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[532] 投稿者:さくらぎ 投稿日:01/06/01(Fri) 01:35
不能犯は未遂か不能かという説明がなされますが、未遂に限らないよう
に思えます。つまり、実行行為とは構成要件的結果惹起の危険性を有す
る行為で、そのような危険性を有しないものが不能犯であり、その危険
性の判断基準が不能犯のところの学説の対立だと思うのです。そうする
と、主観説や具体的危険説に立てば実行行為性は必ずしも客観的とはい
えないように思います。
なぜこのようなことを言うかといえば、例えば、教授にコーヒーを入れ
るときに砂糖を入れるつもりが青酸カリを入れてしまい、それを飲んだ
教授が死亡した場合、常識的には過失致死罪(過失がなければ無罪)だ
と思います。
しかし、主観説にたてば、危険かどうかは行為者の主観的事情をもとに
判断しますよね。そうすれば砂糖を飲ませても危険性はない以上砂糖と
青酸カリを間違えたことに過失があったとしても実行行為がなく無罪に
なってしまい、おかしいと思います。
また、具体的危険説に立ち、一般人も青酸カリと認識しえなかった場合
を考えます。常識的には、実行行為、結果、因果関係はあるが、故意が
なく、さらに一般人も認識し得なかった以上、過失もないので無罪にな
ると思います。しかし、行為者も一般人も青酸カリと認識しえない以上
これを危険性の判断の基礎にいれなければ、そもそも危険とはいえず、
実行行為がなく無罪となりそうです。(結論は同じですが)
以上、何かおかしいような気がするのですが、どこか誤った理解をして
いるのでしょうか、どなたか教えてください。
[534] 投稿者:なかやま 投稿日:01/06/01(Fri) 14:27
> しかし、主観説にたてば、危険かどうかは行為者の主観的事情をもとに
> 判断しますよね。そうすれば砂糖を飲ませても危険性はない以上砂糖と
> 青酸カリを間違えたことに過失があったとしても実行行為がなく無罪に
> なってしまい、おかしいと思います。
不能犯は、故意犯についての議論であって、過失犯について
不能犯の議論はされないのではないでしょうか。
[536] 投稿者:oxhop 投稿日:01/06/01(Fri) 18:05 [534]へのレス
と言うより、不能犯って、そもそも結果が発生していないことが大前提
なのではないでしょうか。
さくらぎさんの設例だと、教授はお亡くなりになられたのですから、不
能犯が問題となる余地はないと思いますけど…。
[537] 投稿者:まみぞ 投稿日:01/06/03(Sun) 14:46 [532]へのレス
おっしゃるとおりだと私も思います。
未遂犯と不能犯の区別にあたって、
行為者の故意・犯罪計画などを問題にする見解からは過失犯の実行行為性の説明が難しくなるように思います。
ただ、理屈の可能性としては、
なかやまさんやoxhopさんが指摘されたように、
不能犯と未遂犯の区別の問題は
結果が発生しなかった場合の問題と捉えることもできるし
(そしてそのようなものだとも思いますが、ただ、
過失犯の未遂犯も性質上は認められないわけではないとする見解が一般かと思います)、
未遂犯は概念上、故意犯の場合を前提とするという理解も可能だと思います。
わたしとしては、
結果が発生した場合の実行行為の問題と発生しなかった場合の実行行為の問題を区別して考えるのはとっても気持ち悪いし(パラレルに考えたい)、
過失犯の未遂犯も規定があるなら肯定してよいと思える(現行法上処罰規定はないらしいけれども、改正によって追加することもその必要性があれば可能と考えたい)
ので、上のような理解はしっくりこない。疑問をもたれるのももっともという気がする。
[538] 投稿者:さくらぎ 投稿日:01/06/03(Sun) 20:45 [537]へのレス
> なかやまさんやoxhopさんが指摘されたように、
> 不能犯と未遂犯の区別の問題は
> 結果が発生しなかった場合の問題と捉えることもできるし
私にはそうは思えないのです。客観的危険説に立って、危険性を事後的に判断
するならともかく、行為時の危険性の判断をするわけですから、その後結果が
発生したかどうかは関係ないと思うのです。また、具体的危険説に立って、行
為者が砂糖で殺せると思い、砂糖を飲ませたつもりが、実は青酸カリだった。
しかしそれは、一般人には砂糖に見えたという場合には、結果が発生した場合
でも不能犯となり、無罪となるようなのです。
> 結果が発生した場合の実行行為の問題と発生しなかった場合の実行行為の問題を区別して考えるのはとっても気持ち悪いし(パラレルに考えたい)、
大谷先生の本によると、「過失犯の実行行為も故意犯の実行行為と同様に構成要件的結果発生の現実的危険性を有する行為でなければなりません。そして、その危険性は単に結果と相当な因果関係ある行為であるということで決まるわけではなく、行為の当時において行為者が特に認識していた事情および一般人が認識しえた事情を基礎として、一般人の立場から、そのような事情のもとに行為がなされたならば構成要件的結果の実現が類型的に可能であったかどうかを
内容とするものであることを要します。」とあり、パラレルに考えてるようなのです。(抽象的危険説の人がパラレルに考えるかは知りませんが)
>疑問をもたれるのももっともという気がする。
私の理解は間違っていないということですか?
[540] 投稿者:まみぞ 投稿日:01/06/04(Mon) 01:07 [538]へのレス
一般には、
結果が発生しなかった場合に結果が発生することがどの程度あり得たかを問うのが、未遂犯の議論です。
未遂犯として処罰する程度の危険性が発生していなかったということになれば、不能犯として無罪とされるということになります。
ただ、結果が発生した場合も、
犯罪成立要件として実行行為性が必要という議論によるならば、
実行行為性が認められない場合にはおっしゃるようになると思います。
実行行為性が認められなければ無罪と。
過失犯の実行行為性の判断にあたっては、
行為者の認識を問題にできないことから、具体的危険説によるならもっぱら一般人の認識可能性のみを問題にすることになるのだろうと思います。
結果発生の危険をもたらす事情が一般人に認識可能であれば、
過失犯の実行行為性を肯定できるということになりそう。
> 私の理解は間違っていないということですか?
的確な理解であるとわたしは思います。
[547] 投稿者:なかやま 投稿日:01/06/05(Tue) 08:01 [536]へのレス
> と言うより、不能犯って、そもそも結果が発生していないことが大前提
> なのではないでしょうか。
> さくらぎさんの設例だと、教授はお亡くなりになられたのですから、不
> 能犯が問題となる余地はないと思いますけど…。
さくらぎさんの質問は、砂糖で人を殺せると思い込んだ人が、
教授を殺すために砂糖をコーヒーに入れ、それを教授に飲ませたところ、
実はその砂糖の製造工程に瑕疵があり、誰も気がつかないうちに
青酸カリが混入していたので教授は死亡した
という場合についての質問のように思えます。
客観的に考えると青酸カリをコーヒーに入れるという
結果発生を伴う危険な行為を行ったのですから、実行行為性
はあるといえるのではないでしょうか。殺意を持って
実行行為を行って因果関係のある死という結果を発生させたので
殺人罪になるように思います(ちょっと自信がありませんが)。
[549] 投稿者:はちべ 投稿日:01/06/05(Tue) 20:10 [532]へのレス
> 不能犯は未遂か不能かという説明がなされますが、未遂に限らないよう
> に思えます。
(1) 未遂に限られる気がします。結果が発生したとしても,相当性を欠くとして因果関係が否定された場合は、その実行行為は結果に結びつかず未遂として扱われ,そして、更にそれが不能犯かどうか判断されるからです
> つまり、実行行為とは構成要件的結果惹起の危険性を有す
> る行為で、そのような危険性を有しないものが不能犯であり、その危険
> 性の判断基準が不能犯のところの学説の対立だと思うのです。そうする
> と、主観説や具体的危険説に立てば実行行為性は必ずしも客観的とはい
> えないように思います。
(2) 具体的危険説の基本を成す違法観につき、違法判断の対象を客観的行為と主観的行為に求め、その判断基準が客観であるとするならば、たとえ実行行為の判断の基礎に主観を含めても,なお実行行為は客観的であるといえると思います。
> なぜこのようなことを言うかといえば、例えば、教授にコーヒーを入れ
> るときに砂糖を入れるつもりが青酸カリを入れてしまい、それを飲んだ
> 教授が死亡した場合、常識的には過失致死罪(過失がなければ無罪)だ
> と思います。
>
> しかし、主観説にたてば、危険かどうかは行為者の主観的事情をもとに
> 判断しますよね。そうすれば砂糖を飲ませても危険性はない以上砂糖と
> 青酸カリを間違えたことに過失があったとしても実行行為がなく無罪に
> なってしまい、おかしいと思います。
(3) 主観説は、違法観につき,主観的違法論をとるので,行為者の性格の危険性の徴表が実行行為であると考えるので,何らおかしくないと思います。
> また、具体的危険説に立ち、一般人も青酸カリと認識しえなかった場合
> を考えます。常識的には、実行行為、結果、因果関係はあるが、故意が
> なく、さらに一般人も認識し得なかった以上、過失もないので無罪にな
> ると思います。しかし、行為者も一般人も青酸カリと認識しえない以上
> これを危険性の判断の基礎にいれなければ、そもそも危険とはいえず、
> 実行行為がなく無罪となりそうです。(結論は同じですが)
(4) 構成要件的故意を採用する見解からは,本事例では構成要件的故意はなく
故意犯としての類型を備えないので,実行行為,因果関係,結果を論ずる前提を欠くと思います。
[552] 投稿者:ぐーたら 投稿日:01/06/06(Wed) 12:13 [532]へのレス
質問の趣旨をいまひとつ掴みかねているのですが、
主観説にたつと実行行為性が客観的に判断できないのは指摘のとおりです。
というより、主観説にたつ牧野説では、実行の着手の時期についても「犯意の成立がその遂行的行為によって確定的に認められるとき」として、行為者の主観を重視しますから、実行行為性は客観的に判断されるべくもありません。
具体的危険説については、たとえば大谷説では、「実行行為の実質的な内容をなす結果発生の具体的危険性は、必ずしも物理的・科学的危険性を意味するものではなく、行為の具体的状況を基礎にして一般人の見地から判断した類型的危険性である」(大谷新総論p400)との記述からしても、実行行為性を完全に客観的に判断する立場は支持していないのでしょう。
さて、設例についてですが、これは「過失犯の実行行為」をどのようなものとしてとらえるのかによって結論が変わってくるようにも思います。
まず、いわゆる「旧過失論」による場合、過失犯と故意犯との区別は責任のところではじめてなされるわけですから、過失犯の実行行為と故意犯の実行行為はまったくパラレルになります。したがって、故意犯で実行行為性が認められなければ、過失犯でも実行行為性が認められることはありえないということになるのでしょう。
他方、「新過失論」にたつ限り、過失犯と故意犯との区別は構成要件段階ですでになされており、それぞれの実行行為判断はパラレルではなくなります。
たとえば、大谷説では、過失犯の実行行為とは「客観的注意義務に違反してなされた作為または不作為」(大谷新総論p211)と定義されますから、客観的注意義務がなければ、過失行為がないということになるのでしょう。
とすると、「行為者も一般人も青酸カリとは認識できない状況」では、客観的注意義務を設定しようはないですよね。
ただし、この点を厳密に「過失犯の実行行為性がない」と言わずにもっとラフに「過失がない」という表現を使うことはあるでしょうが。
さらに、「修正された旧過失論」、すなわち旧過失論の立場からも過失犯の実行行為性は故意犯とは別に考えられるのだとする立場からは、またその立場からの検討が必要になるでしょう。
[553] 投稿者:ぐーたら 投稿日:01/06/06(Wed) 12:42 [536]へのレス
> と言うより、不能犯って、そもそも結果が発生していないことが大前提
> なのではないでしょうか。
> さくらぎさんの設例だと、教授はお亡くなりになられたのですから、不
> 能犯が問題となる余地はないと思いますけど…。
うーん、これは必ずしもそうは言えないです。
たとえば、憎い相手を呪い殺そうとして丑の刻参りをしていたところ、相手が死亡したという迷信犯のケースは不能犯の典型例ですが、結果は発生していますよね。
このように、不能犯は、実行行為性の問題なわけですから、結果が発生していないことが大前提ではないのです。
[635] 投稿者:oxhop 投稿日:01/07/11(Wed) 18:20 [553]へのレス
かなり遅くなってしまいましたが、確かにその通りですね。ありがとうご
ざいます。
不能犯は、試験では未遂犯との関係で問題となることが多いので、「結果
不発生を前提とする」と短絡的に考えてしまいました。
また、迷信犯は不能犯の典型例ですが、不能犯学説のいずれからも不能犯
となるという意味での典型例であって、学説の対立が生ずる典型事例では
ないことから、不能犯学説が問題となる場面では無視しても構わないので
はないか、と考えました。
このように考えないならば、さくらぎさんの疑問も納得です。ただ、不能
犯に過失論や錯誤論がからんできて、頭の中がごちゃごちゃに混乱してし
まいそうです。なかやまさんもご指摘のように(No.534)、そこまで深入り
する必要はないのでは、という気がしてます。
余談ですが、迷信犯って、実は、実行行為性がないというよりも、現代科
学では結果との因果関係が立証不可能だから犯罪不成立になるんだ、と考
えるべきだとは思いません? たまには呪い殺されている人もいるんじゃ
ないかと…(冗談です。半分は(笑))
[636] 投稿者:まみぞ 投稿日:01/07/12(Thu) 02:21 [635]へのレス
> 不能犯は、試験では未遂犯との関係で問題となることが多いので、「結果
> 不発生を前提とする」と短絡的に考えてしまいました。
ただ、不能犯を結果不発生の場合に限定する考え方もありますから・・・
oxhopさん、いろいろ検討されており、
短絡的とは思いません。
ただ、前田教授の見解によるとそうなるのかも(不能犯というのかどうかは?)。
前に考えておられたように、
例えば丑の刻参りの事案で実際に人が死んだという事案で、
まず、
発生した結果と丑の刻参りの間に殺人(既遂)罪の因果関係があるかどうか検討し、
(科学的に証明できないから・・・)因果関係ないとし、
次に、
殺人未遂の成否を検討し、
人を殺害する危険も発生していないから(科学的に証明できないから・・・しつこいですね)殺人未遂罪も成立しない、すなわち不能犯である、
という理屈も十分成り立ちます。
見解の選択の問題にすぎません。先のoxhopさんの考えもありうる考え方だと思います。
> 余談ですが、迷信犯って、実は、実行行為性がないというよりも、現代科
> 学では結果との因果関係が立証不可能だから犯罪不成立になるんだ、と考
> えるべきだとは思いません? たまには呪い殺されている人もいるんじゃ
> ないかと…(冗談です。半分は(笑))
たまたま呪い殺されるのも、たまたま発生した結果は排除する相当因果関係の考え方の枠内でありました・・・合掌
[638] 投稿者:ぐーたら 投稿日:01/07/12(Thu) 16:33 [635]へのレス
> 余談ですが、迷信犯って、実は、実行行為性がないというよりも、現代科
> 学では結果との因果関係が立証不可能だから犯罪不成立になるんだ、と考
> えるべきだとは思いません? たまには呪い殺されている人もいるんじゃ
> ないかと…(冗談です。半分は(笑))
実行行為概念に意味をもたせる立場からすれば、「呪い殺す行為」そのものが現代科学からは「人が死に至る可能性のある危険な行為」とは立証できないから、実行行為性があるとはいえないというところでしょうか(笑)。
そう考えるならば、「実行行為」という概念には、「およそ結果との因果関係を観念できない(あるいは因果関係を立証できない)行為」を(因果関係の検討の前に)排除する機能があるのかもしれません。
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