つげ義春“旅モノ”の傑作『二岐渓谷』は、月刊漫画誌『ガロ』1968年2月号に発表された。作品舞台はタイトルにもなっている、天栄村二岐渓谷である。
 二岐渓谷は、岩瀬湯本から鶴沼川支流の二岐川に沿って南下し、徒歩で1時間ほどの山奥にある。劇中、主人公は「このあたりで一番貧しそうな宿はどこですかね」と訊ねて「渓底の爺さん婆さんの小屋」を教えられているが、この小屋のモデルになったのが、巡礼地として有名な湯小屋旅館である。

 湯小屋旅館は文字通り「崖にしがみつくよう」に谷底にあり、今も二岐で一番「貧しそうな」宿である。いや、つげが二岐を訪れた67年当時に比べ、村は飛躍的に発展し、エレベーター付きの巨大旅館ができた現在の方が、その質素さは際立っている。
 漫画に描かれた茅葺きは既に取り壊されてしまったようで、現在は青いトタンの大きな建物が宿泊施設になっている。

 私が湯小屋旅館を初めて訪れたのは2002年冬、雪深い2月のことだった。岩瀬湯本に一泊した後、歩いて二岐温泉を目指すことになったのだが、湯口屋を出た瞬間、雪を含んだ強風がビシビシと横顔に当たり、あまりの寒さに驚いたのを覚えている。福島県は東京からわずか2、3時間の近距離にあるため、地理感のない私にとっては「関東の一部」であって、大した防寒準備をせずに訪れたのだった。山間の冬は特に厳しい。歩き始めてすぐに「東北である」と思い直すことになった。
 旅行気分に浮かれた脳には寒さが伝わらないとでも考えていたのだろうか、なぜ歩いて行ったのか思い出せない。悪天候下のハイキングなどというサバイバル趣味はなかったから、車をかっとばせばよかった。そうしなかったのは、宿泊代を値切った上に送迎してもらうほどの厚かましさを持ち合わせなかったからだろうか。新婚当時のつげ夫妻は二岐まで夜の山道を歩いたというから、それを真似たつもりだったのかもしれない。どちらにせよ、冬の間、バスは岩瀬湯本までしか運行しておらず、免許も無い私は歩く他なかったのである。

 湯本の入口から川沿いに進むと、釣り橋の向こうに星野屋別館があった。建物は雪深く埋まり、営業している気配は無い。露天風呂から湯が溢れ出る音がしたが、仕切りに囲まれた浴場では、失敬するわけにもいかなかった。
 国道に車の姿はなく、湯治場でよく見かける「ありがとうございました」の看板が淋しい。山道は途中で舗装が終わり、泥濘に足を取られる悪路になった。スニーカーに水が染み込んできて、体感気温をいっそう下げる。

 「これでこそ露天風呂の楽しみが増すわけよ」
 「絶対に客はいないな、秘湯日和だ」

 強がりを呟きながら、1時間ほど歩いただろうか。吹雪く視界の先に、三階建てくらいの、なにやら観光地らしい建物が見えた。せっかく時間をかけて歩いて来たのに、これじゃ普通の温泉地じゃないか。想像していた『ほんやら洞のべんさん』の如き世界とは見るからに違う。不安は募るが、それでも小さな田舎町である。すぐに「湯小屋旅館入口」と書かれた、粗末な木が組み合わされただけの看板が立っているのを見つけた。

 足場の悪い崖を一歩一歩下っていくと、雪の重みに今にも潰れそうな湯小屋旅館があった。建物は明らかに傾いており、事前の情報が無ければ、とてもここが宿だとは信じられなかっただろう。漫画の中の湯小屋は立派な茅葺き屋根を持っているからか、そこまで「貧しい」イメージを受けなかったのだが、いざ実物を目の前にしてみると、お世辞にも「きれい」だとか「繁盛している」とは思えなかった。
 入口横の壁には、漫画にも登場した「命名の由来」が書かれていたが、腰の辺りまで積もった雪でほとんど読めない。「“湯小屋旅館命名の由来”」、「二岐温泉は、文字通り千古に誇る名湯であります。」「それは、御鍋神社に残る」・・・・。雪を払い、コマの欠落を埋めるように丹念に読み返してみたが、壁の白い文字はほとんど消えかかっていて、それ以上は判別できなかった。

 とりあえず湯口屋の女将が言っていた「二岐一」の露天風呂で体を温めようと思って、入り口の引戸に手をかけたが、鍵がかかっていて開かない。押式チャイムが垂れ下がっているも、反応が無い。作中にも冬季は休業していると書かれていたので、あまり期待していなかったが、やはり凍えた一時間がある以上、簡単にその場を立ち去るわけには行かない。なおもガラス戸を叩いて大声で呼びかける。
 しばらくすると奥の部屋に明かりがつき、老婆が迷惑そうな顔をして出てきた(今思い返すと迷惑行為以外の何物でもなかった。私はその外観にだまされて、廃墟探索の気分になっていた)。ガラス越しに訝しそうな目で私を見ているので、つげファンだということを説明すると、なんと、「主人が入院したから宿はやっていない。再開の目処はたっていない。」
 湯口屋の女将には「二岐に行く」としか言っていなかったので、「このあたりで一番貧しそうな宿」が休業中であることなど、教えてくれるはずがないのは当然である。貧しげな宿の外観をぐるりと見渡しながら、「ああそうですか」と妙に納得した。とにかく、来た道を引き返すしかなかった。


江戸時代、二岐近辺を「湯小屋沢」と呼んでおり、明治頃から「二岐温泉」になったという。御鍋神社とは、近くにある巨大な鍋を祭った神社のことである。


 あれから2年。岩瀬湯本に泊まった際に、湯小屋旅館がどうなっているのか見に行こうと思い立った。今度はしっかりと名前を出して湯口屋の女将に訊ねると、「健在です」とのこと。前回を思い返して、「健在とは建物が取り壊されずに残っているという意味か」と、語義から厳密に問い直すと、営業中の意味だと言う。ありがたいことに、道路は全ての舗装が完了しており、まだ雪も無い。車を飛ばすこと20分(この日のためにちゃんと免許を取得しておいた)、あっけないほどすぐに到着した。

 崖の上に立つ、入口を示す立て札は新しくなっていた。宿の入口へと下る道もきれいに整備されていて、女将の言うとおり、どうやら営業していて、しかも以前より明らかにパワーアップしている。病み上がりの老人はどのようなミラクルを使ったのだろうか。立て札に近づいてみて、驚いた。


 な、名前が変わっている!

 「湯小屋旅館」の文字の上に一文字加えられて、「新湯小屋旅館」になっていた。なんということだろうか。トタンに覆われて激変した茅葺き民家を何軒も見てきたが、これほどまでに衝撃的な変化があるだろうか?改称するにしても、「新」を旧名に付すなどという発想ができるのは、戦後生まれだけだ。
 あれか。ボロ宿に突如降り注いだミラクルとは、今流行のM&Aのことだったのか。「新」の文字と「つげ的鄙び」との間に存在する、億万光年の隔たりと違和感に、泣き笑いのような表情を浮かべて看板を眺めていた。さらに驚くべきことに、看板には「つげ義春ゆかりの露天風呂、御堪能ください」と書かれているではないか!


 ・・・・・いったい何があったんだ、二岐渓谷!


 おそるおそる入口まで降りていくと、外観は変わっていない。ほっと胸をなでおろし、とりあえず記念写真を一枚。と、そこに井筒監督そっくりの中年男性がポリバケツ片手に坂道を降りてきた。新しい主人だった。来訪の意図を説明すると、ニコニコと笑みを浮かべながら、宿の中へと案内してくれた。前回は入れなかった、待望の旅館内部である。2年越しの昂ぶる期待と親切な対応に、複雑な胸の内も和らぐ。

 そうだ、いまや国宝級のつげ義春先生なのだ、宿泊先がその恩恵に期待するのは当然じゃないか。妻籠は町全体で藤村を担いでいるじゃないか。むしろ、つげ先生に対する今までの評価が不当に低かったせいで、そうした記念碑すらなかったんだ。仁右衛門島はここを見習うべきなんだ。喜ぶところなんだ!喜べ!

 そしてまた腰を抜かしそうになる。壁には、「つげ義春 二岐渓谷」の文字と絵が入った団扇が掛けられていて、通された部屋の本棚には『つげ義春の温泉』と『つげ義春を旅する』が置かれていた。おお・・・ジーザス・・・・!


 つげファンを呼び込みたいのなら、過度のアピールは無用、どころか逆に作用するのではないか。立て看板を見て「つげ義春が泊まったんだ、行ってみよう」と思う物好きな客もいることはいるのだろう。しかし、二岐温泉に来て、そこで初めてつげとの関係に気付く程度のファンは、貧しげな佇まいを見ただけで、引き返してしまうのではないだろうか。そして、それでも入ってくるようなつげファンならば『二岐渓谷』は絶対に読んでいるはずだし、ということは二岐温泉に来るのは明らかに「巡礼」目的なのだから、旅程を組む段階で『旅する』ぐらい読んでいるだろう。アピールは無用である。秘湯客を呼び寄せたいのであれば、そもそもアピールはWeb上でのみ為されるべきで、宿は手付かずの素朴さを前面に押し出した方が効果的なはずだ。むしろメジャーな「つげ義春」の名前は邪魔になるんじゃないか。

 反撥が一瞬のうちに湧き上がったが、黙っておいた。一概にそうとは言えないのかもしれないし、どちらにせよ素人には測りかねる問題だ。「生活」とはこの世の中で最高次に位置する概念である。心中する覚悟のない外野には、口出す権利などない。「To tsuge,or not to tsuge」。うなされるように私は繰り返したが、もはやそこに意味はなかった。
 新湯小屋旅館は「旧」湯小屋時代の建物に少し手を加えた程度で、全体としてはほとんど変わっていない。主人が言うように「つげさんファンのために、入口もそのまま残してある」ため、作品世界をダイレクトに示す貴重な「文化財」は消えることなく、今後も楽しむことができそうだ。どうのこうのケチをつける前に、まずは喜ぶべきだろう。つげ義春がここまでアピールされた場所は初めてだった。こちらが訊ねる前からその意図を完全に読まれているようで、要するに悔しかったのだ。テンプルに叩き込まれたタイソン級のハードパンチから、ようやく立ち直る。

 新湯小屋旅館は会社員四人による経営で、週末のみ営業しているという。彼らの住居は郡山にあるそうで、「旧」湯小屋主人とは、血縁どころかまったくの赤の他人らしい。「旧」湯小屋の湯治客だった四人は、店をたたむことを聞きつけ、共同出資で譲り受けた。営業開始は2003年8月からだという。
 宿の内部を詳しく案内してもらい、何枚か写真を撮ったあと、「旧」湯小屋主人を紹介してもらった。


思わず引き返したくなった、破壊力抜群のつげアピール。


 「湯小屋旅館」主人、星さん(!)が入院したのは、私が訪れる直前だったらしい。退院後、しばらくの間は営業を再開していたが、2003年7月に宿を閉めて、岩瀬湯本にある一軒家に戻っていた。「新湯小屋旅館」主人が持たせてくれた昼食のおはぎを肴に、私たちはつげ談義に花を咲かせた。
 『旅する』に書いてあるように、主人の話は尽きることを知らない。『二岐渓谷』や湯小屋旅館に関する話はもとより、若い頃の芸術家との交流、村人しか参加できない祭りのこと、古民家の屋根裏に眠る安産のお守りなど、興味深い話題が次々と披露された。残念ながら、それら全てを要領よくここにまとめるには、私は力不足である。断腸の想いで『二股渓谷』に関することのみを、漫画のページ進行に沿って記すことにする。

 まず、主人公が最初にセリフを発した場面。
 コマの中に「品店」という屋号の一部が書かれた看板が見えるが、この店は実在したという。小さな雑貨屋で、屋号は「藤原商店」。二岐温泉のちょうど入口にあったというから、旅人が最初に話し掛ける相手としては最適だろう。もしかしたら「藤原商品店」だったのかもしれない。

 続いて、犬の数について聞いてみた。
 『二岐渓谷』の主人公は寝そべった犬たちを見て、「バカに犬の多い所ですね」と語っているが、私が行った二度とも犬の姿は全く見られなかった。雪が降り積もっていた前回はともかく、今回の訪問でも一匹も見なかったのだから、居ないことはないにしろ、とりたてて多いわけではなさそうだ。宿が立派になり、犬も室内に引っ込んだからなのだろうか。
 主人によると、たいていの旅館で犬を飼っていたし、迷い犬も多かったという。これは、客がほとんど来ない冬場、淋しさを紛らわせるためではないか、と言った。

 宿の女将は主人公に、「マタタビがたくさんなっているので猫がうれしがっちゃってだめ」だから「この辺は猫を飼わな
いで犬を飼っているから犬が多いのです」と説明しているが、これについては「猫も飼っていたよ」と否定した。マタタビは今も湯小屋の上に生えているが、だからといって猫を飼わないということはないそうだ。猫の数は犬に比べて多くなかったという程度で真実なのだろうか。


 さらに、主人公がよだれを垂らしたナメコの栽培は、湯小屋だけでなく、よその家でもやっていたという。「モミジの精進あげ、ワラビの漬け物、マタタビの甘露煮」「栗ご飯」というメニューについては、それらを一度に出したかどうかは定かでないが、個々の品目は「確かに出した」と言って詳しく解説してくれた。値段についても、「600円」かどうか正確なところは覚えていないが、「とにかく安かった」そうだ。
 これは湯小屋旅館が「後発の宿屋」だったために、高く値段設定できなかったからだと言う。現在二岐温泉にある他の8軒の宿屋と比べると、湯小屋の青トタンは格段に古いイメージを与えるが、他の大きな旅館の方が古いらしい(柏屋には、かつて高松宮が泊まったことがある。眼下の湯小屋には足を伸ばさなかったそうだが)。
 湯小屋旅館は、劇中の記述どおり、昭和39年に星さんの父親が「つとめていた役場の退職金で」建てたものだそうだ。メガネをかけた爺さんが星さんの父親であろう。父親は岩瀬湯本・角屋の次男坊で、当時東京に行っていた星さんを呼び戻して開業した。「冬の間は里の息子の所に戻り 雪が溶け始めるとまた出張して来る」との記述に対して、星さんは「娘が学校に行っていたから、通わせるために里に下がっていた」と語った。今でも冬季のバス運行が無い二岐では、交通事情がさらに悪かった30年前に、雪に埋もれて商売をするなど、ほとんど不可能だったに違いない。

 ところで、劇中、「マゴ」と名乗る女の子が登場する。主人公の言うように「マゴというのは孫のこと」だったとしたら、女の子は「爺さん」の孫である。星さんの娘さんは当時、つげが描いた女の子の年齢に近いはずだが、案の定「マゴ」という名ではなかった。ちなみに、犬の名は「コロ助」だったという。




 最後に、最も重要なこと、肝心の猿について訊ねると、猿は二岐山に多数生息しているという。「それでは露天風呂に入ってきたのですか?」色めく私を見て、主人は笑いながら答えた。訪れるファンに何度も同じ質問をされてきたのだろう、「一度も入ってきたことは無い。今も猿は見るが、あれは完全につげさんの創作です。」と、きっぱり否定した。
 猿の入浴は創作だったが、猿が入浴した露天風呂の造りは劇中のコマとかなり類似している。「なんにもないけど、露天風呂は最高だから」とは新湯小屋旅館主人の言葉だが、渓流に面した岩風呂はなかなか趣がある。岩に囲まれた大きな温泉の横に、ちょうど人一人分くらいの、窪みのような小さな温泉があった。どうせ混浴なら猿一匹入ってきてくれても一向に構わなかったのだが、生憎その日猿は現れなかった。


 湯小屋は、漫画作品の他にもペン画『桃源行』(77年2月発表)の中で描かれている。露天風呂の手前を川の方から見た絵で、左の木造建築の中には、脱衣所と内湯がある。ペン画に描かれた廊下(そして恐らく漫画の中の板)は、現在屋根がつけられ、外から見える部分は脱衣所から露天風呂までの僅かな距離である。
 ちなみに、露天の脇を流れる渓流、二岐川には本当に「イワナ以外の魚は一ぴきもいない」のかと聞くと、現在は釣客用に放流しており、山女が釣れるが、当時はほとんどが岩魚だったらしい(カジカが少し、ハヤはほとんどとれなかった)。山女は高すぎ冷たすぎで、上ってこなかったと言う。


 星さんはつげ作品をだいぶ読みこんでいるらしく、自ら『枯野の宿』に触れて話してくれた。『枯野の宿』には、宿の息子が壁に描いた絵が登場するが、これは「ガキの頃にちょっとばかり」「絵を志した」星さんが実際に描いた襖絵がモデルになっており、95年ごろ本人の手で消され、漢詩に取って代わられた。「新」湯小屋主人はつげ世界保存の一環として、星さんの絵も残していくつもりらしく、入口正面の壁や襖などに、消されず残った何点かを見ることが出来る。

 「一度、つげさんが寒くて、布団を探してゴソゴソとやっていたことがあって、『寒いんなら言ってくれれば』といった覚えがある。つげさんはそれを膨らませて作品にしたんじゃないかな」(※)


(左、真中)元主人による「とってもなじめる」絵。(右)つげが泊まった部屋。つげは部屋にこもって熱心に絵を描いていたという。


※ 『颯爽旅日記』中の小文『定義温泉』(新潮文庫『新版つげ義春と僕』所収)には、雨に濡れ、寒気を覚えたつげが階段脇の押入れから布団を引っ張り出し、宿のおかみに激昂される描写がある。


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