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『科挙と宦官』


科挙と宦官。


はじめに

 日本は、古代より中国を師として、そのあらゆるものを取り入れてきたが、ただ「科挙」と「宦官」の二点についてだけは、ついに取り入れることがなかった。
 この「科挙と宦官」という二つのきわめて中国的なものについて、今回概説をしてみたいと思う。


 宦官の項はこちらです。(このページの下部にジャンプします)



1,科挙


<科挙とは>


 科挙とは、中国で行われた官吏登用試験のことである。
 成立は隋の時代の五八七年、今から一四〇〇年ほど前のことであり、清朝末期の一九〇四年まで続けられた。それまでは漢代の郷挙里選や、魏晋の時代の九品中正法(九品官人法)があったが、こちらは推薦制であり、もっぱら貴族に限定されていた。
 中国では官吏登用のことを選挙というが、試験にはさまざまな科目があり、科目による選挙から科挙という言葉が生まれた。科目は、文学を内容とする進士(しんし)、政治学を内容とする秀才(しゅうさい)、儒学を内容とする明経(めいけい)などだったが、宋代以降はその内容と共に進士科のみに統合された。
広く全国から公平に優秀な人材を集めるという点において、この科挙は画期的なものであった。そこにはどんな貴族主義も封建思想も排除された。ただし、男子のみ。
 ただ実際には、科挙はかなりの難関なので、どうしてもお金を持った人や、知識人が回りに多かったりした方が有利となってしまう。老人になってまで応挙し続けるひともざらにはいたというし、科挙制度によって人生を大きく狂わされた人々は後を絶たなかった。
唐代ではすでに、「五十少進士」(五十歳で進士になるのは若い方)と言われ、宋代では、年老いてから進士になった者を「五十年前二十三」と言って笑った。
 「挙人は天上の星に通じ、進士は日月をも動かす」という言葉がある。
 これは、天界の秩序は、そのまま地上の人間界に適用されてすべての現象が動かされると固く信じた中国人の考え方からきていると思われるが、いずれにしても科挙に合格し、挙人や進士となることは、すべての中国人にとっての最大の目標であり、かれら挙人や進士は高級官僚となって、文字通り実際に中華帝国の体制を定め、動かしていった。


 <科挙の学習>


 科挙の勉強は、古典の勉強がほとんどすべてで、いわゆる四書五経などの儒教の教典や、詩や文章をつくることが大切である。これが士大夫のやらねばならないことであり、科挙の試験問題もこの範囲を出なかった。
 ちなみに士大夫階級とは、在朝在野を通じ、進士出身とこれに準ずる教養ある有識者(挙人)のことで、彼らが中国社会の指導層を形成した。
 四書五経とは、四書は「論語・孟子・大学・中庸」のことで、五経とは「易経・書経・詩経・左伝・礼記」のこと。合計約四十三万字で、これを八歳から十五歳までの間に丸暗記するのが普通だった。
 その後は、これに数倍する注釈書を読み、そのほかさまざまな教典、歴史書、文学書に目を通し、自分で詩や文章を作らなければならなかった。


<初期の科挙>


 唐代で行われた科挙は、担当は礼部であり、その内容も四書五経ではなく詩や文が中心だった。科挙は単に官吏に応ずる資格に過ぎず、その後の採用試験を経なければ官吏となることは出来なかったし、純粋な科挙官僚よりも貴族官僚の方が多い時代でもあった。
 その選考基準は科挙とは違う役所である吏部において行われ、身、言、書、判の4種類。特に<関試>と言った。
具体的には、堂々として威厳のある容貌。標準語ではっきりした言葉遣い。楷書で字がうまいこと。正しい裁判や判決文が書けること。
 この四つの条件に該当する貴族から官僚が選ばれることが多かった。と言うのも吏部の長官である吏部尚書は一流の貴族が常に権力をにぎっていたため。
 宋代になると、いよいよ科挙がその本領を発揮してくる。
経学と政治問題が主で、殿試も行われた。貴族官僚は廃止され、科挙登第者のみが官吏に選ばれたので、大臣から知県まですべて進士という一大官僚組織が誕生するに至った。


 <科挙の段階、清朝末期の場合>

<科挙試験一覧>

試験名 得られる学位
童試(学校試) 県試
府試
院試 生員
歳試(学力判定試験)
科挙試(本試験) 科試 挙子
郷試 挙人
挙人覆試
会試(貢挙とも) 貢士
会試覆試
殿試 進士
朝考(就職試験)

 (太字は、科挙のメインである三試験である)


 科挙は、学校試と科挙試の二つに大別される。
 学校試は、科挙ではなく、その予備試験のようなもの。科挙を受けるにはかならず何処かの国立学校の生徒<これを生員と呼ぶ>でなければならなかった。そしてその学校の入学試験が学校試であった。もっともこの国立学校も科挙に応じる者にとってはただの通過点に過ぎず、学校も勉強を教える場とはほど遠いものだった。
 この学校試つまり入学試験を、童試といい、童試に応じる受験生を童生と呼んだ。
 三年に二回の割合で行われ、それぞれ、県試、府試、院試(これが童試の本試験)の三段階である。既にこの段階で四十歳、五十歳の老童生がいた。
 最終的な入学定員を二十五名とすると、県試では百名を合格者とし、府試で半分の五十名になり、院試でさらに半分の二十五名とする。段階的に受験生をふるい落としていく。ただし地方によって競争率はまちまちで、一概にいうことはできない。
 試験官も大変で、試験前から試験中はもちろん、試験後の採点作業中も合格が発表されるまで、一切の外部との連絡を絶ち、試験場にこもらなければならない。


 <県試>


 試験官は知県(県の長官)。約二十日間をかけて行われる。
 試験は一日。四書から二題、詩作一題の合計三題。発表は三、四日後。
 発表の翌日、二回目の試験。四書から一題、五経から一題、詩作一題。数日後合格者発表、
そして翌日三回目の試験。四書から一題、詩作一題。賦作(古風な韻文の形式)一題。
四回目は四書一題、詩作一題、論作(散文での評論)一題。
五回目は四書一題と、『聖諭広訓』(せいゆこうくん、清朝第五代雍正帝の表した教育勅語のこと。約一万語)十六条のうち、指定された一条を清書する。

 県試では、一回目から五回目にかけて、徐々に受験生をふるい落としていく。一回目が一番重要で、五回目になると形式的で、よほどのことがない限り落ちることはない。


 <解答の仕方>


 ここで科挙における一般的な答案作成の仕方について見ておく。
 答案用紙は一枚紙ではなく、冊子のようになっている。問題は、係官がプラカード(榜)を持って場内をまわり、受験生はそれを見て答え始める。日の出と共に試験は開始され、日没までに答案を提出して出場となる。答案は楷書で墨書き、印刷されたような真四角な筆画で書かなければならない。
 たとえば四書題の場合、「論語」の本文にある「君子に三つの畏れがある」というのが問題に出ると、その答えには「天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を恐れる」という下文を引用し、それに朱子の意見や自分の解釈を加えて一つの文章を作る。


 <府試>


 試験官は知府(府の長官)。県試合格者の半数がふるい落とされる。
 試験の方法は県試に準ずる。三回あり、三回目はやはり聖諭広訓の清書。


 <院試>

 試験官は学政(各省の教育行政長官)で、この学政が省内の各府を回って、それぞれ院試を行う。院試は学校に入学して生員になるための最終試験。入学の合否が判定される。

 第一回目は、四書題から二題、詩作一題で、夜明け前からから日没まで丸一日掛けて、試験が行われる。
 翌々日に合格発表で、入学定員の三割から五割増しが通過となる。
 発表当日の午後か翌日の午前中に二回目の試験。
 翌々日に合格発表。このときほぼ入学定員にしぼられる。
 第三回目は形式的なもの。本人確認のために、一回目に提出した答案の最初の数句を憶えておいて書くなどする。
 第四回目も形式的で例によって『聖諭広訓』の清書である。

 この院試まですべて合格して初めて、科挙の受験資格である生員となることが出来る。
生員は国立学校の生徒であるが、官吏に準ずる資格を持つので、しばらくこの国立学校で学び続けると官吏となることもできる。
 生員は制服があり、藍色の地に黒い縁のついた衣服を着て、雀頂という雀の形の付いた帽子をかぶる。この帽子は官位を表し、高等官の末席である九品官の帽子である。まさに生員様である。
平民は道を譲り、座席は常に上座である。不逮捕特権もある。なので中には一生生員で満足してしまう者もいた。


 <捷報>


 しょうほう。合格発表=入学通知書は捷報と呼ばれ、掛け軸のような形をしたものを県の使者が直接合格者の住所に持ってくる。以後院試、郷試、会試に出された。

 
 <歳試>


 歳試は生員がその学校内で受ける試験のこと。三年に一回の割合で行われる。
 出題は四書題一、五経一、詩作一、聖諭広訓の清書であり、試験は一日で終わる。
合格不合格はないが成績の優劣によって今後に差が出る。成績優秀者(優等という)は食費が支給されたり、官吏になることが出来たりと何かと有利になるが、逆に成績不振者(劣等という)は停学になったり、退学処分になって生員の資格を失ったりもする。
 ただ歳試は科挙を目指すものにとってはあまり意味がなかった。優秀な成績でもほとんど官途につくことは出来なかったし、無難な成績ならばどうと言うこともなく、生員の資格を保てれば科挙に応じることは出来たから、きわめて形式的なものになっていった。受けない者も多数いた。
 本来はこの「学校」から歳試を通して優秀な人材を発掘しようとしたのだが、実際の官吏の登用には科挙に重点を置いていたため。


 <科試>


科挙の本試験は、郷試、会試、殿試の三段階に分かれる。
郷試は各地方で実施して、合格者を中央に送りここで会試を行う。会試の合格者は、さらに天子みずから殿試で最終的に進士を決定する。
が、時代が下るに連れてこれも複雑になってくる。
科試とは地方試験である郷試の予備試験という意味で設けられた。三年に一回。
四書題一、策題一、詩題一、聖諭広訓の一条の清書。策は政治上の議論つまり政策論で、今後の科挙試に必ず出題されるので、あらかじめ考査しておく意味合いから出題される。
 科試の合格者は郷試の合格者の約百倍ほどで、合格者を特に「挙子」と呼んだ。例えば郷試の合格者を十名とすると、その予備試験である科試の合格者はその百倍の千名であった。

 
 <郷試>


 きょうし。三年に一回、子年、卯年、午年、酉年ごとに行われた。期日も決められていて、八月九日に第一回の試験、二回目は十二日、三回目は十五日、終了はその翌日の十六日。これは旧暦なので、今の季節でいえば九月頃。
 試験場は各省の省府になる。試験官は中央から派遣された特別な官吏。
 郷試専用の建物があり、それを貢院といい、一人に一つの独房が設けられていた。それこそ何千何万人もの挙子が一度に試験を受けるので、その規模も広大を極めた。挙子はこの貢院に一回の試験で三日二晩を過ごした。食事も鍋釜持参で独房内で作って食べた。
 試験の係員はもっと過酷で一ヶ月あまり、ずっとこの貢院を出ることは叶わず、食料もその分倉庫に蓄えられていた。
 答案用紙は厚い白紙の本で赤い罫線が引いてある。表紙には姓名、年齢、容貌特徴などを書き込む。
 試験開始の前日である八月八日に挙子は貢院に入場する。出身県ごとに一団となって入る。身体検査や所持品検査があるのもこのとき。多い時には一つの貢院に二万人もの挙子が集まるので、この入場作業だけでもまる一日がかりである。それからは挙子は翌日の試験開始まで思い思いに不安な時を過ごす。もちろん、試験終了まで貢院から出ることはかなわない。
 翌八月九日は、まだ夜の明けきらぬうちから試験が開始される。問題は四書題三、詩題一で、問題用紙は一人に一枚配られる。試験終了は翌十日の夕刻までなので、それまでの丸一日半を答案作成に費やすことが出来る。夜は寝ることも出来るが、蝋燭をともして答案を作り続ける挙子も多い。
 八月十日に答案を提出すると、ようやく貢院を出て宿に帰ることが出来るが、翌十一日にはまだ暗いうちから、またすぐ貢院に入場しなければならない。翌十二日に二回目の試験開始、五経題が五題出る。十三日に試験終了。一旦貢院から出て、また十四日に入場、十五日第三回目の試験開始。策題で古今の政治の得失を評論する。
 翌十六日の夕刻に試験は終了。これで九日間続いた郷試はすべて終了となる。

 合格発表は九月五日から二十五日の間に行われ、一般に掲示されると共に、院試と同じく<捷報>として合格者の自宅に直接伝えられた。
 最終的に郷試に合格した者は、挙人と呼ばれる。これは一生持つことの出来る資格で、英訳はマスターだが挙人になるのは遥かに難しく、したがってその名誉や社会上の地位も高い。「上は天上の星に応ずる」とされた。
 挙人になると官吏になることも容易に出来たし、科挙の本試験である会試に応じる資格ともなった。一番成績の良い者を解元と呼び、大変な名誉とされた。


 <郷試の採点方法>


  これまでの試験では、一回ごとに合格者を出していたが、郷試では三度の試験をまとめて合格者と落第者を決めるので、その答案用紙だけでも膨大な量に登る。これを答案審査官が十名から二十名いて、彼らが一ヶ月かけて採点作業を行う。
 挙子の提出した答案用紙は、黒色の墨で書かれているので、「墨巻」と呼ばれるが、筆跡などから挙子の個人が判断されて不正が行われるのを防ぐため、朱色の筆ですべての答案を書き写す。これが「?巻」(しゅかん)であり、この作業には数千人が携わる。
 次に?巻は墨巻と突き合わせて校正作業が行われるが、間違いがあれば、黄色の筆を用いて訂正する。この校正作業にも数百人が携わる。
 校正の終わった?巻を持って、初めて答案審査官である考官のところに送られる。なので考官はまったく誰が書いたのかわからない答案用紙として、純粋に内容だけで審査をすることが出来るのである。
 考官は十名から二十名になり、それぞれ正考官一名、副考官一名が存在する。これは中央から派遣され、残りは同考官としておもにその省の知県が担当する。
 答案はまず同考官の審査を受け、そのなかで優秀な答案だけが、正考官、副考官に上がってくる。
 こうして審査が続けられ、最終的に三回の試験の平均から最終的な合格者が決まる。郷試受験者数は一万人から二万人であり、郷試合格者はどんなに大きな省でも百名以下であるから、かなりの難関である。最低でも百倍以上の倍率を突破しないといけなかった。


 <挙人覆試(清朝のみ)>


 会試に応じる挙人があまりにも多くなったために、ふるい落としのために設けられた。これは会試の行われる一ヶ月前、二月十五日に行われた。北京の貢院にて。出題は四書題一、詩題一。試験は一日。成績優秀者のみ会試に応じる権利を得るが、劣等だと会試受験資格を停止されたり、果ては挙人の学位を剥奪されることもあった。


 <会試(貢挙)>


 会試は郷試のあった翌年である丑年、辰年、未年、戌年の春三月に北京の貢院にて全国の挙人を集めて行われた。清朝では挙人覆試を突破することが必要。この北京貢院は前年に直隷省の郷試が行われたところでもある。
 この会試が本試験とも呼べる、科挙の中核をなす試験である。唐代には会試に合格した者が直ちに進士になることができた。
 会試も郷試と同様三回連続の試験で、一回目は三月九日、二回目は三月十二日、三回目は三月十五日と決まっていた。責任者は礼部尚書(文部大臣)で特に知貢挙と呼んだ。
答案審査官は正考官一名、副考官三名、同考官十八名の二十二名で採点された。採点方法の厳密さも郷試と同じであった。
 三月八日早朝、挙人が続々と貢院に入場してくる。その数は多い時で二万人にも達した。
 翌九日、第一回試験開始、一人ずつ問題用紙が配られる。二日一晩を費やして答案を作成し、翌十日に退場。この時の問題は四書題三、詩題一。
 二回目は三月十一日に入場、十二日試験開始。五経題が五問で翌十三日に退場。
 三回目は三月十四日に入場、十五日に試験開始。策論五題が出題され、翌十六日に退場。

 合格者は一定ではなく時代によって多い時には四百名ほど、少ない時でも二百名ほどになった。発表は四月十五日前後で、礼部衙門の前に掲示されると共に、郷試同様<捷報>によってそれぞれの合格者宅へ伝えられた。
 会試の合格者のうち成績最上位の者を特に会元(かいげん)、二番目を亜魁(あかい)、六番目を榜元(ぼうげん)と呼んだ。六番目に名称があるのは、合格発表の仕方が独特で、合格者のうち一番最初に発表されるからである。一番目から五番目はもったいぶって最後に発表された。そして第一番から第十八番までを成績優秀者として会魁(かいかい)と称した。
 会試に合格した挙人を、特に貢士(こうし)と呼び、資格は挙人のままだが、他の挙人とは区別された。続く殿試では落第者を一人も出さないことが慣例であったので、貢士となった挙人はすでに進士の称号を獲得したも同然であった。


 <会試覆試>


 清朝乾隆帝以後に設けられた。会試の再試験の意味であるが、殿試の予備試験の意味合いが強い。殿試では落第者を一人も出さないのが慣例であったので、受験者の学力をもう一度確認したり、殿試に場慣れさせるために行われた。あとは替え玉対策のための本人確認。
 四月十六日、場所は宮中の保和殿、つまり紫禁城の中。四書題一、詩作一題。
 発表は四月十八日頃で、ここまで来ても受験者の一割ほどは続く殿試を受けることが出来ずに、三年先の次の殿試以降に回されることがあった。


 <殿試>


 殿試は宋代以降に行われ、天子が直接試験官となって試験行われた。中国では試験官と受験生にはある種の師弟関係が生まれることから、最終的に殿試において天子はすべての受験者=合格者=官僚の師となるために行われたという理由が大きい。
 この殿試の成績が、科挙を志す者にとっては極めて重要で、この成績順によって今後官吏となった時の道筋がある程度決まってしまうのである。すなわち第一番で合格し晴れて状元となった者は、その瞬間から将来宰相などの国家の重職につくことが約束されていたし、成績の低い者は地方の知県などに任命されることが多かったからだ。
 試験は四月二十一日、宮中の保和殿にて行われる。
 保和殿に入ると、貢士たちは三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼をし、問題用紙を受け取る。
答案用紙は冊子状で、一ページにつき六行ごとの朱の罫線が引かれていて、全部で十六ページあり、一行ごとに二十四文字書き込むのが決まりであった。
 そして問題は天子からの下問であるから勅語の形式をとり、その回答も上奏文の形式である。


 <殿試の解答の仕方>


 殿試は天子からの直接の出題であるから、解答書式もこれまでの試験とは異なった解答の仕方をしなければならず、複雑を極めた。
 以下がその解答方法の概要である。

 まず冒頭は必ず「臣対臣聞」から書き始める。
 「臣」の字は他の字より小さく、少し右側に寄せる。
 それぞれの行のうち上の二字分を空けて、三文字目の所から文字を書き始める。
 逆に行の下の部分は空欄にならないように、助辞などを使い字数を調整しながら、ぎっしりと文字を書き連ねる。
 皇帝、天顔、上諭など天子に直接関係する言葉は、二文字上げて書く決まりなので、これらの言葉は必ず行の先頭に来るように、字数を調整する。この場合、三文字目からではなく一文字目から書き始めることになる。
 天子の所有物である、国家、京師などの文字は一文字上げて書く。行でいえば二文字目から書き始める。これも行の先頭に来るようにそれまでの字数を調整する。
 天子の父母や祖先に関する言葉の場合、同様に三文字上げて書く。この場合最初の一文字は罫線の上に飛び出すことになる。ここも前の行までの字数を調整する。
 このように文字を一文字から三字上げて書くことを擡頭(たいとう)と言った。
 擡頭は五行目と七行目、もしくは九行目と十一行目に置くのが一般的な形式であり、特に五行目もしくは九行目は皇帝陛下という言葉が良いとされた。その前の行の一番最後には「欽惟」(謹んでおもんみるに)の語を書かねばならず、つまりその二字が一番下に来るように字数を調整する必要があった。この場合四行目と八行目の一番最後ということ。
 文の長さは最低でも一千字以上が必要とされた。そして答案の最後は「臣謹対」で結んだ。

 など、さまざまな制約の中で答案を完成させなければならなかった。
 試験は一日で行われるため、日没までに提出しなければならず、未完成の者は落第させられた。
 採点者は読巻大臣と呼ばれ、それぞれの答案に対して五つのランクに分けていく。これを複数の読巻大臣一人一人がすべての答案に対して行い、最終的にその合計点から順位が決定する。この作業が三日ほどかかる。
 この中で最上位である一番から三番まで及第することは、すべての科挙志望者にとって非常に名誉のあることとされた。
 成績発表は四月二十五日、伝臚(でんろ)または唱名(しょうめい)と呼ばれる式であった。場所は宮中太和殿。天子臨御の下で挙行された。
 合格者は進士の学位を授与され、上級官吏有資格者としての第一歩を踏み出すことになる。俗に「挙人は天上の星に通じ、進士は日月をも動かす」とも言われた。
 その第一番を状元(じょうげん)、第二番を榜眼(ぼうがん)、第三番を探花(たんか)と呼び、すべての進士にとって最高の名誉であった。特に状元は人生で最大最高の栄誉とされ、すべての科挙志望者の最終目標とされた。進士の英訳はドクターで、直訳すると博士。
 

 <朝考>


 清朝雍正帝以降。責任者は翰林院官
 殿試の後で、進士たちは最後にもう一つ試験を受けることになる。これが朝考で、いわば就職試験のような形であった。成績順によってどの官職に就くかが決められ、その最初の官職によって今後の出世がある程度固定されてしまうので、進士となってからも気の抜けないときが続いた。
 もっとも殿試において、最優秀の成績であった状元、榜眼、探花の三名は朝考を受けずにすぐに、高級官僚の王道である翰林院(かんりんいん)に出仕することになった。
 四月二十八日頃実施。形式は殿試に準ずる。場所は宮中保和殿。
 試験問題は、論文、詔勅の原案、上奏文、詩作の中から好きなものを選んで論じていく。
 発表は五月十日前後。三つのランクに分けられる。
 第一等は、翰林院の見習い。第二等は中央政府の下級官僚、第三等は地方の長官。



2,宦官


 <宦官とは>


 宦官は、去勢された男子であり、主に宮廷内における後宮において、皇帝や皇后などの身の回りの世話をした人々のこと。
 後宮とは皇帝とその家族の住まいのことであり、後宮内には男子は皇帝ただ一人だけしか存在しなかった。北京の紫禁城とかは有名ですね。
 もちろん実際には皇太子、皇子もいたが、皇太子はやがて皇帝になるし、皇子たちもやがて王に封されて後宮を追い出されたりするので、実質男子は皇帝一人だけということになる。あとは皇后をはじめ后妃が住んでいた。
宦官の存在理由は、後宮内の后妃や女官、侍女などの操と純潔を守るためというのが一番大きい理由である。男子を皇帝一人にすることによって、皇帝の世襲をより確固たるものにするため。後宮内で生まれた子供はみな皇帝の子供ということになるので。
 いずれにせよ、もともとは政治に介入することを許されなかった宦官だが、皇帝のそば近くに仕えていたことから、自然と宦官自身も権力を持つようになった。軍権を持ったり、宰相になったりした宦官もいたし、皇帝を殺したり王朝そのものを滅亡に追いやった宦官も存在した。
もちろん有能な宦官も多く、例えば漢代、『史記』を著述した司馬遷や、紙を発明した蔡倫などは、今でも人類に多大な恩恵を与え続けている。


 <宦官になる人>


 宦官は、古くは主として征服した異民族を去勢して宦官としていた。
 その後は宮刑(男性器を切り落とされる刑罰)を受けた者が、その後の就職先としてなることが多かった。
 唐代には、税の一種として各地方から宦官を拠出させることもあったようだが、時代が下ってくると、一般良民がとりあえず貧困から脱出するために、自分の子供を宦官に仕立てたり、時には自ら切り落として宦官となる人も増えていった。
 これは特に明清の時代に多く、「自宮して仕官を求めるのは、ただ一身の富貴をはかるのが目的である」とさえ言われた。
 宦官の呼び名は、閻人(えんじん)とも寺人(じじん)とも呼ばれた。老公(ラオクン)も宦官の別名である。
去勢することを「浄身」(じょうしん、汚れのない身)とも呼ぶ。自ら切り落とすことは、特に「自宮」(じきゅう)という。去勢すると、男子はまつげやひげが抜けて、体つきが女のようになるという。
 宦官の人数は、時代によっても変わってくるが、清朝の場合だいたい二、三千人いたという。これはまだ少ない方で、史料によると明朝末期には宦官は十万人いたという。
 明朝では皇帝しか宦官を使用することが出来なかったが、清朝では皇族に限り宦官の使用が許された。


 <宦官の変遷>


 宦官は中国固有のものと思われがちであるが、歴史をひもといていけば、アフリカやヨーロッパ、地中海から中東、朝鮮半島まで見ることが出来る。そしてついに日本では導入されることがなかった。
 中国では今から三千年以上前の殷の時代、甲骨文字にも宦官がみられたことから、かなりの古い歴史を持つ文化であることがわかる。そして以後、各王朝で権力をふるい、時には王朝そのものを滅亡させるきっかけともなった宦官だが、ついに二十世紀初頭まで、存在し続けた。
 この点において中国は世界でもっとも宦官の影響を受けた国であり、宦官大国であった。
 宦官はいうなれば必要悪の存在である。それは先にも述べた通り、後宮内の純潔を守るためというのが一番大きかった。もちろん宦官を減らそうと考えた皇帝や官僚は多かったし、実際かなり少なくなった時期もあったが、宦官を廃止しようという意見はほとんど全くといっていいほど出ることがなかった。
 そして宦官の最後はすなわち、清朝の滅亡、つまり帝政の終焉と共に終わりを告げた。


 <宦官製造法  〜清朝末期の例〜>


 紫禁城の西に、政府公認の執刀人である「刀子匠」(タオツチャン)なる人がいて、彼らは宦官をつくることを仕事にしていた。世襲制。
 手術料は銀六両だが、貧困者が宦官に志願することが多いため、あとから出世払いということが多かった。いずれにしても身元保証人が必要であった。
 まず、三人がかりで腰と、両足を押さえつける。執刀者が志願者に対し、「後悔不後悔」(ホウフイブホウフイ、後悔しないか?)と念を押す。この時少しでも不安が顔に表れると手術は行われない。そして執刀。インドでは手術時にアヘンを用いた例もあり、おそらく中国でも同様の麻酔が行われたことは想像に難くない。
 下腹部と足の付け根部分をひもで縛り、性器を熱い胡椒湯で三度洗う。その後鎌で陰嚢もろとも一気に切り落とす。
 その後は、白蝋(はくろう)の針を尿道に押し込み栓をする。傷は冷水に浸した紙で覆い、注意深く包む。そして二、三時間部屋の中を歩き回って後、横になることが出来る。
 手術後三日間は水を飲むことは出来ない。のどの渇きと傷の痛みのため、相当な苦痛を経験するという。三日経って白蝋を抜くと噴水のように尿が出る。これで一応成功と言うことである。
 一説によると成功率は99パーセントだそうで、刀子匠はかなり高い技術水準を持っていたことが予想される。
 ただしこれはちゃんとしてもらった例で、もちろん時代にもよるが、古代に行われた宮刑の場合はかなり高い死亡率であったという。
 手術後は百日ほど傷を癒した後、一年間王府で宦官の実地研修を行う。研修後は宮城にて、宦官としての仕事が始まることになる。


 <手術後の性器について>


 宦官になった後、切り取られたあとの男性器は「宝」(パオ)と呼ぶ。これが宦官にとっては一生ついて回るやっかいな代物である。
 宦官は出世をして階級が上がる時、自分の「宝」を上司に見せなければならない。これを「験宝」と言うが、手術が終わった後で、うっかり「宝」を刀子匠から受け取るのを忘れたり、「験宝」を知らないで宦官になる者も多い。
 昇進の時にあわてて刀子匠を訪れ、自分の「宝」を返してもらうのだが、その時代金を請求される。多い時には銀五十両という例もある。そのほかにも、無くしたり盗まれたりといったこともあったから、他人の物を刀子匠から買ったり、借りたりすることもあった。そしてこの「験宝」が、刀子匠にとっては大きな収入源ともなり得たのである。
 もう一つの理由は、宦官が死んで埋葬される時に、一緒に棺に入れてもらうためである。あの世ではもとの男性に戻りたいという希望と、もし「宝」がなかったら来世で雌の騾馬に生まれ変わってしまうという運命から逃れるためである。


 <宦官の容貌>


 実際に見たわけではないのですが、一説によるとこんな感じだそうです。
 もちろん、すべての宦官に当てはまるわけではありません。

 歩く時は少し前屈みで小股でちょこちょこと歩くので、わかりやすい。
 服装は暗い紺色の上着に黒いズボン、そして宦官帽をかぶる。
 見た目はかなり女性的なものになる。
 声もかなり高音になり、本来の男性の持つ音声は失われる。
 ひげがないのも有名で、成人してから去勢した場合でも、徐々に抜けていき最後にはつるつるになってしまう。
 体格はだんだんと太っていくが、力はない。その後は年と共に急激に痩せていき、しわが寄るので、年齢よりも老いているように見られることが多い。
 アヘンと賭博を好むのも宦官の習性である。(アヘンは清朝から)


 <宦官の職務。 〜唐代の例〜>


 唐代では内侍省(宮内庁のこと)が存在し、その外局に五局あった。

 掖庭局(えきていきょく)、女官に関する帳簿をあつかう
 宮?局(きゅういきょく)、宮門の取り締まり
 奚官局(けいかんきょく)、女官の疾病や死亡をあつかう
 内僕局(ないぼくきょく)、輿や鳳輦(ほうれん)の先導にあたる
 内府局(ないふきょく)、宮中のテント張りや、点灯をつかさどる
 これらを総括する内侍は四品官。
 ちなみに宰相は三品官。宦官は官僚の下に置くのが定めであった。


 <宦官の職務。 〜明代以降の例〜>


 代表的な職種を特に二十四衙門(がもん、役所のこと)といい、それぞれ十二監、四司、八局にわかれている。もちろんこのほかにもさまざまな職務や部課があり、あげればきりがない。

 司礼監(しれいかん)、宦官の総元締め、影の内閣とも呼ばれた。
 内官監(ないかんかん)、土木・建築をつかさどる。
 御用監(ごようかん)、皇帝専用の小道具をつかさどる。調度品やテーブル、白檀など。
 司設監(しせつかん)、座布団、すだれ、傘などの調度品の製作。
 御馬監(ぎょばかん)、馬や象をとりあつかう。
 神宮監(しんきゅうかん)、太廟(皇帝の歴代のみたまや)の墓守。
 尚膳監(しょうぜんかん)、宮廷内の食事、宴会をつかさどる。
 尚宝監(しょうほうかん)、皇帝の印鑑をつかさどる。
 印綬監(いんじゅかん)、辞令や公文書、割り符をつかさどる
 直殿監(ちょくでんかん)、掃除。一番過酷な部署。
 尚衣監(しょういかん)、衣服や冠、靴などを作る、
 都知監(とちかん)、皇帝が外庭に出る時の警備員。
 以上が十二監。

 惜薪司(せきしんし)、薪や木炭をとりあつかう。
 鉦鼓司(しょうこし)、皇帝が出かける時の先導役で、派手な服装で音楽を奏でる。演劇もここ。
 宝鈔司(ほうしょうし)、宦官の使うちり紙をつくるところ。
 混堂司(こんどうし)、宦官のための入浴場
 以上が四司

 兵杖局(へいじょうきょく)、武器を作る、刀や槍など。火器火薬などもここ。
 浣衣局(かんいきょく)、年老いたり、罪を受けたりした宦官や女官が行くところ。終生飼い殺しにするところ。後宮は絶対秘密の領域であるので秘密が外に漏れることのないように、このような局がおかれた。
 銀作局(ぎんさくきょく)、皇帝が臣下にあたえる報奨銀の製造
 巾帽局(きんぼうきょく)、宦官のかぶる帽子を作る。
 針工局(しんこうきょく)、宦官の着る服を作る。
 内織染局(ないしょくせんきょく)、布の染色
 酒醋麪局(しゅそめんきょく)、宦官や女官用の食事
 司苑局(しえんきょく)、野菜を作る。
 以上が八局。


 <宦官の出世>


 宦官の最高の官は十二監の長である太監(たいかん)正四品の官
 その筆頭は司礼監太監で、長官は特に掌印太監といい、その下に副官ともいうべき秉筆随堂太監(へいひつずいどうたいかん)が三,四名から八,九名いた。
 もっともほとんどの宦官は下働きで一生を終える。


 以上です。


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