ベルギービール博物館
ベルギーの歴史 



古代
ベルギーの歴史は先史時代にまで遡ることが出来ます。

ベルギー地方では、ビュルム氷期のスピーの洞窟から、ネアンデルタール人の人骨が発見されています。旧石器時代の始めには、農耕と漁労を主とする人類が住むようになり、金属加工も発達しました。その後、様々な民族がヨーロッパ東方から移り住み、ケルト人も移住してきました。このケルト人の中に、青銅時代ケルトのアキテーヌや、ゴール族とは異なった文化を持つベルガエ(Belgae;ケルト語で戦士の意、後に「ベルギー」の語源に)と呼ばれるケルト人が居り、彼らがベルギー国の基礎を築くことになりました。

ベルギー地方は、紀元前57年にユリウス・カエサル率いるローマ軍によって征服されましたが、ベルガエ族はガリアで最も勇猛果敢な部族と、カエサルは「ガリア戦記」に記しています。 ローマ帝国の属領となったベルギー地方は、ローマ人からガリア・ベルギカと呼ばれ、ローマ人の優れた組織力によって国内整備が進み、農工業が発展しました。道路が作られ、ライン河と北海に臨むブーローニュを結ぶルートは、幾つかの町の物資の中継地として発展して行きました。ルーヴェン、ブリュッセルなどがそれです。

四世紀頃に徐々にキリスト教が低地地方にもたらされ始めると、ベルギー地方は経済的にも精神的にも豊かな平和な時代を迎えました。しかし、5世紀に入り、ローマ帝国の衰退し始めると、ゲルマンのフランク族が侵入し、ベルギー地方を占領しました。ローマ帝国はその結果、北部を放棄して、南部へと後退を余儀なくされました。その結果、ゲルマン語を話す人々の北部と、ラテン語を話す南部へと二分されました。これが現在に至るまで、ベルギーがゲルマン系の北部と、ラテン系の南部とに言語が二分されるルーツになっています。
中世
西暦481年、ゲルマン人のクローヴィスによって樹立されたフランク王国(メロヴィング朝)は、当初ベルギーのトゥルネーを王朝の首都と定めました(後にパリに遷都)。8世紀に入り、732年、フランク王国の宮宰カロリング家のカール=マルテルが、イベリア半島から侵入したイスラム帝国をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退したことで力を持ち、その子の小ピピンが751年にクーデターを起こして、カロリング朝を創設し、その子のシャルルマーニュ(カール一世、カール大帝)は、800年、西ローマ帝国を復活させて皇帝に即位しました。シャルルマーニュは、ベルギーのリエージュ近郊に生まれ、リエージュ郊外のエルスタルに離宮を持ち、ムーズ川流域地方は帝国の中心地となりました。

しかし、シャルルマーニュの子のルードヴィヒが即位後に領土を3人の子供に分封し、その没後、王国は3つ(西フランク、東フランク、中フランク)に分裂し、現在のベルギー地方はスヘルデ河を境に西フランク、中フランクに分割されました。その後、9世紀に入り、ノルマン人のヨーロッパ侵略に伴ない、その脅威から自衛とキリスト教を守るために、各地で司教や地主たちを指導者とする多くの封建国家が生まれ、ベルギーでは、フランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ候国、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルグ伯領、ルクセンブルグ伯領などが成立しました。

こうした中、ノルマン人の略奪行為に備えてフランドル伯はフランダース地方の城塞都市を築きました。その最古の都市はゲントで、他にも、ブルージュ(=「橋」の意)や、イーペル等がこの頃城塞都市として誕生しました。
10世紀以降、ノルマン人の侵略が止むにつれて、ヨーロッパ国内は次第に安定し、各国の経済は飛躍的に成長しましたが、特にフランダース地方はイギリスからの羊毛で高級織物が生産され、繁栄しました。中でもブリュージュは、北海と水路で結ばれていたこともあり、物産の中継地点として繁栄し、西ヨーロッパ随一の都市として賑わい、1127年にはフランドル伯領の自治権を獲得し、フランドル地方の首都となりました。

一方、南部地方も、金属工業を中心にして同様に発展しました。ベルギーの南東部はドイツの王達の支配の下で、低ロタリンギア(ロートリンゲン)公国の一部となりました。979年、ロートリンゲン公シャルル・ド・フランスがセンヌ川の支流に浮かぶサン・ジェリー島に城壁を築きました(現在この川は蓋をされて暗渠になっています)。これがブリュッセルの始まりと言われています。ちなみにブリュッセルは、966年に神聖ローマ帝国のオットー1世が記した文書にブルオクセラ(フランコニア語で「沼の中の砦」の意)として、歴史上初めて登場しています。このベルギーの南東部は、大半は多くの小領邦に細かく分割されていました。その一つにリエージュ皇子司教領もありました。

13世紀になると輸送は陸路から海上輸送へと代わり、ハンザ同盟の有力都市として、ブルージュは北ヨーロッパの国際商業の中心地として繁栄しました。しかし、1490年代外港ズウィンが沈泥によって船の出入りが出来なくなり、港としての機能を失うにつれて衰退し、代わってアントワープが台頭しました。

諸侯乱立する中、リエージュ皇子司教領を除くベルギー地方を統一したのがブルゴーニュ公でした。ブルゴーニュ大公フィリップ(勇胆王)とフランドル伯の娘マルグリットとの婚姻によりベルギーに入ったブルゴーニュ公は、封建領主の統一を成し遂げ、その息子のフィリップ(善良公)の時代には、ブルゴーニュ公国は繁栄期を迎えました。フィリップ善良公は、1419年に宮廷をディジョンからブリュッセルに移し、ブリュッセル、ナミュール、リエージュなど南東部の都市を統治しました。この時代、ブルゴーニュ公国の繁栄と共に、文化・芸術も大きな飛躍を遂げ、華やかなフランデレン芸術が開花しました。特に絵画では、ファン・アイク兄弟、ロピーテル・ブリューゲルなどが登場しました。また、ブリュッセルのグランプラスのようなフランドル・ゴシック様式建築が誕生したのもこの頃でした。
近世
しかし、1477年、フィリップ善良公の息子のシャルル勇胆公の没後、ブルゴーニュ家の統治は終わりを告げ、シャルル勇胆公の娘、マリー・ド・ブルゴーニュが同年、神聖ローマ帝国およびゲルマン帝国の支配者であるハプスブルグ家のマクシミリアン1世と結婚し、彼女の死後、夫のマクシミリアンはブルゴーニュ家の領地を摂政として継承し、ハプスブルグ家の領地(オーストリア領)になりました。ちなみに、マクシミリアンの息子のフィリップ・ル・ボーは、スペインの王位継承者ジャンヌ・ド・カスティーユと結婚し、その結果彼はネーデルランド一帯だけでなく、スペイン王の地位も得ました。

フィリップの子、カール5世(シャルル五世)はゲントで生まれ、メッヘレンで育ち、アーヘンで即位しました。この時代、ブルージュの衰退に伴ない、アントワープが西ヨーロッパ最大の貿易港および金融の中心として発展を遂げると、芸術や科学、文化が隆盛をきわめ、エラスムス、メルカトールなどの知識階級を輩出しました。1549年のアウグスブルグ条約、基本法勅令によってネーデルランドは、神聖ローマ帝国の中で独立主権と国家の地位を与えられ、「ブルゴーニュ社会」を形成し、この地方は主権を持つ統一国家となり、ブリュッセルに国家の中枢機関を設置しました。

カール5世の後、子のフェリペ2世がスペイン王に即位しました。当時北ヨーロッパではプロテスタント派が勢力を伸ばしつつあり、ベルギー北部のフランダース地方のフランデレン、ブラバントなどもその中にありました。フェリペ2世は厳格なカトリック信奉者であったため、北部地方に大スペイン軍を送り、何千という新教徒を処刑しました。これに対して、オラニエ公ウィレム一世とフランダース地方長官エグモント伯の指揮の下、強力な貴族同盟が発足し、スペインへの抵抗に加わりました。フェリペ2世はこれに対抗し、アルバ公を指揮官として、1万の軍を送り込みました。アルバ公はウィレム一世を追放し、エグモント伯や他の指導者的存在である貴族をブリュッセルのグラン・プラスで処刑しました。これに対して民衆の暴動が勃発し、特に北部の抵抗は激しく、数年の内にアルバ公は、南部の都市を除きその支配力を失いました。 1576年に、北部でウィレム一世が絶対的な支配力を持つに至り、スペインと和解しましたが、北部同盟はその後、75年に及ぶ独立への戦いを続けることになりました。一方、南部のカトリック地域はスペインへの忠誠を守り、これがスペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)となりました。

1648年の「ミュンスターの講和」によりスペインは、北部同盟(オランダ連邦共和国)の独立を承認し、またスヘルデ河口の閉鎖を承諾しました。その結果、アントワープとゲントの地位はオランダのアムステルダムに取って代わられ、かつてのブルージュと同様、商業の中心地としての地位を失いました。

フェリペ2世の死後、娘のイザベラと夫のオーストリア大公アルブレヒトをスペイン領ネーデルランドの統治者になりました。宮廷画家のルーベンスが活躍したのはこの時代のことです。
近代
17世紀に入って勢力を伸張させたフランスは、18世紀に入って、ルイ14世の統治の下、スペイン領ネーデルランドをフランスに割譲させようとしたことから、スペイン継承戦争が勃発しましたが、結局、1713年のユトレヒト条約によって、スペイン領ネーデルランドはオーストリアのハプスブルグの手に渡りました。

1789年フランス革命が起こると、オーストリアに対抗する為に立ち上がり、1790年ベルギー合州国として独立を宣言しましたが、あえなくオーストリアに制圧されました。しかしその後、オーストリアはフランス共和国と戦争になり、1795年、戦勝国のフランスはベルギーを解放しましたが、ベルギーはかつてのスペイン占領時代のように収奪され、レジスタンス運動は弾圧されたりしました。

ナポレオンの登場後、産業は再活性化され、ベルギーは復興を遂げましたが、1815年ワーテルローの戦いでナポレオンが敗退した後、ウィーン会議で、連合国側はベルギーをオラニエ公ウィレム1世の統治するオランダ王国に帰属すると決定しました。しかし、1830年になると、ブリュッセルで革命が起こり、翌1831年にベルギーは漸く独立国家となり、憲法に則り、7月21日、初代国王にドイツのザクセン・コーブルグ家のレオポルド1世が就任しました。
現代
このレオポルド1世と息子のレオポルド2世の時代に、ベルギーは大いに発展を遂げ、アフリカのコンゴ(現ザイール)を植民地として領有したりしました。

1909年、レオポルド2世死去に伴ない、甥のアルベール1世が国王を継ぎましたが、第1次世界大戦の勃発により、ベルギーの大部分はドイツの占領下に置かれました。

アルベールの息子のレオポルド3世の時代に入ると、今度は第二次世界大戦が勃発し、1940年にドイツはベルギーとオランダに侵攻し、1944年に連合国軍によって解放されるまでドイツに占領されてしまいました。

戦後、ブリュッセルはヨーロッパの共存と平和を象徴する都市となり、1958年にはEEC(現EU)の本部が置かれ、1967年には北大西洋条約機構(NATO)の本部も設置されました。他にもシューマン広場周辺にはEUの主要機関が置かれており、ヨーロッパの首都としての役割を担っています。



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