庄福BICサイト 【禁無断転載】                                  福岡県みやま市瀬高町坂田

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 【沿革】
 集落名として坂田・長田・小田など田のつく地名が多く縄文中期(.)瀬高町では稲作が最も早い時期に始まったのではないでしょうか。坂田は多くの縄文・弥生遺跡が眠る地域です(.)昭和37年3月、定角の畑の地下げの時、地下1mの所から箱式石棺がが発掘された。中は朱のかたまりが出たが骨や副葬品はなかった(.)北側に合甕と石棺と甕棺のつなぎあわせが発掘され付近に弥生式土器が散乱していた。弥生時代中期の2世紀頃と推測されている。東には権現塚(ごんげんつか)があり、神功(じんぐう)皇后が土蜘蛛(つちぐも)
(大和王権に反抗する土豪の意)田油津姫(たぶらつひめ)征伐の時の官軍の戦死者の墓という伝説があります。奈良時代を迎えると条里制度が行われるが上坂田の北側にある郡領(ぐんりょう)の地名は郡司あるいは当時の有力豪族の管理する水田とみられる。南北朝時代頃は坂田荘と長田荘は大宰府安楽寺(あんらくじ)領荘園で共に大塚集落と上坂田集落と上長田集落には老松(おいまつ)神社が鎮座している。瀬高町には菅原道真公を祭る天満神社は19社を数えるが老松神社は大宰府安楽寺領荘園だった3社のみである(.)老松神社は思うに大宰府天満宮の分社と安楽寺天満宮領内の菅原道真を祀る神社を区別し寺領側を優遇したと考察できる(.) 戦国時代では所領十八町の坂田遠江は坂田に(とりで)を構えていました。戦国末期にはおそらく本郷城の壇氏に従い上蒲池氏配下の将として吉岡城の吉岡氏(.)瀬高城の黒木氏、松延城の椛島氏らと佐嘉(さが)の龍造寺勢の侵略を防ぐ為に上蒲池の山下城(立花町)を援護したと思われる。江戸時代では本郷組に属し檀大庄屋(おおじょうや)が管轄する農村であった(.)下坂田村から上坂田村の東を通っている畑ヶ田往還は、下長田の壇ノ池の矢部往還に接し下妻郡上妻郡(こうつまぐん)の山間部と下庄町との経済活動に重要な役割を果たした道路であった(.)

旧県道
  明治9年に上坂田村と下坂田村は坂田村とさ(.)明治13年(1880)には下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷の村山門郡に編入されました(.)下図の測量地図は当時のもので、上坂田の集落内の道は当時とあまり変化はないが、家屋は主に老松宮の北側にある(.)明治24年には西側に九州鉄道の線路が敷かれ機関車が通る(.)大正12年頃には老松宮と極妙寺の間を横切る幕政時代からの道を直進化し改築した吉岡〜下長田の旧県道(現・市道)が整備されている(.)昭和初期には、この狭い3m足らずの道にバスが走っていたという(.)昭和13年になり畑ヶ田往還に沿って(下坂田を除く)国道209号の建設が始まり主要幹線道路として2年後に供用された(.)

現在の坂田は下長田に接する上坂田と、堀池園や下庄に接する下坂田の行政区に別れ校区も水上校と清水校区と異なっています(.)農業においては昭和4年頃から白菜(はくさい)栽培に意欲をもやし、本郷地区と出荷組合を組織して鉄道輸送で出荷していた(.)現在は温床栽培が盛んでありセロリの生産地として有名である(.)セロリの異名の一つが「清正人参」であり加藤清正が朝鮮出兵の際に日本に持ち込んだ説がある(.)
 江戸時代にもオランダ船により持ち込まれたが独特の強い香りのために普及(ふきゅう)しなかった(.)郷土では昭和24年に唐尾の坂田敏時氏がレタスやセルリーの試作をされ(.)栽培法や米軍納入許可など普及指導された(.)昭和31年には東山農協レタス組合(13名)を発足し(.)レタス栽培を主とした洋菜栽培を始め佐世保の駐留軍が得意先で日本での食生活では生野菜を食べる習慣がなかった(.)昭和52年、坂田洋菜組合に新規者12名が加わり25名の組合員となり競争激化したレタスからセロリ栽培を主とした栽培に変更し(.)幾多の変遷を経て、現在の名実共に九州一のセロリ産地となした(.)
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 坂田(大字名)上坂田下坂田(行政区名) 
坂田は傾斜地(けいしゃち)にある水田の意味もあるが、縄文中期から稲作が始まった平坦な地域です。ドラヴィタ語の中でタミール語が日本語の語源に近く縄文中期に入った稲作(いなさく)に関する単語にコメ、イネ、ウス、ハタ、タなどの語源があります(.)坂田・長田・小田タの言語は稲作開始とともに流入した縄文中期から稲作が始まった頃の地名でしょう。坂田は多くの縄文・弥生遺跡が眠る地域です(.)
郡領(ぐんりょう)(小字名)・郡領二・郡領三(小字名) 上坂田  

セロリ栽培
 上坂田集落の北西のセロリ畑です。律令制度の郡司の役人(在地首長)が管理する田畑の地名です。

掛上・掛中・掛下・掛一・掛二・掛三(小字名) 上坂田
上坂田集落の小字名です。掛=画のことで集落内の区割りに使用された地名です。

本郷道一・本郷道二(小字名) 上坂田
上坂田集落の西方に本郷村・文広村に往来する道の周りの水田に付けた地名です。

河田一・河田二河田三(小字名) 上坂田
上坂田集落の東から西に流れる南方の川傍の水田で、単に川の傍の田んぼの意の地名です。
市場(小字名) 上坂田
上坂田に市場の言い伝えはありませんが、老松宮入口にに恵比寿さんの祠があることから商いをしていた民家が立並んでいたと思われる。
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大畠一・大畠二(小字名) 
上坂田集落の南東側の水田の地名です。耕地面積の大きい畑の意の地名です。

町畠(ちょうばた)一・町畠二(小字名) 
大塚集落の手前の畑です。耕地面積による畑の意の地名です。昔の面積の単位は(ちょう)・(たん)・(せ)・(ぶ)・(つぼ)・(ごう)・(しゃく)が使われました。一町=三千坪=約9917uです(.)

中園一・中園二(小字名)
国道209沿い東にある昔は畑の所です。園とは主作物以外の桃、梅、茶などを植えた畑の意です(.)
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権現一・権現二・権現三(小字名) 
権現塚のある周辺のハウス栽培の畑の地域です。ゴンゲンとは仏教の「権現」思想からが神号になつたもので、その神様の名を付けた畑です(.)

稲葉上・稲葉中・稲葉下(小字名) 
坂田の東南部の昔は畑の所です。竹や木を組んだ、刈った稲を掛けて乾かす設備の稲掛が普及前に、稲干場とした所で、平素は芝草地になっていた意の地名です(.)
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大塚(小字名)        
権現塚のある畑の所です。大きい塚のある意の地名です。
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定角(じょうかく)一・定角二・定角三(小字名)      
ジョウガクは定覚とも書かれていますが、それは「定額」から来たものです(.)中世期において、豊凶によらず、土地に対して一定額の税金を納める制度の土地が定角の起こりの地名だと思います(.)国道209西側沿いにある田畑の地名「定角」は昭和37年に弥生時代中期の石棺とかめ棺が発掘された場所で傍に「中園」の地名がありますが(.)ここでは縄文時代の土器が出土しています。このあたりは古代から開けていた所です(.)
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上池田・下池田(小字名)    下坂田
坂田の西南部にあり矢部川に近い為、湿地帯の堀や池を埋めて造成した水田地帯です(.)
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北庄分・南庄分(小字名)    下坂田
坂田の南西部の端にある水田で平安時代の荘園にちなむ地名です(.)

前田(小字名)           下坂田
坂田の南部にあり、名主などの有力者が、領主から免田として認められた肥大な土地の遺名です。その中には領主の直営田で、下人に耕作させていたのもあるようです(.)
屋敷(小字名)           下坂田
 瀬高地方では家のことを古くは屋敷と言い、立派な家は御屋敷と呼んでいました。下坂田集落の住宅地帯の意の地名です(.)

 極妙寺(ごくみょうじ)(平嶺山)   上坂田
真宗大谷派。万治2年(1659)肥後国の菊池氏の子孫、坂田太郎久増の子供の坂田小右衛門は剃髪して経意と称しこの寺を開祖建立した( )
               
 老松神社   上坂田
菅原道真公を祀った神社で上坂田部落の産土神である。この地は平安時代後期から安楽寺大宰府領であり老松神社の社名は菅原道真の両親を祀る大宰府天満宮の老松社からの由来であろう(.)本殿にはには若宮神社、清神社、日吉神社、秋葉神社なども合祀ってある。文政元年(1818)牛原氏が田1反2畝29歩を本社に寄付している。祭礼は9月25日で昭和58年頃までは境内で屋台舞台が建ち浪花節(なにわぶし)や芝居が行われ(にぎ)わった。現在は本殿前で子供相撲が奉納されている(.)鳥居の左手前に道祖神(どうそしん)の石碑があり、右奥には恵比須の祠と食物の神社日さんの石碑がある。また上坂田には分家などで坂田姓が多く7割を占めている。 (.)

鳥居

狛犬と楼門

本殿・手前は相撲土俵

道祖神

恵比須さん

社日さん
 若宮神社   上坂田中小路
応神天皇の若宮であられる大鷦鷯命(おほさざきのみこと)(仁徳天皇)外皇子を奉斎している神社である。水難、五穀豊穣、家内安全の神として信仰されてきた(.)中小路24軒の氏神さんであり社殿は立派な彫刻で飾られて自慢の宮であったが平成16年の台風で倒壊(とうかい)、平成17年に新築され10月9日に落成式を行われた。5月3日10月3日に祭礼を行い本祭り(.)12月13日以前の日曜日に行う。座元は毎年当番制で回る。本祭りは昼と夜に渡り祭りの会食が行われる(.)
  
   下坂田(しもさかた)
昔に上坂田からの分村かは資料がなく解らない(.)下坂田には商業圏である下庄町か(.)吉岡土居の道を径由した畑ヶ田往還が集落内を通り(.)下庄の談議所の浜からは陸揚げされた島原あたりの海産物が、小田立花町黒木矢部村からは山(.)特産物が行き交っていた。通行人相手の茶屋もあったであろう(.)明治9年7月に下坂田は上坂田と合併して坂田村となっている(.)大正10年(1921)には矢部川( )(瀬高)駅より下坂田の北側を東肥(とうひ)鉄道(軽便鉄道)が本吉〜野町〜原町〜北ノ関〜外目(ほかめ)駅(南関)まで営業開始したが利用客( )伸びずに昭和13年に廃業している(.) 集落内では清水山の伏流水が湧き小川に清水が流れていたが(.)昭和40年に町営水道建設で矢部川付近で地下水を取水(.)するようになり湧き水は()れている平成23年3月には九州新幹線が開業して天満宮の東側を走っている(.)
 
 天満神社    下坂田
下坂田の産土神で例祭は、9月25日頃に行うなわれる。。鎌倉時代以降より民衆的な講が始まり江戸時代には天神信仰が深化し下坂田集落でも天神講社が盛んになる(.)新年には大宰府天満宮に詣で大麻頒布式(たいまはんぷしき)(御札を頒布するお祭り)を終え、自宅神棚に大麻札をお供えて信仰していた。近年まで、天神信仰の「飛梅講社」は続いていた(.)(森神官談)鳥居の右側には巨石の道祖神があり、参道の狛犬はみやま市では一番大きいであろう。境内には稲荷神社の祠がある(.)平成23年3月に裏手東側に九州新幹線が通り、静かな田園に近代の車両が走る(.)
 
鳥居と道祖神(右)
 
大きな狛犬
 
菅原道真公
 地蔵寺    下坂田
創立年代及び開祖不明で、本尊は地蔵菩薩であった。道路脇に三界万霊塔がある。三界」とは「欲界・色界・無色界」のことで、この世界すべてという意味です。この世界に生きる「万霊すべての精霊に対する供養塔が「三界万霊塔」です(.)この寺の本尊は地蔵菩薩であり、昔は庵寺で僧がお住みになっていた。お御堂は平成年代になり新築され(.)婦人会で清掃など管理されている。右脇の小堂には弘法大師を祀ってある(.)
 
地蔵寺
 
三界万霊塔
 
弘法大師お堂
 観音堂    下坂田
国道209号の下坂田信号から樋口宮通りに入り中華料理の瀬高飯店を入り込んだ場所にある。清水の観音さんと同じ日に祭りを行っている(.)
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坂田村測量原図(明治14年頃)複製使用を禁止されています
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