あの名物演技は、今・・・

山陰放送ラジオ 担当:板井 文昭アナウンサー(71期)
2006(平18)年2月26日 17:00〜17:30



 東に、大山の、雄姿を仰ぎ 西に、日本海の、荒波を受ける

 春の選抜高校野球大会の出場校が、先月31日決定した。惜しくも、その32校の中には入らなかったが、21世紀枠の候補に、米子西高の名前があった。選手と周囲の応援が一体というのが、候補理由だった。

 高校の応援と言えば、応援リーダー、応援部の存在がある。米子東、米東應援部には、名物演技、どぜうすくい三・三・七拍子というのがある。これは、そのどぜうすくい三・三・七拍子にスポットを当てた番組である。案内役は、松浦美代です。

 まずは、卒業後30年前後というOBたちから登場してもらおう。どぜうすくい三・三・七拍子とは、どんな演技なのだろう。想像してみてほしい。そして、当時の思い出、思い入れを、46歳、森雅幹が語った。どぜうすくい三・三・七拍子の前口上から。


 「東に、大山の、雄姿を仰ぎ 西に、日本海の、荒波を受ける 我が、米子東眦学校名物、どぜうすくい三・三・七拍子 そーれ

 このどぜうすくい三・三・七拍子は、安来節の踊り、いわゆるどじょうをすくうような踊りがありますね。これをいわゆる應援用の三・三・七拍子にデフォルメした、そういった演技なんですけれども、どじょうを一生懸命掴んで、どじょうが逃げるというのを一生懸命次々に掴んでいくようなスタイルとか、顔に付いた泥を取るスタイルとか、また、一生懸命ざるを持ってすくうスタイルとか、こういったスタイルを、いわゆる三・三・七拍子に合わせて、体を動かす、そういうような形の演技です。

 先輩からの伝承なんですけれども、いわゆる私より12、3期、もうちょっと前の辺りでしょうかね。こういった方たちが、安来節からヒントを得て、作られたという伝承を聞いています。これがですね、結構体を反ったりですね、それからいわゆる三・三・七拍子ですので、どこでパン、パン、パン、と言いますか、こういったところがやっぱり動きがピシッ、ピシッと止めるところがやっぱりあるんですね。で、この動きを止めて、またその間の動きを速くしていく。で、これがやっぱりポイントでしたので、で、これが結構難しかったとか、で、また、これができて初めて一人前とか、こういうことがありましたので、應援團員の中ではやっぱり、これができるまでもう本当に一生懸命というのは時代でした。

 私たちの時代は、こういった三・三・七拍子とかっていうのが一番の主流の、攻撃の時の應援の一番のスタイルでしたので、攻撃の時にずっとやってたんですけれども、いろんな、飛び三・三・七拍子とかですね、いろんなのがあったんですけれども、このどぜうすくい三・三・七拍子というのが、一番の名物というふうに口上では言ってるように、一番大事なものでしたので、これがメインで6回の攻撃の時に、攻撃が始まる前に、スタンドの皆さんに、この三・三・七拍子ということで、攻撃に入る、とこういうスタイルでやっていました。

 はっきり言って、私の應援團の集大成は、3年間の應援團の集大成は、やっぱりどぜうすくいだったかな、という感じです。」


 もう一人、50歳、諸田和平の話でも、どんな演技なのか想像してもらおう。


 「そうですね。ラジオで説明するのはちょっと、皆さん分かりづらいかも知れないのですけれども、今の前口上の後、安来節のいろいろな動作をアレンジして三・三・七拍子の所作に作り上げた、と思って頂ければ、分かるかなあとは思いますけれども。

 最初の3つはですね、まずざるをつけて、どじょうをすくい上げる、と。これが3回。そして、また、戻って3回。まずざるを叩いて、どじょうを落とす、そして、どじょうを掴む。これぬるぬるしておりますから、いわゆるうなぎを掴むような形になります。で、最後に、顔の泥を払う、そして足にヒルが付くので、ヒルを取って投げる。これが大体7の形になっています。今の記憶ですので、ちょっと定かではないんですが、恐らく、まず太鼓で前口上の拍子を取ります。それから、いざ三・三・七拍子に入りますと、太鼓に加えて、笛が入ってきたような気がしますが、これはちょっと、三十数年前のことですので、はっきりとはよく覚えてませんね。

 太鼓ばっかり叩いておりましたが、やはり一番問題は、何事にも共通するんですが、腰の据わり、これが、一番大切なところで、当時しこと言っておりましたけど、股割りの動作を、これを30分くらい続けさせられたような記憶があります。それだけに、やはり腰の据わり方というのは大変だったですね。1試合に1回しか行なっていませんので、なかなかそれだけ体力を使う演技だったとは思います。

 最初の口上でも言いましたが、我が米子東眦学校名物どぜうすくい、この言葉が入りますとスタンドが猛然と沸きました。しかも、スタンド、應援の方々が一体となった應援ができたと思います。」


 諸田和平は、どぜうすくい三・三・七拍子を後方で支える、應援部の太鼓係だった。

 ここで、どぜうすくい三・三・七拍子の歴史に触れておこう。当時のことに大変詳しい、55歳、谷上道夫は静かに語った。


 「私もですね、これは先輩、1つ上の先輩から教わって、その時にはもう完璧に完成されたものだったんですけれども、1つ上の先輩あるいは2つ上の先輩に話を聞きますと、私が在学以前の昭和38、9年頃にですね、その当時、東高の62期の大先輩であります山本よしろうさん、この方が安来市在住なんですけれども、山本さんが小さい時から安来節あるいはどじょうすくいに馴染んでおられた親しんでおられたということがあって、東高に通学しておられたんですけれども、在学中の應援團の時に、どぜうすくいを考案されて、同級生の聞くところによりますと、同級生の方々と考案されたということのようなんですね。まあ今思えば歴史の長い、應援團の演舞かな、と思ってますけれども。基本的な形は考案したけれども、ユーモアな振付は、当時山本さんと同級生の畑野さんとかですね、がユーモアな振付をされまして、それを今の私らが教わった振付にされたのは、その後の後輩に当たります63期の能登さんだとか、原さん等が完成されたという具合に伺ってます。

 3人でするのが普通のパターンですけれども、1人でやるのが、実はこれも山本さんが考案されて完成はまあ、能登さんの世代で完成されたんですけれども、一人どぜうというのがありまして、これは、いわば余興的にやる部分で、試合の應援なんかでは3人ないし5人でやってたというのが当時のどぜうすくい三・三・七拍子なんですね。やってたのはたしか5回の時だったと思うんですね。で7回は当然校歌なんですけれども、その前の5回の時にたしかどぜうすくいをやってまして、それで試合の應援を盛り上げた、という記憶があります。

 どぜうすくい三・三・七拍子は非常に生徒の間に好評でして、私どもがさきほどの口上で、どぜうすくい三・三・七拍子をやるぞという時には非常に、應援に来てくれた生徒の皆さんがですね、盛り上げてくれました。もう、拍手、やんややんやの喝采だったです。16歳から18歳、青春の一番多感な時の、人生で一番多感な時代の、宝物ですね。」


 40年以上の歴史を持つ演技だと分かった、どぜうすくい三・三・七拍子。果たして、高校野球の現在の應援はどうなのか。28歳、井藤けんじの話は、


 「現在は、今もう守備中はほとんど音が出せない状態なので、どぜうすくいは今やってないです。いろいろ理由はあると思うんですけれども、まずは守備中に音が出せないっていうのと、あとは團員の数が減ってまして、お客さんの方に客のせですね、ができないというのもあるでしょうし、伝統として引き継ぎはしてあるそうなんですけれども、大会中はできてないということで、ですね、最後、記憶では、98期ですね。ぼくの6個下になります、が、それの夏の大会の1回戦が最後です。試合の流れが止まるということで、いろいろそういうのもあるみたいで、2回戦からやらなかったということで、そのまま現在に至るみたいです。」


 5年前、2001年夏の大会1回戦を最後に、高校野球のスタンドでは、披露することができなくなった、どぜうすくい三・三・七拍子。井藤けんじの話は、続いた。


 「どぜうすくい以外はですね、守備中は特に本当に、ぼくらの時とは全然比べ物にならないぐらい静かな感じというか、声も少ないですし、笛が吹けない、あとはそうですね、メガホンで手を叩くぐらいしかないので、あとは團員の数も少ないので、お客さんの全体的なテンションが低いのもあると思うんですけれど、全体的に静かな、守備中は特に静かだなあと思います。どぜうすくい以外であったのが、飛び三・三・七拍子と、あと空手三・三・七拍子という、三・三・七拍子2つありました。あとは新三っていう、それはまあ春の大会ちょこっとやるくらいだったですけれども、そういうのもありました。

 全体的に多分少ないと思うので、厳しいとは思うんですけれども、自分たちが楽しんで、お客さんを一緒に引き込んで、楽しみながら應援できるのが多分一番良いと思うので、いろいろあると思いますけれども、楽しんで應援をしてもらえれば、良いかなと思います。どぜうすくい三・三・七拍子は、米東の伝統になりますので、これは是非ともずっと続けてもらいたいと思います。」


 井藤の、どぜうすくい三・三・七拍子の前口上は、


 「東に、大山の、雄姿を仰ぎ 西に、日本海の、荒波を受ける」


 ところで、現在の高校野球の応援規定は、次のようになっている。昨年、秋の中国大会から確認しておこう。

 応援団の皆様にお知らせ致します。ブラスバンド用具以外の鳴り物の使用は、禁止致します。ただし、大太鼓は1個のみとさせて頂きます。また、観客席へのファウルボールを警告するホイッスルと混合するおそれがありますので、試合中は、ホイッスルを使った応援を禁止致します。応援は、攻撃時のみ行い、守備の時は静かにして頂きますようお願い致します。

 たしかに、どぜうすくい三・三・七拍子は、高校野球の応援スタンドで、やりにくくなっているというのは事実であった。しかし、やっていないということを聞いて、OBの一人、36歳、柿原直紀は、こう語った。


 「名物ということで、取材などで表に出ていく部分はどぜうすくいすごく多いんですけれども、應援をしますとですね、あそこで、ワーッと盛り上がった流れが切れてしまうような感覚を一般のお客様が持たれるんですね。じゃあ自分たちが應援してるときに、なんでそれが受け入れられていたのかなということを振り返りますと、それまでの段階ですね、どぜうすくいに至るまでの應援の中で、應援團とお客様の間のコミュニケーションというのがかなりとれていたから、それを支持してくれた、まあしようがないか、おまえらがやるんだったらっていうような寛容さというのがね、当時はあったような気がします。

 先輩方がこれまで積み上げてきたもの、すごく重たい受け継がなければならないものということで、やはりやる方も緊張してやっておりましたね。またどぜうすくいという名前からして、この郷土色を前に出す演技ですので、かなり全国を睨んだ演技だなっていうふうに自分では感じておりました。やはり、日本には日本の応援文化と言いましょうか、そういったものがあると思うんですね。その良き部分をひとつでも残しておいてほしいな、つまりは、この米子東の應援で言えば、どぜうすくいっていうのは、グランドで、是非見たいなっていうのが率直な気持ちです。」


 なんとかして、高校野球の応援スタンドで見たい、どぜうすくい三・三・七拍子。高校生と日頃接する柿原は、現役高校生に、エールを送った。


 「今の現役の高校生が、應援團に興味を持ってくれない、それはなぜかと言いますと、やはり、優しい時代になってきてると思うんですよ。人を傷つけてならないであるとかですね、やってはいけないことというのがすごく増えておりまして、それでまた、それを非常に生真面目に守るような世の中になってきてると思います。その中で、やっぱり應援團というのは、あまり良いイメージのものではないんではないかなっていうふうな感じを受けました。ただ、自分が應援團をやっている時に、尊敬する大先輩から、こんなひとことを頂きまして、應援團っていうのは、何の取り柄もない人間が、一生懸命やって輝ける、数少ない場所なんだ、と。だからおまえたちは特にスポーツでナンバーワンになれるような連中じゃない。勉強もそうだろう、と。だったらこの應援で、光り輝けっていうようなことをですね、言われた時に、あっ、ここにひとつ、自分が完全燃焼できる場があるんだなっていうことを思いました。今の高校生、本当に今何していいか分からない、何がやりたいのか分かんないっていうような子が今いましたら、是非ね、やってもらいたいですね。経験なんかも一切要りませんのでね。ただ、やはりみんなずーっとやってた連中じゃありませんでした。クラブ活動なんか一切したことがないという者もおりましたし、しかし彼らも一生懸命練習をして、非常に良い演技ができるようにもなりましたのでね。これは本人のやる気次第なんじゃないかなというふうに考えてます。

 すべての練習の汗、成果、これらをぶつける一瞬だったですね。これでコケてしまったら、今までの練習が全部パーになってしまうっていうぐらいの気持ちでやっていた記憶があります。應援の総決算ですね。必ずできるので、もう一度、皆さんの力で、どぜうすくいを、復活させて下さい。君たちなら必ずできると思います。是非夢を叶えて下さい。お願いします。」


 東に、大山の、雄姿を仰ぎ 西に、日本海の、荒波を受ける 我が、米子東眦学校名物、どぜうすくい三・三・七拍子 そーれ


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