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848(2008/04/29) 英王室の紋章 百年戦争前期

1198 - 1340 リチャード1世の死後、その後を継いだ弟のジョン欠地王(ヘンリーの2世の四男)(在位:1199-1216年)のとき、フランス王フィリップ2世尊厳王は、ジョンがパリの貴族法廷の喚問に応じなかったことを理由に、1203年既にプランタジネット家の支配下に入っていたノルマンディ、アンジュー、メーヌ、ポワトゥーの諸地方を奪った。わずかに、アキテーヌの中心地であるガスコーニュのみがジョンの下に残った。アキテーヌは元々諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より、弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。ジョンが三匹の金獅子を継承し、イングランド王家の紋章が定着した。
赤がイングランドの支配地域

青地にフルール・ド・リス、フランス王家の紋章

フランス・カペー朝第7代の王フィリップ2世尊厳王(在位:1180-1223年)の紋章で、以後フランス王室の紋章として定着した。フィリップ2世の父ルイ7世のときは、盾紋章はなかったとされる。ただし、バナー(旗)などには、青地のフルール・ド・リスの紋様が使われていた。


父ルイ7世の死により15歳で即位し、当初は舅であるフランドル伯の摂政下にあったが、まもなく親政を始めた。フランドル伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりバロアなどを得た。さらに、イングランド王家でフランス南部に広大な領地を有するプランタジネット家との抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ皇帝領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王と呼ばれた。
1340-1367

フランス王位継承を主張し、英仏百年戦争の原因を作ったエドワード3世(在位:1327-77年)は、1340年イングランド王家の紋章を四分割し、フランス王家の紋章を組み込んだ。

イングランド王エドワード3世は、エドワード2世とイザベラ・オブ・フランス(フランス・カペー朝フィリップ4世の娘)の子であり、1328年にカペー朝の跡を継ぎフランス王に即位したヴァロア朝フィリップ6世(在位:1328-50年)に対して、エドワードはフランス王位継承を主張した。これに対しフィリップ6世は、スコットランドと呼応して、1337年5月にアキテーヌ領没収を宣言し、ガスコーニュに軍を進めたため、11月エドワード3世はフランスに宣戦布告した。これにより、百年戦争が開始された。

1346年、ノルマンディーから上陸したイングランド軍は北上して、エドワード黒太子(王太子)の活躍もあり、クレシーの戦いでフランス軍に大勝した。また、1356年にはポワティエの戦いでもフランス軍に勝利した。1360年には両国の和議が成立し、エドワード3世はフランス王位継承権を放棄する代わりに、ガスコーニュ、アキテーヌ、カレー、ポワトゥー、ギーヌなどの広大な領土を獲得した。

前半における主要な戦場、スロイス、クレシー、カレー、ポワティエ、オーレ
ブレティニィ条約、赤がイングランド支配地域、ピンクが条約で割譲された領土
1367 - 1399

1367年エドワード3世は、孫の後のリチャード2世の誕生年にノルマン征服以前の最後の王エドワード懺悔王の古紋章を左の領域に組み込んだ。ジョン欠地王の子プランタジネット朝第4代王ヘンリー3世は非常に信心深く、歴代イングランド王が戴冠式を行うウェストミンスター寺院を建立したエドワード懺悔王を好み、以後三代に渡って受け継がれる「エドワード」の名は懺悔王に因む。

1360年の和議でフランスに広大な領地を獲得したエドワード3世であったが、その後、フランス王シャルル5世賢明王(在位1364-80年)の巻き返しにより、ペストの流行による国内の疲弊もあって、カレー、ボルドー、バイヨンヌを除いたフランス領土を失い、1375年のブリュージュ(ブルッへ)の和議によってイングランド・フランスの戦争は、いったん終結した。
1376年エドワード黒太子が死去、77年エドワード3世死去。

1389年のフランス
赤がイングランド支配地域

1377年黒太子の子リチャード2世(在位:1377-99年)。が10歳で即位。この少年王が親政を始める前に、エドワード3世には、黒太子以外にも4人の息子がおり、彼等「有力な叔父達」は着実に力をつけていくのである。幼年のため、しばらくの間実権は叔父たち、特に最年長のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが握っていた。83年に親政を開始すると、叔父ジョンに対抗するため、継承者にもう一人の叔父クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを指名し後の薔薇戦争の下地を作った。85年には、叔父エドマンド・オブ・ラングリーをヨーク公、トマス・オブ・ウッドストックをグロスター公に序爵。これも、ランカスター公であるジョンの地位を相対的に低め、実権を奪うことが目的だと言われている。

94年に王妃を亡くしたリチャードは、96年にフランスと百年戦争の休戦協定を結ぶと共に、フランス王シャルル6世狂気王(在位:1380-1422年)の王女、当時6歳のイサベル・オブ・フランスと再婚。反仏意識、主戦論の根強い国内に大きな波紋を呼ぶこととなる。しかし、97年にリチャード2世はグロスター公トマスらを逮捕し、ジョンの死の前年、その子ヘンリー・ボリングブロクを国外追放した。さらにジョンの死を見届けるとランカスター公領の没収を命じた。ヘンリーは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、イングランド王に即位してランカスター朝を開いた。