ホセ・リサール像 平成17年11月13日

ホセ・リサール Jose Rizal

1861〜1896年12月30日

東京都千代田区日比谷公園でお会いしました。


ホセ・リサールはバイ湖(Laguna de Ray)に近いカランバ(Calamba)で生れ、哲学と医学を学び眼科医だった。
スペイン統治の植民政治の弊害により、住民の抵抗や反乱が各地に起こったため、彼は国を憂い、文筆によってスペインの統治・弾圧に対し同胞に反発するように訴えた。
このため彼はミンダナオ島に流刑になったが、これが裏目に出て、益々反スペイン運動が激しくなり武力闘争に発展した。
スペイン政庁は戒厳令を敷き、弾圧を更に強化して、リサールを反逆の罪で銃殺刑に処した。
彼は大変な親日家だったようで、「おせい」さんという日本婦人を2号としていたそうである。

(参考:新井昭英著『ルソンに南瓜実らず』)

(平成18年1月31日追記)


ホセ・リサール像



ホセ・リサール像
(日比谷公園)





(平成17年11月13日)

フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す。
1961年6月19日 建之

(碑文より)

ホセ・リサール像 平成17年5月8日

フィリピン共和国マニラ市サンチャゴ要塞内・リサール記念館前でお会いしました。

ホセ・リサール像



ホセ・リサール像

(リサール記念館前)

旅日記を参照)



(平成17年5月8日)
リサール記念館




リサール記念館

(サンチャゴ要塞)




(平成17年5月8日)
監獄跡


リサールが投獄されていた監獄跡
(サンチャゴ要塞)

1896年に処刑されるまでの2ヶ月間をここに投獄されていました。
監獄跡にはリサールの人形が展示されています。



(平成17年5月8日)

ホセ・リサール像 平成17年5月8日

フィリピン共和国マニラ市サンチャゴ要塞内でお会いしました。

リサール記念像 平成17年11月23日

リサール記念像
マニラ市のリサール公園にあります。
この碑のある場所で処刑されたそうです。
この記念像は儀仗兵が24時間警備に当たっているのだとか。
この碑の下にリサールの遺骨が眠っています。


【ホセ・リサール】

リサールは1861年、ルソン島ラグナ州カランバ町の裕福な中農の家に生まれた。
1611年に創設され、アジア最古で最大のカトリック系大学で、医学部門で高名なサント・トーマス大学で医学(とくに眼科)を学んだ。
その後、ヨーロッパに赴き、スペイン、ドイツに留学して、文学、科学、理学、医学などを修め、その間、プロパガンダ運動にも加わり、その中心的な役割を果たした。
リサールは、医学、文学、化学、絵画、彫刻なおに天分を発揮し、また語学(英、西、独、仏、露語など)に通じていたといわれる。
1887年に発表した傑作小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな、または、社会の癌)』はフィリピンにおけるスペイン政府とカトリック教会の圧制を批判したもので、禁書とされながらも、フィリピン民族主義の高揚に大きく貢献した。
リサールは留学より帰国後、国内、とくに教会組織に睨まれ、圧迫を受ける。
それから逃れるため、香港、アメリカ経由でヨーロッパに尾もk向く途中、1888年(明治21年)2月28日、日本(横浜)に立ち寄った。
当初は数日間の滞在のつもりだったが、1ヵ月半日本に滞在する。
日本と日本人をよりよく理解するため、滞在中、汽車や人力車などを利用して国内(宇都宮、日光、国府津、小田原、湯本、熱海、藤沢、江ノ島、戸塚など)を旅行した。
リサールは短い滞在ながら、日本および日本人について好印象を持ち、「日本人は温順、平和、勤勉で、将来ある国民である」「日本とフィリピンとは緊密な交渉を保たねばならないであろう」などと、本国の家族や友人らへの手紙や日記に書き残している。

1888年4月13日、横浜より「ベルジック号」に乗船し、アメリカ経由でヨーロッパに向かう。
ヨーロッパに赴いたリサールはロンドンに滞在し、1891年、『ノリ・メ・タンヘレ』の続編として、第二の傑作小説『エル・フィリブステリスモ(暴虐の支配)』を著し、ベルギーで発行したところ、この小説を契機にいよいよその名声が高まった。
スペインの残忍さとフィリピン人の惨めさを勇敢な筆致で描いたリサールのこの二つの小説は、後の革命の導火線となった。
1892年7月にマニラに戻ったリサールは、平和的革命要求を掲げつつ、フィリピンにおけるプロパガンダ運動を支持するとともに、財政的支援を行うために市民運動組織「フィリピン同盟」を創設した。
しかしながら、こうした革命運動はスペイン官憲の容認するところとはならず、1892年7月に逮捕され、ミンダナオ島ダビタンに流刑となる。
その後、1896年8月、カティプナン反乱の首謀者として逮捕され、同年12月30日、マニラのバグンバヤン(現・リサール公園)で銃殺刑となり、36歳の短い生涯を閉じた。

【おせいさん】

リサールは日本滞在中、日本人女性「おせいさん」(本名・臼井勢以子)と知り合い、つかの間のロマンスを楽しんだといわれる。
「おせいさん」の兄は彰義隊に加わり、上野で戦死。
父は千葉県出身の幕臣で、明治に入り横浜で貿易商を営んで財を成し、彼女は東京都内の私立女学校を卒業し、英語(および多少のフランス語)を解し、当時の日本女性としては素晴らしい教養を持ち、編み物、絵画を得意とし、音楽、読書、歌舞伎を好む人物であった。
リサールはスペイン公使のハウス・ゲストとして東京麻布にあるスペイン公使邸に滞在していたが、同公使邸周辺に日本人の高級住宅街があり、その一角に「おせいさん」の住む「臼井家」もあった。
リサールは、スペイン公使邸に滞在し始めてから数日後に、ほぼ毎日夕方、散歩の途中スペイン公使邸を通る日本人女性「おせいさん」を見初め、公使館に働いている日本人庭師の助けを借りて「おせいさん」と近づきになり、交際を重ねるうちに親しくなった。
「おせいさん」は、不遇な状況にある独立の志士リサールと彰義隊として上野で戦死した兄の姿を重ね合わせ、リサールに深い同情の念を抱いたといわれる。
「おせいさん」は、リサールが都内および地方を旅行した際、ガイド兼通訳として十分な役目を果たしたのみならず、日本語、墨絵、日本の歴史、文学を教えた。
リサールは、日本の歴史物語の中では「赤穂浪士」に非常な感動を示したという。
リサールは、「おせいさん」の豊かな教養、美貌と気品の高さにすっかり魅了されたといわれ、ガイド、教師、通訳というよりは恋人的存在であった。
しかし、革命本能が強かったリサールは、祖国の大義のためヨーロッパに在留するフィリピン人同志と交わるべく、恋愛の情を断ち切って「おせいさん」と別れ、1888年4月13日、横浜からヨーロッパへ赴いた。

「おせいさん」はリサールの処刑後、しばらくしてから、化学専攻の英国人教授アルフレッド・チャールトンと結婚した。
チャールトン氏は教育分野での貢献により日本政府より勲五等を授与されている。
「おせいさん」は第二次大戦中は東京から山口県萩市に疎開していたが、1947年(昭和22年)5月、80歳で他界した。
両人の間に、もうけられた一女(ユリコ)は、貴族院議員の子息である瀧口吉春と結婚し、一児吉亮を、もうけた。
この「おせいさん」の孫に当る瀧口吉亮氏は、在チュニジア駐在特命全権大使や財団法人国際教育協会常任理事などを歴任した元外交官である。

(参考:佐藤虎男・著 『フィリピンと日本』 サイマル出版社 1994年9月初版)

(平成25年6月18日追記)


【ホセ・リサール】

リサールを南海の頼山陽といった人があるのは、ある意味であたっている。
一枝の筆よく、7千余(その頃は2千余の島といわれていた)70余の人種からなるフィリピンを打って一丸の国民とする機運を作った人だからである。
別の人はまた、リサールをフィリピンの汪精衛おうせいえいだという。
これも適当な比喩だ。
すなわちアギナルドが風雲を駆使し、雷霆らいていを叱咤する乱世の英雄であり、実行家であるに対して、リサールは思想家であり、そして「種子蒔く人」であった。

生まれたのは西暦1861年で、血統をいうと父方は明末みんまつに亡命した支那商人であり、母方はフィリピン固有のタガログやビサヤンの血は元より、スペイン、支那、また日本人の血まで交じっている。
リサールが万能の天才で、本職の眼科医としてドイツにまで知られていたばかりでなく、詩をよくし、小説を書き、絵画彫刻ともに巧みであり、農学や博物学方面にも業を残し、歴史や古文書にも卓越した才能を見せ、語学にいたっては7ヵ国語に通じていたのは、この入り交じった血のお蔭だろう。
しかし万能の天才も、中心を一貫する燃ゆるような愛国心を抱いていなかったら、只の才子たるに留まったであろうが、リサールはそれをもって、同胞を鼓舞し、独立の気運を醸成した。
しかも一面にその大望を抱きながら、母が眼病に苦しんでいるので、医学上の専門としては眼科を選んだという優しい半面もある。
リサールが初めて読んだヨーロッパ文学はデュマの『モンテ・クリスト』で、これから深大な感銘を受け、後にまたウージュヌ・シュウの『流浪のユダヤ人』を読んで、これにも影響された。
それでヨーロッパに留学中、自分もペンを取って、『ノリ・メ・タンヘレ』という小説を書いたのである。
フィリピン人がカトリックの僧侶とスペインの悪政に、どんなに万斛ばんこくの恨みを呑んでいるかを描いた作品で、遊学研究の地のベルリンで出版され、官憲の目をくぐって、フィリピンに密輸入せられた。
なにしろフィリピン人のもつ最初の小説、最初の国民文学だから、それは地下にくぐって手から手へと渡って愛読せられ、全群島の文字ある者を湧き立たせた。
このためスペイン官憲から睨まれ、祖国へ帰っても落ち着くことが出来ず、明治21年の春には、日本に亡命して1ヶ月ほど滞在した。
この間に、おせいさんという娘とプラトニックな恋愛事件があったことは、リサールの遺品の中に、後でその写真が発見され、日記にも彼女のことが見えるので、疑いもない事実である。
日本を去って再びヨーロッパに流寓るぐうし、先の小説の続篇『フィリブステリスモ』を書いて、いよいよスペイン政府の怒りを買った。
そして捕まって、ダビターンという島に流し者になった点は、ビクトル・ユーゴーと似ている。
この間に、マニラを中心としてカチプナンの結社ができ、発頭人のボニファシオは、リサールの全島に人望の盛んなのを見て、ひそかに救出して首領にいただこうと渡りをつけたが、「いや、自分は、あくまでも平和手段をもって、島の改革をはかる所存だから、秘密結社への加入は断る」といって拒絶した。
だからリサールとカチプナンとは何の関係もないのである。
だが、リサールの筆の影響力の大きいのを、何より恐れるスペイン当局は、いろいろな経緯の末、遮二無二にリサールを元凶ということにしてしまって、これに死刑の宣告を下した。
この時、リサールを慕う同志は、しきりに脱走の計画をめぐらし、それをすすめたが、運命の窮まれるを覚悟した彼は、「一粒の麦、地に落ちて死せずば、万石の麦とならじ」といって、断った。
明治29年12月、バグンバヤン(今のルネタ)の草原が刑場となり、朝霧の中に響いた銃声は、この愛国者の一命を奪った。
時に年37。
しかし彼の期待した通り、その血潮の跡から、無数の愛国の芽が吹いて、7千の島々にスペイン打倒、祖国独立の意気がみなぎり渡った。
「いよいよ好機いたれり」と喜んだのはアギナルドである。
しかもリサールの死後、その愛妻のジョゼフィーヌがアギナルドの陣営に身を投じ、自ら剣を持ちスペインへの復讐を誓ったのだから、アギナルドの率いる独立軍の士気は、いよいよ振い立たずにはいなかった。

(参考:木村毅 著 『布引丸ーフィリピン独立軍秘話』 恒文社 1981年9月発行 第1版第1刷)

(平成28年12月6日 追記)




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