第2回 生理的感覚としての音

 

第一回の発表の後に若干の反応があったため、それへの返答として、何故本シリーズにおいてつげ作品の「ラストシーン」にこだわるのかを再度言及しておきたい。前回、私はその理由について、ラストシーンには文脈から逸脱した『表現形態としてのつげ義春』が表出していると書いた。マンガ一般に見られるような、前からの文脈を継ぐこと以上の何かを感じることができるつげ作品のラストシーン、それがこの特異な作家が生み出した彼独自の表現形態に結びついているという意味である。しかし、ではことさら「ラストシーン」に執着する必然性はどこにあるのかについて、一考察加えてみたい。

 

まずは作品における「入口」と「出口」という言葉の説明から始める。これらの言葉は吉本隆明の『ハイ・イメージ論』にみられる重要なキーワードであるが、『ハイ・イメージ論』において「入口」とは、「作品のモチーフが開示される最初の像の場所であり、大なり小なり作者の理念が凝集している場所」であって、「そのために作品が書かれた「・・・・のために」が、もしとりだそうとすればとりだせる場所なのだ」という。「出口」を「作品のモチーフが消去される像の場所であり、「そのために」作品がつくられた動機がフェイド・アウトするところを、像か意味によってしめしている場所」とする。

本稿ではより広く語義をおき、すなわち「入口」とは「作品のある対象において作者の理念が凝集された切り口が提示される場所」を、「出口」とは「この「入口」によって提示された切り口が対象を切り開くことで消滅し、その対象が切り開かれたことによる反応、効果をもたらす場所」をそれぞれ指すことにする。

ここで「入口」の定義において、吉本に言う「モチーフ」を対象と切り口に分け、「出口」において「像」を反応と効果に置き換えた。たとえば内田春菊の『南くんの恋人』では、「入口」は死という対象に対してSF設定ともいうべき小さくなってしまった恋人が現実にいるという切り口であり、「出口」とはその効果としての死の悲しみの「大きさ」が描かれている箇所である。

 

さて、「ラストシーン」にこそ『表現形態としてのつげ義春』が集約されると考えるのは、つげが「入口」と「出口」が同じ所にあるようなモチーフを作品に描いていると読むからである。ここで「入口」と「出口」が同じというのは、作品における「出口」と「入口」のページ上の実際的位置すなわち<地点>が同じであり、「出口」の効果が「入口」と同一の作品の内層的位置<時点>に終わっていることを意味する。

通常、どのようなモチーフにおいても作家はラストシーンを描かなくてはならないが、「入口」と「出口」が別の<地点>にある場合、ラストシーンがことさら作家精神の発露である必然性はないが、「入口」と「出口」が同じ<時点>にあり、それらの<地点>がラストシーンにないモチーフを選んだ場合、そこにコマ構成上の「出口」を創作することを要求される。モチーフ上の「出口」がないにもかかわらず作品としては「出口」を創作しなければならないこと、一致が考えにくい「入口」と「出口」の<地点>と<時点>を一致させること、これらの難題の裏に『表現形態としてのつげ義春』が見えてくるのではないだろうか。このことは代表作『沼』を見ると、よく理解される。『沼』はつげ個人にとっても漫画界にとってもある種表現のターニングポイントとして名高い作品である。

 

狩りをしている青年が沼のあたりに住む娘に一夜泊めてもらうことになる。この娘は部屋に蛇を飼っていて、夜になると蛇が自分の首を絞めにくるのだと青年に打ち明け、「夢うつつなれど蛇にしめられるといっそ死んでしまいたいほどいい気持ちや」と言う。二人は一緒の部屋で寝、夜中に青年は起きだして娘の首を絞める。しかし、青年は娘が呻き声を漏らすと手を離してしまう。朝になり、娘は見ず知らずの男を泊めたことを家族のものに叱られている。青年はその家を後にし、ひとり沼の前で猟銃を撃つ。

 

菊池浅次郎は、最も優れたつげ評論のひとつ「不可能性への出発」(『漫画主義』第1号収録)において以下のように述べている。

 

少女の「アア……」といううめき声は、青年の手の力を抜かせる。それが<いい気持ち>のものなのか、苦しみの声なのか、おそらくそのどちらでもあるのだろうが、その現実の声は、青年をいっきょに蛇の役から覚醒させてしまう。

青年はそのとき、自分が願ったことの不可能性に突き当った。少女が<いい気持ち>と表現した感覚・想像領域は少女において完結しており、その領域の共有へ向けての自分の心の動きが、ついに現実においては不可能でしかありえないことを知るのである。

 

菊池のいう『沼』における「不可能性」とは、「領域の共有へ向けての自分の心の動き」、すなわち青年が抱いた「共同幻想」が儚くも崩れ去る過程であり、その宿命性であった。

青年が手を離すシーンは『沼』の「入口」であり、同時にモチーフ上の「出口」にあたる。「共同願望」という対象に、「共同願望」が砕かれる(手を離した)という事実(切り口)があたり、「砕かれたことによる」ではなく、「砕かれた」という効果が現されている場所も「入口」と同様この場所であることから、「出口」もここでしかありえず、同地点・同時点となる。それでは、構成上の「出口」としてのラストシーンはどのようになっているのだろうか。

 

背を向けた青年が一枚絵の真ん中に立っている。正面には沼が広がり、青年は画面奥に向け猟銃を構えている。鉄砲の筒からはかすかに硝煙が立ち、ズドーンという漫符が描かれている。

この作品のモチーフは先に述べたとおり、「入口」と「出口」が同一である。そのため、モチーフは「出口」を前に展開する場を失い、『沼』は作品としての停滞を余儀なくされている。

この停滞はラストシーンにおける沼の描写、そして「右からの風」を受けないために(「右からの風」についてはこちらのページを参照のこと)猟銃が手前から奥に向かって発射されていることによって暗示されている。これらのある種の比喩がその二重性によって作品の枠組みを形成していることに注目したい。

ここでいう枠組みとは作品を作品らしい体裁に整えるものであり、典型的な暗喩による同様のラストシーンの作品として『西部田村事件』などがある。作品の体裁を備えた以上、それは十分な完結性を持っており、ここでエンドマークを付けてはいけない理由は見あたらない。しかしこの停滞を受けてつげは「ズドーン」という漫符を持ってくるのである。

私は漫符による音の表現は基本的に野暮でしかないと思っている。少なくとも『沼』におけるそれは一見野暮としか見えない。重要な場面で漫符に頼る姿勢はあまりに「テクニカル」である。野暮でしかない音の漫符を何故つげがラストシーンに組み入れたのだろうか。何故「出口」に「ズドーン」が必要なのだろうか。

 

音は生理的感覚の一部である。そして、この『沼』のモチーフ上の「出口」には、2つの生理的感覚が出てくる。首を絞める手触りと娘の呻き声である。「共同願望」を打ち砕いた音、それをなおも保持しようとした手の中の行き場のない触感。この対立構造が停滞を呼んでいる。モチーフ上の「出口」は絶対にあり得ないはずだが(既にモチーフは終わっているのだから)、この停滞を受けてつげは作品の停滞を打ち破らんがために新たな「出口」、いわば「停滞への出口」を模索した。そうなりうるとつげが位置づけたであろうものが「ズドーン」であった。これは「共同願望」を打ち砕いた音からの構造的帰結であるというより、単につげの音への偏愛と受け取るべきなのではないだろうか。

こうして『沼』を捉え直してみると、つげ義春は構成上、モチーフ上の「入口」「出口」を生理的感覚で推し進めていることがわかる。この端々で見られる生理的感覚が作家的動機としてつげに様々なモチーフを描かせていることは間違いなさそうだ。

 

 

さて、音が明瞭に聞こえる『沼』とは対極、あたかもラストシーンから音が排除されているように感じられる2つの作品に話を移そう。

一つは『古本と少女』である。この作品は、欲しかった本を手に入れて、少年がその本を抱きしめるコマで終わっているが、このコマには、少年の喜びだけを取り出して閉じこめたような、純度の高い感情が満ち溢れている。

「入口」と「出口」でいえば、このコマが「出口」であり、このコマをより盛り上げるための、お金を返しに訪ねたあとの一転する場面が最初のモチーフとなり「入口」であろう。そしてこれは、「出口」のための作品であり、我々は素直に描写からくる学生の喜びの純度を味わえば良いと思う。『古本と少女』では音の排除が純度の高さに貢献しているが、音の排除がモチーフに大きく関わっている作品がある。『海辺の叙景』である。

私はこの作品が、『マンガ夜話』(1997年5月28日放送)で評論家の夏目房之介が述べたように、「台詞だけ抜き出して読んでみるとほのぼのとしたラブストーリーになっているのに、マンガを見ると陰鬱」であるということと、ラストシーンでの静けさが何を意味するのか(音がまったく聞こえないことで何を浮かび上がらせたのか)ということの考察によって、『表現形態としてのつげ義春』が読み取れるのではないかと考えている。

『海辺の叙景』はラストシーンを除けば、男女が徐々に慕情を寄せ合っていく展開になっており、終盤に向かってその緊張は右肩上がりで進んでいる。手法として男女の物理的距離がページを追うごとに近くなっていくこと、ボート小屋でのアングルは登場人物から近く、動きがある。男が女の前で泳ぎを見せる場面では、最初に右から左に泳ぐことで(右からの風)激しさや勢いを、次に右から左に泳ぐことで必死さとたくましさ、それに伴う肉体感に効果を上げている。

一方、2つの雑音ともいうべきものがこれと平行している。一つは画面の黒さである。序盤は白が効果的に使われているが、男が空を見上げる入道雲のコマでは黒と白の割合が既に半々であり、終盤に向かうに従って黒の比重が増えていくことがわかる。(もう一つは終盤に向かって徐々にというわけではないが)、幾分激しい音であり、最初の2コマで「ドドーッ」、「ザザーッ」と波の音からはじまり、途中の雨の音、ラストの少し前のシーンでは多くのかもめ鳴き声、「キャアキャア」という漫符が挿入されている。

ラストシーンでは、「いい感じよ」と台詞こそ緊張感が最高潮に達しているが、その一方画面には黒さが目立ち、二人の物理的距離は遠く、ベタ塗りされて肉体感は失われている。そして、アングルは遠く、かもめはコマから消え、鳴き声も波の音も舞台から排除されて構成されている。

『海辺の叙景』の「入口」はこのラストの見開きである。そして、この「入口」におけるストーリーの盛り上がりに対するコマの描写の盛り下がりの差違は男女間の齟齬(対象)を切り開き、その効果としてより一層の男女間の溝の深さ(出口)を示している、と捉えることもできる。言い換えるなら「本来交わることのない男女を同じ舞台に上げてしまうことの残酷さ」がモチーフになっているということである。

さらに、ラストシーンにおける切り口は明らかに生理的感覚の排除であり、これは『表現形態としてのつげ義春』が生理的感覚への眼差しを多分に含んでいることを踏まえると、『海辺の叙景』の「出口」が効果として(男女間の)溝の「深さ」を表現したとするのは不可解であり、不自然である。なぜなら、つげほどの力量を持った作家なら、この程度の「出口」は、生理的感覚を持ってこの「出口」を描くことができたはずなのである。事実、つげは既に『海辺の叙景』より前の『チーコ』という作品の中で男女の間にあった文鳥とそれに対する二人の視点の差違という切り口で、男女の齟齬の溝の深さを描くことに成功している。(『チーコ』に関しては記号論と併せて別の機会に譲る。)

 

では、生理的感覚の排除はつげに何らかの意図があって、つまり排除することのメリットがあったと考えるのが自然である。それは何だったのであろうか。

つげはリアリティを追求した作家である。つげは『漫画術』の中で

 

リアリティというのは内面なんかはずれて、具体的な出来事とか現象とか、もうまったく客観性のものにこそリアリティがあるんじゃないかと思えるんですよ。だからその時代、時代の人がいろいろなことで悩んで、自分の内面表白したような作品、内面のことを書いた作品にはリアリティがないんですよ。

 

と語っている。『海辺の叙景』には主人公、登場人物からの視点は存在せず、彼らは小道具のように利用されるのみで、具体的な出来事だけが淡々と語られている。これがつげのいうリアリティの現出であって、これによってリアリティをえるのは無論(作品の核である)モチーフである。『海辺の叙景』で描かれたモチーフは差違の<時点>(入口)までであることを慮ると、作品の外に溝が「深い」、「残酷さ」の効果を問う「出口」の<時点>にはリアリティはなく、対象というブラックボックス、この場合「齟齬」という対象だけがよりリアリティを持っている。

また、場所や時間、さらには男女の名前すら明示されていないが、このように意図的に排除することによって「齟齬」という概念のみを浮かび上がらせる手法こそが『海辺の叙景』の独特の表現形態であって、同時に『表現形態としてのつげ義春』が垣間見える所であるのだ。

 

つげ作品は『沼』においては「入口」と「出口」の<地点>と<時点>が同一であり、『海辺の叙景』においては「入口」はあるものの「出口」の<時点>が作品の外にある、凝った作りになっている。そして『海辺の叙景』は「出口」の<地点>、<時点>よりも「入口」の<地点><時点>に表現姿勢の重点を置いた最初の作品であった。

このことは対象自体を鮮明にすることの試みであると同時に、「テクニカル」上の必要性に迫られたものだったのかもしれないが、やはりその切り口に生理的感覚の排除が用いられたことは興味深い。そして、この後に、つげは一つの表現の達成点とされる『ねじ式』の中で、生理的感覚を積極的に用いることによって対象を浮かび上がらせることができるのではないかという、実験精神を示していくことになるのである。

 

(第三回へ続く)