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| トートロジー とーとろじー tautology | ||||||||||||||
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お姉ちゃんは 誰の代わりでも ないよ。 お姉ちゃんは お姉ちゃんなんだから、 そのままでいて。 |
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| ――『貧乏姉妹物語』1巻88ページ (かずといずみ/小学館 サンデーGXコミックス) |
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《定義》 トートロジーは、まったく同じことばを、まったく同じ意味でくり返すレトリックです。それでいて、なおかつ意味をなす表現法です。 同じことばが続けて登場することになるので、読者に強いインパクトを与えることができます。また、くり返されることによってその言葉の真意を伝える効果もあります。 この「トートロジー」について、もう少し考えてみます。 たとえば、
ですが、そのような「AはAである」ということばを使って、しかもなおかつ意味をもつ文を作ることができます。それが、「トートロジー」になります。 この「トートロジー」は、「同語反復」「同義循環」とも呼ばれます。 《例文を見る》 で、例文は『貧乏姉妹物語』1巻から。 メインキャストは、姉の「きょう」と妹の「あす」。 「きょう」は15歳の中学生。「あす」は9歳の小学生。だが姉妹は、2人だけで暮らしている。母は「あす」が生まれた年に亡くなってしまい、父は借金をつくって蒸発してしまったから。 なお生活費は「きょう」が新聞配達などのバイトをして、なんとかしている。「数年前に法律が変わり、中学生以上から大人と同様に働けるようになった」(17ページ)とのことです。なお余談として、現在の法律では原則として中学生が働くことができないのは、労働基準法第56条のとおりです。まあこれって「偽悪語法」でも書きましたね。 それはそれとして。 今回は、「あす」の小学校で「授業参観」があるというお話。姉の「きょう」は、なんとかして妹の「あす」の授業参観に行きたいと考えている。というのも姉の「きょう」には、自分自身が小学生のころの授業参観にだれも来てくれなかったという悲しい思い出があったから。 そこで「きょう」は、おめかしをしてみる。授業参観のある前の日に、アパートのとなりに住んでいる、通称「お隣さん」の女性にお願いをする。そして、スーツを貸してもらったうえに、香水をふりかけてもらったりして、すっかりお化粧までした。 そして妹の「あす」にきいてみた。 「お隣のお姉さんに借りたの。」というふうに。 しかし「あす」の返事は、そっけないものだった。 「お姉ちゃん、無理して授業参観に来ないで…」そして、その晩。お風呂に入ると、あたりまえだが香水のニオイは落ちてしまった。 でもそこで妹の「あす」が、こんなふうに言う。 「よかった! いつものお姉ちゃんの匂いだ。」そして、それに続けて話しているのが引用のシーンです。 お姉ちゃんはここで「トートロジー」が出てきます。「お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから」というのが、それに当たります。 もちろん一見すると、ヘンな文ではあります。だって、「お姉ちゃん」が「お姉ちゃん」なのは当然なんだから。「お隣さん」でも「大家さん」でもなく、「お姉ちゃん」なのは当たり前なのだから。 でも、ここまでのストーリーを読んでいれば、そこに隠れている意味は分かります。ここでの意味は、だいたい「お姉ちゃんはお母さんの代わりではなくお姉ちゃんなんだから」というようなことでしょう。そこには、「いつものお姉ちゃん」でいてほしい、「そのまま」でいてほしいという、「あす」の気持ちを感じることができます。 だからこそ、ここで「トートロジー」が成り立つのです。「AはAである」という、無意味になりそうなかたちの文でありながら、なおかつ意味を読み解くことができる。そういったところで、「トートロジー」というレトリックが光るのです。 なお。 ストーリーのネタバレが多くて、もうしわけありません。でもこれは、「トートロジー」を説明するという都合からは仕方のないことなのです。なぜなら、「トートロジー」が使われるまでの話の流れがつかめないと、「トートロジー」を使って表現しようとしていることが理解できないからです。 《レトリックを深く知る》 【1.「トートロジー」の呼びかた】 「トートロジー」は、上にも書いたように「同語反復」とか「同義循環」とも呼ばれます。ですが、「同語反復」というネーミングについて、『レトリックの意味論―意味の弾性―(講談社学術文庫 1228)』(佐藤信夫/講談社)には、次のようなことが書いてあります。 「同語反復」という呼びかたをすると、 どちらかと言えばただ語句を重ねる――「そこのけそこのけ御馬が通る」――のような典型的な同語の反復とまぎらわしいからという取るに足らぬ理由で、《同語反復》という訳語はさけておきたい。とのことです。 それに習ってこのサイトでも、項目名を「同語反復」と呼ぶのは避けておきます。そして、「トートロジー」と呼んでおくことにします。 【2.他の学問の「トートロジー」との関係】 このサイトは「レトリック」について書かれているものです。なので、論理学など、ほかの学問で使われている「トートロジー」の用語を解説するものではありません。 このことをご了承ください。 あくまで、「レトリック」で扱われる「トートロジー」についての話を進めていくことになります。 【3.「トートロジー」の形式】 「トートロジー」には、形式として、
いちばん典型的なのは、『「すき。だからすき」』(CLAMP/角川書店 あすかコミックス)のタイトル。 「すき。だからすき」というもの。これは、上に並べた形式でいえば、「AだからA」というところに分類されます。典型的な「トートロジー」です。 【4.「同語異義復言」との関係】 なお。 この「トートロジー」は、「同語異義復言法」と近い関係にあります。 「同語異義復言法」は、同じことばを違った意味でくり返すものです。しかし、どこまでを「同じ意味」として、どこからを「異なる意味」とするかについては、はっきりと区別することはできません。 その意味で「トートロジー」と「同語異義復言法」とは、となりあった関係にあります。 言い方をかえれば、次のように考えることもできます。 「AはAだ。」という「トートロジー」の文章があるとします。これは一見すると、まったく同じ意味をくり返しているようにも見えます。ですが実際には、「A1はA2だ。」という意味だと考えられるのです。つまり、最初の「Aは」のAではA1の意味で使われ、次の「Aだ」のAではA2の意味で使われていると考えられるのです。 このように、「トートロジー」は「まったく同じ意味」をくり返しているのではなく、微妙に異なった意味を表しているといえます。 【5.「緩いカテゴリー」と「きついカテゴリー」】 上に書いたことを敷衍すれば、次のようになります。 例えば「飛ばなくても鳥は鳥だ。」というトートロジーを考えてみます。 ここでいう「鳥」という言葉には、2つのとらえ方があるといえます。それは、「鳥」にはツバメやスズメのような典型的な鳥と、ダチョウやペンギンのような周辺的な鳥の2つです。このように、「鳥」という1つのことばも、実際には区別されていると考えることができるのです。 いいかえれば。 「鳥」ということばには、2種類の枠があるといえます。1つは、外側の枠である「緩いカテゴリー」、つまり「すべての鳥が入るカテゴリー」。もう1つは、内側の枠である「きついカテゴリー」、つまり「典型的な鳥が入るカテゴリー」。この2つが存在するといえるのです。 そのように考えると、「飛ばなくても鳥は鳥だ」という表現は、「鳥」ということばにある2つの枠を使い分けているといえます。具体的に言えば、主部(「鳥は」)のほうには「きついカテゴリー」の意味で、「鳥」という言葉が使われている。これに対して、述部(「鳥だ」)のほうの「鳥」には「緩いカテゴリー」が使われている。と、このように見ることができるのです。 以上のように考えると、「飛べなくても鳥は鳥だ」のように、一見すると「トートロジー」に思えるものであっても、実際には異なった意味で使われているといえることになります(このような理論は「対義結合」でも同じ考え方ができます)。 このように、言葉の意味は、元から伸縮性をもっているのです。 このことから見ても、「トートロジー」と「同語異義復言法」とは隣接した関係にあるといえます。 【6.音の同じことばをくり返すレトリック】 なお。 音の同じ(もくしは似た)ことばをくり返すレトリックについては、次のようにまとめることができます。 こちらについても、ご参照ください。 【7.「トートロジー」のもつ「さすがに〜」という意味】 上には、「トートロジー」が「同語異義復言法」に近いという理論を書きました。ですが、そういう理論を使わずに、次のように説明する方法もあります。 それは、「さすがに〜」という意味を持っているということです。つまり、ひとことでいえば「慣習的意味の再確認」です。 言葉の意味は、常に変化を続けている。その意味が変化することに歯止めをかけて、国語辞典的な意味を再確認する。「トートロジー」は、このような役割も担っています。 例えば、「一流ホテルは(さすがに)一流ホテルだ」「ベンツは(さすがに)ベンツだ」のような文。ここでは、もともと持っていたイメージを再確認することを目的として「トートロジー」が使われています。 【8.「畳語法」との関係】 この「トートロジー」に似たもので、「畳語法」というものがあります。これは、同じ言葉が同時にいくつも連続して反復しているというレトリックです。 くわしくは、そちらを参照して下さい。 【9.関連書籍】 この「トートロジー」について多くのページを使っているのは、 『レトリック・記号etc.』(佐藤信夫/創知社)が挙げられます。しかしこの本は相当古く、とっくの昔に絶版になっています。興味のある人は、古本屋や図書館などで探してみて下さい。 《駄文》 これから下に書くことは、考えとしてまとまっているものではありません。したがってメモ書き程度のものと思って下さい。 ポスト構造主義の学者に、J・デリダ(1930-2004)という人がいます。彼は、ひとことでいえば「ロゴス中心主義」を批判した思想家です。 その批判をしている「ロゴス」というのを端的に説明するのは難しいです。ですが、ここでは「ロゴス」を「真理=言葉=意味」を表す術語だとしておきます。 この「ロゴス」を批判したことを「脱構築」という概念で説明していますが…、これ以上のことを書くと、書いてるヤツの知識が浅いことが知れてしまうので、やめておきます。 それでは、本題に入りましょう。 なんで、「トートロジー」の項目の中にポスト構造主義が出てきたか?その理由を一言で言えば、 ポスト構造主義から見ると「トートロジー」はあり得ないのではないか?という疑問が出てきたからです。 つまり、ポスト構造主義は『真理=言葉=意味』という考えかたを批判しています(それが「ロゴス中心主義」を批判した、ということです)。それを展開すると、「トートロジー」はあり得ないのではないか? という疑問に行き着くのです。 私たちはふつう、言葉には特定の意味があると考えます。つまり、辞書を見ればその言葉の意味が書いてある。そのお互いが知っている言葉と意味によって、お互いにコミュニケーションをとることができる。それは、言葉には特定の意味があり、そこには言葉の真理があると思っているからです。 しかしデリタは、これを批判します。つまり、1つの言葉について、1対1の関係で意味があるのではない。たったいま使われた言葉は、その時点で特定のことを表すと考えます。このことをデリダは、 「ただ諸差異の諸差異、諸痕跡の諸痕跡」があるにすぎない、と言います。 つまり、言葉には根元となる「真理」ないし「意味」があるのではない、とします。諸差異や諸痕跡があるにすぎないとします。 以上のことをまとめると、 ――「ロゴスが真理を表すものではない」ということです。言いかえれば、「言葉が特定の真理を持つものではない」ということになります。 だとすると。 私はこのページの先頭で「トートロジー」の解説として、「まったく同じ言葉を、まったく同じ意味でくり返すレトリック」だと書きました。しかし、デリダの考え方によれば、「まったく同じ言葉を、まったく同じ意味でくり返すレトリック」というものは存在しないのではないか? という疑問に行き着くのです。なぜなら「まったく同じ意味」で「まったく同じ言葉」を使うということは、デリダの理論ではありえないことになるからです。 『レトリック・記号etc.』(創知社/佐藤信夫)では、「すべての言語表現においてあらゆる語は、使われる一回ごとに意味を伸縮させている、と考えてみてもいいはずである。」(12ページ)としています。これは、『「まったく同じ意味」で「まったく同じ言葉」を使うということは、ありえない』という私の考え方に近いものだといえます。 …私の、現代思想に対する知識はせまいものです。ですので、これ以上深く探究することはできません。なので誰か、この考えをふくらませてみませんか(しかしそれには、少なくとも「哲学」と「修辞学」と「現代思想」の知識がないとできません。そんなアクロバット的な人はいますでしょうか?) |
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| 関連項目→反復法、畳句法、畳語法、隔語句反復、復言法、類義累積、回帰反復、首句反復、結句反復、首尾語句反復、前辞反復、おうむ返し、同語異義復言法、同綴同音異義、類音語反復、疑惑法、継起的音喩 | ||||||||||||||
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