南豫護国神社

愛媛県宇和島市丸之内3−6−2


南豫護国神社 平成19年11月6日

南豫護国神社入り口




南豫護国神社入り口






(平成19年11月6日)
南豫護国神社




南豫護国神社






(平成19年11月6日)
ニューギニア方面戦没者慰霊碑




ニューギニア方面戦没者慰霊碑






(平成19年11月6日)

碑文

1941年(昭和16年)12月に勃発した第二次世界大戦に於て、当初は各地とも赫々たる戦果をあげ、故国から数千粁も離れた南海の諸島までも占領しました。
しかし、1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦の敗戦を契機に米軍の反攻はガダルカナル島の奪回作戦にはじまり、わが軍はラバウルを中核基地として航空戦の総力をあげて死闘を繰り返しましたが、補給が続かず7千数百機を失い制空、制海権は完全に米豪軍の手にわたりました。
特に文明文化から取り残され世界の唯一の秘境と言われたニューギニア戦は、南海支隊のポートモレスビー攻略作戦の挫折にはじまった玉砕、撤退、その後ダンピール海峡で全輸送船の沈没により補給はたたれ見放された戦場となり「食べるに糧食なく、病魔に医療品なく、射つに弾丸なく」生命を維持し得ず戦う前に斃れてしまう者もありて、すべて悲惨、凄惨、無念としか言いようのない慟哭の戦場と化した。
この戦場に参加して武運つたなく名誉の戦死をされた方は、愛媛県に2千4百余名、当南予地方だけでも769名、更にニューギニア方面となると約千名を数えます。
生還者僅か7パーセントで祖国の栄光と安泰を信じ散華された英霊の遺骨の未収集は、東部ニューギニアのみで約8万柱といわれ今なお異境の地で眠り続けているのです。
国としては平成5年度を目安に遺骨の収集に全力をあげています。
ニューギニアに出る月も故郷南予に出る月も一つで、その月を眺めて只管に望郷の想いにかられながらも、かく悲惨なる戦を強いられ南海の涯に白骨となって眠り続けて再び還ることの出来なかった英霊の心情を思う時、故郷南予の地で安らかに眠る場造りと碑の建設は多年の悲願であり、残された我々の務めである。
時恰もニューギニアで戦死された当初の方は五十年忌にあたり、その機会をとらえて、宇和島市南予護国神社のこの一隅を借り受け、「南予出身者ニューギニア方面戦没者慰霊碑」の建設がここに完成し、祖国の為めに散りし戦没者を暖かく迎え入れて、ご冥福をお祈りすると共に之を後世に伝えて二度と再びこのような戦争を繰り返すことのないよう人類の恒久平和を祈願する。

平成5年(1993年)6月吉日
南予出身ニューギニア方面戦没者慰霊碑 建立委員会

維新三功臣之碑




維新三功臣之碑






(平成19年11月6日)

維新三功臣之碑

公爵伊達宗陳題額
南豫の地明治維新功臣三人を出す伊能友鴎得納亞斯登都築温是なり三士伊達宗城公の旨を奉承し夙に勤皇の藩議を宣明し大に國事に盡瘁す朝廷其■勲を■して各位階を贈賜せらる天恩優渥枯骨に及ふ同郷の士感激措く能わす資を■て碑を鶴島神苑に建て以て其芳名を不朽に傳へんとす按するに伊能君は中井筑後の弟文化14年11月を以て生る幼にして出て吉見氏をツグ嗣き左膳又長左衛門と稱す人と為り弘毅明敏夙に皇室の式■を慨し藩主を補佐して國事に勤む嘉永安政の■幕政漸く衰へ海内多故の時に當り君は天下の賢豪と交を締ひ殊に日下部伊三治橋本左内等と相親善して其間に周旋す高野長英村田蔵六の本藩に■するや君亦厚く之を庇護す君の才幹智略隠然民間の一勢力たり幕府大に之を忌む安政戊午の大獄起るや幕吏先ず君及日下部橋本等を捕へて獄に下し■訊峻厳を極む君累を藩主に及ほさんことを恐れ辯■甚力む後遂に重追放に處せらる文化2年赦に遇ふに及び宗徳公君の功労を憶ひ伊達家忠能の臣たるの義を以て命して氏を伊能と改め再び藩政に参與せしむ依て伊能下野と稱す友鴎は其退隠後の稱なり明治8年4月病を以て没す同36年11月特旨を以て正四位を追贈せらる得能君は林三十郎の長男天保8年4月を以て生る初め基吉郎又■十郎と稱し維新の後得能姓に復し恭之助又亞斯登と改む慶應年間京都留守居役に擢用せられ諸藩勤皇の士と交り小松帯刀坂本龍馬等と共に國事に奔走す朝政復古の業就るや徴せられて参與に任し明治元年有栖川大総督宮の東征せらるゝや君は西郷吉之助と共に参謀たり江戸事■たり東海道
先鋒柳原前光卿の甲州鎮撫の為め出征さらるゝや君亦■謀■監軍たり凱旋の際朝廷其功労を嘉賞して金品を賜ふこと數次明治2年函館府判事に任し次て開拓権判事に昇任す同年12月病に依り官を辞して郷に帰る後町會議員県會議員等の公職に就き■ら伊達家の家政に與り公私盡す所甚多し明治29年10月病を以て没す同36年特旨を以て従四位を贈らる都築君は末廣禎介の次男弘化2年6月を以て生る初の名は荘蔵後温と改む幼にして■悟才額學衆に秀つ宗城公其偉材を識り命して藩儒都築識衛の家を嗣かしむ人と為り豪爽任侠義を好む慶應年間公武軋轢して海内騒然たるの時に當り藩命を奉して京師に在り天下の志士と交り周旋甚力む大将軍徳川慶喜諸藩の重臣を二條城に召して大政奉還に關する意見を問ふや衆多くは幕威を憚り逡巡答ふる所を知らす君奮然小松帯刀後藤象二郎等と留り将軍に進謁して天下の大勢を論し政権奉還の■務を■■す是實に慶應3年10月13日なり翌日大将軍表を上りて政権奉還を奉請す時に君年■に22名聲頓に天下に■し維新の後外國官権判事に任す偶同僚と議合はす職を辞して郷に帰り藩政に■與し次て県會議員南豫中學校長北宇和部長等の公職に就き皆効績あり明治18年9月病を以て没す大正4年11月
今上天皇即位の大典を擧け給ふに當り優恩■勲に及ひ特旨を以て従五位を追贈せらる抑我南豫の地文武材能の士固より■からすと雖も出て天下の枢機に■し維新の鴻業を翼■せる者■三士に若くもの無し是素より上に英主宗城公の在るありて誘■激励せられたるもの與て力あるは言を竢たすと雖も要するに三士か時勢を観るの明ありて忠誠勇邁の志気あるに非すんは■■能く此の如くなるを得んや惟ふに三士の皇■を賛■せる各序次あり伊能君は維新の前にありて挺身皇政復興の気運を激成し■■尚避けす以て中興の基を■き都築君は正に維新の時に方り権貴を恐れすして侃諤の論議を唱へ一言天下の安危を■め得能君は維新の後を承けて撥乱反正の帷幕に■し縦横が畫策能く平定の功を奏す三士先後相率ゐて各■■匪■の誠を■す嗚呼偉哉同郷後進の士此碑を観る者■幾くは感憤興起して以て三士の志を続かんことを

大正6年11月14日 陸軍少将正五位勲三等功四級 中原 渉 撰
                                   宍戸元■書

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