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平成20年4月14日
永禄6年11月13日(1563年11月28日)〜正保2年12月2日(1646年1月18日)
京都府長岡京市・勝龍寺城でお会いしました。
細川藤孝の長男。
若年から父とともに織田信長に従い、松永久秀討伐をはじめ戦功をたてた。
本能寺の変に際しては室のガラシャ(明智光秀の娘)を一時離縁して光秀の誘いを退け、豊臣秀吉から丹後一国を安堵された。
文禄の役では2年半朝鮮に滞陣。
秀吉没後は親徳川派となり、関ヶ原の戦功で豊前小倉39万石余に移封。
元和6年(1620年)病気により隠居し、剃髪して三斎宗立さんさいそうりゅうと号した。
寛永9年(1632年)子の忠利の国替えで肥後に移り、八代やつしろを居城とした。
引退後もつねに藩政や軍事について忠利を指導し、幕府有力者との関係保持に努めた。
茶道は千利休の高弟で三斎流を起こした。
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細川忠興・玉(ガラシャ)像 (京都府長岡京市・勝龍寺城) 勝龍寺城伝説記念像 題字 五十棲辰男 原型制作 田畑 功 鋳造製作 高岡市・織田幸銅器 平成3年3月吉日 (平成20年4月14日) |
| 忠興の人生模様 |
戦国時代に活躍した武将の一人に、細川忠興(与一郎)がいる。
数少ない京都出身の戦国武将である。
現在の長岡京市と縁が深く、ここにあった勝龍寺城で明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)と結婚している。
忠興は父の藤孝(幽斎)よりも剛直な男だった。
若いころは、文化人武将と言われた父藤孝を少し軽蔑するような風があり、本能寺の変を知らせに来た明智光秀の使者を殺そうとしたり、父の舞鶴田辺城明け渡しを勘違いしてなじったりもしている。
ある人から家来をほめられた時の返答が、「二度教えて分からぬ者は、切り申し候」だったというエピソードも伝わる。
忠興は父・幽斎に勝るとも劣らない処世上手だった。
信長にかわいがられていた忠興は、本能寺の変後も時勢を見誤ることなく豊臣秀吉に従い、ガラシャを幽閉し、秀吉の死後は権力の行方をみるに敏で、徳川家康についた。
茶道や和歌などの文化面でも造詣が深く、利休七哲の一人として名を残した。
一族は熊本城主として栄えた。
忠興の武将人生は順風満帆のようだったが、実はそうでもない。
妻・ガラシャの悲劇の死があり、忠興と同様に剛直な性格を持った長男や二男との間に確執があった。
幕府の介入もあったとされるが、長男は京都に閉居させ、二男は切腹させている。
親の心情としてどうだったのか。
家督はひ弱とされた三男が継いだ。
そして今秋も長岡京市で「長岡京ガラシャ祭」が開催される。(田中敏夫)
(『2007年7月23日 京都新聞 夕刊』より・勝龍寺城公園配布資料)
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