徳川光圀銅像 平成16年1月12日

徳川光圀 とくがわ・みつくに

寛永5年6月10日(1628年7月11日)〜元禄13年12月6日(1701年1月14日)

茨城県水戸市・千波湖でお会いしました。


初代水戸藩主・徳川頼房の三男。
寛永10年(1633年)のちに讃岐国高松藩主となる兄の頼重をこえて継嗣に決まり、寛文元年(1661年)二代水戸藩主となりました。
藩主に就任前の明暦3年(1657年)江戸駒込の中屋敷に史局(のちの彰考館)を置き、「大日本史」の編纂に着手しました。
元禄元年(1690年)家督を頼重の子供の綱条つなえだに譲った後、久慈郡新宿村(現:常陸太田市)に西山荘を建てて隠居しました。
この間、幕府に先駆けて殉死を禁止し、藩士の規律・士風の高揚を図る一方、藩内の寺院整理を行い、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持ちました。
名君の誉れ高く、のちに「水戸黄門漫遊記」が創作されました。

(引用・参考:『日本史人物辞典』日本史広辞典編集委員会編 山川出版社)


徳川光圀公銅像



徳川光圀公像
(茨城県水戸市・千波湖)




(平成16年1月12日)

碑文

水戸黄門で知られる徳川光圀卿は今を遡ること三百数十年 寛永5年水戸城で柵町の家老三木之次の家で生まれた。
父は徳川家康の第十一男水戸藩祖頼房 母は谷久子 
5歳にして世子に挙げられ 34歳の時御三家水戸第二代藩主となり その職にあること30年
元禄3年兄高松藩主頼重の子綱條に跡を譲り 多年の念願を果たして引退した
翌年水戸の北太田の西山に隠栖して凡そ10年 元禄13年良き家臣に恵まれ73歳の波乱曲折の生涯を終った。
生前の行實により義公と謚された
殉死の禁止 社寺改革 扶弱抑強の令等藩政上の治績のほか 世子時代に志した彰住考来の意に基づく大日本史の編纂では 史臣を全国各地に派遣して旧記古文書を収集するなど史料尊重の方針を貫いた
また下野国での古墳発掘や各地の史跡古碑等の保存に努めたことなど 文化財保護の上から今日その価値が再認識されるに至った
庶民に対する思い遣りの民政と大胆な文化行政によって 近世大名中異色の存在であった卿は太平無事の■の英雄と評された卿晩年の姿を模した此の像は多くの人々の浄財によって完成し湖畔はるかに生誕の地を望んでいる

昭和59年3月吉日建之
徳川光圀公像建立実行委員会会長和田祐之助

※■はパソコン上で表示不可能な文字です。


【徳川光圀】 

徳川光圀は関ヶ原の合戦から28年後の寛永5年(1628年)6月10日に、水戸初代藩主・徳川頼房よりふさの三男として、水戸城下柵町さくまち(三の丸2丁目)の家臣・三木仁兵衛之次みきにへえゆきつぐの屋敷で生まれた。
父・頼房は徳川家康の十一男であったので、光圀は家康の孫にあたる。
母は谷久子たにひさこという側室。
光圀には頼重よりしげと亀麻呂かめまろという二人の兄がいたが、亀麻呂は光圀が生まれた年に4歳で亡くなっている。
光圀誕生の際には、複雑な事情があって水子みずこにされる境遇にあったが、三木夫妻の取り計らいでこの世に生を受け、長丸ちょうまると名付けられて5歳まで三木家で養育された。
その後、頼房の子として認知され、水戸城に迎えられた。
6歳の時、長兄の頼重を越えて、水戸家の世子せいし(世継ぎ)に決まり江戸に出た。
以後、名前を千代松ちよまつと改め、父・頼房のもとで厳しい文武の教育・鍛錬を受け、9歳で元服式をあげ、諱いみなを光国(のち光圀)と名乗ることになった。
15歳を過ぎたころから、光圀は江戸の街中に出て、歌舞伎者かぶきものとか男伊達おとこだてとか呼ばれる荒々しい行動をとる旗本などの青年たちと付き合い、しばしば自由奔放な行動をとるようになった。
天保2年(1645年)、18歳の時、光圀は、前漢の歴史家・司馬遷しばせんが著わした歴史書『史記しき』の「伯夷伝はくいでん」を読み非常な感銘を受け、兄・頼重を越えて水戸家の世子となっている立場や、自分の日頃の無自覚な行動を深く反省するとともに、人の道というものの真実を心の奥底において実感し、体得した。
以後の光圀は、その生活ぶりを一変させ、猛烈な勢いで読書学問に励み、また『史記』にならった紀伝体きでんたい(人物中心)の日本の歴史書を編修しようという、遠大な志を立てた。

25歳の時、侍女じじょ・弥智やちの間に実子・頼常よりつねが生まれたが、兄・頼重の高松城内で密かに養育された。(のちに頼重の養子となる)
27歳で近衛家の泰姫千尋子たいひめちかこと結婚したが、夫人は新婚生活4年半余りで亡くなった。
明暦3年(1657年)、30歳の時に駒込邸に史局を開いて、念願の歴史書『大日本史』の編纂を開始し、生涯をかけることとなる。
これは250年に及ぶ水戸藩の大事業となっていき、この修史事業の中から、いわゆる「水戸学」が形成され、後世に大きな影響力を持つことになる。
寛文元年(1661年)秋に父・頼房が亡くなり、光圀は水戸28万石の第2代藩主に就任した。(光圀34歳)
光圀は藩主就任に際して、兄の血筋に水戸家の家督を譲りたいと考え、兄の子・綱方つなかたと綱條つなえだを養子に迎えたが、綱方は若くして亡くなり、綱條が正式に光圀の世子(世継ぎ)となった。
藩主となった光圀は水戸藩の政治、『大日本史』の編纂、人々の道徳心の確立などに力を尽くした。

藩主を30年間務めた光圀は、63歳の冬、元禄3年(1690年)10月14日に隠居し、翌日、参議から権中納言ごんちゅうなごんに昇任した。
翌4年5月9日に常陸太田の西山荘せいざんそうに隠棲いんせいし、以来、10年間、西山の御老公・黄門様と呼ばれて親しまれ、悠々自適の生活を送った。
その一方、積極的な領内視察や那須国造碑なすのくにのみやつこのひの修復、神戸湊川みなとがわ楠公なんこう碑建立などの大事業を行ない、日本歴史上に大きな足跡を残した。
元禄13年(1700年)12月6日、73年の生涯を閉じる。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年6月24日 追記)


水戸黄門像 平成20年10月12日

茨城県水戸市南町3丁目・「黄門さんおしゃべりパーク」でお会いしました。

水戸黄門さん像



水戸黄門さん像
(水戸市南町3丁目・「黄門さんおしゃべりパーク」)





(平成20年10月12日)
黄門さんおしゃべりパーク



黄門さんおしゃべりパーク
(水戸市南町3丁目)





(平成20年10月12日)

碑文

水戸黄門で知られる水戸藩二代藩主徳川光圀公は青年期より文武はもとより世情にも心を配られ人道の真理を生涯の教えとつらぬき、数々の改革と家臣領民に慈しみの心で藩政にあたった。
以来63歳で引退を期に「権中納言」に任ぜられ、この官位が中国では黄門と呼ばれた事から光圀公は「水戸黄門」と尊称されるようになった。
太田西山に隠居後も領内を度々巡見されその時の多くの逸話がご老公への敬愛の念から黄門さん漫遊記の素地となった。
この水戸黄門さん像は、常陸太田の西山荘に向かって出立される姿に、そのお顔立ちから音声学的に電子合成された声で春夏秋冬の季節ごとに呼掛けられる言葉を再現したもので、市街地南北道完成記念、街の賑わい創出、観光と中心商店街の活性化へのおもいを込めて、茨城県や水戸市をはじめ多くの方々のご協力により、隣接二商店会の共同事業をもって完成し、ここ太田街道の起点に建立した。

平成14年3月吉日
南町3丁目商店街振興組合
南町4丁目商店会
題字揮毫 荘司 漱雲
銅像制作 能島 征二

徳川光圀像 平成20年10月12日

茨城県水戸市大工町1丁目・大工町交番近くでお会いしました。

徳川光圀公像



徳川光圀公像
(水戸市大工町1−3−11・水戸東陽ビル前)





(平成20年10月12日)

碑文

徳川光圀公(義公)は、寛文元年(1661)に34歳で第2代水戸藩主となり、笠原水道の敷設、寺社の移転と整理、家臣の共同墓地の設置、和紙の専売実施など多くの改革に取り組み、藩内外から名君と仰がれた。
さらに、巨船「快風丸」を建造するなど、いち早く未来を見据えてもいた。
また、史記にならって「大日本史」の編纂に努め、近世日本の文化に影響を与えた。
元禄4年(1691)藩主を譲り常陸太田市の西山荘に隠居し、73歳で没した。

平成13年3月 水戸市 銅像制作 能島征二

徳川光圀像 平成20年6月30日

茨城県水戸市・桂岸寺でお会いしました。

水戸黄門諸国漫遊旅姿像

水戸黄門諸国漫遊旅姿像
(茨城県水戸市・桂岸寺)

右:助さん(佐々 介三郎
中央:水戸黄門(徳川 光圀)
左:格さん(安積 覚兵衛

(説明板より)

(平成20年6月30日)
水戸黄門諸国漫遊旅姿像



水戸黄門諸国漫遊旅姿像
(茨城県水戸市松本町13−19・桂岸寺)





(平成20年6月30日)

 平成21年5月15日

茨城県水戸市・JR水戸駅前でお会いしました。




水戸黄門 助さん格さん像

(茨城県水戸市・JR水戸駅前)

左:助さん(佐々木助三郎=佐々介三郎=佐々宗淳)
中央:黄門様(水戸黄門=徳川光圀)
右:格さん(渥美格之進=安積覚兵衛=安積澹泊)


(平成21年5月15日)





JR水戸駅






(平成21年5月15日)

水戸黄門と助さん格さん

水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり御三家水戸藩の第二代藩主である
藩政では人間尊重の立場に立ち 常に庶民に対する思いやりの心を忘れず また大日本史の編さんや文化財の保護に意を用いるなど大胆な文化行政によって平和時の英雄とも評された
明治以後光圀を主役とする諸国漫遊記の類が創作されたのはこうした光圀の心を汲みとったものであろう
黄門というのは昔朝廷から任命された中納言のことである
その中納言は他に何人もいるのに水戸黄門といえば光圀を指すようになったのはそれだけ光圀が天下に有名だったからである
お供の助さん格さんは佐々介三郎 安積覚兵衛がそのモデルといわれ共に大日本史編さんに尽力した学者である
三人がそろって旅したことはないが光圀の命で介三郎らが史料収集のため全国を旅しているのでそれが漫遊物語に発展したのであろう
この度水戸駅北口再開発事業を記念して光圀誕生の地に隣接する水戸駅前にこの像を建立するものである
中央が水戸黄門左が助さん右が格さんをイメージしている

制作 小森邦夫
撰文 瀬谷義彦
題字 北條蘭徑

平成5年(1993年)2月 建立 水戸市

水戸黄門ゆかりの主な史跡案内  距離は当地からの概算です

(説明碑・碑文より)


【史局】

明暦3年(1657年)、光圀が江戸駒込の別邸に史局を開設し、史書の編集を開始したときの史局員は、真幸筆海、人見林塘、辻瑞亭、小宅處斎のわずか4名であった。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月31日発行)

(平成25年7月17日・追記)


大日本史編纂の地碑



「大日本史編纂之地」碑

(茨城県水戸市・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

碑文

 大日本史録
 先人十八歳諱伯夷傳跡然有慕其高義撫巻嘆曰
 不有載籍■夏之又不可得而見不由史筆何以■
 後之人有所観感■是乎概焉立修史之志上根據
 實録下採■私史■捜名山之逸典博索百家之■
 記綴■數十年■成一書■自
人皇肇基二千餘年
神裔相承
刻聖■統姦賊未■生■■之心神器所在與日月■
 照猗與盛■究其所原寔由
祖宗仁澤固結民心盤石邦基也其明良際會都■呼
 ■之美考諸舊記可以概見■乎中葉
英主迭興持■守成嘉謨徽猷莫■于古而■■不■
 明辟賢輔之■多堙■不章者豈不重可惜乎■斯
 書之所以作也綱條在膝下毎聞其言白史者所以
 記事也■事直書勧懲自見焉自上世迄今風俗■
 ■政理隆替■■然如■諸掌善可以為法悪可以
 為戒而使■賊之■知所懼将以裨益世教維持綱
 常文不可不直事不可不■如有所出入左右則豈
 可謂之信史乎如是書則惟務其實不求其華寧■
 ■繁莫過■簡至其■栽姑有■乎大手筆家未及
 成先人即世綱條雖■似服膺遺嘱■敢失墜閲乎
 餘年校訂略完自
神武至
後小松■世一百立為本紀七十三列傳一百七十都
 二百四十三巻名曰大日本史非敢謂
 昭代之成典及■後来修史者之採■爾若夫■運
 開塞行事得失可以為勧可以為戒者質悉■事■書
 不敢有所出入左右亦所以遵奉先人之意也
正徳五年■未十一月
     権中納言従三位源綱條謹序

水戸彰考館跡



水戸彰考館跡
(茨城県水戸市三の丸2−9−22・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

水戸彰考館跡

水戸光圀(義公)が大日本史を編集した彰考館は、はじめ江戸の藩邸内にあったが、光圀が西山に隠居したため元禄11年(1698)この地に移された。
しかし光圀が没した後130年間は、江戸・水戸の両館に分かれて分担編集し、幕末に再びここにもどり、明治維新後は、偕楽園南隅に移って明治39年(1906)全てを完成した。

(説明板より)

彰考館図 (彰考館・説明板より)


大日本史完成之地碑



「大日本史完成之地」の碑

茨城県水戸市・偕楽園内




(平成16年1月12日)

大日本史完成之地の碑について

大日本史は、明暦3年水戸第2代藩主徳川光圀卿が編纂に着手されてから歴代の藩主がその遺志を継承され實に250年を経て圀順公の時に至り、明治39年この地で397巻の完成をみたのである。

(説明板より)


常磐神社・義烈館
(茨城県水戸市常磐町1−3−1)

JR水戸駅北口より偕楽園行きバス、偕楽園又は常磐神社前バス停下車徒歩3分
常磐自動車道水戸I.Cより約20分
JR水戸駅北口よりタクシーで5分

開館時間:午前9時〜午後4時
入館料:大人300円 小人(高校生以下)100円

(平成16年1月12日)

義烈館ぎれつかん

光圀公・斉昭公の遺品遺墨をはじめ、水戸史学・水戸学関係の資料と、両公の御功績を助けた家臣の書画・関係品を多数展示。
館の名称は両公のおくり名、義公・烈公からつけられた。
昭和32年、両公の御遺徳の景仰を目的として開館、昭和33年博物館相当施設に指定された。

(主な展示品)
救民妙薬集
光圀公(義公)が侍医鈴木甫庵に命じて編集したもので、度々版を起こして広く領民に頒ち与えた。
その序に「山村には医もなく薬もなく、治療を受けられず天命を全うすることが出来ない者が多い。これは誠に残念であるとして田舎でも手に入れやすい薬の処方を命ぜられた。397種をえらび編集した」と述べられている。
大日本史(草稿)
397巻と目録5巻計402巻。
明暦3年(1657)に光圀公(義公)が編纂を始め、公の歿後も250年に及んで歴代藩主に受け継がれ、明治39年栗田寛の手が全巻が完成した。
日本史書として貴重である。

(義烈館のリーフレットより)


徳川光圀公

水戸藩第二代藩主。
徳川光圀公は家康公の孫にあたり、徳川御三家の一つである水戸徳川家を継承し、世に「水戸黄門」と呼ばれて親しまれた。
公は、儒学を重んじ、我が国体の尊厳と人倫の大義を貫き、この信条をもとに、『大日本史』の編纂を始めた。
多くの学者を集め全国に資料を求めるなどの困難な大事業であり、代々藩主に引き継がれ約250年かけて完成した。
又、多数の古書の考証や文学集の編集を行ない、靈元天皇より「武を備え文を兼ねた絶代の名士なり」のお言葉を賜った。
南朝の忠臣楠正成公の「嗚呼忠臣楠子之墓」(兵庫県神戸市湊川神社境内)を建て人々に感銘を与えた事は有名である。
公が隠居するに際し、寿蔵碑「梅里先生の碑」を建て、その文章から高潔英邁な生涯を伺い知ることが出来る。

(義烈館のリーフレットより)





?賓閣いひんかく

(茨城県ひたちなか市・湊公園)



(平成23年5月31日)

?賓閣いひんかく案内図・説明文

?賓閣は、元禄11年(1698)水戸二代藩主徳川光圀が建てた別荘で、湊御殿、湊別館、お浜御殿とも呼ばれていた。
?賓の名は、堯天(中国の書)の「 ?賓日出・・・・・」( ?つつしんで日出ずるを導く)ことからとり、 ?賓閣とは客待所という意味をもっている。
?賓閣の建坪は、1000uを有する広大なもので、間取りは図に示すようなものである。

主な部屋は、御座の間、御寝所、御風呂場、御膳場、御台所、御近習目付部屋、御小姓部屋、御医師部屋、御亭などがあり、建物は、地形を利用した高低2段の構築だった。
他には、御鷹部屋や御番所、大手門などが構築されていた。
ここでは、歴代の藩主によって酒宴や詩歌の会が催された。
?賓閣は、元治甲子の乱(1864)で焼失し、その跡は荒れはてたままであったが、明治30年に湊公園として整備、保存された。
この高台の東方には、海防見張番(異国番所)も置かれ、お水主士の人びとが、常に海防にあたっていた。

●現在地  那珂湊市中央一丁目にあたる(御殿山)
●配置図と平面図 昭和3年7月に関一氏が模写したものを那珂湊青年会議所が10周年記念事業として縮図作成したものである。

(那珂湊市教育委員会)




湊御殿の松
(茨城県ひたちなか市・湊公園)



(平成23年5月31日)

ひたちなか市指定天然記念物
湊御殿の松

当公園には、樹齢300年以上のクロマツが生息している。
これらのマツは、元禄11年(1698年)水戸藩第2代藩主徳川光圀が、 ?賓閣の建築に際し、その庭園を飾るため、須磨(兵庫県明石市)より苗木を取り寄せ、植えたものだといわれており、 ?賓閣を焼失した元治甲子の乱(天狗党の乱 1864年)の戦火にも難を免れて焼け残ったものである。
現存しているのは合計12株であるが、現在も樹勢に衰えは見えず、見事な枝振りを示している。
明治39年発行の「湊郷土資料」には「数十の老マツは実に義公の植えしものにて」とあり、かつてはさらに多くの松があり、「大松さん」と呼ばれた名木巨樹も存在していた。
マツノザイセンチュウ(マツクイムシ)によって日本のマツが大きな被害を受け、名木といわれたマツが少なくなっている今日、当公園のマツは、樹形、風格に優れ、歴史的にも貴重である。

指定日 昭和46年9月21日
設置者 ひたちなか市教育委員会

(説明板より)




湊公園

(茨城県ひたちなか市湊中央1−1−1)



(平成23年5月31日)

西山荘入口
西山荘入口
(茨城県常陸太田市新宿町590)

光圀公終焉の地です。
敷地内は原則撮影禁止ですのでご紹介できません。
受付で確認しましたがホームページに使用するなんてもってのほかとのこと。
許可は出ません。
ご注意ください。

(平成18年7月7日)

警告板 警告板

西山荘

水戸黄門漫遊記で親しまれている水戸第二代藩主徳川光圀卿(義公)が、元禄4年(1691年)5月から、同13年12月6日この世を去るまで約10年間隠居所にされた遺跡である。
光圀卿はこの地、西山荘で大日本史の筆削をされるかたわら、あるときは敷居をへだてず、領民にも接し、いろいろな事業をすすめられた。
荘内には、光圀卿が、紀州から取り寄せた熊野杉をはじめ、老松古杉がうっそうと茂り庭内には薬用などの実用を兼ねた珍しい草木が多い。
付近の観月山のもみじや、山中の傘御殿からかさごてんの眺望などとあわせて、四季おりおり味わい深い趣がある。
なお庭前にわさきの心字の池を中心に周囲の山々を、庭にとり入れ、春秋の眺めもかくべつである。

常陸太田市

(説明板より)

徳川光圀公と西山荘

西山荘は水戸市の北20キロの常陸太田市西部にあり、水戸藩2代藩主であった光圀公(義公)が隠居された地です。
光圀公は元禄4年5月、当時の贅を極めた江戸城からこの西山の自然の中にお住まいを移され、同13年12月6日73才で亡くなられる迄、約10年の歳月をここで過ごされました。
書斎の丸窓の明りで書を読み、四季折々の草花を愛で、時には紅葉におおわれた観月山で月見の宴を楽しみ、詩歌をしたため、静かで雅な時を過ごされました。
西山荘御殿は約190年程前の火災で一度被災致しましたが、8代藩主斎脩公によって再建され、現在は茨城県指定史跡となっております。

(入場券の説明文より)

西山山荘記碑





西山山荘記碑
(茨城県常陸太田市新宿町576・『西山荘』手前、『西山の里』脇)







(平成18年7月7日)

西山山荘記碑

高さ4メートル、幅2メートル、厚さ30センチメートルの仙台石の堂々たる石碑。
篆額てんがく(石碑の上部に篆字で彫りつけた題字)は水戸徳川家12代昭武公の筆に、撰文と書は詩人野口雨情の伯父、野口勝一によるものです。
勝一は漢学者、画家、政治家としても活躍し、維新史料の収集に半生を費やしました。
約500の漢字の中には、難解な文字も見受けられますが、「桃源遺事」を引用して山荘のたたずまいを鮮明に描写しています。
後半の文章の一部を記載します。

月雖隠瑞龍雲、
(月は瑞龍の雲に隠かくると雖いえども、)
光暫留西山峰。
(光は暫しばらく西山の峰に留まる。)
満山樹艸至今猶隠約、
(満山の樹艸じゅそう今に至りて猶隠約、)
帯余光、
(余光を帯ぶ、)
豈可不崇敬乎。
(豈崇敬あにすうけいせざるべけんや。)
遠近有志者胥謀、
(遠近の有志者胥あいはかり、)
建碑山下。
(碑を山下に建つ。)
余恭作之記。
(余恭しくこれが記を作る。)

(説明板より)


義公廟

義公廟
(茨城県常陸太田市新宿町239・久昌寺裏の高台)

廟内には光圀が生母の菩提を弔う法華経10巻と光圀が集めた明版一切経が納められています。
光圀公の遺徳を偲んで昭和16年に建立。



(平成18年7月7日)
久昌寺


久昌寺
(茨城県常陸太田市新宿町239)

徳川光圀の生母・久昌院靖定大姉の菩提所




(平成18年7月7日)

水戸黄門 [物語と史跡をたずねて] 稲垣史生著 成美文庫・成美堂出版
1994年12月15日 第1刷発行 543円


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