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敵戦の計

計の名前説明過去の例



無中生有(むちゅうしょうゆう)(無の中に有を生ず)誑クナリ。誑クニアラザルナリ。ソノ誑ク所ヲ実ニスルナリ。少シク陰、太ダ陰、太ダ陽ナリ。

「無中生有」とは、ありもしないのにあるように見せかけて、相手の判断を惑わす策略である。この策略を成功させるには、前提条件として、次の二つのことが必要である。
@敵の指揮官が、単純な人物であるか、または疑い深い人物であるかして、こちらのしかけた策に乗りやすいタイプであること。
A「無」の状態、すなわちありもしないのにあるように見せかけて敵の判断を惑わしたら、次の段階では実際に「有」の状態に変化して、一気にたたみかけること。
「無」から「有」、「虚」から「実」への転換が、この策略を成功させるポイントとなるのである。


4世紀末ごろ、東晋王朝の時代のこと。北中国一帯を支配下においた前秦の苻堅は、東晋を滅ぼして中国を統一しようと、百万の軍勢を率いて遠征した。迎え撃つ東晋の軍勢はわずか八万。とても勝負にはなりそうもない。しかし、大方の予想に反して、戦いは東晋側の大勝利に終わった。何故だろうか。その原因は苻堅が相手の兵力を錯覚して動転したことにあった。
東晋の軍勢が機先を制して進攻を開始したとき、苻堅は最初すっかり相手を見くびってたかをくくっていた。しかしいざ城壁に立って、水も漏らさぬ陣形を組んで攻め寄せてくる東晋の軍勢を見たとき、苻堅は思わず動転し、正面の八公山の草木まで東晋の兵と錯覚してしまった。そのとき参謀に「えらいことになった。敵は思いもよらぬ大軍ではないか」とつぶやいたという。
この時の苻堅の動揺が、指揮の乱れへとつながり、大敗を喫することになってしまった。苻堅は勝手に「無」を「有」と錯覚し、惑わされてしまったのである。もっとも、この逸話からは、東晋の指揮官が、苻堅のこのような性格を知っていて策略をしかけたのかまでは明らかではない。


唐の時代のこと、安禄山が反乱を起こし、雍丘の城を包囲したときのことである。このとき、守備隊長には張巡という人物が任命されていたが、たちまち孤立無援の状態に陥ってしまった。そこで張巡は、苦境を打開するため一計を案じた。兵士たちに命じて千体ばかりワラ人形を作らせ、衣服を着せて縄で縛り、夜、城壁から下に下ろさせたのである。包囲軍はてっきり兵士たちが下りてきたと思い込み、雨のように矢を射掛けてきた。その結果、張巡はまんまと数十万本の矢をせしめることができた。その後、張巡はまた夜に、今度は本当に城内の兵士を城壁から下ろした。包囲軍の兵士たちは、またワラ人形で矢をだましとる気だなと思い、その手はくわぬとばかり、ニヤニヤしながら見物し、戦の準備をしなかった。こうして張巡は、首尾よく五百人の兵士を城壁の下に下ろして決死隊を組織し、包囲軍の陣営を急襲して、大打撃を与えることに成功したのである。



暗渡陳倉(あんとちんそう)((ひそか)に陳倉に渡る) コレニ示スニ動ヲ以ッテシ、ソノ静ニシテ主アルヲ利ス。益ハ動キテ巽ウ。

「暗渡陳倉」とは、A地点を攻撃すると見せかけて、実はB地点を攻撃するという策略で、第六計の「声東撃西」とほぼ同様の発想である。もちろん、本当の狙いはB地点である。その狙いを隠しておいて、まずA地点を攻撃し、そこに敵の注意をひきつけておく。そうしておいてから、一気にB地点に攻撃を集中する。これによって、手薄になっている場所の不意をつくことができるので、勝率は極めて高くなる。第六計の「声東撃西」の策略と同様、この策略の成功は、一にも二にも陽動作戦の可否にかかっている。したがって、準備工作の入念さが成功のカギと言えよう。


この策略は、もともと「明修桟道、暗渡陳倉」の成句であり、漢の将軍韓信の作戦に由来している。劉邦が項羽に漢王に封じられ、漢中に駐屯することになったときのこと。関中から山を越えて漢中に赴くには、蜀の桟道と呼ばれる、絶壁に掛け渡された狭隘な桟道を通らなければならなかった。劉邦は進駐する道すがら、通り過ぎた桟道を全て焼き払った。これは、二度と関中に帰る意思のないことを示して、項羽の警戒心をやわらげるためであった。一年後、項羽の覇権に挑戦する決意を固めた劉邦は、韓信を大将軍に任命して、再び撃って出た。その際、韓信は、まず人夫を送り込んで桟道の修復工事に当たらせた。桟道から撃って出るように見せかけて、この方面の守りを固めさせたのである。そうしておいて、ひそかに旧道から迂回して軍を進め、敵の守備軍の背後を急襲して、関中を手中に収めた。これが、「明修桟道、暗渡陳倉」の策略である。「明修桟道」(明ラカに桟道ヲ修ス)は、敵の目を桟道に引き付け、「暗渡陳倉」を成功させるための準備工作だったのである。







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第二次世界大戦中、連合軍の手による、かの有名なノルマンディー上陸作戦も、この策略の好例と言う事ができる。イギリスから海を渡ってフランス海岸に上陸するには、ノルマンディーよりもパ・ド・カレーのほうが距離的に近く、物資の輸送、空軍の支援といった面から考えても、有利な条件を備えていた。ドイツ軍も当然その状況を知っており、カレーから上陸するものと判断して、強力な防衛態勢を敷いて進攻に備えていた。一方連合軍のほうは、いかにもカレーから上陸するようなニセ情報をしきりに流し、さらにはカレーに爆撃を集中して上陸の近いことを印象付けた。その結果、ドイツ軍はますますカレーに戦力を集中して上陸作戦に備えるようになった。こうして、ドイツ軍の目を十分ひきつけたところで、連合軍は遠回りしてノルマンディー上陸作戦を決行した。この作戦が成功裏に終わったのは、やはり事前の準備工作がこのように周到に行なわれたことが大きな要因であると言えよう。



隔岸観火(かくがんかんか)(岸を(へだ)てて火を観る)陽乖レ序乱ルレバ、陰以ッテ逆ヲ待ツ。暴戻恣?ハ、ソノ勢自ラ斃レン。順以ッテ動クハ予ナリ、予ハ順以ッテ動ク。

端的に言って、この策略は、「高みの見物を決め込む」ことである。相手に内部抗争の兆しがあるときなどには、こちらが下手に進攻の構えを見せるとかえって敵が団結してしまう可能性があるため、、じっと静観して相手の内部崩壊と自滅を待つというものである。もっとも、そんな場合には容赦なくつけこんで相手を倒してしまえというのが第五計の「趁火打劫」であるが、「漁夫の利」、または「濡れ手に粟」を狙うという点では、「隔岸観火」のほうがより老獪な策と言えるかもしれない。ただ、実際問題として、行動を起こすか静観するかの判断は非常に難しい。静観したばかりに、みすみすチャンスを逃してしまうというケースも十分に考えられる。要は、行動を起こすときは電光石火のごとく、静観するときは徹底的に静観する、この見極めが肝心なのかもしれない。


「官渡の戦い」で曹操は袁紹を打ち破り、北中国一帯を支配下に置いたが、袁紹の子の袁尚、袁煕らは北方の異民族烏丸のもとに逃れ、抵抗の構えを見せていた。そこで曹操は、西暦207年、烏丸討伐に乗り出し、これを撃破。敗れた袁尚、袁煕らは遼東の公孫康を頼って落ち延びていった。公孫康は以前から遼東に割拠して、曹操に服属することを拒んでいた。袁兄弟は、あわよくば公孫康にとってかわって遼東にたてこもり、曹操に対抗しようと考えたのである。
このとき、曹操の幕僚たちは、ただちに軍を遼東に進めて公孫康を討伐し、合わせて袁兄弟の息の根を止めてしまうべきだ、と進言した。
ところが曹操は、「いや、私は今公孫康の手で袁尚、袁煕を始末させようと考えているところだ。わざわざ軍を動かすまでもない」と言って、軍を引き上げさせた。
はたして、間もなく公孫康から袁尚、袁煕の首が届けられてきた。何故こうなったのか、納得のいかない顔の幕僚たちに、曹操はこう答えたという。「もともと公孫康は袁尚らの勢力を恐れていた。もし私が、軍を動かして性急に攻撃を加えれば、彼らは力を合わせて抵抗しただろう。しかし放っておけば仲間割れする。これが自然の成り行きというものだ」
「隔岸観火」の考え方を実によく表した一言といえるのではないだろうか。



笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)(笑いの(うち)に刀を(かく)す)信ニシテコレヲ安ンジ、陰カニ以ッテコレヲ図ル。備エテ後ニ動キ、変アラシムルコトナカレ。中ヲ剛ニシ外ヲ柔ニスルナリ。

これは、文字通り、友好的な態度で接近し、相手が警戒を解いたところで一挙に襲いかかる策略である。にこやかな態度で接するのは、相手の警戒心を和らげるための方便であることは言うまでもない。これが真に迫っているほど成功率は高くなる。逆に、仕掛けられたほうは、その「笑い」の中にどんな魂胆が秘められているのか、それをすばやく読み取ることが術中にはまらないために不可欠である。「孫子」の中でも、「敵の軍使がへりくだった口上を述べながら、対陣中、突如として講和を申し入れてくるのは、なんらかの計略があってのことである」とある。敵が何かうまい話を持ちかけてくるときは、必ずそこには何らかの狙いがあると見るのが賢明な考え方であるということであろう。


荊軻は始皇帝暗殺未遂事件で有名である。彼は始皇帝に謁見を許されるや、隠し持った匕首で始皇帝に切りつけたが、身をかわされて涙をのんだという。さて、用心深く、自分の周りに誰一人として近づけさせなかった始皇帝がなぜその距離まで荊軻を近づける気になったのだろうか。
荊軻は燕の太子丹の蜜命を受け、始皇帝の喜びそうな土産を二つ持参した。一つは、始皇帝を裏切り燕に亡命してきた将軍樊於期の首、もう一つは燕の国でもっとも肥沃な土地の献上である。また秦の都に着いたのち彼は、蒙嘉という始皇帝の寵臣に千金を払い、とりなしを頼んだのである。燕の国が下手に出、献物の使者をよこしたことに始皇帝は気をよくし、すっかり警戒を解いてしまったのである。結局暗殺は未遂に終わってしまったが、始皇帝に謁見するところまでこぎつけた燕の「笑裏蔵刀」の策は成功と言えるであろう。


蜀の関羽は荊州の最高責任者として、江陵に駐屯していたが、大軍を動員して曹仁の守る樊城攻めを行なった。このとき呉の責任者として陸口に駐屯していたのが呂蒙である。関羽も呂蒙には心を許していなかった。かなりの兵力を江陵に残して警戒していた。そこで呂蒙は病と称して都に引き上げ、陸口の責任者に無名の陸遜を任命した。当時の陸遜はまだ若く、名前もあまり知られていなかったので、関羽は大いに喜んだ。しかし、陸遜は年こそ若かったが、したたかな策士であり、関羽の武勇をほめたたえ、自分の無能ぶりを卑下して見せた。陸遜におだてられて、気を許してしまった関羽はすっかり警戒心を解き、江陵にとどめていた兵力を全て引き上げ、樊城に投入した。この時を待っていた呂蒙は、ひそかに軍を率いて江陵に向かい戦わずして江陵を落とすことに成功したのである。


曹瑋は、宋の時代の人で、渭州で長官として西夏の動きに備えていた。彼は厳しく軍令を貫徹し、西夏から恐れられていた。ある時、配下の武将を集めて酒宴を開いていたが、突然数千の兵士が反乱を起して西夏に逃亡したという知らせを受けた。配下の武将たちはどうしたものかと顔を見合わせおろおろしていたが、曹瑋だけはいつもと変わりなく談笑しながら、のんびりとした口調で「彼らは私の命令で行動したのだ」と言った。西夏ではこれを伝え聞き、宋兵の逃亡には裏があると考えて、逃亡してきた宋兵を皆殺しにしてしまった。ピンチに立たされたとき、いささかも動ずることなく、「笑裏蔵刀」でありうるかどうかで、指導者の器量が試されるのである。




李代桃僵(りだいとうきょう)((すもも)(もも)に代わって(たお)る)勢イ必ズ損アリ、陰ヲ損イテ以ッテ陽ヲ益ス。

「李代桃僵」とは、李を犠牲にして桃を手に入れる、という意味であり、「皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせて骨を断つ」策略ということもできる。戦いであるからには、必ず損害を覚悟しなければならない局面というものも出てくる。そんな時、損害をいかに最小限に食い止めるかということを考えるのはもちろんであるが、同時に、与えられた損害を上回る利益をどのようにあげて埋め合わせをするか、ということをも考えねばならない。要は、局部的な損害にあまりくよくよせず、その損害を捨石として活用し、より大きな利益をつかむために効果的に行動することが肝心である、ということであろう。


孫臏が斉の将軍田忌に客分として招かれたときのことであるが、田忌は非常に賭け事が好きで、斉の公子たちと金をかけて馬車を競争させて楽しんでいた。やり方はというと、双方馬の脚力を上・中・下の三段階に分けてそれぞれ同じ階級の馬を戦わせて競うというものである。孫臏は一計を案じ田忌の下の馬を相手の上の馬と、上の馬を中の馬と、中の馬を下の馬と当たらせて2勝1敗となり、田忌に大金を儲けさせた。一敗を捨て石にすることによって、2勝を収めるという「李代桃僵」の典型である。








第二次世界大戦のとき、ドイツ軍に攻め込まれたソ連軍が反撃を開始しドニエプル河の渡河戦が行なわれた。ソ連の先遣部隊の381師団の二個大隊はキエフ北面の突破点からドニエプル河を渡河して橋頭堡を築き、ドイツ軍の注意をひきつけた。その隙に381師団の主力は南側からやすやすと渡河に成功することができた。橋頭堡を守備していた部隊はドイツ軍の猛攻にさらされてほぼ全滅したが、実戦においては「小を殺して大を助ける」という、非情な決断を迫られる場合も少なくない。


孫子には「智者は必ず利益と損失の両面から物事を考える。そうすれば、物事は順調に進展する。逆に、損失をこうむったときには、それによって受ける利益の面も考慮に入れる。そうすれば、くよくよ悩まずにすむ」とある。無能なリーダーは局部的な損失に目を奪われやすいが、戦闘でもその他のことでも損失を避けるということは不可能に近い。それで、いかにしてその損失を利益に結び付けられるかということが重要になってくる。そこにリーダーたるものの冷静な判断が必要となってくるのである。




順手牽羊(じゅんしゅけんよう)(手に(したが)いて羊を()く)微隙ノ在ルハ必ズ乗ズル所ナリ。微利ノ在ルハ必ズ得ル所ナリ。少シク陰、少シク陽。

「順手牽羊」とは、元々、その場にあるものを手当たり次第に失敬するという意味である。戦略戦術の上から言えば、敵の隙につけこんで、がめつく戦果を拡大する策略ということができる。
しかし、戦略上でこれが成り立つには、以下に示す幾らかの条件があるといえよう。
@遂行しなければならない本来の目標があること
Aその目標とは別に、容易に手に入る利益が目の前に転がっている こと
Bその利益に手を出しても、本来の目標追究に支障を生じないこと
これらの条件が満たされている場合には、つけこめるときにはどんな小さなことにでもつけこみ、利益を獲得しようとする飽くなき態度こそが、勝利に近づく一つの秘訣といえるのかもしれない。





むかし、三十過ぎの華僑の守衛がいた。彼は仕事の合間に寮生にビールを売っていた。このビールは非常に安い。飲んでいた日本人が聞いたところ「原価で売っている」のだという。どういうわけかというと彼はビールの箱を売っていたのである。当時は物資が欠乏していた時代で、ダース入りの箱が比較的珍重されていた時代である。彼はこの箱代を浮かして利益としていたのである。やがて塵も積もれば山となり、新しい商売を始める元手をためることができるのである。
裸一貫でのスタートの場合資本は自分の体一つである。これを「白手起家(パイショウチージャ)」という。カッコなど気にせず、人の嫌がる仕事であろうが、たった一円でも利益の出るものはなりふりかまわず自分のものにしていくというこれこそが、華僑の商法思想の真髄であるといえる。

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