ふるさとの自然を友とし、素朴に生きた人々・お姫さま・力持ち・奇人などにまつわるお話

長者の娘と乙姫様

一、十文字長者の娘

むかし、むかし。真名川の上手に、十文字長者といわれた、大へんなお金持の人があったそうや。

そこには、としのころ十五、六の真名姫という、とても心のやさしい、色白で、目鼻立ちのととのったきれいな娘さんがいて、家中の者にかわいがられて、幸せにくらしていたそうな。そして長者の家はいつも、この姫を囲んで、笑い声が絶えなかったそうや。

そんなある年のこと、つゆ時になっても雨らしいもんがのうて、つまり「からつゆ」やわのう。その上、夏の日でりがつづいて、田畑はひび割れるわ、川にゃ水はないわで、井戸の水をくんで田にやっても焼け石に水。大川から水をはこんで稲を守るんにゃけど、大川の水もちょろちょろで、あっち、こっちで、水の取り合いのけんかさわぎ。とうとうしまいはけが人が出るわ、つかれはてて寝込むわで、人も作りもんもみんなこのままではあかんちゅう、大へん困ったことになったんにゃと。

それで村人が集まって、雨乞いの祭りをしたり、火をたく、太鼓をたたく、雨乞い踊りをするなど、お寺でもお宮でも、「雨を降らしてください」と、神や仏にみんなが一心にお願いしつづけたそうや。

十文字長者では、大川の淵の神様に、たくさんのお供えをして、長者自身が身を清め断食して一生懸命「どうか雨を降らして下さい」と、お祈りを続けたそうな。

そしたら、ある夜、長者の夢枕に、淵の竜神さんが立たれて、「長者よ。おまえの娘真名姫を、わしにくれたら、雨を降らしてやるが、どうじゃ。」と、いわれたそうな。

夢からさめた長者は、全身にびっしょり汗をかいて、胸はどきどき、息ははあはあ、顔からは血の気がひいてまっさお、唇は引きつるし、あごはガツガツ鳴るし、全身の震えは、どうしてもとまらなんだんやと。でも、この夢のお告げは、どんなことがあっても人には言わんぞと心に決めこんだんにゃと。

それから長者は(ほかのことならともかく、可愛いい娘を竜神さんに捧げることなどとても出来ん)(だが、このままでは、村のもんはみんなが遅かれ早かれ飢え死せんならんが)と大へん悩んで、めしものどを通らず、日に日にやせ細って、嘆き悲しんでいたそうや。

ところが、そのことを知った真名姫が、「私が竜神さんの所へ行くことで、竜神さんが雨を恵んで下さって、それで田がいきかえって、村のものみんなが救われるんなら、私は淵の底でも、竜でも、蛇でもおそれず、喜んでこの身を捧げましょう。」と、いって、長者や村人が必死に袖をつかんでおしとどめる手を振り切って、高い崖っぷちから、長い黒髪をなびかせて、きれいな着物をひるがえしながら、碧くて深くて清らかで、静かに澄んでいる淵に、飛びこんでいってしもうたそうな。

そしたら、「ぴかっ」と光ったかと思う間もなく、「ぴしゃっ」「どかん」。「ごろごろ」と、雷がなるわ、落ちるわ。雨が急に物すごく降ってきて、見る見る田畑が生きかえってきたそうや。

村人は、みんな手をとり合って、雨の中で大粒の涙を流して、大喜びしたそうや。

しかし、それも一時。竜神に身を捧げていった、あの真名姫の姿や、尊い気持ちに打たれて、長者も泣き、みんなも泣いて、雨の地べたに、へなへなと座りこんで、しばらくは誰もそこから立ち去るもんはなかったんやと。

なかでも長者は、腰を抜かしてしもうて、人にたすけてもろうて、ほうてそこらを動きまわったと。

その姿がまるで亀に似ていたというので、今でも十文字蛇淵の上に「亀林」という所があるんやと。

話が前後したけど、この真名姫が竜神に人身御供した淵を、十文字蛇淵というのも、またこの大川の名を、真名川というようになったのもこのことからやそうな。
語り 中島 甚太郎(五条方)
調査 米村 恵美子
再話 杉本 正見


二、十文字蛇淵の乙姫様

それからずうっとたってからのこと誰いうとなく真名川の十文字蛇淵には、心のやさしい乙姫さんが住んでいなさるちゅう話がきかれるようになったやって。

あるとき、貧乏な家の人が、お客ごとをするのに、お膳もお椀もなかったんで、困ってしまいその前の日に、十文字蛇淵に行って、淵の中深く住んでいなさる乙姫さんに聞こえるように、「あすお膳十人前と、お椀十人前を、どうぞお貸し下さい。」と、青く澄んでいる淵に向って、手を合わせてお願いしたそうな。

そして翌朝、十文字蛇淵へ行って見ると、なんと岩の上に、とてもきれいな朱塗りのお膳十人前と、お椀十人前が、ちゃんとそろえて置いてあったそうや。

この話が、近所近在に伝わって、誰もがお客のもてなしに困ると、やれ二十人前だ、三十人前だとお願いする人もあったそうな。

それでも、きちんとみんながお返しさえすれば、いつでも、何人前でも、誰にでも、そろえて見事なお膳やお椀を、黙って貸して下さっていたそうな。

ところが、そんなことが何年も何十年も続いたある時のこと、どうしたことか、お借りしたものを全部そろえてお返ししなかった者があったんやって。

そうしたら、その時から後、もう誰がお願いしても、どんなにお願いしても、お膳もお椀も貸してもらえんようになってしもうたんやと、さ。

今では、十文字長者の真名姫さんと、十文字蛇淵の乙姫さんが同じ方かどうか、それはもうわかりません。
語り 山内 清作(東山)
調査 関 哲樹
再話 杉本 正見


仏御前

むかし、平清盛の愛をうけたといわれる有名な「仏御前」は、仏原栃沢の生まれだといわれています。平家物語に次のような一節があります。

「又、白拍子の上手が一人現われました。名前を『仏』と申します。年は十六だそうだが、京のまちの人は、みな、仏の舞うのを見て、今までにこんな舞の上手な者は見たことがないと、たいへんなもてはやしようです。

ある時、西八条の清盛の屋敷へまねかれたことがありました。しばらくして、清盛が出て来て仏に対面すると、今様(当時の流行歌)を歌ってもらいたいと所望しました。仏はかしこまりましたと、今様を歌いながら舞いました。清盛はたいへん感心してほめましたが、この時から仏を愛するようになったようです。」

また、謡曲「仏原」も、この大野の仏原のことをうたったものとされています。
出典 「大野のあゆみ」


うり姫小女郎

むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。おじいさんとおばあさんには、子どもがありませんでした。

ある日、おばあさんが、それはそれは美しい小川で、洗いものをしていました。そこへ、川上の方から、大きなうりが流れてきました。おばあさんはそれを拾いあげ、家へ持って帰って、割って食べようとしました。ところが、中からかわいい女の子が出てきました。ふたりはたいへんおどろきました。これは神様のくだされものに違いないと思って、その子に「うり姫小女郎」という名をつけ、だいじに育てました。

それから何年かたって、その子は大きくなり、毎日はた織りをするようになりました。小さなはた小屋にはいって「たんこ、たんこ、びいくだなんか、まいたろ。」ときれいな声で歌いながら織っていました。

その声を山んばが聞きつけ、小屋へやってきました。そして、ふし穴からのぞきながら、「戸を少しあけておくれ。あけてくれたら、ええもんやろう。」と、いいました。うり姫小女郎は、どんなよい物かと思って、戸を少しあけました。すると、山んばは、また、「戸を全部あけたら、ええもん全部やろう。」といいました。うり姫小女郎は、うっかり戸を全部あけてしまいました。山んばは、しめたとばかり飛び込んできて、小女郎をこわきにかかえ、山に連れていくと、食べてしまいました。

いつまでたっても小女郎が小屋から出てこないので、おばあさんは心配になって見にいきました。ところが、小女郎の姿は見当たりません。てっきり山んばにさらわれたのだと思いました。おばあさんは悲しくてたまりません。おじいさんとふたりで、急いでさがしに出かけました。あちらこちらをさがし歩いて、へとへとに疲れましたが、とうとう山んばを見つけました。ふたりは、小女郎が食べられてしまったことを知って、怒って、そばにあったすすきの葉で、山んばをしめ殺しましたとさ。
出典 「大野のあゆみ」


裸半兵衛

むかし、大野藩に半兵衛という飛脚がいました。

ある時、殿様からの大事な手紙を役人からあずかって若生子へ向いました。

ところが、若生子へ着いて、かづいてきた文箱を肩からおろすと、紐がゆるんでいたのです。「あれ、これはしまったぞ」と、中をすかしてみると案の定、何も入っていません。「さあ、大へん。」殿様の大事な、急ぎの手紙を、どこかで落としてきてしまったのです。

今走って来た坂道を、逆に、手紙が落ちていないか、さがしに戻りました。若生子坂の峠まで登って来ても、途中で誰にも会わなかったし、手紙も落ちていませんでした。

さきに峠で一服した辺りは、特に何度も、草の根を分けてまで、さがしてみましたが何もみつかりませんでした。

大野を出る時、しっかりしばってあった紐は、今まで一度だってゆるんだことがなかったのです。それで半兵衛さんは、ゆるむなどとは少しも考えず、峠で休んだ時にも、残念なことに、気をつけて見なかったのでした。

さあ、今度は大野の方に向って坂をおりながら、木の本までの道をさがさなくてはなりません。ところが峠の上で、もう日は暮れかかりました。なつかしいわが家の辺りに灯がちらちらと、ちらつくのがはっきり見えてきました。

だが、今となっては、半兵衛さんには、生きて、帰れるわが家はありません。まっているのは「はりつけ、さらし首」です。自分一人が罪をうけるだけでなく親類身内にも及ぶのです。妻や子のこと、親兄弟、親類のことを思うと、半兵衛さんは、この峠を、大野に向って、一歩も、下りるわけにはいきません。

一晩、まんじりともせず後悔しながら、自分さえ死んで罪滅ぼしをすれば、他の者は幸せに生きていられると考え、夜明けとともに峠の松の木で、自ら首をつって果てたということです。

手紙が届かずじまいだということは、四、五日して、殿様にもわかりました。

この頃の掟では、殿様の手紙をなくしたりした者は、極刑にされることになっていましたので、武士なら打首、半兵衛さんは小者でしたが、見せしめのためもあって「鋸引きの刑」にされたということです。

峠で松から降ろされた死体に対してまで掟は取り行なわれました。峠に首だけ出して埋められた半兵衛さんの首を、通行人に鋸で、一引きずつ引かせて、首を切り落すまでやらせる罰を受けたのです。

それから毎晩、若生子坂を灯がちらちらとのぼりおりして、何かをさがしているようすが、大野から見られるようになったということです。

かわいそうに、さぞかし心残りだったろうに、半兵衛さんだけのせいでもなかろうに、初めから家来が入れ忘れたのかも知れないのに‥‥。麓の村人は声をひそめてささやき合ったということです。

そして必死にさがしてまわる半兵衛さんの霊魂を慰めるため、大きな石の墓を立てて供養したのです。

それでも、今も夏のむし暑い夜中に、天気がよいと、若生子坂を、半兵衛さんの火玉が、ちらちら、古い手紙をさがして、のぼりおりするのが見られるということです。

そして里では、田植えや田の草取りの時に、

  ~~裸半兵衛は若生子の坂でよー 夜の夜中によー 灯をともすー 灯をともすー

と、ものがなしく歌われています。

さて、半兵衛さんのことを裸半兵衛ということについてですが、これは若生子坂の峠にある墓が、ただ三米いや四米もあるような大石が、小石に埋まって立っているだけで、石の表にも裏にも横にも、何も書いてない裸石のままの墓なので、「裸半兵衛の墓」といわれ出し、いつのまにか半兵衛さんのことまで「裸半兵衛」と呼ぶようになったそうです。

この頃は罪人の墓は建てることが許されず、まして「半兵衛の墓」などと書くことは、とんでもないことでした。それでも麓の人々は、誰の墓とも知られぬように、役人の目を盗んで、あの大石を「よいしょ、よいしょ」と運んで、立派な墓を作って、知らぬ顔をして半兵衛さんの霊を慰めていたのです。

時折峠を通る代官さんも、知らぬわけはありませんが、黙って心で手を合わせて、足早に通り抜けたということです。

追記:『若生子村の生活圏と民俗』にも同一内容の伝説があるが、勘兵衛・半兵衛の二説あり。
語り 山内 清作(東山)
調査 関 哲樹
再話 杉本 正見


道斎の話

昔、下若生子と五条方の間で江戸公事(くじ・江戸で行なわれる裁判)があった。この公事には惚右衛門と甚左衛門と道斎の三人が行った。道斎は十六であったが、大変な知恵者であった。道斎は、みしろたみの(むしろのように編んで作った背袋。山村の作業では日常用いていたもの。)をかずいて行った。人相を見る人が道斎を見て、この公事にはきっと勝つだろうと言った。

公事で、五条方の者が、「若生子の若宮平は五条方のによば(薪をつんでおく場所)じゃ」といったので、そこは若生子のものだということになった。「若生子の」といったからである。また、道斎は、あらかじめ山を釣竿で測って間数を調べて行ったので、役人の前でははっきりと説明できた。役人が、「下若生子でも正月に餅をついて食うか」と言ったので、道斎は「正月には餅はつかん。暮れに餅をついて正月に食う。」と言ったので、役人は笑いながら書類に判をおしてくれた。それほど道斎は頭がよかった。この裁判で五条方に勝って、芦谷から楢原のこっち全部が下若生子のものになった。この公事に勝ったことを喜んで、八幡様の御神体を求めて村に帰りお祝いした。その神社が現在の八幡様であるということである。村では道斎の功績をたたえ、感謝の念をこめて三月二日、道斎祭りをしてきた。
山奥 巌 調査員の「山奥 父の昔話」よりと、ほぼ同一内容の作品。
出典 『若生子村の生活圏と民俗』
文 天野 俊也


桃木峠の一本杉

桃木の峠道は、昔は五か村の人びとの生活を支えるとても大切な交通路でした。

身なりも言葉も少々違う打波の人達を、村人は「山家の人」と呼んでいましたし、山家の人は、村へ出てくることを「里へ行く」と言っていました。

山の人が里へ出る時は、蒲で編んだ大きなたみの(背負い袋)を背負い、その中には里では珍しい、とち餅・栗餅・かち栗・稗だんご・山芋・ゆりなどでした。そして帰りには、米・もち米・塩魚・乾物など背負えるだけ背負って山へ戻るのでした。

行きも帰りもこの桃木峠を越すのです。そして誰もが一休みするのは、峠の一本杉の下の岩の上にきまっていました。

この峠の一本杉は、昔、蓮如上人が御巡行の途中、金山から杉の枝を杖にして登られて、打波の嵐という在所へお下りになられる時、峠で、今まで持っておられた杖を、逆さにつき刺して行かれたのが、いつの間にか根づいたのだそうです。それで枝が下向きに出ていますので「逆さの一本杉」といわれています。

あるとき、桜久保の大倉喜左ヱ門という人が、帯刀姿でこの休み所で休んだのですが、岩の上に脇差を置き忘れて帰りました。

ところが、次にここを通りかかった人達が、休もうとして岩に近づくと、岩の上に今まで見たこともない大きな蛇が、とぐろをまいていて、らんらんと目を光らせているのです。驚いた人々は恐ろしくなって、遠廻りして峠をやっとの思いで越していきました。

そのことが山家では大さわぎになりました。

忘れた大倉さんは、思い出して、急いで刀を取りに峠にもどって来ましたが、何の変わりもなく、脇差は置いたときのまま岩の上にあったので、直ぐに腰に差して帰りました。

それからしばらくたって、用事が出来たので、帯刀姿で峠を通り、金山、伏石を通って花房の下にある、樫の野から樫が壁という九頭竜川の上の岩壁道を、一人でとぼとぼ歩いていくと、不意に「おい、喜左ヱ門。喜左ヱ門の刀は、いい刀やなあ。でも傷があるな。」という声が聞こえてきました。

喜左ヱ門は、誰が話しかけてくるんだろうと、あたりを見まわしたのですが、誰もいません。「一人だと思って、天狗が威かすのだなあ」と思って空を見上げると、木の上で「あっはは」と笑う声がしました。日暮れ近くにもなっていたし、少々気味悪かってので、急ぎ足で勝山の町をめざしました。

いつもの宿に入り、夕食をすましてから、ふと、天狗の声を思い出して刀を調べて見ると、まぎれもなく刀の刃が、ほんのすこしばかりこぼれていました。そこで「ふふーん。天狗というやつは、こんなことまで判るんだなあー。」と感心してしまったそうです。

この大倉喜左ヱ門という人のことですが、仏御前などと同じように、平家の落ち人で、ともに北国へのがれてきて、上打波の桜久保にかくれ住んだ相当身分のある方だったそうです。

それから何代かたってからのことですが、あるとき急にお金が入用になって、里へ来て、伏石の茶屋で、金持の家を聞いて尋ねていき、この脇差を質にして、お金を借りて行きました。

その家の主人は、その刀を大切にして土蔵の長持ちの中へ入れてしまって置きました。

ところがある日のこと、金貸しのおかみが土蔵へ蒲団を出しに行き、長持ちの蓋を開けてみると、大長持一ぱいに大蛇がきらきら光っているではありませんか。驚いたって何って、土蔵から逃げ返って、気絶して倒れてしまいました。

妻の姿を見て、一大事と主人が早速土蔵に行って、長持を見ると、何のかわりもありません。

女きらいの刀だったのかも知れません。それからは家中の女どもは、誰一人土蔵へ行く者がなくなって、主人は大変困りはてたとのことです。

それで思案の末、お寺の住職に相談に行き、拝みだおして、その刀はとうとう寺で預ってもらうことになりました。

そのうちに、お寺で不幸なことがおこりました。大倉さんは出てこないし、みんなが困りはてているところへ、江戸から来たという広瀬清之助という上庄の人があらわれました。

江戸には刀鑑定師があるから、見てもらったらどうかというので、その人にもっていってもらって、寺でもやれやれ一安心と、みんな思ったのですが、その後名刀がどこかで消えてしまったというのです。今でもその名刀はどうなったのかわかりません。

世が移り、人がかわって、今は通う人もない桃木峠では、山道の淋しさが一層まして、風雪にただたえているのは、休み岩と峠の逆さ一本杉だけになりました。

一本杉は遠くからでもみえています。
語り・調査 山森 庄一
再話 杉本 正見


但馬守さん

木の本は大昔から開けた所で、笹又峠を通じて、美濃方面と越前との文化交流の中継点として栄えた村でした。

特に今から三百七十年前、越前福井の藩主松平秀康が、その家来加藤宗月に五千石を与えて治めさせ、その後七男直良(但馬守)に一万石を与えて治めさせた城下町でした。

今でも御殿町、荒子町、茶屋出、中村町、馬場、遊女等の地名が残っています。

城は春日山にあったが、何といっても一万石といえば最も小さな大名で、家来も少ないから行列をすると一番後尾の武士まで、先頭にいる人からはまる見えでした。そこで行列を長く見せるために、但馬守さんはわざと折れ曲がった道を作ったといわれています。

またこの殿さんは大へん踊りが好きな方だったので、盆踊りには村人と一緒に踊りの輪に入って、夜明けまでも踊りまくったそうです。それで「音頭とるなら、但馬にとらせ、但馬声よく場がしまる」と、みんなにはやしたてられたということです。
語り 高橋 亀太郎(木本)
調査 斉藤 賢太郎
再話 杉本 正見


庄屋さんの手

若いころから上荒井の庄屋をつとめて、村の事をとりしきってきた又右ヱ門さんは、自ら骨身惜しまず働き、人のためにつくす心の強い人でしたから、村人の信頼は厚くその評判は、ときの殿様の耳にもはいりました。

ある年のお正月、名君のほまれ高かった殿様は、庄屋達の労をねぎらうため、新年の祝賀会を城内で開きました。さて、その宴の最中、一人一人殿様の前に進み出た庄屋に、にこにことしてお盃を渡していた殿様が、中ほどに前へ進み出た又右ヱ門をじーっとみておられ「又右ヱ門、そちは人のため骨身を惜しまずよく働いているそうじゃが、ちょっと手を見せてくれ。」又右ヱ門は、おそるおそる両方の手を前に差し出しました。「ほほう、これは大したものじゃ。」殿様は感心してその手をよく眺めてギュッとにぎりしめました。

それもそのはず、又右ヱ門の両手は、高く節くれ立った大きな強そうな手だったからです。「皆の者、よーく聞け。又右ヱ門は村人の先頭に立ってまことによく働く。この手が、そのしるしじゃ。よってそのほうびとして、大小御免(大小の刀を武士のように差して歩いてもよいこと)を命ずる。』と大声で言い渡しました。

その頃は、百姓で大小御免となると、破格の栄誉だったのです。又右ヱ門は、感激して上荒井へ帰りました。それからも一層仕事に精を出して、その家も村も栄えたということです。
調査 本多 良三


山寺の和尚さん

むかしむかし、ある山寺に和尚さんと小僧さん二人とが住んでいました。

ある日のこと、檀家のほんこさん(報恩講)に行った和尚さんは、たくさんのお餅をもらって帰りました。その和尚さんどうしたことか、小僧にはやらず、自分一人で、いろりで火をたきながら、熱い灰の中に餅を埋めておいて、焼けると、「フーフー」と灰を吹き、「ポンポン」と叩いて灰をはらい落として食べていました。それを見ていた二人の小僧さん、「今もらえるか、今もらえるか」と待っているのですが、ちっとも和尚さんから声がかかりません、そこで、二人の小僧さんは何んとか餅を食べる方法はないかと知恵をしぼりました。「和尚さん、和尚さん」「ほうお、なんのことじゃいな。」「私達をこれから、フーフとポンポンと呼んで下さい。」と頼んだのです。妙なことを言う者だなと和尚さんは、思われたのですが、「よし、よし、お前らの望み通りにしてやる。」といわれました。

翌朝、二人の小僧は、外の掃除をしながら、今か今かと耳をすまして待っていると「フーフ、ポンポン」と言いました。二人の小僧は、寺の中へ飛んで入り、「和尚さん、何かご用ですか。」「いや、お前らを呼んだ覚えはないぞ。」「でも今、フーフーポンポンと聞こえましたので‥‥。」「いやはや、お前らの策略には負けたぞ。」と、それからは、仲よく三人でわけあって食べたということです。
記録 松島 清
再話 禅定 智子


義農吉右ェ門地蔵の話

昔、大野藩に、吉右ェ門という家がありました。大野藩の財政が苦しかったのか、役人が私服をこやしたのか、年貢米をおさめるとき、大升といって、ふつうよりも大きいますを使って農民を苦しめました。どんなに余計に米を持って行っても、不正の升にはおよばず、みんな泣き泣き、苦しい思いで耐えしのんでいました。

ある年、これに耐えかねた吉右ェ門は、直訴を決意しました。もちろん、自分が打ち首になることは覚悟の上でした。苦しい思いをしている藩内百姓のために、自分一人は死んでも、村の多くの人が喜んでくれれば、本望だったのです。升を背にして江戸へと旅立っていきました。花山峠で一休みして、大野盆地の青々とした一面の田をじいっと見まわしました。なつかしいわが家も、もうこれで見おさめになるのだと、悲壮な思いをかみしめていました。村の人々も、みんな言うに言われん思いでした。

江戸に着いて、どのように訴えたのか、いろいろないきさつがあったのか、このことについてのお裁きが受けられることとなったのです。吉右ェ門は、いろいろ百姓が困っていること、升のことなど申し上げたところ、その真意が通じたのか吉右ェ門の申し立てが認められて、裁判は吉右ェ門の勝となったのです。

喜び勇んで、帰路についた吉右ェ門は、再び花山峠でみる大野盆地の青田、なつかしのわが家、なにか生気がよみがえったように感じられたそうです。

そのころ、江戸表では、裁判では吉右ェ門の申し立てを認めたものの、大野藩では吉右ェ門を殺すだろう。それでは、百姓のためにやってきた吉右ェ門の心情があわれだと思い、「吉右ェ門を殺すな。」の書状を使者に持たせて大野へ飛んでいかせたそうです。一方吉右ェ門は、なつかしいわが家へ帰り家族と共に無事を喜び合ったのです。

ところが、こころよく思わないのは、藩の役人達です。一介の百姓に負けたとあっては、面目がありません。今後の見せしめにも、処刑にしなければと協議の末、吉右ェ門を処刑することに決めました。何日か後、吉右ェ門は呼び出を受けて出頭し、いろいろと責められました。

そして、最悪の時が来ました。村の小さなお宮の境内で、ついに一命を落とされたのです。ちょうどその時刻、江戸からの使者が、「吉右ェ門殺すな」の書状を持って、花山峠まで来ていたのです。もう一日使いが早かったら、処刑が一日おそければこの悲劇はなされずにすんだであろうに‥‥。

しかし、これによって百姓はその後大いに助かったということです。吉右ェ門の霊をなぐさめるためか、「吉右ェ門地蔵」という地蔵さんが、中荒井の共同墓地に今も安置されています。

この話は、お殿様にえんりょしてか、秘かに伝えられていて、知る人も少ないようです。
語り・調査 松島 清


屁売りじいさん

むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいたんやって。おじいさんは山へ薪(たきもん)をしに行ったんやって。おばあさんが朝御飯のあとかたずけをしていたら、「あらー、おじいさん、べんとう忘れていった、持って行ってあげんならん。」といっておばあさんは、山へ行ったんにゃって。おじいさんは、一生けん命薪をしているんでおばあさんは、「おじいさーん、この木の枝へべんとうつっておくでのう。」おじいさんは「なんとも(ありがとうの意・何分にも、まことに。)」と言いながら仕事をしていたんやって。

山のすずめたちが、「あれ、なんだろう。」とおべんとうのところへ集まってきたんにゃって。そしてあっちつつきこっちつつきしている間に、結び目がほずけて、おべんとうが落ちたんやと。そこですずめは、喜んで「ごはんだ、ごはんだ、チュンチュン」と食べたんやと。

おじいさんがお昼になったので「どーれ、飯にしょうか。」とおばあさんが、かけておいてくれた木の下まで来たら、すずめのクソやら、羽根がまじったおべんとうが落ちていたんやって。おじいさんは仕方がないんで指先で羽根やら、クソをのけて、ご飯を食べたんやと。

そして木のかげで休んでいたら、うとうとと眠とうなって寝てしもうたんやって。そしたら、おしりがむずむずしてきたと思ったら、

~~スズーメ ヘンゴロ ヘンゴロ チンチョン パラリンショ ソノジャッコン ジャラリンショ

とおもしえ、屁が出たんやって。これはおもしえ屁や、おばあさんに聞かしたろうと、急いで山から帰って来たんやって。「おばあさんや、おばあさんや、うら、とってもおもしえ、屁が出るんにゃ。ようきいておれや。」

~~スズーメ ヘンゴロ ヘンゴロ チンチョン パラリンショ ソノジャッコン ジャラリンショ

「おじいさん、なんたおもしえ屁やの。おじいさん屁売りに行ってきたら。」「そうやなあ。屁売りにー。それはおもっしょかろう。ほんだ、屁売りに行ってこーわい。」

おじいさんは、町へ行って、「屁売りー、屁売りー。」と大きな声で呼ばりながら、大道の方へ行ったんやって。向こうから、お殿様の行列が来られて、「屁売りー、屁売りー。」の声を聞かれて、おすみをあげられ、「じい、屁売りと言ったな。これは面白い。わしの前で屁をこいてみよ。」おじいさんは、かしこまって、

~~スズーメ ヘンゴロ ヘンゴロ チンチョン パラリンショ ソノジャッコン ジャラリンショ

「これは面白い、これは面白い、もう一ぺんこいてみよ。」

~~スズーメ ヘンゴロ ヘンゴロ チンチョン パラリンショ ソノジャッコン ジャラリンショ ジャラリンショ

お殿様は、「これは大変面白かった。ごほうびをやるぞ。」と言われ、おじいさんはたくさんの小判をもらって、喜びいさんで家へ帰り、おばあさんに見せていたら、となりのじいさんが、これを見て、「どこでそんなにもろてきたんやいの。」「屁売ってもろうてきたんや。」っていうたんやって。

となりのおじいさんは、あわてて家へ帰って、「ばあさん、飯をうんとたくさんたいてくれ。」「おじいさん、なんでやいの。」「うん、どうでもよい。はよう、はよう。」といって、おばあさんに御飯たかせたんやって。御飯をたくさん食べたとなりのじいさんは、「屁売りー、屁売りー」とまねをして大通りを歩いていたんやって。

ところが、そこを通られたお殿様が、「おう、屁売り、買うてやるぞ、一つこいてみよ。」と言われたので、じいさんは「ウーン」ときばったんやって。すると「ブーッ。」と大きな音といっしょに、くさーいくさーい屁をこいたんやって。お殿様は顔をそむけながら「もう一度こいてみよ。」と言われると、となりのじいさんは、「ブーッ、ブーッ。」とくさいくさい屁をこいたんで、お殿様は「無礼者」といって大変おこられたんやと。これでおしまい。
語り 堂下 まさの(田野)
調査 榎 しずを


カキテンナとスキテンナ

むかし、西山のだんなはんに、二人の奉公人がいたそうな。一人は、百姓の手伝いをする、「次松」というじいさまと、もう一人は、「おなつ」という子守りをする女の子がいたそうな。じいさまというのは、そのだんなはんの家に何年も何年も奉公しているにゃけど、それはそれは忘れん坊で、今言われたことでも、すぐに忘れてしまう、忘れん坊の名人で、「お前はあかんやつやなあ」といっておこられていたそうな。それにひきかえ、子守りの「おなつ」は、よう気のつくかしこい娘やったそうな。

あるとき、そこの家のだんなはんが、「おーい、次松や、もうじき春やで、田の代かきのなわと、田すきのなわを、のうて(なって)おけや。毎年のことやで、分かってるじゃろな。」「へーい、知ってえんす、知ってえんす。」といって次松は、わらをもって、土間へ下りたそうな。石の上で木づちを使って「トントン、トントン」とわらを打っているにゃそうなけど、さっきだんなはんから言われたなわの長さが気になって気になってどうにもならなんだそうな。「知ってえんす、知ってえんす。」と言うたさかえ、「もう一ぺん教えておくんねへん。」て言えば、「お前は、あかんやつやなあ。忘れん坊の次松は。」というておこられるに決まっているし、と弱り切っていたそうな。

そこへ、外(かいど)から帰って来た「おなつ」が

~~カキテンナ(代かき用のなわ)というものは、二ひろ一尺 ベロロンナァ
  スキテンナ(田すき用のなわ)というものは、三ひろ一尺 ベロロンナァ

と子守歌を歌いながらお庭を歩いていたそうな。「さすがおなつは、かしこい娘じゃ、よく気のつく子じゃ。」と、だんなはんは感心して、「おなつ」を息子の嫁にもろうたそうな。そして、とても幸せにくらしたそうな。
語り 山内 清作(東山)
調査 関 哲樹
再話 禅定 智子


夢とり物語

むかし、あるところに二人の乞食が住んでいたんにゃと。

ある日のこと、この二人が物乞いの旅に出たところ、よう弱ったので、昼寝をしたんにゃと。ところが一人はいびきをかいてぐっすり寝たんにゃけど、他の一人は寝られんので、うとうとしていたんにゃと。

すると一匹のハチが、どこからかしらんが飛んできては、寝ている人の鼻の中に入っては、どこかへ飛んでいくんにゃと。しばらくすると、ハチがまた飛んできて、鼻の中に入るんにゃと。「あらっ、ハチがおもっしょいことをやるわい。」と見ていると、寝ていた人が、ぽこんと起きて、「あー、よう寝た、おもっしょい夢をみたわいや。」というので「どんな夢を見たんにゃ。」と尋ねたら、「お前な、どこかしらんが、金がめが埋んであるんで掘ろうとするんにゃけど、どうしても掘れんのや。」というんにゃと。

それを聞いた寝なかった男が、「あ、これじゃな。しめた。」と思って、夢を盗ったろうと考えた。

鼻の穴に出入りしたハチの行方を探したら、何かあるに違いないと思ったその男は、「うら、もう物乞いするのがいやになったで、他の仕事をしたいと思うで、このへんで別れようか。」「そうか、なんたさびしいことを言うんにゃ、この仕事は、おもっしょい商売やけど、オイジュウ(お前)がそう言うんなら、ほんなら、うら一人でしょうまいこ。」と別れたんにゃと。

別れたあと、鍬を持ってきて、ハチの行方を探したんにゃと。ほったら、ハチのいる場所が分かって、そこを掘ったら、かめが出てきたんにゃと。ふたを開けたら、小判がいっぱいつまっていたんにゃと。「これじゃった。しめた。」と、これをもとでに富山にきて「きぐすり屋」を開いたんにゃ。これがあたって富山では、えかい薬屋になって丹那はんになってしもうたんにゃと。

片っぽうの男は、やっぱしまだ物乞いしていたんにゃの。流れ流れて、富山で物乞いをしていたら、その男と行きあうたそうな。「あら、珍らしいとこで会うた。お前、まだそんなことをしているんか。まあちょっと家にきて休めや。」と言って薬屋の家につれてきたんにゃと。「うらは、こういうぐわいに、お前の夢を盗って金がめを掘り出して、それのおかげで、えかい財産にしたんにゃ。」と今までのことを一部始終話したんにゃの。お茶を飲みながら、その話を聞いた物乞いの男が、「ほんなら、せめてそのかめでも見せてくれんかいの。」と言うんで、そのかめを見せてあげたんにゃと。その男、かめを眺めながら、あっち返し、こっち返し眺めていると、その底に、「まだ二つある」と書いてあるのが、その男には、読めるんにゃと。

そこでその男は、「それはそうとお前、どこでこのかめを掘りじゅくりしたんにゃ。」「ん……。あれか、ほれお前と昼寝して別れた場所の近くで、東へ十二、三間離れたところや。行ってみると掘った跡があるでわかるはずや。」「そうか、そんなら、うらも行って見てこうや。」といって、丹那はんの家を出ていったそうな。

別れた男は、言われたとおりに、その場所へ行ってみると、掘った跡があったそうな。さっそくそこを掘ってみると、かめが二つ出てきたそうな。ふたを取ってみると、"あるわ、あるわ。出るわ、出るわ。"大判小判が、どっさりー。

そこで、その男も富山に出てきて、かめの小判をもとに"キグスリ屋"を始めたそうな。この物乞いの男は、"オモヤ、アヂチ(分家)"の仲で、今でも富山で薬屋をして繁盛しているそうな。
語り 加藤 きさ(篠座町)
調査・再話 山奥 巌


私が雨

むかしむかし、阪谷の村で蚕さんを飼っている家があったそうな。あるとき「蚕ちんも、けっこうえこう(大きく)なったで、上の畑の桑のおぞ(その年に出た若芽をもった枝)を丸ごき(葉を全部とること)してきたほうがええのう。」「ほんでもきょうってな暑い日は、夕立がくるかも知れんでよー気つけなあかんざ。何かちゅうと雷が落ちて、ひでえ目にあうんにゃで……。」とおっ母が言ったそうや。ほいたら(そうしたら)、それを聞いていたお父っあん(おつっあん)が、「うん、本当(ほんど)にそうや。こんだ(今度)うらんどこ(私のところ)へ落ちたったら、ひっつかまえてひでーめにあわしてやるでな。」と言って、出かけていったんにゃと。

ほいて、しばらくしたら、案の定昼からの三時頃になったら、むし暑くなってきて、にわかに雷雲が、むくらむくらと出て来て、雷が鳴り出したんにゃと。「こりゃーいかん、早うこいで帰ろう。」とお父っあんが、ひとり言を言って一生けん命桑のおぞをこいでいたんにゃと。ほいたら、だんだん音が、えこう近うなってくるし、えかい(大きい)雨が降ってくるんやし、ピカピカと目もくらむほんな(ほどの)まぶしい稲光りがして、しゃがもうとしたら、「どっしゃーん。」と、それはそれは、えかい物の落ちる音がしたんにゃと。

しばらくしたら、何やら泣くような声がするんで、後の方をふり向いたら、十間ほど離れたところへ雷が落ちたんにゃ。落ちたひょうしに、桑の木のおぞで目をついたんで、「あ痛たあー、あ痛たあー。」と泣いていたんにゃと。それを見たお父っあんが、すぐにかけ寄って来て、「ようし、われ、今までさいさい落ちゃがって、めいわくばっかかけやがった、今度ちゅう今度は、見つけたぞ。もうかんべんせん。今そこな、えかい木に引っくくってやろ。」と、そばにあった荷縄でしばりつけたんにゃと。

しばらくしたら、雷が「どうか、うらが悪かったんにゃでかんにんしておくれ、もうここへは、二度と落ちんさかい。お父っあんの言うことは、なんでも聞くさかい、どうかかんにんして。」と泣いて頼んだんにゃと。そこでお父っあんは、「そうか、ほんなら、もう今度から絶対に落ちんか。落ちんという約束に、ここらは、夏になると水がのうて、じきにかんばつになって作物がとれんので悪いんにゃ。ほんで、何とかして水をくれるんなら、かんべんしてやってもいいが……。」というたら、「なーんや、そんなこたやすいことや、もっともっとむつかしい頼みごとかと思った。そんなことなら、のぞみ通りにするで、どうか助けておくれ。」と手を合わせて頼んだんにゃと。すると、お父っあんが「そうか、その頼みを聞いてくれるんなら放してやろう。」と言って、やっと縄をほどいてやったんやと。雷は、何度も何度も、わびやら、お礼を言って帰って行ったそうや。

それから、もうそこは、いくら雷が鳴っても、落ちんのやし、夏のひでりには、三日ほど立つときっと夕立が来て、雨が降るんにゃと。そんで、そこは、私が雨って言うようになったそうな。
語り 松井 わた(阿難祖地頭方)
調査 松井 輝治


さんまいの杭

むかしむかし、ある所に、年頃の揃うた若い衆が大勢いる村があったそうな。

あるとき、その若い衆が集まって度胸だめしをしようということになったそうな。そこでその中の一ばん知恵者の米松どんが案を出したそうな。「夜中の一時に村のさんまいへ行って杭を打って帰るのはどうやの。」「ん、そりゃおもっしえ、やろやろ、やろまいか。」と言うて、みんなは賛成したそうな。村のさんまいというのは、村はずれの淋しい山の中にあるんにゃと。

十人ほどの若い衆が"じゃんけん"をして負けたもん順に杭を打ちに行くことになったそうな。その中の一人、三郎どんが一番先に行くことになって、さんまいのある山へ登っていったら、背筋がゾクゾクッとしたかと思ったら、何かが、うなじをなでるんたなんやって。「キャーッ。」といって杭も打たんと帰って来たんやて。

二番目の末吉どんが「うらにまかしとけ。」というて力んで出て行ったんにゃけど、生ぐさいもので顔をなでられたゆうて、真青な顔して帰ってきたそうな。勝平どん、梅吉どん、加助どん、半兵衛どんと続いて行ったんにゃけど、みんな顔をなでられたり、首筋をなでられたりして帰ってきたそうな。「カア、カア、カア」からすまで鳴くんで、おとろしがって、後も見んと走って帰ってきたんにゃと。

七番目の平助どんが「みんな、なんた弱虫なんにゃ。うらにまかしとけ。」と力んで出ていったそうな。ところが待てどくらせど、なかなか帰ってこんので外の者が心配して、みんなで見に行ったそうな。平助どんは、杭を持ったまま倒れているんにゃと。「オーイ、オーイ、どうしたんや、平助どん、平助どん。」と大きな声を出して肩をゆさぶったら、やっと気が付いたんにゃそうな。

腰が抜けて歩けんという平助どんを、みんなで引っ張ってこうとするけどどうしても動かんので、よう見たら自分の着物をはさんで杭を打ったんで、誰かにつかまえられたんかと思うて、気絶していたんにゃそうな。
語り 多比良 すみえ(水落町)
調査 斉藤 文子
再話 禅定 智子


度胸だめし

昔は、若い者(もん)が、夜さりになると、たまり宿に集まってきて、おそうまでわいわいと、四方山話をしてたのう。そしておちは、いつも村のいい娘の話か、度胸(きも)だめしになったもんやった。

そんなある晩。「どうや、一つ度胸だめしを、しよまいか、な。」「よしや。」「よかろう。」「度胸のある奴あ誰じゃ」と、いうことになったや、と。

そして「ほんな、三郎(さぶ)は、したんかちの三昧。寅松(とら)は本村の三昧。松吉(まつ)は森本の三昧。竹造(たけ)はお寺様(はん)の裏の昔若い後家様(はん)が首吊った大欅の下。岩次(いわ)は助八の婆のだまされた大川(九頭竜川)の青石の上」と、それぞれに行先をきめたと。

それから行先へ確かに行って来た証拠に、自分の名の一字を墨で書いた石を、持ってって置いてくるんにゃぞと約束したんにゃと。

夜中の十二時も過ぎ、月も、星もかげったころになったので、一人また一人と、五、六分も間を置いて、「ほんなら、な。」と出かけて行ったんやと。

寅衆は一番臆病者やったが、本村の三昧は近いでちゅうて、一番最後に出発したんやって。みんなは、から元気でも堂々と出てったんやし、行けなんだら明日どんな恥ずかしい目に合わんなんか知れんで、と、人一倍元気を出して大声で、「出かけてくるぞう。」と言って、走るようにして出ていったんやと。

ところが、寅衆の元気は途中で、すうっと抜けてしもうて、止めよう止めようとしても、ひとりでに全身が、ぶるぶるとふるえて、ふるえがとまらんし、歯ががたがた音立てるんやって。それでも後を向いたり、横向いたり、目をつぶったりしては、「何でもない」「何でもない」と、心にいい聞かせて、一歩一歩踏みしめるようにして前へ足を出してたんやと。その中になんか自分の足音が他人のようで、こわくなってきて、そうっと、そうっと、まるでいざっていくように、腰までかがめて歩いて行ったんやと。そんなことしても、どうやら三昧のそばまでは行ったと。

そしたら三昧の中で、青い火やら、赤い火やらが燃えているのが見えたんやと。それを見たとたんに金しばりにあったみたいで、もう足がすくんで前へ出んのやって。止まったらよけい恐ろしなって、へなへなとそこんとこへ座ってしもうて、はあはあと、息づかいまではげしくなってきて倒れかかるんやと。

それでも、ほうてでも三昧の中へ入っていって石を置いてこんと、「男の恥や」。「女みたいな臆病者(もん)」といわれてはと、気があせるんやって。「わしは男やぞ」と思いなおして、やっと立ち上がって一寸見ると赤鬼と青鬼が、何か焼いて喰っているみたいやったんにゃって。「きゃっ」というてそのままぶっ倒れてしもうたんやと。

しばらくしたら、「寅衆」「寅衆」と呼ばって、肩をゆする者があるんで、気がついてみたら、それがさっきの青鬼やったもんで、なおさら「きゃーっ」というたきり失神してしもうたんやと。

その鬼やと思うた人は、孫八の留さんで、いつもずたもち(ぜんそく)やったんで、ずたの人は、三昧の火で何じゃらを、あぶって、喰うと、ようなるっていうんで、その日も夜中に、こわごわ、あぶって喰うとったんやと。

度胸のない者たら、自分で、勝手に、驚いたりこわがったりして、のびてるんやのう。おしまい。
語り 川端 ふた(松丸)
調査 山本 広慧
再話 杉本 正見


おげん・こげんの栗拾い

むかしむかし、「おげん」という姉娘と「こげん」という妹娘がありました。姉のおげんは、まま子でした。

ある日のこと、おっ母が、「栗拾いに行ってこい。」と言って姉のおげんには、穴のあいた袋を、妹のこげんには、穴のない袋を持たせました。

二人が山へ行って栗を拾っていましたが、姉のおげんは、いくら拾っても拾ってもいっぱいになりません。袋にいっぱい拾った妹のこげんは、「アンニャン、もういっぱいになったで帰ろう。」というのですが、おげんの袋には、ちっともたまっていません。おげんは仕方がないので、「お前先に帰っておくれ。」といい妹を先に帰らしてしまいました。

だんだんと日も沈み、暗うなってきたので、さびしくなったおげんは、シクシク泣いていました。

そして、しばらくすると、「そこにいるのは、何者じゃ。名を名のれ!」びっくりしたおげんは、声のするほうを見ると、白髪の老人が立っていました。この老人はこの山に住む仙人だったのです。

仙人は、おげんを可愛そうに思い、腰を下ろして、「わしのひざの上にのれ。」といわれました。おげんは、「もったいのうて、何でのられましょう。」「まあ、のれ。」と言われるので、おそるおそるひざの上に腰を下ろしました。今度は「わしの肩にのれ。」と言われるので、びっくりしたおげんは、「もったいのうて、何でのられましょう。」と言うと、またも「まあ、のれ。」と言われて、またおそるおそる肩の上に上りました。仙人はそれからなお、おげんの一部始終を聞き、可愛そうに思われ、たくさんの品物が入れてある大小二つの袋を出されました。おげんは小さいほうの袋をもらって帰りました。

家では、おっ母や、こげんが、おげんの帰りを待っていました。やっとの思いで家に着いたおげんは、今までのことを、母や妹に話して聞かせました。仙人からもらった袋を開いてみたら、栗やまったけなど山の幸がいっぱい入っていました。

この話を聞いた欲の深いおっ母は、今度は妹のこげんに破れた袋を持たせて山へ行かせました。あたりが暗うなったので、シクシク泣いていると、「おや、そこにいるのは何者じゃ。」「おげんこげんの栗拾い……。」と、いろいろお話をしたところ、「わしのひざの上にのれ。」と仙人から言われたこげんは、「アンニャンさえのったのに、のらないでどうしょ、」と言ってのりました。そしたら、「肩の上にのれ。」と言われるので「アンニャンさえのぼったのに、のぼらないでどうしょ。」と言って肩の上にものぼりました。そして帰りがけに、小さな袋と大きな袋を出され、「どちらでも好きな袋をくれてやるぞ。」と仙人から言われました。欲の深いこげんは、どうせもらうなら大きい方が得だと考えて、大きい袋をもらってやっとかずいて帰ってきました。

家では、おっ母が、こげんの帰りを待っています。大きな袋を持ったこげんの姿をみて「お前は、えかい(大きい)袋をもろうて来たんか、えれえ(えらい)やつや、えれえやつや。」とほめられて袋を開けてみると、でてくるわ、でてくるは、木のこっぱやら、石くた(ごみ・くず・あくた)やら、木の葉っぱやら、おまけに、みみずやら、蛇まで出て来たんで、怒ったおっ母は、外へ放り投げてしもうたんにゃとーー。

あんまり欲が深いと、あかんそうな。
語り・調査 松島 清
再話 禅定 智子


藤兵衛はんの鼻

むかし、藤兵衛はんという人が、ある村におったっそうな。その人は、ここらへんにない美男子やったそうで、早うから、嫁さんの話がいっぱいあったんで、それはそれは、美しいお嫁さんをもらったそうな。

ところが、藤兵衛はんには、悪いくせがあって、ばくちを打つは、女遊びはするは、どうもこうもならなんだそうや。しまいには、田んぼや畑を売るわ、家、屋敷まで売るわで、嫁さんもいれんようになって、出て行ってしもうたそうや。そこで藤兵衛はんは仕方がないので、江戸へ行ったそうな。

江戸へ行ったかって、そんなに楽なことはない、年をとってから、江戸では暮らせん、どうんならんというて帰ってきて、村に小さな小屋を建てて住んでいたそうや。ところがその藤兵衛はん、いつみても耳から耳へひもをかけて、鼻んとこは布で、ノーレンをつっておったんやと。

ある日のこと、村の子供たちが、藤兵衛はんのところへ行って「藤兵衛はん、鼻みせて。藤兵衛はん、鼻みせて。」と言うと、「あほ言うな、お前らに、この鼻はちょっとやそっとでは見せてやれんのじゃ。」と、村の子供たちを追いかえしてしもうたそうや。次の日も、子供たちは「藤兵衛はん、鼻みせて。藤兵衛はん、鼻みせて。」と言うていったら、「まだ、坊らはそんなことを言うんか、あほうやな。この鼻は、ただでは見せてやれんのや……。」と言うたそうや。そこで子供たちは、「ただでは見せてやらんと言うたけど、何を持っていったらええかのう。」とみんなで考えていたら、中で一番はしかい子が、「うら、ままのあっぽ(おにぎり)持ってくー。」と家へ飛んで帰ったそうや。そしたら、「うらも、うらも……。」というてみんな帰ってしもうたそうや。

家へ帰って、ままのあっぽを作って来た子が、藤兵衛はんの家へ集まったそうや。家にままのなかった子は、米を盗んで来て、そーっと後にかくしていたそうや。藤兵衛はんは、「さあ、よー見よや。よー見るんにゃぞ。」と言うて「一、二の三。」で鼻のノーレンを取ってみせてくれたそうや。そうしたら、おもっせいって、おもっせいってあんなおもっせい顔は見たことがないといって、みんなは、転ばって笑うたそうや。それもそのはず、鼻んところに二つの穴があいているだけで、猿みたいな顔やったそうな。

藤兵衛はんは、江戸へ出て遊んでいるまに、鼻がくさっていく悪い病気にかかって、若いときの高い鼻が、みんなのうなってしもうて、今は、あんなおもっせい顔になってしもうたんにゃそうな。
語り 岸本 京吉(松丸)
調査 山本 広慧
再話 禅定 智子


蕨生わらびよのさんまい

むかし、唯野の在所に、山師というて、山の木を売ったり、買うたりしている人があったそうや。その人は清兵衛さんというて、けっこうえかい山師やったそうな。その人は、いつも、夕方暗うなってからしか、家へ帰ってこんそうや。

清兵衛さん、「今日もおそうなったわい、早う帰らんとおばあさんが待っているじゃろで……。」と言うて、蕨生(わらびよ)のさんまいの所を通りかかったそうや。そのじぶんのさんまいは、木がいっぱい生えていて、みるからに、こわそうやったそうや。清兵衛さん、ちょっとさんまいの方を見たら、ちょろちょろと、火がもえているのが見えたそうや。「ありゃ、おかしいなー。」と思って立ち止まったら、火は消えたそうや。「ああ、もう消えてしもうたわい。」とおもって、また歩き出したら、ちょろちょろと火がもえていたそうや。「どすむじなめ!火をたいているな。」と清兵衛さんは、思うたそうや。今度は、いくら歩いていっても、歩いていっても火が見えるんで、「よーし、むじなめ、こっちもやったるわい。」といって、持っていたたばこ入れから、きせるを出して一ぷく火をつけて、「ぷかー、ぷかー。」とふかしたそうや。そしたら、不思議とその火も消えてしもうたそうや。

それからの清兵衛さん、けもの道を歩くときは、いつもくわえたばこをして道を歩いたそうな。
語り 川端 タツ(蕨生)
調査 斉藤 文子
再話 禅定 智子


とんかす

昔、西谷村の下秋生という部落に、年の頃は二十四、五ばかりの若者が、老父と二人でくらしていました。とても度胸のよい若者で、お化けも幽霊も、熊も、猪も何一つ怖いものはなかったそうな。ふだん村の若い衆とはあまりつき合わなかったが、村でこまったことがあるといつも頼まれていました。

父は三年前から何ともわからない病気にかかって、寝た切りの毎日でした。若者は大変な孝行者で、病気の父親を看病しながら、山の木を切ったり、炭焼きをしたり、野良仕事をしたりして、ほそぼそと暮らしをたてていました。

この部落では、三年前から火の玉が出たり、夜中に変な鳴き声が聞こえたりして、村人が安心して眠れない日がつづきました。村の若者達は毎晩不寝番を立てて、村の警戒に当たりましたが、いっこうに治まる様子もなく、若者達は、疲れ果ててしまいました。

そこで、一同は相談して、とんかすに頼むことにしました。とんかすは、父の看病があるので、ことわりましたが、「お父さんは我々が、みんなで看病するから、ぜひたのむ。」と言われて、仕方なく引き受けました。

夜になってとんかすは、火の玉が出る村の「さんまい」に出かけました。腰に「なた」を付けて、八町(一町が約百米)ばかり離れた「さんまい」へ行く道を二町ばかり行くと、後から死人の棺を担った村の若者が「ぎっし、ぎっし」音をたてながら近づいてきました。とんかすを見付けた若者達は、「おーいとんかす、お前さんまいへ行かんと、早く家へ帰れや、お父っつあんの容態が変わったから、早く帰らんと手遅れになるぞ。」と言って通り過ぎて行きました。

とんかすは「一たん引き受けた火の玉退治だから、何が何でも約束は守らなければならない」と、そんなことには耳もかさず、すたすたと「さんまい」に向って歩きつづけました。また三町ばかり行くと、若者達が数人後ろから追いかけて来て、「おーいとんかす、早く家へ帰れ、お父っつあんが危篤だぞ。」と言って「さんまい」の方へ走って行きました。

とんかすは、たとい何が起ころうと、何と言われようと、約束だから、迷うことなく「さんまい」に向って歩いていきました。「さんまい」に着くと、死人の棺を立てて、まわりに若者がさわいでいました。「おいとんかす、わしは忘れ物をしたので、家に行ってくるから、代わりに棺の番をしていてくれ」と一人が言いました。次の一人も同じようなことを言いました。一同が次々と同じようなことを言って、一人去り二人去り、すっかり帰ってしまいました。

火葬場の脇には、枯れた杉の木の大木が暗い空に、不気味にそびえ立っていました。「ガタン」と音がして、死人の棺が倒れました。すると棺の口が開いて、死骸がむっくり起き上がって、とんかすの方に向かって歩き始めました。「ガタン、コトン、ガタン、コトン」死骸が近寄ってきました。とんかすは驚いて大木の根元に行き枝を一つ上がりました。死骸が近づきました。手が届きそうになったので、又一つ枝を上りました。死骸も一段上りました。そうして、とんかすと死骸は一段一段上って最後の枝になってしまいました。いよいよ死骸の手が、とんかすの足に届きそうになったので、とんかすは、腰のなたを抜いて、死骸の頭に力一ぱい切りつけました。死骸が「ぎゃーっ」と鋭い声を立てて、大木の真下に落ちていきました。とんかすは下に降りて、星の明かりで死骸の落ちたあたりを見廻しました。すると死骸と思ったのは一匹の古い大狸でした。

大勢の若者達は、とんかすが出かけた「さんまい」のことが気がかりなので、恐る恐る「さんまい」に近づいて来ました。とんかすが突っ立っていて、何やら黒い大きなかたまりが足もとに横たわっているので、みんなはびっくりしました。そして、一同は、とんかすの話を聞いて、ようやく安心しました。

古狸を担って村へ帰る途中で、看病の若者に出会いました。「お父っつあんの病気が、さっきから急によくなって、座ってお話するようになった。」と知らせて来ました。みんな不思議だ不思議だと言い出しました。そこで床下を調べることになりました。お父っつあんの寝床の下の床板をはずして、縁の下を調べて見ると、そこに狸の寝床があって、三匹の小狸がいました。若者達は小狸を山へ追いやりました。

それからは、変な鳴き声も、火の玉も出なくなって、村人は安心して毎日のくらしが出来るようになりました。誰言うともなく「とんかす」は村の守り神だと言い伝えるようになりました。それきりべったりかっちんこ。
調査 岩崎 正


宝の梨の木

むかし、むかし、ある所に村で、一か二を争うお金持があったそうな。ところが親兄弟全部が、ばたばたと死んでしもうて、息子がたった一人ぼっちになってしもうたんやと。

屋敷もとっても広く、小鳥のさえずりをききながら、息子は毎日々々何もしないで、その親の残した財産で、楽に暮らしていたが、「座してくらえば、山をもむなし」の、例えのように、しばらくのうちに、すっからかんと、財産を食いつぶしてしもうたそうな。

気がつくのがおそかった。もう明日の食べる米もなくなってしまったそうな。それでどうしたらよいやろかと、考えこんでしもうたんやと。そしたらある夜、夢を見たんやと。先祖が「梨の木の根っこに、宝物を埋めたから、さがして見よ。」と言うたんにゃと。

息子が喜んで、朝早くから庭へ出て、背丈ほどの草木が生えているのを一年がかりでむしって、梨の木の根っこをほじったけんど、何も宝物は出てこんかったんやと。そやけど草をむしったお陰で、お日様の光をいっぱい受けて、梨や柿や栗が、たくさん実って、方々から買いにきたんやと。それで宝は出んかったけど、息子は、「これが宝や。人間は働けと言うことか」と悟って、それから一生懸命働いたので、元通り以上に子孫に、財産が残ったそうな。
語り 金子 正岸(篠座町)
調査 米村 恵美子


金のなる桑の実

むかし、ある村に大変なお金持が、あったそうな。けんど身内は、全部死んでしもうて、息子はたった一人に、なってしもうたげな。

その息子は働くのが嫌いで、なあもせんと、ブラブラしてて、親の財産を食いつぶしてしもて、大きな屋敷だけになってしもたんやと。

寝る家もないし、大きな桑の木の下で寝てたけど、腹はへるし「あヽ困ったなあ。何か食うものないかなあ」と、足をのばしたら、桑の木のツバミ(桑の実のこと。)がおちてきて、口の中に入ったら、とってもうまかったんやて。

それで息子は「足を動かしただけで、ツバミが口へ入るんなら、がんばって働いてみよう。」と考えて、桑で蚕をかって、朝暗いうちから晩おそくまで、一生懸命に働いたら、うんと財産家になったんやて。
語り 金子 正岸(篠座町)
調査 米村 恵美子


あほうな子

むかし、あるところに商人(あきんど)の子で、めっぽうあほうな子がおったそうや。その家は、茶やふ、それに栗、柿などの食料品を行商しておったそうや。

あるときのこと、親がその子に、茶と栗と柿とふを持たせて行商に行かせたんやそうな。その子は町を歩きながら、「チャクリカキヤフ、チャクリカキヤフ。」と一生けん命呼ばって歩いたけど、一つも売れなんだそうや。次の町へ行っても「チャクリカキヤフ、チャクリカキヤフ。」と呼ばって歩いたそうな。これを聞いた人も、何のことやらさっぱりわからんので、一つも買うてくれなんだそうや。

家へ帰って、そのことを親に言うたら、大そうおこって、「お前は、品物を別々に言うて歩かんで、だーれも買うてくれんのや。こんだは、別々に言うて歩け。」

親から教えられたその子は、「茶は茶で別々、栗は栗で別々、柿は柿で別々、ふはふで別々。」と声もはりさけんばかりに呼ばって歩いたそうな。それを聞いた人々は、「あの子は、別々、別々って何を言うて歩いているんにゃろのう。」といって、やっぱり一人も買うてくれるものはなかったそうな。それを聞いた親は、「なんた、あほうな子がでけたもんやろか。」というて、なげき悲しんだそうや。
語り 斉藤 くに(今井)
調査 斉藤 賢太郎
再話 禅定 智子


市太郎二話

一話 強な市太郎

むかし、今井の在所に「市太郎」という人が住んでいました。

この市太郎は、近郷近在では並ぶ者がないほど、総ての面で強かったので、人々は、「強の市太郎」と呼び、一目おかれた存在の人でした。例えば、巨大な体つきは見るからに強そうで、どんな百姓の重労働にも疲れ知らずの体力がありましたし、特に、きもっ玉の大きいことといったら限りなく、頼まれ事や難しい事にも屈せず気力で解決するのですから、人はその測り知れない度胸のよさに、むしろ恐れさえ抱くほどでした。

あるとき、荒島の天狗さんが、毎夜毎夜里へ出て来ては、にわとりを取っていったり、畑を荒らしたり、人をだましたりして困らせるので、人々は毎日何んとかならんだろうかと悩んでおりました。それを知った市太郎は、「一つ荒島へ行って、天狗を困らしてやろう。」と思い夜中めがけて荒島へ行きました。今か今かと待っていましたら、案の定天狗が出てきました。市太郎を見つけるといきなりうなじを持ってつまみ上げました。そしてつりがね谷の大岩の先に立って、「このおれ様にあやまらなんだら、この谷へつきおとしてやる。」というのです。さすがの市太郎もすっかりかしこまって、「どうか、かんねんしてくだされーい。」と平あやまりにあやまりました。

やっとの思いで逃げ帰った市太郎は、それ以来大分おとなしくなったということです。

二話 非情の市太郎

この市太郎には、親も嫁も子どももいないたったの一人ぐらしでした。家の近くの畑で、少しの野菜を作って暮しをたてていました。この市太郎「なんきん」を作るのが上手で、大きななんきん作りの名人でした。

ある時、隣りの五三郎に「なんきんを煮るので、煮たら呼ばってやる。」といったので、五三郎は、おいしいなんきんをごちそうになれるというので大喜びで待っていました。

ある晩方、市太郎は五三郎の家へきて、「なんきんを煮たでー。」と呼ばってきました。それで「ごちそうになりに来たでー。」と五三郎がくると、市太郎は、一人でおいしそうに食べるわ、食べるわ。そしていっこうに、「食べてくれ」と言わないのです。変に思った五三郎が、「食べさせてくれないのかい。」というと「なんきんを煮たら呼ばってやるといっただけで、食べさせてやるとは言わなんだぞー。」

さすがの五三郎もあきれはてて、すごすごとわが家へもどって行ったとさ。
語り 中島 甚太郎(五条方)
調査 斉藤 賢太郎


力持ちの治郎右ヱ門

地頭方の次郎右ヱ門という人は、大の力持ちでした。

当時力だめしには、「番持ち石」というのが使われていたのですが、これには、米一俵分の重さに相当する石を、「四斗石(60キログラムの石)」といい、また、米二俵分の重さにあたる石を、「八斗石」と呼んで、村の若い衆は、米の単位で名づけた石で、力持ちの腕くらべをしたものです。

この次郎右ヱ門は、その八斗石をゆうゆうと肩にかけてあたりを歩いたので、これを見て人々は驚きまた感心して、「この石は家へ持って帰ってもよい。」と衆議一決、次郎右ヱ門は、その石をおろさず休みもせずに、らくらくと自分の家まで運び、ありがたくちょうだいしたというほどの強力だったということです。この石は今もなおのこっています。
調査 斉藤 賢太郎


力持ち赤鬼とそのひ孫

今からかれこれ百二、三十年も前のこと、平沢に大へん強力な人が住んでいました。村の人々は、みんな「赤鬼」と呼んで、その力の強さに驚いたり、こわがったりしました。

何でも孟宗竹を、先の方から、素手で割りはじめ、根元までねじ割って、それで藁縄でもなうようにして、竹の縄を作ったということです。

その人が楢原に薪を作りに行くと、大きな丸太を束にして、大人の手首ほどもあろうという太さの藤の木で、くるくるっとしばって、山の上から転ばして落としたそうです。その丸太で、薪百二十束は出来たということです。

この男、ある時堀兼の河原から平沢まで十八町(千八百米)を、仕事の帰りに、二百五十貫(千キログラム)もある石を、ちょいと背負って帰ったということですから、まあ恐しい力持ちだったわけです。

この強力は血統をひいたのか、そのひ孫にも大へんな力持ちが生まれたということです。

このひ孫は、名を幸沢一郎右ヱ門といい、角力が強く、「大野関平野川」というのはこの人の醜名なのです。

角力を取りはじめてから、引退角力までまる五年間無敗を誇っていたそうです。誰一人土をつける者がなかったのです。

ある時、大阪相撲の力士「天堀」という関脇を相手に角力をとったのですが、力でねじふせて一方的に勝ったということです。
調査 関 哲樹
調査 斉藤 賢太郎
再話 杉本 正見


足も早いし力持ち

むかし、平沢に山本治作という人が住んでいました。伸長は五尺一寸(約百五十三センチメートル)ぐらいありました。

昔の米俵を四俵背負って、うつむいて川の水を杓にくんで飲んだというほどの力持ちでした。

石灰山の職人をしていた時には石灰石百貫(約三百七十五キログラム)を背負うて山からおりて来たといいます。しかしその時には足の親ゆびから血が出たということです。それほどきばった人でした。

あるとき大野町から福井まで、牛の子をつれて行く仕事をした事がありました。子牛は花山峠まで行くと歩かなくなったので、花山峠で一服して、今度は牛の子を背負ってつれていったということです。

この人は足も早くて、福井まで日帰りしたということです。

またある豪雪のときのこと、平沢から隣りの西山まで約四町(約四百メートル・一町110センチ)程離れてるんですが、雪が七尺(約二メートル十センチ)ぐらい積った時に、この雪の中を裸で「もぐら」のようにもぐって、雪の上には顔を出さずに往復したそうです。

どこまで行って来たか見ている者にはわからないので、平沢に一番近い西山の笹島の屋敷の杉の木の枝を手折って持ち帰って来て、それを往復した証拠の品にしたというのですから大変なことをした人でした。

この人は胃も人並はずれて丈夫な方で、甘酒三升(約五・四リットル)ならいつでも飲んだといいます。しかしその時にはさすがにわらじのひもは自分で結ばれず他人に結ばせたということです。
調査 関 哲樹


阿難祖あどその大印籠

むかし、阿難祖の在所に「大印籠」と呼ばれ身丈七尺(二百十センチメートル)余りの大男がいました。この男の持っている印籠の大きいこと、大きいこと、普通の人のは片手の上にのるくらいの大きさなのに、この大男のものは枕二箇を合わせたくらいで、大人二人が枕代りに出来るほどのとても大きな印籠を持っていた人だったそうです。

この大印籠はものすごい力持ちで、仕事は、西谷村の中島から笹又峠を越えて大野町へと荷物を運ぶボッカ(荷物を背負って運搬する人・歩荷)人足をしていました。

ある年のこと、大野の山王神社境内で「東京ずもう」が催されるので、この印籠もすもう見物がしたいので、いつもより早めに仕事に出かけました。背中に四分板(一・二センチの厚さの板)を二十坪(六十六uの面積分の板・大きい一教室の床板分ほど)かついで中島を出発して、笹又峠越えをして大野へと急ぎました。

すもうが気になり、荷も届けないで山王神社にちょっと寄ってみました。すもうはもう始まっているらしく熱気がただよい喚声も上がっています。大印籠は胸もわくわく気はそぞろ、荷物のことなんか気にもせず六尺二寸(約百九十センチの高さ)の高い板垣の上にあごをかけて、喜々としてすもうをただ見していたそうです。

見廻りの木戸番の人も、大荷物をかつぎ、異様な格好で板垣ごしに楽しそうにすもうを見ている印籠にあきれて物も言わず、銭も取らなかったそうです。

このように大印籠は大きな持ち物にもふさわしい、ばか力もあった人だったということです。
語り 山本 茂(平沢)
調査 関 哲樹
再話 永田 志津子


強力又兵衛

上荒井の村に、むかし又兵衛さんと言う大力無双(物すごい力持ち)の人がおりました。常々神佛を敬う心の厚い人で、山や田畑の仕事にも精を出して働くとても心のやさしい人でした。

さて、ある夜のことです。昼の仕事の疲れでぐっすり眠っていた又兵衛さんの枕元に、気高い姿のお坊さんが立って、「又兵衛よ、わしはお前のずっと先祖が信心をしてくれた不動明王であるぞ。その昔、不届きな者が佛をこわしてしまえと、わしを池の中に埋めてしまった。汝は信心も厚く、近隣に聞こえた力持ちだから、どうかわしを掘り起こして裏の山に祀ってくれ。」と告げたのです。はっと夢からさめた又兵衛さんは大いに驚いて、翌朝朝食もそこそこに、お告げのあった池のあたりを掘り始めました。しかし仲々見当たりません。「南無不動大明王、南無不動大明王。」と又兵衛さんは一心に唱えながら、なおも掘り進むと、大きな石の御不動さんが出て来ました。「オーイ御不動さんが出て来なはったぞ!」

又兵衛さんの大声に、村人達もいそいで集まって来ました。みんなで池の端へ上げて、お顔から全身きれいに洗って見ますと、素晴らしい浮き彫りの不動様が炎焔の中に、片手には破邪の金棒を持ち、片手にはお慈悲の数珠をかけていなさる尊いお姿が現われました。その余りにも気高いお姿に、又兵衛さんをはじめ集まったみんながひれ伏して、声高に般若心経を唱えました。

さて、夢のお告げは『裏山に安置せよ』との事ですから大変です。又兵衛さんは、裏の小高い丘の上をならしてお堂を作り、又登り道を作りました。大力無双と言われた又兵衛さんのことですからまたたくの間に出来上りました。もちろん、村人達もみんなで手助けをしたことは言うまでもありません。

さて、いよいよ重いお不動さんをかつぎ上げる日がきました。大きな背中にふとんを当て、百五十貫(約六百キログラム)もあろうかと思われる石像をおんぶして立ち上がった又兵衛さんを見た時には、村人達もおどろきみんなであと押しをしました。エンヤコーラと登り始めた坂道は、きびしくさすが力自慢の彼も玉のような汗を流しながら、ついに、頂上まで登りつめました。

小高い丘の上は、ふもとの平野が一望に見渡せて、松風が涼しく吹き抜け、お堂に安置されたお不動様はさも気持ちよさそうです。喜んだ又兵衛さんや、村の人達はみんな口を揃えて、声高に般若心経のお経を何回も何回も唱え続けました。

それから長い年月の間、お不動様はいつもふもとの村を見下ろしながら、村人達を災難から守り、お参りする人々に幸を授けて下さると言うことで、今もこの話は又兵衛さんの子孫の水口さんの家や、村人達によって語りつがれており、山の上のお不動さんも近年境内もお堂も立派になって、近隣はもとより、多くの人々の信仰を集めています。
語り水口 与作(上荒井)
調査 本多 良三


中野の童子どうこ

むかし、中野に「童子」と言う名前の、どえらい力持ちの若者がいたんやと。

ある日のこと、童子が赤根川のほとりをぶらぶらしょうことなしに歩いていたら、花山街道からお城へ向かって、二人のかごかきがお殿様を乗せて「ハァハァ」と息をはずませながらよたよたとやってくるので、それを見ていた童子が「なんや、弱虫やなあ。ようし、おれがひとりでかついで行ってやろう。」とかごに近寄り、お殿様のおかごを軽々とかつぎ上げたんやと。ところが力が余りすぎて、お殿様を乗せたかごは反動で、赤根川の橋の向側へどすんと落ちてしもうたんやと。

後日、お殿様は力持ちの童子になんとかして意地悪をして困らせてやろうと思われて、もち米をたくさんたくさん食べさせたそうな。そしたらさすがの力持ちの童子も胸やけがして、いてもたってもいられないので、川へ水を飲みに行ったんやって。

ガブガブ水を飲んでいたら、川上から大根がブカンブカン流れてきたんで、それを見た童子は早速拾い上げて、ポリポリと食べてたら胸のつかえがすーっと軽くなり気分はらくになったんやと。童子は大根を食べれば消化がよくなるちゅうことを知ってたんやろかのう。これでおしまい。
語り 松田 清子(元町)
調査 米村 恵美子


関脇 玉手山

吉村の緑本家から出た玉手山という関取は、明治の終わりから大正にかけて活躍した力士で、東京ずもうでは関脇にまで昇進して横綱の露払いや、ご前試合ずもうの写真などから、当時の活躍ぶりがうかがえる力士です。この関取の若いころは大した力持ちだったらしく、こんな話が今もなお残されています。

十七か八歳のころ、ある時町の米屋へ米を運ぶのに、両肩に一俵ずつかつぎ、からかさをさして米屋まですいすいと行って、会う人、見る人は目を丸くして驚いたとのことです。さらにまた、佐開の親戚の家へ行くとて、今度は六斗入りの米俵を両手に下げて歩き、真名川にかかっている一本橋を楽々と渡り、人々はびっくり仰天したとのことです。
調査 斉藤 賢太郎


力持ちの善松ぜんまはん

昔、松丸に善松はんという、男は小さいけど、とてつもない力持ちがおったんやと。

善松はんは、毎年、冬になると、町の酒屋へ冬すぎに行ってたそうや。

ある時、酒蔵の親方が、口のあいている五斗叺(かます)に玄米が一ぱい入っているもんを、指差して「善松っあんー、これをこんなり、臼場まで、持ってけるかのう。一粒もこぼさんとやぞ。」といったんやと。米は重いし、叺の口は切ってあって、おまけに、はち切れるほど米が入ってるし、ちょっとやそっとの力では一人でとても動かせるようなものではなかったんや、て。それでいつもは二人がかりで、一寸ずりに持っていくか、叺の米を半分ほど出して、二度手間かけて運んでたんやって。

ところが、善松はんが、「どうれ、やってみよほか。」といって、両手に唾して、「ぽん」と手をたたいて、左手で、叺の横をぐらぐらとゆすって、中の米を落ちつかせて「ぐうっ」と叺を向うに傾けるが早いか、小さい体を前屈みにするのと、右手を叺の底にまわして肩までかつぎ上げるのと、左手でぐらつかんように支えるのとを「うん」というかけ声の一瞬で右肩に「さっ」と上げてかついで、蔵の一番端(はな)にある臼場まで、さっさと運んでいったんやって。ものの一分ほどで、肩の白い粉やごみを払いながらもどって来たんやって。

親方も、仲間の蔵男達も、それ相当の力持ちやに、もうみんな驚くやらあきれるやら、「善松はん、おまえどこから、そんな力出るんにゃ、あきれたぞ。」といったんやと。それからしばらくして、今度は、米の俵を二本、ならべて立てておいて、「善松はん、その上に立って、下に置いたる米俵一俵を、持ち上げたらその一俵、お前にやるわ。」と、親方は難題をもちかけるつもりでいうたのに善松はんは、「はい、やってみえす。」と、まじめくさって、かんたんに返事したそうや。

親方は、心の中で、「今度は、絶対に出来んやろ」と思っていると、善松はんは、米を二俵、縦にならべて立てておいて、持ち上げるほうの米を横にしといて踏み台にして、片脚ずつ、俵の上へかけてやっとのことで上へ立ったんやって。短足の悲しさ、踏み台にと横にした米俵にゃ、手が届かなんだやと、みんなに笑われたんやって。

それで、他のもんの手をかりて下の持ちあげる米俵を、自分が上っている俵に、縦にして寄せてもろたんやと。そしたら、寄せるが早いか、さん俵に右手がかかったとたんに、「さっ」と片手で引き上げながら、左手を俵の真中へんに当てがったかと見るまに、脚にも腰にも、腹や胸はもちろん、肩にも頭にもふれさせずに、一気に二俵の米俵を立てた高い上で、仁王立にふんばってその米俵を差しあげて、しばらくは動かなかったんやと。

善松はんの真赤にきばってる顔を見た親方は、真青な顔になって、「五升でかんにんしてくれ」「ばかにして、試したりしてかんにんしてくれ」と、その場に手をついてあやまったそうな。

それからは、親方も仲間のもんも、善松はんには、冗談にも人をためすようなことは、絶対せなんだそうや。
語り 中山 茂男(松丸)
調査 山本 広慧
再話 杉本 正見


針金をかみ切る男

平沢の村に、石田清六さんという人がいました。この人は、小柄な人で身長は四尺八寸(百四十四センチ)弱、体重は約十貫(三十七・五キロ)だったということです。しかし、小男ながら歯の力は抜群の強さだったようで、八番線の太い針金を歯でかみ切るという強い歯の持ち主だったとのことです。

また、この清六さんは、身軽な身のこなし、手先の器用さ、度胸もあり、高い所での仕事は他の人の及びではなかったと言われています。特に立ち木の枝打ちでは、立ち木から立ち木へ、ぽいと飛び移ったり、台落しをした切り口のところで、逆立ちをしたというのですから、人々は「かるわざ師」商売になれると言ってほめそやしたということです。たいしたかくれた才の持ち主だったそうです。
語り 山本 茂(平沢)
調査 関 哲樹


酒のラッパ飲み

森本のある馬車引きの男が、勝山の仕事の往復で、ちょくちょく飲みに入る酒屋へ立ち寄った時のことです。顔なじみの酒屋の主人が出てきて「おい善さん、二升徳利の酒を一気に休まんと飲んでみんか。飲めたら銭は一文もいらんわ。」と、からかい気味に言うたら「よーし、ほんとやな。」と、言うが早いか、ふだんはちびりちびりとしか飲まない善さんが、主人のさし出す二升徳利をずしりと手に持ち上げてゴクン、ゴクンと天井ながめながめ、みるみるうちに二升徳利の酒を空に飲み干して、手から徳利を離したんで、主人の顔は真青になり腰も抜かさんばかりにびっくりしたんやと。これで大酒飲みの話はおしまい。
語り 中村 善松(松丸)
調査 山本 広慧


串もてら鯖を喰う男

むかし、黒谷の在所に、「荒井川」と呼ばれたくさずもう(しろうとずもう)の力士がいて、この人は当時大野の近在近郷では一番と言われたほどの強いすもう取りでした。この話は、この荒井川の父親の若かった時のお話です。

むかしは、毎年七月初めの半夏生(夏至より十一日目)の日には、どこの家々でも家族ひとりに一匹ずつの丸焼き鯖があてがわれ、大人も子供もこの鯖を食べるしきたりがありました。それで家々では、この丸焼き鯖の準備には、町の魚屋で塩鯖や焼き鯖を買ったり、今流行で言う産地直送の浜焼き鯖を売りに来る商人(あきんど)から買ったり、物好きな人は朝早くから花山峠越えで歩いていき、浜での生きのいいのを買ってきたりしたということです。

ある年のこと、例の顔なじみの浜の商人達が在所へやって来て「とれとれの浜焼き鯖、買うとくれのーう。」と言って売り歩いた。これをおやじさんからかい、「もっとえけえ(大きい)のないんか、こんなちぇもん(小さいもの)くしもてらくえるわい、おちょこいもんや。」「喰えるもんなら喰うてみねんせ。」と商人もけちをつけられて言うてしもたんやそうな。

「よーし」とこのおやじさん、商人の並べた串刺しのままの丸焼き鯖を一本手にしたと思ったら、あっという間にガブガブと口へ飲みこむようにしたと思うと、二本目、三本目……食べるわ食べるわ、十六本まですべすべと物も言わずに食べたんやそうな。あわてた商人は平あやまりで銭一文ももらわずに逃げ帰ったそうや。

村の人々は、あきれるやらびっくりするやら感心するやら、「どうして、あんなに早う喰えるんやろか。」と聞いたら、おやじさん「竹の串のところだけは、一ぺんかみ直さんとあかなんだ。」と言ってけろっとしていたそうな。

また、こんな話も残っています。

ある時このおやじさんが、春日町の中川屋でにしんを一束買って、道々食べながらの帰り道、下舌へ来るまでにみんなのうなって(なくなって)しもたんやと。にしん一束というと、八十本くくりで一束なので、どんな食べ方をしたんかと問うと、「二本ずつ横にしてほおばり、一かみか二かみで終わりや。」と答えたそうな。このように物喰いのすごいおやじさんだったそうです。
語り 山本 茂(平沢)
調査 関 哲樹
再話 永田 志津子


鰊喰い競争

町帰りの松丸の二人の男の人が、「にしん喰い競争をしよう。」と言って、「かじそ」(屋号)でにしんを一束ずつ買い求めて、町はずれに出ると二人は食べ始めたそうや。二人が五箇橋(現、富田大橋)にさしかかる時に一人の男が、「おめえ、にしんもう何本残っているんにゃ。」と聞いたら、相棒の男は「うら、まだ十二、三本残ってる。」「そうか、うらはあと二本だけや。」と答えたので、びっくりして聞くには「お前どんな食べようをしたんにゃ。」「うら、一本ずつ喰うのはほえねえ(ほい『本意』ないのなまり。残念だ。思うようにならないの意味)で、二本ずつ喰うんにゃ。」と平気な顔をして言うので「おめえ、喰うことにかけてはごうの者やなあ。」と負けて笑いながら相手に感心したんやと。
語り 中村 善松(松丸)
調査 山本 広慧


重衛ふくべ

むかしから、七板という部落は川仕事で生活をしている家がほとんどでした。というのは、今から二百年ほど前は、この七板は木落・蕨生・下唯野とともに、勝山藩の領地でした。そこで七板の在所の人は、田畑が少なかったので勝山の殿様に願い出て、七板から鳴鹿までの九頭竜川原の権利をもらい、川仕事をする人が多かったからです。

その頃の川仕事というのは、上流の穴馬辺りで山から切り出した丸太を流して来て、七板で拾い上げ、イカダに組み、それを三国港まで丸太イカダを運んだり、また、拾い集めた丸太を馬車に積み、花山峠越えで福井方面へ運搬するのが仕事でした。

働き人の中でも、重衛さんは身軽に川仕事をし、手足のこなし方も大変巧者で能率よく働くので、村人からうらやましがられる存在でした。

ある時村人は、この重衛さんをねたんで川の中へ突き落としました。すると重衛さんは、どぼんと沈んだと思うと、川下でぽこんとふくべ(ひょうたん)のように浮き上がってきたそうです。その後も時々わざと重衛さんい突き当たるなどして川の中へ突き落とすのですが、いつもいつもすぐ川下でぽこんと浮き上がってけろりとしていたそうです。

とうとう村人はしまいには、重衛さんに「ふくべ」というあだ名をつけ、さらには「重衛ふくべ、川へ流せばぽこぽこ」とはやし歌までうたわれ、みんな仲よく川仕事をしたそうです。
語り 阿部 時夫(七板)
調査 榎 しずを

出典 市制30周年記念 奥越前の昔ばなし