二宮尊徳像 平成16年11月28日

二宮尊徳 にのみや・そんとく

天明7年7月23日(1787年9月4日)〜安政3年10月20日(1856年11月17日)

静岡県掛川市・JR掛川駅前でお会いしました。


通称は二宮金次郎。
公人としては尊徳を使用。
尊徳は一般には「そんとく」と読んでいるが、正式の読みは「たかのり」。
相模国足柄上郡栢山かやま村生れ。
少年期に父母を失い、災害で没落した家を独力で再興した。
この体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を形成。
また、家・村を復興して興国安民を実現する仕法を体系化した。
文政5年(1822)に小田原藩に登用され、天保13年(1842)には普請役格の幕臣となる。
関東とその周辺の諸藩領・旗本領・幕領・日光神領の復興や個別の家・村の再建を依頼されて指導した。
下野国今市いまいちの仕法役所で没す。
その思想・仕法は報徳社に受け継がれた。


二宮金次郎像 二宮金次郎の像
(静岡県掛川市・JR掛川駅前)

制作者:松田裕康
寄贈者:大日本報徳社・掛川経済懇話会
昭和63年3月13日
新幹線掛川駅開業記念



(平成16年11月28日)

碑文

二宮金次郎(1787年〜1856年)は、小田原市栢山に生れ、向学、勤勉、貯蓄のモデルのような一生を送った地域づくり、財政再建の専門家で、報徳運動の元祖です。
金次郎の指導を受けた岡田佐平治が掛川市倉真の人だったことから、掛川市に大日本報徳社がありますので、生涯学習都市掛川の駅前広場に、向学心の象徴としてこの銅像を設置しました。
像の原作は岡崎雪聲で、明治天皇が座右に愛蔵され、いま明治神宮宝物館にあります。

昭和63年3月13日
掛川市長 榛村純一

二宮先生像 平成16年11月28日

静岡県掛川市・報徳図書館の中庭でお会いしました。

二宮先生像



『二宮先生村民表彰』の像

(静岡県掛川市・報徳図書館)




(平成16年11月28日)
報徳思想

二宮尊徳(金次郎)が道徳と経済の両立を説いた思想と、それを受け継いだ思想をさしています。
二宮尊徳(1787〜1856)は相模さがみ国栢山かやま村(現神奈川県小田原市)に生まれ、江戸時代後半の困窮した農村を救うために、農村復興の方法を実践して、東北地方から九州にまで影響を与えました。
尊徳の思想の特色は、自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世のものすべてに感謝し、これに報いる行動をとることが大切で、それが社会と自分のためになるというものです。
天保14(1843)年に尊徳を慕い、彼の思想を実践する目的で、小田原に報徳社が結成されると、各地でも続々と報徳社が結成されていきました。

報徳図書館


報徳図書館

(静岡県掛川市)





(平成16年11月28日)
大日本報徳社 大日本報徳社
(静岡県掛川市)

二宮金次郎像 平成19年11月7日

愛媛県西予市宇和町卯之町・開明学校でお会いしました。

二宮金次郎



二宮金次郎像
(愛媛県宇和町卯之町・開明学校)

昭和15年12月11日



(平成19年11月7日)
開明学校


国重要文化財指定 開明学校
(愛媛県西予市宇和町卯之町3−110)

明治15年(1882)、町民の寄付により舶来のガラスにアーチ型の窓を持つ擬洋風のモダンな校舎が建築されました。
昭和48年(1973)に修復され当時の姿をとどめています。


(平成19年11月7日)

二宮尊徳像 平成20年7月19日

栃木県芳賀郡二宮町・二宮尊徳資料館でお会いしました。

二宮尊徳像

二宮尊徳像
(栃木県芳賀郡二宮町物井2013−2・二宮尊徳資料館

制作鋳造 広沢隆則
鋳了 平成3年6月
建立 平成12年5月吉日
寄贈 広沢隆夫
銘 二宮町長 小倉尚志

(平成20年7月19日)

二宮尊徳像 平成20年7月19日

栃木県芳賀郡二宮町・二宮尊徳資料館でお会いしました。

二宮尊徳像



二宮尊徳像
(栃木県芳賀郡二宮町物井2013−2・二宮尊徳資料館)





(平成20年7月19日)
二宮尊徳の教え

至誠しせい
至誠とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」(夜話139)という言葉の通り、尊徳の仕法や思想、そして生き方の全てを貫いている精神です。

勤労きんろう
人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。
また、働くことを通して知恵をみがき、自己を向上させることができると説きました。

分度ぶんど
人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが大切であり、収入に応じた一定の基準(分度)を設定し、その範囲内で生活することの必要性を説きました。

推譲すいじょう
節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や社会のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えました。

積小為大せきしょういだい
小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつくという教えです。
小事をおろそかにする者に、大事が果たせるわけがないと尊徳は考えました。

一円融合いちえんゆうごう
全てのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという教えです。
例えば、植物が育つには水・温度・土・日光・養分・炭酸ガスなど、いろいろなものの徳が融け合ってひとつになって育ちます。

(『二宮尊徳資料館』リーフレットより)

二宮尊徳略年表
西暦 和暦 年齢 出来事 その他
1787 天明7 栢山かやま(現・小田原市)に誕生 天明の打ちこわし
松平定信、老中筆頭になる
倹約令
1789 寛政元   棄損令
旗本御家人の負債を免ず
1790 寛政2 弟・友吉誕生  
1791 寛政3 酒匂さかわ川決壊、二宮家田畑流出  
1796 寛政8 10 大久保忠真、小田原藩主となる 伊勢津藩割地均田反対の一揆
1798 寛政10 12   諸藩の国産専売制度顕著となる
美作但馬の一揆
百姓の強訴を禁ずる
1799 寛政11 13 松苗200本を買い、酒匂川堤に植える
弟・冨次郎誕生
 
1800 寛政12 14 父・利右衛門没(享年48歳) 伊能忠敬、蝦夷地を測量
豊後に専売制反対の一揆
1802 享和2 16 母・よし没(享年36歳)
一家離散し、伯父・万兵衛方に寄食
 
1803 享和3 17 菜種を収穫
空地に捨苗を植え、米1俵を得る
 
1806 文化3 20 独立し、二宮家再興に着手 江戸大火
江戸町人に御用金を命ず
1808 文化5 22   間宮林蔵、樺太を探検
1810 文化7 24 用地1町4反余となる 諸国飢饉
大阪町人に御用金を命ず
1812 文化9 26 小田原藩家老服部家の若党となる  
1815 文化12 29   座頭の高利貸を禁ず
1816 文化13 30   畿内・東海道暴風洪水
駿河一揆
1817 文化14 31 “きの”と結婚
用地3町8反余となる
 
1818 文政元 32 服部家の家政再建を開始
小田原藩主大久保忠真から善行表彰
本田畑の甘藷栽培を禁ず
常陸一揆
1819 文政2 33 長男・徳太郎が誕生するが、まもなく死亡
“きの”と離婚
阿波・摂津一揆
1820 文政3 34 “波”と再婚  
1821 文政4 35 下野国宇津家桜町領の調査を開始
嫡男・弥太郎誕生
服部家第1回家政再建完了
 
1822 文政5 36 小田原藩に登用され、名主役格となる
桜町領4,000石の復興を命ぜられる
西国にコレラ流行
1823 文政6 37 田畑・家財を処分し、一家をあげて桜町に移住
廻村、表彰等を実施
諸国早害
紀伊一揆
1824 文政7 38 長女・ふみ誕生  
1825 文政8 39   異国船打払令
1826 文政9 40 組徒格に昇進 伊予に逃散起こる
1827 文政10 41 小田原から豊田正作赴任
仕法の困難深まる
 
1828 文政11 42 藩に辞任願いを提出するが却下 シーボルト事件
越後大地震
1829 文政12 43 成田山で断食参籠
桜町領から125人の出迎えにより帰村
以降、復興順調に進展
江戸大火
1830 文政13 44   水戸藩徳川斉昭、藩政改革
薩摩藩調所広郷、財政改革
京畿大地震
1831 天保2 45 桜町仕法について忠真に報告
「以徳報徳」の讃辞を受ける
桜町仕法第1期事業完了
全国総石高調査
周防長門一揆
1832 天保3 46   全国的大飢饉
1833 天保4 47 青木村(現・茨城県大和村)の堰を改修
茄子を食べ凶作を予知し、備えを固める
播磨加古川流域の一揆
1834 天保5 48 徒士格に昇進
「三才報徳金毛録」を著作
水野忠邦、老中となる
1835 天保6 49 谷田部・茂木もてぎ藩の復興を開始  
1836 天保7 50 全国で凶作
烏山藩を救済
天保の大飢饉
1837 天保8 51 小田原藩領の貧民を救済
大久保忠真没(享年57歳)
大塩平八郎の乱
長州藩村田清風、財政改革
1838 天保9 52 小田原領、下館領の復興を開始  
1839 天保10 53 相馬藩士富田高慶が入門
諸藩諸村の復興指導で多忙な日々を送る
蛮社の獄
1841 天保12 55   水野忠邦の政治革新
1842 天保13 56   諸候の物産専売禁止
近江の農民検地騒動
倹約令
1843 天保14 57   水野忠邦失脚
印旛沼開発令
人返し令(帰農)
1844 弘化元 58 日光仕法雛形作成を受命 農村救荒令
1845 弘化2 59 相馬藩の復興を開始  
1846 弘化3 60 日光仕法雛形完成 海防の勅諭、幕府に下る
1847 弘化4 61   天草農民一揆
町人に倹約令
1848 嘉永元 62 東郷陣屋に移転(桜町在住26年)  
1852 嘉永5 66 故郷栢山で墓参
弥太郎、“ふみ”がそれぞれ結婚
近畿風水害
1853 嘉永6 67 “ふみ”没(享年30歳) ペリー、浦賀に来航
陸奥一揆
関東大震災
1854 安政元 68   日米和親条約
紀伊農民一揆
下田地震・大津波
1855 安政2 69 今市報徳役所に移転 江戸大地震(藤田東湖圧死)
1856 安政3 70 御普請役に昇進
尊徳永眠
 

(参考:『二宮尊徳資料館』リーフレット・その他)

尋常小学唱歌 二宮金次郎

1.柴しば刈り縄ない草鞋わらじをつくり
          親の手を助け弟を世話し
  兄弟仲よく孝行つくす
          手本は二宮金次郎

2.骨身ほねみを惜しまず仕事をはげみ
          夜なべ済まして手習てならい読書
  せわしい中にもたゆまず学ぶ
          手本は二宮金次郎

3.家業かぎょう大事に費ついえをはぶき
          少しの物をも粗末にせず
  遂には身を立て人をも救う
          手本は二宮金次郎

(二宮尊徳資料館配布資料より)

報徳訓の碑



『報徳訓』碑

(栃木県芳賀郡二宮町・二宮尊徳資料館の近く)





(平成20年7月19日)

碑文

報徳訓
太政大臣従一位大勲位公爵三條實美篆額

父母根元在天地令命  身體根源在父母生育
子孫相續在夫婦丹精  父母富貴在祖先勤功
吾身富貴在父母積善  子孫富貴在自己勤労
身命長養在衣食住三  衣食住三在田畠山林
田畠山林在人民勤耕  今年衣食住昨年産業
来年衣食在今年艱難  年年歳歳不可忘報徳

内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書
下田喜成刻字

報徳訓

父母根元在天地令命  (父母の根元こんげんは天地の令命れいめいに在り)
身體根源在父母生育  (身体の根元は父母の生育に在り)
子孫相續在夫婦丹精  (子孫の相続は夫婦の丹精たんせいに在り)
父母富貴在祖先勤功  (父母の富貴ふうきは祖先の勤功きんこうに在り)
吾身富貴在父母積善  (吾身わがみの富貴は父母の積善せきぜんに在り)
子孫富貴在自己勤労  (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
身命長養在衣食住三  (身命しんめいの長養ちょうようは衣食住の三みつに在り)
衣食住三在田畠山林  (衣食住の三みつは田畑でんぱた山林に在り)
田畠山林在人民勤耕  (田畑山林は人民の勤耕きんこうに在り)
今年衣食住昨年産業  (今年こんねんの衣食は昨年の産業に在り)
来年衣食在今年艱難  (来年の衣食は今年こんねんの艱難かんなんに在り)
年年歳歳不可忘報徳  (年年歳歳ねんねんさいさい報徳を忘るべからず)

(二宮尊徳資料館配布資料より)

桜町陣屋



桜町陣屋跡
(栃木県芳賀郡二宮町物井105−13・二宮尊徳資料館の裏)





(平成20年7月19日)

国指定史跡 桜町陣屋跡

所在地 栃木県芳賀郡二宮町大字物井105番地13他
敷地面積 21,297.69u(史跡指定内14,322.46u)

桜町陣屋跡は、二宮尊徳(金次郎)がこの一帯の農村復興に務めた拠点です。
文政6年(1823)に着任し、以来26年間の永きにわたり桜町陣屋に居住しました。
陣屋の建物は、尊徳が着任したときに建設され、その後増改築を経て現在に受け継がれています。
当時、陣屋内には、主屋(役所兼住居)ばかりでなく、長屋・木小屋などがありました。
発掘成果をもとにその位置が示してあります。
桜町陣屋は、元禄12年(1699)に小田原藩大久保家の分家宇津家が、この地に陣屋を構えたことにはじまります。
桜町領(物井・横田・東沼村)は、公称4000石とされる豊かな土地になりましたが、100年後には、実質1000石にも満たないほどに田畑は荒れ果て、人口も激減してしまいました。
疲弊した桜町領を復興するため、二宮尊徳が抜擢されました。
尊徳は、相模国栢山村(神奈川県小田原市)出身の農民ですが、小田原藩家老服部家の財政再建において、すでに実績を認められていました。
尊徳は家族そろってこの地に移り住み、さまざまな苦労の末、桜町領の再興を果たしました。
「桜町仕法」と呼ばれる尊徳の復興手法は、相馬藩・小田原藩などでも実践され成功を収めています。
明治元年(1868)桜町陣屋は廃止され、昭和7年(1932)国の史跡に指定されました。

(説明板より)

桜町陣屋の尊徳

1822年(文政5年)
9月6日二宮金治郎は小田原城主の命令を受け、桜町三か村(物井・横田・東沼)を立て直すため妻子と共に桜町陣屋に入る。名主役格。36歳。
朝早く起き、夜おそくまで働くこと、粗衣、粗食に耐えること、荒地の開墾を指導し、村民に報徳の教えを広める。

1829年(文政12年)
成田山に21日間こもって桜町建て直しを願い断食する。
天保3年から7年まで飢饉が続き、全国でも餓死する者が多数でた。
金治郎は飢餓に備えて、普段から一人あたりヒエ5俵をたくわえさせておいたため、領地内からは一人も餓死する者がなかった。

1836年(天保7年)
金治郎 桜町仕法を完成する。
この年、烏山の人々870人を飢えから救う。
このとき桜町から送られた米は、1243俵、ヒエ234俵、種モミ171俵といわれる。

1837年(天保8年)
下館地方が大飢饉に襲われる。
そこで下館藩主は桜町陣屋に使いをだし、金治郎に仕法をたのむ。
しかし、金治郎はすでに茂木、烏山、茨城県青木村、谷田部村及び小田原藩の仕法を進めていたのでことわる。

1838年(天保9年)
下館藩主みずからの手紙によるたのみとあって、金治郎は下館の仕法をはじめ、その後30年間も続けられた。
これによって借金8875両を返すことができた。

1842年(天保13年)
金治郎は幕府から「ご普請役格」に任命される。

1843年(天保14年)
7月、真岡及び陸奥小名浜の代官に属し、真岡陣屋の駐在となる。

1847年(弘化4年)
5月、真岡東郷陣屋に移る。
金治郎、桑ノ川の第一次開発をする。
常陸国 棹ヶ島 花田村の仕法に着手する。

1852年(嘉永5年)
桑ノ川の第二次開発をする。
4町歩(4ヘクタール)の耕地開発。

1853年(嘉永6年)
真岡代官を免ぜられ、日光奉行手附拝命、日光神領の復興を命ぜられる。
6月赴任し、80有余村を巡回する。

1856年(安政3年)
金治郎、今市で亡くなる。(10月20日 巳の刻)

1885年(明治18年)
3月、桜町陣屋跡の前に二宮尊徳の「報徳訓」の碑を建てる。

1905年(明治38年)
桜町二宮神社を創建し、11月17日を祭日とする。

一円融合会

(説明板より)

報徳田



報徳田
(栃木県芳賀郡二宮町物井105−13・桜町陣屋の脇)





(平成20年7月19日)

報徳田ほうとくでんと建物跡

尊徳が活躍していた頃、陣屋内には「報徳田ほうとくでん」と呼ばれる水田がありました。
陣屋の日記には「御陣屋内田植え」「御陣屋内報徳田一番田の草取り」などと記されています。
発掘調査では、主屋の西側に、明治9年(1876)の地籍図の地番境にそった形で、田圃たんぼの周囲の段差や畦道あぜみちの跡が見つかりました。
尊徳の時代の絵図が見つかっていないため、現在わかる一番古い姿として、この発掘成果によって水田を復元しました。
水田の東寄りに、矩形に地固めしたところが見つかり、付属建物の跡と考えられます。
陣屋の記録には「御役所裏板蔵」・「裏米倉、屋根葺き替え」などとあります。

(説明板より)

桜町二宮神社



桜町二宮神社
(栃木県芳賀郡二宮町・二宮尊徳資料館の近く)





(平成20年7月19日)

桜町二宮さくらまちにのみや神社

二宮尊徳没後50年の明治38年(1905年)に、二宮尊徳の遺徳を偲び、霊を祀って隣の桜町陣屋内に創建されました。
昭和11年(1936年)の二宮尊徳没後80年に現在の位置に移り、社殿も新たになりました。
毎年、二宮尊徳の命日である11月17日(旧暦の10月20日)に祭礼が執り行われます。
なお、当神社の南の蓮城院には、二宮尊徳のお墓があります。

環境省・栃木県

(説明板より)


蓮城院



蓮城院
(栃木県芳賀郡二宮町大字物井102)





(平成20年7月19日)

蓮城院

この寺は、高仰山蓮城院と云い、曹洞宗芳全寺(二宮町久下田)の末寺で嘉永4年(1851)に二宮先生が櫻町仲宮から現在地に移転再建されたものである。
本尊は、釋迦牟尼仏である、位牌堂(御霊屋)には、領主宇津家代々の位牌、二宮先生ならびにその娘文子女史の位牌が安置されている。
また境内墓地には二宮先生の仕えた領主宇津汎之助夫妻の墓石、二宮先生ならびにその娘文子女史(富田高慶夫人)の墓石、その他先生の高弟横山周平や吉良八郎等の墓石が建立されている。

一円融合会

(説明板より)

二宮金次郎墓域



二宮金次郎墓域
(栃木県芳賀郡二宮町大字物井102・蓮城院)





(平成20年7月19日)

二宮金次郎墓域 二宮町指定史跡

二宮翁の娘文子(富田高慶夫人)は嘉永6年(1853)真岡東郷陣屋で難産(死胎分娩)で逝去し、親子とも両親の指示により当院に葬られた。(行年30才)
二宮翁は安政3年(1856)、日光神領復興仕法中今市役所で逝去され(行年70才)、今市の如来寺に葬られたが門人横山平太(桜町陣屋代官)がその遺髪を奉じて娘墓の側に葬った。
領主宇津汎之助は明治5年(1872)東京で逝去され目黒の安養院に葬られていたが(行年81才)明治15年桜町三村の旧領民がその功績を慕って墓石を建立し供養した。
横山周平は天保4年江戸で逝去したが(行年36才)、息平太が桜町陣屋代官として赴任し、明治維新当地に永住することになったので、父子とも当院に葬られた。
吉良八郎の娘素今は文久2年(1862)真岡東郷陣屋で逝去、両親の手で当院に葬られた。
父八郎は明治5年桑島村(宇都宮市)にて逝去、娘墓の側に葬られた。

(説明板より)

二宮金次郎墓



向かって右:二宮金治郎の碑(遺髪墓)
中央:領主宇津汎之助夫妻の碑
向かって左:金治郎娘二宮文子の碑




(平成20年7月19日)

 (関連商品のご紹介)

二宮尊徳



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