Wind Back Number

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401〜500 (2004/11/30〜2005/08/17)

 

wind1 bP〜100(2002/01/22〜2002/06/15)
wind2 bP01〜200(2002/07/11〜2003/03/02)
wind3 bQ01〜300(2003/03/08〜2004/02/07)
wind4 bR01〜400(2004/02/08〜2004/11/27)

wind6 bT01〜600(2005/08/17〜2006/02/18)
wind7 bU01〜700(2006/02/19〜2007/02/05)
wind8  bV01〜  (2007/02/06〜  )

500(2005/08/16)  インディカー・シリーズ

499(2005/08/15)  インディ500マイル

498(2005/08/14)  もうひとつのワールドシリーズ

497(2005/08/06)  嘆きの巨人

496(2005/07/30)  新たな挑戦は、野茂から始まった。

495(2005/07/29)  世界一周28億円の旅

494(2005/07/23)  頼りにされている人々

493(2005/07/20)  長嶋さんに群がる人々

492(2005/07/19)  巨人の人事異動

491(2005/07/09)  ロンドン大会から野球が五輪の実施競技から外れる(3)

490(2005/07/09)  ロンドン大会から野球が五輪の実施競技から外れる(2)

489(2005/07/09)  ロンドン大会から野球が五輪の実施競技から外れる(1)

488(2005/06/26)  究極のネーミングライツ

487(2005/06/25)  瀬戸内オリックス野球団

486(2005/06/22)  ナベツネ球界復帰

485(2005/06/15) 企業と球団の興亡史 PartU(三四)

484(2005/06/15) 企業と球団の興亡史 PartU(三三)

483(2005/06/14) 企業と球団の興亡史 PartU(三二)

482(2005/06/11) 企業と球団の興亡史 PartU(三一)

481(2005/06/09) 企業と球団の興亡史 PartU(三十)

480(2005/06/03) 企業と球団の興亡史 PartU(二九)

479(2005/06/02) 企業と球団の興亡史 PartU(二八)


478(2005/06/01) 企業と球団の興亡史 PartU(二七)


477(2005/05/31) 企業と球団の興亡史 PartU(二六)

476(2005/05/30) 企業と球団の興亡史 PartU(二五)

475(2005/05/29) 企業と球団の興亡史 PartU(二四)

474(2005/05/28) 企業と球団の興亡史 PartU(二三)

473(2005/05/27) 企業と球団の興亡史 PartU(二二)

472(2005/05/26) 企業と球団の興亡史 PartU(二一)

471(2005/05/25) 企業と球団の興亡史 PartU(二十)

470(2005/05/24) 企業と球団の興亡史 PartU(十九)

469(2005/05/23) 企業と球団の興亡史 PartU(十八)

468(2005/05/22) 企業と球団の興亡史 PartU(十七)

467(2005/05/21) 企業と球団の興亡史 PartU(十六)

466(2005/05/20) 企業と球団の興亡史 PartU(十五)

465(2005/05/20) 企業と球団の興亡史 PartU(十四)

464(2005/05/11) 企業と球団の興亡史 PartU(十三)

463(2005/05/10) 企業と球団の興亡史 PartU(十二)

462(2005/05/09) 企業と球団の興亡史 PartU(十一)

461(2005/05/08) 企業と球団の興亡史 PartU(十)

460(2005/05/07) 企業と球団の興亡史 PartU(九)

459(2005/05/06) 企業と球団の興亡史 PartU(八)

458(2005/05/05) 企業と球団の興亡史 PartU(七)

457(2005/05/04) 企業と球団の興亡史 PartU(六)

456(2005/05/03) 企業と球団の興亡史 PartU(五)

455(2005/05/02) 企業と球団の興亡史 PartU(四)

454(2005/05/01) 企業と球団の興亡史 PartU(三)

453(2005/04/30) 企業と球団の興亡史 PartU(二)

452(2005/04/29) 企業と球団の興亡史 PartU(一)

451(2005/04/18) 当社の資金を別のM&Aに充てていきたい。

450(2005/04/15) NO MORE CRY

449(2005/04/06) AOLタイムワーナーの教訓

448(2005/03/30) ソフトバンクによるテレビ朝日買収騒動の教訓 2

447(2005/03/27) ソフトバンクによるテレビ朝日買収騒動の教訓

446(2005/03/25) 王冠の宝石と白馬の騎士

445(2005/03/25) 村上ファンド

444(2005/03/23) プロ野球ビジネス・ニュース

443(2005/03/21) Walter C.Neale

442(2005/03/21) プロ野球は誰のもの

441(2005/03/20) 事業者と競技者 2

440(2005/03/20) 事業者と競技者

439(2005/03/19) 迷球界

438(2005/03/17) 江川事件とライブドア

437(2005/03/14) ヤフードーム

436(2005/03/09) 西武とプロ野球

435(2005/03/05) 新「西武鉄道」とライオンズ

434(2005/02/26) 帝国の崩壊

433(2005/02/23) 10.13

432(2005/02/21) 企業と球団の興亡史(五)

431(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(四)

430(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(三)

429(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(二)

428(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(一)

427(2005/02/14) ホリエモンは2度ベルをならす

426(2005/02/14) ニッポン放送とフジテレビ

425(2005/02/14) なんでそーなるの?

424(2005/02/14) 落日の獅子(ライオン)

423(2005/02/14) 堤康次郎の亡霊

422(2005/02/14) 落日の帝国

421(2005/02/13) いま、社会人野球が面白い

420(2005/02/12) 誰がNPBの代表なのか

419(2005/02/11) MLBとNPBのオーナーの違い

418(2005/02/05) 新潟、金沢、松山そして大阪

417(2005/01/30) 「ステークホルダー型」と「株主中心型」

416(2005/01/29) 観客動員は実数に近い数で発表へ

415(2005/01/22) 誰がための球団改革、球界改革か

414(2005/01/22) 実にあけっけない辞任だった

413(2005/01/22) 運命の皮肉

412(2005/01/18) オーナーの集合体からリーグ・ブランドへ

411(2005/01/15) 「若干似ているとしたらフランチャイズチェーンだ」

410(2004/12/31) 選手年俸は安いのか高いのか ニュース4題

409(2004/12/27) スポーツキャスターとタレントと女子野球日本代表監督とアカデミーリーグ

408(2004/12/25) 福岡ソフトバンクホークス

407(2004/12/23) トレードマネーで稼ぐよ、金貸しオリックス

406(2004/12/22) 岩隈は、楽天に金銭トレード「高いよ、高いよ」

405(2004/12/21) 興行権はホークスではなく別の子会社へ

404(2004/12/18) 追い風と強い要望でも「オリックスではできません」

403(2004/12/05) 馬鹿の壁

402(2004/12/01) なぜ、福岡ダイエー・ホークスはうまくいったのか?

401(2004/11/30)  球団の親会社が野球という興行を通して利益を追求している

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500(2005/08/16)  インディカー・シリーズ

ヨーロッパでも1900年代初頭から現在のF1の前身にあたるグランプリ・レースが開催されていたが、1950年代以降次々に新しい技術が開発されるに従い、F1は、世界最高峰のフォーミュラ・レースとして着実にその足場を固めていった。

これに対し、1956年以降インディカー・シリーズを運営していたUSAC(US Auto Club)は、保守的な体質で、なかなか近代化が進まず、参戦するチームやドライバーの不満が募っていった。

その結果、1978年にインディカー・チームの組合的な組織であったCART(Championship Auto Racing Teams)がUSACに造反して独立、1979年からUSACとは別に独自のインディカー・シリーズを始め、その年は、CARTとUSACの2つのシリーズが別々に開催された。

ところが、多くのスター選手を擁するCARTに独立されたUSACは80年以降独自のシリーズを続行することができず、インディ500(&ダートオーバルなどの下位カテゴリ)をUSACが統括、インディ500を除くインディカー・シリーズ各戦はCARTが統括する形で合意が成立し、80年以降は再びシリーズが一本化した。

参考サイト
498(2005/08/14)と同じ


499(2005/08/15)  インディ500マイル

インディ500(Indianapolis 500)は、米国インディアナポリス市近郊のインディアナポリス・モーター・スピードウェイで毎年5月の最終週(メモリアルデー・ウィークエンド)に開催される米国モータースポーツの代表的レース。

1周2.5マイルのオーバルコースを200周、走行距離500マイルで争われる。1周約40秒弱で周り、平均速度360q、 最高速は390q。 賞金総額は10億円、優勝賞金2億円とボルグワーナー・トロフィー(銀色のトロフィー)と、どれをとってもけた外れでビッグ。第1回開催は1911年。

同スピードウェイは、1909年実業家のカール・フィッシャーによって建設されたレース場。当時のカーレース場はダートがほとんどだったため、路面の荒れによる事故が多発した。そこで、コースに3万個のレンガを敷き詰め、安全で高速走行可能なコースとなった。その後通常の舗装に改修さるが、そのなごりで、後に「ブリックヤード」と呼ばれる。現在もスタート&フィニッシュラインに一部数列のレンガが残されている。

インディ500は、F1モナコGP、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースのひとつとされ、現在も、メモリアルデーの前日に行われる決勝レースには40万人の観客を集めるビッグイベントとして存在している。

インディ500の誕生とほぼ同時にインディカー・シリーズの前身にあたる全米ドライバー選手権が始まったが、常にインディ500はその最高峰にあり、シリーズで優勝するよりもインディ500で優勝することの方が名誉なこととして、現在でも、インディ500のチャンピオンはシリーズチャンピオンとはまた別格のステイタスを持っている。

1950年から1960年まではインディ500も「世界選手権」としてのステータスを高める為に、F1に組み込まれていた。選手権ポイントも他のGP同様与えられたが、交流はまったくといっていいほどなく、またインディ500での入賞者が他のGPに入賞することもなく形骸化したため、F1から除外された。

参考サイト
498(2005/08/14)と同じ
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498(2005/08/14)  もうひとつのワールドシリーズ

米国には野球以外に、CARTワールドシリーズというモータースポーツのワールドシリーズがあった。CARTワールドシリーズは、ヨーロッパを中心とするF1に対し、米国を中心とするフォーミュラーカー・レース。CARTは、Championship Auto Racing Teams−チャンピオンシップ・オート・レーシング・チームズのことで、正式にはシリーズを主催する組織名。

CARTワールドシリーズは、北米だけのMLBワールドシリーズとは異なり、北米を中心にブラジル、オーストラリア、日本、さらにヨーロッパでもレースを開催し、文字通りワールドなシリーズを展開していた。

ところが、このワールド化は、米国独自のオーバルコースの減少や米国人ドライバーの減少を招き、結果として米国国内での支持を失うことになり、2003年CARTは経営破綻、現在チャンプカー・ワールドシリーズとして再建中である。

CARTワールドシリーズは、1996年までインディカー・ワールドシリーズと呼ばれていたように、インディ500マイル・レースに由来する。インディカーとは、そもそも、インディ500に出走する車のことで、1911年に第1回インディ500が開催され、以後、インディ500を中心に、インディカー・レースは、全米各地に展開していった。

参考サイト
cart_top.html へのリンク
howabout.htm へのリンク
index.html へのリンク
release107-j.html へのリンク
about4.htm へのリンク
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497(2005/08/06)  嘆きの巨人

日本テレビのTheサンデーで、江川氏が巨人改革について、@3年間優勝できなくても、若手を使って鍛えていくかA来季優勝を狙うためにFAで補強するかという2案を挙げていた。江川氏も、他の出演者も@の案を薦めていたが、常勝巨人にその余裕があるのか疑問を呈していたと思った。違ったらごめんなさい。

その後、滝鼻オーナーが、堀内解任・原新監督要請を否定するとともに、堀内監督を叱責し、後半戦に向け、清原和博内野手(37)らベテランから若手選手への切り替えや真剣なプレーを心がけるよう命じた、という。

次期監督には、原前監督説が有力だったが、原氏、中畑氏、江川氏「全部候補」だそうだ。氏家・日テレ会長が「(直ちに)監督を代えても(低下した)視聴率は戻ってこない」といったが、後半戦も堀内野球を見せられる巨人ファンはたまらないだろう。どうせ、ダメなら、直ちに監督を代えて、若手への切り替えを推し進めるべきだ。

堀内巨人、若手に切り替えたが、なかなかうまくいかず、渡辺会長は、今季途中加入した先発マレンが二回に“魔さか”の1回9失点すると、「誰がマレン連れてきた、責任? (滝鼻)オーナーに聞いてくれ!!」とおかんむり。滝鼻オーナーの若手起用命令にも「若手起用? そんなこと言ったら“老人”(清原・ローズ)が怒るよ」と牽制。「現場のことは知らん」(渡辺球団会長)はずなのにね。

そういえば、江川氏、「ジャイアンツファンへの要望: 大敗のゲームを認めてください!」ファンが、試合を見に行ったときに大敗のゲームもある、ということをまず認めたところから入らないと、先発が崩れたときにみんな投げちゃって、結局は優勝できないことになりますので、と言っているぞ。

滝鼻オーナーが「若手起用」指令を出して以降、江藤、桑田、清水らの起用は軽視される傾向で、コミュニケーション不足が目立つ、という。8月4日清原が、西武ルーキー時代の86年8月26日以来の7番に起用されると、一発を打つが、打順は無言を貫いたが、ベンチでのハイタッチは行わず無言の“抗議”を行った、そうな。

そういえば、江川氏、打率1割台で1ヶ月ぶりにホームランがでた清原選手について、「正解:体調・成績・チーム状況から7番でHR狙いが最適」とパターンに書いていた。

ところで、若手起用の方針で2勝7敗。教育リーグならまだしも、まだシーズン中。試合後は7番の説明を求めた報道陣に、山本ヘッドコーチが「何で説明しなきゃいけないのだ」と声を荒げて一触即発の場面も。ギクシャクしているチームを象徴していた。そうな。

そうしたら、またぞろ、FAで選手獲得の話が出てきた。最下位転落の危機に直面している巨人が、来季の最重要補強ポイントとなる『新守護神』候補として、西武・豊田清投手(34)の獲得に乗り出す可能性のあることが5日、明らかになった。豊田はこの日、FA(フリーエージェント)権の資格を取得し、他球団への移籍も辞さない構えを表明。ストッパー不在にあえぐ巨人の思惑とも合致し、オリックス・谷佳知外野手(32)らとともに大物選手が居並ぶ今オフのFA市場調査を着々と進める方針だ。そうな。

やっぱり、巨人は変わってないですな。ということは、次期監督は、中畑氏か、堀内監督続投かでしょうな。わかる奴は、監督にはならないよ。

清武球団代表が渡辺会長直属の秘書課職員から呼び出される、なんぞ、尋常じゃない。第一、原監督を解任し、堀内氏を監督に据えたのは、渡辺会長一派の人事だったはずだ。

そうしたら、サンスポにこんなことを書かれてしまう始末。

巨人は何やってもダメ…視聴率、借金&ゲーム差が最悪

(セ・リーグ、巨人0−4中日、11回戦、中日8勝3敗、29日、東京ドーム)読者の皆様へ−。朝から数字の羅列は目にキツイかもしれませんがご容赦を。5.2%、15分、ゲーム差15、借金9。これらの数字が理解できるアナタは相当のG党(アンチG党)です。

試合前。堀内監督が鈴木、亀井ら若手5人を呼び寄せ、就任以来初となる猛ゲキを飛ばした。「お前らの打撃はマスターベーション(自己満足)だ。いろんな状況を想定してやってみろ!!」。打撃練習を淡々とこなす若手への“公開説教”は無論、滝鼻オーナーからの若手起用指令があってのこと。だが、川上では相手が悪すぎた。そこで浮き上がる悲しい数字の数々…。5.2%は大敗を喫した前日28日の阪神戦の視聴率。今季ワーストを献上し、フジテレビはついに8月から巨人戦の延長中継を15分間短縮する苦渋の決断を下した。 借金は今季最多タイの9に膨れ上がり、首位・阪神とのゲーム差も15に開いた。プロ野球史上最大の逆転劇は、昭和38年の西鉄が記録した14.5差。ついにその“限界点”をも超えてしまった。

「打とうとはしているんだ。相手(川上)が良かったからな」

夏休みでチビっ子ファンも大勢いる。なのに、堀内監督の敗戦の弁に明日は見えてこない


日テレも非情の決断…巨人戦放映で中継延長中止(2005/08/08追伸)
優勝はおろか0.5ゲーム差で“ブービー”と、落ちるところまで落ちた巨人。視聴率も失速し、各局が放送延長時間を短縮するなか、ついに日本テレビまでが非情の決断を下した。同局は8日、試合展開によってはナイター中継の放送を延長しない方針を明らかにした。

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496(2005/07/30)  新たな挑戦は、野茂から始まった。

イチローや松井秀喜ら日本人メジャーは、野茂英雄の挑戦から始まった。そして、欽ちゃん野球、四国独立リーグといった新たな挑戦もまた、野茂が3年前、「社会人野球がなければ今のボクはいない。チーム数が激減し、野球を続けたくてもできない人の受け皿となれば」と、自ら出資しNOMOベースボール・クラブを設立したことから始まる。

NOMOクラブ、3年目の初切符 都市対抗野球本大会へ(7月14日)
大阪・舞洲ベースボールスタジアムであった同大会近畿代表決定戦で、ニチダイを2―0で破った。企業を母体にせずに立ち上げたクラブチームの本大会進出は、78年の全足利クラブ(栃木)以来。選手たちから胴上げされた清水信英監督は、米国の野茂投手に電話で報告。インターネットで試合経過を見ていた野茂投手は「おめでとうございます」と話し、本大会への準備面などを気にかけていたという。染谷健一主将は「企業チームと違い、選手それぞれの練習時間がずれたことが苦労した。勝てたのは全員の気持ちです」と笑顔で話した

宮崎に欽ちゃん球団の系列チーム(6月6日)
萩本欽一監督率いる「茨城ゴールデンゴールズ」に、姉妹店ならぬ系列チームが誕生することが5日、分かった。その名も「宮崎ゴールデンゴールズ」で、萩本監督が総監督、元広島の片岡光宏氏(44)が監督を務める。この日、宮崎・日向で宮崎選抜と有料試合を行い、茨城GGが6−1と快勝。その試合後に欽ちゃんが構想を明かした。「宮崎GGでは僕のことを欽監(きんかん)と呼んで。来年のキャンプは合同でやりたい」と話した。片岡監督は「今まで宮崎に硬式チームがなかったので、地元の子供たちに夢を与えられるようなチームにしたい」と抱負を語った。元広島の若林隆信投手(31)らを主体に、これから本格的に選手集めを行い、今秋のチーム設立を目指す。

故郷・鹿児島に「定岡球団」旗揚げ! (6月22日)
今度は「定岡球団」が旗揚げ! 元巨人投手のタレント・定岡正二氏(48)が故郷・鹿児島で元高校球児などを主体としたアマ野球チーム「ホワイトウェーブ」の監督に就任。8月16日に鹿児島・県立鴨池球場で萩本欽一監督(64)率いる茨城ゴールデンゴールズ(GG)と試合を行うことが7日、分かった。今後、定岡氏は同チームを日本野球連盟に正式登録して、鹿児島を拠点とした本格的なクラブチーム設立に動き出す。今回、茨城GGとの対戦では地元の焼酎メーカー・薩摩酒造がチームをバックアップする。チーム名も主力商品「白波」から「ホワイトウェーブ」と名づけられた。加えて、総監督には「コント55号」で欽ちゃんとコンビを組んだ地元出身のタレント・坂上二郎さん(71)の招へいを打診。―55号の欽ちゃん対二郎さんの「対決」が球場で繰り広げられれば、これ以上ない盛り上がりとなる。

北海道マーリンズ発足(7月7日)
北海道千歳市を拠点に活動する社会人野球クラブチーム、千歳ベースボールクラブ(CBC)北海道は7日、米大リーグのマーリンズと提携し、「北海道マーリンズ」の設立を発表した。社会人チームと大リーグ球団の提携は国内初。総監督に日本ハムOBの広瀬哲朗氏、助監督にはマーリンズスカウトの池田豪氏が就任。北海道出身の歌手、松山千春がスーパーアドバイザーを務める。今後はマーリンズ傘下のマイナーチームのキャンプへの参加、人材交流などを行う。8月に入団テストを行い、9月に日本野球連盟に登録する予定で、広瀬総監督は「北海道のアマチュア野球を盛り上げ、3年以内に都市対抗大会に出場する。将来的に、このチームから大リーガーが誕生すれば夢のよう」と抱負を述べた。

東北に独立リーグ発足へ(7月30日)
既存のプロ野球チームと異なる東北独立リーグ(仮称)発足を目指す「東北独立リーグ開設プロジェクト」(小野木孝代表)は29日、年内に岩手、宮城で2球団を発足させ、06年4月から試合を行うと発表した。残る東北4県でも球団をつくり、09年に東北独立リーグが開幕する。岩手と宮城で8月から選手を募集、入団テストをする。11月には宮城県で宮城球団と岩手球団との試合を予定している。06年は30試合を行い、両チームの選抜メンバーで都市対抗野球予選に出場する。

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495(2005/07/29)  世界一周28億円の旅

7月14日(木)  スペインの白い巨人、銀河系軍団といわれるレアル・マドリードが米国シカゴに到着、世界ツアー開始。16日間で米国、中国、日本、タイで計6試合を戦う強行日程だが、2100万ユーロ(約28億3500万円)の収入をもくろむ。hl?c=sports&d=20050717&a=20050717-00000007-spn-spo へのリンク

一カ国目の米国は、サッカー人気は発展途上だが、レアルにとって魅力的なマーケット。念願の初遠征であり、スペイン語系テレビを中心に人気を集めた。世界ツアーの初戦が、米国のシカゴでメキシコのチームと対戦するところに戦略の味噌が感じられる。
7月15日(金) FWラウルがシカゴ・カブスの本拠地リグレー・フィールドで対パイレーツ戦で始球式を行うなど、早速プロモーション活動を展開。その後ソルジャー・フィールドで公開練習。
7月16日(土) シカゴのソルジャー・フィールドで、メキシコのチバス・グアダラハラと対戦、5万人の観衆のなか3−1で勝ち、世界ツアー初戦を飾った。st2005071810.html へのリンク
7月17日(日) 米国ロサンゼルスに移動。ホーム・デポ・センターで練習を行ったが、1人当たり30ドル(約3300円)の練習見学料を取るしたたかぶり。それでも、8500人以上のファンが詰めかけ、ベッカムやラウルに声援を送った。soccer_nikkansp_p-sc-tp0-050719-0010.htm へのリンク
7月18日(月) 「銀河決戦!Galaxy対Galactico」のキャッチフレーズのもとで行われたMLSギャラクシーの一戦で、ベッカムが右足を負傷し、米国サッカーの聖地であるホームデポ・センターの27000人のファンからため息が漏れた。チームは2−0で勝ち、ツアー成績を2戦2勝とした。soccer_nikkansp_p-sc-tp0-050720-0003.htm へのリンク
7月19日(火) ロサンゼルスを出発、機中泊。
7月20日(水) 中国北京に到着。遠征メンバーは総勢100名。疲労感があり、遠征の最初の5日間のつけが回ってきた。

二カ国目の中国は、現地のイベント会社・ビッグゲート社(1986年北京政府が設立)の拝金主義と運営のまずさから、「イナゴの襲来のようだった」と批判された。レアルに同行した報道機関各社から5万ユーロから50万ユーロを取り立てている。soccer_fuji_320050727006.htm へのリンク
7月21日(木) 夕方、北京の労働者スタジアムで練習。スタジアムの周辺には数千人のファンがどっと押し寄せたが、スポンサーの抽選に当たった千人のファンだけが練習を直接見ることができた。
7月22日(金) 北京から東へ150キロにある天津へ2時間をかけて移動。天津の泰達スタジアムで北京国安戦に備えた練習を行った。2万人のファンが詰めかけた。もちろん有料。
7月23日(土) 北京の労働者スタジアムで同国超級(1部)北京国安と対戦し、3−2で勝った。故障を抱えるFWロナウドは出場したが、MFベッカムは出場しなかった。soccer_nikkansp_p-sc-tp0-050724-0008.htm へのリンク
7月24日(日) 北京をたったレアル、東京に到着

三カ国目となった日本は、ツアーも3度目、しかも無冠ということで、食傷気味。この日、成田空港で出迎えたファンは約700人で、ベッカム人気全盛期の半分。チケット販売も苦戦している。soccer_nikkansp_p-sc-tp0-050725-0019.htm へのリンク
7月25日(月) 味の素スタジアムで東京ヴェルディと対戦。MFベッカムらベストメンバーが先発しながら、0―3とまさかの零敗を喫した。Jリーグ勢相手に4試合目で初の黒星。後半45分、台風7号の影響で突然激しく叩きつけてきた雨を合図に3万観衆は席を立った。想定外の?完敗。弱すぎる“白い巨人”を見るはめになったファンのため息は90分途切れることはなかった。kfuln20050726002001.html へのリンク
「とにかく疲れて、睡眠もろくに取れないし、大変。お願いだから、あまり動かないで。おれも動かないから」(DFロベルト・カルロス)「敗因? 疲れ以外の要素はない。長旅の影響でコンディションが最悪だった」(ルシェンブルゴ監督)
ヴェルディ戦前に医師がベッカムを診察し、試合に出さないようルシェンブルゴ監督に伝えた。監督がペレス会長に伝えたが、「最低でも45分間はプレーさせろ」と命令されたという。レアルは今回の世界ツアーの収入を2200万ユーロと見積もっている。しかし、ベッカムが出場しないと、1試合につきギャラから166万ユーロ(約2億2410万円)が減額される契約内容なのだという。soccer_fuji_320050728020.htm へのリンク
7月26日(火) 予定していた練習を中止、ホテル内の施設で体力回復のトレーニングを行う。
7月27日(水) 味の素スタジアムでジュビロ磐田と対戦。FWロナウドが、銀河系軍団の面目を保った。1−1の前半27分、自らが得たPKを決めて勝ち越し。後半ロスタイムにもゴールを奪い、磐田に3−1で完勝した。今ツアー初ゴールを含む2発でMVPに選ばれ、2日前に0−3で東京Vに惨敗した悪夢を払しょくした。soccer_nikkansp_p-sc-tp0-050728-0001.htm へのリンク

四カ国目のタイでは、昨年東南アジアの各国を襲った津波の被害者救済のチャリティマッチとして行なわれる。

7月28日(木)
レアルは、世界ツアー最後の地バンコクへ向かった。
7月29日(金)ラジャマンガラ・スタジアムでタイ選抜チーム(23歳以下代表)と対戦し、3−0と快勝。ワールドツアー最終戦となるこの試合はスタジアムには4万人の観衆が詰め掛けた。
パボン:
「勝利を挙げて、最高の形で遠征を終えました。遠征の総括は肯定的なものでしょう。今は、休養を取ってオーストリアに備えて充電する必要がありますね。シーズンに向けてハードな練習を行う時になりますので。疲れた感じがしますね。とても暑かったので。彼等は疲れ知らずでしたけど、皆さんに楽しんでいただけました。今回の遠征は、マーケティング的な要素がありますが、僕達は、それを上手く吸収して、自分達の義務を果たしてプレイすることだけに集中してました。」
7月30日(土) スペイン・マドリード到着
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494(2005/07/23)  頼りにされている人々

一茂さん、トップだ!!wind5.htm#493 へのリンク
巨人・渡辺会長、滝鼻オーナー、一茂氏でトップ会談(7月20日サンケイスポーツ)
巨人は19日、東京・大手町の読売新聞東京本社で渡辺恒雄球団会長(79)、滝鼻卓雄オーナー(65)、長嶋一茂球団代表特別補佐(39)らによるトップ会談を行い、チーム再建策などについて話し合った。この日、滝鼻オーナーは後半戦に向けたテコ入れを再度明言。チーム強化に関する強権発動を示唆した。

孫さん、今度は代表だ!! wind5.htm#420 へのリンク
WBCに交渉団、孫オーナーら諸条件改正へ(7月20日日刊スポーツ)
来年3月開催予定で日本プロ野球組織(NPB)が参加方針を決定していたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)について、大リーグ側を相手にした「交渉団」が結成された。19日のオーナー会議で議長のオリックス宮内オーナーが委員長に、副委員長にはソフトバンク孫オーナー、ロッテ重光オーナー代行が就任。利益配分の不利や開催方法などが問題視されつつ、6月20日にNPBが“無条件降伏”する形で参加を決めていたが、交渉団が諸条件改正を目指すことになった。

山崎、石渡さん、今度は国際弁護士だ!!wind5.htm#403 へのリンク 000826.html へのリンク
国際大会必要性は全員一致も「現状では参加できない」と決議(7月23日スポーツ報知)
選手会はWBCについて「第1回大会から開催要項の見直しがない限り、参加しない」という方向性を確認した。先のオーナー会議では、オリックス・宮内オーナーを委員長とする交渉団が開催要項変更の交渉をMLB側と行っていくことが発表されたが、それとは別に、選手会は山崎、石渡両顧問弁護士を窓口に、先方と交渉を行っていくことも明らかにした。2012年のロンドン五輪から野球が除外されることもあり、国際大会の必要性という点では全員が一致。しかし、WBCの3月開催には難色を示す意見が多く〈1〉3月予選、7月に本戦を行うこと〈2〉MLB主体の運営形式からの変更を求めてMLB、選手会側に要望を出す―ということで一致した。

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493(2005/07/20)  長嶋さんに群がる人々

渡辺前オーナーが球界復帰を明言(スポーツ報知)6月4日
巨人前オーナーの渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長(79)が3日、TBS系のテレビ番組「時事放談」の収録を行い、球界復帰することを明言した。また、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督(69)の復帰時期についても「今月中にはね」とし、東京ドームでの復帰観戦プランを示唆。「一茂君に連れてきてもらえばいいんじゃないかな」と同前オーナーは話した。

北京五輪 長嶋さん「適任」 (スポーツニッポン)6月7日
全日本アマチュア野球連盟の長船騏郎副会長(81)が6日、都内で行われた全日本野球会議出席後、08年北京五輪に向け、長嶋茂雄前日本代表監督(69)の復帰を強く希望する考えを示した。

長嶋さん復帰、近日中に公式発表…一茂氏が明言(サンケイスポーツ)6月9日
長男で球団代表特別補佐の一茂氏(38)が8日、今後の見通しについて語った。10日からの西武戦(東京ドーム)での復帰が有力視されているが、同氏は「日時についてはまだ決まっていません。本人は(球場に)行きたいと思っているでしょうし、1週間から4、5日前にはリリースすると思う」と近日中に公式発表することを明言した。

7月3日は一茂氏らと観戦 脳梗塞から復帰の長嶋氏(共同通信) 6月30日
7月3日の巨人−広島戦(東京ドーム)を観戦し、脳梗塞(こうそく)から1年4カ月ぶりに公の場に姿を現す長嶋茂雄元巨人監督(69)は巨人球団代表特別補佐を務める長男・一茂氏のほか、滝鼻卓雄オーナー、渡辺恒雄球団会長らとともに観戦する。30日に球団が説明した。

渡辺会長、長嶋さんと観戦 (スポーツ報知)7月3日
巨人・渡辺会長と滝鼻オーナーがスイートルームで、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督とともに観戦した。試合後、敗戦に渡辺会長は「勝てば良かった。先発投手を間違えたんじゃないかな」とチクリ。ミスターについては上機嫌に「相当な回復ぶり。これからは来たいときに来てもらうようにした」と話したことから今後、頻繁に観戦することがありそうだ。また、チームについて「これから4試合を3勝ペースでいけば、優勝だ」と冗舌だった。滝鼻オーナーは「(ミスターと)会うたびに言語明晰(めいせき)になっていることがうれしい。元気だね、驚いた」と回復ぶりに目を細めた。低迷するチーム状況については「(5日からの)長期ロードだな。踏ん張りどころは…」と厳しい表情だった。

長嶋さん観戦の巨人―広島戦、視聴率は13.5%(朝日新聞)7月4日
プロ野球巨人の長嶋茂雄・終身名誉監督が観戦した、3日の巨人対広島戦(日本テレビ系)の平均視聴率が13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが4日分かった。開幕から6月末までの巨人戦ナイター視聴率の平均12.0%を上回った。ナイター番組より前に長嶋さんの姿が放送された「真相報道バンキシャ!&ナイター」(同局系)の視聴率は15.2%だった。

ミスター視聴率 瞬間最高18.3% 復帰で笑顔で「バンキシャ」もアップ(スポーツ報知)7月4日
氏家議長によると次の観戦日は未定。「もちろん彼の健康が第一。本人が来る意思があれば、万全の態勢を整えて意思に沿うようにやりたい」と話していた。 日テレの氏家議長は「彼の治り方は奇跡的に早いそうです。完全に近い形まで回復する可能性がある。いろんな形でみなさんの前に出ることを、当人も考えるかもしれない」との見通しを話していた。

日テレ巨人戦の定時終了も、氏家氏語る(日刊スポーツ)7月5日
ゴールデンで4位に沈んだ日本テレビ氏家斉一郎取締役会議長(79)は4日、巨人の成績不振が続いた場合は「後の番組とのニーズも考えて(延長せずに午後9時)定時終了ということもあるかもしれない」と語った。

テレ朝視聴率2位!ゴールデンで開局初(日刊スポーツ)7月5日
在京キー局の視聴率争いに異変が起きた。テレビ朝日が4月クール(4〜6月)のゴールデンタイム(午後7〜10時)視聴率で59年の開局以来初めて2位になったことが4日、分かった。3カ月平均12・9%(ビデオリサーチ調べ)で、フジテレビ14・6%に続いた。巨人戦中継など低迷で4位に転落した日本テレビの「敵失」に乗じた形だが、テレ朝は見学者にプレゼントを配るなど快挙に沸いた。

巨人を私物化するYOMIURIの勘違い7月19日海老沢泰久

7月3日のことだ。去年の3月に脳梗塞で倒れた長嶋茂雄氏にまだ不自由なからだで東京ドームを訪れさせ、「顔見せ興行」とやらをおこなわせたのである。

「顔見せ興行」といったのは日本テレビの氏家斉一郎議長という人物だが、興行には必ず興行主が控えている。むろん、それは日本テレビを含む読売新聞グループで、長嶋氏と同席した渡辺恒雄氏や滝鼻卓雄氏といった読売新聞首脳の面々がそれをよく物語っていた。

この興行は成功した。6月のジャイアンツ戦の平均視聴率は過去最低の10.1%で、23試合のうち11試合が一桁だったそうだが、7月3日の試合は13.5%で、長嶋氏が球場に姿を見せていたときのVTRシーンは16.9%を記録したらしいのである。

しかし、そんな一時的な成功にどんな意味があるというのだろう。ぼくは失ったもののほうがずっと大きいと思っている。なぜなら、長嶋はかつてジャイアンツがみんなのジャイアンツだったように、みんなの長嶋だった。ところが、読売はこんどのことで、ジャイアンツと同じように長嶋氏のことも読売の長嶋にしてしまったのである。読売ではなく巨人のだったから、そして巨人の長嶋だったから圧倒的な人気を得ることができたのに、どうしてファン層をわざわざ限定するようなこういうバカなことをするのだろう。ぼくにはまったくわからない。

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492(2005/07/19)  巨人の人事異動

巨人 原前監督に来季の監督就任要請へ(スポーツニッポン) - 7月18日

巨人が、原辰徳氏(46=前巨人監督)に来季の監督就任を要請することを決めた。巨人は17日現在、首位・阪神に13・5ゲーム差をつけられ、V奪回が絶望的となっている。堀内恒夫監督(57)の今季限りでの退団は確実。読売本社および巨人は後任人事を検討してきたが、17日までに原氏で一本化した。今週中に滝鼻オーナーが原氏と会い、就任を要請する。

巨人が原氏に絞った背景にはファンの支持がある。TBSラジオが5月、堀内、星野、中畑、江川、原の5氏を対象に「巨人の監督は誰がいいか」をアンケート調査した結果、47%の圧倒的な支持を受けたのが原氏だった。

滝鼻オーナーはこの数日間、堀内監督の途中休養を否定するとともに、来季の体制に関しては「なるべく早いうちにピシッとやる」と断言。今月から球団会長に就任した渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長も「考えてなかったら、何で会長に復帰したんだ、となる。考えていなかったらバカだ」と後任監督の人選が大詰めに入ったことを示唆していた。

滝鼻オーナーはつらいよ…原、巨人監督へ手腕問われ(夕刊フジ)7月19日

球史に名を残せるか!? 昨年8月に就任したものの、いまひとつ影が薄かった巨人・滝鼻卓雄オーナー(65)が大舞台に立つ。一気に走り出した巨人の来季監督問題で、渡辺恒雄前オーナー(現球団会長)に代わって交渉を任されたのだ。

渡辺氏は6月に球団会長の肩書で巨人復帰した際、「球団現場の最高指揮権は、これまで通り滝鼻オーナーにある」とコメントしたが、と同時に、「今後、おれは何もしゃべらない。スポークスマンはオーナーか球団代表。おれは経営の最高責任を果たさないと」とも発言した。

もちろん、親会社内では、読売新聞グループ本社会長の渡辺氏の方が、東京本社社長の滝鼻オーナーより数段格上。それでも、本来「球団所有者」を意味するオーナーの“存在の軽さ”は、やはり異様に映る。

渡辺会長が政治部出身で、中曽根元首相との親交をはじめ、政界に強い影響力を誇るのに対し、滝鼻オーナーは法律に詳しく、読売新聞社の社会部長と法務室長を兼務したことがあるほどの実務家として知られる。

ところが、そんな温和な滝鼻オーナーがさる14日、会食先の都内ホテルで、「(巨人再建策は)なるべく早いうちに、ピシッとやります。なんとかしないと野球人気自身がおかしくなっちゃう」と明言し、ストーブリーグの口火を切った。

後任監督候補の本命が原氏となれば、滝鼻オーナーが前面に出なければならない事情もある。原氏は監督時代の03年9月、3年契約の2年目ながら、当時の渡辺オーナーから「(対阪神3連戦に)3連敗したら話は別」と解任を示唆されて紛糾。渡辺会長の懐刀といわれた三山代表(当時)とも確執を生んで、最終的に辞任へ追い込まれた経緯があるからだ。

親会社の社長なのに、辛い立場にある滝鼻オーナー。先のみえないストーブリーグの主導権を握ってさばき切ることができるのか。それが可能なら、巨人の“二重構造”に終止符を打つきっかけになる。

滝鼻オーナー、一部の「次期監督に原氏」報道否定(毎日新聞)7月19日

巨人の滝鼻卓雄オーナー(65)は19日、次期監督として前巨人監督の原辰徳氏(46)の名前が一部報道で取りざたされていることについて、「(球宴前の)こういう時期に人事の相談をするわけない」と否定。堀内恒夫監督の途中交代の可能性についても「少ないというより、ないと言った方がいい」と述べた。

一方、原氏は自宅前で報道陣の質問に答え「(就任要請があったかとの問いに)まったくない。シーズン途中にそんなことコメントするのもおかしい」と否定した。

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491(2005/07/09)  ロンドン大会から野球が五輪の実施競技から外れる(3)

今回の総会前にIOCプログラム委員会が発表した報告書では、競技の普及度や運営コストだけでなく、アテネ五輪でのチケット販売やテレビ中継の状況、競技発展に向けた将来計画まで、33項目にわたって評価し、2年半の間の取り組みをあぶり出した。昨夏のアテネ五輪の入場券で野球は53.2%しか、ソフトボールは51.7%しか売れなかった。また、「国際野球連盟は、MLB、選手会との交渉でトップ選手を五輪に出場させる合意を結べていない」と野球に厳しい記述が並べられ、ソフトボールは「テレビの放映時間、新聞記事が少ない」とメディアでの露出の低さが指摘されていた。
0708sokuho029.html へのリンク

IOCが野球を2012年ロンドン五輪から除外したことを受けて、非協力的とされたMLBは8日、「IOCは世界のスポーツファンに背く過ちを犯した」との非難声明を発表した。MLBは大リーガーが参加する来春の国別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック」を五輪に代わる国際大会と位置づけ、五輪とたもとを分かつ姿勢を鮮明にした。今回の五輪の野球除外は、世界最高の大会にしたいIOCとそれに非協力的なMLBとの利権争いという面も持っている。20050709k0000e050016000c.html へのリンク

独自路線を貫くMLBとは異なり、日本にとって五輪競技化は重要な意味を持っていたと思うが、アテネ五輪の代表監督だった長嶋氏は「2012年の開催地がロンドンに決まってから、野球が除外される可能性があるとの話をうかがい、動向を気に掛けてました。92年のバルセロナ大会で正式種目として採用されてから、昨年のアテネまで4大会が経過し、ようやく野球も五輪競技の1つとして定着しかけてきただけに、08年の北京を最後に除外になるのは非常に残念です」。とコメントを残しているが、NPB関係者の間に本当に危機感があったのか、甚だ疑問である。
p-bb-tp0-050709-0009.html へのリンク

また、人気や普及度で野球以上に不利とされながら欧州の伝統がある近代5種は存続し、米国生まれの野球は、欧州が主流のIOC委員には「新規参入者」にしか映らなかったのだろう、という指摘もある。ただし、イギリス伝統のゴルフやラグビーの採用も否決された。p-bb-tp0-050709-0010.html へのリンク

ピーター・ユベロス氏が持ち込んだ五輪ビジネスの目玉が野球であった。その野球が五輪ビジネスのために、実施競技から除外されることになった。歴代会長8人のうち7人までが、欧州出身者が占める、IOCは欧州の貴族サロンとも揶揄されるが、五輪収入の52%を占める放映権料の大半は米国のNBCによるものである。

野球の五輪競技化は、野球の世界的普及のためにと考えた元ロサンゼルス・ドジャース会長、ピーター・オマリー氏とその会長秘書だった故アイク生原氏、そして、ベースボール・マガジン社の社長だった故池田郁雄氏ら日本人野球関係者の尽力と努力の賜であった。彼らの努力と尽力を無に帰してはならない。(「ドジャースと結婚した男」生原喜美子著 ベースボール・マガジン社)wind1.html#40 へのリンク

最後に、スポーツ新聞の「野球には無縁のロンドン」という指摘は問題であろう。

なぜなら、イギリスにもプロ野球があったからである。作家の佐山和夫によれば1890年、National Baseball League of Great Britain and Irelandなるプロ野球リーグがイングランドの4チームで結成され、その後イングランド北東部で人気を博したという。ただし、それ以上の人気を得ることはできなかった。

その後、再びイングランド北部で野球人気が盛り返し、1933年には、ナショナル・ベースボール・アソシエーションが結成され、やがて、ヨークシャーやランカシャーにも人気が広がり、日本職業野球連盟が結成された同じ年の1936年、ヨークシャー・リーグが結成され、プロ野球が復活する。ただし、この野球ブームも、1939年までで、第一次世界大戦の勃発でイギリスの野球ブームは水が差されたと言われる。

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490(2005/07/09)  ロンドン大会から野球が五輪の実施競技から外れる(2)

1995年、IOCのサマランチ会長(当時)は、米NBCと独占契約を結び、2000年から2008年まで開催地未定を含む夏冬5大会の、35億5千万ドルの長期契約は、テレビ放映権の概念の革新をもたらした。その後、開催地未定だった2010、2012年の放映権なども、NBCが一括22億100万ドルで落札。夏季五輪の前大会比で32%増と、驚異の伸びを見せた。五輪全収入の52%を占める放送権料、その大半を米国NBCという一企業に依存するいびつな構図ができあがった。mo2004041701.htm へのリンク

この巨額の放映権料を背景に、2000年シドニー五輪に至り、199か国・地域の1万651人が300種目で競う巨大イベントになった。役員、報道陣、組織委、スポンサー招待客ら、五輪関連施設に入る認定証を持つ「参加者」の数は約20万人。政府負担の建設費を除いた運営費だけで、20億ドルに上った。「サマランチは(新競技を)追加し、追加し、そして追加した。問題は我々が一度もノーと言わなかったことだ。シドニー五輪の規模が限界だ」(ディック・パウンド元副会長)。mo2004042801.htm へのリンク

テレビ映りのよいスノーボード、ビーチバレーが五輪競技に導入され、「テレビは、五輪巨大化に著しい影響を与えた。もし今の世にテレビがなかったら、五輪の競技数は間違いなく少なく、参加国、参加選手の規模も小さいだろう」。(五輪商業主義を分析した本「五つの輪を売る」の共著者、ウィルフリッド・ローリエル大のステファン・ウェン準教授)

五輪の肥大化と商業主義化は、IOCの腐敗をもたらし、1998年の開催地招致を巡るスキャンダル発覚を契機に、IOCは組織の体質変革が図られいった。国際競技団体の代表らが加わり、2001年に就任したジャック・ロゲ新会長の下で、さらに実務型に変容していった。その一方で、商業主義路線は継承したため、組織はビジネスを重視する側面が強まったとの指摘がある。

また、ロゲ新会長は、会長選の公約で五輪肥大化対策を挙げ、新規に任命された「五輪検討委員会」(パウンド委員長)は、五輪競技・種目数の増加を肥大化の最大要因に指摘し、野球、ソフトボール、近代五種の3競技を除外候補に挙げた。2002年の総会で野球など3競技の除外は、一旦見送られたが、IOCは世界的な普及拡大や、大リーグなどトップ選手の五輪出場に向けた改善を課した。20050708dde035050035000c.html へのリンク

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489(2005/07/09)  ロンドン大会から野球が五輪の実施競技から外れる(1)

国際オリンピック委員会(IOC)は8日、シンガポールでの第117回総会で、2012年ロンドン五輪の実施競技から野球、ソフトボールを除外することを決めた。1992年バルセロナ五輪で正式採用された野球は、世界的な普及度の低さなどから支持を得られず、5大会で五輪から姿を消すことになった。開催地が、野球には無縁のロンドンに決まったことも作用して、逆風が一層強まったとみるのが妥当だろう。(2005.7.8サンスポ)0708sokuho029.html へのリンク

野球は、1992年のバルセロナから正式競技となったが、五輪に登場したのは、1984年のロサンゼルス大会の公開競技からである。ロサンゼルス大会で野球の五輪競技採用に熱心だったのが、大会組織委員長であったピーター・ユベロス氏であった。

1960年代から70年代にかけ、五輪は巨大化、肥大化の道をたどり、開催には膨大な経費がかかるために、開催地に立候補する都市も極端に減り、主催者のIOCを困惑させていた。特に1976年のモントリオール大会はオイルショックも重なり、膨大な赤字をだしたため、モントリオール市では20世紀末まで、返済のために税金が使われることとなった。15.htm へのリンク

このため、モントリオール大会から2年後の78年、1984年夏季大会の開催地に、立候補したのは米国のロサンゼルス1市だけだった。それも、連邦政府、州政府、ロス市から1ドルの補助金も受けられないので、民間の大会組織委員会を設立し、そこで運営資金を調達して大会を開催するというものであった。

組織委員長となったユベロス氏は、3大ネットワークの1社と巨額のテレビ放映権の独占契約を結び、また、協賛企業とは、1業種1社、34社に限定し、高額の協賛金の見返りに、五輪マークの入った大会のシンボルマークを広告に認めた。この五輪ビジネスの目玉が野球の採用であった。ロサンゼルス大会では、野球は公開競技にとどまったが、ドジャー・スタジアムで行われた試合には、8日間で38万5千人が訪れ、野球より多くの観客を集めたのはサッカーと陸上競技だけだったという。

結局、巨額の放映権料と協賛金はロサンゼルス大会を黒字に導き、このユベロス方式は、その後の五輪に踏襲され、五輪は、ますます商業主義化し肥大化していった。そして、その最大の推進者がサマランチ前IOC会長であった。

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488(2005/06/26)  究極のネーミングライツ

2002年のFIFAワールドカップ(W杯)の決勝戦が行われた横浜国際総合競技場(横浜市港北区、約72,000人収容)のネーミングライツ(命名権)を、日産自動車が施設管理者の横浜市から取得し、同競技上は2005年3月1日から「日産スタジアム」に改称された。

契約は5年間で取得額は23億5000万円。市は売却で得た資金を施設管理費に充てる。同競技場は日産が親会社を務めるサッカーJリーグ1部の横浜F・マリノスの本拠地。日産は2010年までに本社機能を現在の東京・銀座から横浜市に移すことも決めている。
日産スタジアムへのリンク
日産スタジアムHPへのリンク

ところで、企業名の入ったスタジアムではFIFAの公式戦は開催できない、そうだ。このため、8月17日のW杯予選・日本代表vsイラン代表戦は、旧名称の「横浜国際総合競技場」で開催される。また、トヨタカップに代わり今年から開催されるFIFA世界クラブ選手権においても、「横浜国際総合競技場」の旧名称を使用することで決着し、日産スタジアムのロゴを覆うなどの措置を取った上で、豊田スタジアム、国立霞ヶ丘陸上競技場と共に会場となる事が決まった。決勝戦は「横浜国際総合競技場」で開催される事になっている。

それなら英語名TOYOTA STADIUMの豊田スタジアムは、どうなのだろうか。もちろん、豊田スタジアム(とよたすたじあむ)は愛知県豊田市が市制50周年記念事業の一環として2001年7月21日に開設した球技専用のスタジアムであり、豊田スタジアムの「豊田」は企業名ではなく、地名であり、FIFAの規定には抵触しない。
豊田市スタジアムへのリンク
豊田スタジアムHPへのリンク

しかし、豊田スタジアムは、現在、トヨタ自動車が親会社の名古屋グランパスエイトの準ホームスタジアムとなっている他、ラグビーのトヨタ自動車(2004年 - 2005年シーズンからトップリーグ参加)の本拠地になっており、トヨタ自動車との関係は深い。

そもそも、愛知県中部に位置する豊田市には、トヨタ自動車の本社と工場が集中し、豊田市はトヨタ自動車の城下町として発展してきた。豊田市の名称はトヨタ自動車にちなんで1959年1月1日挙母市(ころもし)から改称されたものであった。

名称の変更にあたっては、挙母(ころも)という地名は、千年有余の歴史をもった由緒のある地名であり、「トヨタの発展なくして豊田なし」「千年以上の歴史のある挙母の名前を消してはならない」と市を二分する大論争になった。ところが、トヨタ自動車系の市長が当選するに及んで、挙母市から豊田市へ、本社工場が置かれている地はトヨタ町へとその名称が変更されたのであった。
東海の輝きへのリンク
挙母は豊田なのかへのリンク

つまり、トヨタ自動車は、今風にいえば、市名の命名権を無料でかつ半永久的に取得したのであり、さらに、豊田スタジアムの命名権も無料でかつ半永久的に取得していたのである。そもそも、豊田スタジアムは、2002年のFIFAワールドカップ(W杯)の会場として計画されたものであり、もし思惑どおり会場になっていたら、その宣伝効果は計り知れないものがあった。

W杯会場として、当初は15都市の1つに選ばれていたので、準決勝大会を目指して収容6万人で計画された。その後、日韓共同開催になって、その会場が10都市にしぼられたとき、第3の人口集積地であるにも拘らず愛知県(豊田市)は選からもれてしまった。そのため既に進行していた設計を基本から見直し、収容人員を45,000人と縮小して設計が進められた。

その豊田スタジアムも、ようやく、FIFA世界クラブ選手権で世界の日の目をみることになる。日産は、5年間で23億5000万円を支払ったにもかかわらず、FIFAの主催試合ではその名称を使用することができない。これに対し、トヨタ自動車は、無料で「TOYOTA」の名称をFIFAの主催試合で使用されることになる。トヨタ商法恐るべし。
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487(2005/06/25)  瀬戸内オリックス野球団

札仙広福(さっせんひろふく)といわれる札幌、仙台、広島、福岡は、ブロック(地方)中枢都市として、東京圏、名古屋圏、大阪圏に次ぐ都市圏を形成している。札仙広福の各都市には、企業のブロック支店や国のブロック出先機関がおかれ、ブロックの中枢都市として、ブロック圏の経済力を吸収する消費都市、権力都市としての性格をもっている。このため、人口の規模に比べ工業出荷額が小さいが、事業所数、小売販売額が多いという特徴をもつ。

そのなかで、広島は、札幌、仙台、福岡の各都市と比べると、生産都市としての性格も持ちあわせ都市単独での自立性をもっている。ところが、逆にブロック圏における中枢機能では劣っているといわれている。そもそもブロック中枢都市としての広島のいうブロックとは、中国なのか、中国・四国なのか、はっきりしない。隣県の山口は、九州との結びつきが強く、道州制では、九州・山口経済連合会としても活動している。また、岡山は、広島へのライバル意識を持ち、道州制の中四国州というのは、岡山の主張とされている。そもそも、岡山は関西との結びつきが強い。
※山口県の企業はもちろん中国経済連合会にも加盟しています。中国経済連合会との関係から、九州・山口経済連合会の名称から山口をはずすことも検討されているようです。中国経済連合会のみに加入している企業は40社、九州・山口経済連合会のみ加入している企業は10社、両方に加入している企業は10社ということです。(7月16日朝日新聞)

札幌は北海道圏、仙台は東北圏、福岡は九州圏の行政、交通、商業、文化の中枢としての機能を持っているが、広島は中国圏、または中国・四国圏の交通、商業、文化の中心地とは必ずしも言えないという弱点を持っている。これが、今の広島東洋カープの低迷に繋がっているのではないだろうか。カープは、観客動員も伸び悩み、老朽化した広島市民球場に換わる新球場建設の話もなかなか進んでいない。さらに、ホークスは、隣県の山口をマーケットとして考えており、岡山は伝統的に阪神ファンが多い。

これに対し、福岡を本拠とするソフトバンク(旧ダイエー)・ホークスは、単なる地方都市の球団としてではなく、九州というブロック圏を代表する球団として観客を集めている。また、札幌には北海道日本ハム・ファイターズが昨年から、仙台には東北楽天ゴールデンイーグルスが、本拠地をおき、ブロック圏を念頭に名称も付けられこれまた人気が定着しつつある。

中国地方の岡山・倉敷地区には、人口120万を擁し、広島市に匹敵する人口集積地がある。道州制では、中四国州の州都を目指している。また、倉敷には、近代的な倉敷マスカット球場がある。

四国の愛媛県松山市は人口50万人を擁し、四国最大の都市で、四国州の州都を目指している。また、松山にも、松山坊ちゃんスタジアムという近代的な球場がある。

瀬戸内オリックス野球団の話は、ファンである二宮清純が、低迷する広島カープならした警鐘であろう。

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486(2005/06/22)  ナベツネ球界復帰

渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長は、球界再編問題で揺れるさなかの昨年8月13日、巨人スカウトがドラフトで獲得を目指していた明大(当時)の一場靖弘投手(22)=現楽天=に栄養費など約200万円を渡す不正があったとし、読売巨人軍オーナーを引責辞任した。

ところが、渡辺会長は5月9日、週刊誌を相手に損害賠償などを求めた訴訟の本人尋問(東京地裁)で一場問題について「私には罪の意識はない。社会的責任はないとはっきりいえる」と述べ、6月7日の読売巨人軍の決算取締役会で球団の代表取締役会長への就任が内定、わずか10カ月で球団トップに返り咲くことになった。明日(23日)の株主総会などで正式決定となる。

渡辺会長のオーナー辞任後、阪神と横浜も一場投手に対する現金授受が明らかになり、阪神・久万、横浜・砂原の両オーナーが責任をとり辞任をしている。不正授受に対する引責辞任に先鞭をつけた前オーナーが、「私には罪の意識はない」として辞任後、わずか10ヶ月で球界に復帰するとは、「世間的には野球界は何なんだ、と思うだろう。(横浜・山中正竹球団専務)」。
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01.html へのリンク
20050510ddm012040117000c.html へのリンク

それでは、「罪の意識のない」渡辺会長が、なぜ、オーナー職を辞任したのだろうか。理由には、一つには、一場投手への不正授受発覚に右翼団体が関与していたことが挙げられる。A捕手やT外野手への何千万、何億という裏金問題に飛び火する恐れがあったし、身に危険さえ感じられていたようだ。

二つ目は、渡辺会長の「たかが選手」発言以降、ファンや購読者からの反発が強まり、読売新聞の不買運動が起きていたこと。渡辺会長の権力の源泉は、読売新聞の1千万部という購読数にあり、その1千万部という部数も販売店への押し紙によって維持されていると言われている。不買運動は、販売店の反発を招き、1千万部割れすると権力の維持ができなくなる恐れがあった。

三つ目が、渡辺会長が日本テレビ株6.35%(時価200億円超)を所有していた問題であった。どうやって株を取得したのか、読売新聞から譲渡されたとしたら、税金をどうまぬかれたのかと、週刊ポストが去年の春、既に指摘していた。

この機に乗じて、渡辺会長によって永年虐げられてきた社会部が、政治部にとって変わろうとしたのが去年の状況だったと思う。滝鼻オーナーは、渡辺会長の後を引き継ぎオーナー会議議長として、楽天の参入と交流戦まではうまく球界をリードすることができたが、その後のドラフト改革では、完全ウェーバー制を主張するオーナー会議新議長となったオリックス宮内オーナーとの路線対立が鮮明化していた。

堀内巨人軍の低迷もあり、球界の動きにうとい社会部には巨人軍を任せておけないと、政治部から渡辺会長の復帰待望論がでたという。このころには、渡辺会長がオーナー職を辞任した原因は、どこかに消えていた。

渡辺会長の復帰にあたって、いろいろな噂がでたが、面白いのが二宮清純の広島アスリート携帯サイトのコラム情報。 内容は、「今回は外堀から埋める作戦で選手会にもコンタクトをとっているようだ」「狙いは10球団による1リーグ東西2地区制。広島とオリックス、横浜とヤクルトを合併させるんじゃないか。宮内さんに広島を買収してもらって瀬戸内一円をフランチャイズにすれば優良球団になる」というものだという。
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交流戦で打撃を受けたのがまさに、セ・リーグの広島、横浜、ヤクルトの3球団であり、オリックス宮内オーナーのフランチャイズ・チェーン論と読売の自由競争論を両立させるには、オリックスに広大なフランチャイズ(ビッグマーケット)を与えるしかない。これらを一挙に解決するのが、まさに二宮説である。

これに呼応するように、阪神の岡田、ソフトバンクの王監督が1リーグ制を主張し始めた。
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485(2005/06/15) 企業と球団の興亡史 PartU(三四)

中日と民放テレビ その2

さて朝日・読売・毎日、つまり中日以外の新聞社寄せ集めテレビ局の行方はどうなったのか。名古屋放送(現・名古屋テレビ・メ〜テレ)はトヨタ自動車販売(現、トヨタ自動車)の神谷正太郎を中心に、朝日、毎日、読売の三大新聞社と日本テレビ放送網、日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)の出資により、名古屋で初めての非中日系放送局として設立された。このため、当初は日本テレビとNETのクロスネットとして開局した。

開局が遅かったことから、テレビ塔のアンテナの位置も一番低く映りが悪く、また反中日ということで中日ドラゴンズ主催試合の中継権が与えられていない。中日以外の新聞社が母体ということで中日からは疎ましく思われているようだ。

なぜそれが今も続いているのか、それはこの後に開局したテレビ局も反中日ではなかったからだ。名古屋テレビの次に開局したのは中京ユー・エッチ・エフテレビ(現・中京テレビ)。中京テレビは1969年4月に主として東海銀行(現、UFJ銀行)を中心とした中京財界をバックボーンとして開局した。先発局であるCBCと東海テレビ放送が設立に深く関わったが、新聞資本はこれら先発局と関係の深い中日新聞社が集中排除の原則から出資を見送り、結局日本経済新聞社の出資を受ける事となった。

中日と日経は販売提携を結んでおり敵対関係ではなかったことから、中日と中京テレビもつかず離れずの関係となっており、中京テレビに対してもドラゴンズ主催試合の中継権が与えられることはないが、意外にも名古屋におけるドラゴンズ応援番組の元祖は中京テレビで、中京サイドも中日に対して特に敵対心を持っていないことが伺える。現在、中京テレビは日本テレビ(読売)系となっているが、今も巨人ではなく中日ドラゴンズ応援というスタンスを変えていない。

日経は当時NETに出資しており、またそのNETは名古屋テレビとネットワークを結んでいたが、その名古屋テレビの番組編成主体は日本テレビ系列であり、どちらかといえばNET系列は劣勢だった。

こうした経緯もあり、中京テレビは当初NETを中心とした番組編成を基本方針とした。しかし、名古屋テレビはNET系列の有力番組を離さず、またNETの実質親会社となっていた朝日新聞社も先発局で朝日も出資している名古屋テレビとのネットに拘った。さらに中京テレビはUHF放送であるため視聴には別途コンバーターの購入が必要となる事で、広告媒体として不利であると見られていた。このため、NETも日本テレビも名古屋テレビとの関係強化ばかり腐心していた。

結局、中京テレビは、名古屋テレビの番組編成から外れたNETと日本テレビの番組を組み合わせて放送する事となった。また、1969年12月に日経は東京12チャンネル(現、テレビ東京)の経営に参加したため、中京テレビの番組編成にも東京12チャンネルの番組が加わった。こうして東京の弱い番組ばかり集めた初期の中京テレビは相当苦戦していた。

この不利なネットワーク環境は1972秋、土曜日の番組編成を巡る名古屋テレビと日本テレビとの間の関係悪化で急転換し、日本テレビは敢えて中京テレビと完全ネットワークを結ぶ事を決意。日本シリーズ中継を手始めに中京テレビと日本テレビは関係が深まり、1973年4月中京テレビは日本テレビと完全ネットを結び、同時にNNNにも加盟した。逆に名古屋テレビはNETと完全ネットを結び、NNNも脱退。これまで60%を占めていた日本テレビ系列の番組が姿を消し、名古屋テレビは以降苦戦を強いられる事となった。

三重県の放送局も中日は支配する。1969年12月開局の三重テレビ放送は当初、中日新聞と伊勢新聞両社のニュースを放送していたが、東海テレビが、三重テレビと資本関係を結んでおり、資本は完全に中日系だった。次第に伊勢新聞を追い出すことに成功。現在は完全に中日新聞系のテレビ局になっている。三重テレビのプロ野球中日ドラゴンズ戦の制作を東海テレビが支援している。

そして1983年9月に日本経済新聞社がテレビ愛知を開局するが、こちらは日経・中日の事実上合弁という形になっている。岐阜放送・三重テレビがテレビ東京の番組をテレビ愛知開局前から多くネットしている関係で中京広域圏ではなく、愛知県のみを放送対象地域とした県域放送として放送免許が下りた。なお、これまで日経と関係のあった中京テレビ放送は、テレビ愛知の開局で主要株主が日本テレビグループに移行した。

このように、名古屋で中日以外の新聞社資本となっている放送局というのは、名古屋テレビ(メ〜テレ)だけだった。中日ドラゴンズの主催ゲームは、東海テレビ、CBCテレビ、三重テレビ、テレビ愛知の中日新聞系列のテレビ局に独占され、読売ジャイアンツの主催ゲームは、名古屋では中京テレビがネットしている。

(敬称略)
引用文献
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484(2005/06/15) 企業と球団の興亡史 PartU(三三)

中日と民放テレビ その1

名古屋地区の民放テレビ局には、TBS系列の中部日本放送(CBC)、フジテレビ系列の東海テレビ放送、テレビ東京系列のテレビ愛知、テレビ朝日系列の名古屋テレビ、日本テレビ系列の中京テレビの5局があるが、このうち、CBC、東海テレビ、テレビ愛知の3局が中日新聞系列でる。さらに、三重県を県域放送とする三重テレビも愛知県の東三河北部を除く全域に電波が届くが、この三重テレビも中日新聞系列である。これは東京や大阪では考えられないことだが、この系列化は当初からあったわけではない。

戦後の民放ラジオ局の開設にあたっては、各地で新聞社が放送局獲得に動き、東京では朝日・毎日・読売が3社共同でラジオ東京(現・TBS) を、大阪では朝日放送と新日本放送(現・毎日放送)が別々に申請し、調整には時間がかかっていた。

名古屋だけは当時から強大な力を持っていた中部日本新聞が他の新聞社を寄せ付けることなく、そのままの社名である中部日本放送(CBC)を設立。1社単独のために準備もすんなり進み、東京や大阪よりも先に免許申請することができ、競願社も無く開局も1番乗りとなった。

CBCでは東京のキー局を求める事となったが、中日と競合する朝日や毎日の系列局では具合が悪かったため、当時名古屋に進出しておらずかつ中日と編集協定を結んでいた読売と手を携える事になっていた。ところが、東京キー局が、朝日・毎日・読売が3社共同のラジオ東京に一本化されたため、CBCもラジオ東京をキー局とする事となった。

CBCがラジオ局として1951年9月に開局すると、近隣の三重と岐阜にもラジオ局が開局。伊勢新聞を主導に1953年12月開局したラジオ三重と、1955年3月開局の岐阜放送(現在の岐阜放送とは無関係)で、中日はこれら2局に接近。岐阜放送は中日、岐阜タイムス(現・岐阜新聞)と複数の新聞社が相乗りの形だったため中日と元々関係があったが、伊勢新聞主導だったラジオ三重についても「中日新聞ニュース」を受け入れさせるようになる。

ラジオに続きテレビ放送が始まり、CBCが1956年12月に名古屋の民放として初めてのテレビ局として開局する。これによりCBCはラジオ・テレビ放送両方を持つことになり、中日新聞は名古屋における民放ラジオ・テレビ全てを支配することになる。朝日、毎日、読売など他の新聞社も共同で放送局設立へと動くが、申請には至らなかった。

そして名古屋に2局目のテレビ局の電波が割当てられる。通常、ここで中日がテレビ局を申請したとしても開局はあり得ないはずであったが、実際にはそれが実現してしまう。

1956年、岐阜放送はラジオ東海に、ラジオ三重は近畿東海放送とそれぞれ社名を変更。ラジオ東海と近畿東海放送は共同で新東海放送を設立し、さらに競願となった2社(東海テレビ、東海放送)と共同で新東海テレビ放送を設立。新東海テレビ放送は名古屋のテレビ第2局の座を射止め、1958年12月東海テレビ放送として開局。

東海テレビはラジオ東海と近畿東海放送のテレビ局という位置付けになり、さらに、ラジオ東海と近畿東海放送は共同で中部ラジオ放送(現・東海ラジオ放送)を申請し、1960年4月に東海ラジオ放送となり名古屋へと移転。

この場合は単独で申請が認められ、朝日や産経といった競願社は排除され、東海ラジオは近畿東海放送とラジオ東海の純粋な継承会社となった。この時点で東海テレビは東海ラジオのテレビ局となり、東海ラジオはこの合併の際に中日色の強いラジオ局となった。こうして、CBCラジオ・CBCテレビ・東海テレビ・東海ラジオと東海3県すべてのメディアを中日新聞は牛耳ることに成功した。

東海テレビは、開局当初日本テレビとネットを組むが、1959年3月フジテレビの開局とともに、フジテレビとネットを組む。ただし、日本テレビや日本教育テレビの番組も放映していていた。名古屋放送が開局した1962年4月からは、フジテレビの完全ネットとなる。

(敬称略)
引用文献
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483(2005/06/14) 企業と球団の興亡史 PartU(三二)

中日ドラゴンズ

中日新聞社は、中日ドラゴンズの親会社だが、1936年の日本職業野球連盟創設7球団中なんと3球団が、中日新聞と縁があった。前身の新愛知新聞が名古屋軍を、名古屋新聞が名古屋金鯱軍を名古屋に設立し、当時新愛知新聞の傘下にあった東京の国民新聞が大東京軍を設立していた。

当初、新愛知新聞の主幹だった田中斉は、正力の日本職業野球連盟とは別の大日本野球連盟というプロ野球リーグ結成を考えていた。名古屋、東京、新潟、北海道の4地区に球団を創設し、金沢、津、静岡、松本などにファームチームを置く壮大な構想であった。

田中は、米国留学の経験があり、大リーグの試合もたびたび観戦し、「職業野球はファンのもので、一企業のものではない」という発想から、米国式の地域密着型の組織を作ろうとした。ところが、新潟と北海道に球団は設立できず、結局、新愛知新聞の名古屋軍と傘下の国民新聞が中心になって設立した大東京軍が、正力の誘いに乗り日本職業野球連盟に参加することになった。ただし、名古屋軍の正式名称は、大日本野球連盟・名古屋協会で、同じく、大東京軍のそれは大日本野球連盟・東京協会であった。

名古屋軍の系譜は、中日ドラゴンズに続くが、大東京軍は、戦後の松竹ロビンスにあたり、この球団は大洋ホエールズと合併し、現在の横浜ベイスターズへと連なる。

名古屋地区で新愛知とライバル関係にあったのが、中日新聞のもう一つの前身である名古屋新聞だった。名古屋新聞と新愛知新聞は、名古屋地区を地盤とする新聞2紙で、ライバルとして激しく争っていた。戦前の政界は、政友会と憲政会という二大政党であったが、新愛知は、政友会系、名古屋新聞は憲政会系に分かれ、販売はもちろん、実際の政治社会運動でも激しい競争を繰り広げていた。

そんななか、名古屋新聞は、新愛知の球団創設の動きをキャッチすると、一足先に正力構想の下、名古屋金鯱軍を創設した。先んじた金鯱軍は、さらに新愛知がチーム名として思いつきそうな名古屋巨人、名古屋城軍といった名称まで登録したため、名古屋金鯱軍を予定していた新愛知はただの名古屋軍にするしかなった。

名古屋金鯱軍は、戦争の影響で東京セネタースから日本語の名前に変更した翼軍と1941年に合併し、大洋軍(のちの大洋とは無関係)となり名古屋を離れた。このとき名古屋新聞社は経営から退いている。大洋軍はその後福岡の西日本鉄道の手に渡り西鉄軍となるものの、1943年に解散。また親会社であった名古屋新聞社も、1942年の新聞統廃合令によって名古屋軍の親会社であった新愛知新聞社と合併し、中部日本新聞社となる。こうして名古屋は、プロ野球チームも新聞もひとつになった。

ところが、中部日本新聞社は合併によるコストの増大で球団を維持する力が無くなり、名古屋軍は1944年に理研工業の経営となり産業軍とチーム名を変更、選手は工場で働きながら試合をするという形になった。そして戦争の激化により、11月にはプロ野球の休止が決定。翌1945年8月に終戦を迎えると、GHQの意向もありプロ野球再開に向けて急ピッチで話は進み、翌年4月には公式戦が再開されるが、同じくGHQの意向のひとつであった財閥解体により理研工業は解体されてしまう。

そこで再び中部日本新聞社が登場し、1946年、産業軍は中部日本と改称、翌1947年には中部日本ドラゴンズ、1948年には現在と同じ中日ドラゴンズとなる。親会社である中部日本新聞が中日新聞と改題するのは1965年であり、「中日」という名前は新聞よりも先に球団名としていた。

2リーグ分裂時には、同じ新聞社である毎日新聞の参入に反対し、中日ドラゴンズは、読売とともにセ・リーグを立ち上げる。1951年には鉄道会社として、名鉄が中日ドラゴンズの経営に参加し、名称を中日ドラゴンズから名古屋ドラゴンズに変更。しかしそれほどメリットが無かったのかわずか3年で撤退。再び中部日本新聞の1社経営となり中日ドラゴンズに戻る。そして名前を戻した1954年、西沢道夫、杉下茂などの活躍によりリーグ初優勝。その勢いで日本シリーズも見事勝利する。

(敬称略)
引用文献
「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社

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482(2005/06/11) 企業と球団の興亡史 PartU(三一)

中日新聞

地球博の開催、中部国際空港の開港と好調な名古屋経済がいま、注目されているが、日本企業で初めて営業利益1兆円を達成した日本一の稼ぎ頭・トヨタ自動車を筆頭に、愛知(中部)に本拠を置く企業は、無借金経営を含め堅実さを重視する傾向が強い。堅実な風土、「自分が納得しないことには飛びつかない」。他に惑わされず、自身のスタイルを貫き自立心が旺盛なのが愛知とされる一方、名古屋(三河)モンロー主義とも呼ばれる閉鎖的な風土でもある。

中日新聞もこの例外に漏れず、全国紙ではなく、日本最大のブロック紙という特徴を持っており、販売エリアは、東海地方(愛知県、岐阜県、三重県、静岡県)を中心に滋賀県、長野県、福井県(一部地域)、和歌山県(新宮市、東牟婁郡の一部)。系列の東京新聞なども含めると発行部数は350万部となり、全国紙の読売1000万部、朝日800万部、毎日400万部に次ぎ日本で4番目の発行部数を誇る。全国紙の日経300万部、産経の200万部を軽く凌駕し、販売エリアである中部・関東地域では、毎日を抑え、読売、朝日に次ぐ3番目の発行部数を誇る。

さらに、東海地方では世帯到達率が6割を超え、とくに、名古屋では中日が85.6%で、以下朝日が8.8、日経が4.1、読売が2.2、毎日が1.2と中日が2位の朝日に大差を付けてトップとなっている。愛知県全体でも80.7%に達し、まさに、これらの地域では、「新聞は中日」というキャッチフレーズが浸透するほど購読率が高く、全国紙の進出を食い止めている。

1952年に読売新聞の「販売の神様」務台は、竹井博友なる人物を先兵に大阪への進出を果たし、いまでは、読売新聞は関西地区で朝日新聞と比肩するほどの世帯到達率を誇っている。ところが、1975年の名古屋進出では、大阪進出の同様に、竹井に、中部読売新聞社という別会社を作らせ、ダンピング価格で進出を図ろうとしたが、失敗。

1988年には、経営不振から、読売巨人軍の読売興業株式会社が中部読売新聞社から名古屋地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」とした。これは、中部読売の赤字を巨人の黒字で補填しようとしたものだった。2002年には、読売の持ち株会社以降に伴い、「読売新聞中部本社」は株式会社読売新聞東京本社の支社に格下げされている。


また、中日新聞は、ブロック紙3社連合の北海道新聞、西日本新聞と相互に海外に数多くの特派員を送り出しており、通信社の記事だけに依存していないのも特徴である。※データは2002年データによる。

中日新聞社は、1942年に愛知県にあった新愛知新聞と名古屋新聞が、戦時下の新聞統廃合令により中部日本新聞社として設立された。1965年中日新聞に改題、1971年中日新聞社と正式に改称し、現在に至る。

中日新聞東京本社の発行する東京新聞も、新聞統廃合令により1942年東京の都新聞と国民新聞が合併して誕生したが、保守・右翼色の強かった紙面が都市住民に受け入れられずに経営不振となり、中部日本新聞社(現・中日新聞社)が経営に参加し、 1967年から編集・発行に関する一切の業務は中日新聞社が行っている。

なお、前身のひとつである国民新聞に、これまた中日新聞社の前身のひとつである新愛知新聞社が東京新聞成立時まで経営に携わっていた。

(敬称略)
引用文献
「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」 佐野眞一著 文春文庫
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481(2005/06/09) 企業と球団の興亡史 PartU(三十)

テレビ朝日と朝日新聞

新聞社のライバルである読売、中日以外で、毎日新聞の球界参入に最後まで反対していたの田村駒の大陽ロビンスであった。繊維問屋だった田村駒商店は、戦後の糸へんブームで儲けていたが、1949年頃になると糸へんブームも去り、球団の赤字が問題になっていた。

社長の田村駒治郎は、当初、毎日新聞への身売りも考えていたが、買収額で折り合わず、最後に駒治郎が毎日球団社長の椅子を主張したため、決裂。これが、大陽球団が強硬に毎日の新規参入に反対した理由とされている。次に田村駒は、朝日新聞に接触し、「朝日本社が持つわけにいかないが、販売店主体で持つことは面白いかもしれない」ということで、球団名「朝日レッドソックス」で朝日が球界に参入するという噂まででたが、朝日新聞は結局、球界進出を断念する。

朝日新聞は、球界参入にも遅れをとったが、放送界への参入も遅れた。ラジオ東京や日本テレビの開設には関与したが、結局、主導権はとれなかった。日本テレビは読売、KRT(TBS)は毎日との関係が強く、しかもKRTは新聞色を嫌っていた。関西では朝日放送を開設し、ラジオとテレビを獲得したが、全国紙としては、キー局を手中にする必要があった。

そこにタイミングよく、日本教育テレビの主導権を握っていた東映の大川博から支援要請が届く。NETは、東映の大川と旺文社の赤尾によって設立された。教育専門局として、当初、教育出版系の旺文社の影響が強かったと思われるが、教育局としては、1年で頓挫。東映の大川が社長となり、NETテレビとして、事実上の総合局化を図っている。

その後、旺文社の赤尾と東映の大川との間で主導権争いが起こり、赤尾は日経、大川は朝日を味方に付け争い、大川が辛勝し、NETにおける朝日の影響力が強まっていった。

東映と朝日との関係は、NET開局の前年1958年、合弁で朝日テレビニュース社(映画ニュースを提供)を設立したことによる。また、NETと朝日の関係は、開局当時、共同テレビニュース(NETも出資していた)を流すはずだったのを、東映が朝日と提携したため朝日テレビニュースにしたのが発端。NETも全国紙(日経は経済紙)の参加がなかったため、ニュース報道にはニュース製作会社からの提供が必要であった。

朝日新聞社は、1963年1月、役員会で、NETをキー局とする全国朝日新聞系テレビネットワークの構築が決定。1964年1月、朝日新聞社代表取締役の広岡知男が朝日放送を訪れ、キー局をNETに切り替日本教育テレビえるよう要請。しかし、朝日放送側は拒絶。

1971年11月、報道を朝日テレビニュース(のちのテレビ朝日映像)に委託する。NETの報道部を廃止する計画で反対闘争が起き、労働組合対策として三浦なる朝日のフィクサー記者が送りこまれ、報道本部長として組合幹部の切り崩しを行った。それに続き報道部門を朝日テレビニュースが引き受け、さらに、東映の大川や旺文社の赤尾と争い、主導権を握った。

朝日新聞は、九州朝日放送の高野信を社長に据えた。三浦なる人物は、読売の渡辺とともに中曽根の政治指南役をしていた人物で、NETを掌握したかった親会社(朝日新聞)に恩を売った形になり、テレビ朝日の法王として君臨した。

1973年総合局に移行。1973年から74年にかけて日本テレビとTBSの朝日資本を引き上げ、また、NETの日経資本を朝日と旺文社が折半で引き取り、朝日資本をNETに一本化。1975年、準キー局を毎日放送から朝日放送に変更。朝日新聞によるNETの系列化完了。

1977年、全国朝日放送株式会社と商号変更。愛称を「テレビ朝日」とする。 旺文社の赤尾は、商号変更に反対したという。1978年テレビ朝日映像(朝日テレビニュース社の後身)が報道部門をテレビ朝日に移管。

1976年旺文社は、産経新聞と東京急行電鉄の保有する文化放送の株式を買い取り、文化放送株式の35%強を保有する大株主となり、旺文社が大株主だったNET(現、テレビ朝日)は文化放送に接近、1978年に同局専務の岩本政敏が文化放送の社長に就任し、以降、テレビ朝日と文化放送の関係が生じる。

1985年の1エリア4波化政策により、朝日資本によって各地に4番目のテレビ局が設立され、全国ネットワーク化とフルネット化を推し進められた。

1996年、オーストラリアのメディア王ルパート・マードック(ニューズ社)とソフトバンクの孫正義が、旺文社から所有株21.4%を買い取り、テレビ朝日(当時、全国朝日放送)の敵対的買収を仕掛けた。テレビ朝日経営陣の猛反発にあい、二進も三進もいかなくなり、困り果てたとき、フジテレビの日枝会長は仲介に入り、結局、ソフトバンクとニューズ社は旺文社から買い取った額で、朝日新聞に買い取ってもらった。これは、朝日新聞支配に反発していた旺文社の嫌がらせと言われる。

2001年文化放送は、20%強保有していたフジテレビ株式の大部分を外部に売却し、その売却益で旺文社が持つ全ての自社株式を購入。直ちにこれを消却して、旺文社と絶縁。旺文社との絶縁後は、文化放送とフジテレビが復縁し再び協調関係が生まれるが、テレビ朝日との間にも依然として様々な面での交流が続いている。

文化放送は、平日は「ハッキリ言ってライオンズびいきです」のキャッチコピーの下、ライオンズに偏った実況中継を行ってきた。文化放送は、この西武ライオンズの中継を通して、西武鉄道グループとの関わりがあり、2004年秋頃の西武鉄道株問題に係る一件では堤義明の要請を受け、コクドより西武鉄道株式を購入している。テレビ朝日も、文化放送の関係から西武ライオンズと関係をもち、昨年11月コクドがライオンズ売却に動いたとき、真っ先に打診を受けたのがテレビ朝日であった。結局、テレビ朝日は10球団1リーグ制へむけて経営参加を検討したが、2リーグ制維持で広瀬社長が買収の可能性を否定して終わった。

2003年10月、商号を株式会社テレビ朝日と変更。同時に六本木ヒルズ内の新社屋が完成し、本社をアークヒルズから移転。

(敬称略)
引用文献
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480(2005/06/03) 企業と球団の興亡史 PartU(二九)

毎日新聞と東京放送

毎日新聞は、東京放送(TBS)の1951年開局当初から関係が深く、出資比率がほぼ同じであったはずの朝日新聞社や読売新聞社よりも実際は結びつきが強かった。ただ、TBSは特定の新聞社に偏らないようにしていたため、大阪の毎日放送は、逆にTBSの系列から外れてしまっていた。

1974年3月、田中角栄の仲介により、毎日新聞社は、朝日新聞社や読売新聞社から株式を購入し、TBSの筆頭株主になるが、直後に毎日新聞社自体の経営が悪化する。

1972年におきた沖縄返還協定密約をめぐる「外務省機密漏洩事件」(いわゆる「西山事件」)で、女性外交官と「情を通じて」政治部西山記者が機密を入手した経緯から、市民に不買運動が広がっていた。これに石油ショックのダブルパンチで、普通の企業ならとっくに破綻している経営状態に陥っていた。

毎日新聞社は、当時三和銀行からの借金が100億円、三菱銀行から80億円、銀行からのすべての借金を合わせると600億円近くという、とても返済不可能な、利息の支払いだけでさえ経営を圧迫するような危機的な状況にあった。このため、1975年には全国紙としては初めて会社更生法適用し、1977年には 負債を整理する旧社(株式会社毎日)と、通常の業務を行う新社(株式会社毎日新聞社)とに分離するウルトラCによってこの難局を乗り越える。

TBSは毎日新聞社が筆頭株主になる事で経営に介入される事を警戒していたが、毎日新聞社は経営体質改善のため、TBS株の売却益で累積損失の圧縮を図る事を決意。こうして両者の思惑が一致して、1977年度中に毎日新聞社はTBSの持株の大部分を毎日放送他に売却して資本関係を薄めたが、一方で歴代社長を同社非常勤役員に派遣。友好関係は維持して現在に至っている。

また、系列だった毎日放送についても、毎日新聞社は筆頭株主だったが、TBS株式売却と同時期にやはり外部に大量放出している。毎日放送側の意向が強かったと言われる。毎日新聞社は、1985年 新旧両社が合併し更生計画終結。現在もなお経営再建中。

プロ野球は、1950年の2リーグ分裂時、毎日オリオンズとしてパ・リーグに参加し初優勝、大映と合併後、1960年大毎(毎日大映)オリオンズとして優勝の年、パ・リーグから事実上撤退。1955年からほぼ2年ごとに行われている日米野球を読売と交互に主催。

一方、TBSも、日本の民放の先駆者として、かつては「民放の雄」と呼ばれ、ドラマ・バラエティー・報道の各分野で高く評価されていたが、近年は、局の官僚的な体質や、多くの不祥事(1996年に発覚した「坂本堤弁護士一家失踪事件」でのTBSのビデオ問題、また数々の番組での「やらせ」など)の影響で、番組の質、視聴率共に低迷している。

2000年より制作部門が分社化し、番組制作は「TBSエンタテインメント」「TBSライブ」「TBSスポーツ」が行っていたが、2004年10月より3社を統合・再合併し、テレビ事業全般を行う子会社「株式会社TBSテレビ」を発足させた。TBSからの業務委託というかたちで制作以外にも編成・営業・事業・報道・技術・美術などテレビ関連業務も行い、テレビはTBSテレビ、ラジオはTBS R&Cが編成・制作を行う体制になる。

ところが、「5年前に分社化したばかりなのに去年、急に再統合することになって人事がめちゃくちゃになってしまった」(TBS社員)。また、全日帯の年度視聴率で万年4位のテレビ朝日に抜かれ、プライムタイムでもテレビ朝日に負けそうな開局以来の危機に瀕している。テレビとは逆に、独立子会社となったTBSラジオの聴取率は、首都圏聴取率調査の首位を独走している。

TBSは、は安定株主が少なく敵対的買収の標的にされやすいとされ、ライブドア堀江貴文社長も一般論として「TBSはいい資産があるのに株価が割安」などと語っていた。このため、TBSは「マネーゲームや投機の対象にさらされることは株主や国民に多大な損害を及ぼす危険がある」とし、2005年5月最大約800億円規模の新株予約権を第3者割当で発行するなどの敵対的買収への防衛策を発表した。代表的な防衛策「ポイズンピル(毒薬条項)」と同様の効果がある。

プロ野球は、日本テレビによる後楽園球場独占に対抗し、川崎球場のプロ野球中継を独占。ところが、大洋が横浜スタジアムに移転し、堤義明がライオンズを買収するにあたって、コクドが所有していた横浜大洋球団株(約30%)をフジサンケイグループのニッポン放送に売却、これに対抗しTBSも同球団株(約15%)を取得。横浜大洋主催の巨人戦のテレビ中継がフジ9試合、TBS5試合(2001年)となる。2002年から横浜ベイスターズの70%をTBSグループが握ると、横浜球場の巨人戦は、TBS9試合、フジテレビ5試合と逆転する。局のイメージアップのため横浜ベイスターズを買収したが低迷が続いている。

(敬称略)
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479(2005/06/02) 企業と球団の興亡史 PartU(二八)

マスメディア集中排除原則違反

1960年代以降、テレビはまさに「金のなる木」であった。電波の希少性から参入が規制され、新設に際しては全国新聞、地元新聞、キー局、準キー局、地元有力企業など多くの参加申請があり、それを新聞系列で整理をしたのが政治家であった。その結果、テレビ局の出資関係は複雑になっていった。

筆頭株主の内訳をみると地上波民放127社のうち、筆頭株主の30%が新聞社で、次いで、キー局・準キー局を中心とするテレビ局(27%)、地元有力企業、公共機関となっている。また、主要株主の構成を見ると開局時期によってある種の傾向がうかがえる。それによれば開局の早い地方局ほど新聞社及びテレビ局からの出資比率が低く、最近開局した地方局ほど新聞社やテレビ局からの出資を中心に設立されている。

通常、マスメディア集中排除原則が存在しているため、1社あたりの出資比率が抑えられているが、系列の新聞社、キー局、準キー局などがそれぞれマスメディア集中排除原則の範囲内で出資することにより合計では高いシェアをもち、実質的に複数のテレビ局に強い影響力を有する形になっている。これは、1960年代以降高まった、全国放送を実現したい東京キー局の都合とテレビ局への影響力を行使したい新聞社の都合を反映したものといえる。

ところが、このマスメディア集中排除原則に定める出資制限の上限を超えて放送局に出資していた事例が、西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載事件以降、相次いで報道されたことを受け、2004年11月総務省が全ての民間放送事業者521社に対し報告を求めたところ、不適正な事例(2005年1月の時点で55社67件)が明らかになった。中でも読売新聞社が目に次ぐ。

これは、堤西武の株の名義貸しが明らかになってから、日本テレビの渡辺恒雄所有株を有価証券報告書虚偽記載として公表したため、読売新聞が積極的に公表した面もあるし、全国ネットで東京放送(TBS)に遅れをとった読売新聞・日本テレビが強引に地方局を設立した結果ともとれる。

どちらにしろ、マスメディア集中排除原則は既に形骸化しており、これを維持し続ける意義は薄れている。

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478(2005/06/01) 企業と球団の興亡史 PartU(二七)

新聞資本によるテレビの系列化

日本テレビは、設立時の資金不足から、読売のほかに毎日・朝日からも出資を募った。このため、その後、読売が株式を買い集めても、毎日・朝日も日本テレビ株を所有していた。また、正力のワンマン下にあったため、逆に、読売色は薄かった。正力没後、読売との関係を強めていた。

東京放送(TBS)は、前身のラジオ東京が電通のほか読売・毎日・朝日の3社が均等に出資していた。ネットワークを組む地方局も地元新聞社の出資が多く、特定の新聞色をださない方針だった。ただし、人的には毎日新聞との関係が強かった。

フジテレビは、フジテレビが産経新聞の40%の株を所有していた。産経新聞は、全国紙といっても、形だけで、フジは、産経新聞が提携するブロック紙が設立したテレビ局とネットを組んでいた。

教育専門局だった日本教育テレビ(NET))には、設立時から日本経済新聞社が出資していたが、1966年朝日新聞も東映の持ち株の半分の譲渡を受けていた。電波政策に遅れをとっていた朝日新聞はNETを拠点にテレビ界への参入を狙っていた。同じく、教育専門局だった東京12チャンネルは、再建のため、既に(1969年)日本経済新聞が経営に乗り出していた。

1970年代東京キー局では、フジテレビだけが新聞系列で整理されていたことになる。

1972年7月、田中角栄は、自民党臨時党大会で第6代の自民党総裁に選出された。翌日、田中は国会で第64代の内閣総理大臣に指名され、翌々日田中内閣が発足する。テレビを傘下に収めたいという新聞業界の要望に応えて、首相となった田中角栄は新聞資本によるテレビの系列化による「テレビ―新聞支配」の総仕上げを行う。

1973年11月NETと東京12チャンネルが教育専門局から総合局に移行。同年12月読売新聞・朝日新聞・毎日新聞の3社首脳間で日本テレビとTBSの新聞資本を統一する合意が成立。1974年2月、TBS創立時からの新聞資本が毎日新聞だけになる。同年5月読売新聞は朝日新聞と毎日新聞が持つ全ての日本テレビ株式を購入。これで日本テレビは完全に読売グループの傘下に入る。一方、NETの資本のうち日経新聞系の保有株式と、東京12チャンネルの資本のうち朝日新聞系の朝日保有財団債を交換。

これにより、日本テレビ−読売新聞、東京放送(TBS)−毎日新聞、フジテレビ−産経新聞、NET−朝日新聞、東京12チャンネル−日本経済新聞という新聞とテレビの系列化が完成する。これらのシナリオを作ったのが、田中首相だった。仕上げは、関西地区の腸捻転の解消であった。

関西の腸捻転とは、キー局のTBSが毎日系なのに対し、準キー局の朝日放送が朝日系、逆に、キー局のNETが朝日系なのに対し、準キー局の毎日放送が毎日系というねじれ現象が起きていた。このため、1975年3月、関西地区の準キー局の朝日放送と毎日放送のキー局がそれぞれ新聞系列が同じ、NETとTBSに変更された。これを腸捻転の解消またはネットチェンジという。

1964年1月、朝日新聞社代表取締役の広岡知男が朝日放送を訪れ、キー局をNETに切り替るよう要請。このとき、朝日放送側は挙げた反対理由は悉く解消されていた。

1977年NETは、全国朝日放送株式会社と商号変更し、「テレビ朝日」と称した。1985年の1エリア4波化以降、朝日資本により各地に4番目のテレビ局が設立され、全国ネットワーク化とフルネット化を推し進められた。テレビ朝日のネットワークANNは2004年3月現在フルネット局24局、クロスネット局2局で構成される。2003年10月商号を株式会社テレビ朝日に改称。

(敬称略)
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477(2005/05/31) 企業と球団の興亡史 PartU(二六)

毎日と朝日の場合

毎日新聞と朝日新聞については、東京放送(TBS)との関係のなかでみてみよう。

毎日新聞が中心となって設立した毎日放送は、当初はTBSの前身であるラジオ東京テレビ(KRT)とのネットを目論んでいたが、KRTの今道潤三常務(当時。のちにTBS社長・会長を歴任)から「KRTは既に大阪テレビ放送とネット協定を結んでおり、毎日放送とネットを組むことはできない。ネット番組はそう簡単に動かせない。」とネット関係を拒まれた。

KRTは毎日・読売・朝日の各新聞社と電通の出資で設立され、日本テレビに比べ背後の新聞色が薄い局といわれていたが、実態は毎日新聞の影響が強く、現職役員も当時の専務・鹿倉吉次を筆頭に毎日新聞出身者が多く、今道もまた毎日新聞関係者の縁でKRTに入社した経緯があった。

この背景があるため、テレビネット成立は容易と踏んだ毎日放送は楽観的に取り組んでいたが、むしろKRTとしては特定の新聞色を払拭すべく動いていた。これはKRTがニュース番組を軸にネットワークを形成しようと準備していたが、地方局は地方新聞社と結びつきの強かったため、これを配慮すべく福岡が毎日系のRKBならば大阪は毎日放送ではなく朝日系の大阪テレビ・朝日放送(OTV-ABC)で無ければ都合が悪かった。結局、毎日放送はNETとネットを組むことになる。

一方、朝日新聞にとっても、TBSのこの方針は問題があった。朝日放送に限らずTBSのネットワークJNN系の基幹局は母体の新聞社から距離を置き、独自の道を歩もうとした局が多かった。「新聞と放送は別物」という事で朝日放送も朝日新聞との関係が疎遠になりつつあった。当時電波政策に後れを取ったとされる朝日新聞は、この「朝日放送の朝日新聞離れ」を憂慮し、両社上層部間の食事会や懇談会を定期的に催し、また相互に現場交換を行う事で新聞と放送での一体感を持たせ、JNNに傾きつつあった朝日放送を朝日新聞陣営に引き戻そうと懸命に努力していたという。

朝日新聞社は、1963年1月、役員会で、日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)をキー局とする全国朝日新聞系テレビネットワークの構築が決定。1964年1月、朝日新聞社代表取締役の広岡知男が朝日放送を訪れ、キー局をNETに切り替日本教育テレビえるよう要請。しかし、朝日放送側は次のように反対理由を挙げて拒絶。

NETは教育専門局に過ぎず、同局をキー局とすると営業面で制約が生じて不利となる。NETをキー局に全国朝日系テレビネットワークを構築すると言うが、そのNETには朝日新聞社の他に日本経済新聞社の資本も入っている。現在のキー局であるTBSも毎日新聞社や読売新聞社と共に朝日新聞社の資本が入っているので、この資本構成のままではネット変更をする理由にはならない。そもそもNETの経営状態が悪いので、まず同社の再建が先決である。朝日放送と毎日放送との間の営業成績にも格差がある。(これはNETをキー局とすれば、必ず営業成績が落ちる事を意味する。)

自民党の田中元首相は、幹事長時代「テレビ局の系列関係を整理するためには、新聞系列でやるしかなかった」と語っていた。テレビは最初から新聞資本なくしてスタートできず、新聞は新聞で「電波を持たない新聞は、翼のない鳥のようなもの」(テレビ獲得に情熱を燃やしたかつての中日新聞社長・与良ヱ)と考える。田中角栄はそこにつけ込んだ。

(敬称略)
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476(2005/05/30) 企業と球団の興亡史 PartU(二五)

疎遠だった新聞とテレビの関係

テレビには報道メディアという性格ももっている。映像メディアのライバルが映画なら、報道メディアのライバルは新聞。初期の民間放送局である日本テレビやラジオ東京は、読売、毎日、朝日といった全国紙の新聞社によって設立されスタートしたにもかかわらず、新聞とテレビとの関係は疎遠であった。

正力松太郎時代、日本テレビは、読売新聞色が薄かった。日本テレビは「ワンマン正力」の独裁的支配下にあり、あまりにも正力個人の独裁性が強かったために、かえって読売色が薄かったのだ。読売は15.36%の株をもってはいたが、日本テレビの常任の重役や主要幹部は、ほとんどが日本テレビ育ちであった。正力没後、人望のない長男の亨が社長なるとこれら生え抜きのベテランに牛耳られ、日本テレビは読売から離れてしまうという懸念があった。

1969年10月ワンマン会長正力松太郎が亡くなってから3日目に11億円に上る日本テレビの巨額粉飾決算が明らかになる。翌1970年5月、日本テレビの副社長であった正力の長男亨は、その責任をとる形で、読売新聞社社主(東京読売巨人軍オーナー)に祭り上げられ日本テレビ・読売新聞の実権を失う。19年間空席だった第9代読売新聞社長には、副社長だった販売の神様務台光雄が就任し、実権を握る。日本テレビの社長には、もう一人の副社長で、正力の娘婿・元自治省事務次官の小林興三次が就任。これ以降、日本テレビの読売色が強まる。

このとき、「読売新聞との親密性のシンボル」として、読売新聞が保有する日本テレビ株の一部を同社トップの名義にするようになった(日本テレビ)。読売新聞副社長から日本テレビの社長になった小林興三次が、日本テレビ株を全く所有していなかったため、1971年から始まったとされる。1982年9月時点では、読売新聞会長(当時)務台光雄が、64万株(7.2%)の日本テレビ株を所有。

実権を失っても正力亨は正力一族であり、依然として読売新聞と日本テレビの大株主であることには変わりなかった。これに対し、実権を握った務台光雄は一介のサラリーマンに過ぎない。当然、務台は、亨の力を恐れただろうし、株主総会をにらみ、権力闘争を有利に進めるため始めたと思われる。

2004年3月期の有価証券報告書によると、日本テレビの筆頭株主は8.48%の読売新聞グループ本社で、2番目が6.35%の渡辺恒雄。渡辺の持ち株は、161万株、14800円で計算しても、238億円。以前から、どうやって株を取得したのか、読売新聞から譲渡されたとしたら、税金をどうまぬかれたのかが疑問に思われていたが、名義貸しで決着。「有価証券報告書は最も基幹的な情報だ。それが間違っていたとすれば、投資家は何を基に判断したらいいのか」(西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載に対する読売新聞の社説)。

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「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」 佐野眞一著 文春文庫

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475(2005/05/29) 企業と球団の興亡史 PartU(二四)

1960年代のテレビ産業

1960年代、映画に代わり、映像メディアの主役に躍り出たテレビだが、コンテンツだけではなくインフラも不足していた。民放テレビに与えられていた免許は地域免許で、東京キー局が全国放送を実現するには、地方局のネットワーク化が不可欠であった。ところが、当時テレビに割り当てられていたVHF帯だけでは、電波が不足していた。

1957年に行われた田中角栄による第1次大量免許では地方局は、1エリア1局が原則とされ、このときはKRT(1960年東京放送(TBS)と改称)が、ラジオ兼営局の強みを発揮し、1959年8月全国16社による全国ネットワーク化(JNN)に成功する。その後、1966年4月日本テレビが、残ったVHF局を束ね全国18社でニュース・ネットワーク(NNN)を発足する。

ところが、後発(1959年開局)のフジテレビは同年10月ニュース・ネットワーク(FNN)を発足するが、東阪名と基幹地区(北海道、宮城、広島、福岡)の1エリア複数局の7社のみであった。スポンサーからの広告収入に依存する視聴料無料の民放テレビにとって、中でも、東京キー局にとってナショナル・スポンサーを獲得するためには、全国放送化は、死活問題であった。

このため、1967年郵政省(現、総務省)は、VHF帯のみとする免許方針を転換し、大量のテレビ免許をUHF帯にも与えた(第2次大量免許)。これによりVHF帯だけではできなかった1エリア複数局が地方においても実現し、1969年フジテレビは全国21社による全国規模のネットワークFNS(フジネットワーク)を発足、4年後の1973年日本テレビが全国24社によるNNS(日本テレビネットワーク)を発足する。

1970年1月に当時の日本教育テレビ(現、テレビ朝日)系列がANNというニュース協定を各地の地方局と結んだ。1973年11月に東京12チャンネル(現、テレビ東京)の深刻な経営不振などを理由にNETテレビと東京12チャンネルに総合局免許が交付された。

1960年代後半以降、UHF局の開局ラッシュとネットワーク化、テレビのカラー化によって、テレビ産業のインフラは急速に発展し、産業規模を飛躍的に拡大していった。

民放127社(2000年)のテレビ営業収入合計の推移をみると、1969年には約2,200億円の規模であったものが、2000年には約2兆2000億円と、約30年で10倍に拡大している。テレビ局の増加は71社から127社と約1.8倍にとどまっており、局数の増加を補っても余りある市場の拡大といえる。こうした市場の拡大は、ネットワーク化による全国放送実現による付加価値の増分の大きさを示している。

引用文献
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「図解 放送業界ハンドブック」 西正著 東洋経済新報社
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474(2005/05/28) 企業と球団の興亡史 PartU(二三)

映画産業の盛衰

1954年日活が東京調布に撮影所を建設し、映画製作を再開。東映の社長に大川博が就任し、東映の再建に乗り出す。日本映画は最盛期を迎える。

日本映画の最盛期は、1957年から1960年あたりまでで、この時代、松竹、東宝、東映、大映、日活の大手5社(新東宝を加えると大手6社)が週替わりで2本、年間50週、約100本の映画を製作し、それでも足りずに東映は第二東映まで作って映画を製作した。映画人口も、1957〜60年にわたって、年間10億人を超え、映画館数も、1958〜61年にかけて、7000館を超えた。

ところが、映画人口は1961年から急激に減少に転じ、1960年には10億人いた映画人口が、1972年には2億人を割ってしまった。わずか10年で5分の1、8億人が映画館から離れていったことになる。減少に転じた1961年から62年にかけて、1年で2億人の映画人口が減っている。2002年の映画人口が1億6000万人であることを考えると、その減少数の物凄さがうかがえる。この激減の大きな理由は、テレビの普及の影響であった。

1957〜60年の映画全盛期において、日本各地に民放テレビ局が開局し、1959年皇太子ご成婚パレードが全国中継され、テレビは広く国民に認知され、一大飛躍期を迎えていた。1959年には家庭でのテレビの普及率が23.6%であったものが、1962年には79.4%に達していた。

このテレビの急激な普及に対し、東宝、松竹、大映、東映、新東宝の大手5社は1956年以降、「テレビには映画を売らない」「テレビには専属俳優は出演させない」という5社協定を強化し、テレビ界とは絶縁状態となっていた。後に日活も参加し、1958年以降6社協定となる。

一方、テレビ対策として、映画各社は、日本テレビ、ラジオ東京に次ぐテレビ局開設に動く。東映、東宝、大映、松竹、新東宝の5社は「国際テレビ放送」、日活は「日活国際テレビ」で免許を申請したが、結局、日活、東映、新東宝が「日本教育テレビ」に、松竹、東宝、大映が「フジテレビ」にそれぞれ資本参加という形でおさまった。どちらも1959年開局。

ところが、東映以外の映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否しつづけたため、代替としてホームドラマや西部劇などのアメリカ製テレビ映画が大量に日本に輸入され放映された。

また、テレビ局は、自社による番組製作に迫られ、映画界に頼らない番組(コンテンツ)制作部門を確立していった。映画界がテレビの興隆で入場者数を激減させ、ようやく各映画会社がテレビ部をつくってテレビドラマの制作をはじめたとき、テレビの番組(コンテンツ)製作の主流はすでにテレビ局にあり、視聴者を獲得し、民間放送は広告収入による視聴料無料の新しいテレビ産業を構築していた。

永田がオリオンズを手放した1971年は、低迷を続けてきた日本映画界にとってもは象徴的な年となった。業績不振に陥っていた大映と日活が1970年に配給部門を統合してダイニチ映配という会社を作って配給業務を開始したが、その試みも両社の再生にはつながらず、ダイニチ映配は1971年にあえなく清算される。日活は11月から18才未満入場禁止のロマン・ポルノ路線に進み、大映は12月に倒産してしまい、30年の歴史を閉じた。そして、東映の大川博が急逝したのもこの年であった。

戦後巨大なソフト・コンテンツ産業として、映画を制作し、自らが経営する劇場(インフラ)で上映してきた映画会社は、新しく登場してきたテレビの未来を見極めきれなかった。

(敬称略)
引用文献
ブロードバンド時代のソフト・コンテンツ論
コンテンツプロデュース機能の基盤強化に関する調査研究配給・マーケティング
日活の歴史
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473(2005/05/27) 企業と球団の興亡史 PartU(二二)

東映フライヤーズ

1954年2月、東急は東映に球団運営を委託、東映フライヤーズとなる。これは、東急時代からのオーナーであった大川が東映の社長に就任し、オーナーの会社移籍にともなって球団も会社を移籍したものである。当時、東映は倒産寸前であった。

大川が経営と映画製作の陣頭指揮をとるようになって、東映は急成長する。自らプロデューサーとして陣頭指揮にあたり、「ひめゆりの塔」「飢餓海峡」といった映画史に残る名作、「旗本退屈男」などの大衆娯楽作、東映動画の「白蛇伝」など次々と傑作を生み出した。1950年代には片岡千恵蔵、市川右太衛門を擁して時代劇で人気を呼び、1960年代は鶴田浩二、高倉健らの仁侠物が好評を博した。

映画会社社長としての大川の手腕は凄かった。ところが、球団経営は思うようにならなかった。駒沢球場が1964年の東京オリンピックの整備計画のために取り壊されることを受けて、1962年に神宮球場に本拠地を移す。同年、水原茂監督の下で土橋正幸、尾崎行雄の両エースが大車輪の活躍をし初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを破り念願の日本一に輝く。これが東映フライヤーズ時代唯一の優勝となった。国鉄スワローズの神宮進出に伴い1964年に後楽園球場に舞い戻る。

その後の東映フライヤーズは、張本勲、大杉勝男、大下剛史ら強打者が揃っていたが、映画産業の斜陽や「黒い霧事件」による人気低迷なども響いた上、1971年名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する五島昇東急社長と共に、大川色が強く、不採算だった球団を手放す事となった。

一方、映画会社東映のほうは、旺文社とともに1959年 日本教育テレビ(現、テレビ朝日)を開局。来るべきテレビ時代に先手を打った。ところが、1964年9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には東映の社長に派遣され、倒産寸前から同社再建を成功させた大川博と東急本体を引き継いだ五島昇との間に確執があったと言われている。

1960年代後半から映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザもの映画で観客動員を保つ一方で、時代劇が斜陽になったことから1975年に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。また1966年、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡。また、東映フライヤーズを1972年オフに日拓ホームに売却。

その一方で、シティホテルや不動産分譲、撮影所余剰地の複合施設開発など新規事業を開拓して事業の再構築を行った。本業の映像部門でも劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組み、1989年からは東映Vシネマというオリジナルビデオをリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を計っている。

(敬称略)
引用文献
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「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社

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472(2005/05/26) 企業と球団の興亡史 PartU(二一)

東急フライヤーズ

東映は、1949年設立の東京映画配給が1951年、太泉映画(旧新興キネマ東京撮影所)と東横映画を吸収合併、社名を東映と改めて出発した。 東横映画を吸収したことからも判る様に設立には東京急行電鉄が関わっている。小林一三が東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った。ただし、ここに登場するのは五島慶太ではなく永田雅一のライバル大川博である。

鉄道省出身の元役人で、東急では経理担当重役(専務)であった大川は、映画よりも先に野球に関わる。1947年、当時は、現在の京急、東急、小田急、京王の4社が統合された大東急の時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。東急の専務だった大川は大東急一致団結の旗印としてセネタースを買収し、オーナーに就任し、球団名を東急フライヤーズした。

セネタースは、球界屈指の人気選手大下を擁し、多くのファンを惹きつけたが、球団経営は赤字だった。 セネタースは、1946年、戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に設立したもので、大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、個人で立ち上げた球団だったため財政的に非常に厳しく、元華族の西園寺公一をオーナーに付け、銀座の高利貸し業を営んでいた織手登(折手登)なる人物がスポンサーになっていたものの、結局資金不足に陥り横沢は球団経営を諦めざるを得なかった。

1948年、プロ球界入りを画策した永田の大映球団が経営に参加し球団名を急映フライヤーズに改称。東急フライヤーズの代表を務めたのが元毎日新聞の記者だった猿丸元であった。猿丸は、買収1年目の100万円の大赤字を見て大映永田が提示した250万円の買収話に乗ろうとした。ところが、大川が「そのうち黒字になるときもくる」と反対したため、買収ではなく大映との合併となった。この年大東急は分裂し、球団保有の大義が消失。1948年12月、大映は金星スターズを別途買収する事が決まり、フライヤーズの運営から手を引きチーム名は1年で元に戻った。

その後、猿丸は読売・巨人の起こした別所事件に憤慨し、読売の強引なやり方に我慢ならない猿丸は、毎日球団の連盟加盟のため連判状つくりに奔走した。猿丸の毎日記者時代の社会部長が、球団設立に積極的に動いた本田・毎日新聞社長であり、麻雀仲間が毎日球団代表となる黒崎であった。1949年シーズンオフの2リーグ分裂でパ・リーグに加盟。

1953年9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園(現、駒沢オリンピック公園)に自前の駒沢球場が完成し、文京区の後楽園球場から移転。これは、当時、後楽園球場を本拠地とする球団は5つあったが、そのうち東急は観客動員数が少ないとして、後楽園球場からしめ出された結果であった。駒沢球場移転後、奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。

(敬称略)
引用文献
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「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社

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471(2005/05/25) 企業と球団の興亡史 PartU(二十)

阪急・東宝グループ 

東宝は、松竹と同様、元来は演劇興行。阪急電鉄、阪急百貨店などの阪急東宝グループの中核企業。1932年8月に阪急電鉄の小林一三によって株式会社東京宝塚劇場として設立される。1934年に東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場、帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹と東京の興行界を二分するに至る。

一方、会社設立前年に創設された、トーキー制作のための写真化学研究所は、1937年関連会社と合併し、東宝映画株式会社となる。東京宝塚劇場株式会社は、1943年これを合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、社名を東宝株式会社と改めた。

戦後の1946年から1950年にかけて、労組の対立が激化し、1948年8月には撮影所を占拠した組合員に対し武装警官と進駐軍が出動するまでに至る。世に言う東宝大争議である。この間、スターの大半は第三組合によって設立された新東宝で活動を続け、東宝は再建不能とまでいわれた。

新東宝は当初は東宝の制作子会社であったが、間もなく東宝と袂を分かち、後楽園スタヂアム(現、東京ドーム)の関連会社として独立の映画制作・配給会社となる。一時は、大手5社の一つに数えられたが1961年倒産。

一方、東宝は、1950年代に迎えた日本映画の黄金時代に、黒澤明作品や円谷英二作品を始めとする諸作品によって隆盛を極め、映画の斜陽化が始まった1960年代にも無責任シリーズや若大将シリーズでヒットを飛ばす。1970年代になるとテレビドラマも制作するようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒットした。1990年代に入ると、自社での邦画制作は「ゴジラシリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局が製作した映画を配給し、成功をおさめた。2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが独占していたシネコン市場に参入し、日本のスクリーン数ではNo.1を誇った。

テレビ対策として、大映・松竹とともにフジテレビの設立に参加。現在でも、東宝は、フジテレビの大株主。ライブドアにによるニッポン放送買収劇の最中の4月4日、フジテレビの買収防御策として株式を買い増しし、東宝のフジテレビ株保有比率は5.76%から7.19%に上昇し、大和SMBCを抜き、ソフトバンク・インベストメントに次ぐフジテレビの第2位株主。

東宝は、「南極物語」や「踊る大捜査線 THE MOVIE」などフジテレビが製作した劇場用映画のヒット作を配給しており、株式取得について「収益力を持つ作品の製作者であるフジテレビと、より強固な取引関係を築き、今後の配給作品の更なる充実を図るため」と説明している。

プロ野球は、グループ企業の阪神急行電鉄が大阪タイガース結成に対抗し1936年大阪阪急野球協会・阪急軍を発足。以後、1988年、シーズンオフに阪急電鉄がオリエント・リースに球団(阪急ブレーブス)を譲渡するまで続いた。

(敬称略)
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470(2005/05/24) 企業と球団の興亡史 PartU(十九)

松竹ロビンス

松竹は、大映への対抗意識からプロ野球進出を目論んでいたが、1950年2リーグ分裂時に、田村駒の大陽ロビンスと提携し、松竹ロビンスとして、セ・リーグに加盟する。本拠地は京都の衣笠球場とされていたが、1951年大阪球場にナイター設備が完成してからは事実上ここに移転した。

松竹の資本力により、ロビンスは、ライバル大映から、ホームランバッター小鶴誠をはじめ、大岡虎雄、三村勲、金山次郎などの各選手を引き抜き、一気に戦力を充実させ、既存の岩本義行らが組んだ打線は水爆打線と呼ばれ、創設1年目にしてセ・リーグの初代チャンピオンに輝く。エースはこの年39勝の真田重蔵、主砲小鶴誠は当時の日本新記録であるシーズン51ホームランを記録。しかし日本シリーズではあの毎日オリオンズの前に屈した。

1951年、朝鮮戦争中の米国が戦略物資の買い付け停止を宣言する。これにより日本の景気は悪化。繊維を取り扱う田村駒にとってその影響は大きく、球団を援助する金額も大幅に削られることとなった。球団の運営は松竹主導のもとで行われるようになっていた。

ところが、松竹でも、セ・リーグ優勝を飾ったあと、社内から球団を持つメリットについて疑問視する声が大きくなっていた。「野球に使うお金があるなら、本業の映画に使うべき」という意見が社内の大勢をしめるようになり、球団運営の資金が削られていた。

1952年開幕前、当時7球団で日程の組み辛さが問題視されていたセ・リーグで、シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めが行われた。迎えた同年公式戦、ロビンスは34勝84敗、勝率.288でシーズンを終え勝率3割を下回った。申し合わせに従い1953年1月、大洋ホエールズと合体。大洋松竹ロビンスとなり、田村駒は球団経営から完全に退いた。1953年の大洋松竹ロビンスは奇妙な状態が続いた。球団の正式な合併はシーズン終了後の12月になってからだった。

合併による戦力の強化を目論んでいた大洋側であったが、松竹が資金難から合併前に小鶴など打の主力選手を放出してしまう。松竹は優勝後、資金難から優勝に貢献した真田・大島の主力投手を放出するなど、次々と主力選手を放出していた。この動きに大洋側が不信感を持ち、チームは合体したものの、合併は先送りされていた。正式に合併し、1954年洋松ロビンスなったが、その年限りで、松竹は球団経営から撤退し、大洋ホエールズが復活する。

(敬称略)
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「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社

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469(2005/05/23) 企業と球団の興亡史 PartU(十八)

戦後の映画会社

戦後、混乱し娯楽が少なかった時代に、大衆娯楽としてプロ野球以上に人々を集めたのが日本映画であった。映画界は、戦時中の1942年政府により、東宝ブロックと松竹ブロックに二分されて統合される事となった。ところがこれを知った、当時新興キネマの京都撮影所長であった永田雅一は、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、大日本映画製作(大映)の成立に成功する。

戦後すぐの映画界は、東宝、松竹、大映による大手3社の時代であった。日本最古(1912年設立)の本格的な映画制作配給会社である日本活動写真株式会社に由来する日活は、戦前は、東宝、松竹と覇権を争う存在であったが、東宝と松竹に両属し、制作部門は大映に現物出資していた。東映はまだなかった。

永田は、1942年大日本映画製作株式会社成立と同時に同社専務に就任。1945年社名を大映に変更し、永田は1947年には社長となる。永田は、大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故プロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。

映画の製作・配給は行っても、興行は殆ど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。また日本テレビやフジテレビに出資はしていたものの、余りテレビには関心を示さなかった。このため、1960年代からの映画界の急激な不振の中で、殆ど製作本位で大作主義だった大映はじり貧に追い込まれ、永田の放漫経営もたたり1971年12月23日に倒産。この倒産直前に本社からの分離独立で大映テレビが発足した。

松竹は、元来は演劇興行。現在も歌舞伎をメインに新派、松竹新喜劇も手がける。かつては、文楽や歌劇(SKD…松竹歌劇団、OSK…大阪松竹歌劇団)、演芸(浅草松竹演芸場、道頓堀角座等)から相撲興行やプロ野球、ボウリング、アイススケートリンクの運営等幅広い活動を行い、一時は松竹交響楽団なる本格的なオーケストラまで所有していた。メディア対策として、東宝・大映等と共にフジテレビの設立に参加(1959年開局)。その後通信衛星を利用した「衛星劇場」「日本伝統文化放送」等を立ち上げ、現在に至る。

松竹という名称は、兄白井松次郎と弟大竹竹次郎の名に由来する。松竹の創業は、弟竹次郎が京都阪井座を買収し、その興行主となった1895年。「松竹」の名前は1902年二人が演劇専門の松竹合資会社を起こしたことに由来する。ただし、このときの読み方は「まつたけ」。子供の頃松竹映画を「まつたけ映画」と読んで笑われたが、あながち間違いではなかった。

1920年2月に松竹キネマ合名会社を創立、映画の製作、配給を発表。6月には蒲田撮影所を開設、更に同年11月に帝国活動写真株式会社を創立、これが松竹の設立日。1921年 帝国活動写真株式会社を松竹キネマ株式会社と改称し、同時に松竹キネマ合名会社を合併、1937年 松竹キネマと松竹興行を統合し、松竹(しょうちく)株式会社を設立する。

(敬称略)
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松竹株式会社 会社の沿革
日本演劇興行の歴史

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468(2005/05/22) 企業と球団の興亡史 PartU(十七)

この時期、リーグの運営には積極的に動き回っていた永田であったが、チームの補強には消極的で、逆に経費の引き締め策をとっている。永田は、パ・リーグ総裁として、8球団制となった1954年勝率.350を切った球団は罰金500万円を支払うという規定を設けるが、その年、.350を切って最下位になったのは大映であった。また、7球団制に戻った1957年、最下位になった球団は合併すると決めたとき、最下位になったのも大映であった。永田が、積極的にチームの補強を行い、球団経営に熱意を見せ始めるのは大毎オリオンズになってからである。

大毎オリオンズ

合併後の1958年オフ、大阪タイガースから田宮健次郎を獲得。これによってオリオンズには強力な打線が形成された。田宮、榎本、山内、葛城とつながる打線はミサイル打線と称され、1959年2位となり、翌1960年大毎オリオンズはリーグ優勝を飾る。

ところが、日本シリーズで大洋と対戦したとき、永田は采配を巡って西本幸雄監督と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、永田は西本を解任した。また、この年を以って毎日新聞社は球団経営から事実上撤退し、永田雅一が完全に経営を掌握する事になる。

パがセに人気で遅れを取っている理由の一つは、東京に拠点球場がないせいだと考えた永田は、1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住に専用球場・東京スタヂアム(東京球場)を建設、その開場セレモニーでは観客に対し「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫。しかしその後、東京スタヂアムは不入りで不採算が続き、読売の正力が見かねて「巨人も試合に使ってあげよう。何とか君を助けたい。」と救いの手を差し伸べたが、「セ・リーグ、とりわけ巨人軍の世話になるのは御免だ。」とこれを固辞した。

1964年には地域密着型のチームにしたいという意図から、大毎オリオンズから東京オリオンズと名乗ることになる。この年のシーズンを最後に毎日新聞社からの後援が打ち切られ、経営は完全に大映側に移譲されたが、正式球団名は「毎日大映球団」を維持した。

しかし東京オリオンズはわずか5年間で、1969年に株式会社ロッテと業務提携をしてロッテオリオンズと改められることになった。永田オーナーはそのままで、ロッテはいわゆるスポンサー提携であった。なおオーナー代理には中村長芳氏が就任した。翌1970年パ・リーグ優勝を東京スタヂアムで決めたとき、永田はグラウンドになだれ込んだ観客の手により、優勝監督や殊勲選手よりも真っ先に胴上げされた。

1971年、映画会社大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡。無念の永田は記者会見で号泣。「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」と泣き崩れながらコメントし、球界を去った。ところが、大映は同年12月に倒産する。

(敬称略)
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「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社

プロ野球 話の屑籠

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467(2005/05/21) 企業と球団の興亡史 PartU(十六)

パ・リーグの盟主として期待され、パ・リーグの初代チャンピオンとなった毎日だが、1952年7月の平和台事件を契機に他球団の信頼を失う。毎日に替わってパ・リーグを牽引したのが1953年パ・リーグ総裁になった大映の永田雅一であった。

永田大映とパ・リーグ

1947年末、米国視察旅行から帰国した映画大手5社のひとつ大映のワンマン社長永田雅一は、大映作品の米国市場進出のためには、自らが米国に名の通った存在でなくてはならない事を痛感し、当時、米国で尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであった事から、球団を持つ事を決意する。

たまたま、中部日本軍からマネージャーの赤嶺昌志を筆頭とする大量の脱退選手が出た事を知り、彼らと合同して大映球団を組織し、日本野球連盟への参入を図るが、復興したばかりの球界にとって新規参入は認められなかった。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスと合同。1948年1月、東急フライヤーズと帯同して「急映フライヤーズ」を名乗るが、同年12月、別途金星スターズを買収して「大映スターズ」を結成。東急フライヤーズとは袂を分けた。

以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが、次第にプロ野球にかける情熱が他のオーナーに勝るとも劣らない程強くなり、ついに1953年パ・リーグの総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋球団と大映球団の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。

パ・リーグは、1950年のリーグ結成から4年間7球団制が続いた。7球団制はリーグ戦の編成にも支障を来すため、パ・リーグ総裁に就任した永田は、プロ野球経営の理想の形は8球団制だとして、当時アサヒ・ビール相談役で、戦前イーグルスの経営にも関与した高橋龍太郎に球団結成を依頼し、1954年高橋ユニオンズが誕生する。

高橋ユニオンズは、寄せ集めの弱小球団であるばかりでなく、高橋の個人経営でもあり、経営状況は苦しかった。そこで、永田がスポンサーとしてトンボ鉛筆の創業者小川春之助に仲介し、1955年トンボ・ユニオンズを名乗るが、最下位は変わらず、1年で終わる。

1956年オフ、今度は一転、永田は一気に6球団制に移行することを主張する。だが、具体的な組み合わせに難航した。当初、毎日と大映が合併し、高橋は即解散、が有力案だったという。しかし、スポーツ紙が報道したことにより、毎日社内で合併反対の声があがっていった。その上、永田は毎日に「経営権全面委任」を要求したため、大映と毎日の合併は暗礁にのりあげた。

別の案としては、阪急・南海・近鉄の3球団が2球団に再編成され、近鉄は京都にうつるという案もあった。しかし、これは近鉄の猛反対によって潰れる。当時のパ・リーグ総裁は永田から近鉄グループの総帥・佐伯勇に移っていた。この案もダメになると、永田は東映の大川オーナーに毎日への合併をもちかける。しかし、大川は永田の映画界での永遠のライバルであり、賛成はしなかった。結局、高橋は大映が吸収合併し、翌年最下位の球団がさらに合併することになった。

1957年2月大映スターズと高橋ユニオンズが合併して大映ユニオンズとなり、同年最下位となった永田の大映ユニオンズは、約束どおり、11月合併に同意した毎日オリオンズと対等合併し、毎日大映オリオンズ、通称、大毎オリオンズとなる。ところが、この合併は、実質的な大映による毎日の吸収合併で、オーナーは引き続き永田であった。毎日は球団経営に情熱を失っていた。

(敬称略)
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「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社
高橋(トンボ)ユニオンズ
高橋ユニオンズ伝説

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466(2005/05/20) 企業と球団の興亡史 PartU(十五)

毎日オリオンズ

当初、毎日は、後楽園球場を間借りする形でスタートした。この当時、後楽園を本拠地にしていたのは、巨人(読売)、大映、東急の後身の東映、それに2リーグ分裂後生まれた国鉄、毎日と5チームを数えた。後楽園の営業政策からいって、どうしても人気チームの巨人偏重とならざるを得ず、毎日は球界の流浪の身であった。

毎日は手を拱いていたわけではなかった。1952年に完成した川崎球場は、そもそも、毎日の球団代表であった黒崎貞治郎が、作家の久米正雄を球場社長に担ぎ出し、当時の金刺・川崎市長を巻き込んで建設させた球場であったが、いざ出来上がると肝心の毎日は、川崎という土地柄のイメージと交通の便の悪さからかほとんど使用しなかった。その川崎球場もまもなく大洋の本拠地となり、毎日は、球場問題に真剣に取り組むことになる。

黒崎は、川崎球場ができる前にも、品川駅前の土地の払い下げ運動にかかわったこともあったが、球場建設に格好の土地が見つかったのは1956年頃の話であった。それが、北に不忍池、南に湯島天神を望む、湯島切通しの岩崎家別邸の土地だった。後楽園球場に近すぎるという難点があったが、リーグが別ということを考えれば、それもさして支障になるとは思われなかった。

黒崎が、まっさきに相談したのは、民放テレビを開局して間もないラジオ東京テレビ(KRT)の専務で、毎日新聞時代から親しくしていた鹿倉吉次であった。鹿倉は、後楽園の野球中継が日本テレビに独占されたいたことに、以前から苦々しく思っていた。鹿倉は、毎日の湯島球場建設計画に賛同し、用地取得のための別会社の創設にも関係し、このとき創設された東都起業がのちのTBS不動産となった。また、永野重雄や河合良成らの財界人たちもこの話に加わることになった。

ところが、土地の買収工作は遅々として進まなかった。河合、永野の両財界人も、ある時点から消極的な態度をとるようになった。新宿東大久保に別の球場を建設する計画だった正力らのグループが恫喝的なことばで河合、永野に接触してきたことが、二人をこの話から遠ざけさせた原因だったという。河合、永野は正力の古くからの友人だった。

黒崎は、湯島との等価交換用の土地まで確保したが、結局、払い下げは実現せず、湯島球場は幻と消えた。「あの球場が失敗したのは、代議士正力の圧力があたためだ。2リーグ分裂のときあれだけ協力したのに手の平をかえされた思いだ」(当時、毎日球団代表黒崎)。

パ・リーグの盟主として期待された毎日オリオンズは、球団代表の黒崎が、2リーグ分裂時に読売に寝返った阪神から主力選手を大量に引き抜くなど選手の補強がみのり、初年度の優勝を果たす。その後も順調に毎日新聞の売り上げが伸び、観客動員や各球団の収入が増えていたなら、パ・リーグの思惑どおりだったろう。

ところが、1952年7月、福岡・平和台球場に乗り込んでの対西鉄戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生。この「平和台事件」の責任をとり湯浅禎夫総監督が退任。以後チームは低迷。リーグの覇権を南海や西鉄に奪われ、1957年オフには6球団制への移行のために大映と合併、大毎オリオンズとなった。

後楽園を本拠としている限り、テレビ中継は日本テレビ・読売・巨人に独占され、新球場の建設は正力・読売の妨害を受け断念せざるを得なかった。新球場の建設によりラジオ東京テレビ(KRT。現、TBS)との提携も考えられたが、それも幻と消えた。毎日は球団から思ったほどの実りがもたらされないことを痛感する。

さらに、合併した大映の社長だった永田オーナーと毎日経営陣との関係が悪化してしまう。1960年大毎オリオンズが優勝したその年11月に開かれた重役会で、毎日側の役員がすべて退陣、球団経営から撤退するにいたった。

(敬称略)
引用文献
「南海ホークスがあったころ」永井良和、橋爪紳也共著(紀伊国屋書店)
「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」佐野眞一著(文春文庫)
「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社
高橋(トンボ)ユニオンズ

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465(2005/05/20) 企業と球団の興亡史 PartU(十四)

大阪の人からみれば、毎日は大阪の新聞だが、オリオンズは東京のチームと映る。オリオンズが大阪で南海を凌ぐ人気を獲得することは困難だった。しかし、お膝元の関西で事業展開する毎日系メディアには、パ・リーグをもり立てていく使命がある。だからこそ、ライバルの南海が優勝したのにもかかわらず、系列メディアを総動員したとみてよい。だが、南海と毎日は、それぞれ独自の企業でもある。南海側が、放送権料を上げようとしたのは当然だし、採算が合わなければ毎日が要求をつっぱねるしかなかった。

毎日とパ・リーグ

パ・リーグは1950年に結成された。それは毎日オリオンズという新球団を迎え、毎日系メディアを広告塔として活用しつつ、参加球団全体の繁栄を目指す企業連合という側面を持っていた。

ところで大阪で発祥し、大阪を地盤とする毎日新聞が、なぜ、東京で持つようになったのだろうか。1876年に創刊された大阪日報は1888年大阪毎日新聞と改題、1911年東京日日新聞と合併し全国紙となる。しかし、1943年まで紙面は大阪毎日と東京日日のままだった。毎日新聞社に一本化されてからも、組織の上では、東京本社・大阪本社というかたちをとった。

もともと毎日という名称は大阪のものだから、毎日オリオンズの本拠地を大阪におくのもひとつの選択肢だったが、毎日の本拠地には、後楽園球場が割り振られている。

関西には、電鉄系の阪急、南海、阪神と田村駒の太陽(後の松竹)の4球団が既に存在し、さらに近鉄が新規参入を申請していた。毎日側にすれば、少ない人口の関西圏で客を取り合うより、東京で動員を図り、あわせて読者を獲得するという全国的な販売網を狙う企業としての思惑があったに違いない。

また、毎日の参入に賛同し、分裂後も行動をともにする阪急、南海、新規参入した近鉄のパ・リーグ3球団との競合も避けなければならなかった。株式会社毎日球団の本社は、毎日新聞東京本社内におかれた。

(敬称略)
引用文献
「南海ホークスがあったころ」永井良和、橋爪紳也共著(紀伊国屋書店)

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464(2005/05/11) 企業と球団の興亡史 PartU(十三)

大阪の民放テレビ局とパ・リーグ

大阪地区民放の状況を把握した上で、関西におけるプロ野球とテレビ放送の状況を見てみよう。出典は、永井良和、橋爪紳也共著の「南海ホークスがあったころ」(紀伊国屋書店)。

毎日放送は、同じ資本関係にある大毎オリオンズ(毎日大映オリオンズ:1957年毎日オリオンズと大映ユニオンズが合併)ではなく、地元大阪の南海球団と密接な関係にあった。毎日放送(MBS)の前身である新日本放送がプロ野球中継を行ったのは、ラジオ局として開局間もない1951年9月16日大阪球場での阪急対近鉄、阪急対南海のダブルヘッダーだった。翌年以降、毎週土曜日の午後の試合を定時番組として放送している。その後、毎日放送として社名変更し、1959年にはテレビ事業にも進出する。

毎日放送は「テレビ放送開始にあたってスポーツ放送を重要視し、ラジオよりもテレビに重点をおく」方針をとった。開局の3月1日を控え、毎日放送は南海球団・大阪球場と契約を結んでいる。内容は、大阪球場における公式戦のテレビ放送を毎日放送が独占するというものだった。また西宮球場で開催される公式戦6試合についての放送契約を阪急と取り交わす。開局直後の3月7日には大阪球場で開催された南海対読売(巨人)の試合を中継している。これが毎日放送テレビの野球初中継であった。

東映球団の本拠地・駒沢球場は日本教育テレビ(NET)が、西鉄球団の本拠地・平和台については九州朝日放送(KBS)がそれぞれ中継を担当し、これをネットしてパ・リーグの多くの試合をカバーした。そして、まさにこの年、南海はリーグ優勝と日本シリーズ制覇に成功する。南海との独占契約は、立ち上がったばかりの毎日放送テレビの「一大ヒット」になった。

南海球団側は、新たにスタートしたテレビ中継に大きな旨みがあることを知る。翌1960年には、球団の収入源としての放送権料の重みも増した。毎日放送は前年の成功を受け、早々に南海球団と交渉に入る。しかし「南海側の放送見料は大幅(3倍)に跳ね上がり、毎日放送1社で契約するには負担が大きすぎた」。そこで大阪球場でのゲーム35試合でのゲーム35試合の優先放送契約を締結することになる。それでも、ホークスの主要ゲームをカバーすることはできたという。

そのままいけば、パ・リーグのテレビ中継は増加の一途をたどりそうな勢いだが、現実には高騰する放送権料がネックになった。1961年、毎日放送は南海との交渉をあきらめ、テレビの野球中継そのものを縮小する方針に転換した。

当時、パ・リーグの中継を分担した日本教育テレビ(東映)、毎日放送(南海)、九州朝日放送(西鉄)は日本教育テレビをキー局にネットワークを組んでいた。東映球団の本拠地・駒沢球場の中継を担当した日本教育テレビの大株主が東映球団の親会社である東映だった。ところが、パ・リーグの盟主と期待された毎日球団(当時、大毎オリオンズ)と同じ資本関係にあった毎日放送は、毎日球団ではなくは、地元の南海球団と密接な関係にあった。

大阪では後発の民放、関西テレビが1960年に阪急ブレーブスとの間に放映の独占契約を締結している。関西テレビの大株主が阪急の親会社である阪急電鉄だったため、関西テレビとブレーブスの関係は、毎日放送と南海球団以上に密接だった。しかし、パ・リーグの試合を看板にできた期間は短い。その転機は1965年だったという。「本社(関西テレビ)としては大阪地方の特異性を説き、1試合でも多くのローカルカードを編成するため努力した」。

しかし、カードの編成は読売(巨人)を中心にする路線が強くなる。年間30試合の阪急戦を放映した実績があるにもかかわらず、1966年には8試合まで減少した。読売中心の方針が強く、たとえブレーブスが好調でも「阪急のカードを表に出すことは容易な業ではなかった」と『関西テレビ放送10年史』に書かれている。60年代後半というのは、フジ系列のキー局システムが確立した時期であった。1966年ニュースネットワークFNNが結成され、1969年には番組供給ネットワークFNSが結成されている。

その後、パ・リーグでは阪急が黄金時代を迎えるが、事態は好転しなかった。関西球団の人気低迷の背景には、放送業界の構造化が進み、東京への一極集中が起こったこともあるだろう。関西テレビの担当者の嘆きの言葉には、大阪の放送局が準キー局の位置に甘んじざるを得なくなった悔しさを読みとることができる。

(敬称略)
引用文献
「南海ホークスがあったころ」永井良和、橋爪紳也共著(紀伊国屋書店)
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463(2005/05/10) 企業と球団の興亡史 PartU(十二)

大阪の民放テレビ局 その2

読売テレビは、大阪読売新聞社(現、読売新聞大阪本社)などの出資により、準教育専門局「新大阪テレビ放送」として設立、その後、讀賣テレビ放送と社名変更し、1958年8月本放送開始。これまで大阪テレビ放送(OTV。現、朝日放送)にネットされていた日本テレビの番組を移行させる形で開局。日本テレビ系列地方局の第1号として「ステーション・ネット局」宣言を打ち出す。 1952年、既に読売は大阪に進出していた。

関西テレビは、京阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)、産経新聞、京都新聞、京都放送、神戸新聞、神戸放送(現、ラジオ関西)などが出資し、大関西テレビ放送設立、その後関西テレビ放送に社名変更し、1958年11月本放送開始。1959年3月東京のフジテレビの開局にともない、同局をキー局とする。これは、フジテレビ社長の水野成夫が関西テレビ放送の母体である産経新聞社の社長に就任し、結果としてフジテレビと関西テレビとの関係強化が図られたためであった。またフジテレビと名古屋の東海テレビ、福岡の九州朝日放送(1964年テレビ西日本にネット変更)、との間で番組交換協定を結び、1966年FNN成立、1969年FNS発足。

毎日放送は、毎日新聞社が中心となり、新日本放送株式会社を設立し1951年9月ラジオ放送開始。1958年6月株式会社毎日放送に改称し、翌1959年3月テレビ放送開始。毎日放送は、当初はラジオ東京テレビ(KRT。現、TBS)とのネットを目論み、1958年12月に開局する予定だったが、KRTの今道常務(当時。のちにTBS社長・会長を歴任)から「KRTは既に大阪テレビ放送とネット協定を結んでおり、毎日放送とネットを組むことはできない。ネット番組はそう簡単に動かせない。」とネット関係を拒まれた。結局、日本教育テレビ(NET)・フジテレビとネットワークを結ぶが、関西テレビとフジの関係が強化されたため、翌年NETに一本化する。NET、九州朝日放送(フジとクロスネット)とネットを結ぶ。1970年 ANNに加盟。

朝日放送は、1951年新日本放送に次いで大阪地区の民放としては2局目、日本で3番目の民放ラジオ放送を開始。朝日放送は、毎日放送と合弁で大阪テレビ放送(OTV)を設立し1956年12月テレビ放送を開始。当初は、日本テレビとラジオ東京(KRT。現、TBS)のクロスネットとしてスタートした。その後、 日本テレビは1958年8月に開局した読売テレビと完全ネットを結ぶことになり、OTVはKRTの単独ネットとなり、KRT・OTV間の関係は緊密化する。毎日放送のテレビ開局に伴い、1959年6月朝日放送は大阪テレビ放送を合併しラジオ・テレビ兼営局となる。同年8月、テレビニュースのネットワークとしてKRTをキー局とするJNNに加盟。1960年2月、KRT・中部日本放送・RKB毎日放送と「四社連盟」を発足。3月1日、北海道放送も加わり「五社連盟」に。以降、関西地区でのKRT系番組はすべて朝日放送から放送される事となった。(それまではスポンサーの都合等で毎日放送や関西テレビからもKRT番組が放送されていた。)

(敬称略)
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462(2005/05/09) 企業と球団の興亡史 PartU(十一)

大阪の民放テレビ局 その1

大阪のラジオ局は、一本化の調整に手間取った東京に対し、毎日新聞と朝日新聞の2局に免許がおりたため、東京よりもはやく1951年9月名古屋の中部日本放送に半日遅れで新日本放送(毎日新聞)が我が国2番目の民放として開局、11月には朝日放送(朝日新聞)が大阪で2番目の民放として開局した。

大阪地区のテレビ免許の割当ては当初1局のみだったため、既存ラジオ局vs新規参入予定局の“免許争奪戦”となった。そこで朝日放送と新日本放送は合弁で大阪テレビ放送(OTV)を設立し、神戸放送(現、ラジオ関西(CRK))と京都放送(KBS)は各々単独で、そして新規参入者として大阪産經新聞社と阪急が「関西テレビ」を創設して臨んだ。結果的にはOTVの勝利となり、それ以外の放送局の申請は却下された。1956年12月OTVが大阪地区で初めてテレビ放送を開始した。

大阪ではその後、もう1つテレビ免許が割り当てられ、ともに独自のテレビ局を持ちたい朝日放送と新日本放送は、別々に免許を申請したが、前回申請を却下された産経・阪急・近畿テレビ(CRKとKBSの合弁会社)が合併した大関西テレビ放送に1957年8月予備免許がおりた。

そこで、当時地方局を中心とした大量一括免許を検討していた郵政大臣だった田中のもとに新大阪テレビ(現、読売テレビ)と新日本放送(現、毎日放送)へ免許を下ろせという自民党からの圧力がかかる。正力と毎日(東京日日新聞)出身の川島正次郎が強硬に推したといわれる。田中は、郵政省に頼み込んで民放2局に免許を下ろした。当時、「隠しチャンネル事件」として話題になった。これで大阪には、59年3月までに4つの放送局が出そろった。福岡でも同じ時期に3つできた。

こうして、東京と地方を結ぶ4系列のネットワーク化が準備されていった。4系列が東京キー系列というだけでなく、朝日、毎日、読売、産経の四大新聞系列を意味することはいうまでもない。田中は、テレビに恩を売っただけではない。大量一括免許を下ろしたテレビを通じて、巨大新聞にも恩を売ったのである。この新聞―テレビ系列化は、田中が首相だった1974年、いわゆる「腸捻転」の解消という大きな節目を迎えることになる。その前に大阪地区の4社についてみてみよう。

(敬称略)
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461(2005/05/08) 企業と球団の興亡史 PartU(十)

キー局システムの資金の流れ

民放テレビ局のキー局システムは、構造的にみると、大都市の富を地方に再配分する税制度と酷似している。大都市の富を地方に再配分する仕組みを通してキー局による東京一極集中化が図られている。

1995年のBS、CSを含めたテレビの放送市場データによれば、全体で2兆7千億円の規模になるが、そのうち民放地上波が72.5%を占め、その半分近くといえる34.7%を日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京の東京キー局5社で占めている。また、2000年の民放127社の営業収入をみると、大都市である東名阪地区の28社で70%を占め、残りの30%を地方局約100社でわけあっているのが実情であった。

民放地方局は、平均年商60億円の中小企業にすぎず、これでは経営が維持できない。そこで、これを「電波料」で調整する。「電波料」の名目は様々であるが、これは地方局が番組を配信してもらう料金を東京キー局に支払うのではなく、逆にキー局が地方局に支払うものである。

この商品を供給する側がカネを払うという奇怪な商慣習は、全国放送のCMを地方局に流してもらう対価ということになっているが、いくら支払っているのかは明らかにされていない。関係者によると「単価は決まっておらず、経営の苦しい局を助けてやる『相互扶助』方式だ」という。

ひとつの番組をネットワークで放送するにあたっては、資金の流れが複数経路になって外部からは非常に分かりにくい構造になっており、その資金のながれは東京キー局が握っている。

このシステムのおかげで、民放地上波テレビ局は50年間、倒産どころか合併・買収も一件もない(詐欺の被害にあって倒産したKBS京都を除く)という銀行も顔負けの「護送船団」であった。2005年のライブドアによるニッポン放送・フジテレビの買収劇はまさに青天の霹靂だった。

(敬称略)
参考文献
「図解 放送業界ハンドブック」 西正著 東洋経済新報社
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460(2005/05/07) 企業と球団の興亡史 PartU(九)

日本独自のキー局システム

元通産官僚で作家の堺屋太一によれば、東京キー局を中心としたネットワーク・システムは世界に類例のない日本独自のシステムだという。堺屋太一によれば、このキー局システムは、全国ネットのキー局を指定し、全国のテレビ局はその系列にするという仕組みで、そのキー局には東京しか認められないというものであった。そして、キー局の重要なところは、全国放送の番組編成権を握っていることであった。


米国やドイツあたりでは原則として番組自由販売制で、こういう番組を作るから中継(放送)してくれないか、と制作したテレビ会社が売り歩く。それで「60局売れた」とか、「30局しか売れなかった」ということで、制作したテレビ局の勢力が伸縮する。だから、ニューヨークのテレビ局が制作してもいいし、シカゴやロサンゼルスの局が売り出してもいい。CNNのように、アトランタのテレビ局が巨大化することもある。

ところが日本では、そういうことが絶対に認められない。キー局にしか全国放送の番組編成権がないため、大阪の局で番組を作って全国に放送しようとすると、必ず東京のキー局に「こういう番組を作るから、全国放送の枠を1時間分けてくれませんか」と頼み込む。そこでキー局の地方担当ディレクターから、いろいろと注文がでる。まず、「ローカル色を出せ」、例えば大阪は「ど根性繁盛記かヤクザものでないと駄目ですよ」と言われる。東北や九州なら田園風景と伝統行事を入れ、「農村の苦悩」みたいな番組にされてしまう。

挙げ句の果てに出演俳優から台詞まで全部、手を入れられる。堺屋太一自身も、テレビドラマやドキュメント番組を大阪や名古屋の局で制作、全国に流してもらったが、いずれも散々に手直しを要求された経験があるという。堺屋太一によれば、この東京キー局を中心としたキー局システムは、国家官僚が規格大量生産を目指し、国家の頭脳機能を東京一極に集中させ、情報の一元化を図った結果の一部だという。

国家の頭脳機能とは、経済の中枢管理機能、情報発信機能、文化創造活動の三つで、この三つは東京以外でやってはならないというものであった。これは1941年9月の「帝国国策遂行要領」によるものだが、戦後も規格大量生産政策として推し進められた。テレビのキー局システムは、情報発信機能の東京一極政策のために免許権を握る郵政省によって推し進められた。

そもそも、日本テレビ放送網に予備免許を与えた電波監理委員会は、最初の地上テレビ放送局に対する免許方針を次のように示している。

1952年(昭和27年)7月31日に電波監理委員会が出した「テレビ免許の方針と措置」<方針>(全文)
(1)テレビ事業は独占事業であってはならない。
(2)テレビ放送局の置局については、さしむき、東京は二局ないし三局、その他の都市においては一局または二局を適当と認め、日本放送協会の放送局と民営の放送局との併存を原則とする。
(3)テレビ放送はさしむき東京において実施するものとし、その成果を中継回線の完成を待って逐次地方としに及ぼすことを適当と考える。


「さしむき」とは「当分の間」といったところ。電波監理委員会はGHQの求めで設置された独立行政委員会で、1952年当時は事務局官僚が全員辞表を出して圧力を強めるなかで、テレビ免許の方針と措置を決定。日本テレビに予備免許を与え、NHK・ラジオ東京については決定を保留した。この決定の20分後(52年8月1日0時)に電波監理委員会は廃止され、以後、電波行政は郵政省電波監理局の所管に移行した。

郵政官僚の圧力の中、独立行政委員会が出した方針は、まさに東京キー局システムであり、郵政省(現・総務省)に所管が代わっても、方針は変わることがなかった。東京の日本テレビから日本全国に巨人戦が提供される仕組みは国家官僚による政策であり、日本全国のプロ野球ファンが巨人ファンと化したのも、国家官僚が求めたものであった。全国のプロ野球ファンは、巨人ファンとして均質化し規格化されていった。そして、中日ファンは名古屋に封じられ、阪神ファンはアンチ巨人として巨人文化の中に組み込まれた。

(敬称略)
参考文献
「進むべき道」 堺屋太一・浜田宏一著 PHP研究所
「図解 放送業界ハンドブック」 西正著 東洋経済新報社

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459(2005/05/06) 企業と球団の興亡史 PartU(八)

民放テレビ局のネットワーク化

正力のテレビ構想はそもそも、日本全土をマイクロウエーブのテレビネットワークで結び全国放送を行う計画だった。日本テレビの正式名称、日本テレビ放送網にその名残りがある。ところが、肝心のマイクロウェーブによるネットワーク回線は電電公社(現・NTT)の独占事業となり、しかも、取得した免許は、全国放送ではなく地域放送であった。

民放に与えられた免許は原則として、東名阪地区や山陰・瀬戸内地方を除いて、県域ごとの免許だった。そこで、NHKに対抗し全国放送を展開するためには各地のテレビ局をネットワークで結ぶ必要があった。

日本で最初に誕生したネットワークは、1958年6月ラジオ東京テレビジョン(KRT、現・TBS)が、大阪の朝日放送・名古屋の中部日本放送・福岡のRKB毎日放送・札幌の北海道放送といった地方局と結んだ「テレビニュースに関するネットワーク協定」、現在の「JNN」だった。日本で最初に免許を取得し、民放で最初に放送を開始したテレビ局となった日本テレビは、独自のネットワーク化を計画していたため、地方局のネットワーク化に遅れをとる。

1958〜59年の間に開局した地方局のほとんどが、ラジオ局がテレビ局を併設するという兼営放送局(ラテ兼局)だった。このため、ラジオで既にラジオ東京とネットワーク関係にあったラジオ局が、テレビ局を開始する際、自然とKRT系列になった。また、当時、ラジオ東京は毎日、読売、朝日の各新聞社が出資した連合体の放送局で、特定の新聞社の系列に属していなかったため、地方局は、地元新聞の出資により誕生した局が多かったことから、自然とKRT系列になっていった。これに対し、ネットワーク化で遅れをとった日本テレビは、巨人、プロレスと人気番組をそろえ、地方局へアプローチしていった。

当時は、東名阪や福岡、広島、宮城、北海道といった基幹地域を除けば、1エリアに1局という地域独占の時代だった。地域独占の地方局は、キー局に対しても強い立場にあり、地方局サイドがキー局から提供される番組や報道を選択する自由度を持っていた。最初はそもそもフリーネットであり、ネットワーク化が進んでも、複数のネットワークに加盟したり、複数のネットワークには加盟していないが、局の数が少ない為に他のネットワークの番組に差し替えるクロスネットが多かった。

1959年4月日本のテレビ史上空前のビッグイベントとなった皇太子殿下ご成婚パレードは、NHKだけでなく、民放も全国中継を行った。このとき、全国の民放テレビ局は、日本テレビの系列とKRTの系列に分かれ全国中継を競った。同年8月KRTは、皇太子ご成婚パレード中継での取材協力を機に、NHKに対抗する日本初のニュースネットワーク「JNN(Japan News Network)」を正式に結成する。この時16社が加盟したが、この時点で民放テレビが開局していた地域が21エリア。そのうち16エリアをカバーしていたわけで、この時テレビ局が開局していたほとんどの地域にKRT系列局が誕生したことになる。

JNNは、地方局にクロスネットをさせないために、排他協定とした。排他協定とは、JNN系列局はニュース素材をJNNにのみ提供し、他系列局に素材を提供してはいけない、というもので、これは現在でも続いている。こうしたことで、地方のJNN系列局は、自然とKRT単独ネット局となっていった。ただ、当初はニュース以外の番組に関してはクロスネットが可能で、テレビ山口はかつてフジテレビ系列のFNSにも加盟していた。

日本テレビのニュースネットワークは、JNNに遅れること7年、1966年4月にNNNを発足する。後発のフジテレビ系列FNNの結成が同年10月なので、民放初のテレビ局としてはKRTに対し、大きく遅れとったことになる。ただし、NNNが18社でスタートしたのに対し、FNNは基幹局のみの7社に過ぎなかった。  

VHF帯だけでは地方のテレビ局が限られてしまい地方局を増やすことができなかった。全国規模のネットワークを実現するためには、テレビ放送へのUHF帯の開放が必要であった。なお、1970年1月に当時の日本教育テレビ(現・テレビ朝日)系列がANNというニュース協定を各地の地方局と結んだ。

当初、ネットワークはニュース系列として始まったが、ニュース以外のドラマなどの各種番組についても、このニュース系列のネットワーク各局で放送されることが多くなり、フジテレビ系列の番組供給ネットワークはFNS、日本テレビ系列の番組供給ネットワークはNNSという別名称で呼ばれている。

(敬称略)
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458(2005/05/05) 企業と球団の興亡史 PartU(七)

テレビの大量免許交付と電波利権

テレビやラジオは電波の希少性と社会的影響力の大きさから、郵政大臣の免許制になっている。政治と権力、そこに利権が生まれる。

田中角栄は1957年戦後最年少39歳の若さで郵政大臣に就任する。田中が大臣になったとき運営されていたテレビ局は、NHKが11局、民放が日本テレビ、ラジオ東京(現、TBS)、北海道放送、中部日本放送、大阪テレビ(現、朝日放送)の5局にすぎなかった。フジやNET(現、テレビ朝日)には予備免許が下りていたが、まだ放送は始まっていなかった。

しかし、テレビの受信契約数は、1956年6月20万、11月30万、57年6月50万と着実に増え続けていた。先行局が活況にわくのを見て、全国各地から郵政大臣に放送局の免許申請が殺到していた。免許問題は歴代郵政相の懸案事項だった。

これに対して、郵政省は時期尚早として、一括大量免許に慎重な立場を取った。その郵政省を、田中は34社の大量免許へと動かした。このとき田中は、全国の免許申請者を郵政省に集め、みずから「一本化調整」を行なったといわれる。

もちろん、こうした調整の報酬は必ず取るのが田中型政治の特徴である。テレビ局の場合には、地元資本による政治献金もさることながら、ローカルニュースで自民党の政治家の「お国入り」を紹介することが大きな効果を持った。政治家が地元民放で「国政報告」の定時番組を持っていることも多く、田中も一時は地元の新潟放送で30分のテレビ番組を週2本も持っていた。

こうして、田中は、「郵政大臣は放送局の新設に関して強大な権限をもち、テレビに大きな影響力を行使できる。また、新聞がテレビへの進出と系列化に熱心なため、郵政大臣はテレビ(免許)を通じて新聞にまで大きな影響力を行使できる」ことに気づき、電波利権として、郵政省を田中派の金城湯池とし、この遺産は受け継がれていく。

田中の郵政大臣の就任から、4か月で34社の一括予備免許が1957年10月に下りた。NET、フジなどと並んでこれら大量免許グループが1958年12社、59年19社とぞくぞく開局する。受像機の普及も1958〜59年ころから加速度的に進み、本格的なテレビ時代が開幕する。

1959年4月10日の皇太子ご成婚パレードの模様を見ようと、前年5月にようやく100万台を突破したNHKの受信契約数は、1959年4月3日に200万台を記録した。このビッグイベントでテレビは広く国民に認知され、一大飛躍期を迎えた。プロ野球の天覧試合が行われたのもこの年であった。

この時代、テレビにはVHF帯のみが解放されており、東名阪や福岡、広島、宮城、北海道といった基幹地域を除けば、一括大量免許と言っても、1エリアに1局という時代だった。地方ではチャンネル数が限られ、地元の有力企業や地元新聞などを中心に立ち上げられた少数の地方局による独占状態が存在した。地域独占の地方局は、キー局に対しても強い立場にあり、地方局サイドがキー局から提供される番組や報道を選択する自由度を持ち、地元の世論に対しても非常に大きな力を有していた。

マスメディア集中排除原則の通達が出されたのもこの年(1959年)で、この通達の狙いは、その名の通り特定の新聞社や複数の放送局を持ちマスメディアとして強大な力を持つことを回避させるものであった。

(敬称略)
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457(2005/05/04) 企業と球団の興亡史 PartU(六)

教育専門局の破綻

電波の許認可権を握っていた郵政省は、NHKテレビに総合局と教育専門局があるように、民放テレビにも総合局と教育専門局を割り当てた。日本テレビ放送網(日テレ)、ラジオ東京テレビジョン(現・TBS)、フジテレビジョンの3局は総合局、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の2局は教育専門局として免許が割り当てられた。

日本教育テレビの免許交付の条件は教育番組を50%以上、教養番組を30%以上放送するというものであった。営利を目的とした教育専門局は世界でも珍しかった。しかし、この試みは事実上失敗に終わり、1960年東映の大川博が主導権を握り、アニメーションや外国映画を、それぞれ「子供の情操教育のため」、「外国文化の紹介」とこじつけながら、「教育番組」に指定し、対外呼称も「日本教育テレビ」から「NETテレビ」に変更し、事実上の総合放送局化を図った。

日本教育テレビは、旺文社の赤尾好夫と東映の大川博が主導権を争っていた。主導権は、その後、旺文社社長の赤尾と交替するはずだった。ところが、それが大川によって反故にされ 、ついに大川対赤尾の対決となった。赤尾は日経、大川は朝日を味方に付け、何とか大川が辛勝した 。東映と朝日との関係は、NET開局の前年1958年、合弁で朝日テレビニュース社(映画ニュースを提供)を設立したことによる。また、NETと朝日の関係は、開局当時、共同テレビニュース(NETも出資していた)を流すはずだったのを、東映が朝日と提携したため朝日テレビニュースにしたのが発端。NETも全国紙(日経は経済紙)の参加がなかったため、ニュース報道にはニュース製作会社からの提供が必要であった。

当時、電波政策に後れを取った朝日新聞は、日本テレビは読売、KRT(TBS)は毎日との関係が強く、しかもKRTは新聞色を嫌っていたので、代わりになるキー局を物色していた。そこにタイミング良く東映の大川から支援要請を受け、NETとの関係を深めていく。朝日新聞社は、1966年東映から持株の半数を譲渡されている。NETが朝日新聞社に系列化されてからも、赤尾家の旺文社と朝日新聞社の抗争は続いた。

1960年、米軍から「12」が返還されると、郵政省は、「12」も教育専門局として免許を与えた。「12」は今度こそ、東京で最後のチャンネルということで、ラジオ関東(現・RFラジオ日本)、千代田テレビ、日本電波塔、日本科学技術振興財団、アジアテレビが申請してきた。通常、申請が競合すると、相談により一本化するなどして調整されるのだが、郵政省は、「財団法人・日本科学技術振興財団」に免許を交付する。これに怒った競合他社は、訴え裁判が90年代まで続いた。

郵政省は、「12」は、日本教育テレビとは異なり、一般的な教育ではなく、企業の技術者を育成し、科学技術水準を向上させることが目的とし、科学技術教育番組60%、一般教育番組15%、教養・報道番組25%を免許交付の条件とした。これでは、一般の商業放送は困難であり、こういった理由から科学技術振興財団テレビ事業本部・東京12チャンネル(通称・科学テレビ)が1964年4月スタートした。

東京12チャンネルは、財団が母体となって設立した科学技術学園工業高等学校(現・科学技術学園高等学校)の授業放送をメインとして行う教育専門局として開局し、民放ながら広告を流さない放送局として運営された。しかし、慢性的な赤字経営から1966年 4月に規模を大幅縮小し、放送時間も夕方から夜間にかけてのゴールデンタイムといわれる4時間(日曜日 は日中も放送)に短縮された。

この状況を打開するために、政財界や、設立に関わった財界首脳から、日経に対して、「12チャンネルの経営引き受けと再建」の要請が繰り返し行われるようになった。日経としては既にNETテレビの経営に参加しており、当初は乗り気ではなかったが、要請が極めて強かったのと、NETテレビには朝日新聞も絡んでいたため、日経グループ独自でテレビ局を持ちたいという判断からか、1969年11月経営を引き受け、正式参加した。

その後1973年11月に東京12チャンネル(現・テレビ東京)の深刻な経営不振などを理由にNETテレビと東京12チャンネルに総合局免許が交付された。このとき、日経が持っていたNET株は、朝日新聞(旺文社と折半)に譲渡された。

(敬称略)
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456(2005/05/03) 企業と球団の興亡史 PartU(五)

東京の民放テレビ局

放送電波の周波数は限られており、日本のテレビ放送割当は1から12チャンネルまでしかなかった。隙間の大きい「3」と「4」を除いて、干渉がおきるため隣接チャンネルには、テレビ局を割り当てることはできない。このため、テレビ局は、最大7局分しかなかった。しかも、「1」と「12」は米軍が使用しており、また「10」は難視聴用とされていた。このため、1953年に開局したNHKは「3」が割り当てられ、日本テレビが「4」とされた。1955年、ラジオ東京が第二の民放テレビ局として「6」で開局。

日本テレビは、正力松太郎のもと読売、毎日、朝日の共同体制でスタートしたが、その後、読売が秘密裏に株を買い占め、毎日、朝日勢力を排除、正力・読売体制が確立する。巨人が優先使用権を持つ本拠地・後楽園球場の独占放送権を持ち、後楽園のプロ野球中継を独占し、巨人戦ナイターで高視聴率を稼いだ。

ラジオ東京テレビジョン(KRT)は、東京で民放2局目のテレビ局として放送を開始するが、そもそも、ラジオ東京は、開局の際、東京放送(電通系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、朝日放送(朝日新聞系)、読売放送(読売新聞系)に一本化された経緯があり、新聞社との系列色はなかった。ただし、当時、放送局としての準備が整っていたのは毎日新聞系のラジオ日本だけであり、毎日とは当初から人的、物的なつながりがあった。1960年に東京放送(TBS)に名称変更。日本テレビが後楽園の巨人戦中継を独占したため、巨人戦の後楽園以外のビジターゲームの囲い込みで対抗した。

その後、「1」が米軍から返還され、「10」も放送局に開放されることになった。NHK総合が「1」に移り、1959年1月NHK教育テレビが「3」で開局。民放には、新たに「8」と「10」の二つのチャンネルが割り当てられることになった。1956年、1957年日本テレビ、KRTの活況をみて、民間放送局設立の申請が相次ぐ。

新聞資本が中心になって設立した日本テレビとKRTに対し他の分野からの参入申請が相次いだ。まず、既存放送の文化放送とニッポン放送が別々に申請する。この2社は、KRTがテレビ免許を取得した1954年にもテレビ免許の申請をしていたが、「周波数不足」で却下されていた。次に、映像メディアとして競合関係にあった映画資本が東映の大川博が中心となって東映、東宝、松竹、大映、新東宝の5社で「国際テレビ放送」を設立し申請。映画資本はこの後、東宝が「東洋テレビジョン」、大映が「アジアテレビジョン」、松竹が「芸術テレビジョン」、日活が「日活国際テレビ」、新東宝が「富士テレビ放送」と別々に申請している。

また、出版界が旺文社が中心となって日本教育放送を設立し申請。旺文社のほか、東販、日販、小学館、平凡社、講談社、日教販、東京書籍および日経が出資。一方、日本短波放送も日本経済新聞社が中心になって申請に動く。こうしたなか、
文化放送の水野は、東京地区に割り当てられる2チャンネルのうち1つは国家民族の将来を考え「教育局(日本教育放送)」実現を目指し、もう1局を「娯楽(総合)局」として文化・ニッポン両社の申請を統合、「中央テレビジョン」として一本の申請書を提出すると発表。

東京地区のテレビ免許申請は、15社に及んだ。1957年、当時の平井郵政相は政治的絡みもあり、在任中に申請各社の合併統合を強引に推し進めた。「総合局」としては中央テレビ、アジアテレビ、芸術テレビ、東洋テレビの合併を勧告、「教育局」は国際テレビ(東映系)と日本教育放送(旺文社系)、日本短波放送(日経系)の合併が勧告された。前者は、総合局フジテレビジョン(設立時、富士テレビジョン)として1959年3月、「8」で開局。後者は、
初の民間教育専門局、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)として同年2月、「10」で開局。

フジテレビジョンは、文化放送、ニッポン放送が各4割、東宝、大映、松竹の映画各社が残る2割を分担する形で発足。フジテレビは実質的に、 財界系のニッポン放送の鹿内と文化放送の水野が共同で設立したもので、ラジオと同じく、保守系メディアととして誕生した。当初は、全国紙の関与がなかったため、ニュース報道のため、1958年自前のニュース製作会社(共同テレビニュース社)を共同通信社、東海テレビ、関西テレビ、NET、NHKとともに設立。共同テレビニュース社は、その直後、NETとNHKが撤退し、事実上、フジテレビ系列のニュース製作会社となり、1966年のニュースネットワーク(FNN)発足後は専らテレビ番組製作会社に転向、1970年に共同テレビジョンに改称。

また、このフジテレビ開局と前後して、たまたま東京進出後経営が悪化した大阪発祥の産経新聞社を水野が引き受ける事となり、後にフジテレビは、ニッポン放送、文化放送、産経新聞社とフジサンケイグループを形成する。プロ野球も、水野が国鉄スワローズを買収し、1964年スワローズの本拠地球場を神宮球場に移転させ、フジテレビが神宮の巨人戦の放送権を握った。

(敬称略)
参考文献:巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 佐野眞一著 文春文庫
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455(2005/05/02) 企業と球団の興亡史 PartU(四)

民放テレビの開局

話を戻すが、正力はテレビ構想を発表するが、資金的には苦しく、読売だけでなく、毎日、朝日にも出資を仰いでいる。ただし、朝日は、正力が新聞経営に携わらないことを条件につけた。こうして日本テレビの開設にあたっては、日本初の民放テレビということで、読売、毎日、朝日の共同経営体制がとられた。

1951年10月テレビ放送免許を申請し、7月には日本初のテレビ放送免許取得。1952年10月株式会社日本テレビ放送網設立、正力が社長に就任。テレビ放送が開始されたのはNHKが1953年2月、日本テレビが同年8月であった。日本テレビが先に免許を取得しながら開局が遅れたのは、アメリカに発注していた送信設備など放送機材の到着が予定より大幅に遅れたこと。それに反し、戦前からの技術の積み重ねを持つNHK技術陣は短期間で開局準備を進めることが出来たためであった。

日本テレビは、開局の翌日1953年8月29日には、早くも後楽園球場の巨人-阪神戦の初中継を行っている。その後、大相撲秋場所の中継、プロボクシング初中継、国会開会式初中継などを行う。1954年プロレス初中継を行い、力道山とシャープ兄弟の対戦を3日間にわたって中継。以後力道山の人気はうなぎのぼりとなり、全国的なプロレスブームが巻き起こる。

テレビ開局当時、受像機の台数は866台に過ぎなかった。そこで正力の日本テレビはスポンサーを獲得するため「街頭テレビ」の方式を採用した。東京都内55ヶ所に220台の大型街頭テレビを設置した。折からのこのプロレス力道山ブームも手伝って、街頭テレビには数千人が群がり、熱心にテレビを見入った。その群集の写真を手にした日本テレビの営業マンが、広告スポンサーを口説いて回るという日が続いたという。メディアの黎明期、孫正義が行ったヤフーBBのADSLモデムの無料配布したように、街頭テレビによって、自らマーケットを作り上げていった。

ところで、正力は毎日と朝日からきた役員たちに向かって、テレビは国家的な事業である、私利私欲を捨てねばならない、個人が株をもつことはまかりならぬと、誓いをたてさせた。ところが、いつのまにか読売が筆頭株主になっていた。両社の役員たちが読売の株集めに気づいたときはもう遅かった。日本テレビの株はほぼ読売が掌握し、新聞と同様、正力個人の手へと落ちていった。

1955年に第二の民放テレビ、ラジオ東京テレビジョン(現・TBS)が加わり、翌1956年には名古屋の中部日本放送(CBC)と大阪の大阪テレビ(OTV、現・ABC朝日放送テレビ)が開局し、テレビ放送は全国に広がっていった。

(敬称略)

参考文献:巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 佐野眞一著 文春文庫
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454(2005/05/01) 企業と球団の興亡史 PartU(三)

民放ラジオの開局

ラジオは、1951年9月名古屋・中部日本放送(中日新聞系)、大阪・新日本放送(毎日新聞系)が我が国初の民放として開局。11月には朝日放送(朝日新聞系)が大阪で2番目の民放として開局。12月には東京で初めての民放、ラジオ東京開局。翌年の1952年3月には東京でも2番目の民放・文化放送が開局していた。

ラジオやテレビに使用する電波の周波数は限られおり、放送局の開設には、国から免許を取得する必要があった。東京で最初に認められるのは、1局だけの予定だったが、毎日、読売、朝日といった新聞社のほか、開設希望が殺到し、一本化に手間取った。結局、電通を中心に、毎日、朝日、読売に一本化されラジオ東京として開局したが、名古屋と大阪の後塵を拝することなった。

ラジオ東京は、後の東京放送(TBS)で、開局の経緯からも、毎日、朝日、読売の出資比率はほぼ等しく、新聞社の系列色はなかった。1955年には日本テレビに次ぎ、民放で二番目のテレビ放送を開始、東京で唯一のラジオ・テレビの兼営局となった。1960年に東京放送(TBS)に名称変更。大阪は、毎日、朝日の新聞社間の競争が激しく、結局2局開局が認められた。そこで、急遽、東京でも2局ということで認められたのが、ちょっと毛色の変わった文化放送であった。

文化放送は、カトリック修道会「聖パウロ女子修道会」が、マスメディアによるカトリックの布教を目的に放送局の設置を計画し、「財団法人日本文化放送協会」として開局。ところが、労働争議などで経営悪化し、東京急行電鉄や旺文社など、保守主義的な放送局の登場を望む財界・出版界の出資による株式会社文化放送が1956年に設立され、「財界のマスコミ対策のチャンピオン」国策パルプ社長の水野成夫が社長に就任し、事業を引き継いだ。

東京で3番目に開局したラジオ局が、ニッポン放送で、財界のマスコミ対策として設立され、当時財界の「青年将校」と呼ばれた経団連専務理事の鹿内信隆が実務の中心となって1954年7月全国36番目の本放送開始。戦争翼賛に対する反省から朝日、毎日、読売などの大手全国紙が権力に対する追及も辞さない姿勢を示す中で、ニッポン放送は、文化放送とともに、経済四団体有志の強力なバックアップにより財界の声、経営者の声を反映させる放送局として開局。ニッポン放送は「新聞社のバックなしに創立された数少ない放送局」で、しかもキー局であるという“特異な存在”だった。

なお、1954年8月には、日本短波放送が開局。日本経済新聞社のバックアップで、「経済・教養・宗教」が特色の世界有数の商業短波放送が誕生した。

ところで、読売の正力は、戦前、ラジオの開設に際して、免許を出願し新時代のメディアに興味を示していたが、政府が民間によるラジオ設立を認めない方針を採り、準国営のNHK( 日本放送協会)にラジオ免許を交付したため、ラジオを断念したといういきさつがあり、正力自身は、戦後のラジオ局開設には関心がなかった。このため、読売・日本テレビグループにはラジオ局がなく、1978以降、神奈川県を県域放送としているラジオ関東(現・RFラジオ日本)との提携強化をはかっている。

(敬称略)
参考文献:巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 佐野眞一著 文春文庫
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453(2005/04/30) 企業と球団の興亡史 PartU(二)

正力のテレビ構想

1950年2リーグ分裂後、読売新聞社は有限会社から株式会社に変更するとともに資本金を3倍に増資する。当時、正力は公職追放の身にあり、読売の実権を握っていたのは反正力の安田・武藤体制(社長は馬場)であった。増資は、公職追放の身にある正力に増資に応じる資金力がないことを見越し、大株主としての力を削ぐことを目的としていた。しかし、正力は、資金を集め増資に応じたため、安田・武藤の目論見は頓挫する。

さらに、販売の神様、務台が読売新聞社取締役に復帰すると、読売の反正力体制は崩れた。翌年1月には馬場社長が辞任、武藤退社により、読売の反正力体制は終わる。正力の公職追放は同年8月に解除になったが、正力は読売には正式に復帰せず、読売新聞の社長は、正力が亡くなった年(1969年)の翌年(1970年)務台が就任するまで19年間空位のままであった。正力は、1954年読売新聞社主に推挙され、亡くなるまで社主と称した。

1951年1月正力は、突然、読売新聞に、日本テレビ放送網の計画を発表し、日本に民間テレビ放送網を設立するという大規模な構想を発表する。この構想は、米国からも資金援助を受け、技術・施設ともに米国の最新式のものを導入する計画であった。

戦前からテレビ放送の研究を行ってきたNHKは正力のテレビ構想に不意を突かれた。占領軍総司令部(GHQ)が日本にテレビはまだ早いという見解を示していたため、テレビ放送の準備はしていなかった。むしろ民間放送ラジオが開設されるため、NHKラジオの強化に力を入れていた。
(敬称略)

参考文献:巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 佐野眞一著 文春文庫
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452(2005/04/29) 企業と球団の興亡史 PartU(一) 

2リーグ分裂

1945年戦後まもなく正力松太郎は、第一次読売争議の責任をとり、読売新聞社社長を辞任し、戦犯の疑いにより巣鴨に収監される。1947年に釈放されてからも公職追放のため、読売新聞には復帰できなかった。1946年の第二次読売争議終結後、読売新聞の実権を握っていたのは、反正力の安田・武藤体制であった。また、読売新聞の拡大を販売面で支えていた務台光雄も読売から遠ざかっていた。

一方、「巨人」は、戦後1946年のリーグ戦再開からプロ野球に復帰していた。1947年大日本東京野球倶楽部から商号を読売興業株式会社と改め、東京巨人軍を「東京読売巨人軍」と改称、読売新聞と一体となったが、これらは反正力の手で行われた。プロ野球は、2リーグ分裂時まで、正力対読売の構図で動いていた。

正力は、釈放後の1949年2月プロ野球のコミッショナーに就任すると、4月米国チームの招聘、2リーグ制の創設、東京に新球場を作るといういわゆる三大声明を発表し、世間を驚かせた。戦後のプロ野球は、占領軍総司令部(GHQ)の後ろ盾もあり、大下の青バット、川上の赤バットなど国民を熱狂させブームになっていた。正力の描いた2リーグ制は、ライバルだった毎日を加盟させ、読売と毎日の二大勢力による競争によりこのプロ野球をさらに発展させようというものだった。ただし、一気に2リーグ制にするのではなく、既存8球団に2球団を加え10球団の1リーグ制にしてから2年後、さらに2球団増やし、6−6の2リーグ制にするというものだった。

正力のコミッショナー職は、正力が公職追放の身にあったことから、GHQの横槍が入り、3ヶ月で終わる。同年夏、正力は京橋の大映本社に永田雅一(球界に新規参入した大映スターズのオーナー)を訪れ、「プロ野球の理想の形は、米国大リーグと同じ、2リーグ併立である。しかし、わしは追放中で第一線に立てない身だ。そこで君がわしに代わって動いてほしいのだ」と毎日と西日本新聞の新規参入工作を依頼。永田は、2つのリーグが競い合って、球界の発展を目指すという正力の構想に共感し、読売のライバル紙毎日新聞に足を運ぶ。9月、毎日新聞は球団結成を表明する。

当時、プロ野球を経営する新聞社は読売と中日しかなく、読売も関西には進出していなかったため、西日本地区の宣伝が手薄だった。正力は、関西を地盤とする毎日新聞と九州地区の西日本新聞の2球団の加盟を考えていた。毎日側は、当初、誘いを断るが、営業側からの要望により、加盟に向かう。インテリ層に固定読者を持つ朝日と巨人という切り札で大量の読者を獲得していた読売に対し、毎日は、今ひとつ決め手を欠いていた。

この毎日の加盟に真っ向から反対したのが、巨人の独占的地位を脅かされることになる反正力の読売であった。さらに、毎日の加入に刺激されたように近鉄、西日本新聞、大洋漁業、広島などの加盟申請が相次ぎ、10球団1リーグ制という正力構想では収拾がつかない状況になっていた。正力と気脈を通じていた大映と東急以外の既存球団は、この大量加盟申請に猛反対した。大映の永田は2リーグ制の盟友であり、東急の五島慶太は正力の古い友人であった。10月永田と五島らは、GHQに正力の公職追放解除を願い出ている。

当初、毎日新聞の新規参入に反対していた関西の阪神、阪急、南海の既存電鉄3球団が、1リーグ制堅持を絶対条件に毎日の加盟賛成に転換する。関西の電鉄会社は、関西を地盤とする毎日新聞に反対できなかった。また、読売に対する不信感があった。読売=巨人は日本野球連盟と結託し「巨人の成績が悪くなると勝手に試合日程が変更されてしまう、遠征試合を自分の有利なホームグラウンドでの試合に変えることなどザラだった」。

毎日の加盟に反対なのは、読売(巨人)と中日、太陽の3球団だけとなった。数の上では、毎日加盟賛成派が5球団で、反対派の3球団を上回り、毎日の加盟が決まったかのように思えた。ところが、読売が、伝統の巨人阪神戦をてこに阪神の切り崩しに成功し、賛成派・反対派が4対4となり、分裂は決定的となった。最後は、正力も2リーグ分裂を認め、日本野球連盟は、セ・リーグとパ・リーグに分裂した。

正力が2リーグ分裂を容認したのは、毎日新聞の加盟を認めるのなら、巨人と別リーグでという営業の神様務台の懇願によるものだった。ただし、この時点で、務台は読売に復帰していない。1949年11月セ・リーグは、読売(巨人)、中日、阪神、大陽(のち松竹)に、広島、大洋、国鉄、西日本を加え計8球団。一方、パ・リーグは、阪急、南海、大映、東急に毎日、西鉄、近鉄の3球団を加えた7球団でスタートした。

本拠地は、福岡に西日本と西鉄、下関に大洋、広島に広島、関西は阪急、阪神、近鉄、南海、大陽(のち松竹)、名古屋には中日、関東は、巨人(読売)、大映、東急、毎日、国鉄であった。パ・リーグの盟主と期待された毎日は、地盤の関西ではなく、球場もない東京を本拠地とした。
(敬称略)

参考文献:巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 佐野眞一著 文春文庫
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451(2005/04/18) 当社の資金を別のM&Aに充てていきたい。

4月18日ライブドアとフジテレビとの間のニッポン放送争奪戦は決着した。ライブドアは、ニッポン放送株の獲得にかかった費用を若干上回る額で、保有しているニッポン放送株全株をフジテレビ側に買い取ってもらい、フジテレビは、ニッポン放送を子会社化する。また、ライブドアは、フジテレビの出資を得て、資金を得ると同時に、業務提携の担保とする。

基本合意によると、フジテレビはニッポン放送株を保有するライブドア子会社「ライブドア・パートナーズ」を、670億円で買収する。フジテレビは、ライブドア本体が保有するニッポン放送株を買い取り、同放送を完全子会社化する(フジテレビはライブドア以外の株主からもニッポン放送株を買い集め、9月1日に100%子会社化を目指す)。和解に伴い、フジテレビ側が負担する資金総額は1470億円程度。フジテレビがライブドアの第三者割当増資に応じ、12・75%の株式を取得して資本参加する。フジテレビ、ニッポン放送と、ライブドアが放送・通信融合について業務提携の協議を開始する。

焦点となったフジによるライブドア保有株の買い取り価格は1株6300円。ライブドアの平均取得価格6286円よりわずかに高く、TOB(株式公開買い付け)価格5950円を上回る。フジテレビの日枝会長は、TOBに応募した株主については、「内心、忸怩(じくじ)たるものある」が「適正な価格で購入する限り、法的な問題はない」。

一方、ライブドアの堀江社長は、フジテレビがライブドアに資本参加することについて「業務提携だけでは身が入らない。ライブドアの企業価値が上がらないとフジテレビは損をしてしまうから、相当努力してくれると思う」と述べ、第三者割当増資で得る資金の使途については、「ポータルサイト事業の投資に充てたい。また、今回の増資とは別に、当社の資金を別のM&Aに充てていきたい。今回いろいろやって得たノウハウは、次のM&Aにも役立つ」と述べた。
http://www.sankei.co.jp/news/050418/kei068.htmhttp://it.nikkei.co.jp/it/newssp/fuji_vs_livedoor.cfm?i=2005041810013ra

そういえば、4月14日のセミナーで、堀江社長は、優良資産があり、株価も割安で「第2のニッポン放送として買収のターゲットになってもおかしくない」と市場関係者から指摘されていたTBSを、集まった投資家らに投資価値のある企業として紹介していた。

セミナーはマスコミには非公開で行われ、参加者によると堀江社長は「いい資産があるのに、株価が安い、市場での価値を高められない企業がある。そういう企業に投資すべき」と強調。加えて「ニッポン放送もその1つ。他にもたくさんある。具体例としてはTBS」「都心の1等地(港区赤坂)にあれだけの土地を持っている。株価(14日終値2025円)も高くない」とし、半導体、液晶製造装置メーカーで国内首位の東京エレクトロンの大株主であることも紹介。不動産事業の収益もあり、投資するに値する企業とした。

さらに「僕の投資は全く損していない。投資した以上に戻ってくると確信している」とし、間接的にニッポン放送に対する買収劇は、フジテレビに同放送株を譲渡しても、金銭的にも条件的にも利益は得られるとの見方を示していた。http://www.mainichi-msn.co.jp/geinou/tv/news/20050415spn00m200010000c.html

ところで、横浜ベイスターズの株主は、ニッポン放送(約30%)とTBS(関連会社を含めて約70%)であります。そして、フジテレビが、ニッポン放送を完全子会社化すると、フジテレビが、ヤクルト・スワローズの20%と横浜ベイスターズの30%を保有することになります。じゃじゃん、ホリエモンは3度ベルをならすのかな?
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450(2005/04/15) NO MORE CRY

3月14日読売巨人軍を応援する財界人による激励会『第13回燦燦(さんさん)会』で、前オーナーの渡辺恒夫氏が久々に登場し、「開幕3連勝すれば、今年は(日本テレビの人気ドラマ)“ごくせん”並みで、限りなく20から25%に近い視聴率が稼げる」と、史上最低を記録した昨年の12.2%を大きく上回る大予言をブチ上げた。(サンスポ)

実際は、開幕4連敗で、そのうち東京ドームの開幕広島3連戦は平均視聴率が14.4%。ナイターの読売戦開幕シリーズでは、03年の16.2%を下回り、過去最低だった、とのこと。さらに、4月5日のTBSが放映した横浜×読売戦はなんと8.8%

ところで、「ごくせん」は、ジャージー姿に眼鏡がトレードマークの熱血高校教師ヤンクミ(仲間由紀恵)の活躍を描く痛快アクション。1月〜3月にかけて日テレで放映され視聴率30%を超える人気番組だった。内容的には学園版水戸黄門でしたが、主題歌「NO MORE CRY」を歌っていたのが、沖縄出身のデュオ、D-51(でぃごいち)。どうも「野茂暗い、野茂暗い」と歌っているように聞こえてしまうのでありますが、なかなかよい歌で、ヒットしております。

この「NO MORE CRY」は、日テレの番組主題歌ですが、CDはフジサンケイグループのポニーキャニオンから発売されています。ポニーキャニオンの親会社は、あのホリエモンが筆頭株主になったニッポン放送であります。

話は変わりますが、僕は、コント55号やドリフの世代なので、欽ちゃんの茨城ゴールデンゴールズは、やっぱり応援しちゃいます。昔、「欽ちゃんのドンとやみよう」通称欽ドンで、野球コーナーがあって、プロ野球チームに草野球チームが対戦するもの。プロ側は確か投手を入れて数人しかいなかった、投手は尾崎行雄、欽ちゃんは主審をしていたな。

このゴールデンゴールズを応援しているのが、プロ野球OBで作るマスターズ・リーグ。ゴールデンゴールズのHPは、マスターズ・リーグ事務局が作っています。そこでマスターズ・リーグのHPをのぞいていると、チアリーディングチーム「ランサーズ日記」というのがありました。

ランサーズは、2004−2005シーズンからマスターズ・リーグを応援するようになったチアリーディングチームで、日記によると神奈川県立茅ヶ崎高校チアリーディング部員と、同部OG、それに神奈川県立住吉高校チアリーディング部OGからなる、チアリーディング&ダンスチームだそうです。

このランサーズ、2003年までは、横浜ベイスターズの本拠地横浜スタジアムでも演技を披露して頂いておりました。ところが、なんらかの事情により、横浜スタジアムでは演技ができなくなってしまったそうです。マスターズ・リーグでの応援は、ベイスターズの2003年までファーム湘南シーレックスの監督だった日野氏の紹介だったそうです。

このランサーズ日記は、代表で茅ヶ崎高校の先生でもある黒田さんが、書いているものですが、その第25話に「忘れられない歌声」あります。去年の2月黒田さんがランサーズのメンバーと一緒にベイスターズのキャンプ地沖縄に訪れたときの話です。ランザーズの一行は、キャンプ地での演技のため訪れていたそうですが、そこで、黒田さんは、「天使の声」を聞いたそうです。
ランサーズ日記には、

歌声に引き寄せられるかのように外に出てみると、二人の男の子が路上ライブをしていたのです。何曲か、良く知られている曲を歌った後で、彼らのオリジナル曲が歌われました。軽快でさわやかで、心地よいそのリズムに、すっかり魅了されました。暖かくて懐かしい彼らの歌声と、そのリズムは私の心に響き渡り、いつしか何もかも忘れて、すっかり彼らの歌の世界に引き込まれていました。

と書かれています。「いつか、横浜スタジアムでコンサートを!そのバックダンスはランサーズが!」と大きな夢を語り合ったそうです。そして、その「二人の男の子」が、D-51だったわけです。

ランサーズが、去年の2月にキャンプ地の宜野湾まで応援に行きながらシーズンに入ると横浜スタジアムでの演技ができなくなったことを考えると、ベイスターズ・トップとの軋轢があったことが想像されます。

ベイスターズの球団社長は、2003年3月大堀社長が退任し、TBSの峰岸進元プロデューサーが就任していますが、峰岸社長は、TBSの黄金時代ドリフの「8時だよ 全員集合」のプロデューサーでした。「全員集合」は視聴率40%を超えたお化け番組ですが、この土曜夜8時の時間帯をTBSのドリフと争ったのが、フジの欽ドンでした。そもそも、「全員集合」自体が、当時視聴率30%を誇っていた「コント55号の世界は笑う」の牙城を崩すためにしかけたものでした。

「全員集合」は、「世界は笑う」を打倒しますが、これに対し、フジテレビが再戦にでたのが「欽ちゃんのドンとやってみよう」でした。欽ちゃんと峰岸社長は土曜夜8時の時間帯ライバルだったということになります。

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449(2005/04/06) AOLタイムワーナーの教訓

既存メディアとインターネットとの融合の失敗例であるとともに、「企業の歴史の中で最大の失敗」といわれるのがAOLとタイムワーナーの合併です。

タイムワーナーは、世界で発行されている雑誌「タイム」「ピープル」で有名な出版社タイムと映画メジャーのひとつワーナー・ブラザーズの親会社ワーナー・コミュニケーションズが1989年に合併し、1996年には世界で最も人気のあるニュース配信会社CNNを傘下に持つあのテッド・ターナー氏率いるTBS(ターナー・ブロードキャスティング・システム)を買収した巨大メディア企業にして、1923年雑誌タイムの創刊、同年ワーナー4兄弟によるワーナー・ブラザーズ設立77年の歴史をもった既存メディアの老舗。

かたや、AOL(アメリカン・オンライン)は、当時、ダイヤルアップ・インターネット・プロバイダーの最大手でしたが、1985年設立で15年の歴史しかなく、3年前まではほとんどたいした儲けがなかった企業。この新興インターネット企業と老舗の巨大メディアは、2000年1月AOL主導の下、AOLタイムワーナーとして合併(正式には2001年1月)します。当時は、「今後、既存メディアとインターネット両業界のボーダーレス化が一段と進む」(情報業界アナリスト)との見方が広がっていました。

売上高(1999年)は、タイムワーナーの268億ドルに対し、AOLは6分の1の48億ドル、従業員数もタイムワーナーの7万人に対し、AOLは6分の1の1万2千人。ところが、株式時価総額は、タイムワーナーの970億ドルに対し、AOLはその約2倍の1640億ドル。これは、「伝統的な企業の株価に比べ、インターネット関連の株価が異常に上昇している」いわゆるネットバブルのためでした。時価総額の伸びは、AOLが1996年12月から合併を発表した2000年1月までに3192%上昇をしたのに対し、タイムワーナーは382%でした。

この株高を背景に小さなAOLが巨大なタイムワーナーを吸収する形になり、合併により、株式時価総額は3500億ドル(約36兆8725億円)、売上高は300億ドル(3兆1605億円)のインフラからコンテンツまで全てを保有する世界最大の総合メディア企業が誕生しました。AOLタイムワーナーの会長には、AOLの会長兼CEOであるS・ケース氏が、CEOにはタイムワーナーの会長兼CEOであるレビン氏がそれぞれ就任。

AOLは、ダイヤルアップ・サービスでは最大手でしたが、ブロードバンドは、ケーブルテレビや電話会社によって進められていたため、ブロードバンド化が遅れていました。このため、タイムワーナーが全米1300万世帯に配信するケーブルテレビ網とタイムワーナー傘下のCNNニュースや映画といったコンテンツは、AOLにとって魅力でした。一方、タイムワーナーは、多くのメディアを抱えていながら、インターネットへの対応に遅れ、ブロードバンド・インターネットが有力なメディアの媒体になりそうな将来を見通すと現状のままでは大きな発展が期待できないという状況にあり、AOLが抱える2000万人以上の会員や各種のインターネット・サービスは魅力でした。

ところが、この合併は大失敗に終わります。最近、元会長のS・ケース氏が「AOLタイムワーナー」の合併失敗を語っています。ケース氏は、「今にして思えば、恐らく私は、9万人もの従業員を抱える企業の会長としてふさわしい人間ではなかった」と述べ、さらに「考えてみれば、われわれの中に(会長に)ふさわしい人間などいなかった」と語っています。

失敗の理由のひとつが、ネット企業と既存メディアとの企業文化の違いです。オープンでインタラクティブなネット企業と閉鎖的で一方向性の大量伝達を行う既存メディアは、水と油の関係に例えられます。

ケース氏の記事の中で「インターネットを武器にビジネスを展開する巨大なメディア企業という崇高なビジョンは、縄張り争いと冷酷無比の権力闘争という味気ない現実の中に消えていった」「Caseは、Time Warnerの悪名高い閉鎖的な企業文化をつらい体験の中で身を持って実感した」「数十億ドル規模を誇るTime Warnerの経営陣がAOLの新しい経営陣と連携するという発想に苛立ちをみせたのだ」と書かれています。

もうひとつが、株価の大幅な下落、ネットバブルの崩壊です。2000年1月の合併発表から実際に合併するまで米国政府との交渉に1年を費やしている間、ネット銘柄の異常な株価に対する懐疑的な見方が広まり、2000年4月にナスダックの株価が暴落したのをきっかけにバブルの崩壊が始まりました。

ハイテク株が上場しているナスダックの株価は約60%も下落し、総計2兆ドル(約240兆円)もの資産が消えてなくなってしまいました。このネットバブルの崩壊中に合併したAOLタイムワーナーには、2001年末まで波及しなかったとされますが、2003年1月の株式時価総額は、合併時(2001年1月)の3186億ドルから624億ドルへと8割も下落しています。

AOLは売り上げの水増しや合併による高い成長を株主に約束し、株価の維持をはかりバブルの崩壊を遅らし、ネットバブル崩壊前に交わしたAOLに有利な条件(現在のAOLの株主は、AOLタイムワーナー株の約55パーセントを、タイムワーナーの株主は45パーセントをそれぞれ保有)のままでAOLとタイムワーナーは合併します。

そして、最後にAOLとタイムワーナーの合併効果がそもそも上がらなかったことが上げられます。AOLの「新しい経営陣」は、旧タイムワーナー「経営陣」の抵抗にあい、タイムワーナーの膨大なコンテンツと1300世帯のケーブルテレビ網との相乗効果(シナジー)を上げることができませんでした。2005年の現在、AOLのダイヤルアップサービスの顧客は2002年から400万人近くも減少しています。その大半は、ケーブルテレビや電話会社が提供するブロードバンド・サービスへの乗り換えによるものです。

「財務見通しの見苦しい撤回と株価の暴落後、レビンは退職を迫られ、最高業務責任者(COO)のボブ・ピットマンは追放され、ケースも2003年1月に会長職を辞任した。」経営権は、旧タイムワーナーの経営陣にもどり、社名も、2003年9月AOLが削除され、タイムワーナーに戻った。

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448(2005/03/30) ソフトバンクによるテレビ朝日買収騒動の教訓 2

「ソフトバンクによるテレビ朝日買収騒動」は、単に敵対的買収(M&A)だけでなく、通常の企業買収(M&A)、さらにネットと既存メディアとの融合といった問題を含んでいました。

敵対的買収

敵対的買収は、買収される企業の経営者の同意を得ない買収のことをいい、80年代米国で盛んに行われましたが、成功例はほとんどない(1%という話もあります)と言われています。90年代になると、ポイズンピル(毒薬)などの敵対的買収に対する防衛策が普及しことから、敵対的買収は米国でさえ珍しいものとなり、2004年の直近の数字を見ると、2万3千件を上回る世界の完了済みM&Aのうち敵対的だったのは、100件に満たないということです。MA_PR_J.pdf へのリンク

敵対的買収は、買収される企業の経営者の同意を得ない買収のことをいいますから、敵対的買収に対する防衛策は、現経営者の防衛策・保身に利用されるおそれがあります。近年、株主からポイズン・ピルについて、廃止すべきである、導入にあたっては株主総会決議を経るようにすべきである等の意見が提示されるケースが増えているそうです。ans2_5.html へのリンク

企業買収に伴うやる気・モラールの低下

敵対的買収の成功例はほとんどないということですが、「事業統合の効果的なマネジメント」(野田努 シリコンバレー事務所、日本関連事業部ファイナンシャル・アドバイザリー・サービス・ディレクター)によれば、米国企業による買収であっても、M&A 全体の約70%が不成功に終わっているということです。ただし、ここでいう成功・不成功は、企業価値創造の面から見た評価であり、買収・統合後の企業価値が、統合前の2社の企業価値および買収プレミアムや、買収 にかかる手数料等のコスト等の合計を上回るか否かを指している、とのこと。01.html へのリンク

なぜ、不成功に終わる確率が高いのでしょうか。「やる気・モラール」と雇用形態の相関関係 (森田一寿 産能大学大学院 経営情報学研究科教授)のなかに、「ホームズとレイの再適応尺度」というものがでてきます。「ホームズとレイの再適応尺度」は、プレッシャーのかかる度合いを数量化したもので、配偶者を亡くしたときのプレッシャーを100とした場合、組織内で起こるさまざまな出来事によってどのくらいのプレッシャーを感じるのかを算出したものです。02.html へのリンク

【ホームズとレイの再適応尺度】配偶者の死100,離婚73,服役63,失業47,退職45,破産合併など仕事の変動39,昇進・降格など職務責任度の変化29,顕著な個人的業績を要求される25,上司とのトラブル23、仕事の時間や状況の変化20

これによると、失業、退職、破産や合併による仕事の変動、転職から受けるプレッシャーはかなり高いことがわかります。また、プレッシャーの数値が高ければ、その人の能力は発揮されにくくなり、モチベーションも低下し、ひいては組織全体の活力を下げることにつながります。当然、企業買収は、買収対象の企業の従業員にとって、極めて大きなプレッシャーとなるはずです。

買収計画が発表されると、従業員の間にはまたたく間に自分の処遇を中心とした不安が広がります。また、優秀な人材ほど転職の機会も多く、自らの身を守るために転職活動を始めます。さらに、日常業務は停滞し、人材の流出が始まると同時に、顧客流出のリスクも高まってきます。取引業務でトラブルが発生し、将来的な製品の品質や供給に対する不安が高まると、顧客も別の供給業者を探し始めます。同時に、競合他社はそれに乗じて活発なプロモーションを展開する可能性があります。

想定された事態

最近の企業統合の失敗例として、不祥事が続いている日航が上げられます。2002年10月日航は、JASと経営統合しましたが、これは事実上、日航による吸収合併が実態で、旧JAS社員の立場は厳しいといわれています。また、日航は、各社間で労働条件が異なるなど一体感に欠けることが指摘されていたほか、内部では人事面での不満や、「指揮命令系統がはっきりしない」などの不満も出ており、今回の不祥事の背景として、そんな「風通しの悪さ」を指摘する声もあります。050224.html へのリンク
20050318k0000m020079000c.html へのリンク

通常の企業買収においても、常にこのようなリスクがあるのであり、敵対的買収による場合はなおさらです。敵対的買収の場合、買収される側の経営者は保身のため徹底的に抵抗しますし、いろいろな防衛策を持っています。

今回のライブドアによるニッポン放送買収は、ニッポン放送やフジテレビの経営陣が、いろいろな防衛策を講じていますが、ニッポン放送の従業員もライブドアによる買収には反対しており、番組出演者の出演拒否やスポンサー降板まで起きています。まさに想定された事態が起こっています。これに対し、ライブドア・PJニュースでは、こんなことが書かれていました。detail へのリンク

ニッポン放送に出演している野球解説者の江本孟紀さんやタレントのタモリさんが、この買収によって番組を降板する意向のようだ。確かに、人気タレントが辞めるというならば、放送関係者は困るかもしれない。しかし、別に大したことではない。代わりの人がたくさんいるのではないだろうか。もし嫌なのなら彼らは辞めるべきだ。こういう新旧の入れ替えはいつかはやらなくてはいけない。何かのきっかけを機に交代してもいいのではないだろうか。ライブドアが買収したことで、新しいものを作り出そうという方針ならば、彼らが辞めるのは別に大したことではないのではないだろうか。辞めたいなら辞めればいいのである。

最後に、ネットと既存メディアであるテレビ、ラジオ、新聞との統合についてですが、この二つは水と油の関係にあり、AOLタイムワーナーのようにいままで、成果を上げた試しがないとされています。

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447(2005/03/27) ソフトバンクによるテレビ朝日買収騒動の教訓

3月24日の記者会見で、フジテレビの筆頭株主に躍り出たソフトバンク・インベストメント(SBI)の北尾CEOは、ライブドアの堀江社長に対して「テレビを見ていて感じるのは、他人の家に土足で入ってから『仲良くしてね』と言っているように映る。敵対的買収は好ましくない。米国でも10年前にいろいろ流行ったが、買収する側とされる側ともにそのほとんどが何も得ることがなかった」。0,2000050156,20081589-2,00.htm へのリンク

一方、ソフトバンク(SB)の孫正義社長は26日、福岡市内で会見し、「私はM&A(企業の合併・買収)を手がけてきたが敵対的買収は一度もない。お互いに望み望まれる場合はスムーズにいくが、望まれない場合は難しいと思う」(産経新聞) hl?a=20050327-00000002-san-bus_all へのリンク

敵対的買収は一度もないと孫正義社長は述べていますが、96年、オーストラリアのメディア王ルパート・マードック氏と組んで、テレビ朝日(当時、全国朝日放送)の敵対的買収を仕掛けたのは有名な話。当時、テレビ朝日の筆頭株主であった旺文社から所有株21.4%をソフトバンクとマードック氏の豪ニューズ社が折半で設立する合弁会社が買収するというものでした。

ところがテレビ朝日経営陣の猛反発にあい、二進も三進もいかなくなり、困り果てたとき、仲介に入ってくれたのが、フジテレビの日枝会長で、結局、ソフトバンクとニューズ社はテレビ朝日株を旺文社から買い取った額で、朝日新聞に買い取ってもらっています。96年には、フジテレビは、ソフトバンクがニューズ社と中心になって設立した衛星デジタル放送会社「JスカイB」に加わっています。hl?a=20050327-00000030-nks-ent へのリンク

当時、北尾CEOは孫社長の懐刀でソフトバンクのCFO(最高財務責任者)として、これらの交渉の中心的な役割を演じていました。SBが株式公開した94年、野村証券事業法人部長だった北尾氏は、孫社長に95年にヘッドハンティングされていました。北尾氏は、その後、99年にソフトバンクのファイナンス部門が独立すると、同年7月に設立されたSBIの社長に就任しています。

テレビ朝日の買収騒動当時、北尾氏は、次のように述べています。「ニューズ社とソフトバンクがとった戦略は既存の地上波テレビ局の資本を持つことで橋頭堡を築く戦略だった。しかし、既存のメディアの買収という形での進出はかえって警戒感をメディア側に抱かせる結果となり、事業推進にブレーキとなるばかりか、コンテンツ(番組)確保そのものにも支障を来すおそれも出ていた。ビジネスの世界では資本提携関係を持ったほうがより強いつながりが期待できるのが常識だが、メディアの世界では資本の論理は必ずしも通用しない(以下略)。」(97・3・4朝日新聞社社説『既存メディアと摩擦回避』)

資産目的に敵対的買収をしかける村上ファンドと異なり、業務目的の敵対的買収は、買収が成功しても、その目的を達することは難しく、ソフトバンクはそれを体験してきたというわけです。会社を動かしているのは、おカネではなく、人だということです。

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446(2005/03/25) 王冠の宝石と白馬の騎士

新株予約券の発行差し止めが東京高裁で決定され、ライブドアによるニッポン放送支配が秒読みに入っていますが、ニッポン放送への出演拒否スポンサー降板の話が続いており、ニッポン放送の企業価値の低下が現実味を帯びるようになってきました。そして、ニッポン放送が保有しているフジテレビ株の35万3704株(議決権ベースの14.67%)をソフトバンク系のベンチャーキャピタル、ソフトバンク・インベストメント(SBI)に5年間貸し出すことが発表され、ニッポン放送は、実質的にフジテレビの株主ではなくなってしまいました。これで、本丸とされたフジテレビ買収の橋頭堡を失うことになります。ニッポン放送は昨年末時点で、フジテレビ株を57万3704株(議決権ベースの23.8%)保有する筆頭株主でしたが、既に2月に大和証券SMBCに22万株(同9.13%)を貸し出ししています。こちらは2年間。

同時にフジテレビ、ニッポン放送とSBIの3社は、メディア関連の新興企業に投資するベンチャーキャピタルファンド「SBIビービー・メディアファンド」を共同設立すると発表。その投資対象として、ポニーキャニオンが噂されており、ポニーキャニオンまで失った場合、ライブドア・ニッポン放送の痛手は深刻になります。

最も魅力的な会社の資産を売却または外部に移すことで、買収者の意欲をそぐ「クラウンジュエル(王冠の宝石)」と呼ばれる防衛策が進行中です。ただし、ニッポン放送が完全に資産を売却するのではなく、フジテレビ株の貸し出しやニッポン放送も出資する「SBIビービー・メディアファンド」が投資する形をとっています。

また、SBIへのフジテレビ株の貸付は、(敵対的)買収者とは別の友好的な会社に株式を保有してもらう「ホワイトナイト(白馬の騎士)」の一種ともされていますが、。「窮地におちいっているフジ側が焦って動いてしまったが、孫氏はマネーゲームの天才だ。いずれ、主導権を握ってくることは十分考えられる。(後に災いを招く)トロイの木馬になる可能性もある」という指摘もあります。

ソフトバンク系のSBIが、フジテレビの筆頭株主になったとされていますが、大和証券SMBCが3月4日に関東財務局に提出した大量保有報告書によると、同社は、転換社債型新株予約権付き社債(CB)を含めるとフジテレビ株を55万9318株(発行済み株式総数の19.38%)保有していることが分かっています。このうち33万7126株は、フジテレビが2月25日に大和証券SMBCに割り当てたCB800億円を、当初の転換価格で株式に転換した場合の株数。残りの大半の22万株は、2月23日にニッポン放送が保有するフジテレビ株22万株の消費貸借契約を大和証券SMBCと結んだ分だ。SBIの保有株は、35万株なのに対し、大和証券SMBCは、55万株にもなります。 20050304AT1D0406Z04032005.html へのリンク

ソフトバンク・インベストメント(SBI) ヤフーなどと並ぶソフトバンク・グループの総合金融サービス会社で、設立は平成11年。オンライン証券大手のイー・トレード証券などを傘下に置く。ソフトバンクの完全子会社ソフトバンク・ファイナンスが議決権比率で46・9%を保有していたが、3月中旬に行った公募増資で同比率は約39・8%に低下。持ち分法適用会社となりソフトバンク色は薄らいだ。14年に東証一部上場。17年3月期の売上高は750億円、最終利益240億円を見込む。株式時価総額は3423億円(24日現在)。最高経営責任者(CEO)の北尾吉孝氏は野村証券出身。


(3/26)フジテレビ、自社株の購入・安定保有を50社に要請(日経)
フジテレビジョンがソニー、日立製作所、伊藤忠商事など約50社に同社の株式を新規または追加で保有するよう要請していることが25日、明らかになった。ニッポン放送が、保有するフジテレビ株をソフトバンク・インベストメント(SBI)に貸株することを決めたのに続き、フジテレビ自らが安定株主工作を進め、ライブドアによるフジ本体買収への防御を固める。実現すればフジ本体の買収は難しくなるが、要請を受けた企業の中には回答を留保しているところも多く、先行き不透明な部分もある。フジが株式の安定保有を要請しているのは主に機器・サービスの購入先企業、取引金融機関など。1社につき数億―数十億円相当のフジ株を市場を通じて早期に買い入れ、長期保有するよう要請している。同時に、ニッポン放送を株式公開買い付け(TOB)で子会社化する資金手当てとしてフジが2月に発行、大和証券SMBCが保有する800億円相当の転換社債型新株予約権付社債(CB)の一部を大和側から資金運用目的で買い入れる選択肢も提示している。フジと株式持ち合い関係にある企業が関係強化することもありそうだ。


(3/29)大和SMBC、フジ株3万5000株強を売却(日経)
大和証券SMBCが25日に、フジテレビジョン株3万5588株(発行済み株式数の1.4%)を売却したことが明らかになった。大和SMBCが28日に関東財務局に提出した大量保有報告書によると、市場外で一株当たり28万1000円で売った。大和SMBCは先月25日に、ニッポン放送からフジ株22万株を借りた。その時点で大和SMBCの現物のフジ株の保有比率は8.7%だったのが、25日現在で7.3%に下がった。

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445(2005/03/25) 村上ファンド

村上ファンド。元通産官僚の村上世彰氏が運用するファンド。正式にはM&Aコンサルティング。2月8日にライブドアが時間外取引で約30%の株式を取得するまで、ニッポン放送株の18.57%を保有し、筆頭株主だったのが村上ファンドです。

ライブドアは、結局一挙にニッポン放送株の35%を一挙に取得しますが、「市場関係者などの多くは、ライブドアにニッポン放送株を売却したのは村上ファンドではないか、との想像を巡らせた(ロイター)」。村上ファンド側も、ライブドアにニッポン放送株を売却したのか否かを明らかにしなかったため、事実確認の手段は株式の大量保有報告書に頼らざる得ませんでした。このため、2月16日に村上ファンドからの「5%ルール」による届出がなかったことで、村上ファンドはライブドアにニッポン放送株を売却していなかったといった一部報道もされました。5%ルールにも、特例があって今回は、特別ルールが適用されました このため、wind428で 「50%を超える株式が投機筋の手に渡っていた」とちょっと勘違いしてしまいました。m(_ _)m。post_23.html へのリンク

3月16日の夕刊フジZAKZAK)の記事によれば、

3月15日、村上ファンドが関東財務局に提出した大量保有変更報告書によると、同ファンドは2月末までにニッポン放送株を大量に売却し、同月末時点で保有比率が18.57%から3.44%に低下した。「村上氏は平成15年7月、ニッポン放送の第2位の株主(7.4%)になった。その後も買い増しを続け、18%超になっていた。当時の株価水準から推測すると、平均取得コストは1株3000円程度で、今回、村上氏は百数十億円を儲けただろう」(市場関係者) 言ってみれば、ファンドマネジャーとして「本来の仕事をした」(株式評論家の植木靖男氏)わけだ。そのバックには、オリックスの宮内義彦会長らがいるとされ、その動向はさらに注目される。

次に、All Aboutのコモエスタ坂本さんの記事「ライブドアLF問題と球界参入」がよくまとまっているのでご紹介します。そのPart3の中に「フジ・サンケイ側、ライブドア、一般投資家の三者が敗者で、村上ファンド・リーマンブラザーズだけが勝者ということだ。」とかかれています。まさに、村上ファンドも勝者だった訳ですね。

一方のリーマン・ブラザーズ証券は、ライブドアの800億円分の転換社債型新株予約権付社債(MSCB)を引き受けましたが、25日の時点で、MSCBの引き受け資金はほぼ回収したと見られ、なお250億円分のMSCB(現在の転換価格で8090万株分)と普通株824万株余りを保有しており、堀江社長らからの借り株が5000万株以上残っているものの、市場では、リーマンが最終的に100億円規模の利益を得るとの見方が強まっています。 hl?a=20050325-00000112-yom-bus_all へのリンク

当のライブドアですが、25日、取得したニッポン放送株数が昨年9月末時点の議決権数に基づく議決権比率で50.21%に達し、同社が子会社になったと関東財務局に届け出しました。ただし、発行済み株式総数(3280万株)に占める保有比率は46.64%と過半数に届かず、昨年9月末時点では外国人株主など名義書き換えをしていない「失念株」を中心に議決権のない株が233万3820株(発行済み株式総数の7.12%)ありましたが、「今回の争奪戦で外国人はほとんど売却してしまったため、3月末の失念株はほぼゼロになる」(同放送総務部)見通し。このため、株主総会に向けて4月下旬ごろ確定する実際の議決権比率は、発行済み株数ベースの保有比率に近い数字になるとみられ、過半数に届くかどうかは微妙とされています。20050326k0000m020102000c.html へのリンク

そうすると、もし、村上ファンドがまだ、残りのニッポン放送株を売却していなければ、キャスティング・ボードを握ることになります。実際、村上氏は3月12日、投資セミナーで「6月に1度だけ、皆さんに会うチャンスが訪れる。ニッポン放送の株主総会だ。今の株価なら(最低投資単位の)6万3000円で私の演説を聴くことができる」と表明。6月の株主総会でも影響力を行使する意向を示しています。NIK200503160014.html へのリンク

この村上ファンド、西武グループの再建話にも登場してきます。

(3/29)ライブドア、ニッポン放送株の発行済み過半数を取得・子会社化先送り(日経)
ライブドアが先週末までにニッポン放送の発行済み株式の過半数を取得したことが28日明らかになった。過半の株を保持し、同放送の買収を確実にする。ただ、一部株式では名義をあえて書き換えず、3月末で同放送を子会社化する方針は修正したようだ。6月下旬開催の株主総会で取締役の過半を送り込む考えは変わらない。子会社化後にニッポン放送が多額の借金をするなどの手に出た場合、連結決算上はライブドアの財務内容まで悪化してしまう。一部株式で名義書き換えをしなかったのは、そうした事態を未然に防ぐ狙いとみられる。


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444(2005/03/23) プロ野球ビジネス・ニュース

西武ライオンズの売却問題 2題

(3/19)西武40億円売却を本格検討(日刊スポーツ)
西武グループの経営改革委員会(委員長・諸井虔太平洋セメント相談役)が策定中の再建案に、今シーズン終了後に西武ライオンズ球団の売却を本格検討する方針を盛り込んだことが18日、明らかになった。再建案は「シーズン末以降の具体策の検討が不可避」と指摘。売却額は「40億円」を見込んでいる。再建案では、3年以内をめどにホテルなど国内と海外約170のレジャー施設のうち53施設を売却、撤退することを検討。p-bb-tp0-050319-0010.html へのリンク

(3/20)西武鉄道次期社長「球団売却は白紙」(日刊スポーツ)
西武鉄道の次期社長に内定している後藤高志氏(56)が20日、西武ライオンズの売却問題について「今は全くの白紙。西武グループ再生のシンボルとして、今まで以上に存在感ある球団にする自信がある」と話し、現時点で球団を手放す考えがないことを強調した。25日に出る西武グループ経営改革委員会の最終改革案でも、引き続き球団を保有する方針が打ち出される見通しを明らかにした。f-bb-tp0-050320-0037.html へのリンク

球場について 3題

(3/20)楽天フルキャストスタジアムが完成式(日刊スポーツ)
楽天の本拠地、フルキャストスタジアム宮城(県営宮城球場を改称)の改修工事が終わり、20日、球場グラウンドで完成式が行われた。改修はゼネコン大手鹿島が昨年11月に着手。積雪に悩まされたが、徹夜作業などで間に合わせた。観客席に余裕を持たせ、手書きのスコアボードは電光掲示の大型スクリーンに生まれ変わった。秋には第2期工事が始まり、観客席を現在の2万3000から2万8000に増やす。f-bb-tp0-050320-0034.html へのリンク

(3/22)広島の新球場、球団運営が原則(日刊スポーツ)
広島カープの本拠地、広島市民球場の建て替え問題で、市や広島県、経済界でつくる新球場建設促進会議は22日、新球場は原則としてカープが運営することで合意した。藤田雄山・広島県知事は会議で「公共事業として球場をつくるならば、市は(運営主体をカープにする)契約の透明性を担保する必要がある」と指摘。会議後、広島カープの松田元オーナーは「市民球場でのノウハウを持っており、ある程度の自信はある」と述べた。前回の会議で、新球場は市が建設する「公設」方式でほぼ合意している。f-bb-tp0-050322-0036.html へのリンク

(3/22)巨人、ジャイアンツ球場にスタンドを新設(日刊スポーツ)
巨人は22日、川崎市のジャイアンツ球場で建設を進めていたバックネット裏観客席が完成したと発表した。これまで一、三塁側にしか観客席がなく、球団創立70周年事業の一環としてネット裏に2175席のスタンドを新設した。f-bb-tp0-050322-0037.html へのリンク

アジア・シリーズと交流戦 2題

(3/18)交流戦勝率1位チームに賞金5000万円(日刊スポーツ)
日本プロ野球組織(NPB)は18日、今季から実施するセ、パ両リーグによる交流試合の冠協賛社に日本生命が決まり、「日本生命セ・パ交流戦」の名称になると発表した。期間中の勝率1位チームには賞金5000万円、1位チームの中から選ぶMVPに賞金200万円が同社から贈られる。交流試合は5月6日〜6月16日まで、各カード6試合の1球団36試合(計216試合)を戦う。f-bb-tp0-050318-0034.html へのリンク

(3/22)初のプロ野球アジアシリーズ、11月に開催(読売新聞)
プロ野球の日本、韓国、台湾、中国のリーグ戦王者がアジアナンバーワンの座を争う「アジアシリーズ2005」(読売新聞社後援)の開催要項が22日、発表された。4か国・地域のチャンピオンチームによる国際大会が開かれるのは初めて。日本からは日本シリーズの優勝チームが出場、11月10日に東京ドームで開幕する。12日まで4チームによるリーグ戦を行い、上位2チームが決勝に進出。13日にアジアチャンピオンをかけて戦う。優勝チームには賞金5000万円、準優勝チームに3000万円、3位以下のチームには1000万円ずつが贈られる。アジア4か国・地域の代表チームによる「アジア選手権」はこれまでも開かれているが、プロ野球の単独チームがアジア王座を争う大会は初開催となる。大会名も「日本シリーズ」「韓国シリーズ」「台湾シリーズ」などの上位に位置するという意味合いから「アジアシリーズ」に決まった。日本プロ野球にとっては、将来の「世界一決定戦」を見据え、本格的な国際化の足がかりとなる大会。来年以降も継続して開催することで、12球団による実行委員会、監督会議の賛同を得ており、労組・日本プロ野球選手会(古田敦也会長=ヤクルト)との構造改革協議会でも「親善試合ではなく、真剣勝負で戦うこと」を確認している。20050322i512.htm へのリンク

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443(2005/03/22) Walter C.Neale

広瀬一郎氏は、昨年10月独立行政法人経済産業研究所(RIETI)の上級研究員を離職されていました。昨年の6月からは、スポーツ総合研究所(株式会社)を設立し所長に就任されています。この広瀬氏が、今月末に、「スポーツ・マネジメント入門」を出版するそうです。去年の暮れにスポーツ総合研究所のBlogでその「目次案」を紹介しています。post_27.html へのリンク

私は、1999年に書いた私的プロ野球経営論のはじめに「プロ野球はリーグ戦をを興行する共同体なんです。フィールド上は競争しますが,ビジネス上はみんなパートナーです。」と書きました。それ以前からいろいろな掲示板で「プロ野球とは、フィールド上では競争するが、ビジネス上では協調(協働)する存在である」と書いてきました。

広瀬氏によれば、欧米の経済学においても、「スポーツというソフトは、個々のチームや個人がお互いに競技では競争状態でありながら、マーケット全体を観れば共同生産者である。この一見背反した関係が、最も他の産業と異なる顕著な点である」と論じられている、ということです。

以下、広瀬氏の引用によると、
Walter C.Neale(1964,[The Peculiar Economics of Professional Sports] )によれば「最も価値あるリーグ結果(=ゲームの勝敗)は、チームが単独で生産できない商品である。この商品は、ゲームの相手チーム及びリーグ対戦する全ての相手チームと、それを報道する者(取材記者/編集者/印刷会社/新聞配達者)などからなる複合的生産システムを必要とする。

従ってマーケットにおける独占(monopoly)は、自らにとっても不利益(unprofitable)である」そして、「スポーツは単独では成立しない特異な商品である。従って個々のチームは法的には個別の法人ではあるが、経済(学)的にはリーグ全体を一つの組織(single entitty)とみなすべきである。リーグが全体で決定したことに基づいて、利益を得るのは個別の法人、つまりチームである」と述べている。

まさに、リーグ戦興行共同体の概念です。ただ、Walter C.Nealeの概念には、はじめから「それを報道する者」メディアがシステムの中に含まれていますが。
post_27.html#trackbacks へのリンク

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442(2005/03/21) プロ野球は誰のもの

ライブドアの日本放送買収劇で注目されているのが、会社は株主のものだということです。これに対し、従来の日本型経営はステークホルダー型経営としてよく批判の対象になっています。

これを昨年のプロ野球で言えば、球団は株主である親会社のものになります。ファンや選手がいかに声を上げた反対しても、関係ないことになります。ところが、親会社の思うようにはなりませんでした。選手がストライキで反対し、ファンがそれを支持したからです。

スポーツ総合研究所の広瀬一郎氏の分類によれば、親会社は所有者/株主/事業者であり、選手は、(監督・選手などの)競技関係者となります。

ところで、スポーツだけをみれば、スポーツは、(監督・選手などの)競技関係者だけで成立します。これがプロスポーツとなると、(監督・選手などの)競技関係者のほかにファン(観客)がいて初めて成立します。プロスポーツの世界で、所有者/株主/事業者というのは、十分条件だけれども、必要条件ではありません。所有者/株主/事業者が存在しなくても、(監督・選手などの)競技関係者だけで存在しえます。

ぼーる通信2005/03/12(152号)で、NAPBBPのことを書きましたが、NAPBBPは、(監督・選手などの)競技関係者が事業者でした。日本の大相撲もそうです。関取出身者の親方衆が、社団法人日本相撲協会を運営しています。そこには、株主はいません。FIFAワールドカップを運営するFIFAは、サッカー競技関係者の国際組織です。

プロ球団は、必ずしも株式会社である必要はありません。NPBもJリーグも、球団を株式会社に限定していますが、これは単に、球団経営の健全性と合理性のためです。

プロスポーツの世界では、(監督・選手などの)競技関係者がいなければ、もちろんプロスポーツは成立せず、ファンは存在しえません。逆に、観客となるファンが存在しなければ、これまた、プロスポーツは成立せず、(監督・選手などの)競技関係者も存在し得ないことになります。ファンと監督・選手などの競技関係者は、必要十分の関係にあります。

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441(2005/03/20) 事業者と競技者 2

ぼーる通信 2005/03/12(152号)から(その2)

純粋にスポーツだけをみれば、そこには売り手や買い手も存在せず、監督・コーチ・選手・審判など競技関係者しか存在しません。近代スポーツの定義は、統一されたルール、統一された組織、統一された大会です。国際化した今日では、このため、国際的に統一された競技者組織の存在が欠かすことができません。サッカーには国際サッカー連盟(FIFA)が、バスケット・ボールには国際バスケットボール連盟(FIBA)があり、野球には国際野球連盟(IBAF)があります。

組織があれば、次は「国際的に統一された大会」です。一番有名なのがFIFAワールドカップです。FIFAワールドカップは、オリンピックと並ぶ国際的なスポーツイベントで、今や単なる一競技団体の主催大会ではなく、国際的事業になっています。競技関係者が事業者を兼ねるという構図となり、現代版NAPBBPというリスクをはらむことになります。

ところで、スポーツ組織としてはMLBは、北米の一事業者に過ぎません。この一事業者が、ワールドカップという国際大会を一方的に開こうとして問題になりました。北米の一事業者が、MLB選手会と合同で、ワールドカップと名乗った大会を開催しても、たとえ競技レベルが国際レベルであっても、「国際的に統一された大会」としての認知は難しく、野球が世界のローカルスポーツであることを露呈するだけです。かといって、MLB選手が出場しないIBAF主催の国際大会(ワールドカップなど)の価値は、レベル的に「国際的に統一された大会」としては疑義のあるものです。

最後に国際的に統一されたルールですが、日本の野球ルールは「米国プロフェッショナル野球機構で用いられているオフィシャル・ベースボール・ルールズ OFFICIAL BASEBALL RULES 」がもとになっており、アメリカでルールが変われば、日本でもルールが変わるという仕組みになっています。国際球にしても、結局、MLBの使用球ということなんでしょうね。
「公認野球規則」

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440(2005/03/20) 事業者と競技者

ぼーる通信 2005/03/12(152号)から

スポーツ総合研究所の広瀬一郎氏によれば、(財)東京大学運動会の「スポーツマネジメント・スクール」では、ステークホルダーを、プロスポーツの顧客としてファン、TV、企業、行政/自治体という全く別の論理によって対価を支払う4種類の顧客を上げ、売り手としての所有者/株主/事業者、(監督・選手などの)競技関係の2つあわせたこれら6つのグループをプロスポーツ産業の基本的な利害関係者(ステークホルダー)としています。
広瀬一郎 プロスポーツ・リーグの経済学

売り手としての「事業者」と「競技関係者」の関係をみてみると面白いことが分かります。1871年、最初のプロ野球リーグNAPBBPが結成されますが、NAPBBPとはナショナル・アソシエーション・オブ・プロフェッショナル・ベース・ボール・プレイヤーの略で訳せば全国プロ野球選手協会になります。文字通り、選手の協会で、競技関係者が事業者を兼ねていました。

ところが、NAPBBPは、選手のわがままや規律の乱れから、リーグ運営もずさんで、賭博の対象にもなったり、リーグ戦での不正な順位操作、選手の引き抜きや八百長も横行し、ついにはファンの支持を失い5年間で幕を閉じてしまいました。

1876年、この野球の危機を乗り越えるべく登場したのが世界最古の大リーグ、ナショナル・リーグです。ナ・リーグでは、選手や監督は試合に専念させ、経営は専門の役員が行うことにしました。つまり、「事業者」が「競技関係者」と分かれ、近代的で合理的なリーグ運営が可能になった一方、保留条項により「事業者」が「競技関係者」を支配する構図ができあがりました。

その後、競技関係者=選手側は、選手会(組合)を結成し、「事業者」側に対抗します。そして、フリーエージェント革命を経て、選手会は、事業者のパートナーとなっていきます。これが、メジャーリーグ(MLB)おける売り手側のステークホルダーの関係です。

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439(2005/03/19) 迷球界

3/18日本生命セ・パ交流戦
これじゃそのままじゃないですか。どうせ、スポンサーをつけて、勝率1位チームに賞金5000万円をだすんなら、もう少し、しゃれたネーミングをしてほしいものですね。ニッセイ・インターリーグ(カタカナ英語じゃないですか)とかね。交流試合は5月6日〜6月16日まで、各カード6試合の1球団36試合(計216試合)を戦う。B> へのリンク(日刊スポーツ)

3/18神宮球場満員御礼プロジェクト
「ぼく、ホリエモン」「ぼくも仲間に入れてよ」・・・・・・やだよ プロジェクト一同
ヤクルト・スワローズと明治神宮球場、フジサンケイグループとの共同プロジェクト。「BEAT PARK」をテーマに、ヒップホップのカリスマ、ZEEBRA(ジブラ)が全選手の登場曲を制作する。bt2005031802.html へのリンク(サンスポ)

3/18ハマスタで札幌、仙台、福岡の物産展
「ぼく、ホリエモン」「ぼく、株主」・・・・・・・まだだよ 日本放送
「野球場での物産展はたぶんウチが初めて。楽しんでもらいたい」と同スタジアムの鶴岡社長は新企画に自信満々だ。
bt2005031811.html へのリンク

3/17クラブチーム世界一決定戦構想
「そんなんですから、まごついてしまいました」オーナー初心者
小姑オーナーたちのひとこと
ロッテ・オリオンズ重光オーナー代行「孫さんは球界の動きをご存じない。あまり知らないで発言されていたみたいだ。費用の問題、日程の問題で難しい」
オリックス・バファローズ宮内オーナー「今のままだったらアメリカに振り回される。アジア(杯)の方が先じゃないか。経営にどういうふうに結ぶつくんだ」
読売ジャイアンツ滝鼻オーナー「近い未来で実現するかどうかは非常に難しい状況かもしれない」o20050316_20.htm へのリンク(報知) p-bb-tp0-050317-0016.html へのリンク(日刊)

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438(2005/03/17) 江川事件とライブドア 

2/16金融庁「事実上の市場外取引」(毎日)
ライブドアがニッポン放送(東証2部上場)株式を時間外取引を利用して大量に取得した問題で、伊藤達也金融相は15日の閣議後の会見で、証券取引法改正に向けて本格的な議論を開始する考えを表明した。時間外取引を利用することでTOB(公開買い付け)を事実上回避した、今回のライブドアの手法に対して、金融庁内に
「平気で法の網の目をくぐる新しいタイプのプレーヤーが出現した」と深刻に受け止める声が出ているためだ。
20050216ddm008020092000c.html へのリンク

2/24ライブドア取引「江川投手の入団時と似ている」・金融副大臣(日経)
七条明金融担当副大臣は24日の衆院予算委員会で、ライブドアが立会外取引で株を買い付けたことに関して「違法とはいえない」との見方を示した。さらに
「野球では江川問題があったが、それとよく似たケース」と指摘。元巨人軍の江川卓投手が1978年、ドラフト会議直前に同球団への入団契約を発表した「空白の1日」事件になぞらえた。ライブドアの手法を巡っては証券取引法が定める株式公開買い付け(TOB)規制の違反にあたるのではとの声が一部関係者から出ていた。七条副大臣は「現行法上、違法かどうかとなると違法とはされないのではないか」と指摘。その上で「江川投手がまた出てくることがないように、金融庁としては具体的に法制を含めて考えなければならないことが出て来るのではないか」と述べた。
20050224AT1F2401G24022005.html へのリンク

江川事件と今回のライブドアのニッポン放送株買い取り事件を混同してはいけません。まず、江川事件のプレーヤーは江川投手ではなく、盟主読売巨人軍と親会社の読売新聞社でした。江川事件は、渡辺恒夫前オーナーが野球と関係を持つきっかけとなった事件でもありますが、1978年ドラフト制の隙をついた「空白の1日」を利用して江川投手の入団を実現させようと読売新聞社が動き、当時編集局総務だった渡辺前オーナーが、読売巨人軍のエースだった小林投手に阪神へのトレードを受け入れるよう説得をまかされました。野球に無関心だった渡辺前オーナーは小林氏の顔を知らず、同席した知人に向かって説得を続けた、という逸話が残っています。(渡辺前オーナーがスカウト活動不正事件で、巨人軍のオーナー職を辞任する直前の04.8.2AERAの25ページから)

次に、江川事件は違法行為でしたが、ライブドアのニッポン放送株買い取り事件は違法行為ではありません。七条金融担当副大臣は「現行法上、違法かどうかとなると違法とはされないのではないか」と述べています。3月16日の東京地裁は、ライブドアの株取得の経緯については「証券取引法の立法趣旨との関係で相当性を欠くとみる余地はあるが、現行法下では違法でない」と指摘しています。これに対し、江川事件は、プロ野球協約違反であり、当時の金子コミッショナーは、読売巨人軍と江川投手との空白の1日における入団契約を無効としています。結果的には、江川投手は、金子コミッショナーの強い要望により、空白の1日後のドラフト会議で1位指名した阪神にいったん入団し、小林投手とのトレードで、巨人入りしています。「「平気で法の網の目をくぐる・・・プレーヤー」は、オレ(渡辺前オーナー)の知らない「ライブドア」ではなく、オレの会社(読売新聞社)が、だったわけです。その渡辺前オーナーが久々に登場しました。
TKY200503160326.html へのリンク  yakyukai3.htm#江川 へのリンク

3/15渡辺前オーナー「堀江社長は大間違い」(報知) 
巨人を応援する財界関係者らの集い「燦燦(さんさん)会」の第13回総会で14日、読売新聞グループ本社会長の巨人・渡辺恒雄前オーナー(78)がライブドアの堀江貴文社長(32)をバッサリと斬り捨てた。前オーナーはあいさつの中で、ニッポン放送株の買収をめぐり、フジテレビと対立する堀江社長について言及
。「蓄積も投資もなしにマネーゲーム的に利益をあげようとするのは大間違いだ」とライブドアによる一連の株買収劇を痛烈に批判した。
hl?c=sports&d=20050315&a=20050315-00000018-sph-spo へのリンク

渡辺前オーナーは、ライブドアによる株買収劇が、江川事件に例えられて非難されているのを、ご存じなのでしょうか。ライブドアも読売新聞社も同じだと言われているのが気がつかないようです。なお、今回のライブドアによるニッポン放送買収事件を江川事件に例えるのは、七条副大臣だけではなかったようで、今回、windで取り上げようと思い、ネットで検索すると何件もでてきました。江川事件は、反ロールモデルとして社会に浸透しているということですね。

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437(2005/03/14) ヤフードーム

2月のニュースですが、福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社は、Yahoo! JAPANを運営するヤフー株式会社と福岡ソフトバンクホークスの本拠地球場「福岡ドーム」のネーミング・ライツ(命名権)および付帯権利に関する契約に関し、2005年2月25日、正式に合意したと発表しました。正式名称「福岡 Yahoo! JAPAN ドーム(略称:ヤフードーム)」(カタカナ表記:「福岡ヤフー・ジャパンドーム」英文表記:“FUKUOKA Yahoo! JAPAN DOME”)とのこと。

契約内容は5年間で約25億円、契約には命名権のほか、冠協賛試合の開催や球場広告看板の活用なども含まれています。ヤフー株式会社は、Yahoo!の日本法人ですが、筆頭株主はソフトバンク株式会社で、ソフトバンクグループの一員。ヤフーは、昨年まで、グループのソフトバンクBBと共同で、オリックスの本拠地(スカイマークスタジアムに改称)の命名権を買って「ヤフーBBスタジアム」としていました。一応、ヤフードームとヤフーBBスタジアムは、同じヤフーでも違うんですね。スタジアムはブロードバンドのヤフーBBで、ドームはポータルサイトのヤフー・ジャパン。
f-bb-tp0-050225-0028.html へのリンク infoviewer.cgi?isfukuoka-dome_1109523145 へのリンク

ややっこしいので、ソフトバンク・グループについて整理してみました。ソフトバンク株式会社は、1981年に孫正義氏がパソコン用ソフトの卸会社として設立。現在は、ブロードバンド事業、E-コマース事業などを業務とする会社ですが、これらを行うのは連結子会社で、ソフトバンク自体は純粋持株会社です。福岡ソフトバンクホークスは98%、福岡ソフトバンクホークスマーケティングは、ソフトバンクの100%子会社。sa0010.htm へのリンク

ソフトバンク BB 株式会社は、ブロードバンド総合サービス「Yahoo! BB」をヤフーとともに運営するソフトバンク・グループ最大規模の事業会社。2003年1月グループ会社4社が合併して誕生。Yahoo! BB の加入回線数は、2004 年12 月末現在で465 万人以上にものぼり、また Yahoo! BB の標準サービスとして付帯する IP 電話サービス「BB フォン」も利用者数439 万人を突破し、いずれも国内最大規模の利用者を誇るということです。

一方、Yahoo! JAPAN(ヤフージャパン)は、Yahoo!の日本語版で、国内の検索・ポータルサイトでは業界1位の座にあります。ヤフー株式会社(英文社名・Yahoo Japan Corporation)は、このYahoo! JAPANの運営会社。主にサイト内の広告やネットオークション事業などを収益源としています。現在、ソフトバンクが41.9%、米Yahoo!Inc.が33.6%ですが、ソフトバンクの連結子会社。ya0003.htm へのリンク


ところで、スカイマークスタジアムの命名権については、2005年3月31日まで、ソフトバンク側が「ヤフーBBスタジアム」の使用権を持っていましたが、ソフトバンク側が了承したため、2月から「スカイマークスタジアム」」(英文表記は「SKYMARK STADIUM」)に名称変更しています。契約料は2月から3年間で2億円。

スカイマークエアラインズ社は、2006年2月に開港予定の神戸空港への就航を予定しており、神戸での事業展開のために同球場の命名権取得が有効であると考えたとされ、神戸市の公募に対して、スカイマークエアラインズ、グッドウィル・グループ、平成電電の3社が応募し、スポンサーを選定する委員会によってスカイマークが選ばれました。
20050210STXKE035010022005.html へのリンク

おまけ1 3月から、西武ドームの命名権を取得したのが、「インボイス」という企業向け通信料金一括請求サービス最大手で集合住宅向け通信統合サービスも行っている会社です。「インボイス」は既に、西武の二軍のネーミングライツ(命名権)を獲得していました。3月から正式名称「インボイス西武ドーム」、呼称『インボイスドーム』。2年契約で契約金は5億円。
bt2005012906.html へのリンク

おまけ2 宮城球場は楽天の本拠地となるにあたり、球場名の命名権売却が検討され、2005年1月に募集を行った結果、人材派遣業のフルキャスト(東京都渋谷区)が唯一応募。締切り後に球団と球場管理者の宮城県などで検討した結果、特に異論がなかったため、同年春より球場名を「フルキャストスタジアム宮城」として運営される事が決定しました。なお、契約期間は3年、契約金は2億円。

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436(2005/03/09) 西武とプロ野球

いま世間の話題を二分しているのが、西武グループ株保有問題とライブドアによるニッポン放送買収問題だが、この二つの話題の接点といえば、ニッポン放送が保有している横浜ベイスターズの30%の株式。この株式は元はといえば、西武グループの実質的な持ち株会社であった国土計画(現コクド)が保有していたもので、1976年に横浜スタジアムを建設した際に約3億円の赤字に悩む大洋ホエールズに出資、同球団の45%の株式を保有していた。

この出資の意図は不明だが、西武はこの横浜スタジアムの建設の実質的な推進役であった。当時の横浜市長は、後に社会党委員長になった飛鳥田一雄であったが、老朽化した平和球場に替わる新球場の建設が悲願であった。平和球場のあった横浜公園は、日本初の洋式公園で、外国人による野球も行われていた。日本の野球発祥の地のひとつである。横浜港の球場は、関東大震災後造られ、ゲーリック、ベーブルースとの日米野球も行われた。戦後接収されゲーリック球場と呼ばれ、ナイター設備も設置され、1948年プロ野球初ナイターが行われたのもこの球場であった。接収解除後平和球場と命名されたが、収容人員が少なく老朽化のため、プロ野球の試合は行われなくなった。

1950年の二リーグ分裂時にできた大洋ホエールズは、最初、下関に本拠地をおいたが松竹との合併を経て1955年川崎球場に落ち着いたが、本来は、横浜市に本拠地を置きたかったが、適当な球場がなかったため、川崎球場に落ち着いた経緯があった。川崎球場で観客動員の伸び悩んでいた大洋ホエールズは、横浜への進出が悲願であった。

横浜市長と大洋ホエールズとの間は相思相愛だったが、肝心の横浜市に資金がなかった。人口でこそ260万人の大都市となったが、東京の巨大衛星都市に過ぎず、人口増に財政が追いついていなかった。支店経済と化した横浜には、地元資本の力も弱かった。また、中央官庁と対立することの多かった革新市政に中央官庁の支援も得られなかった。そこで、最後に飛鳥田市長が頼ったのが西武の堤義明(当時国土計画社長)だった。1975年である。

それにより西武が、新球場建設に乗り出すことになり、横浜スタジアムの建設へ至ることになる。当初、資本金20億円のうち10億円を地元横浜で集めて、残りの10億円は西武側が出し、借入は西武が債務を保証するというものだったが、結局、地元だけで資金を集めようとオーナーズ・シートを市民に販売するという形で、20億円の資金を集めることができた。このため、西武が横浜スタジアムに出資することはなかった。

横浜スタジアムの特徴である円形、多目的、移動席という構想は、堤義明によって持ち込まれたものだが、それは、西武が西武球場以前に、所沢駅前に球場建設を計画し中止なった案がもとになっていた。

横浜スタジアムに関わる話は、神奈川新聞社が出版した「横浜スタジアム物語(山下誠通著)」に出てくる話だが、その中で堤義明が飛鳥田市長に「横浜スタジアムの便所はどうなっているのかな。大切なのは外回りに大勢の人数が集まるのだから、それに対応できる外側の便所の数が必要」と述べたという記述があるが、日本最大のサッカー専用の埼玉スタジアム2002ができたとき、スタジアムの建設にあたって、同じ埼玉県にある西武ライオンズの堤義明前オーナーから、同じ「トイレのアドバイス」を受けた話を思い出した。そのときは妙に感心したのだが、なんだ、昔から言っていたことか。残念。

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435(2005/03/05) 新「西武鉄道」とライオンズ

3月4日の堤容疑者の逮捕により、堤王朝の崩壊は決定的となり、西武グループは、主力銀行のみずほゴーポレート銀行主導で再編されることになる。再編のシナリオは、(1)コクドを堤氏の個人資産管理会社(旧コクド)と、事業会社(新コクド)に分割(2)「新コクド」と西武鉄道、プリンスホテルを合併して新西武鉄道を発足(3)新西武鉄道が最大2000億円増資、再編後は、「旧コクド」による新西武鉄道への持ち株比率を10%未満とし、堤氏側によるグループ支配を排除するという。これで、西武ライオンズの親会社は、コクドから新「西武鉄道」に替わる。

新「西武鉄道」の社長には、みずほコーポレート銀行の後藤副頭取(現西武鉄道特別顧問)が就任し、2000億円の増資のうち1000億円は、みずほコーポレートなど主力銀行が引き受けるという。

西武には、ダイエーの再建と異なり、まだ土地の含み資産がかなりあり、「グループ全体では相当な現金収支(キャッシュフロー)を生んでおり、事業再編で効率化が進めば増加も期待できる」(全国銀行協会の西川善文会長(三井住友銀行頭取))。一方、みずほコーポレート銀行は、3月中にも、ダイエー向けの債権を再生機構に売却し、ダイエーの債権からは手を引く。「みずほ」による不良債権処理の選択と集中ということでしょうか。

さて、これで西武ライオンズがどうなるかだが、新たな親会社となる新「西武鉄道」、その社長となる後藤氏かがどう判断のかにかかっていると思う。次期社長が、西武ライオンズが西武鉄道沿線にある西武ドームを本拠地とする球団であるということをどう判断するのか、新「西武鉄道」の結束と再生のシンボルとしてどう考えるのか、にかかっていると思うのだが。

堤容疑者が逮捕された日に、西武2軍と球場のネーミング・ライツ(命名権)を総額4億5000万円で買収したインボイスの木村社長が、「西武さんから言われたら買います」とライオンズ球団買収に意欲を見せた。
hl?c=sports&d=20050304&a=20050304-00000000-spn-spo へのリンク

これに対し、経営改革委員会の諸井虔委員長(太平洋セメント相談役)は、4日の会見で、通信関連サービスのインボイスが西武ライオンズ球団買収に意欲的な姿勢を見せていることについて「良い買い手から良い条件があれば考えると前から申し上げている。インボイスという会社はよく知らないが、提案があればこちらからお伺いしてもいい」と述べ、買収提案があれば検討する可能性を示唆した。諸井委員長は、1月28日発表された事業再生計画の中間報告の中で、西武ライオンズ関しては、今シーズンは引き続き保有するが「来季に向け有力な買い手があれば売却もあり得る」としている。

しかし、新「西武鉄道」の次期社長に内定している後藤特別顧問は、2月7日の共同通信によれば、「経済合理性で考えないといけない」としながら「自分としては残せるなら残したい」と指摘。「もっと地元に密着した盛り上げ方ができるかどうか」と述べている。さらに、3月4日の毎日新聞によると、後藤特別顧問は、西武線沿線に根付いているとして球団継続保有に意欲的で、3月2日には西武ドームを視察し、球団経営陣に「赤字を縮小させ、頑張ろう」と激励したという。諸井委員長も西武グループ内に継続保有を求める声が強いことは承知しており、会見後に「社員の結束につながるなら継続保有も良い」と述べるなど、方向性は固まってはいない。20050207a2310.html へのリンク  20050305k0000m050061000c.html へのリンク

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434(2005/02/26) 帝国の崩壊

(2/19)西武鉄道の小柳前社長、自宅で自殺K2005021902800.html へのリンク
午後0時50分ごろ、西武鉄道の小柳皓正(てるまさ)前社長(64)が、東京都町田市鶴間3丁目の自宅の寝室で首をつって死亡しているのを、外出先から帰宅した妻が見つけ119番通報した。家族あての遺書が残されており、警視庁は自殺とみている。小柳前社長は、同社の大株主保有比率の虚偽記載問題に絡み、東京地検特捜部から参考人として事情聴取を受けていた。

(2/21)「事態収拾後に院政」 シナリオ崩れる20050221k0000m040119000c.html へのリンク
西武鉄道株のグループ企業による虚偽記載問題で、親会社のコクドが株を一斉売却する前、堤義明前会長の辞任会見で事態を収拾した後に「院政」を敷くシナリオを作っていたことが関係者の話で分かった。側近らは証券取引等監視委員会などにも同様の証言をしている。堤前会長は実際、辞任後もグループの重要決定を電話で指示していたが、経営改革委員会から影響力を排除する方針を示され、周辺には「こんなはずではなかった」と話しているという。

(2/21)西武、2期連続の赤字に 建設、箱根のレジャー不振20050221a2380.html へのリンク
西武鉄道は、2005年3月期の連結純損益が従来予想の35億円の黒字から3億円の赤字になる見通しだと発表した。傘下の西武建設が手掛けた大型案件で予想を上回るコストが発生したことや、箱根地区のレジャー事業の不振が主な要因。西武の連結最終赤字は2年連続となる。箱根地区は施設の陳腐化などで人気が低迷、客足が鈍っている。都内の遊園地運営会社、豊島園の不良資産処理負担も赤字要因になった。昨年10月に発覚した有価証券報告書の虚偽記載や、株式上場廃止による業績への直接的な影響はなかったとしている。

(2/25)堤氏が再編案を承認表明 支配権縮小、「堤王国」崩壊へ TKY200502250302.html へのリンク
コクドの大野俊幸社長が25日記者会見し、堤義明・前コクド会長が、西武グループ経営改革委員会(諸井虔委員長)によるグループ再編案を承認する意向を示したと発表した。再編案は、コクドを分割、西武鉄道と合併し、堤氏の株式所有割合を大幅に縮小する内容。堤氏は「グループの将来は、改革委の示した案に任せる」と話したといい、鉄道やホテル、プロ野球球団を抱える国内有数の企業グループの堤家による同族経営は、1920年の箱根土地株式会社設立以来85年で終止符が打たれる見通しとなった。改革委は(1)コクドを堤氏の個人資産管理会社(旧コクド)と、事業会社(新コクド)に分割(2)「新コクド」と西武鉄道、プリンスホテルを合併して新西武鉄道を発足(3)新西武鉄道が最大2000億円増資、などを柱とする再編方針を示している。再編後は、「旧コクド」による新西武鉄道への持ち株比率を10%未満とし、堤氏側によるグループ支配を排除する考えだ。

(2/26)西武鉄道虚偽記載、本格捜査へ――東京地検20050225AS1G2503225022005.html へのリンク
西武鉄道の有価証券報告書の虚偽記載問題で、グループ中核会社コクド(東京・渋谷)の堤義明・前会長(70)が報告書提出前の昨年5月、コクド保有の西武鉄道株の名義偽装に絡み「このままでは西武鉄道の有価証券報告書が虚偽記載になる」と報告を受けていたことが25日、関係者の話で分かった。東京地検特捜部は週明けにも最高検、東京高検と協議、証券取引法違反(虚偽記載)容疑で本格捜査に乗り出す方針とみられる。関係者によると、2003年後半から株券を発行せず株取引の手続きを電子化する商法改正の動きが確実になり、西武鉄道とコクドの幹部らは、同社が個人名義に偽装して保有していた西武鉄道株について検討を重ねた。制度改正で株主の本人確認が必要になると、名義偽装が発覚するとの危機感がコクド社内で高まったためという。

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433(2005/02/23) 10.13

2004年10月13日という日は、カイシャフランチャイズにとって特別な日となった。福岡ダイエーホークスの親会社であったダイエー本社が産業再生機構の活用が発表した日であり、西武ライオンズのオーナーであったコクド会長の堤義明氏が西武鉄道の有価証券報告書の虚偽記載の責任をとって西武鉄道グループの全役職を辞任したと発表した日である。

ダイエー本社の再生機構入りは、一リーグ制を企む球界三悪人西武堤、読売渡辺、オリックス宮内が待ち焦がれていたものでだった。ただし、遅すぎた。一リーグ制のシナリオは、ダイエー本社の再生機構入り・ホークス売却・ロッテとの球団合併というものだったが、期限だった9月8日までに再生機構入りが果たせず、渡辺に変わり読売のオーナーになっていた滝鼻が「万が一、球団が消滅するとか、あるいはその他の動きがあったときには、オーナー会議で機動的に動いていくことを確認した」と含みを残したが、日本プロ野球史上初の選手会ストライキの後、夢と消えた。しかし、再生機構の活用により、ホークスの売却は時間の問題となった。ただし、ホークスは、巨人・阪神と並ぶ観客動員を誇る九州唯一の人気球団で、再生機構が悪い条件で身売りするとは考えられなかった。

一方、西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載の問題は、構造的であり、事態はより深刻だった。堤義明による西武グループ支配の構造が崩れる可能性があり、球団売却の条件も悪かった。これについては発表のあった翌日、奇しくも西武ライオンズと福岡ダイエーホークスの両球団で代表を務め、後に「激動!ニッポンプロ野球」で2004年のプロ野球危機を著したプロ野球経営評論家・坂井保之氏は、

西武ライオンズは当面、球団の存在(保有)が危うくなるとは考えにくい。堤氏の前日の辞任会見では「パ・リーグは倒産状態」などと、球団身売りをほのめかすような発言があったようだが、ストレートには受け取れません。というのも、今回は上場廃止基準の問題。西武鉄道の有価証券報告書訂正の責任でおやめになるからといって、球団を投げ売りしたら、それこそ世間に「反社会的」な行為ととられます。電鉄という“公共”の西武鉄道はそのような方向(身売り)に進まないでしょう。一方、再生機構に支援要請することを決断したダイエーは球団を売りにだされるでしょう。球団の赤字圧縮を税金で補てんすることは考えにくく、すでに機構関係者は買い手を探し始めているはず。野球協約によると、球団の譲渡、保有者の変更などはシーズン前年の11月30日までにオーナー会議などで承認を得る必要がある−と明記されており、時間がない。順序からすれば、現在、新規参入を目指している「楽天」「ライブドア」のどちらか余った方が、ダイエーを買収する可能性があると思われます。(談)bt2004101503.html へのリンク

11月2日新規参入が楽天に決まったが、その前の週に「余った方のライブドア」にではなく、「余るはずのライブドア」に球団売却を持ちかけたのは、ダイエーではなく西武であった。ホークスの方は、早々とソフトバンクが買い手として名乗り出て、福岡ソフトバンクホークスに決まったが、1月28日西武グループは、西武ライオンズに関しては今シーズンは引き続き保有するが「来季に向け有力な買い手があれば売却もあり得る」(諸井委員長)、とした。ただし、西武ライオンズの親会社であるコクドは、資産管理などの「旧コクド」と事業会社「新コクド」に分割され、新コクドは西武鉄道と合併されるという。なお、西武ドームは、ネーミングライツが情報通信サービス会社「インボイス」に売却され「インボイス西武ドーム」に変更された。二軍のネーミングライツも、同じく「インボイス」に売却された。

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432(2005/02/21) 企業と球団の興亡史(五)

東京進出後経営が悪化した大阪発祥の産経新聞社を水野成夫が引き継いだ1958年は、東京六大学の本塁打記録を作った長島茂雄が、読売ジャイアンツに入団した年で、六大学ファンをプロ野球に運んできた言われた。フジテレビが開局した1959年には、その長島が天覧試合でライバル阪神の村山投手からサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球人気を不動のものとした。

日本の野球ファンをくぎ付けにしたこの天覧試合の裏には、セ・パ両リーグのオーナーのし烈な競争があった。セ・リーグ巨人のオーナー、正力松太郎は誕生間もないテレビメディアの力を使って巨人の人気拡大を図った。一方、パ・リーグ大毎のオーナーを務めていた永田雅一はアメリカ大リーグ式の地域密着型野球を目指し、生で見る面白さを人々に伝えようとしていた。セ・パの観客動員数が拮抗(きっこう)する中、天覧試合が行われることになり、かつては盟友だった両者は、リーグ人気を決定づけようと激しい攻防を始める。
 ※出典 NHK その時、歴史は動いた「プロ野球を変えたホームラン」 sonotoki_syokai.html#02 へのリンク

もう一つの競争があった。テレビメディア間の競争である。後楽園球場の野球中継を独占していた日本テレビに対し、ラジオ東京テレビ(TBS)・NHKの反発があり、天覧試合を好機に、独占状態を打破しようという動きがあった。結局、天覧試合は、後楽園球場のナイター巨人・阪神戦を日本テレビとNHKが中継を行こなわれた。天皇の解説を行ったのが天勝野球団出身でパ・リーグ会長であった中沢不二雄である。正力は実をとった。
 ※参考資料 巨怪伝(佐野眞一著 文春文庫)

天覧試合は、正力対永田、セ・リーグ対パ・リーグ、テレビ資本対映画資本、読売・日本テレビ対毎日・TBSという対立の構図があり、勝ち組と負け組の分岐点でもあった。フジテレビを開局し、産経新聞を手に入れ、正力にライバル意識をもっていた水野は、まさにキラーコンテンツとしてのプロ野球の威力を目の当たりにしていたはずであり、テレビと新聞を手に入れたとき、次にプロ野球に目を向けるのは自然であった。

しかし、水野のプロ野球は短命に終わる。1963年に国鉄スワローズに出資するも、正式に産経新聞に譲渡されたのは1965年であり、翌年の1966年にはヤクルト本社が球団の株式を取得し球団運営に参加している。水野自身、産経新聞社の再建失敗と体調悪化により、1968年に退陣している。1970年1月7日、ヤクルトが公式に単独で経営権を持ちヤクルトアトムズとなる。

ところで、産経新聞は、毎日や朝日と同じ大阪発祥の新聞であり、大阪、奈良ではシェア20%を超える主要な新聞であるが、関東、関西を除く地域では速報性や地域性が欠けた新聞が一応発行されているにすぎない。全国紙とはいえ、発行部数は約210万部であり、ブロック紙の中日新聞の270万部に次ぐ第6位の新聞である。

 ※ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 フジテレビジョン 産経新聞 ヤクルト・スワローズ
 ※ 参考資料34a.html へのリンク 52a.html へのリンク

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431(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(四)

2001年2月22日ヤクルト・スワローズは、取締役会で株式をヤクルト本社80%、フジテレビ20%とすることを決定。それまではヤクルト本社93.3%、フジテレビ6.7%だった。田口周球団社長(当時)は「チーム活性化、ファン拡大のために模索してきた。フジテレビとヤクルト本社の間で決定したこと」と述べた。

2001年11月15日ニッポン放送は、横浜ベイスターズの筆頭株主になると発表。横浜球団の親会社であったマルハは、主力の水産業の売り上げが近年、減少傾向にあることや、加工品の缶詰や魚肉ハム、ソーセージも、国内ではデフレ傾向による販売価格の低下や販売競争激化による販売促進費の増加などで苦戦が続いていた。

ところが、読売の渡辺恒雄オーナーが、ニッポン放送と同じフジサンケイグループのフジテレビが、ヤクルト球団株20%を持っていることについて、「完全に野球協約違反だ」と反対したため、結局、2002年1月、15%の株式を所有していたTBS(東京放送)が全体の51.54%、系列のBS−iが17.39%をマルハから引き継ぎ、横浜ベイスターズの親会社となった。ニッポン放送の株式は、30.77%のままであった。2002年から横浜ベイスターズの70%をTBSグループが握ると、横浜球場の巨人戦は、TBS9試合、フジテレビ5試合と逆転する。

ところで、フジテレビをニッポン放送と共同で創った文化放送は、1976年に産経新聞と東京急行電鉄の保有株式が旺文社に売却され、旺文社が大株主だった日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)と接近、フジサンケイグループ色が薄まっていた。

2001年には、20%強保有していたフジテレビ株式の大部分を外部に売却し、その売却益で旺文社が持つ全ての自社株式を購入。直ちにこれを消却して、旺文社と絶縁。一層独自色が強まっている。当時、旺文社グループが文化放送株の6割強を占めており、特定企業による支配色をなくすための株式再編だった。現在の筆頭株主は聖パウロ修道会で20%強を保有。また、現在も、フジテレビ株を3.23%保有。

文化放送は、ニッポン放送と共同出資でフジテレビジョンを設立した経緯から、フジサンケイグループの一員であるが、自社独自のロゴを使用している。その一方で、かつては、旺文社がテレビ朝日と文化放送の株を保有していたことから、現在でも文化放送とテレビ朝日との間では、様々な面での交流が続いている。そのため、文化放送本体と関連会社などを含めた文化放送グループは、フジサンケイグループに含めない場合もある。また、プロ野球・西武ライオンズの中継を通して、西武鉄道グループ及びテレビ朝日との関係がある。

文化放送は、当初2003年の株式公開を目指していたが、浜松町の新社屋建設に伴う資金を計上した事から見送られていた。さらに2005年2月のライブドアによるニッポン放送株取得・筆頭株主化という事例も発生したため、現状のままでは上場してもすぐに買収される懸念もあり、上場が更に見送られることとなる。

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ニッポン放送 フジテレビジョン 文化放送 産経新聞 ヤクルト・スワローズ

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430(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(三)

ニッポン放送が保有する横浜ベイスターズの30.77%の株式は、1978年当時の国土計画(現コクド)の堤義明社長が、クラウンライターライオンズ(現西武ライオンズ)を買収するにあたって、複数球団の株式を所有することはできないとする野球協約第183条に抵触するため、保有していた横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の株式をニッポン放送に全体の30%、TBSに同じく15%の株式を売却したことによる。同社長は76年に横浜スタジアムを建設した際に約3億円の赤字に悩む大洋に出資、同球団の45%の株式を保有していた。

1974年 鹿内信隆、フジサンケイグループ会長に就任。1976年産経新聞社は東京急行電鉄と共に文化放送の株式を旺文社へ売却。これで鹿内は自らが筆頭株主となるニッポン放送を頂点としたフジサンケイグループの図式を完成させ、名実共にこれを支配した。つまり、ニッポン放送の横浜大洋株の所有は、フジサンケイグループ全体の意思だったいえる。川崎球場時代の「巨人戦」は、TBSが独占していたが、横浜大洋ホエールズの株式をニッポン放送が30%とTBSの倍の株式を取得したことにより、フジ9試合、TBS5試合(2001年)となる。

1985年、鹿内はセミリタイヤを敢行。その息子鹿内春雄がグループを引き継いだこの一件は、当時「世襲」と呼ばれ周囲の注目を集めた。しかし1988年、春雄が43歳で早逝。信隆は議長に復帰すると同時に、春雄と同年代で日本興業銀行行員であった婿養子・鹿内宏明を議長代行に置いた。

1990年信隆逝去後に宏明は議長に昇進。カリスマ不在になり鹿内家への求心力が弱まっていたが、グループの結束力強化を図るという名目で1991年2月にグループの最高意思決定機関である「株式会社フジサンケイコーポレーション」を設立。宏明が会長兼社長に就くとともにグループの主幹四社(ニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビル)の会長職も兼務。また主幹四社の社長を同社の役員に置きグループの権力を掌握した。

しかし宏明の横暴ぶりが目立ち、次第に人望を失っていく。1992年7月21日企業クーデターが発生。産経新聞社取締役会にて突然会長職を解任されたことを発端にニッポン放送、フジテレビジョンの会長職も解任される。その後フジサンケイコーポレーションは解散し、日枝久・フジテレビ社長を中心とするグループ基盤が構築され、鹿内家の経営的支配は終わりを迎える。

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429(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(二)

さて、現在のフジサンケイグループの中核にあるのは、もちろん、フジテレビですが、そもそも、フジテレビは、1957年、ニッポン放送と文化放送が共同で設立したものでした。

以下、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からマスメディアとプロ野球の興亡史を絡めてみていくことにします。『ウィキペディア(Wikipedia)』の出典元は不明です。まずは、フジテレビ、ニッポン放送編です。以下敬称は略させていただきます。

ニッポン放送は、財界のマスコミ対策として設立され、当時財界の「青年将校」と呼ばれた経団連専務理事の鹿内信隆が実務の中心となって1954年(昭和29)7月全国36番目、東京で3番目の本放送開始。

一方、文化放送は、カトリック修道会「聖パウロ女子修道会」が、マスメディアによるカトリックの布教を目的に放送局の設置を計画し、「財団法人日本文化放送協会」として1952年3月全国9番目、東京で2番目の本放送を開始するが、労働争議などで経営悪化し、東京急行電鉄や旺文社など、保守主義的な放送局の登場を望む財界・出版界の出資による株式会社文化放送が1956年に設立され、「財界のマスコミ対策のチャンピオン」国策パルプ社長の水野成夫が社長に就任し、事業を引き継いだ。

1957年11月 - ニッポン放送の鹿内は同じ財界系であった水野成夫の文化放送と共同でフジテレビジョンを設立し、1959年3月東京で4番目のテレビ局として放送を開始する。

このフジテレビ開局と前後して、たまたま東京進出後経営が悪化した大阪発祥の産経新聞社を水野が引き受ける事となり、鹿内も役員に就任した。水野が仕事の中心を産経に主軸を置くと、鹿内は後を受けるかの如くフジに主軸を移した。

フジサンケイグループとプロ野球の関係は、1963年国鉄スワローズから国鉄本社が撤退し、代わりに産経新聞とフジテレビが球団に出資した事にはじまる。1964年には、フジテレビで中継するために、本拠地を後楽園球場(日本テレビのみ中継権が与えられていたため)から神宮球場へ移転する。後楽園の中継権を独占する日本テレビに対し、東京放送(TBS)は、「巨人戦」の後楽園以外のビジターゲームの囲い込み対抗した。この先発2局独占に対し、後発のフジは、スワローズへの出資で「巨人戦」の放映権を獲得することができた。

1964年産経新聞は、滋賀県琵琶湖西岸の比良山にレジャー施設「サンケイバレイ」(のちの「びわ湖バレイ」)を建設。前年フジテレビと共に経営に乗り出した「国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)」と共に借入金累積額が膨らむ結果となり、財界からも水野退陣の声が上がる。


一方、1965年には、ニッポン放送、文化放送は共同で全国民放ラジオ31社を結ぶ全国ラジオネットワーク(NRN)を発足。1966年には、フジテレビがフジニュースネットワーク(FNN)を発足(フジテレビの全国ネットワークが確立するのは、第2次UHF開局による1970年10月)。1967年フジテレビ、ニッポン放送、文化放送、産経新聞は、「フジサンケイグループ」を結成する。1968年になると、水野は産経新聞社の経営に失敗して体調が悪化。鹿内は産経新聞社に乗り込み、正式にフジサンケイグループを掌握した。

水野が買収した国鉄スワローズはというと、1965年5月10日、産経新聞へ正式に譲渡され、球団名をサンケイスワローズに変更され、翌年1966年には、少年野球ファン開拓のため鉄腕アトムを球団キャラクターに使用しチーム名をサンケイアトムズへ改称。同年ヤクルト本社が株式を取得し球団運営に参加する。1969年、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと改称、実質経営権はヤクルトが握った。

1970年1月7日、ヤクルトが公式に単独で経営権を持ちヤクルトアトムズに改名。このとき、フジテレビの所有していた6.7%ほどの株式が残された。巨人戦の放映権の維持のためと思われる。これが、現在、フジテレビがヤクルト・スワローズの株式の20%を所有する由来となる。因みに、1973年11月26日、虫プロの倒産に伴い鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。チーム名をヤクルトスワローズに変更。

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428(2005/02/20) 企業と球団の興亡史(一)

日本のプロ野球は、カイシャ・フランチャイズ制という特徴をもっており、企業の興亡が、球団の興亡に直結するという側面を持っています。特に、読売「巨人」というマスメディアの成功したビジネスモデルに対抗して、多くのマスメディアが、プロ野球に参入していますが、このマスメディアの興亡史を、プロ野球の興亡史と絡めてみていくことは結構興味深いものです。

戦後、戦前の財閥復活を恐れ、長い間、持株会社制が禁止されていました。このため、企業グループを形成するとき、コクドやニッポン放送など、一部の中核企業は、持ち株会社的な機能を果たしてきました。長い間、資本金1億円のコクドが、西武鉄道グループを支配してきました。また、ニッポン放送が保有するフジテレビ株の時価総額だけでニッポン放送自体の時価総額を上回るという構図ができたのもこのためです。

コクドは非上場でしたが、ニッポン放送は上場企業であり、投資ファンドの格好のターゲットとなっています。ライブドアが、35%の株式を取得するまでは、元通産官僚の通称「村上ファンド」が18%の筆頭株主でした。

ライブドアが、短期間に35%を超える株式を取得できたのは、「(ライブドアの資金調達を引き受けた)米リーマン・ブラザーズ証券が外国人株主から売り主を探し、段取りを整えた」(市場筋)との観測が出ています。つまり、50%を超える株式が投機筋の手に渡っていたということです。ニッポン放送の周りには、多くのハゲタカか舞っていたわけですね。

ニッポン放送は、フジテレビの株を22.5%所有する筆頭株主で、フジテレビは、産経新聞の40.3%の株を保有という構図になっています。このほか、フジサンケイグループには、大手レコード会社のポニーキャニオンと出版社の扶桑社があり、HPによれば日本最大のメディア・コングロマリットということです。また、現在、ニッポン放送は横浜の球団株を30・77%、ニッポン放送が筆頭株主のフジテレビはヤクルトの球団株20%をそれぞれ保有しています。

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427(2005/02/14) ホリエモンは2度ベルをならす

(2/8)ライブドア、ニッポン放送株35%を取得

ライブドアが8日、東証2部上場のラジオ局、ニッポン放送の株式を35%取得したと発表した。フジサンケイグループの中核企業、フジテレビジョンは同じグループのニッポン放送を子会社化するため、株式公開買い付け(TOB)で株式を買い集めている最中だった。ライブドアが大株主に登場したことで、フジテレビはTOBの戦略見直しを迫られそうだ。

ライブドアはニッポン放送株を7日までに市場で買い増し、出資比率を5.4%に引き上げた。8日早朝には子会社を通じて立ち会い外取引で、機関投資家などから29.6%の株を追加取得。合計で35%の株を手中に収めた。投資総額は概算で700億円。株主が33.4%以上の株式を取得した場合、株主総会で重要事項に対する拒否権を持つことができる。

ニッポン放送株を巡っては、村上世彰氏が率いる投資ファンド「M&Aコンサルティング」が、2003年時点で筆頭株主として登場。今年1月時点で20%弱を保有していた。tele.cfm?i=2005020805878ug へのリンク

(2/8)堀江社長「横浜撤退」示唆(日刊スポーツ)

ライブドア堀江貴文社長(32)が8日、将来的なプロ野球への影響力行使を示唆した。この日、同社はニッポン放送の株式35%を取得(筆頭株主)したと発表。都内で会見した堀江社長は、株式取得にからむキナ臭い質問とは対照的に、フジサンケイグループが保有する球団株に話が及ぶと目を輝かせた。「結果としてそうなったが、まあ、運命です」とうれしそうに笑った。

現在、ニッポン放送は横浜の球団株を30・77%、ニッポン放送が筆頭株主のフジテレビはヤクルトの球団株20%をそれぞれ保有する。今後は人材投入など、ライブドアの影響力も無視できなくなる。堀江社長は「同業他社(TBS)が親会社の球団の株を持つ必要性はあるのか。株主として意見は言わせてもらう」と、横浜からは資本撤退する可能性を示唆した。また「2球団でマイナー株を保有し続けるメリットはない」と、ヤクルトへの資本集中を意図するようなコメントも残した。

「偶然です。たまたまニッポン放送が球団株を持っていただけ」と、球界参入ありきでの株式取得でないことは強調した。ただ言外に、夢破れた球界参入への意欲が消えてないことをうかがわせた。08590600_nks_00000010.html へのリンク

(2/14)多メディアに野望抱く 堀江ライブドア社長(共同通信)

ライブドアの堀江貴文社長は、ニッポン放送の株式の50%超を獲得し、子会社化したいとの意向を重ねて表明している。フジサンケイグループで重要な位置を占めるニッポン放送の経営権を握り、テレビ、新聞、出版などグループの多種メディアをネット事業に取り込むとの“野望”が一段と鮮明となってきた形だ。「ニッポン放送はもともとグループの持ち株会社。持ち株会社の支配権を取ればグループ全体を支配できる構造」−堀江社長は前週末から、相次いで出演したテレビ番組で「支配」という言葉を連発した。こうした狙いのため「最も(買収が)やりやすかった」とグループに目を付けた理由を語った。
hl?a=20050214-00000176-kyodo-bus_all へのリンク

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426(2005/02/14) ニッポン放送とフジテレビ

(1/12)ニッポン放株、鹿内氏一族が売却――大和証券SMBC、「時機みて放出」

フジサンケイグループ実質創業者の一族でかつて同グループ議長を務めた鹿内宏明氏らが、ニッポン放送株式を手放したことが12日分かった。近く大量保有報告書が提出される見通し。これらの株式は既に大和証券SMBCが取得を発表しており、今後は第三者に売却されることになる。

ニッポン放株を巡っては、村上世彰氏が出資する投資会社エム・エイ・シーが昨年春、16.6%を保有する筆頭株主に浮上。これに対抗する形で昨年9月にはグループのフジテレビジョンが同社株を12.4%取得して持ち合いを始めるなど、大株主の構成がめまぐるしく動いている。tele.cfm?i=20050208ug001ug へのリンク

(1/17)ニッポン放送、フジが子会社化――TOB活用、資本のねじれ解消

フジテレビジョンは17日、自社の筆頭株主であるニッポン放送を株式公開買い付け(TOB)で子会社化すると発表した。出資比率を12・39%から50%以上に高める。ニッポン放送も同日、TOBに賛同すると発表した。フジテレビはTOBによりニッポン放送との資本関係のねじれを解消し、グループを再構築する。

両社の資本関係は、
ニッポン放送が保有するフジテレビ株の時価総額だけでニッポン放送自体の時価総額を上回り、筆頭株主のニッポン放送の株を取得すれば相対的に安い投資でフジテレビの経営に関与できるという構図だった。

フジテレビは買い付けへのすべての応募に応じる考えで、ニッポン放送の全額出資子会社化も視野に入れている。買い付け価格は1株当たり5950円で、ニッポン放送の過去3カ月平均株価より21%高い。買い付けに必要な金額は、出資比率が50%になった場合で733億円。全株を購入した場合は1750億円に達する。買い付け期間は18日から2月21日まで。今回の買い付け状況次第で、ニッポン放送が上場廃止になる可能性もある。tele.cfm?i=20050208ug000ug へのリンク

(1/17)フジテレビがヤクルト、横浜株取得も

現在、フジテレビはヤクルト、ニッポン放送は横浜の株を所持しており、この子会社化により、フジテレビが2球団の株を保有する可能性が出てきた。

日本プロ野球組織(NPB)の長谷川一雄事務局長(56)は同日、この件について「(ニッポン放送が所有している)株の名義が変わらなければ現状のままだろうし、まだ何とも言えない」と話した。2001年11月、当時、横浜の筆頭株主だった食品メーカーのマルハが株式の一部をニッポン放送に譲り、横浜のオーナー会社が代わることが発表され、いったん実行委員会で承認を受けたが、野球協約183条に抵触するとされて白紙撤回。その後、TBSが筆頭株主になることで決着した。

この時、ある球団、オーナー、株主が別の球団を支配する可能性で、例えば共謀してどちらかのチームを勝たせるなど不正行為につながること、また、不正の疑念を抱かせること自体が問題視された。

ニッポン放送の横浜株保有割合は30・77%で、協約上は問題視されない可能性が高い。しかし、球団株の二重取得を問う声が出ることも予想される。球団は株主に変更があった場合、その都度コミッショナーに届けなければならないことになっている。長谷川事務局長は「届け出があれば、すぐに12球団に通達する。問題があれば実行委員会、オーナー会議で議論するだろう」と話した。o20050117_100.htm へのリンク

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425(2005/02/14) なんでそーなるの?

西武の親会社のコクドが200億円で球団売却を数社に打診していた問題で、ライブドアの堀江貴文社長(32)は11月7日、出張先の香港から帰国して、(11月8日サンスポ)bt2004110804.html へのリンク

胸中は“なんでそーなるの?”だった。審査小委員会、オーナー会議での楽天に敗れ、企業体力で劣ると“落選”させられたライブドアの堀江社長。まさか参入を拒んだ側の西武から売却を持ち掛けられるとは…。さすがにこの展開には不信感をあらわにした。

「ウチは経営体力がないと言われて落とされたんです。あれ(審査)は違ってましたと言ってもらわないと…」

同社長によると投資銀行が仲介役となりライブドア側に打診があったのは、(11月)2日のオーナー会議を目前に控えた先週のことだった。「あのときは仙台(の新規球団)がどうなるかという時期。そんな(西武買収の)交渉できるわけないじゃないですか」。当時はすぐ断りを入れたという。

結果的にはオーナー会議で楽天の新規参入が決定。あの時とは状況が変わった。しかし、それでも堀江社長は「(機構側に)『おたくは経営体力がありました。入ってきてもいいですよ』と言われないとね。またオーナー会議でああだこうだ言われて、難癖をつけられても…」といまだに納得がいかない。

また200億円といわれる売却提示額についても「高すぎるでしょ。買収というのは今持っている現金、資産、負債を総合して金額が決まるんです。損益の状況など開示してもらわないと」と注文をつけた。

次は、『スポーツ・ヤァ!』(角川書店・刊)107号(12月2日発売)に掲載されたライブドア堀江貴文社長に対するこのインタヴュー原稿の抜粋です。sport_bn_34.htm へのリンク

――2年後くらいには日本のプロ球界に自分も加わっている、と(TV番組で)いわれましたが・・・。独立リーグの支援から始めるとか?

堀江 それはない。レベルの低いところではやりたくない。

――だったら新しくリーグを創る?

堀江 それも難しいでしょう。選手が動かないんじゃないかな。

――それなら、楽天の三木谷社長がやったように、現在プロ球界を支配している人たちに取り入るか、ファンの後押しを得る以外にないですよね・・・。

堀江 そうでもないでしょう。草の根運動的な活動には限界があって、選手会もこれ以上は大義名分を打ち立てられませんよね。つまり「球団数削減反対」のストは打てたけれど、「球団数増加」という改革を旗印にしたストは打てない。それは草の根運動の根本的な限界でもあって、やっぱり「中」に入らないと変えることはできないわけです。

――だったら、「中」に入る方法は?

堀江 僕の仕事は「最初に野球ありき」というわけじゃないんです。いろんな企業買収をやっているわけです。そんななかで球団を所有している企業があれば、自動的に球団をシェアするようになりますから。別に無理をして頭を下げてNPBに入れていただかなくてもいいはずです。

――なるほど。ある日とつぜん堀江さんが日本テレビの社長になっているとか?(笑)

堀江 それはありえない(笑)。けど、今回いろいろと球界と関わったことでわかったことも多かったですから。城を攻めるには、外側から堀を埋めて石垣を崩して・・・というのじゃなく、空から爆弾を落とす方法だってあるし、パラシュートで降りる方法もあるわけですよ。

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424(2005/02/14) 落日の獅子(ライオン)

11月5日コクド(東京・渋谷、三上豊社長)が、子会社の西武ライオンズを他企業に譲渡、プロ野球事業から撤退する方針を固めたことが5日、明らかになった。複数の企業に打診を始めた。コクドは主力のレジャー事業の不振が続いているうえ、借入金負担も増加、経営を圧迫している。20041105NN003Y26405112004.html へのリンク

楽天との新規参入争いに敗れたライブドアには香港の外資系証券会社を通じて提案があった。コクド側からは民放キー局テレビ朝日に打診。また、球団買収に意欲を示すCS放送スカイパーフェクト・コミュニケーションズにも話が持ちかけられたもようだ。さらには、サントリー、有線ブロードネットワークス、日産自動車、トヨタ自動車、日本コカコーラ、稲盛和夫最高顧問が堤前オーナーと親交が深い京セラなどにも話があったもようだ。

ライブドアの幹部は「打診があったのは確か」と認めた。200億円の譲渡額と西武ドームの本拠地使用がネックとなり、打診のあった段階では断ったが「今後金額が下がってくるようなことがあれば」と留保。スカイパーフェクト・コミュニケーションズの重村一社長は10月に「パ・リーグの球団が1つ足りなくなれば」と参入に意欲を示している。

テレビ朝日は10球団1リーグ制へむけて経営参加を検討したが、2リーグ制維持で広瀬社長が買収の可能性を否定。他の企業も200億円の買収額と、年間20〜30億円の赤字が予想される球団だけに、買収を決断しづらい。複数の球界関係者は「5社から10社に声をかけたようだが、西武ドーム(本拠地・所沢市)がネックでいくつかが断ったらしい」と証言した。

西武鉄道の株価は虚偽記載問題の発覚後、半値以下に急落。ピーク時からの下落率は95%超で、グループの有利子負債総額は1兆3000億円にも達する。財務体質の劣化が進み、球団売却は不可避と判断。10月13日の辞任会見で「私としては球団は続けて持ってほしい」と語った堤氏だが、球界幹部からは「堤氏は球団を手放そうとしていた」との声もある。金融筋によると、以前から親会社コクドは毎年20億円から30億円の赤字が続く球団の売却を探っていた。
01.html へのリンク  bt2004110701.html へのリンク

11月8日なると、一転、コクドの三上豊社長(68)が、現時点で球団売却の意思はないと明言。売却を打診したことも否定した。「売りません。(売却の)打診もしていません。打診してきたという外資の証券会社がどこなのか、教えてほしいくらいです。ライブドア? 全然、知りません」と語った。200億円以上という提示額が障害となって交渉は難航。また、これが表ざたになったことから当面、交渉を凍結した方が得策と判断したとみられる。bt2004110910.html へのリンク

西武鉄道グループの事業再生計画をまとめる「西武グループ経営改革委員会」の諸井虔委員長(太平洋セメント相談役)は12月3日午後、第3回会合を受け、都内で記者会見し、西武ライオンズについては、年間20億円の赤字を計上していることを明らかにした上で、売却問題について、「引き続き検討していく」と述べるにとどめた。会見に同席した池田敦事務局長(西武常務)は、「(現時点では)来シーズンに向けて現在の体制で準備を進めている」と語った。 20041203AS3L0305903122004.html へのリンク

「西武グループ経営改革委員会」(諸井虔委員長(太平洋セメント相談役))は、1月28日、中間報告書を提出、グループ中核会社のコクドを会社分割したうえで西武鉄道と統合し資本増強する再建策を正式発表した
。西武ライオンズに関しては今シーズンは引き続き保有するが「来季に向け有力な買い手があれば売却もあり得る」(諸井委員長)とした。20050128AS1D2807Z28012005.html へのリンク
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423(2005/02/14) 堤康次郎の亡霊

ベールに包まれたコクドの秘密が明らかになっている。堤義明氏がコクドの株の36%を所有していることになっているが、「実際は銀行保有分などを除く9割に達する」という。元コクドの首脳の証言によると、名義借りの目的は堤氏名義を減らすことによる相続税対策とコクドを通じたグループ統治。創業者の堤康次郎氏の時代から続き、会社側が任意で抽出した社員に無断で割り振っていた。(1月15日共同)hl?a=20050115-00000122-kyodo-bus_all へのリンク

これを裏付けるように、堤義明氏の実弟2人が「
父親の故堤康次郎元衆院議長が相続対策のため、株を他人名義で所有していた」と経営改革委員会(諸井虔委員長(太平洋セメント相談役))に説明していることが分かった。2人は「この相続対策が、西武鉄道が大株主の持ち株比率について有価証券報告書に虚偽の記載をしていた問題などの遠因」としている。(1月23日共同)20050123a4850.html?c=s へのリンク

また、堤義明氏が、昨年8月下旬、側近の同社前専務から西武鉄道株の保有比率が上場廃止基準に抵触していることなどの報告を受け、売却を事前に了承していたことが分かった。堤前会長は自ら取引先企業に売却を持ちかけただけでなく、公表の2か月近くも前に売却を容認していた事実が判明したことで、大量売却により深く関与していた実態が浮かび上がった。(2月13日読売)20050213it01.htm へのリンク

それだけではなく、コクドが昨年8―9月の西武鉄道株の大量売却前にも、同年3月までの4年間で実質保有する同社株の15%を放出していたことが、関係者の話で分かっている。コクド側は、西武鉄道の株主構成が東京証券取引所の上場廃止基準に抵触する状況を段階的に解消しようとしたとみられる。コクドは2000年3月時点で、同社名義と個人名義を合わせ約3億3060万株の西武鉄道株を実質保有していたが、04年3月までに15%にあたる約4970万株を売却した。市場での売却、グループ企業への売却に加え、取引先企業に相対取引で株購入を引き受けてもらうケースもあったという。(2月12日日経)
20050212NN000Y68612022005.html へのリンク

西武鉄道グループの事業再生計画をまとめる「西武グループ経営改革委員会」(諸井虔委員長(太平洋セメント相談役))は、1月28日、中間報告書を提出、グループ中核会社のコクドを会社分割したうえで西武鉄道と統合し資本増強する再建策を正式発表した。

報告書はグループが運営するホテル、レジャー、リゾート施設のうち4分の1程度を不採算事業と認定、売却・撤退を検討することも盛り込んだ。西武ライオンズに関しては今シーズンは引き続き保有するが「来季に向け有力な買い手があれば売却もあり得る」(諸井委員長)とした。

7月以降に設立する新会社は、西武鉄道の鉄道事業が中核事業となる。さらに、コクドが展開する首都圏のプリンスホテルや箱根・軽井沢など有力リゾート事業、プリンスホテルのホテル運営事業を吸収統合する。分割後に残る「旧コクド」はグループオーナーの堤義明氏(70)と堤家の資産管理会社の色彩が濃くなる。

新会社は委員会等設置会社とし、執行役員制も導入して「(堤氏による)ワンマン体制を改めた透明性の高い企業として早期の再上場をめざす」(諸井委員長)。取引金融機関などが1500億―2000億円規模の新会社の増資を引き受けるため、堤氏の新会社に対する資本面の影響力も大幅に低下する。(1月28日日経) 20050128AS1D2807Z28012005.html へのリンク

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422(2005/02/14) 落日の帝国

西武鉄道グループは、非上場の株式会社コクドがグループの実質的な持ち株会社となっており、そのコクドの資本金は約一億円で、その発行済み株式の36%を堤義明氏が握り、グループ全体を支配する構図になってる。プリンスホテルと西武ライオンズは、コクドの100%子会社。また、コクドとその完全子会社であるプリンスホテルは、西武鉄道株の6割以上を所有し、「西武鉄道はこれまで、親会社のコクド及び兄弟会社のプリンスホテルとの間で、不良資産を抱えたグループ会社の売買を繰り返して損失処理を進めてきた」(金融関係者)。

事実、12月24日には、コクドが2004年8月までの4年半の間にプリンスホテルなど子会社3社に個人名義の西武鉄道株1600万株を市場外で売却、その売却資金230億円でこれらの会社の増資に応じていたことが24日、分かった。プリンスホテルなどはその後、減資して欠損金を解消していた。上場会社だった西武株を利用してプリンスホテルの赤字を埋めるなどやり繰りしていたとみられる。

西武鉄道は去年の10月13日、株主であるコクドとプリンスホテルの持ち株比率を訂正するため有価証券報告書などの訂正報告書を関東財務局に提出したと発表。コクドの持ち株比率は43.16%としていたが、64.83%に訂正。コクドとの関係もこれまでの「その他関係会社」から「親会社」に変更した。これは、「コクドとプリンスホテルが個別に管理している個人名義株式を実質的に所有していることが判明した」と説明している。

西武鉄道は、40年以上も大株主の持ち株比率を過少記載していた、また、大株主の持ち株比率が80%を超えてはならないという上場基準を長期間、逸脱していたことが問題となった。

同日、コクドの堤義明会長(70)は記者会見し、コクド傘下の西武鉄道が有価証券報告書を大幅修正したことの責任を取り、コクド会長など西武鉄道グループの全役職を同日付で辞任したと発表した。堤氏はプロ野球西武ライオンズのオーナーも日本シリーズ終了後に辞任。堤氏は同日の会見で「責任を痛感し、深く反省している」と謝罪した。

その後、西武鉄道が、この事実を発表する前の10月上旬までに、堤前会長やグループ幹部らが、70社と2人に計5665万株を約650億円で売却したことが明らかになった。上位10社の株保有比率を約75%まで下げたが、売却時に上場廃止基準抵触の事実を説明していないケースも多かった、という。このため、売却先の企業から買い戻し請求を迫られ、1月28日売却先の全社と売買契約の解除で合意したと発表している。それに先立ち昨年12月17日には、東京証券取引所が、有価証券報告書の虚偽記載問題で西武鉄道株の上場を廃止した。

西武鉄道グループは、バブル崩壊以降コクドの経営は厳しい状況に追い込まれ、「月間ベルダ」と言う雑誌によると、西武鉄道は、2004年3月期に85億円の最終赤字に転落、主力のレジャー・サービス事業も3期連続の赤字が見込まれている。有利子負債は単体で7968億円、グループでは1兆円と、実はダイエー並みの過剰債務企業なのだ。しかもバブル期に12兆円以上といわれたグループ保有の土地の含み益は、いまや1兆円にまで激減しているという。また、コクドは、内部資料によると、損益ベースでは9期連続の赤字、負債は約3800億円、実質債務超過という惨状という。v0410.html へのリンク

これに対し、全国銀行協会の西川善文会長(三井住友銀行頭取)は11月24日の記者会見で、西武鉄道グループの経営問題に関して「グループの有利子負債は1兆円を超えるが、不良債権化する懸念はない」と述べた。理由として「グループ全体では相当な現金収支(キャッシュフロー)を生んでおり、事業再編で効率化が進めば増加も期待できる」と指摘。みずほコーポレート、東京三菱、三井住友銀行の主力3行が協調し、同グループの経営改革委員会の議論を見守る考えを示した。 20041124AS1F2401F24112004.html へのリンク

西武鉄道の有価証券報告書の虚偽記載問題で、東京地検特捜部は2月9日までに、同社の小柳皓正・前社長(64)から事情聴取。戸田博之・西武鉄道元社長(69)らからすでに事情聴取済みで、証券取引等監視委員会と連携し、証券取引法違反(虚偽記載、インサイダー取引)容疑で捜査を続けている、という。グループの実質的オーナーだった堤義明・コクド前会長(70)の関与の有無についても捜査を進めている。証券取引法は、上場廃止などにつながる重要事実の公表前に、その情報を隠して上場株を取引することをインサイダー取引として禁止している。

資料 日経特集「西武グループ」index20050212NN000Y68612022005.html へのリンク
    ヤフー西武鉄道グループ保有株問題  へのリンク
    西武鉄道 有価証券報告書虚偽記載問題 へのリンク

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421(2005/02/13) いま、社会人野球が面白い

アマチュア野球も面白くなってきました。先にbS09で紹介した広瀬氏のチームが具体化してきました。毎日新聞の記事から、

広瀬哲朗さん総監督に新チーム 女子選手も(毎日新聞 2005年2月12日)
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/news/20050212k0000e050060000c.html

プロ野球・日本ハムのOBで、野球解説者の広瀬哲朗さん(44)が総監督を務めるアマ野球チーム「サウザンリーフ市原」(本拠地・千葉県市原市)が、県野球連盟にクラブチームの加盟登録を申請した。月内にも正式加盟が受理され、5月に始まる都市対抗野球大会の県予選出場を目指すほか、タレントの萩本欽一さん率いる「ゴールデンゴールズ」(茨城県桜川村)との交流試合も予定されている。

建設業のかたわら、市原市で18年にわたってリトルシニアチームの監督をしている加藤和昭さん(51)が今年1月、アマスポーツの底辺拡大を掲げる特定非営利活動法人(NPO)を発足させたのが設立のきっかけ。加藤さんと親交の深い広瀬さんが、NPOが中核となる新チームづくりを提案した。加藤さんが監督、広瀬さんが総監督兼選手としてチームの運営にかかわる。

チーム編成は、広瀬さんが現在、監督を務める日本女子野球協会(富山県魚津市)の2人の日本代表選手が合流し、県内初の女子選手として参加するほか、加藤さんの出身校・東海大を今春卒業する選手ら20代前半が大半を占めるという。

チーム名は、千(サウザンド)葉(リーフ)が由来で、雑草のようにアマスポーツを拡大しようという願いを込めた。選手は公共施設のグラウンドを借りて練習するといい、加藤さんは「選手が中学・高校生に技術指導するなど、地元と積極的に交流したい。欽ちゃんとも連携して、アマ野球界を盛り上げたい」と話している。

青島健太氏のウェルネス魚沼も、同じく毎日新聞から

豪州野球連盟、日本連盟を表敬−−「ウェルネス魚沼」発足で(毎日新聞 2005年2月10日)http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/news/20050210ddm035050012000c.html

オーストラリア野球連盟のピーター・ウッド海外部長(44)が9日、東京都千代田区の日本野球連盟を訪れ、山本英一郎会長を表敬訪問した。社会人野球のクラブチーム「ウェルネス魚沼」(新潟県魚沼市)が、アテネ五輪で銀メダルを獲得したオーストラリア代表クラスの選手約20人を集めて発足するため。

ウッド氏は、アテネ五輪準決勝で松坂(西武)から決勝打を放ったキングマンら代表選手について「多くの選手が来日を希望している」と話した。また、山本会長が提唱する「アジア都市対抗野球」構想に対し「もちろん狙っています」と賛同の意向を示した。

ワシントン・ナショナルズの大家投手も、野茂投手のNOMOベースボールクラブに次いで、なんと、これまた毎日新聞から 

社会人野球チームを設立 来春から活動予定(毎日新聞 2005年2月10日)http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/news/20050211k0000m050104000c.html

米大リーグ・ナショナルズ(旧エクスポズ)の大家友和投手(28)が10日、滋賀県草津市で会見し、自身がGM(ゼネラルマネジャー)を務める「大家友和ベースボールクラブ」に社会人クラブチームを設立することを発表した。今年秋にトライアウトを行い、来春から社会人チームとして活動する予定。都市対抗などの大会への出場を目指すとともに、将来的にはプロ化も視野に入れるという。日本人大リーガーによる社会人チームは、野茂英雄投手(デビルレイズ)が設立した「NOMOベースボールクラブ」(本拠地・大阪府堺市)に続いて2例目。

企業チームの休廃部が増える中、選手の受け皿を作るのが狙い。京都市出身の大家は「僕自身、小さいころ、社会人チームに入りたいと思ったこともある。スポーツで社会に貢献したいと考えた。地域の人に愛されるチームを作りたい」と抱負を語った。

3月ごろに京都府、滋賀県内の複数自治体と設立準備委員会を発足させる予定。練習グラウンドを確保後に本拠地を決める。運営資金は企業スポンサーの確保と1口1000円での個人サポーターからの会費で賄う方針。社会人チームとしてスタートするが、球界再編の状況を見極めながら、独立リーグやプロ野球への参加にも柔軟に対応していくという。

同クラブは昨年2月の発足と同時に中学生を対象とした「草津リトルシニアチーム」を設立させている。今後、小学生、高校生チームも組織し、Jリーグクラブのような一貫性のある「総合型ベースボールクラブ」を目指すという。
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420(2005/02/12) 誰がNPBの代表なのか

福岡ソフトバンク・ホークスの孫オーナー、MLBに一人ででかけ、「世界一決定戦開催」の構想を話しちゃいました。NPBでオーソライズもされていない話で単なる私案にすぎないものを相手が真剣に話に乗るわけもなく、それなら「文書化」するように言われたいうことですが、そりゃ、当然でしょう。当然、求められる文書は、NPBの1オーナーの文書でなく、NPBの公式文書だと思うんですが。NPB側のまとまった意見でなければ、MLBだって当然、乗れない話です。孫オーナーもこのことを分かっているようで、以前の記事でNPBを代表して行く訳じゃないとは行っていましたが。

孫オーナーが「世界一決定戦」構想を説明(2004.2.12 日刊スポーツから)

ソフトバンクの孫正義オーナー(47)は11日、ニューヨークの米大リーグ機構事務局を訪れ、ティム・ブロスナン事業担当副会長らと約1時間半に渡って会談、持論の「世界一決定戦開催」の構想などを説明した。

会談後、同オーナーは「野球がもっとエキサイティングになるよう、ぜひやりましょうということだった」と話し、手応えを感じた様子。大リーグ側は、各球団に構想を伝えると約束し、要旨を文書化するよう依頼してきたという。

世界を舞台に活躍できる球団づくりを標ぼうする孫オーナーは、10日にヤンキースの球団関係者と会ったことを明かし「これからも、いろいろな球団と会っていきたい」と積極的に交流していく方針を示した。f-bb-tp0-050212-0020.html へのリンク

同様の話が、去年の7月、起きています。西武の堤オーナー(当時)が、「もう一つの合併」の話をした後、3軍制導入の話を「社会人野球を統括する日本野球連盟の山本英一郎会長」に要請に行っています。このとき、まだ1リーグ制の話はオーナー会議で正式にでてもいなかったので、山本会長の反応も「まだ、具体的なものが出ていない。プロで1リーグ制の見通しがついてからの話だから」とし、基本構想を聞いただけに終わっています。

山本会長が堤氏と会談−プロ、アマ協力を確認 (2004/07/13 サンスポ)

社会人野球を統括する日本野球連盟の山本英一郎会長は13日、プロ野球西武の堤義明オーナー12日に会談し、3軍制導入のために協力を要請されたことを明らかにした。同会長は「画期的なことだと思う。考えには原則賛成。できる範囲内で協力する」と話し、その意向を堤オーナーに伝えたという。

会談はプロとアマが混在する3軍制を提唱する堤オーナーからの申し込みで実現。山本会長は内容について「まだ、具体的なものが出ていない。プロで1リーグ制の見通しがついてからの話だから」とし、基本構想を聞いただけで、要望は出さなかったという。 http://www.sanspo.com/sokuho/0713sokuho082.html(現在、リンク不可)
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419(2005/02/11) MLBとNPBのオーナーの違い

オーナー側が前コミッショナーに辞任に追い込んだり、現コミッショナーが元ブリューワーズのオーナーだったりと、MLBは、NFLと比較してオーナーの集合体的な色彩が強いが、リーグ統合化の動きはMLBにおいても進んでいます。

経営コンサルタントの大坪正則氏の著書「メジャー野球の経営学」(集英社新書)によれば、

「1998年に第9代コミッショナーに就任したアレン・H・セリグは、コミッショナー裁定による球団に対する罰金を、従来の25万ドル(2600万円)から200万ドル(2億1000万円)に、選手や球団関係者には2万5000ドル(260万円)から50万ドル(5250万円)に引き上げました。

また、セリグ・コミッショナーは、ナショナル・リーグとアメリカン・リーグの両会長の辞任にともない、両リーグの会長制度を廃止しました。1900年から続いたナショナル・リーグとアメリカン・リーグの2リーグ制をグラウンドだけに限定して、それぞれのリーグが独立して行ってきた審判員の雇用、スケジュール作成、選手管理等の運営事務をコミッショナー事務局に吸収し、NBA、NFL、NHL同様、すべての権限をコミッショナーに集中した」

昨年、NPBのオーナー側は、1リーグ制を画策しました。その中心になったのが、オリックスと読売でした。それに対し、選手会側が、史上初のストライキを決行し対抗した。最後まで、選手会と対立したのも、オリックスと読売でした。

その「苦い経験を踏まえて生まれた構造改革協議会。球界改革へ開かれた議論をする場になるはずが、内紛で幕を開けた」(2005.1.26サンスポ)bt2005012602.html へのリンク

以下、サンスポの記事を続けて、
「事前の構造改革小委員会では、問題点を12項目に整理。この日はそのうち、〔1〕ドラフト改革〔2〕球団の収支バランスの改善にテーマが絞られた。選手会は〔1〕で完全ウエーバーとそれに伴うFA権取得までの期間短縮を、〔2〕で両リーグのプレーオフ導入による収益分配を提案。だが、受けて立つはずのNPB側の足並みが、いきなり乱れた」

「「ウエーバーでは読売(巨人)とオリックスの対立になっていた。選手側と経営側の争いというより、この2球団でしたね」。舞台裏を明かしたのは新規参入の楽天・井上取締役。完全ウエーバー導入に賛成なオリックス・小泉球団社長が「戦力の均衡。競争より共存」を主張したのに対し、巨人・清武球団代表は「球団としての競争」と完全否定。経営側が内紛状態に突入した」

プロ野球は、フィールドでは競争しますが、ビジネスでは協働する存在です。オーナー側が1リーグ制を望むなら、ビジネス上1リーグ制にすればいいのです。自分たちの意見をまとめられないオーナー側。これでは1リーグにしたところで上手くいくわけがありません。

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418(2005/02/05) 新潟、金沢、松山そして大阪

大阪の新球団設立構想を機に新球団設立の動きをまとめてみました。383に次ぐ新設球団の動き第2弾です。

新潟にプロ野球団設立の動き 08年4月の参入めざす(2004年10月5日朝日新聞)

「新潟に県民(プロ野球)球団を創る会」(代表・藤橋公一アルビレックス新潟後援会専務理事)が5日、新潟市で記者会見を開き、新潟を本拠とする球団を作り、08年の日本プロ野球組織(NPB=日本野球機構)参加を目指す構想を発表した。今月中にもNPBに加盟条件を確認し、球団数の増加を要望する。

構想だと、チーム名は「新潟アルビレックス」で07年4月に球団を設立し、同10月に加盟申請する。資本金は10億円。参入初年度の運営費は40億円を見込んでいる。資金は県民やスポンサーから募るという。日本一の観客動員数を誇るサッカーJ1アルビレックス新潟の経験を球団運営に生かす。

本拠は08年に建設予定の県立野球場(新潟市)を想定。ただ、県の財政難から建設が白紙撤回される可能性もある。
http://www.asahi.com/sports/bb/TKY200410050382.html
※ 前提となる県立球場なのですが、中越地震の影響はないのでしょうか。

プロ野球新球団、金沢に“カモン”ズ−−市民団体が総決起大会(2004年12月18日毎日新聞)

◇ドーム建設も呼びかけ
金沢市にドーム球場の建設、プロ野球球団の誘致を呼びかける市民団体「金沢に来まっしプロ野球の会(愛称・金沢カモンズ)」が16日、金沢市内で総決起大会を行い、約120人が参加した。【平本泰章】

あいさつに立った呼び掛け人代表の長谷川絋之弁護士は「野球はもはや日本の文化。一企業の利益追求の道具ではない。1リーグ制、球団数の縮小はもってのほか。プロ野球は現在12球団だが、16球団くらいが理想だと思う」と力説。「この地で誘致運動が活発になればなるほど、日本中が応援してくれる。ヤンキースの松井秀喜選手も、きっと大きな力になってくれるのではないか」と語り、会場を沸かせた。

スポーツジャーナリストの二宮清純さんたちのビデオメッセージや、野球解説者の江本孟紀さん、タレントの生島ヒロシさんらの祝辞が読み上げられ、元読売巨人軍オーナー秘書広報部長、坂本幸夫さんが「プロ野球を招致するための5つの条件」と題して講演した。

金沢カモンズは、金沢市に3万5000人規模の「百万石ドリームドーム(仮称)」の建設と、プロ球団の誘致・新球団設立を目指す。二宮さんたちが発起人となって設立された「野球の未来を創る会」とも連携する。19日午前10時からは金沢市香林坊の「アトリオ広場」で街頭デモンストレーションを行うほか、ホームページ(http:/kanazawa−baseball.com)を開設して署名を呼び掛ける。来春までに20万人分の署名を集めたいとしている。http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/ishikawa/news/20041218ddlk17050643000c.html
※ 結局はドーム球場ですか?

プロ野球 球団誘致へフォーラム−−松山(2004年12月20日毎日新聞)

プロ野球球団の松山市への誘致を目指す市民グループ「坊っちゃんスタジアムをプロ野球の本拠地にする会」がこのほど発足し、同市築山町の松山青少年センターで「第1回野球好きフォーラム」を開いた。

スポーツジャーナリストの二宮清純さん、元西鉄の内野手で野球解説者の豊田泰光さんらが参加し、パネルディスカッションなどを行った。二宮さんは「合併後、松山は50万都市となる。野球熱が高く、人口が50万人もいたら球団誘致は楽勝」と会場を沸かせた。

同会は市内の企業経営者ら31人で結成。今後、会員を募り、球団誘致した場合の経済効果などを話し合う。金城正信代表理事(38)は「市民が声を上げれば行政や企業が動き、可能性が広がるはずだ」と話している。問い合わせは同会(089・972・3431)。【伊藤伸之輔】http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/ehime/news/20041220ddlk38050610000c.html
※ 新潟と金沢は、球状建設が前提になりますが、松山の場合は、坊ちゃんスタジアムがあるので、有利ですが人口が問題ですね。それから四国アイランドリーグとの兼ね合いもあるね。

近畿産業信用組合「サポーター制で…」−−大阪新球団設立構想を発表 2005年2月3日毎日新聞)

大阪に市民出資によるプロ野球球団を設立する構想を進めている近畿産業信用組合(青木定雄会長)が2日会見し、計画内容を明らかにした。

計画によると、市民100万人から一口1万円の出資を募って新球団の設立か既存球団の買収を行う。また、関西の企業約70社の参加を求め、各社が選手1人ずつと契約して年俸などを負担するサポーター制度を導入。既に30社が参加の意向を示しているという。

06年度球界参入を目指し、大阪ドームを本拠地に予定。1試合平均観客数3万1200人、年間収入54億円を見込み、初年度で3700万円の黒字になるとしている。

格安料金のタクシー会社、エムケイ(本社・京都市)のオーナーでもある青木会長は「いろんな問題があるだろうが、大阪を活性化したい」と話した。また、青木会長はゼネラルマネジャー(GM)兼監督として梨田昌孝・元近鉄監督を迎える考えを示したが、梨田氏の事務所は「アドバイスで協力するという話はしたが、GMや監督就任の話は了承していない」としている。【長谷川隆広】

◇長谷川一雄・日本プロ野球組織(NPB)事務局長
詳しい内容が分からないのでコメントできない。(個人出資という形態では申請しても)受理は難しいのではないか。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20050203ddm035050018000c.html

※ サポーター制は、確か欽ちゃんのアイデアだよね。
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リンク集
2チャンネル【新潟・金沢】地方で新規参入 統一スレ【松山】http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/npb/1103532508/-100
二宮清純の「プロ野球裁判」第三回 新潟、松山にも新球団の動きhttp://mbs.jp/sports/ninomiya/archives/2004/11/oexgexgexg.html
二宮清純責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS スペシャル・コンテンツ 日本刷新会議
第4回 新潟と松山にプロ野球の球団を!<前編>http://www.ninomiyasports.com/xoops/modules/news/article.php?storyid=2974
第5回 新潟と松山にプロ野球の球団を!<後編>http://www.ninomiyasports.com/xoops/modules/news/article.php?storyid=3068

新潟県立野球場(仮称)の模型http://www2.pref.niigata.jp/niigata/webkeiji.nsf/0/49256b2c0011ba5b49256e990081a792?OpenDocument


417(2005/01/30) 「ステークホルダー型」と「株主中心型」

経済産業研究所の広瀬一郎氏は、プロスポーツの顧客としてファン、TV、企業、行政/自治体という全く別の論理によって対価を支払う4種類の顧客を上げ、売り手としての所有者/株主/事業者、(監督・選手などの)競技関係の2つあわせたこれら6つのグループをプロスポーツ産業の基本的な利害関係者(ステークホルダー)としています。
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0139.html

このように「スポーツは社会の中で関与者(ステークホルダー)が多岐に亘り、多様な利害関係を取り結んでいる。その対応のしかたが、プロスポーツ産業の帰趨を決める」とし、広瀬氏は、プロスポーツ産業には「ステークホルダー型」の経営が求められているとしています。

広瀬氏によれば、「ステークホルダー型」の経営とは、「株主中心」主義的な経営に対比して出現した概念で、簡単にいえば「全ての利害関与者に配慮して経営せよ」ということ、と説明しています。

「ステークホルダー型」経営と「株主中心型」経営の話を聞くと思い出すのが、政府の規制改革・民間開放推進会議議長である宮内義彦オリックス会長が書いた「経営論」です。

日本の資本主義を、仕入れ先や販売先、主力銀行や株主など、企業を取り巻く多くの利害関係者(ステークホルダー)に気を配るステークホルダー資本主義であるとし、株主の利益すなわち企業価値の最大化が最重視されている米国式の「株主資本主義」とは大きく異なっているとしています。

経営論を引用すると「日本企業は社会から大きな期待を寄せられてきました。企業もまた、そうした期待に応えてきました。これが日本企業の社会に対するオーバー・プレゼンスを生み出しました。個人の生活にまでオーバー・プレゼンスが浸透していることが、日本社会のなかに特異な企業社会を生む温床にもなっている」

さらに「企業のオーバー・プレゼンスは、世界でもあまり例をみないステーク・ホルダー資本主義を生み出しました。利害関係者のすべてに善かれとするステーク・ホルダー資本主義は、アメリカの株主資本主義に比べて効率がよいとはいえません。これからの日本企業は、「効率よく富を創造して社会に提供する」という株式会社本来の守備範囲に戻るべきです」としています。

宮内氏の考えは、戦後日本の企業は、「全ての利害関与者に配慮して経営せよ」というステークホルダー型の経営が求められてきたが、これが企業にとってオーバー・プレゼンスとなり、効率を悪くしている。このため「効率よく富を創造して社会に提供する」という株式会社本来の「株主中心」主義的な経営に戻るべきだというものです。

ところが、プロスポーツ産業の世界では、広瀬氏がさらに指摘しているように、「スポーツは「公共的」だと認められているため、その組織も大抵NPOのような公的な形態をとり、税制上の優遇措置を受けている。従って、ガバナンスは必然的に株主優先ではなく「ステークホルダー型」にならざるを得ないのである」。

プロ野球にとって一番の顧客であるファンと売り手側のパートナーであるはずの選手というステークホルダーを無視して進められた1リーグ化への手法は、まさに、宮内氏の経営観そのものだったわけです。そして、それがうまくいかなかったのはまた、選手会のストとそれを支持したファンという「ステークホルダー」の反対によって、オリックスの株主中心主義の企業論理が破れるという当然の帰結だということができると思います。
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416(2005/01/29) 観客動員は実数に近い数で発表へ

1月25日の実行委員会で、今シーズンから各球団が観客動員数を実数に近い数字で公表する方針が決まった、そうです。日刊スポーツの新聞記によれば次のとおり

公式戦の観客数発表については、これまで各球団で大まかな数字の発表だったが改善に着手。今までは実数発表の解釈や球団で足並みがそろってこなかった面があったが、より正確な数字を出す方向で意見がまとまった。年間シートの売れている席数に、当日に入った観客実数を合わせた数字を発表する。各球場の構造やチケットの種類が違うという側面もあるため、球団ごとに詳細を明らかにしていく。観客数発表は、従来は試合が成立した時点である5回裏終了時に行っていた。だが試合終盤に入る観客もいるため、試合終了時点、遅くても試合後に公式記録が報道陣に配られるまでに発表することになった。(日刊スポーツ)

年間予約席プラスその他の入場者数ということになるみたいです。年間予約席の幽霊入場者もカウントされるので、実(入場者)数ではなく、あくまでも実数に近い数字ということになります。タダ券の入場者もふくまれるのでしょうか。

これまで日本のプロ野球の観客動員数は、入場者実数の3割増しとか水増しで発表されており、ずさんなプロ野球経営の象徴でもありました。MLBやJリーグは、実数で発表しており、このほど福岡ソフトバンクホークスと福岡ソフトバンクマーケティングの取締役に抜擢されたあの小林至氏の著書「プロ野球ビジネスのしくみ」の中に、「あの数字でJリーグと比較にならないほど人気があると言われるのが腹立たしい」と、川淵チェアマンは顔こそ笑っていましたが、結構憤慨していたように身受けしました、とあります。

ところで、なぜメジャーでは、入場者数を一桁まで明らかにするのでしょうか。米国では、昔から入場者を一桁までカウントしていたようで、1878年には、ターンスタイルと呼ばれる計数器が導入されています。これは米国の球場でお馴染みの回転式のバーで、入場者が1人通るたびに、正確な人数を記録していきます。当時は、入場料が唯一の収入源であり、その分配は極めてシビアであったからです。

また、今では、マーケティングの観点からも、正確な入場者数を把握することは、メジャーリーグビジネスの基本でもあります。収入源は入場料だけでなく、入場者が購入する食べ物、ドリンク類、グッズの売り上げが大きくなっています。年間予約席の幽霊入場者からは、ほかの売り上げは期待できません。それに、空席の観客席は、放映権料や球場の看板広告の価格に影響がでてきます。ですから、入場者数を正確に把握するだけでなく、入場者個々の情報を把握して、マーケティングに生かしていく必要があります。

ところが、日本のプロ野球では、ほとんどの球場が賃貸し球場で入場料収入以外の収入はそれほど期待できないものになっています。また、球団は赤字になれば親会社が補填すればよく、その費用は、親会社の広告宣伝費として処理することができました。このようにシビアなビジネスが求められない状況では、入場者数といえども、前述の小林至氏の「プロ野球ビジネスのしくみ」にでてくるように「こういうのは縁起物で、相撲の満員御礼と同じ」ということになってしまいます。

デモや集会で発表される主催者発表の人数と警察発表の人数にも大きな差があります。消防法の定員数を遙かに上回るドーム球場の入場者数など、まさに、これと同じレベルですね。そもそも、日本には第二次世界大戦中の大本営発表という歴史があります。

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415(2005/01/22) 誰がための球団改革か、球界改革か

渡辺体制から内山・滝鼻体制へ(3)

滝鼻読売巨人軍オーナーと内山読売新聞グループ本社社長との密接な関係は、次の人事で読みとることができます。

2004年12月 長嶋茂雄元監督の長男でOBの長嶋一茂氏(38)を来年1月1日付で読売新聞グループ本社社長室スポーツアドバイザーと巨人の球団代表特別補佐に就任すると発表した。この日行われた球団定時取締役会で承認された。一茂氏は球界や球団が直面する問題に対して助言するほか、球団の広報活動などを行う。一茂氏は球団を通じて「来年は巨人、球界の改革元年になる。選手経験者としてフロントに率直に意見をぶつけ、球団とファンの懸け橋になれるよう頑張る」とコメントした。
KFullFlash20041214022.html へのリンク

2005年、読売巨人軍は、球団改革に乗り出します。

【巨人の今季の主な改革プラン】
 ★毎週日曜日の東京ドーム主催試合 午後5時プレーボールとする
★観客数の実数発表 主催試合の入場者数を実数に近づける
 ★ビジターユニホーム変更 胸にはYGマークのみ
 ★一茂氏復帰 球団代表特別補佐に長嶋一茂氏が就任。球団改革のシンボルに
 ★ファンサービス部発足 広報部と企画部が担当していた業務を一本化してファンサービスの充実を図る
 ★使用球の変更 国際基準を目指すため反発力の弱い「飛ばないボール」を採用
 ★東京ドームの新内野席 一、三塁側のファウルゾーンにせり出す形で通称「エキサイトシート」(228席、1席5500円)を設置。ネットを張らないため、選手の迫力あるプレーを間近で体感できる
 ★アマとの交流戦 二軍が今季、日本野球連盟に加盟する企業・クラブチームを対象に挑戦者を公募。2月上旬に公募を開始し、5月〜8月まで最大10試合を行う予定
 ★宮崎キャンプ (1)メーン球場「サンマリンスタジアム」と屋内練習場などを巡回バスが運行(2)練習メニューの事前告知(3)新ブルペンを造り、約170席分の観客席も設置
bt2005011803.html へのリンク

渡辺体制の象徴となったビジターユニホームの「YOMIURI」は、わずか3シーズンで姿を消すことになりました。渡辺氏は、読売巨人軍オーナーを退いても読売新聞グループ本社会長兼主筆であり、完全に失脚したわけではありません。しかし、読売巨人軍への影響力は現在ほとんどないとみていいでしょう。

渡辺氏のオーナー辞任で、一場投手への栄養費問題は、あくまでも、きっかけにすぎませんでした。ところが、栄養費問題でオーナーが責任をとって辞任するという前例を作ったため、その後、明らかになった栄養費授与の問題で、横浜の砂原オーナーと阪神の久万オーナーも辞任するというオマケまでついてしまいました。

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414(2005/01/22) 実にあっけない辞任だった。

渡辺体制から内山・滝鼻体制へ(2)

2003年6月 渡辺オーナーはこの日、都内で堀川球団社長と会食。その後、「1年以内にオーナーを辞めて、堀川をオーナーにする。オレが手を引くために、(読売新聞東京本社の)副社長兼編集主幹を解いて、巨人の専任にしたんだ」と自らオーナー職を退く意向を表明した。それだけに勇退後も球団取締役にはとどまり、“実質オーナー”として影響力を維持するとみられる。bt2003061003.html へのリンク


2004年1月 しかし、その後、堀川会長の体調問題もあり、後任に内山氏を指名した経緯があった。氏家会長はその点も踏まえて「堀川君を育てていたが、体を壊したからね。内山君がなるんじゃないか」とオーナー交代の背景を説明した。今月9日には読売新聞グループ本社などの臨時株主総会が行われ、渡辺オーナーのグループ本社社長から会長への就任、内山氏のグループ本社取締役統括から社長就任の人事も発表済み。
113354.shtml へのリンク

2004年8月 プロ野球の巨人が13日、取締役会で渡辺恒雄オーナーの退任を発表した。後任には、読売新聞東京本社代表取締役社長の滝鼻卓雄氏が就任する。また土井誠球団社長、三山秀昭代表ら球団幹部4人の解任を決定した。巨人の発表によると、渡辺氏の退任理由は、スカウト活動にルール違反があったため道義的責任を取ったとしている。今後、プロ野球界の組織内に発言することはなく、9月に予定されているオーナー会議には、新任の滝鼻氏が出席する。
20040813-00000026-spnavi-spo.html へのリンク

辞める理由となった、明大一場投手への栄養費問題でしたが、その背景には、右翼からの脅しがあったことは、既に明らかになっています。ところが、渡辺氏のオーナー辞任の真相は、スポーツジャーナリストの永谷脩氏の「誰がプロ野球を殺したのか」(祥伝社)によると、

「そんな生易しい処理では駄目だ。だから政治部は甘いんだ」と猛反発したのが、社会部出身の滝鼻卓雄たちの一派だった。「これには右翼が絡んでいる。キチンと説明して処理すべきだ。そうでないと、のちのち大変やっかいなことになる」

この一言が渡辺の気持ちを動かしたのではないだろうか。事件が起きたときには事件屋に任した方がいいのではないかと。そして、政治部出身の幹部は全員が解任、球団オーナーに滝鼻卓雄、球団社長に桃井恒和、球団代表に清武英利と社会部出身の人間が取って代わった。渡辺は側近に「これで政治部は衰える。社会正義を御旗に社会部で戦ってくれ」と言って、滝鼻に託したという。

実は、これは渡辺を利用した読売新聞社内のクーデターであるとも言われている。渡辺の横暴、独断専行に辟易していた読者が反旗をひるがえそうとする前に、庶民に近い社会部が一気に攻勢をかけたのが事実ではなかったのか。渡辺辞任の意向を受けて、急速な動きで次の体制作りが進んでいった。そのとき滝鼻新オーナーが相談したのは、渡辺ではなく、読売新聞グループ本社社長の内山斉だった。

「オレが出て記者会見をしようか」という渡辺の言葉を遮るように、「いえ、滝鼻の口から発表されますから」と内山が言ったために、渡辺は辞任会見に出なかったのだという。実にあっけない辞任だった。以上
永谷脩氏の「誰がプロ野球を殺したのか」(祥伝社)から
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413(2005/01/22) 運命の皮肉

渡辺体制から内山・滝鼻体制へ(1)

今シーズンから読売ジャイアンツのビジター用のユニホームから「YOMIURI」の文字が消えることになりました。あれほど、「TOKYO」から「YOMIURI」に変えたとき大騒ぎしたのは何だったのでしょうか。

2002年5月 朝日新聞の記者に答えて堀川球団社長(当時)は「巨人の前身は大日本野球倶楽部。日本は企業野球が出発になっている。しかも巨人は東京だけじゃなく、全国にファンがいる。新会社にあたり、東京を取って読売にすることにした。」

※ 「大日本野球倶楽部」は、誤りで、正確には「大日本東京野球倶楽部」です。球団名には「東京」が入っていました。自分の球団の歴史も知らない人が球団社長をしていたんですね。

1998年1月の持株会社の解禁、2000年3月の連結企業会計の導入により、2002年7月読売新聞社グループでも、持ち株会社制への移行が行われました。これまで株式会社「よみうり」の一事業部に過ぎなかった東京読売巨人軍は独立し、読売新聞グループ本社の100%子会社「読売巨人軍」となりました。このとき、東京の二文字が消えたことに対する球団社長のコメントが上記のものでした。社名から東京が消えたことにあわせ、ビジターユニホームからも「TOKYO」が消え、「YOMIURI」に変更されました。

ビジター用ユニホームの胸マークを「YOMIURI」に変更させたのは、他球団が親会社の企業名で呼ばれているのに、読売巨人軍だけは「巨人」と呼ばれていることに日頃から不満を持っていた読売新聞グループ本社初代社長となった渡辺恒夫オーナーが、ユニホームぐらいはということで強権発動したと言われています。

この変更を巡っては、一部のファンが観客席で「オレたちは読売ファンじゃない!巨人ファン!」とう横断幕を掲げ抗議したのに対し、「あの横断幕は、純粋なファンが出しものではない。右翼だ。バックに暴力団がついている」と読売新聞社の有名な社長兼主筆がコメントしたことが日刊ゲンダイの記事として「野球型VSサッカー型」(林信吾、葛岡智恭著 平凡社新書)の中で紹介されています。もちろん社長兼主筆は、渡辺氏です。

「右翼」といって巨人ファンを非難した渡辺氏が、数年後本物の右翼によって、球団オーナーの地位を退くことになるとはまさに運命の皮肉といっていいでしょう。
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412(2005/01/18) オーナーの集合体からリーグ・ブランドへ

フランチャイザー(リーグ)とフランチャイジー(球団) の関係は、フランチャイジーである球団の力よりも、フランチャイザーであるリーグの力が強くなる集権化の傾向にあります。MLBやNPBといった老舗のプロ・リーグは、球団の力が強く分権的です。 逆に、新興のNFLやJリーグはリーグの力が強く集権的です。これは、近年スポーツのプロ化が進み、リーグ間競争が激しくなってきたこととメディアへの対応によるものと思われます。

米国でも日本でも、長い間、野球は、プロリーグスポーツの市場を独占していました。各球団のファンを増やせば全体の反映につながるという前提に長い間立っていました。ところが、リー グ間競争だけでなく、ディズニーランドなど他のエンターテイメントとの争いも激しくなっていく近年では、リーグ全体でのブランドの確立による差別化戦略が重要になってきます

NFLは、昔、MLBにまったく歯が立たず、カレッジ・フットボールにさえ後塵を拝していました。このため、個々のチームにおけるプロモーションを重視しながら、むしろ、リーグ全体の価値を高めるために、NFLというブランドの確立を目指してきました。その先頭に立ったのがコミッショナーです。

1960年、NFLコミッショナーとなったピート・ロゼールは、63年NFLプロパティーズという会社を設立し、NFLのライセンス事業を統一します。66年にはライバルとなったAFLとの合併をすすめ、複数のメディアを競合させながら高額の放映権料を獲得していきました。また、映画会社を買収してつくったNFLフィルムズで、映像権の一括管理を行い、NFLブランドを確立・発展させていきました。

NFLは、ロゼール・コミッショナーのもと、従来のオーナーの集合体であった組織から、球団を代表するオーナーとNFL全体を代表するコミッショナーという役割分担が確立していきます。現在のNFLのコミッショナー、ポール・タグリアブーは、弁護士として20年間、NFLの法務案件を処理してきた実績を買われて89年からコミッショナーに就任しています。

これに対し、MLBのセリグ・コミッショナーは、ミルウォーキー・ブリュワーズの元オーナーです。92年にオーナー側と対立し最後は辞任要求を突きつけられて辞めて行ったフェイ・ビンセント前コミッショナーの後、98年の自身のコミッショナー就任までの間、アレン・セリグは、ブリュワーズ・オーナーとオーナー会議の執行評議会(エグゼクティブ・カウンシル)議長(コミッショナー代行)の二役を務めていました。MLBは、オーナーの集合体としての性格をまだ根強いことを示しています。

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411(2005/01/15) 「若干似ているとしたらフランチャイズチェーンだ」

現オリックス・バファローズ・オーナーで規制改革・民間開放推進会議議長の宮内義彦オリックス会長曰く「プロ野球は珍しいビジネスモデルだと思う。一つ一つ違う企業がリーグを構成し、全体としての総合的な利益を図らないと成り立たない。若干似ているとしたらフランチャイズチェーンだ」

プロ野球協約上、球団は資本金1億円以上の株式会社とされています。ところがこの企業、単独では、プロ野球の商品を生産できません。プロ野球の商品といえば、試合ですが、この商品(試合)は、一つの企業(球団)だけでは、生産(興行)することはできず、二つの企業(球団)が共同生産(対戦)して初めて生み出される、という極めて珍しい特質を持っています。さらに、この商品(試合)は、一つだけでは価値が低いため、いくつかの企業(球団)が集まって、共同生産(リーグ戦)することによって、商品にリーグ戦という付加価値をつけています。このように、まさに「プロ野球は珍しいビジネスモデル」であり、ナベツネ的弱肉強食モデルとは異なるものです。

ビジネスという点であれば、何も球団が一つ一つ違う企業である必要はありません。企業は一つでも、チームが複数あれば済むからです。そうすれば、一つの企業(球団)で、試合という商品、だけでなく、リーグ戦をも生産(興行)することができます。
ところが、これではスポーツとしてアウトです。同じ企業内のチーム同士が試合を行うというのは、紅白戦みたいなもので、真剣みに欠けます。また、シナリオがないはずの試合に八百長の胡散臭さが出てきてしまいます。つまり、本来のスポーツとしての魅力を失うことになり、スポーツ産業としての体をなしません。このためプロ野球では、球団は個々に独立した株式会社で、2球団以上にわたる役職員・選手の兼業の禁止や他球団の株式所有を禁止しているのです。

プロ野球における各球団は、スポーツとしてはライバルですが、ビジネスとしてはパートナーという関係にあります。このスポーツ・ビジネスというプロ野球の二面性を理解する考え方がフランチャイズ・チェーンです。プロ野球は、リーグ(機構)という本部があって、そこに個々の球団が加盟店として参加します。プロ野球産業というのは、フランチャイズ・チェーンに似ているのではなく、フランチャイズ・チェーンとして理解した方がいいと思います。実際、プロ野球協約もそういった構成をしています。

プロ野球を、フランチャイズ・チェーンとした場合、リーグ(機構)を一つの株式会社として、各球団を独立事業部とする構成も可能です。その例としては、台湾のケーブルテレビ会社が作った台湾大連盟があり、元オリックス・ブルーウェーブ監督の石毛宏典氏が代表を務める株式会社IBLJの四国独立リーグもこの形態をとっています。

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410(2004/12/31) 選手年俸は安いのか高いのか ニュース4題

その1 孫オーナー「年俸安すぎる」…06年までに“世界5位へ”(26日報知)
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/baseball/dec/o20041226_10.htm

ホークス年俸総額100億円に引き上げ

ダイエーを買収したソフトバンクの
孫正義オーナー(47)が26日、2006年以降に選手年俸の総額を100億円に引き上げる意向を示した。豪華軍団化でスター流出に歯止めをかけ、メジャーに対抗していきたい考えだ。また、この日、王貞治GM兼監督(64)とともにテレビ朝日系「サンデープロジェクト」に生出演し、さまざまな球界改革案も披露した。

12球団NO1の年俸総額を誇る巨人の2倍近い資金を注ぐドリーム軍団。この日、全国放送の生番組で「世界一のチーム」を目指すと公言した孫オーナーが番組出演後、でっかい計画を明かした。年俸総額を100億円にまで高騰させるのだ。

縮小均衡に進路をとり始めた球界に、孫オーナーが真っ向から挑戦状を叩きつけた。
「年俸が安すぎる。メジャーの上の方は、100億円のチームもある。日本は20から30億円ぐらいでしょ。国力からいっても、向こうのトップとサシで十分に戦える力を持っていてもおかしくない」来年にはグループの連結売り上げが1兆円を超えるIT企業の旗手が、堂々の拡大路線を宣言した。

日米の年俸ギャップをなくせば、相次ぐスター流出にも歯止めをかけられると考えている。
「日本の優れた選手がメジャーに行ってしまって、総2軍化になっている。ある程度、出ていくのは仕方がないが、向こうからもトッププレーヤーを連れてきて、お互いが意地を張ってガンガンやればいい」と米球界にも果たし状を叩きつけてみせた。

その2 三木谷オーナー、孫マネーにダメ出し(30日報知)
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/baseball/dec/o20041230_10.htm

「ものすごい赤字を出したら意味がない」

楽天・三木谷浩史オーナー(39)が30日、ソフトバンク・孫正義オーナー(47)にかみついた。三木谷オーナーはテレビ朝日系「スーパーモーニング・年末スペシャル」に今年の主役として田尾安志監督(50)とともに、生出演した。

50年ぶりのプロ野球新規参入を上機嫌で振り返った三木谷オーナーだが、話題がソフトバンク・孫オーナーの世界戦略に移ると表情が険しくなった。孫オーナーが日米ワールドシリーズを提唱し「年俸を下げたらメジャーとワールドシリーズを戦えない」と潤沢な資金をどんどん投入する方針を示していることについて、反論した。

「費用をかけても、ものすごい赤字を出したら意味がない」とぴしゃり。そもそも今年の球界再編は年俸高騰によるばく大な赤字が原因でオリックスと近鉄が統合を余儀なくされた。資金があるからといって、赤字を容認するのではなく「ビジネスとして成功するように示すために何でもやる」と10万円ファンクラブや年間シートのオークションを引き合いに出し、黒字化による国内活性化を訴えた。

現時点で更改した選手の総年俸がリーグ最高の27億9000万円のソフトバンクに対して、楽天はパ・リーグ最少の17億7000万円と切りつめている。そもそもゼロから球団を立ち上げた楽天に対して、強大チームを買収したソフトバンクでは感覚が違う。
「お金を持っていない地方都市でも野球ができるというころを証明したい」と言う三木谷オーナー。将来的には世界制覇の野望を持つが、まずは足元を見よ、との警鐘を鳴らして、今年の仕事納めとした。

その3 巨人:サラリーキャップ制導入 年俸総額1割削減(24日スポニチ)
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/sponichi/news/20041224spn00m050010000c.html

巨人が“サラリーキャップ制”を導入していることが23日分かった。今年の総年俸(外国人を除く)は、2位横浜の約28億円を大きく上回る約40億円。だが、
球界再編を招いた年俸高騰による球団経営の圧迫は巨人でも例外ではなく、来季は総年俸を1割カットの36億円に設定。NBAやNFLのように総年俸の上限を定める制度を導入した。

「(お金を)出せば批判を受ける。合理的にならざるを得ない。今までは出しているかもしれないけどね。査定の理屈が通らないものは出さない」と清武球団代表。ここまで57人(新人含む)が更改し、総年俸は約24億円。桑田の6800万円減など大幅ダウン者が続出している。24日に交渉を行う清原も4年契約の最終年だが、本人の了承があれば変動できる契約のため、1億円ダウンの3億5000万円を提示するもようだ。同じくイブ更改に臨む高橋由も3割、30本をマークしたが、3000万円増の3億3000万円にとどまりそうだ。

≪上原は「知らない」≫川崎市のジャイアンツ球場で練習した上原は、球団が総年俸を1割カットすることに「そんな情報は知らないです」と寝耳に水の様子。同じ年俸3億円の高橋由の契約更改交渉を判断基準に置いており「由伸が上がれば周りにもいい影響があるし、チームにとってもいいこと」と3500万円増からのアップへの要求材料にするつもりだ。また、来年の自主トレをファンサービスのため、ジャイアンツ球場で継続していくことも明かした。

その4 ヤンキースぜいたく税88億
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/major/dec/o20041228_10.htm
年俸212億→課徴金26億+供出金62億

ヤンキースが今季、総額88億円もの“ぜいたく税”を大リーグ機構に支払うことが28日、AP通信の調べで明らかになった。大リーグ機構は、年俸総額が規定額を超えた時の「課徴金」を徴収。さらに「収入分配制度」で裕福な球団から税金をとって、貧しい球団に分配するシステムを昨年から導入しており、ヤ軍は巨人の総年俸をはるかに上回る高額の“税金”を納めることになる。

この日、発表されたのは04年の「課徴金」で今季の年俸総額が2億390万ドル(約212億円=これには選手の保険や旅費など経費含む)だったヤンキースは超過額の30%に当たる2502万6352ドル(約26億円)にのぼった。また、ヤ軍とともに大型補強を敢行したレッドソックスは315万5234ドル(3億3000万円)、エンゼルスも92万7059ドル(9570万円)の課徴金を支払い、3球団が対象となった。支払い期限は1月31日で、大リーグ機構を通じて総年俸の低い球団に割り振られることになっている。

またAP通信の試算によると「収入分配制度」でも今季の総収入が推定3億1500万ドル(約328億円)となるヤンキースは約6000万ドル(62億4000万円)もの“供出金”を納めるとしており、トータル88億4000万円を機構に納めることになるという。

ヤンキースは今季もA・ロドリゲス内野手やブラウン投手らの平均年俸1500万ドル(15億6千万円)を超える高額選手を獲得。一方で本拠地ヤンキー・スタジアムに球団新記録となる377万5292人の観客動員をマーク。金も使うが人気も抜群。メジャー30球団を背負っているといっても過言ではなさそうだ。

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409(2004/12/27) スポーツキャスターとタレントと女子野球日本代表監督とアカデミーリーグ

アカデミーリーグ(仮称)

「アカデミーリーグ」は、学校法人がNPO法人格を持つクラブチームを設立し、地方自治体との共同運営を目指すという「地域に根ざすクラブチーム」が加入対象で、都市対抗野球やクラブ選手権出場などを目指すかたわら、独自のリーグを運営する。同リーグの母体となる「日本ベースボール・セキュリティー専門学校」を経営するタイケン学園・柴岡三千夫理事長(54)が壮大な計画を明らかにした。アカデミーリーグは06年は8〜12チームで40試合程度を予定。秋にはカップ戦を行う。さらに将来的には47都道府県にそれぞれ1チームを置きたい意向で「東リーグ、西リーグのような形で行えれば」と柴岡理事長。以上、報知新聞から。
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/baseball/dec/o20041221_100.htm
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/baseball/dec/o20041225_20.htm
このアカデミーリーグには、ウェルネス魚沼、欽ちゃん球団が参加予定。さらに、広瀬氏のチームも。目標は、打倒、野村シダックス。なお、「日本ベースボール・セキュリティー専門学校」についてはネットに次のような記事がありました。http://ww5.et.tiki.ne.jp/~ooya/gikai0306.htm

ウエルネス魚沼が発足、青島健太氏が監督

スポーツキャスターで元ヤクルトの青島健太氏(46)が監督を務める新潟県魚沼市の社会人野球チーム「ウエルネス魚沼」の発足会見が25日、同市内で行われた。学校法人「タイケン学園」(東京都板橋区)が、オーストラリアから代表選手クラス20人などを集めて発足させ、都市対抗出場を目指す。オーストラリアはアテネ五輪で日本を破り準優勝している。会見で、同県出身の青島氏は「社会人野球は今後、もっと国際化していい。非常にハイレベルのチームになった。東京ドームを目指したい」と語った。青島氏は、社会人野球の東芝時代にオーストラリアに遠征し、プロ野球引退後には現地の公立高校で日本語教師をした経験があり、同国野球連盟の協力を得てチーム結成が実現した。選手は同市内を拠点に練習し、社会人野球の各大会に出場。冬は帰国する。以上、毎日新聞から。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/news/20041226k0000m050034000c.html

欽ちゃんチーム名「ゴールデンゴールズ」

話題性ばかりが先行しがちな、タレント萩本欽一(63)が設立するクラブチームだが、着々と構想は進んでいる。1月上旬のトライアウトで約25人を採用。2月にキャンプを行い、春先にはシダックスとのオープン戦も計画されている。チーム名も、本拠地となる地域名の下に「ゴールデンゴールズ」という愛称を入れることを検討中。萩本氏は「『欽(金)の中の欽(金)』という意味。略してGG。ジジイじゃないからね」と笑顔で話した。またユニホームの上から着用するジャンパーをマントにするプランもあるという。「格好いいでしょ。鹿取ヘッドコーチによるとマントって案外暖かいみたいね」。奇想天外な発想でヒット番組を作ってきた欽ちゃんが、野球界でも斬新なアイデアで勝負する。女優オーナー、チーム編成など新機軸の「サプライズチーム」が球界を活性化させる。以上、日刊スポーツから。
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/amateur/p-bb-tp5-041226-0011.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041222-00000037-sph-spo

広瀬氏も独立リーグへ、市原で総監督


06年設立を目指す独立リーグ「アカデミーリーグ」(仮称)に、元日本ハムの広瀬哲朗氏(43)が総監督を務めるクラブチームが参入することが23日、分かった。市原リトルシニアのオーナー加藤和昭氏(51)が監督、元巨人の河野博文氏(42)が投手コーチを務める。年明けから千葉・市原市で本格始動する。女子野球の日本代表監督も務める広瀬氏は「アマが活性化すればプロもレベルアップするし、少しでもお力になれれば」と底辺拡大への抱負を語った。親交のあった加藤氏からの要請で総監督就任が実現。チーム編成から選手育成まで携わる。来春、日本野球連盟に加盟し、社会人野球の各種大会と2年後の独立リーグに参戦する。同リーグにはタレントの萩本欽一、青島健太氏が監督を務める球団も加入する。「欽ちゃんには負けたくない」とアマ球界活性化の一翼を担う。以上、日刊スポーツから。
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/amateur/p-bb-tp5-041224-0003.html

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408(2004/12/25) 福岡ソフトバンクホークス

毎日新聞 2004年12月25日 東京朝刊からニュースから

福岡ソフトバンクホークス、オーナー会議・譲渡承認
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20041225ddm035050015000c.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20041225ddm035050007000c.html

新チーム名は「福岡ソフトバンクホークス」−−。24日に開催されたプロ野球のオーナー会議で、ダイエーからソフトバンクへの球団譲渡が正式に承認された。ソフトバンクが球団運営会社「福岡ソフトバンクホークス株式会社」と、入場券や放映権などの興行権を扱う「福岡ソフトバンクホークスマーケティング」の子会社2社を設立することに、多少の議論があった。


出席したオーナーから「球団運営会社ではなく、別の子会社が興行権を握るのはどうか」「資金の移転はどうなる」「将来的にもソフトバンクの100%子会社であり続けるのか」などの疑問や意見が出た。しかし、ソフトバンクとの球団譲渡契約に、子会社2社も野球協約の支配下にあることを明記するよう注文を付け、全員が承認した。

孫社長新球団名については「いろいろ思い悩んだ。社名や『ホークス』の名を変えることまで考えた。意見交換し、最後に一番オーソドックスな名に収まった」と苦慮したことを明かし、「変えてほしくないという地元、ファンの強い思いを真正面から受け止めた」と述べた。

◇根来泰周コミッショナー

(球界再編に関し)一部報道で反省しろと言われたが、私としては何ら反省することはないと思う。ただ、今までになかった事態となり、(球界関係者が)目先の判断だけで遠くが見えなくなり、右往左往したという反省がある。情報開示や説得をもっとやった方がよかった。

以上、毎日新聞から

ソフトバンクは、ダイエー本社から(株)福岡ダイエーホークスの株式譲渡を受け、福岡ソフトバンクホークス(株)に社名変更し、球団呼称(球団名)を福岡ソフトバンクホークスとします。また、ソフトバンクが新たに設立する100%子会社の福岡ソフトバンクホークスマーケティングは、福岡ダイエーホークスがコロニーキャピタルの子会社であるホークスタウンに営業譲渡していた興行権のほか、福岡ドームの年間使用権を、ホークスタウンから150億円で営業譲渡を受ける。

球団の興行権をソフトバンクの100%子会社とはいえ、球団とは別の会社が保有するという形態は、ダイエー本社が福岡ドーム外資のコロニーキャピタルに売却する前の、福岡ダイエーホークスと(株)福岡ドームとの関係と同じです。ホークスは興行権を福岡ドームに営業譲渡しており、ダイエー本社が福岡ドームをコロニー社に売却後も、この関係が継承されました。(株)福岡ドームがホークスの興行権を保有していたときは、ドームも球団もダイエーのグループ企業でした。

ところが、ドームが外資に買収されると、ドームと球団には資本関係は全くなくなり、実質的な経営権はどこにあるのか、NPBの影響力はどこまで及ぶのかという問題や疑問が発生しました。ただ、オーナー連中も、この問題をあまり追求するとカイシャフランチャイズという自分たちの体制にまで問題が及ぶという懸念ということに気づいて、途中で矛を収めたのでしょうか。

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407(2004/12/23) トレードマネーで稼ぐよ、金貸しオリックス

岩隈投手のトレードマネーは2億円程度ということです。これがリーズナブルかは分かりませんが、オリックスはプロテクト枠を一つ失った代わりに2億円のトレードマネーを獲得することになります。さすが、和製ハゲタカ企業です。政府の規制改革・民間開放推進会議議長からは、この際だからもっと高く売れという指令がでるかもしれません。
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-041223-0017.html

次は、ノリのポスティングで稼ぐことになります。中村ノリは、2002年メッツとの契約破棄後近鉄と4年間の複数年契約を結んでおり、この契約はプロテクトした、オリックス・バファローズにも引き継がれています。この契約の中にはポスティングを利用したメジャー挑戦権も含まれており、このため、ノリのポスティングに同意せざる得なかったようです。ところで、ノリは今、オリックス・バファローズの選手ですから、ポスティングによる移籍金は、オリックスが手に入れることになります。これまで、2年間で10億円の年俸を支払ってきた近鉄ではなく、ノリに一銭も報酬を支払っていないオリックスが、大金を手に入れることになります。

オリックスといえば、イチローをポスティングで売ったことで有名ですが、そのときの10数億円の移籍金は、球団のオリックス・ブルーウェーブではなく、親会社のオリックスが懐に入れたという話です。今回も、球団ではなく、オリックスが持っていってしまうかも知れませんね。これぞ、和製ハゲタカ企業の面目如実と言ったところです。ところで、大阪近鉄バファローズをFAとなり、ホークスへの移籍が決まっている大村選手のFA補填金はどうなるのでしょうか。

※後日談(2004/12/31)
12月29日の日刊スポーツによれば、消滅した近鉄球団の足高代表がノリのポスティングの手続きをする云々と書かれていましたが、どうなっているのでしょうか?NPBの発表によれば、11月17日付けで中村ノリは岩隈と一緒にオリックス・ブルーウェーブにトレードになっています。ちょっと、調べると、12月20日の大阪日刊で、「近鉄の消滅で現在の所属はオリックスだが、オリックス・バファローズの中村GMは、近鉄さんが窓口になるでしょう」と答えています。

確かに、ノリの保有権は、現在、オリックス・バファローズにあり、近鉄球団は消滅して存在しません。また、日米間選手契約に関する協定では、「日本球団がポスティングする」とされており、11月30日に消滅した近鉄球団は、ポスティングをすることはできません。同協定によれば、ポスティングによる移籍金は、保有権を放棄する日本の球団への対価として米国メジャー球団から支払われるものですから、ノリの移籍金は、もちろん、オリックス・バファローズが受け取ることになるはずです。ですから、「近鉄」球団が「窓口になる」というのはおかしな話だと思うのですが。

一方、FAでホークスに移籍した旧近鉄の大村外野手の見返りについては、中村GMは、補償金ではなく、人的補償を求めることを29日明らかにしています。サンスポによれば、「大村は近鉄で権利を行使したが、球団統合に伴って補償問題の権利がオリックス側に移行」したとされています。プロテクトした岩隈投手と中村ノリ内野手を失い合併のメリットを失いつつあるオリックス・バファローズは、「戦力強化」に結びつけるため、ホークスからFAの人的補償を求める方針のようです。

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406(2004/12/22) 岩隈は、楽天に金銭トレード「高いよ、高いよ」

12月22日岩隈投手の楽天への金銭トレードが決まりました。

「新球団(オリックス)発足には、前向きなチーム作りをして多くのファンに門出を祝っていただくのが重要」(オリックス会長で政府の規制改革・民間開放推進会議議長を務める宮内オリックス・バファローズ・オーナーのコメント)

「岩隈投手を説得できず、彼の意思を尊重した。球界や本人の将来を考慮して、超法規的な判断をした」
(オリックス・バファローズ小泉球団社長)

本来なら球団は合併しても被合併球団の選手はプロ野球協約33条と57条によりパ・リーグの一時保有となり、新規参入球団に譲渡されるべきところ超法規的措置で25人のプロテクトを他球団から認めてもらったオリックス・バファローズの小泉球団社長は、その超法規的措置にストライキを背景として反対していたプロ野球選手会と「選手の意志の尊重」という超法規的措置を約束しました。

ところが、小泉球団社長は、プロテクト前に、岩隈投手の同意が得られなかったため、超法規的措置(このとき、選手会と「残留を説得できなければ楽天に金銭トレード」という超法規的な約束をしたという)で岩隈投手をプロテクトして保有選手としました。ところが、小泉球団社長による岩隈投手に対する超法規的な説得や小池パ・リーグ会長の超法規的な要望は実らず、結局、超法規的措置による東北楽天ゴールデンイーグルスへの金銭トレードとなったわけです。

選手の意志の尊重というのは曖昧なもので小泉社長は、岩隈投手を丸め込めると考えていたようですが、世論や他球団の支援もなく孤立状態に陥ってしまい、最後は「多くのファン」を裏切り、新規参入に最後まで反対していた政府の規制改革・民間開放推進会議議長の「多くのファンに門出を祝っていただくのが重要」というコメントで決着しました。他球団にすればこれ以上オリックスにかき回されるのはごめん被りたいということでしょう。


※後日談(2004/12/31)
口頭による合意と書きましたが、選手会側は議事録には載ってるといしています。また、ネットの掲示板の情報によれば、関係者に合意文書の写しが出回っていたという話やその合意文書のため、オリックス側の弁護士にも、裁判になれば、オリックス側が選手会側に負けると言われ、最終的に金銭トレードになったとしています。

http://jbbs.livedoor.jp/sports/15863/#4

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405(2004/12/21) 興行権はホークスではなく別の子会社へ

2004年11月30日ソフトバンクは、福岡ダイエーホークスの買収と福岡ドーム関連事業の営業譲渡を取締役会で決定しました。
http://release.nikkei.co.jp/print.cfm?relID=87717
http://www.softbank.co.jp/news/newsrelease/2004release/041130_0001.html

プレス発表によれば、ソフトバンクは、50億円でダイエー本社からホークスの98%の株式を取得するとともに、ホークスが福岡ドームの保有会社ホークスタウンに委託していた「入場券・物品販売等に関する契約」を含む野球興行権に加え、広告看板事業等の福岡ドームの営業(コンサートや、イベント開催などを含む。)を、営業譲渡の形式により、150億円でホークスタウンからソフトバンクの100%子会社に移管するということです。これにより、入場券や野球グッズの販売事業のみならず、福岡ドーム内の広告看板事業や、物販、野球試合の放映権事業なども全てソフトバンク・グループで行われることになります。

これをみると従来からNPBで多くみられる親会社への箱売りと変わらないみたいですが、ソフトバンクの100%子会社が球場と球団の一体的経営を行うことになります。

12月20日の実行委員会では、正式な承認は、新球団名や球団形態が発表されていないため、24日のオーナー会議に持ち越されています。球団名には、福岡とホークスを残し、間にソフトバンクかヤフー、日本テレコムのいずれかの名称を挟みたいとのこと。

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404(2004/12/18) 追い風と強い要望でも「オリックスではできません」

「岩隈の問題が解決するまで判は押しません。球団と彼のためにも早期決着してほしいから」(12月9日オリックス・バファローズ川越英隆選手会長(31)、神戸市内の球団事務所で)

「少しずつ風が変わり始めたかな。追い風? そうとらえてもらって構わないと思う」
(12月10日オリックス・バファローズの仰木彬監督(69)、アナハイムで行われている米大リーグ、ウインターミーティングの会場で)

「(9月)23日にスト回避の妥結したのは(オリックス球団社長の)小泉さんから選手の意向を聞くという条件があったからです。(近鉄最後の選手会長としては)いざとなれば出ていきます」
(12月11日楽天礒部、名古屋市内で行われた現役プロ野球選手によるシンポジウム「夢の向こうにin愛知」に出席し)

「岩隈君はパ・リーグを代表する投手。今のままでいったら平行線。身分的立場はオリックスに(野球協約上)保有権がある。1年間オリックスで頑張り、1年たったあと、本人の意思を尊重してトレードなり何なり話し合う。年内解決が一番いい」
(12月14日パ・リーグの小池唯夫会長(72)、東京・銀座の連盟事務所で行われたパ・リーグ理事会で強い要望)

「会長に私見はないはず。公職なんだから。ビジネスの世界なら許されませんよ」「野球界は不透明なことが多すぎる。今回のことも含めてこれまでと一緒じゃないですか。あきれて開いた口がふさがらない」
(12月16日楽天の三木谷浩史オーナー(39)東京・六本木の本社で同オーナーは小池パ・リーグ会長の「強い要望」について)

「(合併が決まり)この6カ月間野球をやってきてつらかった。オリックスではできませんと伝えた。僕の方の最後の結論」
(12月17日岩隈、大阪市内で記者会見し)

「オリックス側としては考えを曲げることはない。何度でも会いたいし、引き続き説得したい。期限は設けない」
(同日、岩隈に再度残留を要請した小泉社長は、ヤフーBBスタジアム内で記者会見し)

以上、日刊スポーツから

岩隈に逃げられると宮内に無能のレッテルを貼られ、人事異動という左遷が待っているので永久に「説得」続けるしかない小泉オリックス・バファローズ球団社長でした。

おまけ
「あんた(根来コミッショナー)、まだコミッショナーをやってんですか(斬り)」とはオリックスと合併した近鉄の田代(まさしではない)和前オーナーと小林哲也前球団社長らが12月17日、東京都内のコミッショナー事務局などを訪れ、球界から退くあいさつを行ったとき、9月の労使交渉のヤマ場で、姿を隠し忍者ハットリくんと言われ、その後辞任を表明しながら居座っている根来コミッショナー(本当は伊賀忍者じゃなくて、悪の軍団根来忍者の末裔?)に対し、言わなかったとか。

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403(2004/12/05) 馬鹿の壁

えーと、オリックスとは、馬や鹿ではなく、ウシ科の動物であります。
http://www.petpet.ne.jp/fresheye_new/mame/detail.asp?id=161&page=16
と訳の分からない書き出しから、

小泉 岩隈は絶対、楽天にやんない。岩隈が残らなかった、合併した意味がないじゃんか。だから、絶対イヤだよー。

古田 小泉さん、選手と面談して、希望を尊重するっていてじゃないですか。

小泉 できる限り柔軟に選手と面談しながら決めていきたいといっただけじゃ。何回も面談して、話は聞いてあげた。話は聞くけど、希望通りにするとは言ってない。

古田 営業譲渡の場合は選手に所属先の選択権がある。

小泉 譲渡じゃない。近鉄からのトレードだよ。選手としての権利、契約の義務を守ってほしい。それが社会人としての常識というもんだ。

解説 

選手会の山崎卓也弁護士が営業譲渡の場合、「契約の当事者が変わることに対し(岩隈の)同意が必要。これは民法、労働法にある」との見解を示した、これに対し、オリックス側は、「選手はトレードに応じると書いてある統一契約書にサインしている。私は彼を近鉄からのトレードでもらっている。営業譲渡でもらったのではない」と反論している。

確かに今回のプロテクトした25人の選手は、近鉄球団からのトレードです。今回の合併は、合併ではなく、オリックス球団に近鉄球団が営業譲渡するという形で行われています。オリックスでは、営業譲渡だから契約権まで譲渡できなので、トレードにしたとのこと。

それでは、日本ハムが北海道に移転したとき、日本ハム(株)を清算会社にして、(株)北海道日本ハムファイターズに営業譲渡する形をとっているけど、このときも、選手はトレードで新会社に移ったのでしょうか?でも、そんなことはないですね、日本ハムから日本ハムへのトレードなんておかしいですよね。
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/1657.html

労使交渉での小泉オリックス球団社長と古田選手会長との合意は、口頭による玉虫色の合意ですね。この玉虫色のラインが、オリックス側にしてみれば、礒部は仕方がないけど、岩隈はダメだということであり、選手側からすれば、岩隈までは、立場上強く主張できるということでしょう。言いたくても言えない近鉄出身の選手もいるでしょうから。

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402(2004/12/01) なぜ、福岡ダイエー・ホークスはうまくいったのか?

福岡ダイエー・ホークスの成功の秘密は、球場と球団の一体的な経営にあります。そもそも、福岡ドームとホークスは、ダイエー本社と子会社の関係にありましたが、融資額はダイエー主力行よりも地元福岡の金融機関の方が多く、金融面ではダイエー本社と一線を画していた。また、中内正オーナーが実権を握っており、経営面でもダイエー本社から独立性がありました。実際、ホークスと福岡ドームは、人事も経理も一体化され「野球事業」として経営されていました。

球団と球場が一体となった経営は、新しいビジネスの展開を可能にしました。球場が埋まれば、飲食、グッズ、広告看板など、いろいろな形で、収入化を図ることができます。

また、親会社のダイエーとライバル関係にある岩田屋や福岡三越にチケットを割安で販売したり、球団ロゴのキャラクター使用料も無料にしました。代わりに岩田屋や福岡三越は懸垂幕、チラシ、新聞、テレビで「福岡ダイエーホークスを応援します」とメッセージを発信します。商店街にもキャラクター使用を開放し、観客予備軍を生む「勝ったら企画」を実践、協賛店の輪は3万店にも広がりました。

このとき、ダイエー本社は、単なるスポンサーに過ぎませんでしたが、却って、その方がうまくいっていました。福岡ダイエー・ホークスは、球場主導ではありますが球団−球場−地域の一体化したプロ野球ビジネスが実現し、そこでは、「観客と選手の一体感が醸成」(大坪正則氏)されていました。

これも、福岡ドームの売却により、困難となるところでしたが、福岡ドームが球団の興行権を持ち続けたことから、球場・球団の一体的な経営は可能となりました。ところが、ダイエー本社と福岡ドームの資本関係がなくなると、球団を保有するダイエー本社が単なるスポンサーで、球団と資本関係がない福岡ドームが、球団の実質的な経営を行うという捻れ現象を起こしてしまいました。

この点を、大坪正則氏が著書「プロ野球は崩壊する」で次のように指摘しています。

チケット収入が球団経営の根幹であるにもかかわらず、ダイエーは毎年、チケットの一括売却金額をドーム球場と交渉しなければならない。その一方で選手からの年俸上昇圧力は高まるばかりだ。選手への支払いを始めとするダイエーの経費増加は歯止めがかからない状況にある。支出が増え続ける中で、ドーム球場側のさじ加減で収入が制約される。これでは早晩、ダイエーの経営が行き詰まることは目に見えている。また、球団の赤字をダイエー本体が気前良く補填できるはずもない。球団買収に興味を持つ企業もこのような条件のもとでは、ダイエーに興味を持つとも思えない。

このためソフトバンクは、コロニーから興行権の買い取りをします。ところが、単にソフトバンクが興行権を買い戻すだけでは、これまでうまくいっていた球場と球団の一体的な経営が難しくなります。そこで、ソフトバンクの孫社長は、福岡ドームと年間契約を結ぶことにしました。

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401(2004/11/30)  球団の親会社が野球という興行を通して利益を追求している

東大出身の元ロッテ・マリーンズ投手で、現在、江戸川大学助教授といえば、小林至氏ですが、彼の著書「プロ野球ビジネスのしくみ」で、彼は、「プロ野球はビジネスである。」と主張していますが、そのビジネスとは、「球団の親会社が野球という興行を通して利益を追求している」というもので、これでは、プロ野球が親会社のビジネスということになります。

さらに、「ソニーがプレイステーションを生産し、朝日新聞が新聞を発行しているのと同じように、プロ野球は、スポーツイベント=試合を媒介として利潤を追求しているのです。だから、いくら読売が経営的に安定しているからといって、それが読売の利益を損ねる行動であれば、ビジネスとして失格です。それどころか、『株主の利益』が重視されるこの時代、株主への背信行為と取られかねないのです」と書いています。

リーグ戦興行体というプロ野球の特殊性は、時には球団の親会社の利益を損なう場合もあります。このとき親会社の株主の利益の話を持ち出したら、プロ野球という共同体は運営していけなくなります。

これに対し、「プロ野球は崩壊する!」の著者大坪正則氏は、著書「メジャー野球の経営学」の中で「プロスポーツリーグは不可思議な経済システムのもとに運営されています。プロスポーツリーグでは、自由主義経済が標榜する自由競争と自由価格の原理が機能しません。しかし、プロスポーツリーグが完全な自由経済のもとで運営された場合、経営が成り立つでしょうか。否と言わざるを得ません」とプロ野球が、共同体であることを言い表しています。

ところが、もう一つの著書「プロ野球は崩壊する!」の中で、大坪氏は、「巨人のチケットは親会社の読売新聞社が管理・販売している。近鉄の場合は、親会社の近畿日本鉄道がチケットを一括して買い上げている。このように、日本のプロ野球では親会社がチケットを握っている例が多い。これは親会社と子会社であり、連結会計であれば誰がチケットを売ろうとも、その数字はグループの損益となって跳ね返る。しかしダイエー本体(本社)が保有するダイエー(ホークス)とコロニー保有のドーム球場では連結会計が適用されない」と書いています。

これでは、資本関係のない球場への箱売りは、親会社であるダイエー本社の利益を損なっていると疑問を呈しているのに対し、親会社への箱売りは、肯定する結果になってしまっています。

プロ野球の興業は、他のプロスポーツと同様、プロ野球というサービス財(商品)が野球場で生産され、消費者であるプロ野球ファンがお金を払って観戦するという財の交換によって成立するビジネスです。チケット販売は、プロ野球の根幹業務です。このチケット販売権を放棄することは、プロ野球ビジネスの放棄でもあります。これは、チケット販売権を親会社が握っている場合も同じではないでしょうか。

プロ野球のビジネスは、球団が野球の興行を通じて利益を追求するビジネスです。決して、親会社のビジネスではないはずです。

94年、親会社のマルハから、横浜ベイスターズの社長に就任した大堀隆氏は、当初、ベイスターズが経営らしい経営をしていなかったことにビックリしました。球団経営の根幹であるチケット販売が、横浜スタジアムに委託されていたのです。大堀球団社長は、チケット販売の委託を直ちに解消します。
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