ハイホー! 

カート・ヴォネガットの小説に『スローターハウス5』という作品がある。第二次大戦中、自身が経験したドレスデンでの大空襲の記憶を軸に、人生の場面が、気づくたび、目ざめるたび、過去へ未来へとトリップする。そこに因果関係や脈略はない。いや、そもそもそんなものは現実に存在していないのかもしれない。物事は因果関係の中で処理した方が理解しやすいし、それはしばしば教訓的ですらある。私は人生が教訓に満ちているとは思わない。それが往々にして滑稽なものになりさがるのも、私たちの真剣さに対して、世界があまりに無関心にすぎるということにすぎない。

「最後のバッファローが崖から飛び降りたのは、1850年代後半のことだ。ある人はそれを人類に対する警告だといった。警告? なぜ最後のバッファローが火災報知器のかわりをしなければならない。それよりも、たとえばでたらめに開いた新聞の方がよっぽど的を得ている。最後のバッファローは『ケニア政府の首脳陣が入れ替わったため』に死んだ。」

ヴォネガットの別の作品、たとえば『スラップスティック』には「ハイホー」というセリフが5万回ほど出てくるが(ちなみに、主人公が大統領選に出馬した際のキャッチコピーが最上段に貼っつけてあるバッジ、『LONESOME NO MORE!(もう孤独じゃない!)』というもの。さらに、ちなみに。対する反対陣営のキャッチコピーは『LONESOME THANK GOD!(ああ、孤独でよかった!)』というものだった。またまた、ちなみに。ヴォネガットは1972年のアメリカ大統領選挙の際、ジョージ・マクガバン陣営からキャッチコピーの作成を依頼され、提示したのが例の『LONESOME NO MORE!』というものだった。結局このコピーが採用されることはなく、マクガバンはリチャード・ニクソンに敗北し、60年代に吹き荒れたカウンター・カルチャーに疲れきっていたアメリカはこの「政治屋」のもと、頑迷な保守の道を突き進んでいくことになる)

(さらに、さらに、ついでに。リチャード・ニクソンはアイゼンハウワー政権下で副大統領を務めるなど、若くから手腕を発揮した政治家だが、彼が頭角を現したのは50年代のいわゆる「赤狩り」を通してであり、マッカーシーほどメディアと密着はしていなかったが、その執拗で強引な手段に関してはニクソンの方が一枚上手だ。さらには「チェッカーズ演説」のように、テレビが政治に与える影響を最初に示した政治家でもあった。多くの保守主義者、孤立主義者がそうであったように、ニクソンもまたユーモアのセンスに乏しく、ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』のサビだけを聞いてアメリカ賛歌と思い込み、選挙戦の登場シーンに使用してしまったという、今となっては笑い話も残っている。いうまでもなくこの歌は、アメリカに生まれた誇りと、アメリカに生まれた悲哀の狭間で、スプリングスティーンが「吠えた」歌だったわけだが)

あれ。何の話してたっけ。

あ、そうそう。

ヴォネガット作品にはしばしば明確な因果関係が存在せず、読者を、私を、不安にさせることがある。たとえばありふれたこの日常のように。『スラップスティック』には何の脈略もなく「ハイホー」という言葉が5万回ほどでてくる。ある人はヴォネガットの小説を「人工衛星みたいだ」といった。なんだ。たまにはいいこというじゃないかと思った。ヴォネガットはおそらく世界でいちばん小節の多い文章を書く小説家だと思うが(ときには「ゴホン」だけで文章を区切ってしまったりする。まあ、そんなところに私みたいなヴォネガット・フリークはシビれてしまうわけだけど)、すくなくともヴォネガット自身のイメージは最初から最後まで、一瞬たりとも途切れない。そのあたりが「人工衛星的」なわけで、日本の私小説にありがちな「まわりくどさ」とは違う。

(だいたい日本の小説は「不倫」だの「自殺」だの「道ならぬ恋」だの、テーマが実に暗い。誰だって死ぬし、誰だってセックスする。チンパンジーは「芸術的な」絵画まで描いてしまうらしい。その胡散臭さは人間の口臭に似ている。それに日本人は本当に判官びいきがいきすぎたハンディキャップ大好き民族であると思う。「女だてらに」とか「障害者なのに」とか。本屋に並んでいる「ハンディキャップを乗り越えることの素晴らしさ」をせいいっぱい言葉にした表紙を見るたびに、なんて差別的な国民性だろう、と思う。サラブレッドだってハンデが重すぎると走れないのだ。テンポイントが骨折したときの斤量は64キロだったか。それに、「ほんとうに」思いハンデを背負っている人は、おそらく日本のメディアには出てこない。おそらく、今後もずっと)。

『スローターハウス5』で連呼される言葉はもっと悲痛なものだ。つまり、「so it goes(そういうものだ)」という言葉。それちょうどこんなふうに使用する。

「アメリカがイラクに戦争がけしかけた。大統領やニューヨーク・タイムズが保証していた大量破壊兵器はなかった。イラク人の死者は10万人をこえ、アメリカ兵の死者は2100人をこえた。そういうものだ」

「『あなたの好きなところは』と彼女がいった。『脇毛をそらなくてもいいところ』 そういうものだ」

「ハイホー」にしろ、「そういうものだ」にしろ、その陽気な響きとは違って、絶え間ない孤独と救いのない現実の中でつぶやかれる、マッチの少女がともす火のようなものである。「どうしようもない現実」と「めぐまれないユーモアセンス」の前に、どれだけ多くの人が、どれだけ多くの場面で口をつぐみ、また、これからも口をつぐみ続けるだろう。語るべき言葉を持たない個人や国家は不幸だ。悲劇を、その内容は変えられなくても、すくなくても題目を「喜劇」にすりかえるすべというものを、私はヴォネガットから学んだ気がする。病は気から、である。ハイホー。

「愛は負けても親切は勝つ」 これがヴォネガットのモットーだ。イラク戦争に関してはヴォネガットも不機嫌な思いをしているらしいが、私はヴォネガットの小説を一人が読むことで、世界がひとつよくなると本気で思っている。もちろん、私自身がそんな物書きに早くなりたいが、ヴォネガットはいつまでも私のアイドルだ。去る11月11日はそんなヴォネガットの誕生日、そしてニューヨーク市にとっての「カート・ヴォネガットの日」だった。ハイホー。

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