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№909(2009/03/21) ドイツ王・イタリア王・ブルグント王 5

5 ボゾー家とロベール家

西フランク王となったウード(在888-898)は、ヴァイキングとの戦いを継続し、モンフォーコンなどで勝利を収めた。しかしその後、ルイ2世吃音王の第3子シャルル(後のシャルル3世)を支持する有力貴族たちとの紛争に巻き込まれた。893年ウードの在位中、シャルルが西フランク王シャルル3世(在893-922/923)として聖別された。東フランク王アルヌルフははじめウードを承認していたが、894年に至ってシャルル3世の支持を宣言した。3年間続いた紛争の後、ウードはシャルル3世にセーヌ北部を引き渡した。ウードは898年、ラ・フェールで死去した。

ヴァイキングの侵攻は、西フランク王国を長らく脅かし続けていたが、シャルル3世単純王はその問題を解決することに成功した。911年、ヴァイキングの長ロロ(ロロン、Rollon)と結ばれた、サン=クレール=シュール=エプト条約(le traité de Saint-Clair-sur-Epte)により、ノルマンディー地方はヴァイキングたちに与えられ、ノルマンディー公国となった。それと引き換えに、ロロはセーヌ川沿岸地帯への襲撃を慎み、洗礼を受け、シャルルとその前妻との間に生まれた長女ジゼルを妻とすることを約束した。

しかしながら、このシャルル単純王も、当時形成されつつあった封建領主に対しては無力であったし、王国の諸侯たちとは闘争を余儀なくされた。とりわけ、シャルルと激しい敵対関係にあったのが、ロレーヌ公ジルベール(ロートリンゲン公ギゼルベルト)、ブルゴーニュ公ラウール、フランス公ロベールであったが、そのうち、ラウールはボゾー家のブルゴーニュ公リシェールの息子で、ロベールは、ロベール家のロベール・ル・フォールの次男でウードの弟、ユーグ・カペーの祖父となる人物だった。

東フランク王国(ドイツ王国)でカロリング朝の血筋が途絶えると、シャルル単純王はロレーヌ(ロタリンギア)の領有権を主張し、その地の王位を得て、西ローマ帝国に対する自らの権利を明確にした。だが、ドイツ王ハインリヒ1世(捕鳥王;在919-936)に敗れた。

先王ウードの弟であるロベールは反乱を起こした。そして922年、自らを王として選ばせ(西フランク王ロベール1世;在922-923)、彼を選んだ諸侯たちはシャルル単純王の廃位を宣言した。シャルル単純王は廃位を拒み、ロレーヌから反撃に出た。ロベール1世は923年、ソワソンの戦闘の際に戦死したが、ロベール1世の息子パリ伯ユーグは、姉エマの夫であるブルゴーニュ公ラウールをたて、父親の亡骸を見せて兵たちを鼓舞し、シャルル単純王を破った。

ラウールは、921年父リシェールの死後、ブルゴーニュ公(在921-923)を嗣いだ。923年、戦死したロベール1世にかわって諸侯から西フランク王に選出された。ラウールはブルゴーニュ公位を弟のユーグ黒公(在923-952)に譲り、ボゾー家で唯一の西フランク王(在923-936)として即位した。ラウールはロベール1世の娘エマ(パリ伯ユーグの姉)と結婚していたが、936年に継嗣なくして死去し、シャルル3世単純王の息子ルイ4世(在936-954)が王位に即いた。

フランス公兼パリ伯ユーグはロワール川とセーヌ川の間の地域に20の伯領と主要な修道院長職を一手に治め、大公と呼ばれた。同年にルイ4世がイングランドから帰還する際、ユーグ大公は積極的に支持したが、ドイツ王ハインリヒ1世の娘ヘートヴィヒ(オットー1世の妹)と同年に結婚すると、ルイ4世との間にいさかいが起こった。ユーグ大公は、ルイ4世と対立するオットー1世に臣従の礼をとって、これに対抗した。

ルイ4世は、939年にはドイツ王オットー1世とロタリンギアをめぐって争ったが、結局オットー1世の妹ゲルベルガと結婚し、息子にロテールとシャルルをもうけた。954年、ルイ4世はランスで死去し、王位は息子のロテール(在954-986)が継いだ。

ところで、西フランク王ラウールとその弟ユーグ黒公も息子に恵まれず、952年ボゾー家のブルゴーニュ公家は断絶した。公位はユーグ黒公の姉婿のシャロン伯ジルベール(ブルゴーニュ公在952-956)が継いだが、その頃には西フランクは、ユーグ大公がカロリング朝の王を傀儡として推戴するという図式が出来上がっていた。ジルベールはユーグ大公に臣従を余儀なくされ、娘をユーグ大公の息子オトンと結婚させられた。ジルベールが死ぬとブルゴーニュ公位はロベール家のオトン(ユーグ・カペーの弟、ブルゴーニュ公在956-965)に継承された。

参考・出典 ウィキペディア