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攻戦の計

計の名前説明過去の例




打草驚蛇(だそうきょうだ)(草を打って蛇を驚かす)疑ワバ以ッテ実ヲ叩キ、察シテ後ニ動ク。復スルハ陰ノ媒ナリ。

「打草驚蛇」には二つの意味がある。
@探りを入れて相手の動きを察知する策略。これは孫子の力説する諜報活動(彼ヲ知リ、己ヲ知レバ…云々)では限度があるために、実際の作戦行動の中で、偵察により相手の反応を見るというものである。
A蛇ではなく草を打つことで「いぶり出し」を行なう作戦。大物を捕まえるのに、周辺の小物から片付けていくのもこれに当たる。
つまりこの作戦の目的は“草”という手段を用いて、“蛇”の動向を知ることである。





エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことから、イギリス・フランス・イスラエルとエジプトの間にスエズ戦争が起こった。武力干渉に乗り出したイギリスはスエズ河口のポートサイドに木製やゴム製の人形を投下し始めた。エジプト軍はこれを空挺部隊の降下と判断し、人形に集中砲火を浴びせた。これですっかり手の内をさらけ出してしまったエジプト軍に対し、イギリス・フランス両軍は防衛要所を狙って攻撃を加えてこれを粉砕し、その後の降下・上陸作戦を有利に進めることができたのである。




借屍還魂(しゃくしかんこん)((しかばね)を借りて魂を(かえ)す)用ウルアル者ハ、借ルベカラズ。用ウル能ワザル者ハ、借ルヲ求ム。用ウル能ワザル者ヲ借リテコレヲ用ウルハ我ヨリ童蒙ニ求ムルニアラズ、童蒙ヨリ我ニ求ム。

これは、利用できるものは何でも利用して、勢力の拡大を図るという策略である。たとえば、
@自己防衛のための防波堤として利用する。
A勢力拡大のための隠れ蓑として利用する。
B地盤拡大のための踏み台として利用する。
…などである。利用する相手の前提条件として、勢力が弱く利用価値があることが必要である。利用価値がなくなった場合は乗っ取ることができる。


秦の始皇帝が死去したとたん、圧制に抗して各地に反乱が勃発した。先手をきったのは農民出の陳勝・呉広の二人、それに遅れじと項梁・項羽・劉邦などが続いた。陳勝・呉広が討ち死にすると、項梁が反秦連合のトップとなる。そのとき軍師の范増が言った。「秦を恨んでいる楚の人々は、楚の王家の再興を願っていたのに、陳勝はそこを理解することができずに自分が王となってしまった。陳勝が滅びたのは当然である。あなたは、楚の将軍の家柄ゆえに、あなたの挙兵に呼応して楚の各地から武将がはせ参じた。彼らはあなたに楚の王家を再興して欲しいと願っているということを忘れないでください」と。項梁はその言葉を聞き入れて、かつての楚王の孫が羊飼いをしているのを探し出して楚王として立て、懐王とした。こうして楚王が反秦連合の盟主になったのを見て、さらに楚の各地から武将が集まり、団結も強くなったのである。かわいそうなその傀儡王は、秦の滅亡後不要となり、項羽の手によって始末されることとなった。


三国時代の曹操はその動乱の中、数千の兵と共に挙兵してから数年の間に、黄河流域の兗州に自立した勢力を築くほどになった。彼はここで将来に備えて勢力拡大を図るために、本拠地の許に献帝を迎えるという行動をとった。当時の諸侯は自分達の攻伐に明け暮れて、献帝の窮状に目をくれるものはいなかった。しかし権威衰えたりとはいえ皇帝である。軍を動かすにしても、諸侯に号令するにしても、皇帝を頂いていることには政治的に非常な効果があった。曹操は献帝をロボットのように操縦し、その権威を利用することによって、三国時代最大の勢力を築くのである。しかし彼は献帝を退けて自らが皇帝となることはしなかった。それが行なわれたのは息子の曹丕の代になってからである。




調虎離山(ちょうこりざん)(虎を調(あしら)って山を離れしむ)天ヲ持ッテ以ッテコレヲ困メ、人ヲ用イテ以ッテコレヲ誘ウ。住ケバ蹇ミ、来レバ返ル。

「調虎離山」の“虎”とは強敵を表し、“山”とは根拠地を意味する。野生の虎を退治するには山からおびき出すことが必要である。方法としては、@敵が守りの硬い城や要害の地に立てこもっているときには、それを放棄するように仕向ける。
A正面対峙している場合は、敵の攻撃方向を他の地点にそらし、正面からの圧力を緩和する。
いずれにしてもこの策略を成功させるには、敵をおびき出すトリックが重要であり、それが巧妙であるか稚拙であるかによって策略の成功か失敗かを大きく左右することになる。


後漢王朝末期、西方の異民族の羌族が反乱を起して武都に攻め込んできた。武都の長官に任命された虞詡は、羌族の鎮圧に向かうが、陳倉で羌族の大軍に行く手を阻まれた。彼は一計を案じ、朝廷の援軍を待って前進する旨を全軍に触れ回った。これを聞いた羌族はしばらくは漢軍の攻撃はないものと判断し、手分けして近隣の県で財物の略奪をするために出払ってしまった。それを知るや虞詡はその隙に乗じて軍を進め、昼夜兼行で道を急いだ。彼は休止するたびにかまどの数を増やさせたため、羌族は援軍が来たものと思い込み、攻撃を仕掛けてこなかった。こうして虞詡は封鎖を突破して武都に入城し、羌の大軍を打ち破ったのである。


韓信の「背水の陣」といえば有名である。しかし彼は背水の陣によって見方の死力を引き出しただけではなかった。漢軍一万vs趙軍二十万ではいくら必死に戦っても知れている。そこで一計を案じた。
韓信は河を背にして布陣する前に、二千の軽騎兵を趙軍の砦を見下ろせる山陰に潜ませていた。しかしそれを知らない趙軍は、背水に布陣した漢軍を見て、兵法の定石を知らない将軍に率いられた軍恐るるに足らずとばかり、一斉に砦を出て応戦してきた。その隙に山陰に潜んでいた部隊が砦を占拠し漢軍の旗を立てたため、趙軍は動揺し、そこを韓信の軍が前後から挟撃したため、趙軍は総崩れとなり、散々に打ち破られたのである。これは、韓信の「調虎離山」の計で相手をおびき出したことによる勝利であった。




欲擒姑縦(よくきんこしょう)((とら)えんと欲すれば(しばら)(はな)つ)逼レバ則チ兵ヲ反サル。走ラシメバ則チ勢イヲ減ズ。緊ク随イテ迫ルコトナカレ。ソノ気力ヲ累レシメ、ソノ闘志ヲ消シ、散ジテ後擒ウレバ、兵、刃ニ血ヌラズ。需ハ孚アリ、光ナリ。

敵を完全に包囲して追い詰めれば、「窮鼠猫を噛む」ように猛反撃をしてくるかもしれない。そうなれば味方にも相当な損害を受ける恐れがある。それを避けるには、完全包囲という短兵急な攻め方を避けることが重要である。
「孫子」の中に「呉越同舟」という言葉がある。危険な状態に置かれれば、どんなに中の悪い相手とでも協力して助け合うということである。つまり逃げ道がないほどに攻め立てるなら全体が一致団結して反撃してくることになる。それで「孫子」も「窮寇ニハ迫ルコトナカレ」といましめている。



諸葛亮は南蛮の民族平定に当たって、この策を用いた。而ち、有名な「七縦七擒」である。諸葛亮は反乱の首謀者孟獲を生け捕りにするようにと全軍に布令ていた。激戦の末、孟獲は諸葛亮の前に引き据えられた。諸葛亮は孟獲に自軍の陣容をくまなく見せて歩いた。孟獲は「こうして陣容を見たからには、次は必ず勝って見せる」と言った。それで諸葛亮は孟獲を放してやった。その後孟獲は数々の戦術、多数の南蛮洞主たちの援助を得て諸葛亮と戦ったが、七度釈放され、七度捉えられた。しかし、七回目につかまった時は、さすがの孟獲も心から諸葛亮に信服し、二度と背かないことを誓った。このように諸葛亮は、武力討伐と平行して、「欲擒姑縦」の策を用い、まさに「兵を用うるの道は、心を攻むるを以って上と為し、城を攻むるを以って下と為す」を体現していたのである。



人生の書とも言われる「菜根譚」には、人間関係を維持する上で参考になることが載せられている。その中で「欲擒姑縦」の策を応用しているものをいくつか紹介しようと思う。
「人の欠点は出来るだけ取り繕うべきである。むやみに暴き立てるのは、欠点を持って欠点を咎めるようなもので効果は上がらない」
「有害な人間を排除する場合でも逃げ道は残しておかなければならない。完全包囲下において攻め立てるなら、「窮鼠猫を噛む」の例にあるように、大切なものまで傷つけることになりかねない」
「人を使う際になかなか使いこなせないことがあるが、その場合にはしばらくほおって置いて相手の自発的変化を誘うべきである。うるさく干渉して、ますます意固地にさせないように注意しなければならない」




抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)((れんが)()げて玉を引く)類以ッテコレヲ誘イ、蒙ヲ撃ツナリ。

これは所謂「海老で鯛を釣る」策略である。相手の食いつきそうなエサをばら撒いておいて、とびついてきた敵を撃滅する。この策略のポイントは…
@エサが美味しそうであること
Aエサをエサと見破られないこと
で、この二つをどのように工夫するかが、この策略の成否を決定するといえる。


春秋時代、楚の国が絞という小国を攻めた時のこと、屈瑕という将軍が楚王に進言した。「絞は小国であり、思慮に欠ける国であるので、抛磚引玉の策をかけてはいかがでしょう」と。楚王はその策を採用した。楚軍は護衛なしの軍夫三十人を山へ入れ柴を刈らせた。絞は部隊を繰り出し、たちまちその三十人の軍夫を捕虜にしてしまった。翌日楚軍はまた軍夫を山に入れた。こんどは絞は大部隊を動員して軍夫に襲い掛かった。その隙に、門の辺りに伏せていた楚軍が場内になだれ込み、絞を降伏せしめたのである。






中国流の人間学から言えば、うまそうなエサをちらつかされて飛びついてしまい、しまったと臍を噛むのは、えさをばら撒く方ではなく、食いつく側に問題があるのだという。「淮南子」にはこうある。「利ト害トハ隣ヲナス」と。また「荀子」には、「利ヲ見テソノ害ヲ顧ミザルコトナカレ」とある。つまり、利益を目の前にちらつかされても、その裏に潜む「害」を見通せるだけの冷静な判断力を持つようにとの戒めである。




擒賊擒王(きんぞくきんおう)(賊を(とら)えるには王を擒えよ)ソノ堅キヲ摧キ、ソノ魁ヲ奪イ、以ッテソノ体ヲ解ク。竜、野ニ戦ウハ、ソノ道窮マルナリ。

「擒賊擒王」とは、敵の主力、或いは中枢部を壊滅させなければ本当に勝ったことにはならないという発想である。小さな局地的勝利を積み上げてもそれは最終的な勝利に結びつくこととは別である。手を緩めれば相手は息を吹き返して反撃に転じ、かえって敗北を喫するかもしれないのである。そうならないために徹底的に相手を叩かなければならない。つまり相手の主力を粉砕し、相手の大将を倒して、相手の反撃の意志を打ち砕かなければならないということである。


三国志の曹操は生涯に何度も死地に陥るほどの敗北を喫している。濮陽に立てこもっていた呂布の討伐に向かった時のこと、城内に内通者を作って、攻撃の手はずを整え、夜陰にまぎれて東門に接近したとたん、呂布の軍が打って出た。策にはまった曹操が「はかられた」と気付いた時には呂布の騎馬に囲まれていたが、曹操は何とか危機を脱した。逆に呂布は、この戦いで見事に曹操を敗走させたものの、肝心の曹操を取り逃がしたために、態勢を立て直した曹操によって四年後に滅ぼされてしまった。敵の大将を倒さなければ勝った事にはならないというよい例である。



「前出塞」という杜甫の詩に「人ヲ射ントセバ先ズ馬ヲ射ヨ、賊ヲ擒エントセバ先ズ王ヲ擒エヨ」とある。「将を射んとすれば先ず馬を射よ」の出展となった言葉である。相手を落とそうという場合、直接相手にアタックするよりも、その相手に影響力のある人物にアプローチする方が有効な場合もある。会社を取り仕切る社長を落とそうというなら、社長を尻に敷いている奥さんを、商戦であれば、家財の財布を握っている奥さんをターゲットに絞ることにより成果を挙げている例は多い。いずれにしても、本当に実力のあるものを狙い撃ちするところから突破口が開けるのである。

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