欧州の近代

第1章 第2章 第3章 第4章 特集1 特集2

第1章 ヨーロッパの原型 

(2005/09/23〜2005/10/11)

1 欧州−ヨーロッパとは何か
2 8世紀のヨーロッパ
3 ヨーロッパの原型−フランク王国
4 中部フランク王国−イタリアの原型
5 東フランク王国−ドイツの原型
6 東フランク王国−ドイツの原型 2
 7 西フランク王国−フランスの原型
8 中世ヨーロッパのまとめ

1 欧州−ヨーロッパとは何か

フランス普遍主義がスポーツの普遍化に大きな影響を与えた点を見てきたが、現スポーツ総合研究所の広瀬一郎氏によれば、 

 イデオロギーを理解するためには、その概念の歴史的な形成過程を知る必要がある。第一に理解すべきは、「近代」。今更ではあるが、我々は近代スポーツを前提にしている。第二は、ヨーロッパ。「近代」とはそもそも「欧州」で誕生した概念だ。つまり、「近代スポーツ」を理解するためには、スポーツの中にビルトインされている「欧州の近代」という要素を理解しておく必要がある。index.html へのリンク

ということでまずは、欧州−ヨーロッパとは何かについて

古代アッシリア語(アッカド語、最古のセム語)で、日没転じて西を意味する「エレブ ereb」がギリシャに渡り、「エウロパEuropa」となり「ヨーロッパ」の語源となった。アジアの語源もアッシリア語の日の出あるいは東を意味する「アッスasu」に由来する。アッシリアとは日本と同じ「日出づる国」のことで、古代メソポタミアで勢力を振るった王国・世界帝国。アッシリアはシリアの語源でもある。ヨーロッパが西、アジアが東という概念は、古代メソポタミアのアッシリアから見た太陽の昇る方角、沈む方角によって位置づけられた、ともいえる。
Europa.html へのリンク  kokumei.htm へのリンク

しかし、8世紀のイスラム教徒の侵攻時を除けば、「ヨーロッパ」という地名が用いられるようになったのはようやく14世紀のことだという。kaler1.htm へのリンク

2 8世紀のヨーロッパ

8世紀(732年)、ゲルマン系のフランク王国宮宰のカール=マルテルは、スペインを占領していたイスラム教国家ウマイヤ朝のヨーロッパ本土侵攻をトゥール・ポアティエ間の戦いで破り、以後、イスラム教徒はピレネー山脈を越えることはなかった。このトゥール・ポアティエ間の戦いを記した『イシドルス・パケンシス』にはイスラム教徒との対比で「ヨーロッパ人(europeenses)」という語が用いられた。

ところで、ローマ教会は、コンスタンティノープルなどと並ぶキリスト教五本山のひとつだが、 第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であることから、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張していた。

ローマ帝国が東西に分裂する(395)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後コンスタンチノープル以外の他の三教会がイスラム教徒の支配下にはいると、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争った。

ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後も、西ヨーロッパにおいて精神的権威を持つことになったが、教皇(ローマ教皇、ローマ=カトリック教会の最高首長で初代のペテロを継ぐ者)の地位につくには東ローマ皇帝の承認が必要だったし、東ローマ皇帝がいる限り、キリスト教の保護者は東ローマ皇帝であった。

しかも、西ローマ帝国の滅亡後は異端とされたアリウス派を信仰するゲルマン諸族に周りを囲まれ、ローマ教会が頼れるのは東ローマだけであった。こうした状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていた。

一方、フランク王国は、ゲルマン民族のフランク族の王国であったが、他のゲルマン諸族が異端とされたアリウス派を信仰していたのに対し、いち早く正統のアタナシウス派に改宗し(496)、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を築いた。だが、フランク族の間では分割相続の習慣があったので、国情は安定せず、しだいに「宮宰」(家政の長官の意味)の力が強くなり、行政・財政の実権を握るようになっていった。

そんな中、宮宰マルテルの子小ピピンは、ローマ教皇に接近し751年、自らフランク国王となりカロリング朝(751~987年)を興す。当時、聖像禁止令で東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会と対立していたローマ教皇は、強い後ろ盾を必要としていた。小ピピンは、754年異端のアリウス派を信仰し教皇と敵対していた同じゲルマン系のロンバルディア王からラヴェンナの地を奪還、教皇に献上した(ピピンの寄進 教皇領の始まり)。

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3 ヨーロッパの原型−フランク王国

小ピピンの子カール大帝(仏語でシャルルマーニュ:位768-814)は、ロンバルディア王国を滅ぼし、800年には、ローマ教皇から西ローマ皇帝として戴冠を受け(カールの戴冠)、西ローマ帝国皇帝(位800-814)となった。彼は、アジア系のアヴァール族討伐し、文化面でもアルクィンを始めとする学者を招き、教育・文化の発展に尽力し、カロリング=ルネサンスと呼ばれた。

カール大帝のフランク王国は、現在のEUの前身であるEC原加盟国(フランス・ドイツ・イタリア及びベネルクス三国)と一致する領域を支配下に治め、当時の年代記には彼を「ヨーロッパの父」と記している。ところが、大帝の死後、三分割された帝国は「ヨーロッパ」と呼ばれなくなり、「ヨーロッパ」という言葉そのものもほとんど使用されなくなった。

このことは、当時、「ヨーロッパ」という枠組みがある一定規模以上の領域という「国家」を超えた地理的概念を指すけれども、何らかの「社会」を形成する母胎としてはまだ存在していなかったことを意味していると言えよう。

ヨーロッパは、地理的には、ウラル山脈、バルカン半島より西の部分を指す。元々この地域は「キリスト教世界」と言う言葉を使って自らをさしてたが、宗教対立などで使いづらくなったため14世紀頃から「ヨーロッパ」と言う概念が産まれて取って変わったと言われている。この概念が完全に定着したのは1700年前後とされる。

ところで、この時代、地理的な西ヨーロッパは、東ローマ帝国=ビサンツ帝国の影響下から脱し、政治面ではゲルマン人の皇帝が支配し、精神面はローマ・カトリックの教皇が指導するという新勢力による秩序が形成され、中世へと移行していくことになる。一方、文化面では、それまでのローマ・ギリシャ精神とキリスト教精神の文化にゲルマン人の精神が融合したヨーロッパ文化圏の原型が形作られていった。

また、宗教面ではローマとコンスタンチノープルの決裂ともいえ、11世紀にはキリスト教世界は、ローマ教会を中心とするカトリック(普遍教会)とコンスタンチノープル教会(ビザンツ帝国)を中心とする東方正教会(オーソドクス、正統教会)に完全に分裂する。

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4 中部フランク王国−イタリアの原型

フランク王国は、カール大帝の孫ロタールのとき、分割相続による内紛により三分割される。834年にヴェルダン条約が結ばれ、現在のドイツを中心とする東フランク王国(ルードヴィッヒ王)、フランス地域である西フランク王国(シャルル王)、イタリア・中部フランスの、中部フランク王国(ロタール1世)に分割されます。さらにロタールが死去すると、中部フランス地域は東と西で分割された(870年、メルセン条約)。このまま、3国は結合することなく、ドイツ、フランス、イタリアの原形となった。

北イタリアの中部フランク王国は、9世紀にはカロリング家の血統が途絶え、以後、諸侯によって分割され都市国家的な面積の国家群の乱立状態になっていった。北イタリアは、十字軍遠征以後、東方貿易で栄え、ルネサンスの舞台となるが、大航海時代以降、東方貿易の衰退とともに、衰え、神聖ローマ帝国やフランスの政争の舞台となった。中部は、教皇領で、南イタリアは、東ローマ・イスラム・ノルマンなど、さまざまな国家の支配下におかれた。

このため、イタリア半島は、1861年サルデーニャ王がイタリア王に就くまで、統一されることなく、北部・中部・南部は別々の歴史を辿り、今日の南北問題にまで尾を引くことになる。1870年の普仏戦争に乗じて、フランスの後ろ盾を失ったローマ教皇領を統合し、イタリア統一は完成する。

イタリア語はトスカーナ地方とイタリア南部の中間をベースにしてイタリア王国成立時に作られた一種の人工言語。ラテン語から進化したイタリア各部に残る言葉(方言)とはそれぞれ違いがある。イタリアでは日常会話はその地方の言葉(方言やドイツ語、フランス語など)であるため、標準イタリア語を母語とする人は少数である。

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5 東フランク王国−ドイツの原型

東フランク王国の地域は、多くのゲルマン民族が小部族単位で居住し、ローマ化されることなく、ゲルマン語系のドイツ語が話されていた。このため、カロリング朝の血統が絶えると、この地域はドイツと呼ばれ、小部族国家の乱立状態が特徴となった。この特徴は2006年FIFAワールドカップを開催する今日のドイツ「連邦」共和国でも見られる。

だが、当時、ドイツはヨーロッパの東の辺境に位置し、異民族(マジャール人など)の侵入に対抗するため、強力な王権が必要とされ、919年、ザクセン公のハインリヒ1世が諸侯による選挙で王に選べれた。

2代目オットー1世のとき、キリスト教による強力な中央集権化を目指し、これまた分立状態にあったイタリアに遠征、ローマ教皇の後ろ盾となり、962年、空位となっていたローマ皇帝の位を授かる。

これにより、オットー1世は形式的にはヨーロッパの王の中で最も偉大な王となり、以後、ドイツは、ローマ皇帝を事実上独占したことから、「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」等の呼称の後、1245年には「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。

ところが、神聖「ローマ皇帝」となった歴代のドイツ王は、本国ドイツの統治よりもローマ教皇のいるイタリア支配に熱中し、ドイツ国内は分裂状態に陥っていく。この歴代の神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ぶ。

13世紀ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。やがて、「帝国」は、形骸化し、「神聖ではないし、ローマ的でもない。それどころか帝国ですらない」状態になり1806年ナポレオンによって解体された。

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6 東フランク王国−ドイツの原型 2

ドイツが国民国家として統一されるのは、イタリアと同じく19世紀後半になってからだ。ドイツの辺境、即ち、ヨーロッパの辺境からドイツの強国が生まれた。

ドイツ北東部にフランク王国第2代皇帝ロタールのとき、東の辺境の防衛のため、ブランデンブルグ辺境伯領が今のベルリン一帯におかれた。12世紀にはいるとさらに東のバルト海沿岸部にあったバルト系のプロシアを、十字軍の遠征で誕生したドイツ騎士団がキリスト教の布教を兼ねた軍事的な植民活動を行い、プロシアはドイツ化し、プロイセンとなった。

プロイセンはその後、東西に分裂し、飛び地となった東プロイセン(西プロイセンはポーランド領)は、1618年、ベルリンを首都とするホーエンツォレルン家の「ブランデンブルク侯国」と同君連合後、統合され1701年プロイセン王国となる。東プロイセンは帝国外にあったため、神聖ローマ皇帝を世襲していたオーストリアのハプスブルグ家に王国として認められた。後に、ポーランド領となっていた西プロイセンも統合し、北ドイツの強国となる。

一方、初代神聖ローマ皇帝となったオットー1世のとき、マジャール人によって荒廃させられた帝国南東部の再建と防衛のために、辺境伯領(マルク)が設置され、その一つがオーストリア辺境伯領となった。1273年ハプスブルク家のルドルフがドイツ王(神聖ローマ皇帝)に選出されたとき、オーストリア大公領(1156年辺境伯領から格上げ)をボヘミアから奪い、以後、拠点としたハプスブルク家は、次第に勢力を拡大し、巨大な帝国を築き上げていった。

ハプスブルク家は一度神聖ローマ帝国の帝位を失うが、オーストリア公として着実に勢力を広げ、1438年に再び帝位ついてからは完全に世襲化する。16世紀には、婚姻関係からハプスプルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルラントとスペイン王国、ナポリ王国、ハンガリー王国、ボヘミア王国を継承し、皇帝カール5世のもとでヨーロッパの大領土を実現した。1804年、オーストリア帝国となる。

19世紀、オーストリア帝国とプロイセン王国はドイツ統一を争い、1866年の普墺戦争でプロイセンがオーストリアに勝利すると、ドイツ統一はプロイセン中心で進められた。1870年の普仏戦争でフランスに勝利すると、1871年プロイセン王がドイツ皇帝となった。

2005年9月25、アテネ・オリンピック金メダリストの野口みずきが、2時間20分の壁を破りアジア新で優勝したベルリン・マラソンのスタート地点となったのが、ドイツ統一の象徴となったブランデンブルグ門からであった。

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 西フランク王国−フランスの原型

西フランク王国は、ゲルマンや先住のケルト人がローマ化した地域で、言語はローマの公用語だったラテン語がゲルマン語の影響を受けたロマンス語系(フランス語)の地域であった。ここでも10世紀後半にカロリング家は途絶えると、987年に西フランク王ロベール1世の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝が始まる。

カペー朝は、1328年まで14代の王を輩出し、またブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。つまり、フランス国王は、ヨーロッパの原型を創ったシャルルマーニュ(カール大帝)の子孫。また、フランスの語源は、フランク王国のフランクだ。

だが、カペー朝が成立した時点でフランスは各地に伯(コメス)と呼ばれる諸侯たちが割拠する典型的な封建社会で、国王はパリを中心とするイル・ド・フランスを抑えるのみで、王としての権威の他にはほとんど実効的な権力をもたなかった。

しかし、12世紀前半のルイ6世の時代から王権の強化が始まり、同世紀末から13世紀前半にかけてのフィリップ2世とその子ルイ9世の時代に王権が諸侯・貴族を圧倒して国家統一を進め、官僚機構の萌芽がみられるようになる。国家統一は14世紀初頭のフィリップ4世の時代にほぼ完了し、三部会の創設、アナーニ事件による教会の抑制、テンプル騎士団の解散など様々な強硬政策を打ち出せるほどになっていた。

こうしてカペー朝は絶対主義への道筋を開いたが、フィリップ4世の死から14年後に男系の相続人が断絶し、ヴァロア朝に道を譲った。ヴァロア朝初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成され始め、戦争の結果イギリスの領土はカレーを除いてフランスから駆逐された。 王権が弱体であったカペー朝に比べ、ヴァロア朝は国王権力の強化への階段を登り始めた。

ルイ9世の第6子であるロベールの子がブルボン公を称し、ヴァロア家断絶の後を受けて、アントワーヌがナバーラ王位を得て、その子アンリ4世のときフランス王位を継承した。ルイ14世のとき絶対君主制を確立し、フランス革命で一時中断、復古王政ののち1830年の7月革命をもって嫡流はフランス王位を失った。

フランク王国分割後、小都市国家に分裂した北イタリアや諸侯が群雄割拠したドイツと異なり、フランスは、当初こそ封建社会の典型で王権は弱体であったが、次第に王権が強化され、いち早く封建勢力と市民勢力の均衡の上に、専制君主の絶対王政を確立し、16〜18世紀の近世ヨーロッパの中心となった。

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8 中世ヨーロッパのまとめ

古代アッシリア語で、日没転じて西を意味する「エレブ ereb」がギリシャに渡り、「エウロパEuropa」となり「ヨーロッパ」の語源となった。紀元前5世紀の古代ギリシアでは、地中海を囲むアジア、ヨーロッパ、リビア(アフリカ)の3大陸が認識されており、インドは東の果ての国で、中国はなかった。この地図世界は、ローマにも受け継がれた。地中海世界を支配したローマ帝国は、まさに世界帝国であった。

4世紀前半ローマ帝国は、キリスト教を公認するとともに、ローマからコンスタンチノープルに遷都、東方政策をとった。兵力も東に重点的に配備され、蛮族であったゲルマン民族の帝国内への流入が激しくなった4世紀後半ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は、実質的に切り捨てられた。ゲルマン民族により、5世紀西ローマ帝国は滅亡、古代は終わり、中世が始まる。

7世紀に興ったイスラム勢力により、古代ローマ時代からの地中海世界は崩壊、ヨーロッパは、イスラムに囲まれ、ヨーロッパ世界に封じ込められる。ヨーロッパ東部では東ローマ帝国を中心とした東ヨーロッパ世界が形成されていく。東ローマ帝国の基調は、ギリシア文化と東方正教(ギリシア正教)となり、ビザンツ帝国として15世紀まで続いた。

ヨーロッパ西部に成立したゲルマン民族の諸王国の多くは滅亡した西ローマ帝国に替わって東ローマ帝国の宗主権を仰ぎ、東ローマ皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。8世紀イスラム勢力の侵入からヨーロッパを守ったフランク王国による統一が進められ、800年カール大帝の西ローマ帝国復興によって、ローマ皇帝とローマ教皇による楕円ヨーロッパ=西ヨーロッパ世界が成立。

中世西ヨーロッパ世界は、世俗世界をゲルマンのローマ皇帝が支配し、精神世界をカトリックのローマ教皇が指導する構造となった。ゲルマンは世界帝国ローマの後裔として、西ヨーロッパ世界の世俗界の支配者としての正統性と正当性を担保された。

ゲルマンは、ローマ帝国というもはや架空に過ぎないフレームを継承することにより、蛮族ではなく、ローマ文化の後継者であり、ヨーロッパの一員であることを証明する必要があった。そして、その正統性と正当性は、ゲルマンのローマ支配によってのみ担保されると考えられた。

ゲルマンの皇帝は、フランク王国分裂後は、ドイツ王によって継承されてきた。それが、神聖ローマ帝国であった。中世ヨーロッパは、ドイツの皇帝とイタリアの教皇という二つの中心を持った楕円世界であったが、帝権と教権の衰退後、王権の伸張によって16〜18世紀の近世絶対王政時代へと移行していった。だが、中世世界のレガシーとなった神聖ローマ帝国は、19世紀、近代の皇帝ナポレオンによって、史上から抹殺されるまで続いた。

参考文献
「世界史とヨーロッパ」岡崎勝世著 講談社現代新書
「神聖ローマ帝国」菊池良生著 講談社現代新書
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