乃木希典像 平成16年10月1日

乃木希典 のぎ・まれすけ

嘉永2年11月11日(1849年12月25日)〜大正元年(1912年)9月13日

京都市伏見区桃山町にある乃木神社でお会いしました。


乃木希典

御先祖は、宇多天皇第八皇子敦賀親王の後裔佐々木四郎高綱公です。
高綱公は1284年宇治川の合戦で義経の軍を勝利に導き功名手柄をたてた方です。
乃木希典は吉田松陰を追慕し、16才のとき玉木文之進の門に入り学問を進め文学、哲学を志しましたが、父希次の家庭教育により武官の道を歩むことになりました。
文学者としてその詩風は大陸的、叙情的であり、今日もってその評価は世人の追随を許すものではありません。

武人としての評価は分かれるところであり、西南戦争のとき軍旗を失い自決しようとしたが、諫められ、日露戦争では、明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には半年の長日月を要し多大の犠牲を供し・・・・・」と述べて、自分の作戦の失敗から多くの国民の命を落としたことの責任を痛感され、死をもって国民の前に謝罪したいといわれた。
「愧ず我れ何の顔あってか父老に看ん」という詩も、乃木希典の人間性を素直に現わしています。
しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命されました。
学習院院長在任中の明治45年(1912年)夏のこと、生徒を引率して鎌倉に水泳訓練に行っているとき、天皇の容態の急変を知らされ、急いで東京へ帰り病床を見舞ったが7月30日、天皇は崩御になった。
乃木希典の死の許されるときがきたと思われたことでしょう。
9月13日静子夫人を伴って葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅にもどり、二階八帖の間に於いて自決されました。
武官としての作戦の責任と、多くの犠牲を深く恥じた乃木希典のこの自刃は文人としての心情に裏打ちされた武士道・明治の終焉でありました。

(『京都 乃木神社要記』より)

学習院長時代の乃木将軍像



『学習院長時代の乃木将軍』像

小倉右一郎 作




(平成16年10月1日)
長府乃木旧邸




『長府乃木旧邸』





(平成16年10月1日)

【長府乃木旧邸】

〜(前略)〜
乃木大将の父十郎希次は江戸麻布毛利邸で槍術及礼法小笠原流の指南番をする禄高150石の武士でした。
しかし安政の大獄(1858)の際幕府の忌諱に触れ江戸払い減禄二分の一となりました。
その後長府(山口県)に帰り閉門蟄居の身で住家なく足軽の家を借りてそこに住われたのです。
その家がこれに見る旧邸です。
ここに家族7人が住われ右側の米搗場では乃木少年が米を搗きながら本を読んだところです。
この等身大の塑像は大将の父希次と母寿子と少年時代の大将の姿で大将の甥長谷川栄作氏の作によるものです。
大将は幼名を無人と云い、幼時には3歳下の妹にさえ度々泣かされたというほど気弱温順な性格であり、一方では兄弟思いで妹達のお守りをしたりその髪を結ってやったり、又器用に針を使って縫物をするという男らしさよりも女らしさを多分に持った少年でした。
両親はこのような乃木少年を腑甲斐なく思いその家庭教育の方法を考え毎朝出仕前に必ず一条の教訓を与えて出かけるようにしました。
その場面がここに現わされています。
このような中で成人され戊辰戦争に従軍し萩の乱や西南の役の鎮定に活躍され日清戦争で旅団長となり戦後台湾総督を経て日露戦争が始まると第3軍司令官として旅順攻略をなし後軍事参議官、宮内省御用掛学習院長などを歴任されました。

(説明板より)

米搗きをする乃木少年像


米搗こめつき場で読書をしながら米を搗きをする乃木少年


確か萩の松下村塾にも同じ話があったような気がします。
吉田松蔭も読書をしながら米搗きをしたとか・・・
よく「不真面目だ!」と怒られなかったもんだ。


(平成16年10月1日)
教訓を受けている情景



父親から教訓(説教?)を受けている情景

向こうにいるのが父親・希次
手前の背中を向けて座っているのが希典。



(平成16年10月1日)
記念館・第3軍司令部




記念館・第3軍司令部
(見学自由・無料)




(平成16年10月1日)

【記念館】

この記念館はもと中国東北区柳樹房にあった周玉徳・周金御夫妻の住宅で日露戦争の際、第3軍司令部として使用されていたものである。
明治天皇の御大葬は明治45年9月13日であった。
この時京阪電車の代表として御大葬に参列を許された村野山人取締役は、この朝乃木大将の自殺を知り深い感銘と衝撃を受け、明治の終焉を痛感された。
氏は乃木大将の一周忌を期して京阪電車を退職し、乃木神社の建立に残りの生涯と私財を奉じられた。
その際村野氏が現地に赴き、周氏にこの家屋の買付け交渉を行い、譲渡許可を得て解体し、資材一切をここに運び移築して記念館としたものである。
なお、外部様式と左手奥の間(乃木大将寝室)は当時のまま今に伝え、他は改装し展示館としたものである。

(説明板より)

乃木大将寝室



記念館内部
(乃木大将寝室)

左のダルマさんが置いてあるところがベットかな?



(平成16年10月1日)
展示室



記念館内部
(展示室)





(平成16年10月1日)
宝物館



宝物館
(見学自由・無料)





(平成16年10月1日)

【宝物館】

創建と同時に建てられた館内には乃木大将直筆の書を初め、大将や静子夫人が日常御使用になった品々や、同時代の雑誌、写真など数百点が展示されています。

(『京都 乃木神社要記』より)

宝物館内部



宝物館内部
(2階)





(平成16年10月1日)
乃木神社


京都・乃木神社
(京都市伏見区桃山町板倉周防32)

乃木希典大将を祭神とする全国乃木神社の中で最初に建てられた神社です。



(平成16年10月1日)

【神門】

神門は四脚入母屋造りの木造銅板葺きの大門です。
木材は、乃木大将が台湾総督をしておられたことから、ゆかりの深い台湾阿里山の樹齢3000年を経た大檜一幹をもって造られており、殊に扉は幅6尺3寸(180cm)の一枚板という実にめずらしいものであり、神門としての大きさでも日本屈指のものとされています。

神殿



神殿

桃山御陵(明治天皇の墓)が北側にあるので、北面して鎮座しています。



(平成16年10月1日)

乃木将軍由縁地の碑



「乃木将軍由縁地」の碑

(東京都港区虎ノ門1丁目)





(平成18年2月25日)

乃木将軍縁故の地

この地は乃木将軍が明治11年歩兵第1聨隊長に補せられ間もなく居宅を購い同年8月静子夫人を迎えて新居を構え翌12年8月長男勝典氏誕生同年冬新坂町へ移転まで住まれたゆかりの地である

昭和36年9月吉日
乃木神社宮司 山貴■識

(副碑・碑文より)

※ ■は判読不明な文字です。

乃木邸跡


乃木邸跡(乃木将軍由縁地)

(東京都港区虎ノ門1丁目)

コンビニの脇に碑が建っています。




(平成18年2月25日)

第3軍(司令官:乃木希典)の旅順攻略戦

明治37年
(1904)
 6月 1日 乃木希典、広島県宇品港を出港
 6月 6日 大連だいれん北方の塩大澳えんたいおうに上陸
 6月26日 第11師団、歪頭山わいとうざんと老横山を攻撃
歩兵第43連隊(徳島)、老横山を占領、占領地を剣山つるぎさんと改称する
 7月15日 大山巌満洲軍総司令官、大連に上陸
 7月26日 ロシア軍要塞の前進陣地への攻撃を開始
西から第1師団、第9師団、第11師団と並列して攻撃
 7月28日 前進陣地攻略成功
 8月 6日 大狐山たいこざん、小狐山しょうこざんへの攻撃開始
 8月 7日 海軍陸戦隊重砲隊(重砲24門)、旅順市街と旅順港へ砲撃開始
 8月 8日 大狐山を占領
 8月 9日 小狐山を占領
(参加日本軍9,000名のうち死傷者1,200名以上)
 8月10日 ロシア軍・旅順艦隊、旅順港を出港
日本軍・連合艦隊が旅順艦隊を攻撃(黄海海戦)
 8月19日 旅順要塞の東北正面への総攻撃を開始
強襲法(砲撃後の歩兵の突入)により攻撃
 8月24日 東鶏冠山ひがしけいかんざん第2堡塁を占領するも奪還される
盤龍山ばんりゅうざん東堡塁に突入成功、占領
砲弾払底のため以後の攻撃中止(第1回総攻撃失敗)
(日本軍戦死者5,037名、戦傷者15,860名)
 9月 5日 攻撃法を強襲法から正攻法へ変更することを決定する
(正攻法=塹壕とトンネルを掘削し要塞爆破、突撃をする方法)
第1師団参謀長の提案により203高地の攻略も決定
 9月19日 要塞前面の前進堡塁への攻撃を開始
第1師団後備歩兵旅団、203高地への攻撃を開始
 9月23日 龍眼北方堡塁、水師営南方堡塁、南山坡山堡塁を占領
(日本軍戦死者729名、戦傷者2,347名)
203高地の占領に失敗
(日本軍戦死者200名、戦傷者1,605名)
10月26日 第2回総攻撃開始
日本陸軍最大の28センチ榴弾砲18門参加
10月31日 盤龍山の一戸いちのへ堡塁の占領のみで第2回総攻撃を中止
(日本軍戦死者1,092名、戦傷者2,738名)
11月26日 第3回総攻撃開始
決死隊である白襷しろだすき隊(約3,600名)の突入不成功
11月27日 東北正面要塞群への攻撃を中止し203高地の攻撃に戦術を転換
11月28日 第1師団、203高地山頂への攻撃を開始
12月 5日 苦戦中の第1師団に対し予備軍・第7師団(10,403名)を投入
203高地の頂上を占領
(日本軍戦死者5,052名、戦傷者11,883名)
(第7師団の戦死者1,982名、戦傷者4,224名)
12月15日 28センチ榴弾砲で旅順港を砲撃(203高地の砲兵観測班の指示)
ロシア・旅順艦隊全滅
引き続き東北正面の主要塞攻撃を再開
ロシア軍・コンドラチェンコ少将が戦死しロシア軍の士気が下がる
12月18日 東北正面要塞群を正攻法で攻略
東鶏冠山北堡塁の爆破に成功、歩兵部隊の突入により成功
12月29日 ニ龍山堡塁を占領
12月31日 松樹山堡塁を占領
明治38年
(1905)
 1月 1日 ロシア軍降伏する
 1月 5日 第3軍司令部の水師営にステッセルが訪問(水師営の会見)
旅順攻略での第3軍の損害
戦死:15,390名
戦傷:43,914名

(平成17年2月5日記)

乃木希典像 平成15年5月24日

東京都港区赤坂8丁目(乃木神社脇)の旧乃木邸でお会いしました。


説明板より

乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬を受けた。
陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華胄子弟の薫育に蓋したが大正元年9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた。
時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
将軍は嘉永2年11月11日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ「少年乃木無人所載年譜」安政5年11月将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。
幼名を無人とよび慶応2年6月18才の折文蔵と改名した。
明治2年11月21才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治4年11月23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
明治8年27才の時熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり同10年には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。
将軍の父希次は、同年10月東京に於て病没した。
翌年11年1月26日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第1連隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。
当時将軍は、芝桜川町に住んでいた。「山路愛山著乃木将軍」
翌明治12年8月28日長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。
同13年4月大佐に進み翌14年12月次男保典が出生した。
その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間、那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然として此地に在り、明治12年以来34年間に及んだ。
本邸は、素朴高潔であった。
将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
因みに長男勝典中尉は、明治37年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同年11月30日歪頭山に於て戦死した。
時に長男26才、次男は、24才であった。
大将夫妻、及び両息子の墓はともに青山墓地にある。

※華冑[かちゅう]=名門、貴族のこと。


旧乃木邸

乃木邸


乃木邸は明治12年に買い求め、明治35年に改築されたものです。
この建物は明治19年にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした連隊本部を参考に建てられています。




(平成15年5月24日)

(説明板より)

東京都港区指定文化財
有形文化財

旧乃木邸及び馬小屋

旧乃木邸は、明治35年(1902)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912)9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。
将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。
建坪は168u、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。

馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治22年(1889)に建てられた。
間口約12・5m、奥行約4・5mの細長い建物には、4つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。
住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。

昭和62年10月28日   東京都港区教育委員会

厩



[うまや]

明治22年に新築されたものです。




(平成15年5月24日)
厩の内部



厩の内部

愛馬”壽号”の馬房




(平成15年5月24日)

(説明板より)

愛馬の由来

正馬壽[す]号は「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で明治38年1月5日水師営会見の際に乃木将軍に贈らんとしたが大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さないことなので後日を約してこれを「壽[す]」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。

大将は壽号を明治39年末に種馬として鳥取県赤碕町佐伯友文氏に贈られた、後大正4年5月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士[あま]村渡辺淳三氏方で飼育中大正8年5月27日に終命した。
馬齢23歳でその仔馬は二十余頭に及んでいる。
副馬「璞[あらたま]」号は去勢馬で仔馬なし。

乃木将軍と辻占売少年の像




乃木大将と辻占売少年の像





(平成15年5月24日)

(説明板より)

乃木大将と辻占売少年の像

今に伝えられる「乃木大将と辻占売少年」の話は、明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折のことです。
希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。
今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。
この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。
今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。

この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に旧ニッカ池(六本木6丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。

平成13年9月

旧乃木邸の入口
(区立乃木公園)

公園附近沿革案内 (説明板より)

この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜った土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。
青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。

江戸時代末期このあたりは美濃郡上[ぐじょう]藩青山大膳亮[だいぜんのすけ]の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。

陸軍大将乃木希典は明治12年この地を買い求め、同35年新築をした。
大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。
邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。
現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。

麻布土木事務所


乃木希典 〜高貴なる明治〜
岡田幹彦 著  展転社発行 平成14年2月11日第2刷発行 定価1,800円+税
(解説)
乃木愚将論の誤りを正す。
日露戦争を勝利に導いた陸軍最高の名将にして近代随一の国民的英雄だった乃木希典。
その生涯を顧み日本人に自信と誇りを回復させる。
名将 乃木希典 〜司馬遼太郎の誤りを正す〜
桑原巌 著  中央乃木会発行  平成10年7月30日第3刷  
乃木将軍の御生涯とその精神 〜東京 乃木神社御祭神九十年祭記念講演録〜
小堀桂一郎 著  国書刊行会発行 平成15年4月11日 定価1,000円

乃木神社




乃木神社





(平成15年5月24日)

乃木神社案内記  (案内板より)

本社
祭神 乃木希典命[のぎまれすけのみこと]
配祀 乃木静子命
創立 大正12年11月1日・昭和20年5月25日戦災にて焼失。戦災復興完成昭和37年9月13日

旌忠記念碑



旌忠記念碑
(滋賀県大津市下阪本4丁目)





(平成17年4月9日)

せい忠記念碑

この碑は、明治43年(1910)に、戦没者の魂を祭るため、有志が相計はかり篤志家の賛同を得て建立した。
碑文の5文字は、杉浦重剛氏の依頼により、学習院長乃木希典氏が揮毫きごうしたものである。
後に下阪本遺族会に受け継がれ護持されている。

平成7年3月
下阪本学区まちづくり推進協議会

(説明板より)

碑の建っている公園




道路右の小さな公園に碑が建っています。





(平成17年4月9日)

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の柩ひつぎが皇居を出発する午後8時の号砲に合わせて、妻の静子と共に自決しました。
この事件は大きな反響を呼び、「最後の武士道精神」として乃木希典を賞賛し、殉死が一時流行したといわれています。

(平成17年2月5日記)


乃木希典・静子の墓


乃木希典(右)と乃木静子(左)の墓

(青山霊園・番地:1種ロ10号26側4番)




(平成15年5月24日)

青山霊園に行ったら、まず最初に管理事務所に行きましょう。
ここで著名人のお墓の場所が載っている「青山霊園案内図」(50円)を購入すると便利です。
もっと詳しく知りたい人には東京公園文庫の「青山霊園」(1,000円)も販売しています。


乃木将軍母堂慰霊顕彰碑

軍神乃木将軍母堂
慰霊顕彰碑

(京都市・京都霊山護国神社)

昭和44年4月建之
日本民主同志会 中央執行委員長 松本明重



(平成19年3月17日)

碑文

明治二十九年十月乃木将軍台湾総督ノ任ニ赴クニ当リ母堂壽子夫人静子行ヲ共ニス
幾何モナク母堂病ミテ没シ遺言ニヨリ台北三板橋ノ共同墓地ニ葬ル
蓋シ日本人移住者ノ骨ヲ台湾ニ埋ムルモノ之ヲ嚆矢トス
大正元年九月明治天皇大葬ノ日将軍夫妻共ニ殉死ス後夫妻ノ遺髪ヲ台北ニ送リ母堂ノ墓側ニ葬リ霊位三基弘法寺ニ安置セラル
昭和三十五年中華民国政府ハ北投中和禅寺ニ日本人無縁公墓ヲ築キ乃木家遺骨遺髪及ビ霊位亦禅寺ニ遷サル
将軍ノ総督ノ任ニ在ルヤ明治天皇ノ聖旨ヲ奉ジテ徳化政策ヲ行フ
春風秋雨六十年居民ノ猶ホ将軍ノ仁政ヲ懐ビ常ニ米ッテ香華ヲ供スルモノ多シ
昭和四十三年三月日本民主同志会ハ明治百年記念事業トシテ日本精神ノ発揚ヲ念願シ日華両国政府ノ允許ヲ得台湾ニ至リ乃木家遺骨遺髪及ビ霊位ヲ故国ニ奉還シ地ヲ京都霊山護国神社境内ニトシテ合祀シ上ニ此ノ碑ヲ建テ以テ母堂ノ薫陶ヲ称ヘ将軍ノ遺徳ヲ不朽ニ伝ヘ世道人心ヲ裨益スル所アラントス

撰 松本明重
書 西田寿山


乃木希典 日露戦争 旅順 


 トップページに戻る  銅像のリストに戻る