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№900(2009/01/26) ドイツ王

1 東フランク王国 カロリング朝の断絶(911年)

東フランクとロタリンギアを継承したアルヌルフ(バイエルン王カールマンの庶子でドイツ人王ルートヴィヒ2世の孫)は、891年のルーヴァンの戦いでヴァイキングに大勝して彼らの侵入を断念させた。894年には、現在のハンガリーでスラブ人の大モラヴィア王国(スラブ人の国)を破り、895年、ボヘミアを大モラヴィア王国から離脱させアルヌルフの臣下とさせた。アルヌルフは896年にはイタリアに侵攻し、イタリア王となり、ときのローマ教皇フォルモススによって西ローマ皇帝に戴冠されたが、イタリア遠征中に病に倒れ、899年に死去、息子のルートヴィヒ4世(幼童王、ルートヴィヒ2世の曾孫、在899-911)が東フランク王位を嗣いだ。

アルヌルフの庶子ツヴェンティボルトが895年にロタリンギア王位を譲位されていたが、900年に死去、ルートヴィヒ4世がロタリンギア王も継いだ。ロタリンギアと東フランクを継承したルートヴィヒ4世は、マジャール人の侵入に苦しめられ、911年、わずか18歳で死去。彼には嗣子がなく、ここに東フランク王国のカロリング朝は断絶した。

この東フランク王国のカロリング朝断絶を受け、ロタリンギア(ロートリンゲン)の諸侯は、西フランク王国のカロリング朝君主であるシャルル3世単純王を自らの国王として選択し、東フランクから西フランクへと帰属を変えた。シャルル3世単純王はロタリンギア(ロレーヌ)の領有権を主張し、その地の王位を得て、西ローマ帝国に対する自らの権利を明確にした。だが、ザクセン公リウドルフ家のハインリヒ1世捕鳥王に敗れた。

2 部族大公の復活

クロヴィスに始まるメロヴィング朝時代のフランク王国は、ゲルマニア(ドイツ)の各部族大公に「公 Herzog」の地位を与えて、従来の部族支配者の支配権をそのまま認めていた。もっともその部族支配権のありかたも部族によって大きく異なっており、南部のバイエルンはかなり部族の政治的統合がみられたが、北部のザクセンは政治的統合がきわめて未熟であった。

カロリング朝の君主は、各部族の政治的結合の解体を図り、その領土を州に分け王が任命する「伯 Graf」に統治させた。そしてカール大帝によるザクセン制圧、及びバイエルン公タシロ3世廃位(その上で改めて封土授与)をもって、旧タイプの部族大公は消滅した。だが、部族の政治的統合は「部族法典による共同体」という形で残存していた。10世紀はじめの東フランク王国カロリング朝断絶で、その共同体を背景にして、ザクセン(北)・バイエルン(東)・シュヴァーベン(南)・フランケン(中部)など、部族を基盤とする部族大公が復活した。

しかし、その部族大公は昔の支配者がそのまま復活したのではなかった。フランク族居住地は西のロートリンゲン(ロタリンギア、ライン川西岸)と東のフランケン(マイン川流域)に分裂していたし、テューリンゲンやフリーゼンでは大公権はついに成立しなかった。また大公となった一族の由来も、バイエルンのリウトポルト家がオストマルク辺境伯だったように、マルクグラーフ(辺境伯,Markgraf)の権力が部族領域に拡大したものであった。ザクセン公リウドルフ家もザクセン東部辺境地域の豪族であった。


 1000年当時の神聖ローマ帝国

3 ドイツ人国家の始まり フランケン朝(911~918年) 

そんな状況下で、諸侯の選挙王制により、東フランクの中核であったフランケン公領(マイン川流域)の大公コンラート1世(ルートヴィヒ4世の甥)が東フランク王に選ばれ、東フランク王国におけるフランケン朝を創始し王位(ドイツ王、在911-918)に就いた。だが、部族大公勢力は留まることを知らず、ザクセン公ハインリヒやバイエルン公と争う羽目になる。また、前世紀時代から悩まされたマジャール人(現ハンガリー人)の侵寇にも苦しんだ。

このフランケン朝は、「東フランク王国」としての政体は踏襲していたもののその機能を果たせず、国家統一どころか、実際は東フランク王国は名目的で、王国の旧諸侯である部族大公が新国家建設を目指して争っていたにすぎなかった。このフランケン朝をもって「ドイツ人国家」の歴史の始まりとする。(ただし、正式名称は「Regnum Francorum Orientale 東フランク王国」であった。「ドイツ王国 Regnum Teutonicorum」が初めて使用されたのは12世紀である。)

リウドルフ家のオットーとハインリヒ父子が率いるザクセン人は、フランケン公コンラートの即位自体には賛成したが、これに服従することを拒絶し、またテューリンゲンにおける領有権をめぐって、フランケン人との間で武力衝突が続いた。翌912年11月30日、父オットーが死去し、ハインリヒは公位を継承するが、国王コンラートはこれを承認しなかった。両者の間での紛争は続き、ハインリヒは東フランク王国からのザクセン独立の動きも見せた。

結局、915年にゲッティンゲン近郊のグローナ城において和平協定が結ばれる。ハインリヒは、国王から正式に公位継承を認められ、さらにザクセン(テューリンゲンを含む)における国王の権力行使が名目的なものに留まることの確約を得た。さらに、918年国王コンラートが死去した後、ハインリヒは、コンラートの弟エーベルハルトから、歴代国王に継承されてきた王位の印となる宝物を受け取った。これはコンラートの遺言にもとづくもので、国内最強の大公であるハインリヒを次の王として推挙する意思の表明を意味した。

4 ザクセン朝ドイツ王 ハインリヒ1世(919~936年)

919年、フランケンとザクセンの貴族がフリッツラー(Fritzlar)に集まり、先王の遺言どおり、ハインリヒを新国王として選出、東フランク王ハインリヒ1世(捕鳥王、東フランク王位919-936)となった。国王はフランク人からという伝統に反し、初めてザクセン人であるハインリヒが新国王となることで、東フランク王国は大きな節目を迎えることとなった。

751年にフランク王国カロリング朝が誕生した時、創始者ピピン3世(位751-768)が即位にあたって、教皇により塗油の儀式を受けた。その後カール大帝(フランク王位768-814。西ローマ皇位800-814)をはじめ、フランク国王は即位時、塗油の儀式を受けることが慣習化され、塗油によって代々フランク王の遺志を継ぐ者であることを知らしめ、これにより国王の権威が確立された。しかしハインリヒ1世は、マインツ大司教の塗油の礼を拒否し、フランク王国の継承者としての国王ではなく、新しい国家の王として登場したのである。

といっても、ハインリヒ1世の母はフランケンのバーベンベルク家出身で、ルートヴィヒ1世敬虔帝の孫にあたり、ザクセン朝は、ザクセン人の王といってもカール大帝の血統を受け継いでいた。http://en.wikipedia.org/wiki/Kings_of_Germany_family_tree

ハインリヒ1世の国王即位について、シュヴァーベンとバイエルンの両部族は、初め承諾を拒んだ。そればかりか、バイエルン公アルヌルフを対立王として選出した。ハインリヒ1世は、まず919年にシュヴァーベン大公ブルカルト2世を、次に921年にバイエルン公アルヌルフを降し、両者から国王として承認を得た。さらに921年は、西フランク王シャルル3世単純王(西フランク王位893-923年)との間でボンにおいて条約を締結し、その中でハインリヒ1世は「東フランク人の王(rex orientalium francorum)」として公式に承認されている。

〔ロタリンギア〕
925年、ハインリヒ1世は911年東フランク王国におけるカロリング朝断絶により東フランク王国に帰属していたロタリンギア(ロートリンゲン)を再び東フランクへと取り戻すことに成功した。これは、922年西フランクで、カロリング家のシャルル単純王に対し、先王ウード1世(ロベール家)の弟がロベール1世として反乱を起こし、ロベール1世は、923年のソワソンの戦いで戦死したが、シャルル単純王は捕らえられ廃位、戦死したロベール1世に代わり、西フランク諸侯は、ロベール1世の娘婿であるブルゴーニュ公ラウールを西フランク国王(位923-936)に選出していた。カロリング朝フランク王国の中心地であったロタリンギア(ロートリンゲン)が、カロリング家出身の王が廃止した東フランク王国に固執する必要はなかった。928年、ハインリヒ1世は、ロタリンギア(ロートリンゲン)の有力貴族ギゼルベルト(シャルル単純王側につき、ロベール1世やラウールと争った。Giselbert von Lothringen)に自分の娘ゲルベルガ(オットー1世の妹)を嫁がせた後、この婿をロートリンゲン公に任命した。

こうして、東フランク王国(ドイツ王国)は、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルン、ロートリンゲンの5つの公領で構成されることとなった。シュヴァーベンは、8世紀頃までのアレマニアで、9世紀頃からスワビア、さらに10世紀頃シュヴァーベンと呼ばれるようになった。

〔ブルグント〕
926年、上ブルグント王ルドルフ2世がイタリアから敗退した機会に、ブルグントとの従来の敵対関係を清算し、ルドルフ2世がすでに占拠していた東フランク王国南西部にあるバーゼル周辺の地域に対する支配権を正式に承認する代償として、彼からドイツ国王に対する封建的臣従をかちとり、併せて、ルドルフ2世が所有していた「聖槍」を譲り受けた。ブルグント王ルドルフ2世は、父ルドルフ1世のロタリンギア征服の企図が、東フランク王アルヌルフの反撃で挫折したあとを受け、初め、東のシユヴァーベンへ勢力拡大を企図したが、シユヴァーベン大公ブルカルト2世の抵抗にはばまれ、一転してこれと同盟を結び、その支援のもとにイタリアに侵入し、パヴィアでイタリアの王位についた(922年)。これに対抗してアルル伯ウーゴが、イタリア王としてイタリアに侵入し、926年、ルドルフはユーグによってアルプス以北に撃退されたのである。ところで、聖槍は、キリストが処刑された十宇架の釘によってつくられたといわれるもので、イタリアの支配権と皇帝権とのシンボルとされていたものであった。このことは、ハインリヒ1世がルドルフ2世からイタリアに対する要求権を引き継いだことを意味した。ハインリヒ1世は、晩年、イタリア遠征の計画を進めつつあったといわれるが、これは、後の死によって実現をみないで終わつた。

ハインリヒ1世は、後世において一般にザクセン朝ドイツ王国の初代国王と位置づけられる。ハインリヒ1世は、デーン人などのノルマン民族や、スラヴ人、マジャール人の侵入を防ぐべく、辺境領(マルク)を設置、辺境の地方長官職をつかさどる辺境伯(マルク=グラーフ)をおいて城塞を築き、辺境をかためた。またドイツ内部のキリスト教会を保護下において、積極的に教皇との接触をはかり、国家の統一をすすめた。

またフランク王国は分割相続であったが、ハインリヒ1世はこの面でも一線を画し、王権強化を誇って単独相続を決め、ザクセン王家によるザクセン朝存続維持に努めた。しかし、部族大公勢力はいっこうにおさまらなかった。

5 ドイツ王 オットー1世(936年~973年)

936年、ハインリヒ1世が没し、子のオットーがザクセン朝ドイツ王として、アーヘンで即位した(オットー1世。位936-973)。ザクセン王家から2代ドイツ王に選ばれたため、部族大公勢力は不満であった。

オットーはカール大帝に倣い、戴冠式をアーヘンの大聖堂(エクス・ラ・シャペル)で挙行する。そこで塗油の儀を受けることにより、自分がカール大帝の遺志を継ぐ者であることを世に示した。諸大公を「わが盟友」と呼んで対等に扱ったハインリヒ1世とは異なり、あくまで上に立つ者としての姿勢を貫いた。それに不満を持つ者も多く現れはじめ、938年から翌年にかけて、反乱が続発する。

世から忘れ去られていたオットーの異母兄タンクマールや、弟のハインリヒが反乱軍の旗印として掲げられた。主な加担者は、フランケン大公エーベルハルト(フランケン朝コンラート1世の弟)、ロートリンゲン公ギゼルベルト、そしてバイエルン大公エーベルハルトなどである。

なかでも、ロートリンゲン公ギゼルベルトは、オットー大帝の弟ハインリヒを擁立し、オットー大帝の弟ハインリヒを擁立し反旗を翻し、カロリング家が復活した西フランク王のルイ4世(在936-954)もロタリンギア(ロートリンゲン)の領有を主張し、オットー1世と争った。

苦戦するオットー1世のもとにシュヴァーベン大公ヘルマンが応援に駆けつけ、これによってオットー1世は危機を脱した。タンクマールと反乱の加担者たちは戦死、または亡命した。弟ハインリヒのみは母マティルデのとりなしで、このときは咎めを受けなかったが、941年に再びオットーの暗殺を計画して修道院に幽閉されることになる。戦死したロートリンゲン公ギゼルベルトに嫁いでいたオットー1世の妹ゲルベルガは、カロリング家の西フランク王ルイ4世と結婚、息子ロテール(後の西フランク王在954-986)とシャルルをもうけている。一方で、オットー1世のもう一人の妹、ハートヴィヒ(ヘートヴィヒ)は、西フランク王国のロベール家出身の国王ロベール1世の息子で、ユーグ1世の甥にあたるユーグ大公(パリ伯兼フランス公)に嫁ぎ、息子にカペー朝初代のフランス王となったユーグ・カペーがいる。

オットー1世、当主を喪ったフランケン大公領を自らの直轄地とした。危機を救ってくれたヘルマンに対しては、その幼い娘イーダを未だ10歳に充たぬ自らの嫡子ロイドルフと婚約させ、将来の王妃の地位を約束することによってヘルマンの労に報いた。実は、これは将来シュヴァーベン公領を息子の手中に入れることを目的としたもので、オットー1世の新たな政略の一環であった。大公領をすべて自分の近親者に治めさせることで、再度の反乱を防ぎ、王国の統一を図ろうとしたのである。その後944年には、娘ロイトガルトの婚約者であるヴォルムス伯コンラート(赤公)にロートリンゲン大公の地位を与えている。

947年、オットー1世は母マティルデの懇願を容れて弟ハインリヒを許した。弟ハインリヒはオットーに恭順を誓い、以後はその片腕として活躍するようになる。オットー1世は弟ハインリヒにバイエルン大公の地位を与えた。こうして、本来の直轄領であったザクセンに加え、フランケン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、バイエルンのすべての大公領はオットーとその近親者の掌中に収められた。

こうして、オットー1世は、まず第一に、その部族大公勢力を抑える政策を行い、フランケンやバイエルンなどの大公領にオットー1世の血族を配して、ドイツ統一を図った。しかし一族が部族大公らと結んで謀反を起こすと、次の統一策として、ドイツの司教に王領地を寄進し、伯職と同等の権利を与えて、教会や修道院領を王領として扱う帝国教会政策を行った。これにより、教会制度は国家の組織に組み込まれ、オットー1世は聖職叙任権を獲得し、王権拡大に努めた。

6 イタリア政策

外交策では、イタリア政策が挙げられる。ドイツの帝国教会政策で、教皇権との結び付きが緊密化したことにより、イタリアへの極度の接触が可能になったのである。当時イタリアは、マジャール人をはじめ、シチリア島などに潜伏するイスラム勢力の侵入が著しかった。また、カロリング家断絶後、王権も弱く、イタリア諸侯の王位争いも激化していた。

940年、イヴレア辺境伯ベレンガリオ2世が、イタリア王ウーゴに追われ、オットー1世のもとに亡命してきた。946年、オットー1世は、イタリア王ウーゴに反感を持つイタリアの聖職者に手を回し、ウーゴをプロヴァンスに追放、ウーゴの息子、ロタールが次のイタリア王ロターリオ2世(正式に王位に就いたのはウーゴがプロヴァンスで没した948年)となる。ところが、950年イタリア王ロターリオ2世が急死すると、イヴレア辺境伯ベレンガリオ2世がイタリア王を僭称した。

951年オットー1世は、王位継承問題で揺れていたこのイタリア(第一次侵攻951-952)に侵攻、王位継承権を持つ前イタリア王ロターリオ2世の未亡人でブルグント王ルドルフ2世の娘アーデルハイトと結婚し(951)、イタリア王を戴冠した。オットー1世はイタリアには居座らず、イヴレア辺境伯にイタリア統治を委ねた。

オットー1世には嫡子ロイドルフ(930-957)がいたが、父王との反目があり、父とアーデルハイトとの間に1子をもうけると、王位継承に危機感を募らせ、王の娘婿コンラート赤公らと反乱をおこした(953)。

翌954年からはマジャール人のドイツ侵寇も激化し、王室は苦悩すると思われたが、オットー1世はロイドルフの反乱を巧みに利用し、リウドルフの味方に付いている諸侯に対し、マジャール人の襲来をリウドルフがおこしたものだと呼びかけたのである。これによりロイドルフの味方であった諸侯たちは、ロイドルフの加担をやめてマジャール人の撃退に向かった。ロイドルフは捕まり、幽閉された。

大公軍の結束によって955年、遂にマジャール人は完全撤退し(レヒフェルトの戦い)、これ以降のマジャール人の西方侵入はなくなった。オットー1世は、スラヴ人、ノルマン系デーン人をも撃退、彼はヨーロッパ全域の"キリスト教国"を異教民族から守った英雄として評価され、彼の地位は不動化された。特に、この年ローマ教皇に就いたヨハネス12世(位955-964)をはじめ、教会組織からは手篤く称えられた。

7 オットーの戴冠 神聖ローマ帝国の誕生(962年)

ヨハネス12世は教皇即位時は18歳と年少で、権威は低かったため、教皇領の拡張を図ろうとした。しかしイタリア諸侯イヴレア辺境伯ベレンガリオ2世はこれを抑えようとして、ヨハネス12世に対して激しい攻撃を行った。ヨハネス12世は961年、オットー1世に救援を依頼した。オットー1世はアーデルハイトとの子オットー(955-983)をドイツ王オットー2世(位961-983)として共同統治させ、そして第2次イタリア遠征を行い(961-964)、その後イヴレア辺境伯ベレンガリオ2世を抑えつけた。

イヴレア辺境伯ベレンガリオ2世の制圧後、オットー1世はローマに赴き、ヨハネス12世に身柄の安全を保障することにより、帝冠を授かることを約束し、ヨハネス12世もこれに応じた。こうして、962年2月、オットー1世は教皇ヨハネス12世より、ローマ皇帝の帝冠を授かり(オットーの戴冠)、「ローマ皇帝」となった(オットー大帝。位962-973)。

かつてカール大帝が800年に行ったときと同様(カールの戴冠)、ローマ帝国の復活であり、またカロリング朝フランク王国の復活をも意味する戴冠であった。オットー大帝は「尊厳なる皇帝」として、ローマ教会が及ぶヨーロッパ世界に君臨する地位を得たのである。これにより、事実上イタリアとドイツは、オットー大帝によって統治された。これが、後になって「神聖ローマ帝国」と呼ばれる、ドイツ帝国誕生の瞬間である。原理上ではカールの戴冠(800)が神聖ローマ帝国の誕生としているが、事実上ではオットーの戴冠でもって誕生としている。

ヨハネス12世は、オットー大帝に戴冠したものの、オットーの脅威に絶えかね、オットーの政敵と手を結ぶようになった。このためヨハネス12世は、オットー大帝により皇位を廃される(963)。その後レオ8世(位963-965)、ベネディクトゥス5世(位964-966)とローマ教皇は短期交替が相次ぎ、教皇権が失墜した。ヨハネス12世の行為によって、教会はローマ皇帝(神聖ローマ皇帝)の思うままに操られることになり、ヨハネス廃位後に即位したレオ8世から、教皇即位にあたってローマ皇帝に忠誠を誓う宣言を行う規定が盛り込まれ、教会の「鉄世紀」と呼ばれる暗黒時代を招くことなった。教皇と皇帝との対立はここから始まっていく。

その後オットー大帝は、966年から第3次イタリア遠征を行い(966-972)、以降イタリア政策を推進し、同地に滞在した。イタリア経営は、ドイツ国内統治以上に努力が強いられ、結果としてドイツ統一が遅れていく状況を為した。晩年に差し掛かったオットー大帝は、973年、すでに神聖ローマ皇帝の帝位継承者として決定していたオットー2世に譲位し(位973-983)、973年没した。オットー2世の後、オットー3世(ドイツ王位983-1002。神聖ローマ皇帝位983-1002)・ハインリヒ2世(王位1002-24,帝位1002-24)と続き、オットー朝の異名を兼ね備えたザクセン朝は、1024年、ハインリヒ2世でもってザクセン王家断絶となり、フランケン公コンラート1世の血を引くフランケン公シュパイエル伯ハインリヒ(オットー1世の曾孫の子)の子コンラート(990?-1039)が選ばれ、コンラート2世として即位し(王位1024-39,帝位1027-39)、第2のフランケン朝であるザリエル朝(1024-1125)を創始、ザクセン朝を継承して帝国教会政策とイタリア政策は続けられていく。

参考サイト
~Vol.76~神聖ローマ帝国・前編~オットーの戴冠と帝国の誕生~
ドイツ史から転載 ドイツ中世史 ウィキペディア