野砲兵第104連隊

(通称:鳳8961部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
大阪・信太山 昭和13年 第104師団 南支

特設師団野砲兵第4連隊が編成を担当し、満州へ派遣。
大連で待機し、張鼓峯事件で国境地区へ移動。
同地で待機中に事件は解決し、大連に戻る。
昭和13年9月、2個大隊を残置し南支へ移動。
途中、馬公で野山砲、迫撃、重砲兵各部隊の配属を受け、バイアス湾に上陸、広東作戦に参加。
翁英作戦等、南支各地で作戦に従事し、広東地区の治安警備を担当する。
昭和16年1月、三単位制に改編。
広東作戦で鹵獲した敵の山砲を装備し、野砲、山砲の二重装備となる。
昭和18年5月、編制改正。
大隊編成を廃止し、野山砲計6個中隊編成となる。
昭和19年5月から年末まで湘桂作戦に参加し、悟州飛行場、柳州飛行場などを占領した。
昭和20年、南京方面へ転用となり、移動中に終戦を迎えた。


慰霊碑

野砲兵第百四聨隊
鳳第八九六一部隊
慰霊碑
聨隊長 小林漸

(愛知県幡豆郡三ヶ根山・比島観音霊場)



(平成17年4月3日)

碑文

蘆溝橋夜半の銃声が日支全面戦争を誘発し、日を追って戦雲急を告げる昭和13年6月、大阪府信太山の野砲兵第4聨隊を留守部隊として、野砲兵第104聨隊が動員された。
翌7月、満州大連に上陸してソ満国境張鼓峯の紛争に具え、同年10月初旬大連を出港し、航行2千数百キロ、長躯南支那バイアス湾に敵前上陸を敢行した。
以来7年の長期にわたって広東市北方の鶴辺砲兵営を本拠地として、沙河、佛山、大窟塘、南村、新塘、新街、等の前線に布陣し、翁英、良口、従南、従源、など、幾多の作戦を遂行した。
昭和17年編成改正により兵員の補充は第3師団管区となり、静岡岐阜愛知三県の出身者が部隊の主力となった。
昭和19年6月、湘桂作戦に出動。
砲煙弾雨を衝き大河を渡渉し、重畳する山岳を踏破して、広西省の要衝柳州に進攻したが、打続く強行軍と激戦のため、数多くの戦友と愛馬を失った。
引続き■漢線打通作戦を行い、セ号作戦準備の洞窟掘削、特攻訓練中に終戦となった。
また、中支岳州より千数百キロの徒歩行軍を強いられ、倒れ伏す戦友を昿野に残し、死線を彷徨しながら着任された諸氏もあった。
約半年の俘虜生活ののち、昭和21年4月、浦賀港に復員した。
この間、弾雨の洗礼を受け、瘴癘の風土と強行軍に疲労し疾病に冒され、遂に4百余名の将兵が散華された。
共に護国の任に就き、寝食を分かち合いながら悲命に斃れた戦友諸氏並に、帰国後、存亡の危機にあった敗戦国日本の復興と、自らの生活に精励するうち、志半ばにして物故された戦友諸氏の冥福を祈り、心から哀悼の誠を捧げる。
身命を賭して国に殉じた在天諸霊の遺志を体し、子々孫々永世和平を国是とした祖国の繁栄と、世界平和を念願してこゝに碑を建立し、礎石の中に容器を埋没して、戦争の渦中を生きたものゝ真実の手記と、人名簿馬匹名簿を収納し後世に遺す。

昭和53年8月13日
南支派遣野砲兵第百四聨隊 戦友会

(副碑より)
※ ■はパソコンにない文字です。



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