Report 2001

プロ野球と日本経済

観客動員数からの考察

更新2001/03/18

      

はじめに

 1970年代後半,時代は変わると思った。どう変わるか分からなかったけれど,何かが変わると思った。ニクソン・ショックとベトナム戦争によりアメリカ神話は崩壊し,二度に渡るオイルショックは成長神話を崩壊させた。高度成長における二つの神話が崩壊したのだ。

 翻って,プロ野球に目を転じれば,巨人の連覇は止まり,長島選手はもはやいなかった。代わって,監督長島は管理野球を否定し,クリーンベースボールを唱え,最下位に沈んだ。唯一の市民球団広島が初優勝を飾り,赤ヘル旋風が球界を席巻していた。

はじめに 第1章 第2章 第3章

第1章 日本経済

 プロ野球の話をする前に,まず日本経済について振り返ってみましょう。

 1975〜2000 転換期

 1975年前後というのは,社会的にも経済的にも転換期でした。1975年以前は,大量生産・大量消費による近代産業社会の成長神話とその体現者であるパックス・アメリカーナが生きていた時代であり,1975年以後は,そのアメリカ神話と成長神話が崩壊した時代です。

 1971年の金・ドル交換停止,いわゆるニクソン・ショックと1975年のベトナム戦争終結は,アメリカ神話を崩壊させました。1971年には,ローマクラブにより「成長の限界」が発表され,1973年の第一次石油ショックと1979年の第二次石油ショックは,実際に成長神話を崩壊させました。

 このため,1980年代に入ると,ポスト産業社会が模索され,アルビン・トフラーの第三の波が世界的にベスト・セラーとなり,アメリカでレーガノミックスが,イギリスでサッチャーの反革命が行われました。

 日本は,どうであったかというと,1955年から始まった高度成長は,1970年代ニクソンショックと二度にわたる石油ショックにより大打撃を受け,激しいスタグフレーションにおそわれます。しかし,近代産業社会への余力を残していた日本は1980年代に入ると立ち直り,ポスト工業化社会への変革期にいたアメリカとの間で経済力の逆転現象が起こり,バブルに突入します。このころベストセラーになったのが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でした。

 1980年代日本が旧来の近代産業社会の最適化をすすめている間に,アメリカはポスト産業社会へと進み,それが1990年代の日米再逆転につながりました。
 ちなみに,ソ連は1970年代の転換期を乗り越えられずに,1980年代末期に自壊しました。

参考文献:imidas2000 集英社

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 1940年以前 産業社会の萌芽

 日本は,明治維新により近代社会の仲間入りを果たしますが,近代工業が育ったのはごく一部であり,国民生活は貧しいままで国内需要も小さく,資本蓄積も乏しいものでした。

 第一次世界大戦を契機にして,大企業(産業資本)を中心に重化学工業が勃興し,人口の都市集中化(都市化)傾向が顕著になります。大戦後,農村人口は5割を割り,人口2万人以上の都市だけで30%を超えるようになります。また,産業化と都市化により実質賃金を指標とする生活水準も著しく向上し,1920年代大衆消費社会(大正デモクラシー)が現出します。

 しかしながら,社会構造的には,依然として農村的な家父長制度と村落(地域)共同体が基準でした。1937年になっても日本の離職率は高く,工場労働者の平均勤続年数も非常に短いものでした。当時は,工場で働く人々は「職工」「女工」といわれ,その多くは農村からの出稼ぎ青少年で初めからしばらく間だけ工場で働くという人が多かったのです。

 当時の勤労観は,女性は高等小学校をでる15歳から結婚する20歳ぐらいまで勤め,嫁入り道具を揃えられる程度のお金を貯める。男性はもう少し長くて,15歳から35歳ないし40歳ぐらいまで働き,田畑の一反でも買って帰農する。それが健全にして幸せな典型として考えられていたのです。

 1922年の第2次反動恐慌,1923年の震災恐慌,1927年の金融恐慌,1930年には世界大恐慌と経済恐慌の波に呑み込まれ,産業資本と国家官僚の結びつきが強まって行きます。

参考文献:「進むべき道」 (堺屋太一,浜田宏一著 PHP研究所)
       「近代プロ・スポーツ」の歴史社会学−日本プロ野球成立を中心に−(菊幸一著 不味堂出版)

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 1940〜1955 産業社会への離陸

 1930年代にはいると,近代社会を目指す国家官僚は,日本社会全体を官僚主導による規格大量生産(産業)社会にすべく,次の三つのことを行います。

 第一は全ての製品や施設に規格基準を設け,大量生産大量流通の実現を図ること。
 第二は,教育を画一化し,規格大量生産に適した労働力を大量に育成すること。それは勤勉で辛抱強く,共通の知識や技能を備えた規格型人間です。
 第三は,日本全国を有機的に結合し,産業経済の中枢整理機能や情報発信機能は東京一極に集中すること。全国の市場を均質化し,規格化した商品が売れやすくするためです。

 国家主導によるこの体制ができあがるのが1941年頃ですが,戦争のため,この体制が実効をあげるのは戦後,1955年以降になります。

参考文献: 「進むべき道」(堺屋太一,浜田宏一著 PHP研究所)


 戦後,高度経済成長を担った終身雇用と年功序列賃金制といった労働慣行,企業と銀行との密接な関係からなるメインバンクシステム,大企業を中心とする中小企業の系列化といった戦後日本的経営の原型は,この戦時中に作られました。

 以下,「<自己責任>とは何か」(桜井哲夫著 講談社現代新書)からの抜粋です。

◎ 終身雇用と年功序列賃金制 
 確かに1920年代に,新しい生産技術の導入の流れの中で,新しい熟練労働力を維持する必要が生まれ,そのなかで雇用政策に変更が出てきました。新規学卒者の計画的採用と企業内での教育という政策が採られ,さらにそれまで活発であった労働移動を低下させ,新たな常用行員=本工員を形成しようと言う動きが企業の間からでてきたわけです。

 この子飼い労働者の形成こそが,日本的雇用関係の特色として年功賃金,付加的給付(家族手当,通勤手当,住宅手当,退職金),企業内福利厚生施設の設置を含む生涯雇用という企業慣習を生みました。しかし,1930年代前半までは,大企業を除いては離職率も高く,その変化が生じたのは,熟練労働力不足が深刻化した戦時期のことだったのです。尾高煌之助(「日本的」労使関係,岡崎哲二・奥野正寛「現代日本的経済システムの源流」)によれば,戦時期には従業員が毎年1割から2割弱の割合で減少しておりました。

 この結果として,戦時期に労働者の移動制限(1940年制定の従業員移動阻止令)が行われ,労使双方が産業報国会に加わりました。また,賃金統制令の施行で,1939年3月に初任給が地域別・年齢別・男女別に公定されることとなり,9月以降は賃上げが建前として認められなくなりました。しかし,賃金規則の制定がされれば賃上げが可能だったのですが,ただしこの賃金制定の際に,年一回従業員全員が昇給させることが指導されたのです。こうして年一回の定期昇給という仕組みが一般化していったわけです。この結果労働の流動性がなくなり基本給が定期的に自動的に昇級する慣行として「年功型賃金」が普及したのでした。

◎ 企業(会社)共同体

経営と所有の分離
 さらに,金融システムについも,現在の原型は,戦時統制下で生み出されたものなのです。昭和の初めの金融恐慌のさなか,1927年3月銀行法が公布されました。この銀行法に伴い,銀行に対する行政指導が強化され,今日に至る路線が生まれました。さらに,戦時期の1941年8月に,興業銀行他の11の銀行によって時局共同融資団が設立されました。主取引銀行が幹事にとなって貸出先の企業を審査し,これに基づいて共同融資を行う制度でした。
 
 この制度は,1942年に全国金融融資会が設立されると,継承されて大規模に展開されるようになりました。統制会ないしその事務局をつとめた日本銀行が,主取引銀行が行う審査・監査に基づいて共同融資を斡旋したのです。このような流れが,企業と銀行の密接な関係からなるメインバンクシステムへとつながったわけです。

 こうした戦時体制のもとでの制度改革の中で,戦前の株式主権型の企業システムに大きな変化が生じました。「経営と所有の分離」の結果,株主の役割と権限が制限され,経営者と従業員の地位が上昇しました。有力な株主に代わって共同融資団ないし,その幹事としてメインバンクが資金供給者の立場から企業の主要な監視者となったのです。さらに,軍需会社法(1943年10月)がこうした企業の変化を強く促進しました。この法律によって指定企業に排他的な代表権を持つ「生産責任者」が置かれ,生産責任者は,株主総会の同意なしで原案を執行することができました。

 軍需会社は,あらゆる関係者に対して自由裁量を保証された経営者が,利潤を目的とした経営を行い,かつその利潤の分配に労働者が参加するという経営システムを導入したことになるのです。「株式を事実上確定利付き証券し,利潤から固定的な配当を控除シアタ残金を経営者・職員・労働者の間で分配する」という従業員管理企業は,まさに戦後日本の企業共同体の原型ではないでしょうか。

(岡崎哲二「企業システム」,岡崎哲二・奥野正寛「現代日本経済システムの源流」,岡崎哲二「戦時計画経済と企業」,東大社会科学研究所編「現代日本社会」第四巻歴史的前提)

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 1955〜1975 高度経済成長と社会

 敗戦により,平和の配当を得た日本は,経済に特化し,再度,産業(規格大量生産)社会を目指します。ただし,戦後はアメリカ型の大衆消費社会をです。混乱期を経て1955年,自由党と民主党という保守政党が合併し自由民主党となり,体制を整えると高度経済成長を推進し,当時,絶頂期にあったアメリカの大衆消費社会を目指し始めました。

 この時代の社会(家族)の特徴として,核家族化,職住分離,男女の役割分担,高学歴化そして消費共同体の五つをあげることができます。(横浜市調査季報「特集 成熟する横浜の郊外」@郊外型ライフスタイルの形成と展望 三浦展氏)

 核家族とは通例,両親と子供二人といった家族をいい,これを標準世帯ともいいます。この時代は,家族も規格化されていたわけで,この標準世帯が1955年の750万世帯から1975年には1430万世帯と2倍に増えます。しかも,この核家族は地域共同体から分離しているのが特徴です。また,出生率はなぜか1955年から1975年の20年間は子供2人で安定していました。

 職住分離とは,職場は都心,住居は郊外というもので,生産手段である工場や商店の集まる地区と労働力を再生産する住宅の集まる地区に分離し,その間を鉄道や高速道路といった大量輸送機関で結ぶというものです。職住分離は,サラリーマンの家族だけなく商工業の人々にも広まっていき,東京の郊外には広大な衛星都市群が形成されました。

 この時代における男性と女性の役割の分担とは,父親はサラリーマン又は雇用者,母親は専業主婦というものです。女性は働かずに家事と育児に専念し,男性の会社人間化を助るというもので,言い換えれば夫婦共々会社共同体に属し,会社共同体のために働くことが求められたのです。

 高学歴化は,家を手伝う暇があったら勉強しなさいということで1955年から1975年に高校進学率,大学進学率ともにほぼピークに達しました。

 消費共同体というのは消費し,私有財産を増やすことで共同体を味わう家族のこといいます。戦前は,国民の9割は,農業なり,商業なり,工業なりで,なりわいをもって地域としての生産共同体を作って生きていました。ただ彼らには私有財産はありませんでした。それが,戦後,地域に根付いた生産共同体から離れて,核家族になって,家電を買う,テレビを買う,そして最後に郊外に家を買って,車を買う。買い続けることによって家族がまとまっていく,というように,私有を原理とする消費共同体が生まれました。

 しかも,父親は会社(企業)共同体という戦中の軍隊にも匹敵する強力な共同体集団に属していたわけで,この会社共同体と家族という消費共同体がセットになって高度経済成長を推し進めたのです。

参考文献:横浜市調査季報「特集 成熟する横浜の郊外」@郊外型ライフスタイルの形成と展望 (三浦展)
       「進むべき道」(堺屋太一,浜田宏一著 PHP研究所)

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 再び1975〜2000 失われた25年

 横浜市調査季報「特集 成熟する横浜の郊外」@郊外型ライフスタイルの形成と展望で三浦展氏は,次のように書いていいます。

「このように,1955年体制の中で,それまでとは全く異なる新しい家族像が生まれたわけだが,私の考えでは,もうすでに高度成長が終わった1975年の時点で,そういう家族がうまく機能する時代は終わってしまった。そしてそれから現在までの25年間というのは,次なる時代に向けて,新しい価値と古い価値の転換期にあったと思う。中略

 村上龍がNHKで『失われた10年』という番組を放送していたが,実際は失われたのは10年,つまり,バブル崩壊後の10年間の話ではなくて,1975年からの25年間なのだという結論であった。すなわち,この10年で全てが狂ったのではなくて,25年間ずっと1955年体制とは違う社会のシステムを作らなければいけないのを放っておいた。そのつけが今回っているんだと言う結論に村上龍は達したわけだが,私も全くそれに同感である。

 その25年間放っておかれた社会システムの中のある局面が郊外であり家族ということである。離婚,いじめ,不登校,全て1975年以降急激に増えた。そして,晩婚化,少子化。要するに,それまでのように,結婚し,子供を産み,家族をつくり,暮らすというスタイルがこの25年間,どんどん通用しなくなってきたのである。」

 近代社会において1975年という年は,今から考えると,大きな転換点だったのです。あの時代,何かが変わったと感じたのは間違えではなかったのです。

参考文献:横浜市調査季報「特集 成熟する横浜の郊外」@郊外型ライフスタイルの形成と展望 (三浦展)

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第2章 プロ野球と日本経済の関係

 プロ野球の観客動員数をグラフ化してみてみると面白いことがわかります。奇妙に日本経済とシンクロしているのです。

 観客動員数からの考察

 1955年から1974年にかけての20年間,この時代,日本経済は高度経済成長の時代ですが,この時代そのまま長島選手の現役時代でもあります。長島選手と巨人の九連覇でこの時代観客が増えたのかといえばそうではなく,900万人を境に800万人台と900万人台をいったり来たりしていた時期で観客動員的にはむしろ停滞期でした。

 観客が増えはじめるのは1973年の九連覇最後の年でかつオイルショックの年。爆発的に増えるのが1975年赤ヘル旋風と長島監督デビューの年です。といっても観客が増えたのはセ・リーグでV9時600万人であったものが900万人台と50%の観客増でした。遅れて,パ・リーグも1979年には500万人の大台に達し,セ・リーグもこの年1000万人の大台に初めて乗っています。

 この時期は,オイルショック後の急激な円高が進んだ時期で,1974年300円だったものが1980年になると203円と30%の円高が進みました。1979年には第二次オイルショックも起こり,インフレと不況というスタグフレーションの時期でした。

 1972年に800万人だったプロ野球は1980年には1600万人台と倍増しています。1975年から1980年までの時代は,1965年に始まったドラフト制の効果がV9末期からでてきて各球団の戦力が均衡し,弱小球団優勝ブームが起きていた時期です。この時期,ホエールズが川崎から横浜に,ライオンズが福岡から所沢に移転しています。

 1981年から1985年にかけては1500万人台と1600万人台をいったり来たりする一時的な停滞期にはいります。この時期,長島不在の時期であり,西武黄金時代の先駆けの時代です。経済的には円高による低成長時代です。

 ところが1986年になるとパ・リーグで観客爆発が起こります。パ・リーグはいったん1980年に579万人の観客動員を記録しますが1981年から1985年にかけては500万人前後で上下していました。そのパ・リーグが突如,600万人台になるとともに,84年の時点では100万人動員が西武の1球団のみであったものが日本ハム,近鉄,阪急を含めた4球団になりました。これは,前年(1985年)の阪神優勝に刺激された阪急,近鉄の在阪球団の活躍によるところが大きいと思われます。

 プロ野球の観客動員数は,1986年には1770万人,1987年には1900万人となり1988年には東京ドームが開設しドームバブル時代に突入し2000万人時代を迎え,1992年には2300万人台を記録します。このとき,パ・リーグは900万人台,セ・リーグは1300万人台です。しかしこの中で,1989年パ・リーグでは阪急がオリックスに,南海がダイエーに身売りしています。結果的には,これが功を奏しロッテの千葉移転とあいまって,パ・リーグも全球団が100万人を超えるようになりました。

 この時期,日本経済はまさにバブル時代でした。1986年から急激な円高が進み,そのための景気刺激策によって,株価は1987年に2万円台になると翌1988年には3万円台にのり1989年には史上最高の3万8915円を記録しました。

 1993年になると,バブルの崩壊もはっきりしてきますが,サッカーのJリーグがこの年開幕します。そして,プロ野球の危機とばかりに1993年のシーズンから長嶋氏が「巨人軍」の監督に復帰し,同年秋には逆指名ドラフト,フリーエージェント制度が始まります。

 1993年を境にプロ野球は停滞期に入りますが,停滞期といっても,2100万人から2200万人を動員します。1997年にはナゴヤ,大阪でドームが開設し1993年の福岡ドームとあいまって史上最高2349万人の観客動員を記録します。1993年以降の日本経済は,ご存知のとおり平成不況ということでそれが今日まで続いています。

グラフ1 プロ野球観客動員数

プロ野球観客動員数

グラフ2 成長率と物価指数                                 グラフ3 対ドル為替レート

参考資料 日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球感動員の変遷
       http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyakumidasi.htm
       imidas2000 集英社

はじめに 第1章 第2章 第3章

 プロ野球の成長局面

 プロ野球が,観客動員を記録的に増やしたのは,1973年から1980年までの期間と1986年から1992年までの期間です。

(1) プロ野球ルネサンス(1973年〜1980年)

 この時代は,V9の最後の年から長嶋氏が監督を辞任するまで期間で,この期間に,プロ野球の観客が増えた要因としては次の三つが考えられます。


(グラフ4 巨人戦視聴率) 

 第一に,川上管理野球から長嶋脱管理野球への転換があげられます(ナガシマ効果)。1974年秋長島が選手を引退し,1975年管理社会の象徴であった川上野球に代わり,監督として長嶋が,クリーン・ベースボールをスローガンに登場します。常識野球から意外性野球への転換です。1975年に最下位に沈んだ長嶋巨人も翌1976年には優勝し,王もホームラン世界新記録を飾ります。

 グラフ4は,1965年から1980年にかけての巨人戦の視聴率です。V9時に20%を超えていたのはV1,V2,V4のときだけで後半には17%台に落ちていました。ところが,長嶋監督が登場すると20%を超え25%近くに達しました。

 

 第二に,ドラフトにより戦力が均衡し戦国時代の到来したこと(初優勝効果)。1965年のドラフト開始から10年近くがたちドラフト組が各球団の戦力の中心になり,戦力の均衡化が進みました。1974年中日が20年ぶりの優勝,1975年広島が26年目で初優勝,1978年にはヤクルトが29年目で初優勝を飾っています。

 表1は,優勝効果による観客動員を見たものですが,優勝又は優勝争いにより観客が増えているのが分かります。例えば,広島は,1975年初優勝とともに球団史上はじめて100万人を動員しました。

表1 優勝効果
中   日 広   島 ヤクルト
1973 124万人 3位 1974 65万人 6位 1976 128万人 5位
1974 136万人 1位 1975 120万人 1位 1977 161万人 2位
1975 167万人 2位 1976 99万人 3位 1978 181万人 1位

 表2は,1973年(V9最後の年)から1979年までの優勝球団における先発オーダーを見たものです。黄色のセルが,ドラフト開始後の選手です。1973年の巨人の優勝メンバーはドラフト開始以前に入団した選手たち(ドラフト組は高田1人だけ)でしたが,1974年の中日では7人中5人,1975年の広島は6人中4人がドラフト組でした(外国人を除く)。ドラフト開始から10年近くが経過し,各球団がドラフト組が主力選手となっているのがわかります。

表2 優勝球団先発オーダーにおけるドラフト組の割合
1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年
巨人 中日 広島 巨人 巨人 ヤクルト
打順 柴田 勲 高木 守道 大下 剛史 柴田 勲 柴田 勲 D.ヒルトン
土井 正三 島谷 金二 三村 敏之 高田 繁 高田 繁 船田 和英
王 貞治 井上 弘昭 J.ホプキンス 張本 勲 張本 勲 若松 勉
長島 茂雄 T.マーチン 山本 浩二 王 貞治 王 貞治 大杉 勝男
高田 繁 谷沢 健一 衣笠 祥雄 末次 利光 柳田 真宏 C.マニエル
末次 民夫 大島 康徳 A.シェーン D.ジョンソン 土井 正三 杉浦 亨
黒江 透修 木俣 達彦 水谷 実雄 吉田 孝司 河埜 和正 大矢 明彦
森 昌彦 広瀬 宰 水沼 四郎 河埜 和正 吉田 孝司 水谷 新太郎

 第三に,1978年のホエールズの横浜移転と1979年のライオンズ所沢移転もあげられます(移転効果)。横浜では市民の資金で横浜スタジアムが建設され,横浜大洋ホエールズが誕生しました。

表3 移転効果
横浜大洋ホエールズ 西武ライオンズ
1975 92万人 川崎 大洋ホエールズ 1975 76万人 福岡 太平洋クラブ・ライオンズ
1976 98万人 川崎 大洋ホエールズ 1976 43万人 福岡 太平洋クラブ・ライオンズ
1977 82万人 川崎 大洋ホエールズ 1977 63万人 福岡 クラウンライター・ライオンズ
1978 143万人 横浜 横浜大洋ホエールズ 1978 76万人 福岡 クラウンライター・ライオンズ
1979 145万人 横浜 横浜大洋ホエールズ 1979 136万人 所沢 西武ライオンズ
1980 139万人 横浜 横浜大洋ホエールズ 1980 152万人 所沢 西武ライオンズ

 1970年代というのは,二度にわたる石油ショックにより成長神話が崩壊し,ニクソンショックとベトナム戦争の敗戦によりはアメリカ神話が崩れ去り,世界的に近代工業社会が行き詰まりを見せた時代です。日本でもインフレと不況というスタグフレーションが襲い,モーレツからビューティフルへといったように高度経済成長期からの転換が求められていた時代でした。この時代にプロ野球が,観客動員を大幅に伸ばしたのは,この時代ニーズにプロ野球がコミットできたからにほかなりません。

 この時代,高度成長期に対するアンチテーゼとしてまず求められたのは,管理社会に対する脱管理社会です。これが,観客増の第一の要因にあげたナガシマ効果です。石橋を叩いても渡らないといわれた川上管理野球に対し,ファンは,長嶋茂雄に脱管理野球を夢見たのです。

 次の,画一化に対する多様化です。これが第二の要因であるドラフトによる戦力の均衡化です。プロ野球は,巨人,大鵬,卵焼きといった巨人常勝時代から中日,広島,ヤクルトが優勝し,阪神,横浜大洋も頑張るといった戦国時代に突入しました。プロ野球ファンは,セ・リーグの5球団を再発見したのです。

 最後に,東京一極集中に対する地方の時代です。中日の優勝は名古屋ローカルを,広島の優勝は広島ローカルを熱狂させ,ヤクルトの優勝は東京ローカルを呼び覚ましました。さらに,大洋の横浜移転はプロ野球に横浜ローカルを形成し,市民の資金だけで横浜スタジアム建設資金を賄うという快挙を成し遂げました。これは,先に挙げた第二と第三の要因によるものです。なお,このとき唯一取り残されたのが阪神を抱く関西ローカルです。このフラストレーションが,1985につながります。プロ野球ファンはローカル球団を発見したのでした。

 この時代を,私はプロ野球ルネサンスの時代だったと思います。この時代,日本人が高度経済成長で失ったものを見つけだそうとしていたのと同じように,巨人一辺倒だったプロ野球ファンは,この時代,巨人の9連覇で失ったものを再発見しようとしていたのです。そして,その背景には,ドラフト制による戦力の均衡があったのです。 

参考HP:日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球感動員の変遷 
      http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyakumidasi.htm
      ビデオリサーチ社 巨人戦ナイター年間平均視聴率の推移 
      http://www.videor.co.jp/a_rate/ra_topic/vrd/gnh.html
      日本プロ野球記録博物館 
      http://www.lint.ne.jp/%7Elucky/brm/
      ロロモのホームページ 日本プロ野球のコーナー 
      http://www1.gateway.ne.jp/~roro/private/jlb/jaindex.htm 
参考文献:プロ野球ドラフト読本2000 ベースボールマガジン社

はじめに 第1章 第2章 第3章

(2) プロ野球バブル(1986年〜1992年)

 1980年長嶋氏が監督を辞任すると期を同じくして観客動員も一時的に頭打ちになります。ところが突然1986年,日本経済のバブルの到来とともに,プロ野球にもバブルが押し寄せてきます。このバブル時代の観客増ですが,東京ドーム開設にともなうドームバブル,プロ野球の福岡,千葉,神戸への進出といった移転効果が考えられますが,これだけはありません。この観客増加は,第一,第二の要素がない1986年から始まり,特にパ・リーグに顕著だからです。ちなみにこの時代は,西武の黄金時代です。バブル期のパ・リーグに何が起きたのでしょうか。

 実際,セ・リーグは,1981年〜1985年と1986年〜1991年の観客の伸び率はほぼ一定です。これに対し,パ・リーグは1981年〜1985年はマイナスなのに対し,1986年〜1991年では急増しているのがグラフ1から読みとることができます。

@ 森西武野球黄金時代

 まず,西武から見てみましょう。

 この時代は,表4のように森西武の黄金時代でもあり,森監督は,監督在任中9年間で8度パ・リーグを制覇し,うち6回日本シリーズを制しています。特に,1986年から1992年のプロ野球バブルの期間7年間中6回パ・リーグを制し,その全てに日本一になっています。

 また,1989年から1992年の4年間は,秋山,清原,デストラーデというホームランバッターがクリーンアップを形成し,観客動員は190万人に達しています。表4から分かるように,森西武野球の絶対性と秋山,清原,デストラーデのホームランがこのプロ野球バブル時代のベースになっていました。

 これらのことから,ドラフト制下においても,マネージメント能力,スカウティング能力,コンディショニング能力には違いがあり,これらの能力が高ければ黄金時代を築けることが証明されました。この森西武野球の黄金時代である1986年から1992年,セントラル・リーグでは広島2回,巨人3回,中日1回,ヤクルト1回優勝という具合に戦国時代が続いていました。これは,最も資金力があった巨人のスカウティング能力などが低くドラフト下では思うように有望な選手を集められなかったことと,逆に最も資金力の乏しかった広島にこれらの能力が高かったことがあげられると思います。 

表4 西武黄金時代
    1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996
本塁打 秋山 幸二   40 41 43 38 31 35 35 31 25 ダイエー    
清原 和博     31 29 31 35 37 23 36 30 26 25 31
T.バークレオ           38                
O.デストラーデ           32 42 39 41 MLB      
監督 広岡 広岡 東尾 東尾
パ・リーグ順位 3 1 1 1 1 3 1 1 1 1 1 3 3
日本シリーズ              
観客(万人) 131 140 166 180 189 194 191 198 190 162 168 166 129

 そして,この森西武野球にパ・リーグで対抗したのが,猛牛近鉄であり,阪急・オリックスでした。

A 在阪球団の復権

  まず,パ・リーグについて観客動員を1970年代から振り返って見ましょう。グラフ5をみてください。 

グラフ5 パシフィック・リーグ球団別観客動員数(1970〜1990)

Graph4

 第一の成長局面である1970年代後半の時期に,パ・リーグは2シーズン制(1973〜1982)を実施しますが観客動員数を見てみると,2シーズン制の効果は一時的なものと思われます。それよりも,1980年の山は,西武ライオンズの登場と日本ハムファイターズが好調で在京球団が引っ張っていました。

 これに対し,1986年の観客増加は,阪急・近鉄の在阪球団の急増が目立ちます。その前年1985年セ・リーグでは阪神が21年ぶりに優勝し,そのまま,西武を破り日本一になっています。1989年には西武の5連覇を阻み,近鉄が2シーズン制以外で初のパ・リーグ優勝を飾っています。1984年には阪急が西武を破ってパ・リーグ優勝を飾っていましたし,バブル期においては,近鉄,阪急・オリックスは常にAクラスを占めていました。表5を見ていただくとわかりますが,1980年代半ば以降関西でプロ野球熱(観客動員数,優勝争い)が高まったことが分かります。

 ただし,関西野球ブームの中で蚊帳の外にあった南海が1989年ダイエーに身売りし福岡に移転したため,表5における在阪球団の割合は29.68%から25.49%に激減しますが,1992年には阪神がセ・リーグで久々に2位に躍進し,パ・リーグでは近鉄が2位,オリックスが3位となり29.29%まで回復しています。 

表5 在阪球団と在京球団の観客動員数の割合
  在阪球団 在京球団  
観客数 割合 観客数 割合  
1980 3678980 27.43% 9733480 72.57%  
1981 3379481 25.93% 9653781 74.07%  
1982 3559982 27.60% 9340182 72.40%  
1983 3731983 29.07% 9103983 70.93%  
1984 4137984 31.43% 9027284 68.57% 阪急優勝
1985 4369985 32.89% 8916985 67.11% 阪神優勝,近鉄3位
1986 5137986 34.58% 9720686 65.42% 近鉄2位,阪急3位
1987 5249987 33.07% 10624987 66.93% 阪急2位
1988 5175988 29.68% 12265488 70.32% 近鉄2位,南海・阪急身売り,東京ドーム開場
1989 4196989 25.49% 12269489 74.51% 近鉄優勝,オリックス2位,ダイエー福岡移転
1990 4185990 25.81% 12029990 74.19% オリックス2位,近鉄3位
1991 4470991 26.32% 12514991 73.68% 近鉄2位,オリックス3位,オリックス神戸移転
1992 5375992 29.29% 12980992 70.71% 阪神2位,近鉄2位,オリックス3位

在阪球団 阪神,阪急→オリックス,南海,近鉄  
在京球団 読売,横浜,ヤクルト,西武,ロッテ,日本ハム

B 運

 また,この時代,パ・リーグはドラフトのくじ運に恵まれていました。 1985年の第21回ドラフトでは西武が6球団競合の清原を指名し,入団すると清原は高校出ながら3割30本塁打を記録し新人王を獲得します。この年西武は,166万人を動員し,前年の140万人から26万人増を記録しています。

表6 ドラフト入団選手
指名年 球団 選手    
1985 西武 清原 6球団競合 R .304 31 78 6 新人王
1986 近鉄 阿波野 3球団競合 L 15 - 12 - 0 2.88 新人王
  日本ハム 西崎    R 15 - 7 - 0 2.89
1987 ロッテ 伊良部    
1989 近鉄 野茂 8球団競合 R 18 - 8 - 0 2.91 新人王
1990 ロッテ 小池 拒否

 以上,@ABについてみてきましたが,ここで整理しますと,グラフ5に見られるバブル期のパ・リーグの観客爆発は次の連鎖で起きたと思われます。

 阪神日本一(1985) → パ在阪球団の復権(1986) + 清原効果 → 東京ドームの開場(1988) → ホークスの福岡移転(1989) → オリックス神戸に移転(1991)→ ロッテ千葉に移転(1992) → 福岡ドーム開場(1993)

 森西武黄金時代をベースに,阪神の日本一が発火点となり在阪パ・リーグが復権したこと(表5参照),これにフランチャイズの移転,ドームを含む新球場建設がかさなったことが大きいと思われます。

 日本経済を覆ったバブル景気は,余暇の増大や可処分所得の増大をもたらし,レジャー産業全体が拡大しました。プロ野球バブルも,またこのバブル景気によってもたらされたものといえます。ダイエー,オリックスの南海,阪急の買収。東京ドーム,福岡ドームの建設,千葉マリンスタジアム,グリーンスタジアム神戸の建設。これらもバブル景気の遺産といえるかもしれません。

 バブル景気におきたプロ野球バブル,この時代,プロ野球ファンはパ・リーグを発見しました。しかし,その発見は遅すぎたのかも知れません。 

参考HP:日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球感動員の変遷
      http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyakumidasi.htm

はじめに 第1章 第2章 第3章

3 高度成長期におけるプロ野球(1955年〜1972年)(2001/03/23追加)

 プロ野球は,前項で見てきたように1973年〜1992年まで観客動員は,一貫して増加傾向にありました。ところが一般にプロ野球の黄金時代は,王・長島を中心とした巨人全盛時代と考えられてきました。この時代は,まさに高度経済成長期にあたり,経済成長率や所得は大幅に増加しますが,プロ野球の観客はグラフ1のとおり長島がデビューした1957年700万人代から800万人台に増加していますがそれ以降1973年までは,800万人台と900万人台を上下していたに過ぎません。

 しかし,その観客構造は,大きく変わっていました。

表7 観客動員数における割合(1955年〜1972年)
  観客動員数の割合 観客動員数
(万人)
日本一 TV普及率 備考
1953年日本テレビ放送開始
巨人 5球団 パ・リーグ 白黒 カラー
1955 15.40% 42.27% 42.33% 7,312,718 巨人      現TBS放送開始 
1956 14.81% 44.72% 40.47% 7,537,226 西鉄       
1957 16.52% 48.89% 34.59% 8,359,600 西鉄      長島デビュー
1958 16.66% 42.99% 40.35% 8,884,200 西鉄 15.9%   TV100万台超える
1959 17.42% 38.69% 43.89% 8,498,981 南海 23.6%   フジテレビ開局,現テレビ朝日開局,TBSキー局化天覧試合
1960 19.05% 46.40% 34.55% 8,104,461 大洋 44.7%   カラー本放送開始
1961 18.39% 41.73% 39.88% 8,718,590 巨人 62.5%    
1962 18.14% 41.30% 40.56% 9,600,286 東映 79.4%   TV1000万台
1963 22.13% 38.33% 39.54% 9,731,293 巨人 88.7%   TV1500万台
1964 22.87% 41.85% 35.28% 9,689,755 南海 87.8%   東京オリンピック
1965 26.33% 45.09% 28.58% 8,752,861 巨人 90.0%   ドラフト始まる
1966 26.44% 42.83% 30.73% 8,818,421 巨人 94.4% 0.3% 日本テレビ,フジテレビキー局化キー局によるローカル局の囲い込み 
1967 24.92% 42.23% 32.85% 8,354,743 巨人 96.2% 1.6%  
1968 23.91% 44.15% 31.93% 8,917,250 巨人 96.4% 5.4% 「巨人の星」放送開始
1969 23.61% 44.94% 31.45% 9,596,872 巨人 94.7% 13.9%  
1970 26.08% 41.99% 31.93% 9,612,050 巨人 90.2% 26.3% 黒い霧事件
1971 27.43% 42.54% 30.03% 8,605,700 巨人 82.3% 42.3% 「巨人の星」放送終了
1972 26.40% 44.55% 29.05% 8,731,600 巨人 75.1% 61.1%  

 表7は,1955年〜1972年にかけての巨人,巨人以外のセ・リーグ5球団,パ・リーグの観客動員数の割合を見たものです。1955年の時点では,「15.4:42.27:42.33」の割合であったものが,1972年の時点ではそれが「26.4:44.54:29.05」に変わっています。巨人以外のセ・リーグ5球団の割合は4割余でほとんど変わりませんが,巨人は11ポイント増,逆にパ・リーグは13.28ポイントも減らしています。巨人の9連覇時代,パ・リーグ6球団の観客動員は,巨人1球団のそれと同じになるくらいになってしまっています。パ・リーグが40%のシェアに戻るのはバブル期の1988年まで待たねばなりません。

 高度経済成長と重なる1955年〜1972年の時代というのは,プロ野球全体の観客数はそれほど増えていませんから,「巨人ファンは増えたが,プロ野球ファンは増えなかった」ことを示しています。おそらく,巨人以外のセ・リーグ5球団にしても,主催ゲームの観客動員は大きな変化がありませんが,巨人戦の占める割合は大きくなっていると思われます。

 第1章で見てきたように,高度経済成長期というのは,国民総意のもとに,アメリカン・ライフスタイルの大量消費社会を夢見て国家官僚主導による規格大量生産社会が推し進められた時代であり,効率化の名のもと,画一化,均質化,東京一極集中といった政策が採られました。プロ野球の世界でも,資金力にものをいわせた常勝球団化と初の民放テレビ局である日本テレビによるプロ野球中継により,巨人への一極集中が進んだ時代だったのです。

 巨人への一極集中は,リーグが異なるパ・リーグに観客減をもたらし,セ・リーグの他の5球団は巨人戦の入場者と放送権料に依存するという巨人依存体制が完成した時代でもありました。そして,観客減に悩むパ・リーグは,1970年代に2シーズン制と指名打者制を採用することなります。

参考HP:個人消費と住宅建設 耐久消費財の普及率(全世帯)
      http://www.res.otaru-uc.ac.jp/~hanada/shohi/fukyu-c1.html
      日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球感動員の変遷
      http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyakumidasi.htm

 以上,第2章で見てきたとおり,プロ野球というのは日本経済や社会と密接なものであることが分かると思います。ところが,プロ野球には,経済や社会と関係のない動きもまた存在したのです。

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第3章 ナベツネのプロ野球反革命

 まずは,グラフ6を見てください。観客動員から見たプロ野球のバブルが終わった1993年を境に一軍選手の平均年俸が急激に上がったのが分かります。日本社会全体を覆ったバブル期には選手年俸は緩やかな上昇なのに対し,バブル崩壊後の平成不況では逆に上がるという矛盾した動きを見せています。では,その1993年にプロ野球に何が起こったのでしょうか。

 グラフ6 プロ野球の観客動員数と一軍選手平均年俸の比較

観客動員数と選手年俸の比較



  1992年にナベツネこと渡辺恒雄氏が読売新聞社長に就任すると,巨人は1リーグ制を脅しに使い保留条項とドラフト制による野球カルテルの改悪を球界に迫ります。

 1993年Jリーグがスタートし,ブームが起きると,自らプロ野球の危機を演出し,長嶋茂雄氏を巨人軍の監督に復帰させ,フリーエージェントとドラフトの逆指名を勝ち取ります。これが,ナベツネの反革命です。

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 ドラフト制は何をもたらしたか

 ドラフト制は1965年,新人契約金の抑制と戦力に均衡を目的に実施されました。当時,球団の選手に対する保有権が統一契約書により確立したのにともない,既存選手の引き抜きができなくなり,新人選手の獲得競争の激化と,それに伴う契約金の高騰を招いていました。新人の契約金とスカウト費用だけで,全選手の年俸に匹敵すると言われていました。

 当時,12球団の総収入は約34億から35億と言われ,その3分の1を巨人が占め,次いで中日,阪神。その3球団で全体の半分を占めていました。他の球団がいかに膨大な赤字に苦しんでいたかがわかります。こうした,プロ野球の経済的危機を背景に,戦力の均衡化によるプロ野球全体の繁栄という大義名分によりドラフト制が実施されたのです。

 その結果,人件費は抑制され,戦力の均衡化も進みました。戦力の均衡化について,球団の経営能力が似通っているセ・リーグで比較するとよく分かります。

表8 優勝回数
1955年〜1973年 1974年〜1992年
球団名 リーグ優勝 日本一 球団名 リーグ優勝 日本一
巨人 16回 12回 巨人 7回 2回
阪神 2回 0回 広島 6回 3回
大洋 1回 1回 中日 3回 0回
        ヤクルト 2回 1回
        阪神 1回 1回
19回 13回 19回 7回

 1955年から1973年というのは,自由競争時代から巨人のV9の年までです。V9の年1973年というのはドラフト制の開始から8年目のシーズンですが表2のように巨人のベストオーダーでドラフト指名選手は高田1人だけでしたので,ドラフトによる戦力均衡化前と見ることができます。1974年の中日のオーダーは谷沢・大島など5人のドラフト組が並びます。セ・リーグにおいてドラフトの効果が出るのは1974年以後とみることができます。

 この結果を表7で比較すると一目瞭然です。1955〜1973では,巨人は19年間で16回のセ・リーグ優勝,12回の日本シリーズ優勝とまさに常勝球団でした。優勝球団も巨人の他は阪神と大洋の2球団だけでした。自由競争時代は,巨人が資金力にものをいわせて戦力の補強を行っていたのが分かります。

 ところが,1974〜1992ではドラフトによる戦力の均衡化が進み,横浜大洋を除く5球団がリーグ優勝し,巨人は7回で最多ですが日本シリーズは2回しか優勝していません。広島も6回優勝し,日本シリーズでは3回の優勝を飾っています。ところが,戦力の均衡化というのは巨人にとってはゆゆしき問題でした。

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 読売はプロ野球に何を求めたのか

 1924年(大正13年)2月,関東大震災と大阪系紙(朝日,毎日)の東京進出により経営難に陥っていた「読売」の経営に
,元警視庁警務部長正力松太郎は経営に着手します。正力は,まず何よりも経営の独立,営業の独立,発展を考え,これを実現する唯一の手段として新聞事業による自社の宣伝にあると考えました。

 当時,大阪系の朝日と毎日は中等学校野球大会を主催して,部数の増加につなげていました。そこで,読売も社運を賭け1931年(昭和6年)第1回日米野球大会,さらに1934年(昭和9年)の第2回日米野球大会「アメリカ大リーグ遠征チーム対全日本選抜」を興行し,販売部数を大幅に伸ばしました。部数の伸びによる販売収入の増加が,膨大な経費を回収してなお,十分な儲けを読売にもたらしたのです。

表9 読売新聞の発行部数
    発行部数
大正13年 1924年 5万部
昭和6年 1931年 22万部
昭和10年 1935年 70万部
昭和16年 1941年 150万部

 このため,正力は,プロ野球それ自体は採算がとれなくても,本業を利するものであればいいのではないかと考え,プロ野球リーグ成立に向け奔走し,阪神電鉄,阪急電鉄,西武鉄道,新愛知新聞,名古屋新聞,国民新聞が参加し1936年(昭和11年)2月日本職業野球連盟が発足します。読売はちゃっかり,第2回日米野球大会の全日本選抜をもとに東京巨人軍を結成し主導権を握ります。

新聞社 東京巨人軍 読売新聞
大東京軍 国民新聞
名古屋軍 新愛知新聞
名古屋金鯱軍 名古屋新聞
鉄道会社 大阪タイガース 阪神電鉄
阪急 阪急電鉄
東京セネタース 西武鉄道

 戦前のプロ野球は,1つの会社として体裁を整えてはいたものの純粋な企業として発足しなかったのであり,新聞社や鉄道会社からの宣伝費から捻出され,企業としてとりあげられたものではなかったのです。そして,これが戦後のプロ野球の基本的性格をも決定づけたのです。

 次に,読売新聞社長渡辺恒雄氏が第二代巨人軍オーナーに就任したときのコメントを見てみましょう。

 
 本日は,巨人軍最高経営会議及び株式会社よみうりの取締役会の決定により,巨人軍オーナーに就任しました。
 正力亨オーナーは就任して以来32年7ヶ月の長きにわたりその重責を担い,巨人軍の伝統,栄光を不動のものにされました。ご労苦に深く敬意を表します。
 さて,プロ野球界はJリーグの落ち目の人気と逆に,ますます全国的に人気を集め国民的スポーツとして繁栄しています。これは統制力の強い市町村主義と企業排除のJリーグと異なり,球団の親企業が市場競争の競争現場にたち,選手の心身技術能力の向上のため,不断の努力を続け,プロ野球機構も常に改革に向け知恵を絞りながら結束しているからです。
 60余年の伝統を持つ巨人軍は,来年の日本一を目指し,他球団の切磋琢磨を続けていく決意です。
 今後は微力ではありますが,コミッショナー,セ・パ両リーグ会長,他球団オーナーの方々と手を携え,プロ野球発展のために全力を尽くす所存です。
 すべてのプロ野球ファン,野球関係者の方々のご支援をお願いいたします。
 
 平成8年(1996年)12月16日                 渡辺恒雄

                       (長嶋監督勇退論「天才には監督は務まらない」 林 諄 著 日本医療企画 1997)  

 これは,巨人がいかに読売と一体であるかを表しています。

 読売にとって巨人は,新聞販売の拡張の手段であり,日本テレビの視聴率を稼ぐ道具だったのです。巨人は常勝を義務づけられ,強くなければいけなかったのです。
 それが,ドラフト制によって思うような補強ができず,勝てないということは大問題だったのです。

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 巨人はプロ野球に何をしたのか

 このため,巨人はドラフトの抜け道を作ろうと,数々のトラブルを起こしました。

【江川事件】
 20年に1人といわれた逸材作新学園の江川卓は,1973年ドラフトを前に,慶応大学進学を理由にプロ入り拒否を表明するが,阪急が敢然と指名,江川はこれを拒否し,法政大学に進学する。1977年,2度目のドラフトでは,事前にはっきりと「巨人志望」を公言するが,クラウンライターが一番クジを引き指名した。江川は,これを拒否し,1年間野球浪人となり,1978年,ドラフトの前日,巨人は空白の一日を利用し,江川と契約を主張し,最後は金子コミッショナーの強い要望により,その後ドラフトで指名した阪神との間でトレードで巨人に入団した。

【桑田事件】
 1985年プロ入りを拒否し,早稲田大学への進学を表明していたPL学園の桑田真澄を,巨人が単独で指名し,入団するという事態になり裏工作が問題視された。巨人志望であった同僚の清原は涙を流した。

【元木事件】
 1989年巨人を熱望していた上宮高の元木は,ダイエーの1位指名を拒否し,1年間野球浪人となり,翌1990年巨人が1位指名し巨人に入団した。


 球界の財産である王,長嶋に対してはどうだったでしょうか。

【長嶋監督解任】
 1980年3年間優勝から遠ざかり6年間日本一がなかったことを理由に長嶋監督を解任します。これは,常勝が宿命づけられた巨人にとって耐え難いことでした。しかし,巨人を新聞の拡張材と考えている読売グループは,10万部を超える解約というしっぺ返しを長嶋ファンから受けます。

【王監督解任】
 1988年連覇を逃したが2位であった王監督を5年間で,日本一がないことを理由に解任する。しかし,王監督時代5年間(1984年から1988年)の平均視聴率23.94%が,その後の藤田監督時代4年間(1989年から1992年)は20.00%と低迷します。

【長嶋監督復帰】
 視聴率の低迷に悩んでいた読売グループは,長嶋人気を当て込んで長嶋氏を監督に復帰させます。ドラフトによってスター選手の獲得が思うようにできない読売・巨人は,人気者長嶋茂雄を再度,監督に復帰させざるを得ませんでした。しかし,長嶋采配に疑問がある以上,ドラフトを骨抜きにする必要に迫られていました。

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 ナベツネ反革命は何をもたらしたか(2001/03/23下線部加筆)

 それでは,ドラフト逆指名とFAはプロ野球に何をもたらしたでしょうか。ドラフトが,戦力の均衡と人件費の抑制を目的にしていますから,新人選手市場と既存選手市場に自由競争もたらす逆指名とFAは,戦力の不均衡と人件費の増大をもたらすことになります。

(1)人件費の増大
 
 人件費の増大にについては,グラフ6で先に説明したとおり,1993年以降顕著なのがわかりますが,各球団にはいかに人件費の増大が負担になっているのかを表10で見てみましょう。1992年から2000年の9年間でパ・リーグは50%増,セ・リーグは倍増しているのが分かります。日本のプロ野球はこの9年間で平均11億5千万円であった人件費が19億9千万円へと8億4千万円も増加しています。これには,外国人選手の人件費と新人選手の契約金は含まれていないため,人件費はこの倍近く膨らんでいると思われます。また,2000年に逆指名でドラフト1位指名された選手の契約金は5億円とも6億円ともいわれています。,このように,FAと逆指名というナベツネ反革命は,人件費の高騰を招き,プロ野球各球団,特にパ・リーグ球団の財政状況を圧迫しているのです。

表10 人件費の増大(日本人選手のみ)
球団名 人件費(万円) 増加率 球団名 人件費(万円) 増加率
ダイエー 92 113,833 160.40% 巨人 92 140,231 252.94%
00 182,590 00 354,705
西武 92 163,614 137.50% 中日 92 144,950 160.84%
00 224,968 00 233,142
日本ハム 92 102,762 150.98% 横浜 92 94,403 235.07%
00 155,150 00 221,910
オリックス 92 100,006 171.82% ヤクルト 92 108,768 175.10%
00 171,826 00 190,452
ロッテ 92 92,820 172.97% 広島 92 107,604 151.08%
00 160,552 00 162,564
近鉄 92 121,836 124.01% 阪神 92 94,965 187.61%
00 151,094 00 178,164
パ・リーグ合計 92 694,871 150.56% セ・リーグ合計 92 690,921 194.08%
00 1,046,180 00 1,340,937

(2)戦力の不均衡

 巨人はフリーエージェントでこの8年間に,落合,広沢,清原,江藤と他球団の4番打者を獲得しまくり,制度の初期(1993年,1994年)には,横浜やダイエーも獲得球団になっていましたが,1998年以降は巨人,中日,阪神というセ・リーグの人気3球団か大リーグに集中しています。

表11 主なFA選手
FA年 選手名 前球団 新球団
1993 松永 浩美 阪神 ダイエー
駒田 徳広 巨人 横浜
落合 博満 中日 巨人
石嶺 和彦 オリックス 阪神
1994 広沢 克己 ヤクルト 巨人
石毛 宏典 西武 ダイエー
工藤 公康 西武  ダイエー
川口 和久 広島 巨人
1995 河野 博文 日本ハム 巨人
1996 清原 和博 西武 巨人
1997 吉井 理人 ヤクルト 大リーグ
中嶋  聡 オリックス 西武
1998 武田 一浩 ダイエー 中日
木田 優夫 オリックス 大リーグ
1999 佐々木 主浩 横浜 大リーグ
工藤 公康 ダイエー 巨人
江藤  智 広島 巨人
星野 伸之 オリックス 阪神
2000 川崎 憲次郎 ヤクルト 中日
新庄 剛志 阪神 大リーグ

 2000年,巨人は3年ぶりのセ・リーグ優勝と6年ぶりの日本一を獲得しましたが,それは毎年30億円以上といわれる豊富な資金力による補強の賜でした。

 ドラフトでは,1998年高橋由,1999年上原,二岡,2000年には高橋尚を逆指名で獲得し,FAでは,1997年に西武の4番清原,2000年にはダイエーのエース工藤,広島の4番打者江藤を獲得しています。外国人選手では,1997年ロッテからヒルマン(1998年で退団),2000年には阪神からメイが入団し,韓国からは1996年チョ・ソンミン,2000年にチョン・ミンチョルを獲得しています。

 自由市場において,有力な選手を豊富な資金を利用して独占することにより,他球団との間に,絶対的な戦力優位にたち,勝ち得た勝利に対し,金満野球という批判が浴びせられています。九連覇後半と同様,スポーツの魅力を失った巨人戦の視聴率が落ちるのは,当然の結果ではないでしょうか。


参考HP:日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球感動員の変遷
       http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyakumidasi.htm
参考文献:「近代プロ・スポーツ」の歴史社会学 菊幸一著 不味堂 1993
       「球団消滅」幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎 中野晴行著 筑摩書房 2000 
       日本プロ野球トレード大鑑 1936→2001 ベースボールマガジン社
       週刊ベースボール 2001年2月5日号 ベースボールマガジン社
       プロ野球ドラフト読本2000 ベースボールマガジン社

はじめに 第1章 第2章 第3章 

結びにかえて

 プロ野球ルネサンスはなぜ起きたのか,そしてなぜうまくいかなくなったのか,そしてなぜ,ナベツネの反革命が起きたのか。

 プロ野球は,その誕生のときから「企業体として『よこしまな道』」を歩み続けてきました。

『中日ドラゴンズ30年史』は,元セントラルリーグ野球連盟会長鈴木龍二はが正力から,「プロ野球はもうけなくてもよい。国民一般が明るい娯楽として楽しんでくれて,勤労の意欲ともなれば,自分がプロ野球を作った意義が生かされる」という主旨の発言を聞いて鈴木自身がひどく感激したというエピソードを取り上げながら,「もし,ほんとに正力が,そのように考えて,職業野球を作ったのであれば,それはたいへんな誤りではなかったかと思う。採算を考えない,職業,あるいは企業は,あり得ないことだから・・・」と述べ,日本のプロ野球がそれ自体,企業体として「よこしまな道」を歩み続けてきた要因と捉えている。

                                      (「近代プロ・スポーツ」の歴史社会学 菊幸一著 不味堂1993)

 戦後,読売新聞の全国紙化とテレビの全国中継により,プロ野球はその「野球」さえも「よこしまな道」へと突き進んでいきました。高度経済成長期における「巨人,大鵬,卵焼き」の時代です。ところが,共存共栄という本来の企業体としての大義名分のためドラフト制が実施されると,球団間の戦力が均衡化し,本来の「野球」に戻っていきました。それが,1970年代の時代とコミットして起こったのが「プロ野球ルネサンス」です。この流れはバブル期を経て,1993年のナベツネ反革命(FA,逆指名)まで続きます。

 高度成長期における集権化と画一化の流れとは,逆の流れ,すなわち地方化と多様化の流れが,1970年代生まれてきたのです。プロ野球でも,赤ヘル旋風や大洋の横浜移転のような動きに表れています。面白いのは,ライオンズの所沢移転で,これは東京への集権化であるとともに,大洋の横浜移転と同様,東京圏においては地方化あたります。この地方化の流れは,バブル期も続き,ホークスの福岡移転,オリックスの神戸移転,ロッテの千葉移転へとつながります。

 ところが,依然としてプロ野球は,企業体としては「よこしまな道」を歩んでいました。親会社と巨人戦に依存するという「高度成長期に完成した集権化と画一化の構造」には変化がありませんでした。このような「よこしまな構造」では,地方化や多様化も限界があり,プロ野球ルネサンス(バブル期も含む)も結局はうまくいかず,ナベツネ反革命により終焉します。

 また,読売・巨人にとって,ドラフトという共存共栄策は読売・巨人の利益を損なうものであり,耐え難いものでした。プロ野球は巨人人気で支えられているにも関わらず,巨人の思うようにならないのは許せなかったのです。それが,ナベツネ反革命なのです,すなわち,「野球」を「よこしまな道」に再び連れ戻したのです。

 本レポートで見てきたように,プロ野球も日本経済の流れの中にいます。日本経済は,今後の10年,再生のための10年となるか,衰退への10年になるか,瀬戸際にあるといわれています。そして,プロ野球もまた,今後の10年間,大きな岐路に立たされています。

 プロ野球は「よこしまな構造」を改めない限り,企業体として「まっとうな道」を歩むことはできませんし,プロ野球ファンも,「野球」本来の姿をを見ることはできなくなります。そして,プロ野球の繁栄と発展もありえないのです。
 

はじめに 第1章 第2章 第3章 

2001年3月24日 B_wind