を引いてチンチンとベルを鳴らし発車の合図をしたことに由来する。

2)平安神宮神苑に展示されている当時の市電
 平安神宮の神苑見学コースの入口から南神苑に入って、枝垂れ桜の道を行くとすぐ左手に、「チンチン電車」の実物が野外に展示(写真@)されている。説明パネルの全文を紹介すると、

            「平安神宮庭園にあるチンチン電車」
 この電車は、明治二十八年一月三十一日に日本最初の交通輸送兼電車として京都電気鉄道が運行したものである。
 当初は、伏見線、木屋町線、鴨東線(平安神宮の在る岡崎付近にも敷設されていた)を開通、次いで明治三十二年には北野線、三十七年に西洞院線を増設・運行し我国電気鉄道の先駆として交通事業に貢献するところが多かった。
 しかし、明治四十五年六月京都市が市営にて電気軌道の営業を開始し、大正七年六月には京都市に合併された。
 その後昭和二年四月までの間に木屋町線、出町線、烏丸丸田町線等の路線が随時廃止され、主要路線は広軌に取り替えられたが、北野線のみ同じ狭軌のまま残されていた。
 しかし時勢の推移は如何ともすることが出来ず、最後のこの線も昭和三十六年七月を以って廃止され、永年チンチン電車の愛称で親しまれた我国最古の電車もその姿を消すことになった。
 ここに展示している電車は当初のものであり、平安神宮創建とも深い関係があるから京都市より払い下げを受け、記念として保存している。車体は梅鉢鉄工所の製作、電動機はアメリカゼネラルエレクトリック社の製品である。昭和二十一年頃、神戸製鉄株式会社によって修理が実施された。以上の説明パネルの内容は狭軌のチンチン電車のもので、広軌の大きい電車は昭和五十三(一九七八)年九月三〇日ですべてが廃止され、明治二十八(一八九五)年以来八十三年間運転をつづけた路面電車の歴史に終止符が打たれた。

3)琵琶湖疏水記念館の地階での展示パネル
 ここではチンチン電車の歴史をビデオで説明を聞くことが出来る。とくにすばらしいのは、正面の壁の大きい画面に明治二十八年二月に開業した京都電気鉄道の伏見終点のイメージ写真Aが写されており、写真の正面にある橋が京橋、左の橋が蓬莱橋、向こうの広い水面が巨椋池で大きい船が大阪行の蒸気船である…と説明されている。
 巨椋(おぐら)池については詳しく調べて別項で解説したいと思うが、当時の伏見港の雰囲気がよく説明されている。また、ビデオ画面で、走っている電車にお客が飛び乗る姿が写っているのも微笑ましい。

 最初に伏見線を走った電車は、アメリカのGE製二十六馬力、台車もアメリカのベッカー社製、車体は井上工作場製で、言わば日米合作であった。長さは六・六メートル、幅二メートル、色はブルーで、定員は二十八名、窓は片面あたり七面あり、社内に五ケの電灯がつけられた。時速は十キロ、混雑する場所や街角・橋上などでは、同乗している"告知人"と呼ばれる少年が飛び降りて、電車の前を走り危険を知らせたという。その後告知人の事故が相次ぎ、二年後には車体の前後に救助網が取りつけられ、六年後には告知人の姿も無くなった。
 また、建設当初の疏水の底は掘り抜きのままで、藻が成長して水流の速度が落ちるので、毎月一日と十五日は、藻刈りのために通水を止めた。そのため、発電も止まり工場も休止となり、電車も休業し、この両日は公休日に当てられたという。

4)京都の「梅小路機関車館」のチンチン電車
 路面電車が消えてから約二十五年を経過し、路面に使用されていた敷石は良質の御影石であり、東山に沿った「哲学の道」、「2年坂」、「三年坂」などの散策道では敷石として再利用されている。
 京都駅から西に歩いて十五分のところの「梅小路公園」内にチンチン電車が置いてあり、土・日および祝祭日には運転されている。乗車時間は数分で終るが、京都電気鉄道時代  の姿に復元整備された車両(写真B)で、運転手と車掌が乗っており、百余年前のチンチン電車を経験することができる。梅小路公園は、東西の方向に変形した形であり、京都駅から歩くと十五分で公園の東北隅のゲートから入るが、チンチン電車の乗り場までかなり歩く必要がある。バス便もよく、梅小路公園前で下車して七条口から入れば、早くアクセスできる。
 この公園内には、「JR梅小路蒸気機関車館」やすばらしい緑地ゾーン「朱雀の庭」や「いのちの森」があり広大な芝生広場に座ると都会にいるのを忘れる。

参考資料
1. 琵琶湖疏水の百年   京都市水道局 平成2年
2. 京都の市電   京都市歴史資料館資料No.28 平成15年
3. 京都市電物語(思いでのアルバム) 白石南海雄 京都新聞社 昭和53年

@:平安神宮神苑内の写真

A:琵琶湖疏水記念館地階の写真

B:梅小路公園にある電車

2)蹴上浄水場の改良工事完成後の初公開

 昨年の蹴上浄水場公開の入口はやや不便な正門(北門)であったが、今回は昔のように地下鉄蹴上駅A番出口横の通常門(南口)が出入口となった。公開日は4月30日から5月3日までの4日間で,今回の目的がつつじの見学(写真@)よりは設備面に重点を置いたので2回の訪問を行なった。

1) 第1期改良工事が完成
 京都市水道局が平成9年度(1997)から進めていた第1期改良工事の主要部分が昨年末に完成し、稼動してから初めての公開となった。
 第1期工事は約120億円で約6年間かけて実施されたもので、主な工事は第2疏水から取水した水を浄化する14基の急速ろ過池(写真A)と薬品沈殿池2ケ所で、監視制御施設や電気計装設備の改修も行なわれた。

@:今年の“つつじ”は満開

A:新装なった急速ろ過池
 硫酸バンドを用いて原水中のにごりや細菌を固化沈殿させ、その水を急速ろ過池で砂の層を通してこす。蹴上浄水場は明治45年(1912)の創設時にコンパクトな急速ろ過池が日本で初めて導入され、昭和37年の拡張工事でも大型円形の高速沈殿池が日本で初めて採用されたと当時の新聞が伝えている。この大型沈殿池も現在では古い設備となり、第2期改良工事(着工時期は未定)で改造されると伝えられる。

2) 浄水場の排水処理施設
 今回の見学時に配布された「京都の水道」にある装置配置図で、排水処理施設の存在する場所が三条通を隔てて反対側にあることが判明した。
 地下鉄・蹴上駅の@番出口を出て三条通に沿って南に進むと、「ねじりまんぽ」という小さいトンネルがあり、南禅寺側の出口のすぐ左手に鉄格子のついた大きい出入口があり、奥は整備された庭園のように見えるが、いつも閉門しているので不明であった。そして昔の新聞記事でこのあたりに蹴上プール(別途紹介する予定)があったと書かれてあった。
 今回の資料で、昭和51年(1976)に排水処理規制の法律ができて浄水場からの排水も規制の対象となり、この場所に翌昭和52年に完全クローズドシステムの設備が完成したと書かれている、浄水場の南通用門の向って右横から排水処理施設まで三条通の下が地下道でつながっているが見学コースには入っていない。

3) 配水池の配置について
 浄水された水は水道水として各地におくられるが、クッションとなる配水池が設置されている。蹴上浄水場には配水池として、第1低区、第2低区、第1高区、第2高区、第1最高区、第2最高区の6つを持っている。明治45年に第1高区が建設され、第1低区は今回の改修で工事中である。昭和37年の拡張で第2低区、第2高区,第2最高区が建設され、平成4年の増設で第1最高区が建設されている。今回の見学で第1高区の屋上の芝生がはがされており何らかの修理がある模様であった。
 私はこれら配水池の設置場所の選定にあたり自然流下で各地に送液するためにはその水位が重要条件になると考えていたが、今回の調査で"第1高区配水池の満水面の高さが大阪湾干潮時の水面を0メートルとして110メートルある"ことがわかった。琵琶湖の平均水位86メートルから見てかなり高さが確保されていることが確認できた。知識が深くなってくると見学の楽しみ方も増えてくる。

3)日本における水力発電の歴史について

 明治初年の発電の歴史を調べる時、火力発電と水力発電を混同した記事が時々見られる。また当時は今のような情報社会ではないので、あちこちに"日本最初の……"の見出しのついた発電所が存在する。過去に多くの専門家が歴史を説いているが、蹴上発電所の場合"日本最初の営業用水力発電所"と説明されており、"日本最初の自家用水力発電所"が蹴上より少し早い時期に幾つか存在していた。ここでは、全体の歴史を説明した中で蹴上発電所を考察してみる。

1) 本当の日本最初は薩摩の島津藩のものか?
 この項については、鈴木篁氏(技術士)の「水力百年の定義」という論文を読んだことと若干の周辺情報を集めてまとめたもので間違っているかもしれない。
 現在29代島津忠義が明治25年(1892)に建設した「就成所」内の水力発電所に水を供給するための「発電所貯水槽跡」が史跡として残っているが、忠義の長男の忠重が書き残した資料によると、明治15年(1882)頃に幕末の名君として知られた島津成彬が磯庭園にある「集成館」に水を導入して、落差30m(出力5kw)の水力発電装置を完成させた。その後この「集成館」を解体し隣接した場所に「就成所」を設け発電設備をそこに移設したという。これが事実であれば「集成館」の水力発電施設が日本最古のものとなる。
 鈴木氏によると、水力百年記念事業として「わが国水力発祥の地」という碑を建てるべく頑張ったが、断定できる資料ないので実現できなかったという。
 明治維新前後に好奇心に富む島津成彬候が海外情報収集に活躍したイメージから、本当の話と考えられる。わずか百年(されど百年)前の歴史であり、地元の郷土史家の力で事実を解明していただきたいと思う。私は"日本最初の水力発電実験工場"の名を捧げたい。なお現地には「島津家・水天渕発電所記念碑」が残っているという。

2) 蹴上発電所以前に建設された3件の自家用水力発電所
 現在水力発電に関する総括書の中で次の3件を取り上げる例が多い。何れも明治21年(1888)から23年(1890)にかけての事例で、蹴上発電所の完成した明治24年(1889)に近接(少し早い)したものである。
イ) 宮城紡績(宮城県仙台市三居沢)
 明治21年(1888)7月に広瀬川の水を引いて出力5kwの発電機を購入し、"日本最初の自家用水力発電所"の試験発電に成功した。この電力を用いて工場内の50灯と島崎山上のアーク灯1機の照明に使用し話題を呼んだ。
 これはその後増強され、現在出力1,000kwの東北電力三居沢発電所として活躍しており、東北の電気誕生百周年を記念した「東北電力三居沢電気百年館」が建設されている。
ロ) 下野麻紡績(栃木県)
 明治23年(1890)に下野麻紡績が出力49kwの自家用の水力発電所を設けたと紹介されているが、細部情報が見つからない。
ハ) 足尾銅山・間藤発電所(栃木県)
 明治23年(1890)12月にドイツ人設計顧問の指導で3kmの距離から水樋を用いて送られた用水を落差318mの水力でトルピン式横水車を回転させて発電(400HP)し、得られた電力は抗内の用水機・巻揚げ機・電車・電灯などに使用し,足尾銅山の近代化に貢献した。

3) 蹴上発電所の建設とその増強経緯

 昔は年に一回くらい蹴上発電所の内部見学の機会があったが、現在は内部公開されていないので外側の鉄柵の間から覗き見るしかない。地下鉄蹴上駅の2番出口を出ると三条通と仁王門通の別れるコーナーの所に発電所が正面にあり、その先端部分に赤煉瓦造りの大きい建造物(写真@A)がある。発電所は3回に分けて能力増強がなされているが、外見的には小型多数の機械から大型少数の機械に変化しているので建造物の大きさはむしろ小さくなっている。現存して外部から見える建造物は第2期のものである。

@:外から見た第2期建物

A:同左

イ)第1期工事…明治23年(1890)2月起工・明治30年(1897)5月完工
 @明治24年11月送電開始…ペルトン水車(120馬力)2台   26年建屋増強
             …エジソン式直流発電機(80KW)2台
 A明治30年05月完成段階…ペルトン水車(120馬力)20台
             …発電機(75KW〜200KW)19台(直流7台、交流12台)

ロ)第2期工事(明治45年2月完工、出力4,800KW) 
        水車…横軸フランシス水車(1,700馬力)5台(輸入)
        交流発電機(1,200KW)        5台(輸入)

ハ)3期工事(昭和11年1936年竣工、出力5,700KW)
ニ) 昭和54年に琵琶湖疏水の水道使用量増加のため出力4,500KWとする。
        縦軸フランシス水車 2台(国産)
        交流発電機      2台(国産)


 若干の説明を加えると、第1期の第1段階では直流発電機であったので送電可能距離も短く、インクラインの運転動力や近隣の住宅の電灯需要などに止まった。この当時の建屋は残っていない.第2期の建屋は昭和11年(1936)まで運転され,現在の第3期工事が完成後使用していなかった。昭和27年(1952)に京都大学が借用して原子核科学研究施設が設置されたがその後撤去され現在は使用されていない。

4) 琵琶湖疏水記念館に展示されている水車と発電機
 記念館の地下1階から外にでると、当時19台あった水車のうちの1台(ペルトン水車)(写真B)と4号機として使用していた2相交流発電機(写真C)の実物が展示されている。何れも百年くらい前に輸入されたもので立派に保存されている。

B:使用していたペルトン水車(輸入品) 

C:使用していた2相交流発電機(輸入品)

4)蹴上発電所の創建に貢献したデブロー氏の話題

1)まえがき
 今年の夏、ある疏水関連講習会で講師を勤めた時、田辺朔朗氏とともに渡米し水力発電の情報を持ち帰った高木文平氏の孫の奥さんである高木清子さんに出会い、ご主人(文平の孫)が出版された「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ」という本をいただいたが、その副題として「あなたはデブロー氏を知っていますか?」と記されてあった。疏水関連の本を多く読んでいた私にとっても突然の話で「記憶に残っていません」と答えざるを得ない状況であった。早速持ち帰って一読したが、強い感銘を受けたので数回読み返した。
 その内容を筆者の責任で要約すると、祖父文平が残した「水力電気の濫觴(らんしょう)附(つま)りデブロー氏の深切」と題した小冊子を発見した孫の誠氏(循環器分野で著名な医師)が興味を持ってその背景を調べた結果、デブロー氏の詳細な技術伝授が蹴上水力発電所創建の鍵となっているのに、日本においてデブロー氏の名がほとんど紹介されていないことを訴えたい気持が小冊子に込められていることに気付き、108年後に孫の誠氏夫妻が渡米して祖父が歩んだ同じルートをたどって情報確認を実施した。
 帰国後関連資料を詳しく調査し、祖父の意思を受け次いでデブロー氏の評価に焦点を当てて、「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ」を『かもがわ出版(株)』から出版された。2000年9月末に完成した本を病床で受け取った高木誠氏は10月28日に死去,棺には遺言とも言えるこの本も入れられたと言う。
 誠氏の主張の焦点は、「田辺・高木両氏がアスペン銀山の水力発電成功の情報を事前に把握して渡米したという一般紹介記事は間違いで、水車・インクラインを活用した米国での状況を調査する目的で渡米し現地調査した結果、"京都蹴上地区で立地的に水車動力を進めることが困難"であることが判明し失望落胆していた時にアスペンでの水力発電の情報をつかみ、現地を尋ねてデブロー氏に出会い、詳細な情報を聴取して蹴上発電所創設が可能となった」という点にある。
 私も電気技術者ではないが、化学技術者として海外技術の導入に若干の経験があり、基本的には誠氏の主張に賛成であるが、若干の私見を付け加えてみた。

2)関係する情報の年表の作成
 これからの記述の参考として、疏水関連でアスペンに関連する事項を年次別に表示したのが次頁の表である。この表には、高木清子さんからコピーさせていただいた米国コロラド州の「ROCKY MOUNTAIN JIHO」の2003〜2004の最新情報を加えたので、誠氏の著書で不明とされている事項の一部が明確になっている。


本ホームぺージに関係ある事項の年表

年月日

要旨

1887〜1888
(明治20年〜
21年)

京都物産の輸出振興のため欧米に旅行していた西陣の川島甚兵衛が帰国後、
米国のホリヨーク市が運河とダムを造り、水力を利用した工業都市の開発に成功と報告。
この技術の導入を提唱。

1888-10-20〜
1889-1-23
(明治21年〜
22年)
工事中の琵琶湖疏水の参考とするため、疏水工事責任者・田辺朔郎と疏水常務委員の
高木文平が約2ケ月間渡米して調査。現地でアスペンの水力発電の情報をつかみ、その実態を調査。
1889-6頃
(明治22年)
住友鉱山の総支配人・広瀬宰平がコロラド訪問(還暦記念の世界漫遊旅行)。
高木文平から情報を得たと推定される。
1894(明治27年) 高木文平、水電協会の発会式で講演し、デブロー氏の貢献について発表。
1910(明治43年
9月27日)
高木文平他界
1988(昭和63年
12月29日)
田辺・高木のアスペン訪問100年を記念して関西電力と関西テレビのメンバーが
アスペンを訪問した。(現地新聞に紹介あり)
1992
(平成4年夏)
朝日新聞記者の青木公氏がコロラドを訪問した時、ロッキー時報の今田英一氏とともに
アスペンに出かけ、田辺・高木の足跡調査をして現地新聞の記録を発見。
その後デブロー氏の身元も判明。
1996(平成8年
11月12日〜24日)
高木文平の孫の高木誠・清子夫妻が渡米し祖父のアメリカでのルートをたどって現地調査を実施。
2000
(平成12年7月)
京都アスペン協会の主催でアスペン調査団が渡米。(技術調査でなく観光開発的な目的で編成)
2000
(平成12年10月
20日)付で発行
高木誠氏「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ(あなたはデブロー氏を知っていますか?)」
をかもがわ出版より発行。本の完成は9月末、京都アスペン協会の結成総会の日であった。
2000
(〜10月〜)
本の贈呈を受けた青木氏と今田氏が来日され琵琶湖疏水を見学されたが、
二人が誠氏を尋ねた前日、著者の誠氏は他界していた。
2000(平成12年
10月28日)
誠氏は病床で本を手にして喜ばれたが10月28日に死去。棺にはこの本も入れられた。
高木文平の
略歴
天保14年(1843)生れ,京都の経済振興のため種々の事業を起こす。
明治15(1882)京都商工会議所を創設初代会長に就任、
明治26年(1893)京都電気鉄道を設立し社長に就任、
明治39年(1906)宇治川電気の取締役、電気王と呼ばれた。
明治43年(1910)他界。

3)琵琶湖疏水の建設前後におけるわが国の電力事情
 琵琶湖疏水は明治18年(1885)に着工し明治23年(1890)に完工している。したがって設計に入ったのは、田辺朔郎が京都に赴任した明治16年(1883)から予算取りまとめの明治17年(1884)頃と考えられる。当時は大規模な水車動力の考え方に異論を唱える人は居なかったが、ちょうどこの時期に火力発電による電燈事業が芽生え、明治19年7月には東京電燈(株)が設立され、火力発電所が完成し20年(1887)には送電が開始された。
 水力発電も試験操業的なものを含めると、明治15年(1882)鹿児島の島津家では5KWの発電機を輸入して自家用水力発電を試みており、明治21年(1888)には仙台の宮城絹糸(株)も5KW規模で自家使用を目的とした水力発電を実施している。京都電燈(株)も明治21年に設立され京都市内に火力発電所が建設されている。
 ここで若干原理的に説明すると、落水を用いた水車の回転軸に発電機を組み合わせたのが「水力発電」であり、落水の代わりに石炭を燃やして造った水蒸気で羽車を回したのが「火力発電」である。琵琶湖疏水の場合水車動力で計画していたので、大型の発電機があれば水車と組み合わせて水力発電とすることは容易である。ちょうど琵琶湖疏水の工事期間中に電燈用の火力発電建設の中で発電機の進歩が進み、水力発電の具体化は「より効率の高い水車」と「より大型の発電機」の登場を待っている状態にあったと言える。
 このような背景の中で田辺朔郎と木文平は明治21年10月に渡米したのである。

4)田辺朔郎は渡航前にアスペンの成功を知っていたか?
 以下は筆者の技術者としての経験からの推論であるが、"アスペンの情報は文献などで掴んでいたが、成功したという事実までは知らなかった"と考える。その根拠を示す。

イ) 田辺朔郎は工部大学(現東京大学)の土木工学科出身だが、在学中に同大学の電信物理科のエアトン教授(英国人)から電気工学の基礎について個人指導を受けている。また、同大学の先輩で電気工学の先覚といわれた中野初子が発表した世界の水力発電の解説(明治20年の工学雑誌で発表され、田辺はこの冊子を講読し、疏水工事中勉強を続けた)で、パリの水力発電構想やスイスの水力発電による時計製造計画などの記事を読んでいる。同じく先輩で教授の職を辞めて前述の東京電燈(株)の技師長となった藤岡市助とはエアトン教授を通じて技術者仲間であり、日本における火力発電ならびに発電機の開発動向は十分に把握できる立場にあったと言える。

ロ) 当時情報として、明治11年(1878)にフランスで製糖工場、明治15年(1882)には米国ウイコンシン州アップルトンで水力発電に成功したなどがある。世界で技術分野のトップニュースの一つとして水力発電があったと想像できるし、小型の性能の悪い発電機があれば水車と組み合わせて発電させることはそれ程難しい話ではなかった。
 誠氏の本によると、アスペンでは明治19年(1886)にアスペン精錬所が独自の水力発電施設(水車とアーク灯用発電機とを組み合わせたもの)を備えていたので電気分野の冊子に紹介されていても不思議でない。田辺朔郎がその後の講演会などで渡米前にアスペンの情報を知っていたと述べて居られるので、これを信用したい。しかし彼は最初の渡米スケジュールの中にアスペン訪問を入れておらず、数多い情報の一つとして訪問する価値を認めていなかったと想像される。

ハ) 琵琶湖疏水の工事の中で、インクラインの工事に入った時期が明治20年(1887)5月であり、工事が進捗中に渡米したが、モーリス運河を見学して当初の設計の「片勾配式」を「両勾配式」に変更する必要性がわかり、11月25日付で"インクラインの工事を止めてほしい"旨電報を打っている。(琵琶湖疏水記念館に図で解説されている)
 海外出張にもとづく工事変更の総額は約2万円(疏水工事の全体予算は125万円)であり、その明細をみると大部分がインクラインの様式変更の費用であり、水力発電を採用した費用は比較的少ない。近い時期に水力発電の技術導入が可能になると見ていた田辺朔郎は、もしアスペンの情報が今回得られなくても、インクラインだけを先行完成して、水車動力(疏水分線)の工事の着手を待って水を放流して時間を稼げば水力発電への転換は比較的容易だと考えていたかも知れない。

ニ) 田辺朔郎がアスペン銀山の水力発電を見学したとき、オーナーのデブロー氏(従来弟と言われているが、今田氏の調査では兄となっている)と面談し僅か2日間位であったが施設のノウハウのすべてを伝授していただけたことは全くの幸運であった。今田氏の調査によるとデブロー氏はフランス貴族出身でマサチューセッツ大学(工学)とコロンビア大学(鉱山学)で学び、水力発電の開発を推進した当事者であり、日本のエリートとして紹介された田辺・高木との討議は極めて効率的に行われたと考える。
 私が驚いたのは、田辺朔郎は帰国後の追想の中で"アスペンで見学した水力発電所の電動機は当時火力発電で使用されていた直流エジソン式80KWであり初歩的なものであったとし、水車の方も安定出力の決め手となるガバナー(調速機)がなく手動式の幼稚なものであった"と述べ、帰国途上にサンフランシスコにある水車メーカー(ペルトン社)に寄って滞米中に考案した機械式ガバナーの試作を依頼し、のち蹴上で一時使用したと言う。
 このようなことは渡米前に事前調査を十分にしてなければできないことで、彼は土木と電気だけでなく機械分野の才能もあったマルチエンジニアとして、かなり詳しく水力発電に転換する場合の問題点を渡米前から把握していたと考えたい。
 疏水に水力発電を設置する場合の最終規模は2000HP(馬力)を目標としていたが、当時大型発電機の実績が無く、蹴上の最初の発電機はアスペンと同じエジソン式80KW2台(アスペンでは150HP)でスタートした。また水車の方もアスペンと同じぺルトン式を採用(一部改良)しリスクを避けた。また、アスペンでは800HPの大型設備がテスト中であったが田辺氏は"水車の速度を迅速に調整できる機械"の工夫が無ければスケールアップは難しいとトラブルの原因を見学時に見抜いている。

5)水力発電への転換を成功させたその他の鍵

イ)一般に技術導入をするには、契約書を作り契約一時金の支払いと発生電力KWあたりのランニングローヤリテイ等が要求される。しかし建国途上にある米国にはそのような規則も徹底しておらず、欧州からの移民で成功し富裕層に属したデブロー氏は、開拓者精神に燃えた日本からの訪問者にすべてを無償で教えてくれた。
 今回のテーマは,シンプルなプロセスであり、一番欲しいのは繰り返し失敗して成功に導いたノウハウであった。田辺は正確な質問をし、デブローは正確に答えて僅か2日間の訪問で実態見学とノウハウ授受が可能となったのである。

ロ)今回のプロセスで主要な機器は発電機と水車であり、アスペンの情報を得てデブロー氏への紹介状を貰った「スプル−グ(株)」では、当時の米国における発電機の情報を詳しく聴取し、水車についても前述の「ペルトン(株)」を訪問して情報を把握している。
 恐らくこの両社は蹴上発電所の機器輸入面で役割を果たしていると想像する。

ハ)田辺朔郎(27歳)と高木文平(45歳)の二人のコンビは絶妙であったと想像する。二人とも海外旅行は初めてであり、高木には英語と技術の素養はなかったが、実業の経験が多かった。田辺には大学卒業後ただちに琵琶湖疏水建設業務に入っている。
 高木の略歴をみて感じることは、新規事業に取り組む情熱は極めて大きく、多くの経験をもっている。現地の見学旅行で二人の感じ方にはかなりの温度差があったと思うが、田辺の沈着さと高木の情熱さがうまく噛合ったと想像する。私の経験から見て異質の組み合わせが異質の収穫に結びつき、双方に知識吸収の情熱があったかどうかが成功の鍵であったと考える。
 高木の実力は帰国後の報告会でも役立ち、京都市における電力事業の展開に主動的役割を果たし"電気王"とよばれるに至った。

ホ) 二人のアスペン訪問のタイミングが発電成功の2ケ月後であったとか、アスペンに通じる鉄道が開通後わずか10ケ月とかラッキーな面が多々あったと紹介されている。しかし、この情報が無かったら、東山一帯に水車が並び現在の景観が無くなっていたとは考えたくない。当時田辺は水力発電の威力をよく理解しており、その根幹技術となる大型発電機の登場も近いと認識していた。 転換に必要な追加投資も少なく渡米にあたり先進米国の水力発電の情報を少しでも把握すべく事前調査をして行ったと考える。言い換えれば渡米前の最大関心事の一つであったと思う。

 以上、私の推論は従来の常識を超えて進めたところがあるが、間違っていたらご指摘願いたい。その後の報告の中で高木氏の報告にはデブロー氏の貢献に触れているのに、田辺氏の発言に中に何故かデブロー氏の名前は登場してこない。私は大きい貢献があったことに異存ないし、蹴上公園に「デブロー氏の顕彰板」があってもおかしくないと考える。僅か100余年前の出来事であるが、多くの明治時代の真実が消えようとしている。
引用文献・資料

1)「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ 高木誠 かもがわ出版  2000‐10‐20
2)ROCKY MOUNTAIN JIHO( 04-04-28〜05-12) 3回シリーズ 今田英一(日本文)
3)ROCKY MOUNTAIN JIHO(00-11-29〜12-20) 4回シリーズ 青木公(日本文)
4)ROCKY MOUNTAIN JIHO(2003 NewYearIssue) 今田英一(英文)
5)かもがわ出版の湯浅会長の「社員のここだけの話」No12(2001−1)
6)京都アスペン協会ホームページ資料(京都市とアスペン市とのかかわり)
7)京都アスペン協会ホームページ資料(アスペン調査訪問の記録)
8)鈴木篁ホームページ資料(水力百年の定義・最古の水力発電所は?)
9)石田正冶ホームページ資料(産業遺産としての発電所・草創の灯はここから)
10)藤村哲夫シンポジウム報告(中部の電力の歩み・第1回講演報告資料)
11)京都の謎:東京遷都その後  祥伝社黄金文庫  高野澄  2004‐07‐30
12)琵琶湖疏水及水力使用事業  京都市電気局  昭和15(1940)年3月31日
13)田辺朔郎博士六十年史  西川正冶郎編  大正13(1924)年4月
14)琵琶湖疏水の100年  京都新聞社・京都市水道局  平成2(1990)年

5)宇治川に存在する3ヵ所の発電所

 琵琶湖から放出される水路は、瀬田川(京都府域から宇治川となる)と琵琶湖疏水の2ヵ所である。琵琶湖疏水のルートには下記3ヵ所に発電所があるが、いずれも規模が小さい。
発電所名 出力(KW) 落差(m) 使用水量
(m3/s)
発電開始年
蹴上 4,500 33.7 16,700 明治30年
夷川 300 3.4 13,910 大正03年
墨染 2,200 14.3 12,710 大正03年
 これに対し、宇治川には大きい規模の下記3ヵ所の発電所が存在する。
喜撰山 466,000 219.4 248,000 昭和45年
天ヶ瀬 92,000 57.1 186,140 昭和39年
宇治 32,000 62.0 61,200 大正02年
         (社団法人 電力土木技術協会資料より引用)
 今回は宇治川に存在する3ヵ所のダムと発電所の概要を紹介する。
1) 宇治川発電所
 高木誠氏のまとめられた著書「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ」に宇治川発電所の建設に至る経緯が記載されている。筆者の祖父にあたる高木文平氏は、田辺朔郎氏とともに渡米し、アスペン銀山で実用されていた水力発電の技術を導入して蹴上水力発電所の建設に貢献したことで知られるが、日露戦争後に文平氏は宇治川に本格的な大容量の水力発電所の建設が必要と考えて細部具体策の検討を進めた。
 最大の難問は、宇治川べりの発電所まで高い水位を維持したまま琵琶湖の水を如何にして導入するかにあった。ちょうどその頃政府主導の淀川改修工事が進められ、瀬田川に「南郷洗堰」が設けられたので、その洗堰の少し上流に取水口を設け、そこから宇治川発電所に導水する計画が生れた。このコースはトンネルが8割を占める難工事であったが、62mの水位差が確保された。高木文平氏は自ら発起人となって「宇治川電気梶vを設立し、当時日本一を誇る発電所ができたのである。

@:瀬田川にある取水口近辺

A:宇治川にある放水口近辺
 去る6月12日、京都史跡ガイドボランテイア協会の主催する「宇治川(宇治橋上流)周辺の史跡ウオーク」に参加して、十三重石塔のある塔の島側から対岸にある宇治川発電所の放水口を見学した。
 放水口の流れを跨ぐ朱塗りの観流橋を渡った左側の植え込みに、大正3年(1914)10月に建てられた宇治川電気鰍ノよる工事竣工記念碑がある。

B:宇治川発電所工事竣工記念碑(大正3年)

C:放水口を跨ぐ観流橋の内側写真

記念碑に刻まれた内容の一部を紹介すると

 工事着手時期………明治41年(1908)12月
 工事完成時期………大正2年(1913)6月
 水路総延長…………11,158m
      内訳…………トンネル9,218m(82.6%)
              開渠  1,149m(10.2%)
              暗渠   800m(7.2%)
 有効落差……………61.8m
 送電線路……………大阪線22マイル、京都線8マイル
 工事総資金…………1,600万円

 宇治川発電所は平等院の対岸に位置しているが、発電所の水槽や太い配管など景観に配慮して視野から隠されている。また放水口の奥も立ち入り禁止で、煉瓦製の建物が見え隠れしている。

2) 天ヶ瀬発電所
 宇治川にアーチ型の天ヶ瀬ダムを建設するキッカケとなったのは、昭和28年(1953)秋の台風13号による京都府南部の大水害であった。この台風は、淀川水系に大洪水をもたらし、周辺地区は大被害を被った。
 そして昭和29年(1954)に「天ヶ瀬ダム」の建設を含めた「淀川水系改修基本計画」が決まり、総工費65億円をかけて昭和39年(1964)に天ヶ瀬ダムが完成した。
 今回参加した史跡ガイドのコースの中に天ヶ瀬ダムの記載があったので楽しみにしていたが、時間の都合で手前にある「天ヶ瀬吊り橋」を渡って宇治市の方にUターンしたので、吊り橋から発電所の建物の一部を覗いたに止まった。

D:天ヶ瀬吊り橋の全景

E:吊り橋から見た発電所の建物の一部

 資料によると、ダムの大きさは長さ264m、高さ73mで、ダムの水量は2,628万m3(甲子園球場の約70杯分)である。
 通常はダムのコンクリート壁のほぼ中央部にある3基の主ゲートから放水されているが、大洪水の時はダム湖の水面近くにある4基のクレストゲートが追加使用される。発電所向けと浄水場向けの取水口は、ダム湖水面の向って右側にある。
 このダムの水位は次のように操作している。
    冬場の制限水位…………………78.50m
    夏場の制限水位…………………72.00m
    発電に最低限必要な水位………68.80m
    低水位……………………………58.00m
 このようにして、ここに溜められた約2,000万m3の水で、治水・発電・上水をコントロールしており、淀川水系の洪水対策に大きな役割を果たしている。

3) 喜撰山発電所
 この発電所は昭和45年(1970)に建設された純揚水発電所(夜間の余った余剰電力を利用して、下部池から上部池に水をポンプアップして溜め込み、昼間その水を用いて発電に供する)である。
 ここでは、既設の天ヶ瀬貯水池を下部揚水池とし、上部に高さ91mのロックフイルダムを設置した。この時期には電力消費の伸びに対応するため、日本各地に大容量揚水発電所が建設されたが、喜撰山発電所は当時の最大規模のものであった。
 喜撰山ダムの周辺にはいくつかのいるが、所管する関西電力の方針で見学や散道が繋がって策ムに向う道路や橋は鉄扉で閉ざされている。
は許されず、ダ いる資料は少ないが、地図によるとかなり大きいダム湖があり、総貯水量は一般に公開されて723万m3、有効貯水量は533万立方メートル、湛水面積0.31uとの記載がある。

6)車石敷設200年記念シンポジウムに参加して

 今年は、文化2年(1805)の三条街道(旧東海道・大津京都間)における車石敷設工事から丁度200年になる。琵琶湖疏水が通る前、正確には鉄道が走る前、更には舗装道路工事が伝来するまでの大津・京都間の物資の輸送は、主として牛車が用いられており、「車石・車道」が主役を演じていた。
 車石の話題は、かねてより京滋地区では知られていたが、その実態を詳しく紹介した報告はなかった。この程、京滋地区および埼玉県に勤務している現役の小中学校の先生達が中心となって「車石・車道研究会」を立ち上げ、初めてのシンポジウムが開催された。
 8月28日のアスニー山科(120名出席)と10月10日滋賀会館(50名出席)の2回のシンポジウムがあり、私は両方に出席した。
 車石をテーマとした公開ミーテイングは初めてであり、同好者の集まりというよりは学会に近い内容の濃い講演が多く、主催者側も驚く程の盛況であった。配布された資料も製本されており、延べ7時間の講義にも飽きることは無かった。
 このホームページの読者には、車石のことを知らない人もいると考え、初歩的な紹介記事の紹介に留めた。

1) シンポジウム開催に主役割を果たした研究者
 シンポジウムの実行委員長を務めたのは、埼玉県川口市元郷中学校の山嵜廣さんという現職の校長である。修学旅行で京都に出かけた時に車石に出会い、学習のテーマに取り上げ、インターネット調査で関連情報を収集しホームページを立ち上げた。 http://aaa.or.jp/yamasaki/

 この話題が埼玉地区でニュースとなり、新聞にも取り上げられ、車石・車道の研究は山嵜 先生のライフワークとなった。
 また、今回のシンポジウムの事務局長を務めたのは、京都女子大学付属小学校の先生・久保孝さんで、本人の説明によると5年ほど前から車石・車道の実態調査と研究を続けられ、今回のシンポジウムの基幹となる「文化年間三条街道車石敷設工事」と「三条街道の車道・車石の除去」と題する2つの発表を行なった。この久保先生が埼玉の山嵜校長を訪ねて、今回のシンポジウム開催が決まったという。
 その他、京都・向島小学校の早川幸生先生や大津市歴史博物館学芸員の樋爪修さん他、多くの発表が行なわれた。

2) 車石・車道とは何か?
 大津市から三条街道を通って京都に向かう道筋や旧東海道筋を歩いて、注意深く観察すると、今でも車石が沢山残っている。
 山嵜さんの紹介資料の中で、京都のMKタクシーが発行しているMK新聞403号(平成6年12月7日)にある車石の解説記事がよくまとまっているので、その一部を引用する。


 近世京都は政治経済上諸国より物資の供給を仰ぐことが極めて多かった。その陸 揚げされた物資を都に運搬する際に、牛車の通る部分だけ2列に花崗岩を敷いた。
 これが車石と呼ばれるもので、その石の表面に牛車の車輪に合わせて溝を作り、レールのように並べて車を通した。このため車は一方通行となり、交通の混雑緩和に務めた。車道は、神学者・脇坂義堂により、江戸初期より京都の京津・竹田・鳥羽街道などに敷設された。
 この三街道は交通量が多く、重要交通路であったが、坂・粘弱地・湿沢地などの場所があって、通行が困難であった。その後、運河・道路・鉄道の普及により、不用となった車石は、石垣・石柱の台座・民家や学校の庭石に転用されたが、今ではほとんど忘れ去られている。
 参考までに大谷(逢坂峠)の蝉丸神社前にある車石の写真を紹介する。

 琵琶湖疏水べりにも、京都の洛東高校や大津市の長等小学校にもあり、京都市内小学校の中の20校が校内に70ケの車石を保有している。
 また、旧東海道筋(追分)の閑栖寺の佐藤賢昭住職が、近隣3地区の個人住宅における車石の保有する家を調査したところ、32軒が119ケの車石を保有していた。
 その他、四国の香川県の現さぬき市に所在した豪農「安芸栄柱」が私財を京都の車石建設に投じて破産したという事実を、子孫にあたる安芸育子さんが執念を持って解明した報告や、文化2年の車石敷設工事を保存資料から詳細に解明した大津市歴史博物館の樋爪修学芸員の報告などがあり、また車石の写真・古図・古文書などの展示があった。今後の研究会の活動により、車石の謎の解明は急テンポに進むと期待している。

7)台湾で活躍した土木技師「八田与一」の紹介

1) 八田与一技師に興味を持った経緯
 私が「八田与一」の名を知ったのは、台湾の元総統「李登輝(リーテインフイ)」に関する新聞報道である。李登輝は、京都大学農学部を経由して陸軍士官学校に在籍した親日派であり、台湾独立推進の大物政治家として中国政府にとって政敵と見なされている人物であった。
 平成13年(2001)に、中国政府の反対を押し切って心臓病治療のため倉敷市の病院を訪れている。しかし、平成14年(2002)に慶応大学の三田祭での講演のためビザを申請したとき、日本政府は中国に配慮してビザを発給せず、来日を断念している。この時に李登輝が予定していた講演題目とその内容があとから公開されたが、「日本人の精神」と題し、台湾の水利事業に大きく貢献した「八田与一技師」の生涯を事例に、日本人の精神を説いたものであった。そして、平成16年(2004)末に家族旅行のため1週間の来日を計画したとき、日本政府は日本での行動をきびしく制限してビザを発給した。そして、この短いスケジュールの中で李登輝は、金沢市今町にある八田与一の生家を訪問して仏壇に手を合わせ、生前の与一の功績に感謝したと報道された。

 このほど、私の勤務した会社のOB会で中国貿易の会社を経営する赤松弘暉君から、八田与一に関するメールをいただいた。図書館で、斎藤充功(みちのり)著「百年ダムを造った男・土木技師八田与一の生涯」を読み、改めて大きい感銘を受けた。
 今回は、琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎と、台湾の烏山頭ダムを建設した八田与一を比較した形で若干の考察を加えて報告する。なお、登場人物には敬称を省略した。

主な参考資料
「百年ダムを造った男」斎藤充功著 時事通信社1997‐10‐20発行
「知られざる偉人」
http://norty523.hp.infoseek.co.jp/yoiti.html
「李登輝前総統の幻の講演」
http://www.a-eda.net/asia/leelecture.html
「八田与一と石川県」
http://www.jiyuu-shikan.org/frontlion/sonata/hatta-yoiti.html

2)八田与一と田辺朔郎の時代的比較
 田辺朔郎は文久元年(1861)に生れ、昭和19年(1944)に81才で没している。これに対し八田与一は、琵琶湖疏水着工1年後の明治19年(1886)に生れ、太平洋戦争開始まもなく昭和17年(1942)に56才で没している。したがって、八田与一は田辺朔郎より25年遅く出生しているが、田辺朔郎より2年早く死去したことになる。
 両人とも、現在の東京大学土木科出身の技師であり、八田与一が東大を卒業した明治43年(1910)には琵琶湖疏水(第1疏水)が順調に稼動中であり、第2疏水も工事中であったので、大先輩にあたる田辺朔郎の偉業を熟知していたと考えられる。
 一方、田辺朔郎は後輩にあたる八田与一の台湾における偉業と、成功後の殉職に至るまでの経緯を熟知していたと考えられる。両人の交流があったかどうかは未調査であるが、お互いに尊敬の念を持っていたことは間違いないと考える。

3)八田与一の経歴
 斎藤充功の著書は、7回にわたり渡台して現地取材を繰り返し、専門技術的な知識を駆使し、当時の時代背景を加えた名著である。この中から、八田与一の略歴を抜粋すると、

明治19年(1886) 現金沢市今町の大百姓・八田家の5男として生れる
明治37年(1904) 石川県立第一中学校卒
明治40年(1907) 第四高等学校工科甲科卒(21才)
明治43年(1910) 東京帝国大学工科大学土木科卒、台湾総督府土木部技手として就職
大正03年(1914) 高等官の総督府技師に昇進
大正05年(1916) 衛生工事担当の掛長に昇進、初めて東南アジア各地に海外出張
大正06年(1917) 金沢の医者米倉外代樹(とよき)と結婚(31才)総督府で、ダム工事の事前調査を開始
大正09年(1920) 工事着工、総督府を辞めて現地の組合技師に任命
大正10年(1921) 工事部(工事推進)の責任者となる(35才)
大正11年(1922) 米国に出張、7ヵ月間現地調査を実施
大正15年(1926) ダム堰堤の本格工事を開始
昭和05年(1930) 10年後に工事完了、工事事務所長を辞め総督府技師(高等官3等1級職)に復職
昭和10年(1935) 中華民国へ出張、福建省の灌漑水利施設調査
昭和14年(1939) 総督府の技師の頂点に立つ勅任技師となる
昭和15年(1940) 海南島視察
昭和16年(1941) 朝鮮・満州・中華民国を視察、日米開戦
昭和17年(1942) 南方産業開発派遣要員として徴用、フイリッピンに船舶で移動中米潜の魚雷攻撃に逢い、沈没し殉職する(56才、正四位勲三等)
昭和20年(1945) 日米終戦となり、妻外代樹8人の子を残しダム放水口で入水自殺
4)烏山頭ダム建設に至る経緯
 台湾は日本の九州よりやや小さい亜熱帯の島で、烏山頭ダムは、台湾南部の台南市から北東約40kmの所にある嘉南平野に存在する。
 斎藤氏の著書より要点を引用すると、当時の中華民国は、台湾を先住民と大陸からの開拓民が住む島(明治初期の北海道に近い)のまま、開拓の手を入れていなかった。そして日本の統治下となって、インフラの整備が進められたのである。
 当時嘉南平野も、開発の手は全く入らず、マラリアやペストが流行する亜熱帯の不毛地域であり、急流河川が多く雨季と乾季の雨量の差が大きいので、安定した水の供給が望めないまま、農民は貧困に苦しんできた。そこで台湾総督府は、年間2,000mmを超えるこの地にダムを建設して、安定した水の供給を確保し、巨大な農地開発を目指したのが烏山頭ダム出現の経緯である。

5)烏山頭ダム建設の概要
 八田与一が綿密な測量にもとづき工事推進の責任者となったのは35才の時であった。当時東洋一と言われた巨大ダムに採用した工法は、日本では全く経験のない「セミハイドロリックフイル工法」であった。
 この工法は米国の大型ダム工事に実績のあるもので、堰堤の中心部だけにセメントを使用し、周辺を粘土・砂・玉石で固めてコンクリート以上の強度を持たせる方式である。堰堤の長さは1,273m、高さ56m、低部の幅が30m、頂部の幅が9mという巨大湖で、完成当時の貯水量は日本の黒部ダムの75%に相当する1.5億トンであった。
 工事面でもっとも難工事であったのは、河川からダムに水を導入する全長3,107mのトンネル工事であり、日本熱海の丹那トンネルに採用されたシールド工法を考えていたが、地質面から困難性が予想された。さらに日本では全く経験のない大型の土木工事機械の採用が必須であった。八田与一は仲間とともに、このような大型ダムの建設に実績のある米国に7ヵ月間出張し、次に示す問題点の解明に努めた。
@ 多くのセミハイドロリックフイル工法のダムを見学し、工事ノウハウを集めた
A 米国技師の薦めでシールド工法を断念し、オープンカット工法の採用に切り替えた
B 巨大な工事要土木機械の選定と買付けを行なった

 途中にいくつかの工事休止の難問に出合ったが、大正9年(1920)に着工し、10年後の昭和5年(1930)に工事は完工した。海抜263mのダムから海岸までの直線距離は20kmであるが、網の目のように広がった灌漑用水路の総延長は、地球を半周する16,000kmに達した。そして、15万ha万お土地を肥沃にし、100万人の農家の暮らしを豊かにした。
 工事費用は総額5348万円という巨大工事となった。

6)全般面から見た田辺朔郎と八田与一の比較
 イ)田辺朔郎は琵琶湖疏水の完工のあと、北海道の開発で活躍し、再び京都に戻ったが終生日本以外で生活することは無かった。一方八田与一は、大学を卒業のあと終生台湾で過ごした。
 ロ)田辺朔郎は、当時最高のエリートコースの東京大学を卒業し、英国から派遣されたヘンリーダイヤー教授を恩師とし、大工事を経験したあと大学教授として活躍したが、八田与一の恩師は、札幌農学校出身で自費留学してその技術を磨き、これが認められて東大教授となった廣井勇であり、与一は強い影響を受けて現場中心にエンジニヤとして活躍した技術者となった。八田与一は工事現場の作業服姿の似合う技術者であり、田辺朔郎は背広姿の似合う趣味豊かな学者的な技術者であったと思う。
 ハ)琵琶湖疏水完成後の日本は、日清・日露戦争に勝利し、技術者の活躍により近代化が進められた時代で、田辺朔郎の偉業は広く国内に伝えられた。
 しかし、八田与一の業績は、植民地台湾でのもので、しかも太平洋戦争開始間もなく戦禍による殉職のため、国内では話題に上ることは少なかった。戦後の台湾農民による顕彰運動(後述)により、その名が広がったのである。
 ニ)裕福な医者の娘である与一の妻外代樹は、16才で結婚して台湾に移り、多忙な与一の留守がちな家庭の中で立派に8人の子を育て、戦禍で与一が殉職したあとも台湾に留まった。そして日本の敗戦を知ったあと、烏山頭ダムの放水路に身を投じて45才の生涯を閉じた。大戦前後とはいえ本当に悲しい物語である。
 田辺朔郎は、琵琶湖疏水の完成後、上司の北垣国道知事の長女と結婚し、北海道の難工事に取り組んでいるが、八田与一は結婚後に巨大ダム工事に取り組んでいる。土木技師の妻として厳しい生活を強いられたと想像するが、両方とも工事成功のため妻が果たした役割は大きかった。
7)現地における八田与一夫妻の評価
  昭和5年(1930)に工事が完了し、与一は総督府に復職したが、現地の仲間が寄付金を出し合って作業服姿の与一のブロンズ製坐像を造ってダムのほとりに設置した。また、終戦の翌年には地元の農民が、八田与一・外代樹夫妻の墓石をブロンズ像の背後に建立した。そして、与一の命日に当る5月8日には現地の人々によって追悼式が行なわれ、約60年後の現在まで毎年続いている。
  昭和63年(1988)には、八田与一の出身校を中心に「八田技師を偲び嘉南と有効の会」が設立され、台湾での追悼式への日本人の参加も増えて来ている。また、平成12年(2000)には烏山頭ダム放水口の上に「八田技師夫妻記念室」が開設され、記念室には八田技師の胸像、建設当時の現場写真、夫妻の遺物、関連する文献・資料などが公開されている。
  日本でも故郷の金沢にある偉人館に八田与一のコーナーが設けられている。このように、台湾の水利事業に大きく貢献した八田与一の現地における顕彰運動が、ようやく日本にも根付いてきたと言える。

8)80ケ所を超える閘門を活用した南仏のミデイ運河

 私が所属する「近代京都の礎を観る会」の高桑会長から、2005‐11‐27の毎日放送で放映された世界遺産シリーズの「ミデイ運河」の録画コピーをいただいた。この運河は1600年代のルイ14世の時代に建設されたもので、日本でも角倉了以が高瀬川の開削を実施した時期(1619)の少しあとに相当する。その後1900年代に至るまで改造が重ねられ、運河橋・運河トンネル・人工ダム・閘門などを駆使した240kmのミデイ運河ができたことを知り、強い興味を持ったので、若干の追加調査を実施してみた。現地を訪問したこともなく、欧州の歴史を詳しく知らない立場でまとめたので、誤った記述があるかも知れないが容赦していただきたい。

1)世界の大型運河の代表例について
 世界で最も古い運河は、BC1930年にエジプトのピラミッドを建造した時、巨大な石材を運搬するため、紅海とナイル川を結んだ運河である。次に古いのは、中国の「大運河」であり、BC486年に准河と長江の南北を結ぶ運河を開削したのが始まりで、抗州から北京まで何代にも渡って整備された1,800kmにおよぶ京抗運河である。
 電気動力や蒸気動力のない時代の重量物運搬は、船による輸送が主力であったので、大陸を縦断する運河や、大陸内の都市部に物資を輸送する運河の建設が相次いだのである。同時に運河の使命は、農業用水や飲料用水の運搬の役目を果たすこともあった。参考までに、代表的な運河の要旨を下表にまとめた。
運河名 建設時期 要旨
キール運河 1784年 北海とバルト海を結ぶ98kmの運河で、1895年、1907年、1914年の3回拡張され、現在幅102m、水深11mで、3つの閘門と人造湖を持っている。世界3大運河の一つ。
スエズ運河 1869年 地中海と紅海経由インド洋を結ぶ160kmの運河で、改修を重ねた。1967年の第3次中東戦争以来封鎖されていたが、1975年に再開された。現在幅160〜200m、深さ19.5m。水位差がないので、閘門はない。世界3大運河の一つ。
パナマ運河 1914年 太平洋と大西洋を結ぶ80kmの運河で、1880年にスエズ運河を造ったレセップスが会社を起こし、建設に着手した が失敗し、これをアメリカが引き継いで、1914年完成した。現在の最小幅は192m、水深13mで、水位差24mを3つの閘門と3つの人造湖でカバーした。世界3大運河の一つ。
セントローレンス水路 1959年 大西洋とカナダの5大湖を結ぶ3,800kmの運河で、外航船の直接運航が可能となった。183mの水位差を多数の閘門でカバーし、最高位にあるスペリオール湖までつないだ。
モリス運河 不明 田辺朔郎が琵琶湖疏水の建設途上に訪問し、インクラインの設計変更をした運河で、閘門20ケ所、インクライン23ケある米国の運河。細部未調査。
山峡ダム 2003年 長江(揚子江)に設けた巨大ダムで、水位差135mを2航路5段式閘門(1段あたり22〜23m)でカバーしている。中国で「万里の長城」に次ぐ巨大土木工事といわれている。
2) ミディ運河の概要

 フランスとスペインの国境線の北側が ヨーロッパ大陸の一番細いところになる。この地に大西洋と地中海を結ぶ運河を建設しようという試みは、古代ローマ時代から歴代のフランス国王時代に至るまで何度も計画され、実現できなかったプロジェクトであった。
 問題点は、地中海側にある凸凹した丘陵地帯を超えることと、水路に安定した水を供給する手段であった。
 これを解決したのが、ベジエ出身でエンジニアのピエール・ポール・リケであった。彼の並々ならぬ情熱と、当時の最高レベルの技術を駆使し、閘門の採用と人造湖の建設で問題点を解決するミデイ運河計画を作成し、ちょうど黄金期を迎えていたルイ14世に提案した。
 当時大西洋から地中海に物資を輸送するコースはジブラルタル海峡迂回経由だけであり、スペイン政府はその通行税を独占していた。ミデイ運河計画によれば、約3,000kmのコースの短縮となり、フランスの国力増強のみでなく、スペインの国力削減につながる計画でもあったので、ルイ十四世は国家プロジェクトとして採用した。
 提案された運河は、ボルドーを川口とするガロンヌ川がルートの約半分に近いツゥルーズまで入っているので、ここを起点とし、丘陵地帯に80ケ所を超える閘門を設置する計画で問題点の一つを解決した。そしてこの地区で最も標高の高いサンフエレオールに、当時世界でも例のない巨大ダムを建設して大貯水池を確保し、そこから運河に安定した水を供給することにより、二つ目の問題点を解決したのである。
 1667年に起工したが難工事が多く、リケは財産のすべてをつぎ込んだが、完成までに亡くなり、息子のジャン・マテイアス・リケが後を継ぎ、1681年春ほぼ完成に漕ぎつけた。その後100年かけて、カルカソンヌを経て約240km先の地中海沿岸の港町セート西方にあるタウ湖を終点とする「ミデイ運河」が完成された。この運河は、フランスのぶどう酒の産地を横断しており、とくにベジエは、ぶどう成金の大住宅が軒を列ね、大きく発展した。
 しかしながら、運河の規模は小さく輸送量も少なかったので、鉄道の発展とともにその役目も終焉し、現在では観光用ボート(宿泊設備のある)に利用されている。


3) 観光用ボートを利用した散策記録
 散策記録として、毎日放送の放映と太田正規氏の記録(南仏雑感5−3)および田中憲一氏の記録(南フランスの運河紀行)の3つが手に入ったので、3者を併せて筆者の責任でまとめてみた。
 まず南仏の美しい田園風景の中を幅20〜30mの運河がゆっくりと流れており、両側にはプラタナスの老木が一定間隔で植えられている。運河の両側には、舟を曳くロバが通る道があり、歩いて散策する地元の人も多い。プラタナスは、船乗りやロバが南仏の暑い日差しを避けるため建設当時に植えられたもので、樹齢300年の樹木が45,000本も現存し、「ミデイ運河」を紹介する代表的映像となっている。毎日放送の放映は、プラタナスの並木道に沿って、子供達の乗った遊覧船を老婆とロバが綱で曳く映像からスタートしている。
                                                  
 80ケ所以上あるロックは、ツゥルーズ側から数えてNo1ロックから始まる。その構造は大津市にある大津閘門とほぼ同じで大型である。各ロックにはロックキーパーと呼ばれる管理人が居り、キーパーの指示にしたがってロック内に進む。キーパーはロック内に船が進入したことを確認して下流のゲートを閉め、上流側のゲートを開けてロック内に水を取り入れる。ロックの内側の水位が上流側の水位と等しくなったのを確かめて、上流側のゲートを開き船が出るよう指示をだす。田中憲一氏の記録には、ロックに出入りする舟側と、ロックキーパー側とのやりとりが詳しく面白く紹介されている。
 工事用資材のほとんどが石材であり、各石材には製作者の名前(記号)がしるされているが、その記号の数で賃金を支払ったという。多量の石材を用いた前述のサンフエレオールダムの映像は迫力があり、人造湖の底部から放流される導管にある手動式開閉バルブは、10年前まで実用されていたそうである。

 ミディ運河の名物となっている「レブドウル運河橋」は、オルブ川に架けられた石造りの橋で全長240mあり、1857年ナポレオン3世の時代に完成している。また161mある「マルバ運河トンネル」も当時世界初のもので、岩質が弱く工事が難航したが、内面の凹凸ある模様が他の例のない美しさを見せている。またこのトンネルにつづいてNo‐57番ロックとなる「フオンセランヌ7段ロック」(建設当初は8段)は、ミデイ運河が世界遺産に認定された代表的土木構造物といわれている。この7段のロックで水位差14 mを一気に上りきる。その後1987年には7段ロックのバイパスコースとしてインクラインが設置され、現在ではこれが通常のコースとなっている。
 ベジエ港を過ぎて、No‐59(4.24m)、No‐60(2.16m)、No‐61(2.05m)、No‐62(2.23m)とロック越えが続く。セート港を経て終点のタウ湖に至る。セートは「ローヌセート運河の起点であり、観光用や漁業用のボートで賑わっているところである。
 太田正規氏は、マルセイユ空港から100kmのサンジル港からベジエ港までの運河を5泊6日の日程で楽しまれている。
 田中憲一氏は、1979年一人乗りヨットの世界選手権に出場した元ヨットレーサーで、1984年にサラリーマンを辞めて家族4人と共にヨーロッパ・キャンピングの旅に出かけ、1986年にはヨット(ドリーマー号)を購入し、航行期間10年、旅行距離1万km、通過閘門1,300(何れも1995年現在)の実績を持ち、ヨーロッパの総延長距離5万kmと言われる運河の制覇を目指して活躍しておられ、関連図書を多数発行しておられる。
 田中氏「南フランス運河紀行」には、地中海側から「ミデイ運河」と「ガロンヌ運河(水位の安定しないガロンヌ川に並行して1865年に建設された運河)」を経由して大西洋側に出るヨットによる運航経過が豊富な写真とともに詳しく報告されている。
 
 私は会社在籍時に南仏にある複数の会社と密接な交流があり、訪問時の週末には現地友人の車で案内していただき、また移動時に寄り道して、ツウルーズ、ポー、アビニオンなどの名所旧跡を見学する機会がたびたびあったが、当時は水運の歴史について興味はなく、今回初めてミデイ運河の存在を知った。そして運河の舟旅は遊び気分だけでは駄目で、私の年齢と体力では残念ながら難しいこともわかった。
 なお、今回はミデイ運河に焦点をあてたので、トウルーズより190km、50ケ所のロックのある「ガロンヌ運河」については省略した。
 
 ミディ運河は、平成8年(1996)に世界遺産として登録され、NHKの世界遺産シリーズで紹介されるようになったが、インターネットで調べても情報は少ない。今回は下記資料を参考にして取り纏めて見たものである。
 追記:ここで使用した「ロック」の名は、水門と水門で囲んだ池のことで、ミデイ運河では3〜4隻のボートが入れるように卵型になっているところがある。ロックは琵琶湖疏水の閘門と閘門の間にある閘室の大型のものと考えられる。

参考資料

1)「南仏雑感5-3・ 運河クルーズに参加」 太田正規(東亜建設工業kk)
  (
http://www.recycle‐solution.jp/sfrance/sf53.html
2)第58回日比谷笑談会…及川陽氏の「異国の運河の旅」と題した講演要旨
3)世界遺産シリーズ「ミデイ運河」…2005‐11‐27毎日放送放映
4)「南フランス運河紀行」 田中憲一著、1995年8月1日発行、東京書籍出版KK

9)琵琶湖疏水着工時点における世界閘門の技術

 広辞苑(岩波書店)によると、閘門とは「船舶を高度差の大きい水面に昇降させる装置である」と記述されている。具体的には、水路に船を入れる閘室があり、閘室の前後に開閉し得る扉を有し、その一方を開いて水と共に船を閘室内に入れたのち扉を閉じる。そして閘室内の水を増減して船を他方の水位まで昇降させて、進行方向の他方の扉を開けて船を出航させる方式である。
 日本でも、これに類似した木製の閘門技術が存在したが、明治時代の初期に石材とレンガを用いた洋式閘門が導入され、琵琶湖疏水にも大津・夷川・伏見の3ヶ所に洋式の近代閘門が設置され、本ホームページの技術・1‐4項に概要を紹介した。
 今回は、末尾に紹介した田中憲一氏の3冊の著書を閲読する機会があり、欧州の運河事情に関する貴重な知見を得たので、インターネット検索による情報を加味して、琵琶湖疏水を建設した時期に焦点を当てて若干の考察を行なった。

1) ヨーロッパにおける運河発達の歴史について
 人工の水路である運河の歴史は古く、紀元前2,000年の古代オリエント時代に運河が登場している。そして2世紀頃に隆盛を迎えた古代ローマ時代には、ヨーロッパを流れる大河を活用してその流域に都市を建設して行き、これらの大河を結ぶ運河の建設も進められた。しかし、当時の運河は船を下らせたり、堰きとめて潅漑用水の確保して利用するに止まっていた。運河網を建設するためには、丘陵や山岳地帯のサミットヒル(分水嶺)を越える運河技術が必要となり、これが未完成のまま長期にわたり平野部に限定された運河の時代が継続していた。
 15世紀のイタリア・ルネッサンス時代に入り、ミラノの技術者レオナルドダビンチらにより、水路を2つの扉で仕切り、中の水を出し入れして船を水路より高く運搬できる「閘門」技術が考案され、1642年にフランスにおいて、分水嶺越えの世界最初となる「ブリアール運河」がロワール川とセーヌ川を結び、1681年には本ホームページ技術・3‐8項に紹介した「ミデイ運河」が閘門を活用して建設された。
 島国であるイギリスで最古と言われる人工運河「ブリッジウオーター運河」が建設されたのが1761年であり、米国では閘門を活用したハドソン河とエリー湖を結ぶ「エリー運河」が1825年に完成し、運河数は20ヶ所に達していた。 
 日本で最初に建設された洋式紺門は、明治11年(1878)、オランダ人技術者フアン・ドルーンの設計による宮城県石巻市の石井閘門であり、明治23年(1890)に田辺朔郎氏の設計による洋式閘門が琵琶湖疏水の大津閘門が完成している。
 次項に示すように、欧州における閘門利用運河は、琵琶湖疏水の建設時には円熟期を迎えており、政府が採用した外人技師により充分に教えられたと推定される。

2) ヨーロッパにおける運河の閘門活用状況
 初期段階の運河には、多数の閘門(ロックと呼ぶ)が採用されている。その代表例を下表にとりまとめた。
完工(年) 国名 運河名 総延長距離 ロック数 分水嶺の高度(m)
1642 ブリアール 49.4km 19  
1681
ミディ
ブルゴーニュー
240 km
240km
80
190
190m
356m
1800
グランドユニオン
ルードビッヒ
135マイル
174km
165
100

457m
1881 ガロンヌ 193km 53  
1992 ラインマインドナウ 171km 16 402m
( 1890 年に完成した琵琶湖疏水の総延長距離は、約20kmであり、ロック数は僅か3ヶで、すべて下降ラインであった。)
 また、ヨーロッパの運河では急斜面を上昇するために、下表に示すごとく「連続ロック」の存在する場所も多い。
  ミデイ運河(仏)のフオンゼランヌの7段連続ロック
  アルデンヌ運河(仏)のオランダ・ベルギーとの国境間にある27段連続ロック
  カレドニア運河(英)のネプチューンにある8段・4段・5段連続ロック
  グランドウニオン運河(英)のハットンにある21段連続ロック


 ヨーロッパの運河には、それぞれの閘門にロックキーパーという管理人が居り、その指示に従ってロック越えをするが、運航する船側の協力もかなり必要であり、特に連続ロックの場合全体でロックキーパーが一人しかいない所もあり、優雅な運河の旅である反面かなりの経験と運動量が要求されることがわかった。

3) 一つの閘門でクリアできる水位差
 19世紀に完成したロックの場合、当時の土木技術では2.5m以上の水位差に耐える門扉や壁を建設することが難しく、英国の例を示すと6〜7段連続ロックでクリア出来る水位差は10〜16m、1段あたり2m前後であった、大津運河の大津閘門の水位差も1.5mであり、この時期では、前項で表示したように200ヶ所に近いロックが採用された。
 しかしながら、20世紀になると、鉄筋コンクリート製の大型ロックができるようになり、10mの水位差は当たり前の時代になった。1992年に完成したライン・マイン・ドナウ運河
の3段ロックの場合、9.5m・19.5m・24.5m、合計約50mをクリアできたが、大量の水が必要となり、巨大3段ロックの横に3つのプールを設置して、ロックで使用する水の60%を再利用した。
 また、中国の長江の上流に建設され、2003年に運航を開始した山峡ダムでは、113mの落差を2航路5段式閘門で大型船を上下させており、1段ごとの落差は22〜23mである。

4) 運河を通航する船の大きさ
 運河と閘門の規模を比較するため、船のサイズと積載陵について日本・英国・フランスの3国について比較表示したのが下表である。
国名 船の名称 寸法(サイズ) 積載量(トン)
日本 三十石船(琵琶湖疏水)
三十石船(淀川)
最大長さ10.9m、幅1.8m
最大長さ17m、幅2.5m
7.5トン以内
英国 ナロウボート 最大長さ6-22m、幅2.2m 30トン
フランス ペニッシュ 最大長さ39m、幅5m 300トン
 フランスでは、最初は運河の幅に制限は無かったが、その後ペニッシュが通航できる幅で建設され、また改造された。300トンを輸送出来るペニッシュは、鉄道や道路が発達した現在も輸送手段の一つとして利用されている。
 これに対し、英国では規格としてナロウボートに合わせたナロウ(狭いの意)運河が建設されたが、鉄道や道路の発展で、輸送手段としての役目を終えたが、観光またはレジャー用に転進した。したがって、閘門は、横木を用いた手動扉で、人力で簡単に開閉できるので、ロックキーパーの常駐する閘門は極めて少ない。
 「琵琶湖疏水の100年」誌によると、明治24年(1891)5月に京都市有疏水運河条令を公布し、琵琶湖疏水を運航する模範船のサイズとして、長さ10.9m、幅1.8m、喫水0.6m以内とし積荷は米50石(7.5トン)以内と決めたが、実際には30石(4.5トン)船が活用された。そして、明治24年(1891)から昭和26年(1951)まで60年間の運航でその任務を終えたのである。

参考資料:
 「南フランス運河紀行」 田中憲一著 1995−8−1発行 東京書籍KK
 「運河で旅するヨーロッパ」 田中憲一著 1996−8−5発行 晶文社
 「イギリス・水の旅」 田中憲一著 1996−10−4発行 東京書籍KK
 「琵琶湖疏水の100年」 京都市水道局・京都新聞社 平成2年発行
追記:
田中氏の著書には写真が豊富に引用されている。これを読むと自分が実際に旅行した気分になれるので、興味のある方は是非一読していただきたい。

10)陸上の輸送手段として活用されたインクライン
 アメリカ大陸における鉄道の歴史について、加山昭氏が「アメリカ鉄道創世記」という本を発行(末尾参照)しているが、約200頁ある著書の半分近くを鉱山用または旅客用のインクラインを備えた鉄道の記事としている。
 加山氏は航空学の専門家で、退職後は勤務のかたわら海外の鉄道史を研究したと紹介されているが、今回の著書は引用写真や図面も多く、緻密な筆力に感銘して読ませていただいた。そして、私が知りたいインクラインの歴史について、“インクラインは壮大な土木工事であり、産業考古学の重要な研究対象”と位置付け、詳しく紹介しているので、その一部を紹介する。

1) 18世紀末に登場した鉱山用インクライン
 インクラインとは傾斜鉄道の意味で、一般にはケーブルやロープを用いて車輪のついた輸送機を山上に引き揚げたり下に下ろしたりする線路のことを言う。米国では1795年ごろ、短い距離ではあるが傾斜面に木製のレールを敷いて、輸送した記録がある。木製レールのお陰で、車輪が地面にめり込むことなく走ることができたのである。
 特に広く利用されたのは鉱山の採掘現場である。斜面に沿って麓までレールが敷設されており、鉱石を積んだ車が自重でインクラインを降下する。車はチェンまたはロープで繋がれており、ロープの他端は頂部にある滑車を経て山に引き揚げる空車に連結されている。
 インクラインは、重力を動力とするケーブル鉄道としてスタートしたのである。
 次項にアメリカでの実用例2件を示す。

2) アメリカ最初の鉄道に用いられたインクライン
 これはボストンの南に建設されたグラナイト鉄道と呼ばれたもので、花崗岩(グラナイト)を使用場所から約19km離れた山上の石切場から町まで石材輸送用の鉄道を敷設し、インクライン方式で運搬を実施したものである。傾斜はかなりゆるく、4.9→2.5→6.8パーミルとゆっくり登って石切場に達し、ここから傾斜角約15°、距離95mのインクラインを下り終点に達する。
  注:パーミルとは勾配の単位で、水平方向1,000mに対し垂直方向の高さを示す。
 線路には花崗岩の砕石を敷き詰めて路盤を作る。つぎに石の枕木を8フイート(2.44m)の間隔で並べ、その上に12インチ(約30cm)の木製レールを置く。レールの上面に幅3インチ(7.6cm)、厚さ4分の1インチ(約6.4mm)の鉄の帯を釘で固定する。レールは複線で、両方がエンドレスの鎖で登りの車、下りの車に連結され、ツルベ式に登り下りした。動力としては馬が採用され、3両の貨車で16トンの石材を重力輸送し、1頭の馬が3両の空車を引き上げた。
 その後この鉄道は所有者が変わり、昭和36年(1961年)に加山氏が訪ねたときには廃墟となっていたそうである。

3) アメリカで2番目に古い鉄道に用いられたインクライン
 これはモウチャンク・サミットヒル&スイッチバック鉄道と呼ばれるもので、1827年に完成したものである。ペンシルバニア州東部のモウチャンクに近い無煙炭鉱山から石炭を輸送するため敷設された鉄道である。
 まず、麓のモウチャンクから空の貨車をラバが牽引して、サミットヒル(分水嶺)の炭坑まで運び上げる。石炭を積んだ貨車は6〜14両づつ連結して、ラバもその1両に乗って自重によってインクラインを下りモウチャンクに戻る。ラバは下りの車両の中で食事を与えられる習慣がついて、絶対に歩いて帰ることをしなかったと言う。
 レールは1827年にイギリスから輸入した長さ4フイート(122cm)の短い鉄製のレールで、これがアメリカ最初の鉄製レールであった。
 1844年には、頂上の定置式蒸気機関を用いて空車を引き上げ、これが「蒸気動力を用いたインクライン」のはじまりであった。この鉄道は、特に勾配の急なところに、途中に水平区間を設けたスイッチバック方式を採用して注目された。1890年(明治23年)の琵琶湖疏水が完成した年に石炭運搬の役目を終え、遊覧鉄道として活用されている。
 このように、鉄道用インクラインは明治以前の仁孝天皇〜孝明天皇の時代からアメリカで実用されていたのである。

4) 運河の船運に利用されたインクライン
 田辺朔郎氏の報告(京都市水道局資料)によると、蹴上インクラインに「片勾配式」の採用を考えていたが、建設段階でアメリカのモリス運河を見学(片勾配式と両勾配式の2種類のインクラインを23ヶ所採用している)して両勾配式に設計変更している。
 片勾配式(ロックブレイン)……インクラインの入り口と出口に閘門を設け、船を浮かべた車輪付きの水入り船受け箱を軌道上に運航させ、閘門を経て運河に出入りする方式で、船受け箱と閘門にそれぞれ開閉扉があり、船受け箱と運河の水面を一致させて船を出し入れする。
 両勾配式(サミットブレイン)……インクラインの上部下部の閘門も水入り箱も不用で、インクラインの鉄軌道の上下部を運河の水中まで延ばし、船は軌道上を運航する船台枠に乗って軌道に引き上げられ、インクラインを上下動する。
 田中憲一氏の著書(末尾に紹介)によると、ヨーロッパにおいては、両勾配式のインクラインは稀で、唯一ポーランドのエルブラグ運河に存在を確認したと述べておられる。片勾配式は、最初から最後まで船は水上に浮かんで移動するのでわかりやすく、地上に引き上げて移動する両勾配式には抵抗があったようである。
 また、両勾配式は米国で実用化されたとの報告もある。
 田中氏が最初にフランスのミデイ運河を航行したとき、有名なフオンゼランヌの7連続ロック(閘門)越えを楽しんだが、開閉の操作が重労働で難所中の難所として知られていた。ところが、2年後に同じルートを航行したとき、7段閘門(ロック)と並行して、片勾配式の新しいインクラインが出来ており、ロックキーパーはインクラインのルートに誘導した。そして船は巨大な器に入り、難所を簡単に越えてしまった。7段連続閘門(ロック)も、もはや歴史の中のモニュメントになってしまったと写真入りでレポートしている。
 このように欧米のサミットヒル(分水嶺)越えの運河には、片勾配式のインクラインと閘門が広く使用されており、米国でも田辺朔郎が訪問したモリス運河では、片勾配式と両勾配式の2種類のインクラインが23ヶ所、閘門が20ヶ所も採用されていた。
 琵琶湖疏水を建設した時期に日本で活躍した外人技師は、ヨーロッパのイギリス人(鉄道関係)とオランダ人(港湾・水利関係)が中心で、ヨーロッパ式の片勾配式を指導した。
 アメリカ人技師は、北海道開発を中心に活躍した。田辺朔郎は、渡米して両勾配式の利点(運転効率面、経済性)を見抜き、直前に設計を変更したが、これも大きい功績の一つと言える。
 また、日本においてインクラインが鉱山・森林・ダム建設などで広く利用されている事は、本ホームページの技術1−5項に紹介している。

参考資料:
 「アメリカ鉄道創世記」 加山昭著 1998年10月30日発行  山海堂
 「南フランス運河紀行」 田中憲一著 1995年8月1日発行  東京書籍
 「琵琶湖疏水―楽百年の夢」5th.024_story 京都市水道局資料