宝仏山 (ほうぶつさん  ほうぶさん ほうぶつせん  1005m)




滝山を歩いた時に知った山だ。出雲街道の根雨宿の山で、古くから信仰の対象とされていたという。平成11年地元ボランティアの手で登山道が開かれたということだ。そして14年3月大山隠岐国立公園に編入されたのだという。ブナの森がまだ残っているという。いずれの機会にか歩いてみたいと、数年前から気になっていた山だ。標高差800mで歩程3qほどで2時間半から3時間と町の案内だ。ブナの森を歩けるなら時間をかけ楽しみたいのだが、急遽2時も過ぎて歩くことにした。





歴史民族資料館のコデマリ脇のルートから植林帯に入るとフジの花が落ちている。季節が早いように感じられる。少し上がると林道。 ごうぎんすぎの子会の案内石碑
また植林帯かとがっかりしてフジの落花を踏み歩くと、新緑が広がり標高400m。 鳥の声を聞きながら植林と雑木を上がっていくと小平(こなる)
植林の林床に花。どうやら植林地の際がルートになっているようだ。 熊笹の間から腹の白い鳥が飛び立つ。鳥の声は沢山聞かれ、ウグイス以外に4種とキツツキ類のドラミングも。振り返る山並の谷間に道が上っている。出雲街道の難所間地峠(だわ)の古峠山767mの稜線ではなかろうか。
上りに飽きたところで目に留まったヤブレガサ。しばらく思い出せずにぶつぶつ頭が巡る。 大平(おおなる)徐々にブナが増えてくる。
植林だが明るくなり尾根が近いのか 堅果類の樹林は800m標識。じわじわ勾配がきつくなる。ところどころに巻き道がある。もう自然林相だ。
ブナが増えてきた新緑の樹林で一休み。何種類もの鳥の声が聞かれるが、ウグイスの間延びした酔っぱらいのような声もする。 平行移動に近い歩程がしばらく続いたが、あと100m標識。
二等三角点  点名 宝佛山(ほうぶつせん)  緯度 35°13′53.4193  経度 133°28′06.1373  標高 1001.79 m 選点 明治26年6月19日 埋標 明治26年9月5日 観測 平成12年12月14日 保護石0 柱石長 0.79m 
三角点から下り加減の笹原。大岩の間を抜ける。 大きなブナが待ちかまえる山頂か
それにしても気象条件に恵まれたようだ。大山南壁・烏ケ山・象山・・・まだ歩いていない皆ケ山・蒜山に繋がる稜線。孝霊山に日本海・米子の町。山頂碑は新しい大山隠岐国立公園平成14年3月編入記念。 大ブナの脇を抜けると宝仏山朝苅渓谷ルートの指導標だ。踏跡は弱そうだが、切れ落ちて見えるかなりの急登コースか!
まだ歩いていない毛無山方面になるはずだ。 南西方面



鳥の声を聞きながら山頂景色独り占めだ。山名の由来は定かでないが、舟場地区に日野川を挟んで正音寺という寺があるという。山号が宝仏山ということからそう呼ばれるようになったのではないともみられているようだ。ほうぶつさん・ほうぶつやまと読むのが一般的であろうが、国土地理院は、ほうぶさんで、点の記は、ほうぶつせんとなっている。
近年ルートが出来たと思っていたが、50年も前の幼少の頃この山に何度か登ったという人もあり、当時小平に畑があった、大平は牧草地のようだったはずだ、とも聞かれる。この山は、かっては里山で昭和30年代以前は地元の暮らしと密接に関わっていたようだ。薪木や山菜・栗・キノコなど四季を通して里人が入り暮らしてきたようだ。南西中腹の後谷集落では昭和20年まで鉱山があり銅鉱石を産出していたようだ。後谷川からは庭石の青石が採れたようだ。

日野郡史(大正15年)
「元宝仏山堂屋敷の御堂に安置ありしものなりしが、治承年中、以仁王(もちひとおう)隷士、長谷部信連、本郡に流滴せられ、金持村に居住せしとき、切に根雨の地を京都に擬し、鬼門鎮護の比叡山延暦寺に倣ひ、当地艮(ごん 北東)の方に一寺を創建して延暦寺と号し、前の阿弥陀如来像を之に遷して本尊とせりき」


自然林が残っていて季節をかえれば色々な情景が見られそうだ。なかなか得られないだろう眺望に、名残惜しく山頂タイムを切り上げる。歩き出すと真新しい糞。小動物も沢山棲んでいそうだ。夕方が迫りあちこちの笹原で獣の足音がするようだ。ブナ葉叢は夏になれば鬱蒼としてくるはずだ。何度かやってくることになりそうだ。




根雨の地名の由来は、元明天皇(在位707−715)時、伯耆国に大旱魃があり、農民は青苗が枯れると根雨神社で雨乞いをした。やがて雨があり国内では大豊作になった。この雨が根まで潤わせたとして、根まで潤うが転訛し根雨となったと「根雨神社旧記」にあると伝えられる。
出雲街道の根雨の宿駅指定は、寛永14年(1632)「因幡伯耆駄賃銀書付」に駅名がある。
出雲街道の難所は峠越えと川越えであったようだ。参勤交代は、松江・江戸間を22泊の旅であったとされる。陰田から伯耆国に入り、米子・車尾・八幡から日野川渡しで、馬場・遠藤・吉良・上細見・溝口から渡しで、宇代・中祖・古市・父原・三部・二部から間地峠を越え舟場で渡しから根雨宿に辿る。
松江藩の専用茶屋は、道路の改修と引き替えに営業権を緒形家が有していたが、その後大火があり罹災したことから梅林家に移ったとされる。
日野郡史
「松平直政候は、二部峠より本宿(根雨)を通じて四十曲峠に由る道路の改削せむことを企望せられたるに、当時本郡多里村字平野と云ふ所より本宿へ転任したる一郎右衛門なる人及板井原宿なる今の桂頭豊七の祖先と二人にて資を抛って其改修工事を負担助成せり。之を明治十八年度本県の県道改修迄、唯一の出雲街道として通行したりし、二部峠道路の起源とす」

「出雲候御通行の際、安永中(1772−81)より根雨宿梅林家を御本陣に定められ、其頃は之を大に名誉とし、主人孫三郎氏以来継続勤め、後に名字帯刀を許され五人扶持を頂戴せらる」



才ノ原たたら跡から発掘されたたたら炉床の基礎の坊主石 松江藩の参勤交代の出雲街道の根雨宿はどこもこんなひっそりとした風情だ