第329章 女子高生コンクリート詰殺人事件

下 BORO氏のホームページ無限回廊より引用する。

(注意:今回の引用=コピーはBORO氏から一時的にご好意によって得られているものであって、永続的なものではない事を断わっておく。BORO氏の許可なく勝手にこのような引用をする事は許されるものではない。今後はより具体的なこの事件の記述はBORO氏のサイトに飛んで読んでいただきたい。)

『1988年11月25日午後8時過ぎ、埼玉県X市内をバイクで走行中、アルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった県立X高校3年生のJ子(17歳)を見かけると、AはCに対し、「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命じ、Cは言われた通りに、バイクでJ子に近づき、左足で右腰を思いっきり蹴って、角を曲がって様子をみていた。

J子はバランスを失い、自転車に乗ったまま転倒、側溝に落ちた。そこへ、Aが近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。俺も脅された。危ないから送っていってやるよ」と言って、近くにある倉庫の暗がりに連れて行き、「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている。セックスさせれば許してやる」と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。

午後10時ごろ、Aは自宅に戻っていたCに電話をかけると、そこにはBの他にDがいたが、Aはこの3人を外に呼び出した。その後、4人の少年たちはCの自宅の2階のたまり場にJ子を連れ込んだ。この日、Cの父親は3日間の社員旅行で沖縄に出掛けたため、自宅には母親とCのひとつ上の兄がいた。

11月28日、Aは「いいモノを見せてやる」と言って、E(当時17歳)とF(当時16歳)を呼び出し、彼らも加わって、家人が寝静まった深夜にJ子を輪姦した。J子は必死の思いで抵抗した。階下の母親は目を覚ましたようであったが、寝具などで顔面を押さえつけられたため、叫び声を上げることはできなかった。さらに、陰毛の一部をカミソリで剃られ、さまざまな異物を性器に押し込まれるなどの虐待も受けた。

11月30日午後9時ごろ、Cの母親は、このとき初めてJ子の顔を見ている。Cに対し「早く帰しなさい」と言った。だが、1週間経ってもJ子がいることに気づき、直接、J子に「すぐに帰りなさい」とは言ってみるもののなかなか帰ってくれなかった、とCの母親の証言がある。

また、この頃、J子に自宅へ電話をかけさせ「家出しているのだから、私の捜索願いは取り消して欲しい」と言わせている。それも、一度きりでなく、5日ごとに3回に渡って電話をかけさせており、J子の親は家出だと思っていたという。

その後、昼夜の別なく、J子の体を弄び、そのあまりの暴行に、J子が気を失うと、バケツの水に頭を漬けて気を取り戻させて、また犯すということを繰り返していた。その間、交代で見張りを続けた。

12月初めの午後4時ごろ、J子は少年たちが夜遊びで昼寝をしていた隙を見て、2階から1階の居間に降りてきて110番に電話した。だが、運悪く、近くで寝ていたAに気づかれてしまった。すぐに逆探知で警察からかかってきた電話に、Aが出て「なんでもない。間違いです」と返事した。

AとBは、このことをきっかけとして、J子に対し、手荒いリンチを加えた。殴ったり、蹴ったり、手足の甲にライターの火を押し付けたりして火傷を負わせた。また、シンナーを吸わせたり、ウィスキーや焼酎を飲ませて楽しんでいた。

12月5日、東京・中野駅構内で、電車の追突事故が起きた。AはJ子に「あの電車にお前の父親、乗っかっていて、死んだってテレビでやってた。お前見たか」とからかった。J子は不安そうな表情を見せると「どんな気分だい」と訊き、「悲しいです」と答えると「実はウソだよ」と言ってはぐらかした。こんな調子でAとB、Cの3人は「死んだ」「生きている」などと言う発言を何度も繰り返し、心理的にJ子を追い詰めていった。

12月10日ごろ、J子は「家に帰りたい」と言い始めた。すると、Aが「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと、J子は「今まで新宿で遊んでいました」と答えた。それに対し、Aは「新宿で、学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴ったり蹴ったりの暴行を加えた。さらに、火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけた。熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。

12月中旬、小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。果てしなく続く殴打によってJ子の顔面が無惨に腫れあがり、凸凹のない別人の顔になった。

「なんだお前、でけえ顔になったなあ」誰かが言うと、また笑い声がした。

暴行がエスカレートするのにともない、J子に与えられる食べ物もおざなりになっていった。それは主にCの兄のG(当時17歳)の役目であったが、監禁当初は出前を取ることもあったのに、12月末には、1日に牛乳を1本、たまにパン1枚与える程度になっていった。トイレにも行かせず、飲料用の紙コップに排尿させられるようになり、その尿を飲まされたりした。

J子は「なんでもするから家に帰して」と必死に哀願するが、全裸で踊らされたり、自慰を強要され、さらに、直径3センチの鉄棒や「オロナミンC」のビンを陰部に挿入させられた。

Cの両親は異常な気配に気づいていた。しかし両親はそれ以上追及すると、開き直られるのを恐れて、2階の物音には耳を塞いでいた。

J子はリンチによる足の火傷が化膿して動けなくなった。全身は衰弱し、悪臭もひどくなった。Aはその臭いが嫌だと言って、寄りつかなくなった。少年たちはそんな状態になったJ子を見て、持て余すようになっていた。だが、解放すると警察に知らされる。いっそのこと、死んでくれればと願うようになる。

J子がいないところで次のような会話が交わされている。

「女は殺して埋めるのかな?」「殺すならミンチがいいですよ」「ドラム缶に入れて焼けばいい」「コンクリート詰めにして海に棄てればバレない」「自殺に見せかけて殺しますか? 富士の樹海で首吊りでもさせますか?」

お笑い半分、冗談半分、面白半分、暇つぶし、といった感じであった。

1989年(昭和64年)1月4日、監禁から41日目のこの日、午前6時半ごろ、Aは徹夜マージャンで10万円ほど負けムシャクチャしていた。AはJ子をその腹いせのはけ口にした。

B、C、Dの3人はJ子の火傷の臭いを嫌ってDの自宅でファミコンをしていた。AはDの自宅に立ち寄り、3人を誘って、Cの自宅の2階に上がった。

小泉今日子の「なんてったってアイドル」という歌のリズムに合わせて、J子は3人に次々と殴られて、鼻や口から血を流し、血だらけの状態になった。

ロウソクに火がつけられ、J子の顔にそのロウを垂らし、顔はロウだらけになった。

Dは自分の手に血がつくのを嫌がり、Aがシンナーを吸ったビニール袋を手に巻き、J子の肩や足にパンチを浴びせた。やがて、J子は身体を硬直し、ブルブルと痙攣し始めた。 Aは1.7キロもある鉄球付きの鉄棒を持ち出すと、DはJ子の腹に落とした。Aが暴力を振るうと、今度はB、C、Dが「ウケ」を狙って、面白半分に暴力をエスカレートさせた。

Aはリンチの途中でJ子の死を意識した。

午前10時ごろ、リンチが終わった。AはJ子が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると、4人はサウナに出掛けた。

翌5日朝、死体の処理に困った少年たちは、死体を毛布に包み、旅行鞄に入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に鞄ごと入れてセメントを流し込んだ。

セメントは、Aが以前、タイル工として働いていた店に電話をかけて、セメントと砂利を調達して作ったものだった。

午前8時ごろ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。』以上 BORO氏のホームページ”無限回廊”より引用した。

事件は以上のようなものであり、読めば分かるように輪姦などに関わった少年は上記の残虐行為を直接行なった4人のほかに更に3人がいる。

またCの自宅で彼ら4人が少女を監禁強姦などをしていた事は、彼らの一部が通っていた高校の同じクラスの少年少女たちの多くは知っていたとの調査報告書が残されている。また犯罪者の親たちはこの事件のすべてを見通せなくとも、残酷な仕打ちが自分の親族によって行われていたことは知っていたはずであり、こうした数をいれるなら、警察によって事件が発覚する前に事件の存在を知っていたものは少年少女を中心に数十人になっており、彼らの大部分はこうした犯罪を当時も放置していたし、現在でも、そのことによって刑法上の罰則などなんら受けず、世の普通の人として暮らしていると言える。

このことは更に犯罪を構成して行く人間たちの数を考えるときに参考になるだろう。