王院山(おういんざん 古名 田代山 554.19m)



風土記の田俣山(たまた)に比定されているというこの山だが、山名がいかにも変わっているので気になっていた。立久恵峡の近くにあるようだ。




稗原にあった自治会の看板には、大袋山・鳥見山・高瀬山・要害山と川筋の町を取り巻く山名があった。見々久から看板を求め、集落の中の林道分岐を山勘で通過し、山深い大月林道の峠までやってきた。やっと王院山の表示にほっと一安心すると、まだ先はあった。
稗原自治会の観光概念図 大月林道竣工碑




峠から下り始め、やっとあった伝説の峯王院山の看板だが、まだ1.5q奥だ。なんとか登山口にはいけそうだが、随分山の中へ入り込んだものだ。




幹線道路から林道の峠まで、王院山の看板は目にしなかった。人の姿も見なかった。風土記の山も案内待遇は様々のようだ。山を歩く膂力より数倍疲れた気がする。高貴な人の墓がある山のようだ。




概念図を眺めると、王院ケ墓という墓地が山頂にあるようだ。相応の管理がされているようだ。植林帯なのだろうが、枝打ちはしっかり行われスギはすくすくと延びている。さすが市公有林地か。




東屋からは広葉樹主体の雑木の林で、新緑の香りが漂う。休日で登山者もあろうかと思ったが、人の気配はなく鳥の声だけが賑やかだ。蜘蛛の巣が廻っているのにはちょっと驚いた。
樹林の東屋からは展望はない 素朴なログステップだけで気持ちいい




説明板からは少し視界が望めるが、夏日だとかいう気温で一面グレーのカーテンの中のようだ。方向からすると、出雲空港や宍道湖が望めるのではなかろうか。出雲の最高峰と言われている王院山は、出雲市乙立、朝山、佐田町の境にそびえる山である。出雲国風土記でいう田俣山(たまたやま)に比定されているという。王院の墓標の中に、黄金の墓標があり、夜はその光が大社の海まで輝き魚が獲れなくなり、漁師が大勢押し掛け、これを谷底に埋めてしまったという伝説があるという。




山頂には白い三角点の杭が輝いている。そして墓石の石柱と雨乞いを伝える木杭がある。歩程はわずかだが案外急登だ。眺望は大凡360度たが、全方位もやっている。それにしても周囲は低山だらけだ。この低山の山並すべてのコブを歩くと、いい味が出そうだ。三角点にはユニコードはなく、真南はズレており、刻印は薄れてわからない。
点名 王院山(おおいんざん) 三等三角点 554.19 m 緯度 35°15′45.7445 経度 132°45′22.9118 昭和40年7月8日選点 昭和40年9月9日設置 平成18年7月26日観測





田俣山 (たまた)郡家正南19里。有 檜・杉。 〜出雲国風土記〜
風土記抄に、「此の山は乙立に在り。俗呼んで田代山と曰う是なり」とある。雲陽誌を覗くと、田俣山はなく王院ケ墓などの名称も見あたらず古塚として記されてもいるようだが、この山ではなく別に塚があるのかもしれない。王院山の名で南に位置する朝原にあった。
上朝山
古塚 古老傳曰吉祥といふ美女の塚なり 
朝原
王院山 民家の北古塚あり、来歴いまた分明ならす、〜雲陽誌〜

この山に昔、寺が建てられ、都からやったきた位の高い人達がこの山を切り開こうとしたが、その途上亡くなってしまった。人々を葬ったのが山の頂上にある『王院が墓』だという伝承があるということだ。

また、光仁天皇(こうにん)(宝亀元年10月 - 天応元年4月)が、出雲大社に祈願し后を探していた。ある夜、帝は夢にお告げを見た。
「出雲の国の上塩冶に、美しく賢い娘がいる。この絵と靴を持って行って、引き合わせて見よ」というものだった。夢から覚めた枕元には、絵と靴が置いてあった。天皇は、喜び勇み出雲へ使者をたてた。上塩冶で田植えをしている親孝行で信心深いという一人の娘をみつけた。娘は絵とそっくりで美しく、靴も足に丁度合い、娘は召され都に出て吉祥姫と呼ばれ、天皇の后となった。やがて、老母の病重しと聞いて、出雲の上朝山に帰ると、やがて帝も追って出雲に下り、知井宮に幾年か住んで居いた。帝が亡くなったので所原の王院山に墓を建てた。それが王院山ケ墓(院の塚)と言われている。その後、吉祥姫も他界し上朝山の大坊に葬られ、地元の人々に五輪さんと呼ばれることになった。
伝承は様々になっていたったようだ。貴人の名が王院だという説もあり、天皇の墓だという話もあるようだ。吉祥姫は朝山に葬られたともいわれるという。ここを目指す途中のトンネル脇に朝山森林公園とか看板があった。またひとつ山が・・・
旱魃の際には、吉祥姫の生まれた塩冶繁沢の住民に限り、山頂で雨乞いが許されたと伝えられている。かっては乙立の和久利からのルートもあったということだが、熊笹の深い叢で踏跡の痕跡もないということだ。

「島根県口碑伝説集」 昭和2年12月刊島根懸教育會刊
乙立村の王院山
簸川郡乙立村王院山は、昔王様の隠れた山であると。或時大様を慕ふ貴女が今市にあったが、
王を尋ねんとして朝山村に至り、遂に死んだと。山には金塔があったけれども、今は谷間に落ちたなど傳へられる。(乙立小学校訓導三木熊蔵氏報)

朝山郷 郡家東南5里056歩。"神魂命" 御子 "真玉著玉之邑日女命" 坐之。爾時、所造天下大神 "大穴持命" 娶給而、毎朝、通坐。故、云「朝山」。
風土記抄に、「西は馬木、東は宇奈手、南は野尻・藤原等の地を相併せて以って朝山郷を為す」。
娶(つまど)ひは妻問いで、妻として訪う意であるという。大穴持命が妻を求め毎朝通ったということが朝山の由来伝承か・・・。朝山の謂われはやはり地名が先で、後に附会された地名説話とするのが有力とみている研究者がある。

神門郡 (かむどのこおり)
所以 號「神門」者、"神門臣伊加曾熊"之時、神門 貢之。故、云「神門」。即、神門臣 等、自レ古 至レ今、常 居此處。故、云「神門」。
神門は鳥居になるのだろう。神門臣伊加曾熊(かむどおみいかそね)が神門を奉ったことにより名を拝し地名としてつがれていったのだろう。




北にはヤマザクラが残り、背後に出雲ドームの白い球体があるようだ 宍道湖方面は、近場の山並みだけがみえるが、特定出来ない




三瓶山が見える西峰と真新しい標識 尾根を辿るルートは新道という感じだ低層の笹原は高度感を漂わす




三瓶山らしい姿は見られないが、鉄塔の立つ山が間近だ。歩かずに登れてしまいそうだが、どこの山だろうか。黒山(525m)ではなかろうか。