平成24年4月18日

伊藤博文 いとう・ひろぶみ

天保12年9月2日(1841年10月16日)〜明治42年(1909年)10月26日

山口県光市・伊藤公記念公園でお会いしました。


周防国の農民・林十蔵の子としてに生まれましたが、父親が萩藩の中間ちゅうげんである伊藤家に入養子になったため下級武士の身分を得ました。
吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作木戸孝允久坂玄瑞などと交流。
京都、江戸、長崎などで情報収集や尊皇攘夷運動に従事しました。
文久2年(1862年)品川御殿山のイギリス公使館焼き打ちや国学者・塙次郎暗殺にも参加。
翌年、井上聞多もんた(馨)とともに英国に留学しました。
長州藩が下関海峡で欧米諸国の船舶に砲撃したことや薩英戦争を知り、攘夷中止を訴えるため急遽帰国。
自重論はは不採用となりましたが、四国連合艦隊との講和使節に加わりました。
この後、対幕府戦争、藩内抗争などでは木戸孝允のもとで、倒幕運動や藩権力の掌握に邁進し、特に長崎からの武器輸入や他藩との交渉に当たりました。
明治元年(1868年)外国事務掛、兵庫県知事、大蔵少輔しょうゆ兼民部みんぶ少輔、租税頭、工部大輔を歴任。
明治4〜6年(1871〜1873年)岩倉遣外使節団の副吏として欧米を視察。
帰国後、参議兼工部卿となり、大久保利通の片腕として殖産興業政策の推進に尽力しました。
大久保の死後、内務卿。
明治14年の政変の後、欧州で憲法調査に従事し、帰国後は宮中改革・近代内閣制度樹立を進めました。
明治18年(1885年)45歳で初代内閣総理大臣に就任。
ドイツ風の憲法を起草し、明治22年(1889年)2月の日本帝国憲法の発布に貢献しました。
4回総理大臣を務める。
日清戦争では全権として講和条約に調印。
明治33年(1900年)、自ら立憲政友会総裁となって政党内閣を組織し、明治立憲制のもとで政党政治の道を開きました。
晩年は元老として勢力を保持。
日露戦争後、韓国統監を務めましたが、韓国の民族運動家・安重根あん・じゅうこんによってハルピン駅頭で暗殺されました。

(平成16年8月11日改訂)







伊藤博文公像
 
(山口県光市・伊藤公記念公園)




(平成24年4月18日)


伊藤博文公について
1841年(天保12年)  9月  当地で出生 幼名 林 利助はやしりすけ
1849年(嘉永 2年)    9歳のとき萩へ転居
1854年(安政元年)    14歳のとき父が伊藤家の養子になったため
     「伊藤」姓を名乗り、名を「俊輔しゅんすけ」と改める
1857年(安政 4年)  4月  松下村塾に入り、吉田松陰に学ぶ
1868年(明治元年)    「伊藤博文」を名乗る
1868年(明治元年)  5月  兵庫県知事となる
1871年(明治 4年) 10月  岩倉使節団に副使として参加、アメリカ・ヨーロッパへ
1885年(明治18年) 12月  初代内閣総理大臣になる
1909年(明治42年)  3月  伊藤公自らの基本設計による伊藤公記念館
     (旧伊藤博文邸)着工
1909年(明治42年) 10月  ハルビン駅頭において凶弾に倒れる
1910年(明治43年)  5月  伊藤公記念館(旧伊藤博文邸)落成
監修 鎌倉市 伊藤博雅
設置 大和町観光協会

(説明板より)






伊藤公生家 
(山口県光市・伊藤公記念公園)




(平成24年4月18日)

伊藤公生家

天保12年(1841)9月2日、この地で生まれた伊藤公は、6歳までをこの家で過ごした。
当時は約207坪(684u)の敷地の中に、母屋や納屋、土蔵などがあったが、敷地のほとんどが畑として使われていたため、母屋は30坪(100u)ほどの粗末なものだったと伝えられている。
この生家は、公一家が萩へ移り住んだ翌年の嘉永3年(1850)に暴風雨により倒壊したが、大正8年(1919)「伊藤公爵遺跡保存会」によって復元された。
しかし、この生家も老朽化したため、伊藤公生誕150年にあたる平成3年(1991)本町は「ふるさと創生事業」の一つとして、もともと公の生家のあったこの場所に建物の移転と復元を行った。

光市

(説明板より)






伊藤公の幼年時代(ジオラマ) 
(山口県光市・伊藤博文生家)




(平成24年4月18日)

伊藤公の幼年時代

伊藤博文は、天保12年(1841)9月、熊毛郡くまげぐん束荷村つかりむら字野尻あざのじりの農家、林十蔵じゅうぞうと琴子ことこの一人息子として生まれました。
幼名を利助りすけといい、満6歳までここで過ごしました。
満13歳のとき、萩の伊藤家の養子になったことから伊藤姓に変わりました。
子供の頃の利助は、近所でも評判の腕白坊主わんぱくぼうずで、戦いくさごっこや魚釣り、木のぼり、相撲など、みんなの先頭にたって暗くなるまで遊びまわっていました。
父の十蔵は、庄屋しょうやに次ぐ地位にありましたが、生活は苦しく、母琴子は、農作業のあい間に糸を紡つむぎ木綿もめんを織り、生計をたてていました。

(説明板より)






伊藤公産湯の井戸
 
(山口県光市・伊藤公記念公園)




(平成24年4月18日)





産湯の水
 
(山口県光市・伊藤公記念公園)




(平成24年4月18日)





伊藤公資料館 
(山口県光市・伊藤公記念公園)




(平成24年4月18日)

伊藤公資料館の概要

伊藤公資料館は、初代内閣総理大臣 伊藤博文公の遺品等を展示して公の業績を紹介するとともに、幕末から明治末までの日本の動きを学習する場として開設されました。
鉄筋造平屋建534.36uの本館の外観は、レンガ造りの明治風建築となっています。
また、生家と旧伊藤博文邸の間に位置することから、「利助(博文の幼名)と博文を結ぶタイムトンネル」という要素を持たせています。

(リーフレット『伊藤公資料館』より)






旧伊藤博文邸
 
(山口県光市・伊藤公記念公園)




(平成24年4月18日)

旧伊藤博文邸
(平成5年山口県指定有形文化財・通称 伊藤公記念館)

本館は、初代内閣総理大臣・伊藤博文公が自ら基本設計をしたもので、当時の山口県知事・渡辺融とおる、貴族院議員・室田義文むろたよしふみ両氏が監督となり、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)2万1,291円38銭で請負ました。
洋館木造モルタル二階建て延床面積293平方メートルの本館は、公の遠祖・林淡路守通起はやしあわじのかみみちおきの没後300年にあたり、公が施主となり、林家及び伊藤家の一族を招いて法要を行うために建てられたものです。
工事は、明治42年3月に着工、翌年5月に完成しましたが、工事中の明治42年10月26日、公はハルビン(現・中華人民共和国東北地区)駅頭で凶弾に倒れ、完成した館を見ることは出来ませんでした。
しかし、公の意志を継いだ嗣子・博邦ひろくに公により、明治43年11月13日に300年の法要が行われました。
その後、明治45年に山口県が伊藤家より寄贈を受けて管理をしていましたが、昭和27年に当時の大和村が無償で払い下げを受け、公の遺品や書などを展示する施設として一般公開していました。
平成5年には県指定有形文化財に指定されましたが、建物の老朽化により大和町は平成14年7月から保存修理工事を着工し、軸部等の部分修理や屋根の葺き替え、車寄せ部分を明治43年建築当初の姿に復し、平成16年2月に竣工しました。

(説明板より)






伊藤公記念公園 
(山口県光市大字束荷2250−1)




(平成24年4月18日)

伊藤博文像 平成15年7月26日

山口県萩市 伊藤博文旧宅跡でお会いしました。


旧宅地に建つ銅像


銅像は旧宅地に建っています。

この銅像は”萩焼き”で出来ているそうで、正確に言えば”陶像”という事になりますね。



(平成15年7月26日)
伊藤博文旧宅


伊藤博文旧宅

明治元年(1868年)兵庫県知事として赴任するまで、ここを本拠として活躍していました。



(平成15年7月26日)
旧宅内部 旧宅内部

国指定史跡
伊藤博文旧宅
所在地 萩市大字椿東字新道
指定年月日 昭和7年3月25日

伊藤博文は周防国熊毛郡東荷村(現在の大和町)の百姓、林十蔵の長男として生まれたが、安政元年(1854)14歳の時父が家族を連れて萩藩の中間、伊藤直右衛門の養子となりこの家に住むことになった。
博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。
のち攘夷運動の志士として各地において活躍し、明治元年28歳で新政府に出仕するまで14年間ここを生活の本拠とした。
博文は参議を経たのち初代の内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監となった。
内閣を組織すること4次、明治の元勲といわれ政府の最高指導者となったが明治42年69歳でハルピン駅頭で凶弾に倒れた。
旧宅は茅ぶき平屋建(7室、建築面積89.52平方メートル)で風呂場と便所とが屋外にある農村にあった典型的な下級武士の住宅である。

萩市教育委員会

(説明板より)


伊藤博文別邸


伊藤博文別邸


旧宅の隣りに移築されています。



(平成15年7月26日)
大広間の鏡天井

畳5枚分の杉の1枚板です。
鏡天井の1枚板
書院の間 書院の間
2階建て部分を外から見る 2階建て部分

市指定史跡
伊藤博文旧宅地附つけたり伊藤博文別邸

指定年月日 平成10年8月31日
所在地 萩市大字椿東字新道1511−1
指定面積 1,309.76u

別邸は、伊藤博文公が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向かって右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものでありました。
当地へは往時の面影をよく残す玄関、離れ座敷の3棟を移築しました。
明治時代の宮大工伊藤満作の手によるもので、大広間の鏡天井や離れ座敷の節天井など意匠に優れています。

開館時間:午前9時〜午後5時 年中無休

(パンフレットより)

伊藤博文(利助)像 平成15年7月26日

山口県萩市郊外の萩往還公園(道の駅)でお会いしました。

伊藤博文(利助りすけ

熊毛郡束荷つかり村に農民の子として生まれました。
17歳の時に、来原良蔵くりはら・りょうぞうに認められて、その紹介で松下村塾に入塾しました。
松陰は伊藤を「周旋屋しゅうせんや(世話好き)」と評しています。
維新後は国会の開設、憲法制定など「明治日本」の確立に中心的な役割を果たし、日本最初の内閣総理大臣となりました。

(説明板より)

往還公園に建つ銅像

往還公園に建つ銅像


右:伊藤博文(利助)
中:木戸孝允(桂小五郎)
左:山県有朋(小助)



(平成15年7月25日)






お亀茶屋跡 
(山口県下関市・亀山八幡宮)




(平成23年9月15日)

伊藤博文公夫妻史跡 「お亀茶屋」跡

幕末のころ北前船の寄港地として海陸物産が集散し西の浪華として栄えていた下関の街を、明治維新の志士たちが繁く往来していました。
慶応元年(1865)の初夏、刺客に追われた伊藤博文公が亀山八幡宮の境内で、茶屋のお茶子だった木田梅子に助けられたのが二人の出会いで、その1年後に夫婦になりました。
伊藤公は明治新政府を樹立し、初代内閣総理大臣として日本の近代化と発展に身命をなげうち、明治42年(1909)、凶弾に倒れました。
明治の元勲と称えられる伊藤公と、公を支えた梅子夫人が結ばれたゆかりの場所です。
“国のため光をそへてゆきましし 君とし思へど悲しかりけり”(梅子)
夫人は大正13年(1924)に77才で亡くなりました。

芳梅会

(説明板より)






亀山八幡宮
(山口県下関市中之町1−1)




(平成23年9月15日)

御祭神

応神天皇 神功皇后 仲哀天皇 仁徳天皇

由緒

平安時代貞観元年(859)、八幡神が京都・石清水八幡宮に勧請される途次、当時島だった亀山の麓に船を繋がれた。
その夜、「此の山清浄なり、しばらく祭祀し奉りて路を進むべし」との神託により勅使は国主に命じて宮殿を造営された。
以来、朝廷・大内・毛利藩主の崇敬厚く、下関六十ヶ町の氏神、「関の氏神」として奉斎されている。(別表神社)

(リーフレット『亀山八幡宮略記』より)


伊藤博文の女好き

伊藤博文は貧農の子供から日本のトップに昇ったナンバーワンの偉人ですが・・・・
女性漁あさりでもトップクラスであったといいます。
お相手はほとんどが芸者で、「公務の余暇に芸者を相手にするのが何よりの楽しみ」と公言してはばからなかったというから豪快です。
酒席には必ず芸者が侍はべり、同座した芸者は複数モノにしたといいます。
明治天皇もこの荒淫こういんには心配したようですが、自重した形跡はないようです。

それにしても、当時は何人の妾めかけを持とうが、芸者遊びをしようが自由な時代だったのでしょうが・・・・
明治天皇が心配するくらいということは、かなりのものだったのでしょうねぇ。

そういう眼で銅像を見てしまうと・・・・思わず笑ってしまいます。


『博文』という名

伊藤博文という名は、高杉晋作が『論語』の「博約を以って文をなす」から引いて名付けてくれたもの。

(参考:『歴史街道 2008年9月号』)

(平成20年8月25日記)


剛凌強直(強く厳しく正直)

『剛凌強直ごうりょうきょうちょく』とは、明治6年(1873年)に木戸孝允が32歳の伊藤博文を評した言葉です。

(参考:『歴史街道 2010年3月号』)

(平成22年9月23日追記)


伊藤内閣の条約改正問題

明治18年12月、内閣制度が設けられたのを機にして生まれた内閣。
地方自治制の完成・財政整理・軍備の充実・法典編纂・教育制度の整備・殖産の振興・交通の発達等の重要問題を抱える。
その中で最重要課題が条約改正問題で、伊藤は井上馨外相によって解決したいと考えていた。
当時の条約は最恵国約款・治外法権・関税自主権の喪失などの欠点があった。
この問題は明治11年に外務卿の寺島宗則(薩摩出身)が対処したが、薩長の内部抗争により改正に失敗し辞職。
今度は長州出身の井上馨が外務卿になってこれに当たることになる。
諸外国が我が国の要求を拒むのは我が国の文明状態が欧米諸国に比して著しく遅れているためであると考えた伊藤と井上らは、我が制度・文物・風俗・習慣にまで欧米風を模倣するという極端な欧化政策をとった。
この政策は明治19年中頃から始まり、20年の春に絶頂期を迎えた無批判的欧米崇拝の一時期で、世に『鹿鳴館時代』と呼ばれた。
これに対し、国粋主義者はもちろんのこと、進歩主義者までが反対。
欧米視察から帰国した農商務相の谷干城が突如意見書を提出して辞職。
これに前後して、勝海舟が建白書を、板垣退助が意見書を提出したため、条約改正反対の国論が沸騰し、政府は窮地に陥り、各国に条約改正中止の通告をするに至った。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月8日追記)


【狡猾な伊藤博文】

欽定憲法の起草者・伊藤博文は天皇機関説である。
伊藤博文は、議会をもって天皇の権利を控制する目的にした。
しかも、国家の最高機関たる天皇の意思と、もう一つの国家の最高機関たる議会が衝突した場合を想定した法律の明文を設けなかった。
ここが伊藤の狡猾なところである。
天皇の権利意志が自分たち(支配層)に都合の悪いときは議会をして天皇の権利をチェックさせ、議会が自分らに都合が悪い時は天皇の権利意志を利用して(たとえば議会の議決を必要としない勅令とか、議会の解散とかで)議会を控制する。
そのために天皇の古代神権的な面を残しておく。
いや、そのデスポット的権威を益々強めて「天皇は神聖にして侵すべから」ざる存在にした。
そうなると、たとえ天皇と議会とが衝突した場合を想定して法的な仲介機関を設けたところで、仲介機関は「神聖天皇」の前に沈黙するだけとなって意味がない。
伊藤博文は天皇機関説と天皇神権説とを手玉にとって操っていたのである。

(参考:松本清張 著 『北一輝論』 講談社 昭和51年2月第1刷発行)

(平成29年10月18日 追記)


大宝院



大宝院
(神奈川県横浜市金沢区金沢町)





(平成20年2月8日)

大宝院だいほういん略縁起

当院は奈良西大寺の末寺で、金沢山弥勒院称名寺の一坊であった。
鎌倉時代、金沢文庫を経営した北条氏が、4代にわたって称名寺の伽藍を造立した頃僧坊として建立されたものと思われる。
文明16年(1484)に記された称名寺の僧鏡心の「鏡心日記きょうしんにっき」に当院の名がみえる。
本尊は聖観世音菩薩。
江戸時代の中頃には金沢札所の第三番に数えられ、所願成就の観音霊場として多くの参詣者で賑わった。
明治30年(1897)に、明治憲法の草案作りのため金沢の地を訪れていた伊藤博文によって、境内に金沢文庫と閲覧所が復興されたが関東大震災により倒壊し現在は庫裏くりの一部として現存しているのみである。
本尊は観音堂正面の厨子ずし内に祀られている。

平成6年4月
大宝院住職

(説明板より)

(平成20年5月25日追記)


【元勲内閣】

第二次伊藤内閣では、山県有朋(司法)、黒田清隆(逓信)、井上馨(内務)、大山巌(陸軍)、後藤象二郎(農商務)、河野敏鎌(文部)など藩閥の領袖りょうしゅうが一堂に会し、元勲内閣と呼ばれた。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月5日 追記)


 平成23年9月15日

山口県下関市・「日清講和記念館」でお会いしました。





左:全権辨理大臣 伊藤博文公像
右:全権辨理大臣 陸奥宗光伯像

(山口県下関市・「日清講和記念館」)




(平成23年9月15日)

【日清講和会議】

朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清国は、明治27年(1894)甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに開戦しました。
この戦争は日清戦争と呼ばれ、戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、翌年清国は日本に講和の打診を始めます。
明治28年(1895)3月19日、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊しました。
翌日から下関の春帆楼で日清講和会議が開催されました。
この講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席しました。
講和に向けて会議はくり返しおこなわれ、4月17日に講和条約が調印されました。
下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示できる最適な場所であったからです。
事実、日本の軍船が大陸に向かい狭い海峡を通過する光景は、清国使節団に脅威を与え、その後の交渉は日本のペースで展開したといわれます。
このとき調印された講和条約は下関条約と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払い等を約束しました。

(リーフレット『日清講和記念館』より)

史蹟 春帆楼
日清講和談判場

(山口県下関市阿弥陀寺町4−2)
明治時代の初代春帆楼玄関

旧春帆楼

日清講和会議の会場となった旧春帆楼。
明治の初め、医師の藤野玄洋が開業した月波楼医院を、のちに妻のミチが改装し、料亭兼旅館としたものです。

(リーフレット『日清講和記念館』より)






日清講和記念館

(山口県下関市阿弥陀寺町4−3)




(平成23年9月15日)

日清講和記念館

この記念館は、明治28年(1895)春、この地で開かれた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937)6月、講和会議の舞台となった春帆楼の隣接地に開館しました。
浜離宮から下賜されたといわれる椅子をはじめ、講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示しています。
また、館内中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介しています。

鉄筋コンクリート造、入母屋造、本瓦葺の記念館建物は、組物や懸魚げぎょなど細部に伝統的な意匠を用いて、威風ある外観を形成しています。
これらの特徴が「造形の規範となっているもの」として評価され、平成23年(2011)1月26日、国の登録有形文化財に登録されました。

(リーフレット『日清講和記念館』より)






講和会議場(再現)
(山口県下関市・「日清講和記念館」)




(平成23年9月15日)

講和会議場の再現

ここでは日清講和会議で実際に使用された調度品を記録にもとづいて配置し、会議場の様子を再現している。
会議は春帆楼しゅんぱんろう2階の大広間でおこなわれた。(当時の春帆楼の建物は昭和20年「1945」の戦災で焼失)
会議場は、浜離宮から下賜されたといわれる椅子をはじめとして、ランプ、ストーブ等の様々な調度品で整えられた。
会議終了後、これらの調度品は当時の有志に下賜され、貴重な歴史的遺品として保管されることとなった。
毎年講和条約調印の記念日(4月17日)に、春帆楼において公開されたという。
その後下関市へ寄贈され、記念館建設のきっかけとなった。

(説明板より)

李鴻章 伊藤博文

第2次伊藤内閣の崩壊

日清戦争後の三国干渉に屈した第2次伊藤内閣に対し、国民の憤りの火は燃え上がり、明治28年12月25日召集の第9議会に野党より政府弾劾の上奏案が提出された。
この外交問題に関する政府弾劾上奏案は政府と自由党の提携により否決。
辛うじて第9議会を切り抜けたが、政府の御用をつとめた自由党は党首の板垣退助の入閣を要求。
伊藤はこれを断ることが出来ず板垣に内相の椅子を与えた。
これに対して藩閥方面から猛烈な反対論が起こり、藩閥勢力の牙城である枢密院や貴族院が同調した。
当時、官僚政治家で政党と握手するのは藩閥に対する一大謀反であるという考えが藩閥の間に行われており、山県有朋はこれを見て伊藤を『国賊』とまで罵った。
周囲の情勢が政府に不利となりつつあるときに、伊藤の懐刀の陸奥宗光外相が病気のため辞任。
渡辺国武蔵相も財政の膨張に対する非難に堪えられず辞意をもらした。
伊藤はこの土壇場で起死回生の策を敵に求め、外相に大隈重信、蔵相に松方正義を迎えて内閣の強化を図ろうとしたが、この計画は失敗し、総辞職のやむなきに至った。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月10日追記)


第4次伊藤内閣

我が国最初の政党単独内閣。
隈板内閣が倒れた後、山県有朋内閣が生まれ、山県は憲政党と結んだが、明治33年5月31日、憲政党が山県内閣との提携断絶を宣言。
憲政党は局面を展開するため、かねてより政党組織の計画を抱いていた伊藤博文を党首に迎えようとしたが、伊藤は「自分の意図は既成政党の宿弊を矯正せんとするにある」としてこれを断り、独自に新党を組織する計画を進める。
明治33年8月25日、新党は憲政党を中心として成立することになり党名は『立憲政友会』と決定。
9月15日の発会式で伊藤は「政党は宜しく私心を去って国家に奉ぜざるべからず、願わくば立憲政友会をして政党の模範たらしめん」と抱負を述べた。
政友会の結党式から10日後、山県内閣が総辞職。
伊藤は政友会創立早々で、かつ病臥中であったが、大命が下ったため組閣を引き受ける。
しかし、多年東京市参事会員として市会を牛耳っていた星亨が逓相(逓信大臣)に就任した途端、東京市の疑獄事件が摘発され、疑惑は星にも及び星は辞任。
後任に原敬が選ばれた。
明治33年12月22日、第15議会が召集。
貴族院に大きな勢力を持つ山県有朋一派が、政党を基礎として成立した伊藤内閣に反感を持ったため、貴族院が反政府的行動に出る。
このため伊藤は天皇の力にすがって難局を切り抜けようとし、陛下は山県有朋、松方正義に上京を促し、政府と貴族院との間を調停させた。
第15議会は政府の増税案(軍事費・災害準備基金・教育基金に当てる予定)が無事に通過し終了したが、今度は予算執行の問題で渡辺蔵相と他の閣僚との間に抗争が生じる。
よって閣内不統一の理由により、内閣は総辞職。
我が国最初の単独政党内閣は、わずか7ヶ月で瓦解した。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月12日追記)


【韓国統監】

1905(明治38)年11月、伊藤博文が特命全権大使としてソウルに乗り込み、11月17日、韓国皇帝に第二次協約、すなわち韓国保護条約をおしつけた。
この日韓協約で日本は韓国の外交関係および事務のいっさいを「監理指揮」することとし、日本政府を代表する「統監」をソウルに置くことになった。

1906年3月、伊藤博文が初代の統監として韓国に駐在することになったのだが、この統監はあ韓国の外交を指揮するほかに、韓国政府に配置した財政・産業・警察・教育等の日本人顧問を指揮し、なお韓国に駐屯する日本軍を指揮する権限を付与された。
この結果、事実上、韓国の外交、内政の全般を日本が支配することになったのである。

伊藤統監は慣例として内地より帰ると必ずその晩に韓国内閣の諸公を統監官邸に招待して晩餐を共にし、種々の報告を受け、あるいは日本の状況を伝えられるのが例であった。

(参考:大河内一雄 著 『幻の国策会社 東洋拓殖』 日本経済新聞社 昭和57年1版1刷)

(平成29年2月1日 追記)


伊藤博文暗殺事件

伊藤博文(68歳)がハルピンに来たのは、ココーフツオフロシア蔵相と満州の植民地経営について2回目の日露協約を話し合うためであったが、実際は韓国併合についてロシア側と協議することにあったらしい。
このハルピン訪問の事務方を務めたのは逓信大臣の後藤新平と駐露公使の本野一郎。

事件が発生したのは明治42年(1909年)10月26日午前9時30分のこと。
中国の黒龍江ヘイロンチャン省ハルピン市のハルピン駅に貴賓車から伊藤博文(68歳)が降り立った。
プラットホームには警備を兼ねたロシアの儀仗兵が整列。
東清鉄道長官ホルワット少将からロシア要人を紹介され、軍隊の検閲を終えて数歩後戻りした瞬間、群衆の中から韓国人青年が近づき、4〜5mほどの至近距離からブローニング自動拳銃で撃たれた。
6発発射された銃弾のうち3発が伊藤に命中、他に負傷者が3名出たという。
伊藤は撃たれてから30分後に死亡。
犯人は韓国人青年・安重根(30歳)であった。

ロシア側の警備の甘さは「ニューヨーク・ヘラルド」誌も不自然だと指摘している。
しかし外務省はロシア謀殺説を否定し、政治的事件ではなく安重根の個人的犯罪という見解を示した。
外務大臣・小村寿太郎は司法判断が出る前に早々と「極刑に処せるのが相当」と地方法院へ伝えている。

国葬は11月4日に日比谷公園で営まれた。
国葬には内閣総理大臣の桂太郎以下、陸軍大臣寺内正毅、海軍大臣斎藤実東郷平八郎乃木希典、山本権兵衛ら現役陸海軍将官や元老の山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨などが参列した。

犯人の安重根は明治43年(1910年)3月26日午前10時過ぎに旅順監獄で死刑に処せられた。

同年8月、日韓併合に関する条約が調印され、「朝鮮総督府」の設置が公布された。
初代総督には陸軍大将・寺内正毅が補職。
民政担当の政務総監は山県伊三郎(山県有朋の甥)、治安担当の警務総長は明石元二郎陸軍少将(駐朝鮮憲兵司令官兼務)。

参考文献:斎藤充功著『伊藤博文を撃った男』

(平成17年3月28日記)


【韓国独立論者・伊藤博文】

伊藤博文は、韓国の植民地化に絶対反対という考えを持った人であった。
一例を挙げれば、植民地政策の専門家であった新渡戸稲造が、伊藤博文に韓国を植民地にした場合のプランを述べようとしたところ、伊藤は「植民地にしない」と言って、韓国人による韓国統治の必要性をこんこんと説いたという。
これは、新渡戸本人が著書の中で書いている話であるから間違いない事実であろう。
ところが、このような韓国の独立論者を、韓国人自身が暗殺してしまったのである。
これは、まさに韓国にとっては自殺行為であったとしか言いようがない。

伊藤は韓国を併合したり、植民地化することに反対していた実力者である。
彼がもし天寿を全うしていたら、韓国は日本の保護下で近代化を進め、やがては外交権を回復していたはずである。
日韓併合というようなことは、せずに済んだ可能性は大いに考えられる。
現代韓国では、安重根のことを「民族の英雄」として教えているという。
しかし、彼がやった行為が、どれだけ歴史をマイナスに変えたかということを考えてみると、果たして単純に英雄として持ち上げていいものか、はなはだ疑問である。
伊藤博文のことを「コリアの敵」として暗殺したのは、どう考えてみても筋違いであった。

(参考:渡辺昇一 著 『かくて昭和史は甦る〜人種差別の世界を叩き潰した日本〜』 平成7年第3版 クレスト社発行)

(平成27年1月8日 追記)


【日韓併合】

日本の世論が、伊藤暗殺に激怒したのは言うまでもないが、韓国のほうでも「大変なことをしてくれた」と震え上がった。
日本の、それも有力な政治家を暗殺してしまったのだ。
どんな報復があってもおかしくないところである。
日韓併合の議論は、このような状況から生まれてきた。
伊藤の暗殺を受けて、日本の対韓政策は大幅に変更になった。
また、韓国の側からも日韓併合の提案が起こった。
しかもそれは韓国政府からだけではなく、民間からの提案もあった。
明治42年12月(暗殺から2ヵ月後)に、韓国一心会という民間団体が日韓合併の声明書を出したは、その一例である。

しかし、日本が朝鮮半島を領土とすることに対して、列強や清国がどのように感ずるかを気にし、日本はまだまだ日韓併合に慎重であった。
そこで、日本は関係国に併合の件を打診したところ、米英をはじめとして、誰ひとりとして反対しなかった。
彼らの条件としては、「すでに韓国と結んだ通商条約を廃止しないでくれ」ということだけであった。
日本と同様、韓国も不平等条約を結んでいたので、列国はきわめて低い関税で韓国に商品を輸出していたのである。
それを今後も続けたいという、虫のいい条件である。
また、イギリスやアメリカの新聞も、東アジアの安定の為に、日韓併合を支持するという姿勢を示した。
これを見て、日本ははじめて日韓併合条約を結ぶことになった。
日韓併合は、このような慎重な手続きを経て、国際的にみて一点の非の打ちどころのない条約をもって成立し、それには一国も反対した国がなかったのである。

(参考:渡辺昇一 著 『かくて昭和史は甦る〜人種差別の世界を叩き潰した日本〜』 平成7年第3版 クレスト社発行)

(平成27年1月8日 追記)







大勲位伊藤博文公墓所 
(東京都品川区西大井6−10−18)




(平成23年11月26日)





伊藤博文の墓
(東京都品川区西大井6−10−18)




(平成23年11月26日)

千円札

昭和38年(1963年)11月1日
偽札が横行するため、大蔵省は伊藤博文の肖像の新千円札を発行しました。

(平成17年7月5日追記)




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