鬼住山(きずみやま おにずみやま 標高 329.92m)




日本最古の鬼伝説の山だ、と伝えられる一帯の山だ。隣にある笹苞山(さすと 511.50m )とセットの山塊だ。米子道の谷川トンネルの上にあり、日野川を挟んだ対岸のとっとり花回廊や鬼っ子ランドからもよく判る。電波塔が建っているので車道もあるようだが、出来れば歩程を見つけたいとやってきた。この上流域にも、鬼退治伝説の鬼林山(1031m)がある。




麓の田圃の中からの大山 対岸の高台から眺めると、山頂に塔があり、笹苞山との鞍部に車道らしいルートも見られるが、出きれば初登は歩きたい・・・。麓の里を廻っていると。鬼住山鬼の伝承公園の標識があった。




歩き始めると・・・間伐材の木段であった。コンクリ杭が多い中、手の掛かる木材と番線仕様は貴重だ。




樹間から塔を眺めながら上がっていくと展望台分岐。伝説の由来の案内板には、笹包山(ささつとやま)となっている。
展望台への分岐




展望台からは、溝口の町並み、日野川対岸の花回廊のドームが見える。米子方面は霞んではいるが、日パの煙と云われる製紙工場の煙が見える。六角形の東屋の屋根には鬼のマークだ。
東屋の背後に山頂と鉄塔




手摺り柵も木造というのが、とても評価できる 雑木がへり笹原に変わる




小さな九十九折りの笹原を上がっていくと、携帯塔があり、小さな駐車スペースの一画があった。 NHK BSS TSK NKT各局の溝口中継局の塔




四等三角点 点名 鬼住(きずみ) 緯度 35°20′54″.経度 133°26′40″標高 329.92m  選点昭和63年6月23日 埋標昭和63年6月27日 まだ新参者の標石だ。 刈り払いされた笹道の上の山頂東屋。山頂はこぢんまりとして広くはない。




日野川沿いの溝口の町並み 天候にも恵まれ山頂からの大山は見事。右のに挫折の烏が山。その手前に笛吹山がある。




石切場の奥の山が、鬼伝説のもう一座の笹苞山(さすと 511.50m )だ。
二等三角点 点名 笹すと山 標高 511.50m
緯度 35°19′52″経度 133°27′27″




大山の眺望に満足して下りにかかると、地元の古老が前を歩いていた。木の段や柵が気に入ったと伝えると、元はコンクリ杭だったが、撤去して木製に変えたのだと語った。歩程の脇にまだ撤去漏れのコンクリ杭があった。今は歩く人は少なくなってしまったが、地元で草刈りなど維持管理をしているということだ。子供の頃は、ここが遊び場で、冬になると竹でスキーをつくって遊んでいたという。町から人がやってきて、沢ガニを根こそぎ持っていくので、最近は居なくなってしまったと嘆いた。笹苞山の由来は解ったが、ささつとと説明板にはあり、さすとさんとも読むようだし、点名は笹すと山になっている。古老は地元ではさっそさんというのだ、といった。笹苞山へもついでに行ってみてはと・・・。



伯耆志に「村の東南の山を鬼住山と云う。怪談あり。西村楽々福大明神の下に弁ず。」とある。
第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
天皇は鬼退治をしようと決め、鶯王を総大将に、臣下の大連を副将に命じ、鬼住山の鬼退治に行かせることにした。鶯王は鬼住山よりもさらに高い鬼の館を見下ろす南の笹苞山に陣を敷いた。山に布陣して作戦を練り、攻撃を開始することにした。 ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。
笹苞団子に元気をつけた鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。
人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出しにかかると、大牛蟹の弟の乙牛蟹(おとうしがに)が出できた。大矢口命が矢を射ると、見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまった。
兄の大牛蟹(おおうしがに)は手下を連ねて、反抗にでてなかなか降伏しなかった。
ある夜、天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。笹の葉を刈って山のように積み上げて待っていると、三日目の朝、強い南風が吹きつけ、あれよあれよと言う間に、笹の葉はひとりでに鬼の住処へと飛んでいった。
鬼は笹の葉が身にまとわりついて成す術もなかった。うず高く積もった笹が突然燃え出し、鬼はひとたまりもなく逃げて散った。逃げた鬼は蟹の様にはいつくばって、「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と願ったので、天皇は、「よし、汝が力もて、北を守れ」とお許しになった。
一説には、笹の葉が助けてくれ、一兵も失わず、鬼退治ができた、とする伝える話もあるようで、天皇自ら布陣したと伝えるものや、あくまでも部下や皇子に命じたとするものや、諸説伝わっているようだ。
平成6年の溝口町の「鬼住山ものがたり」によると、鬼を退治したのは、社の社伝にある孝霊天皇自身だとするのが、地元では一般的だとしている。異説として、崇神天皇の世の四道将軍で大吉備津彦命・妻木の朝妻姫の子の孝霊天皇の皇子である鶯王・歯黒皇子や天皇が歯黒皇子や新之森王子、那沢仁奥等を率いて伐ったとも紹介している。
 鶯王が戦死した場所に楽楽福社を建て、鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を食した山を笹苞山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。
この町は鬼伝説で町興しをはかっていて、公衆電話やトイレにも鬼があしらってあり、鬼っ子ランドなどの施設もあり、笹団子を売る店もあるようだ。
また、孝霊天皇が自ら軍を率いてこの山の鬼を退治し、さらに奥の鬼林山の鬼退治に向かったとも伝えられる。この時、孝霊天皇が居を構えていた行宮が「楽楽福(ささふく)」で、笹で葺いた家という意味で、鬼林山の麓にあった、ともつながっている伝承もある。楽楽福(ささふく)は、孝霊天皇の進軍に関わる伝承で他の地域にもあり、佐々布久とする社も出雲国の月山と対峙する勝山の麓の石原集落里山裾にある。飯梨川筋を進軍していったと伝えられるものによるようだ。鬼住山の鬼伝承も、日本書紀・古事記・社の古文書や日野郡史などからの研究があるようだが、アンポタンハイカーには、重すぎる荷だ。
桃太郎の鬼ヶ島伝承は有名だが、この種の鬼退治伝承は、全国各地に伝わるようだ。




南東側の大原集落からみた笹苞山
鬼住山・笹苞山一帯は、宮原古墳・谷川古墳・長山古墳などから、6世紀中頃と見込まれる須恵器などが発見されたようだ。
古老の話から、先の集落から笹苞山へのルートを探してみた。鞍部を巻く道を行くと、山向こうの集落へ抜けてしまった。山裾を回り込んでもそれらしいルートは見つからなかった。宮原集落に戻って尋ねると、年に一回は地元で草刈りをしているが、標識などはないかもしれないという事だった。夕暮れ時がせまり、次の機会へ・・・




日野川の向こうに花回廊のドームと高塚山(301m)藪コギになるらしいが三角点があり、なんとか上がれるらしい 日野川の対岸から眺めた溝口の町並と鬼住山と雪の大山