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№910(2009/03/21) ドイツ王・イタリア王・ブルグント王 6~7

6 カペー家

西フランク王ルイ4世の妻ゲルベルガとフランス公兼パリ伯のユーグ大公の妻ヘートヴィヒとドイツ王・イタリア王・神聖ローマ皇帝オットー大帝は、ドイツ王ハインリヒ1世の子で兄弟だからルイ4世、ユーグ大公、オットー大帝は義兄弟の間柄であり、その息子たち、西フランク王ロテールとドイツ王・イタリア王・神聖ローマ皇帝オットー2世、そして初代フランス王となるユーグ・カペーは、従兄弟の関係にあった。

西フランク王ロテール(在954-986)の治世の初期は、ノルマンディー公をはじめとする家臣との戦いで占められた。また、ロレーヌのオットー2世(ドイツ王在961-983、帝位在973-983)からの奪還も計画した。978年春、エクス=ラ=シャペル(アーヘン)で奇襲攻撃を行なってオットー2世を捕らえる直前まで持ち込んだ。これに対してオットー2世は同年秋、フランスへ復讐戦をしかけた。オットー2世の兵はパリ近郊まで侵攻したが領土を奪うことはできず、損害を出して撤退した。結局、980年にMargut-sur-Chiersで両者の間に講和条約が結ばれた。さらに983年にはロテールがオットー3世の後見人に選ばれた。


Map of France (yellow) under Lothair, showing the region of Carolingian influence (orange) and Robertian (blue), with Lothair's offensive in Lotharingia marked (black arrows)
Blesevin lands in green.
"Barcelone" (Marca Hispanica) should be in France.

しかし、980年頃からロテール(在954-986)とユーグ大公の息子ユーグ・カペー(フランス公兼パリ伯在956-996、フランス王在987-996)は対立するようになった。ランス大司教アダルベロンのとりなしによってオットー3世と和解した。986年、ロテールは死去した。王位はロテールとエマ(イタリア王ロターリオ2世とアーデルハイトとの間の娘)との息子ルイがルイ5世(西フランク王在986-987)として継承した。ルイ5世は、「怠惰王ルイ(Louis le Fainéant)」と称された国王である。979年、父と共に共同統治を命じられた。986年、父が死去すると単独統治を開始する。しかし翌年5月、狩猟中の事故が原因で死去。継嗣が無く、ここにカロリング朝は断絶し、国王選挙によって新たにユーグ・カペーが国王に選出され、カペー家が創始されることとなった。

ところで、カペー家の支配は実現したけれども、ユーグ・カペーの実効的に支配を及ぼした範囲は、カペー家の所領が集中しているパリを中心にイル・ド・フランスに限られていた。ユーグ・カペーは、956年、父の死に伴いフランク公兼パリ伯となるが、 ロベール家(カペー家)が任命した従伯(ヴィコント)が、 アンジュー伯、トゥレーヌ伯、ブロワ伯と独立したため、 カペー家 の支配領域 が東に移動させられ、しかも これら 自立化した有力封臣層は、カペー家ではなくカロリング家を支援したのだった。

987年カロリング朝のルイ5世の死とともに、聖俗諸侯により国王(フランス王在987-996)に推挙された。カロリング家ロレーヌ公シャルル(ルイ5世の叔父)との王位継承闘争に勝利し、生存中に子のロベール(ロベール2世)を王位継承者に選ばせ、事実上カペー家世襲の端を開いた。在位中はノルマンディー、ブルゴーニュ、アクィタニア、フランドルなどの封建諸侯に苦しめられた。

父ユーグ・カペーの後を継いだロベール2世は、カペー朝第2代のフランス国王(在996-1031)で敬虔王と呼ばれた。ユーグ・カペーとその王妃であったアキテーヌ公ギョーム3世の公女アデライードの息子で、当時のフランス王国は極めて狭い範囲しか統治していなかった。ロベール2世は王領を拡大すべく継承者不在となった諸侯領を併合しようとしたが、これは対立する継承権者との戦いを招いた。

10th century West Francia (France).

7 イヴレア家

ブルゴーニュでは、965年ロベール家のブルゴーニュ公オトンが死ぬと、公位を継ぐ者がおらず、選挙によって、オトンの弟のウード・アンリ(ユーグ大公の息子でユーグ・カペーの弟、ブルゴーニュ公在965-1002)が継いだ。さらにウード・アンリにも息子がなかったため、ウード・アンリの継子でイヴレア家のブルグント伯オトン・ギョームがブルゴーニュ公(1002-1004)を継承。

これに対し、1003年フランス王ロベール2世がブルゴーニュに出兵。ここに公位をめぐりロベール敬虔王とオトン・ギョームとの間で戦争が生じた。結果オトン・ギョームは屈服し、ロベール敬虔王が公位(ブルゴーニュ公在1004-1016)を継いだ。ところが、オトン・ギョームが地元諸侯を味方に付けるため、諸侯に領地を分与していたため、ロベール敬虔王は、諸侯の強い抵抗を受け、教会の支援を得てこの地を手に入れたのは1016年だった。

ロベール敬虔王は、ブルゴーニュ公領を平定すると、息子で共同王のアンリ1世(ブルゴーニュ公アンリ、在1016-1032)に公位を譲った。ロベール敬虔王が没し、アンリ1世が単独王(フランス王在1031-1060)になると、弟のロベールに公位を与え、カペー家のブルゴーニュ公家が創始された。

ところで、イヴレア家のオトン・ギョームとは、ドイツ王オットー1世に敗れたイタリア王アダルベルト(イタリア王在950-963、父ベレンガリオ2世と共同王)とシャロン伯・マロン伯の女相続人ゲルベルガとの間に生まれた息子で、アダルベルト没後、母ゲルベルガがブルゴーニュ公ウード・アンリと再婚していた。

982年オトン・ギョームは、ブルグント伯(ブザンソンの伯)として母ケルベルガからのちのブルグント自由伯領となるドール周辺(ユラ地方)の領地を得、さらに1002年継父ウード・アンリが亡くなると、継父からブルゴーニュ公領を継承した。また、母親からマロン伯とシャロン伯を継承していた。ところが、1003年第二代フランス王ロベール敬虔王が、ブルゴーニュ公領に侵攻し、オトン・ギョームは、ドール周辺の領地を残し、ブルゴーニュ公の公位と領地を手放さざる得なかった。オトン・ギョームに、残された領地がブルグント自由伯領となった。オトン・ギョームは、ブルグント自由伯と神聖ローマ皇帝シュタウフェン家の祖先に当たる。

イヴレア辺境伯アンスカリオから始まるイヴレア家は、神聖ローマ帝国の帝位を争うことになるヴェルフ家のライバル、シュタウフェン家に連なる名門の家系へと発展していくのである。それは、1156年女伯ベアトリクス1世が、シュタウフェン家出身の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサと結婚したことに始まる。さらに、1126年から1369年にかけてカスティーリャ王国及びレオン王国(1230年に統合)を支配した王朝はイヴレア家の分家である。

参考・出典 ウィキペディア