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№907(2009/03/14) ドイツ王・イタリア王・ブルグント王 3

3 ロベール家

初代フランス王朝であるカペー朝に繋がるロベール家はもとをたどれば、ライン川中流域に基盤を持ち、ロルシュ修道院の創建に加わった帝国貴族の一員であった。この一門の一人ロベール・ル・フォールが、ユラ・ブルグント系のヴェルフ家と同様、843年のヴェルダン条約後、西フランクのシャルル2世禿頭王を支持し、ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)の東フランクから移ってきたことに始まる。シャルル禿頭王はそれに応えて、西フランクに到着後の852年ロベールにモンマルトルの修道院長を任じ、853年にはロワール川の河口、メーヌ、アンジェ、トゥーレーヌの国王巡察使(missus dominicus)に任じた。

これは、古代からドゥカトゥス・セノマンニクス(ducatus Cenomannicus)またはメーヌ公(Duchy of Maine)と名付けられたブルトン人に対してフランク王国の宗主国たる地位を守らせる役割を事実上担うものであり、ル・マンを拠点とするネウストリアのレグヌム(分王国)と重複するものであった。

そのブルトン人の国ブルターニュは、851年のジャングランの戦いで、シャルル禿頭王が、ブルターニュ公エリスポエ(Erispoë)に敗れ、事実上の独立を勝ちとっていた。いわば、ブルトン人のお目付役としてロベールが任じられたのである。ところが、856年シャルル禿頭王が、ル・マンにあるネウストリア支配権を長男へ贈るカロリング家の伝統に従い、長男ルイ2世をネウストリア王に即位させ、ブルターニュ王エリスポエの娘と結婚させてしまった。カロリング王家とブルターニュ王家の同盟は、両王家の諸侯にとっては、逆にそれまで持っていた権益が削がれることであり、ロベールとブルターニュの有力貴族ソロモン(Salomon)の不満が高まった。

シャルル禿頭王は、代わりにロベールに、ブルゴーニュのオータンとヌヴェールの伯を与え、兄ロタール1世死後ブルターニュの防衛に当たらせ、西フランク王ルートヴィヒ2世ドイツ人王の侵攻を阻んだ。ところが、857年ブルターニュ王エリスポエが暗殺されると、ロベールとソロモンは反乱を起こし、858年ルイ2世吃音王は、エリスポエの娘との結婚は破棄され、ル・マンから追放された。

ロベールは、反乱に加担していたにも関わらず、ロワール川河口のアンジュ伯を任じられた。これ以降ロベールは、ロワール沿岸地方の主要な伯領の伯爵号を兼併し、トゥールのサン・マルタン修道院長職も取得し、権力をこの地方一帯に広げ、さらにネウストリア王権の簒奪者と言われてたが、ガリア北東部の守護としてブルターニュ人を守り、セーヌやロワールを遡行してくるヴァイキングとの戦いに指揮をとった。たが、866年にヴァイキングの侵寇を阻止しようとして戦死した。ロベール・ル・フォールのル・フォールは”強き者”の意味で、ロベール豪胆公と訳される。

877年、シャルル禿頭王は諸侯をキエルジー宮殿に集めて、伯の職はその息子に世襲されることと一般の家臣についても同様であることを認めた。これは当時の一般慣行を追認したに過ぎない。同年中にシャルルの後を継いだ息子のルイ2世吃音王は「王は官職を自由に裁量できる」と主張して諸侯の猛反撃にあった。西フランク王国は統制が取れない状態になった。879年、ルイ2世が在位わずか2年で没するとプロヴァンス公ボゾーが独立を宣言、ルイ2世を継いだ二人の息子ルイ3世とカルロマンは、相次いで狩猟中事故死を遂げる。

ロベールの長男ウードは、フランス公・パリ伯ウードとして知られるが、885年から886年にかけての、ヴァイキングによるパリ包囲を撃退し、ヴァイキングからパリを救った英雄として、肥満王カール3世の廃位の後、カロリング家以外では初めて西フランクの国王(在位888-898)に推戴されている。

参考・出典 ウィキペディア