土浦城 つちうらじょう

茨城県土浦市中央1丁目・亀城公園


土浦城 平成16年12月25日

土浦城跡および櫓門

県指定史跡 第1号
土浦市中央1丁目
昭和27年(1952)11月18日 指定
管理者 土浦市

土浦城は、一名亀城きじょうともよばれ、平城ひらじろで、幾重にも巡らした濠ほりを固めとする水城みずじろでもあった。
城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸そとまるのほか、武家屋敷や町屋まちやを含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構そうがまえの規模をもつものであった。
江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門やぐらもん・裏門の霞門かすみもん、二の丸と外丸の間に移建された旧前川門まえかわもん(高麗門こうらいもん)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。
戦国時代には、城主は若泉わかいずみ氏、信太しだ氏、菅谷すげのや氏と変遷したが、織豊期しょくほうきには結城秀康の支配下に入った。
江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木くつき氏、土屋つちや氏、松平(大河内おおこうち)氏と変わったが、土屋政直まさなおが再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。
明治以降、本丸跡は土浦県庁、新治にいはり県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸跡の一部とともに亀城きじょう公園となっている。

平成11年(1999)6月
土浦市教育委員会
土浦亀城ライオンズクラブ寄贈
土浦亀城ライオネスクラブ寄贈

(説明板より)

江戸時代の城郭図 説明板より

亀城公園現状図 説明板より

年表

永正13年 1516年 菅谷勝貞かつさだ    
天正元年 1573年 室町幕府滅亡
天正10年 1582年 本能寺の変
天正18年 1590年 豊臣秀吉、全国統一
結城秀康、土浦を所領とする
慶長5年 1600年 関ヶ原の戦い
慶長6年 1601年 松平信一のぶかず 3万5千石  
慶長8年 1603年 徳川家康、征夷大将軍になる
江戸幕府開く
慶長9年 1604年 松平信吉のぶよし 4万石 水戸街道、土浦城下を貫通
元和元年 1615年 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡
元和2年 1616年 徳川家康没す
元和3年 1617年 西尾忠永ただなが 2万石 (元和4年の説あり)
元和6年 1620年 西尾忠照ただてる 2万石 土浦城に東西櫓が築かれる
寛永12年 1635年 鎖国令発布
寛永14年 1637年 島原の乱
慶安2年 1649年 朽木稙綱たねつな 3万石  
慶安4年 1651年 由比正雪の乱
明暦2年 1656年 土浦城本丸表門を櫓門に改築
明暦3年 1657年 江戸明暦の大火、江戸城本丸焼失
寛文元年 1661年 朽木稙昌たねまさ 2万7千石  
寛文9年 1669年 土屋数直かずなお 4万5千石
延宝7年 1679年 土屋政直まさなお 4万5千石
天和2年 1682年 松平信興のぶおき 2万2千石
(2万3千石の説あり)
貞享3年 1686年 土浦城南北門外に枡形、馬出を築く
貞享4年 1687年 土屋政直まさなお 9万5千石
(6万5千石の説あり)
生類憐みの令発布
元禄13年 1700年 徳川光圀没す
享保元年 1716年 享保の改革
享保3年 1718年 土浦藩9万5千石となる
享保4年 1719年 土屋陳直のぶなお 9万5千石  
享保19年 1734年 土屋篤直あつなお 9万5千石
明和2年 1765年 関東の農民20万の大一揆
安永5年 1776年 土屋寿直ひさなお 9万5千石  
安永6年 1777年 土屋泰直やすなお 9万5千石
天明3年 1783年 天明の大飢饉
天明7年 1787年 寛政の改革
寛政2年 1790年 土屋英直ひでなお 9万5千石  
寛政12年 1800年 伊能忠敬、蝦夷地を測量
享和3年 1803年 土屋寛直ひろなお 9万5千石  
文化5年 1808年 間宮林蔵、樺太を探検
文化8年 1811年 土屋彦直よしなお 9万5千石  
文政8年 1825年 異国船打払い令
天保8年 1837年 大塩平八郎の乱
天保9年 1838年 土屋寅直ともなお 9万5千石  
天保12年 1841年 天保の改革
嘉永6年 1853年 ペリー、浦賀に来航
安政5年 1858年 安政の大獄
万延元年 1860年 桜田門外の変
慶応4年 1868年 土屋挙直しげなお 9万5千石 明治維新
明治2年 1869年 版籍奉還
土屋挙直、土浦藩知事となる
明治4年 1871年     廃藩置県
新治県設置、県庁が土浦に置かれる
明治8年 1875年 新治県を茨城県に統合

(参考:リーフレット及び土浦市略年表のチラシ他)

西尾氏

西尾氏は清和源氏の子孫で、戦国時代末には斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、忠照の父・忠永が大坂の陣における功によって、元和4年(1618年)土浦城主に封ぜられ、2万石の大名となりました。
忠永の没後、忠照があとを継ぎ、元和6年から慶安2年(1649年)駿河国田中城に移封されるまでの30年間、土浦藩主として城下町の整備や土浦地方の支配を行いました。

朽木氏

朽木氏は宇多源氏の流れをくむ佐々木信綱の子・高信が、近江国高島郡朽木谷に住み、朽木氏を称したのに始まります。
稙綱の父・元網は、足利義昭、織田信長に仕え、慶安2年(1649年)に下野国鹿沼城主2万5千石から3万石に加増されて土浦城主となっています。
稙綱とその子・稙昌は約21年間土浦城主として、土浦城の修築をはじめ、侍屋敷を外西そとにし町に広げるなど城下町の形成に力を尽くしました。

土屋氏

土屋氏は戦国時代、甲斐の武田氏に仕えた武田二十四将の一人で、武田氏の没落後、関ヶ原の戦で功をたて、徳川家康に譜代大名に取り立てられました。
土浦土屋氏2代・直政(1641〜1722)は大坂城代、京都所司代を歴任し、貞享4年(1684年)、老中になっています。
政直が老中在職中、赤穂四十七士の討入り事件にあたって、情理を兼ねた採決をしたといわれています。
10代・寅直(1820〜1895)は、優秀な人材の登用や財政改革、産業の奨励など様々な政策を打ち出し、藩政の改革を行っています。
また、開国か攘夷かという激動の幕末、土浦藩は徳川家の譜代大名であり、水戸藩とも縁戚関係でありましたが、寅直の元で藩論は新政府側に統一され明治維新迎えました。

(以上、『土浦のしおり』より抜粋)

櫓門



櫓門


訪問した時は門の周辺は工事中でした。



(平成16年12月25日)

城下に時を知らせた櫓門

土浦城の櫓門は、本丸、二の丸の遺跡とともに県の文化財に指定されていますが、城郭建築の遺構としては関東地方唯一のものであり、土浦城の象徴となっています。
この櫓門は、もと本丸の楼門ろうもんであったものを明暦2(1656)年、時の城主朽木稙綱くつき・たねつなが瓦葺入母屋造り単層の櫓門に改築したものです。
太鼓櫓たいこやぐらの別称は、二階に大太鼓を備え、定時になると打ち鳴らされたのでこの名が生れたといわれています。

(『土浦のしおり』より抜粋)

西櫓 西櫓


内部を見学することはできません。
西櫓の古写真 西櫓の古写真
(東櫓内の展示パネルより)

土浦城 西櫓にしやぐら

由来
本建造物は、17世紀初頭元和げんな6・7年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。
土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキティ台風により、小破し、昭和25年に復元を前提として解体された。
その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎなかったものを、市民の浄財をもとに復元したものである。

平成4年7月
土浦市教育委員会

(説明板より)

東櫓 東櫓

内部は展示館になっています。
東櫓の古写真 東櫓の古写真
(展示パネルより)

東櫓

東櫓は譜代大名西尾氏が土浦城主であったときに建てられたと伝えられ、西櫓とともに東西の土塁の上に存在していました。
東櫓は明治時代の火災で本丸館ほんまるやかたとともに失われたと言われていましたが、平成10年(1998)に復元完成されました。
新しい東櫓は江戸時代の建築技術を継承しながら現代工法も取り入れた建物となっており、土浦市立博物館の付属展示館として土浦城の紹介をしています。

(リーフレットより抜粋)

櫓とは

「櫓やぐら」は、もともとは城の防御の拠点として、敵の様子を探ったり城下町全体の安全を見守るという物見ものみの役割や、武器庫の役割をもった建物です。
江戸時代には、貴重な書類や品物を入れる倉庫の役割も加わったと考えられます。
土浦城の東西の櫓も同様の役割を果たしていました。
特に西櫓よりひとまわり大きい東櫓は、土浦城ではひときわ目立つ建物であり、文庫蔵ぶんこぐらの役割も果たしていました。
また江戸時代後期には、東櫓の中に納められた品物を虫干ししたという記録が残されています。
当時東櫓は、徳川将軍から拝領はいりょうした貴重な品々などを入れておく重要な蔵でもあったことがわかります。

(展示解説パネルより)

壁構造の模型


東櫓の壁構造の模型
(東櫓内)





(平成16年12月25日)

東櫓の壁構造

東櫓の壁は、二重木舞にじゅうこまい下地の土壁つちかべと内部に板壁を張った、丈夫なつくりとなっています。
柱と柱は貫ぬきと呼ばれる材で繋ぎ、くさびで固められ、柱の外側(外部)に細竹(真竹の丸竹)を格子こうし状にわら縄(復元はしゅろ縄)で捲きつけ、張り渡します。
内部は、割竹わりだけを細かく格子状にわら縄(復元はしゅろ縄)で捲きつけ、張り渡します。
このように外側と内側に木舞を張り渡した状態を二重木舞といいます。
木舞の間には壁土を団子だんご状にして押し込みます。
土を塗るときは何回かに分けて塗り、毎回十分に乾燥させ、ひびわれをさせてから塗り重ねていきます。
外部は白漆喰しろしっくいで仕上げ、内部は柱の溝に巾広はばひろの杉板を落とし込んだ板壁(うまや壁)で仕上げてあります。

(展示解説パネルより)

東櫓内部 東櫓内部
土浦城東櫓 利用案内

交通案内:JR常磐線土浦駅西口より徒歩15分
開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:月曜日、国民の祝日、年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料:一般 105円

旧前川口門



旧前川口門






(平成16年12月25日)

市指定文化財 建造物
土浦城旧前川口門
指定 昭和46年(1971)7月13日

この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。
高麗門は城郭の門として建てられた形式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭たけくるわと町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。
江戸時代末期の建築である。
明治18年(1885)に土浦戸長こちょう役場(のち町役場)の門として、さらに大正9年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚とうがく寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(1981)移築されたものである。

平成14年(2002)3月
土浦市教育委員会

(説明板より)

土浦藩士

天保14年(1843年)の「土浦藩御分限秘録」によると、土浦城詰め(国詰くにづめ)は士分、諸職人合わせて600人、江戸藩邸詰め(江戸詰えどづめ)が士分、諸職人合わせて540人、総計1140人であったことがわかります。

(『土浦のしおり』より)

二の丸跡 二の丸跡
(亀城公園)
忠魂碑 忠魂碑
(亀城公園)

大正11年5月建之
亀城のシイ



亀城のシイ
(亀城公園)




(平成16年12月25日)

県指定文化財
亀城のシイ
昭和31年(1956)5月25日 指定

天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名は、スダジイ(別名イタジイ・ナガジイ)である。
スダジイは福島県と新潟県以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。
このシイの胸高周きょうこうしゅうは7メートル、樹高は16メートル、枝張り21メートル、樹齢は約500年と推定されている。
県下のシイの中でも有数の巨樹である。

平成8年(1996)3月
土浦市教育委員会

(説明板より)


土浦市立博物館 土浦市立博物館
(土浦市中央1−15−18)

亀城公園に隣接しています。
土浦城跡には駐車場がないので、この博物館の専用駐車場を利用するといいと思います。
博物館の入館料は土浦城東櫓の入館料と共通券になっています。

展示の案内

土浦の大地と歴史
代表的史跡と文化財45ヶ所をビデオで紹介
土浦のあけぼの(原始から古代)
武家社会のはじまり(鎌倉時代から戦国時代)
重要文化財般若寺梵鐘のレプリカなどの資料
江戸時代の土浦
土浦城の復元模型、関流炮術関係資料、折りたたみ自在の大輿地球儀、祭礼絵図など
近代土浦のあゆみ(明治時代から第二次世界大戦)
躍進する土浦
写真パネル

高瀬舟の模型


高瀬船の模型
(土浦市立博物館)

館内で撮影許可をもらえたのは、この模型だけでした。



(平成16年12月25日)

高瀬船

この高瀬舟たかせぶねは、江戸から明治にかけて利根川とねがわ水系で活躍した船です。
底が平たいらで、荷を満載しても深く沈まず、河川を通航するのに適していました。
これは最後の高瀬船船大工ふなだいく、故鈴木国蔵氏の手になる5分の1の模型です。

(説明板より)

土浦市立博物館・利用案内

交通案内:JR常磐線土浦駅西口より徒歩15分
開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:月曜日、国民の祝日、年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料:一般 105円


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