勝戦の計
| 計の名前 | 説明 | 過去の例 | ||
第 | 備エ 瞞天過海とは、擬装の手段を用いてあいてを誘い、それにつけこんで勝利を収める策略である。行動を起こす気配を見せれば相手も警戒を怠らないが、それが見せかけであれば相手の警戒心はだんだんと薄れていく。その油断を一気に突くのがこの計である。なれと言うのは怖いもので、策略じゃなくても引っかかることは多いのではないか。人間心理の盲点を突いたこの策略は意外と成功率が高いようだ。 |
太 | 三国志で有名な太史慈。呉の孫策に仕えたこの知勇兼備の将は、若いころ孔融に深い恩義を受けたことがあった。それで、当時北海郡を治めていた孔融が黄巾賊の大群に包囲されたと聞くや、孔融に会いに行った。太史慈はそこで、平原への援軍要請の使者を買って出る。 対史慈はどのように、重囲を突破したのだろうか。ここで彼は、勇だけではなく、知もあることを証明した。すなわち、「瞞天過海」の計を用いたのである。彼は、城門の外で弓矢の練習を始めた。彼の脱出を阻止しようとした賊徒達も、三日目ともなれば警戒するものはいなくなり、その油断に乗じて太史慈は包囲網を突破したのである。その後まもなく、援軍が到着し太史慈は劉備軍と共に黄巾賊を打ち破り、彼自身は敵将の管亥を討ち取った。 | |
賀 | 隋の将軍、賀若弼。南北朝時代の末期に隋は、陳という国を滅ぼして天下統一を成し遂げた。当時隋は、長安に都を置き、長江以北の地を領有していた。対する陳は、建[業β]に都を置き江南の地を領有していた。隋が陳を打つためには長江を渡らなければならなかった。渡河中に攻められたらひとたまりもない。しかし、時の将軍であった賀若弼は、労せずして敵を破ることに成功したのである。 賀若弼はまず、建[業β]対岸の見方の部隊が交代で帰国する際、必ず暦陽という町の郊外に集めて旗を林立させ、大群が終結しているように見せかけた。陳軍はそれを知って、近く隋側の侵攻作戦があるものと思い、動員態勢をととのえて守りを固めた。しかし、いつまでたっても渡河してくる気配がない。それが、二度、三度と繰り返されたために、やがて陳もそれが見せかけであることに気付き、隋軍の集結を知っても、それに備えることを怠った。故に、隋軍が長江を渡って侵攻してきたとき、ほとんど抵抗することが出来ず、建[業β]は陥落した。 | |||
楚 | 春秋時代、楚の荘王が庸を攻めたときのこと、先発軍が庸の近くまで攻め込んだが、そこで敵の反撃にあって敗退した。このとき庸にとらわれて帰ってきたものは「庸は兵力が多いうえに、多数の蛮族が加勢しておびただしい数に上っているので、本体が到着してから改めて攻撃を仕掛けたほうがよい」と報告しました。 報告を受けた、先発軍の司令官は、策を講じて戦いを続け、七戦戦ってわざと七回とも逃げた。これを見た庸の軍は、楚軍を見くびりろくに守りを固めなくなったため、そこへ到着した荘王率いる本体の攻撃に耐えることが出来ず、一気に滅ぼされることとなる。名前は分からないが、この楚の先発軍の司令官の機略によって、楚軍は鮮やかに勝ちを収めることが出来たようである。 | |||
ヒ | ナチ党の党首で、ドイツの首相となったヒトラーもこの作戦を使用しました。第二次世界大戦のとき、ヒトラーは侵攻予定日をひそかに同盟国に流し、相手側が応戦体制を整えたのを見計らって、しばしば予定日を変更した。その結果、同盟国側は、ヒトラーが新しい攻撃予定日を設定するたびに、徐々に警戒心を緩めてしまった。彼が実際にフランス領内になだれ込んだとき、フランス、イギリスの両情報機関は、ドイツ軍の動きを正確にキャッチしていたにもかかわらず、見せかけであるとして注意を払わなかった。その結果、ヒトラーはフランスに対する電撃作戦に成功したのである。 | |||
第 | 敵ヲ共ニスルハ敵ヲ分カツニ如カズ。敵ノ陽ナルハ敵ノ陰ナルニ如カズ 「囲魏救趙」とは、戦国時代の斉の軍師であった孫[月賓]が、魏軍を討ったときに採用した作戦である。敵が強大であればあるほど、正面から挑むことは賢明ではなく、勝利する確立は低い。仮にまぐれで勝ったとしても、見方の損害が大きくなってしまう。ではどうしたらよいか。 「兵ヲ治ムルハ水ヲ治ムルガ如シ」という。戦争のやり方は治水の容量と同じで、逆巻く激流には容易に近づけないが、いくつもの疏流に分けてしまえば、水の力が弱まるのでどうにでもなるということだ。 強大な敵に対するときは、勢力を分断し、疲れさせた後に攻撃を仕掛ければ比較的簡単に打ち破ることが出来る。力ずくではなく分断して攻めるというのがこの「囲魏救趙」である。 |
孫 | 戦国時代、魏は大軍を動員して趙の都邯鄲を包囲した。趙は魏の猛攻に耐え切れず、斉に救いを求めてきた。そこで斉は田忌を将軍に、孫臏を軍師にして救援軍を編成した。田忌はすぐさま邯鄲に駆けつけようとしたが、孫臏は「糸のもつれを解くには、むやみに引っぱるのではよくない。同じように、喧嘩の助太刀も、殴り合いに加わるのではなく、相手の虚を突くことこそ上策である。そうすれば、形勢が有利になり、魏は邯鄲の包囲を解いて引き返すし、魏を疲弊させることも出来る」といった。田忌はこの策を入れ、邯鄲の包囲を解いて戻ってきた魏軍を、桂陵に迎え撃って大勝を博した。 | |
毛 | 毛沢東は「抗日遊撃戦争の戦略問題」の中でこう語っている。 「反包囲攻撃の作戦計画では、わがほうの主力は、一般に内線におかれる。だが、兵力に十分ゆとりがある条件のもとでは、副次的な力を外線に使い、そこで敵の交通線を破壊し、敵の増援部隊を牽制することが必要である。もし敵が根拠地内に長くとどまって去ろうとしないなら、わが方は上述の方法を逆に使う。すなわち一部の兵力を根拠地内に残してその敵をとりかこむ一方、主力をもって敵がもといた地方一帯を攻撃し、そこで大いに活動させ、今まで長くとどまっていた敵がわが主力を攻撃するために、そこを出て行くように仕向ける。これが、『魏を囲んで趙を救う』というやり方である」と。 八路軍の駆使したこういう機動的な戦略の前に、日本軍はしばしば苦杯を喫し、次第に主導権を失っていった。 | |||
孫 | 「孫子」はこう語っている。 「こちらがかりに一つに集中し、敵が十に分散したとする。これなら、十の力で一の力を相手にすることになる。つまり、味方は多勢で敵は無勢。多勢で無勢を相手にすれば、戦う相手が少なくてすむ」 「したがって敵は、前を守れば後が手薄になり、後を守れば前が手薄になる。左を守れば右が手薄になり、右を守れば左が手薄になる。四方八方すべてを守れば、四方八方すべてが手薄になる」と。 つまり、兵力の多少はあくまでも相対的な条件であり、相手を分断して攻めることが出来れば、有利に戦いを進めることが出来るということである。 | |||
第 | 敵スデニ明ラカニシテ、友イマダ定マラザレバ、友ヲ引キテ敵ヲ殺サシメ、自ラ力ヲ出サズ、損ヲ以ッテ推演ス。 借刀殺人には二つの側面がある。 @第三者の力を利用する方法。 これは、自分の手を用いず、自分と敵以外の第三者の力を利用する方法で、自分の勢力を温存したまま敵を倒すことが出来る。日本の「人のふんどしで相撲をとる」という諺に近い。 A敵を利用する方法。 敵の力、敵の経済力、敵の知謀などを巧みに利用して離間策を講じ、敵を崩壊に追い込む方法。 |
曹 | 三国時代は魏・呉・蜀の三つの国が対立していた時代で、それだけにこの計略がしきりに使われた時代とも言える。 蜀の関羽は大軍を動員して魏領に攻め込み、樊城を包囲していた。曹操は樊城に救援軍を送ったが、関羽の反撃にあって壊滅し、樊城は孤立してしまった。樊城が関羽の手に落ちれば魏の都許も危うい。曹操は、恐れて都を遠くに移そうとしたが、司馬懿が曹操に進言して言った。「ここは孫権を動かしましょう。孫権も関羽の勢力が大きくなるのを恐れているはずです。関羽の領土を分割して長江以南は孫権に与えるという条件で出兵を依頼すれば関羽は背後を衝かれ、樊城の囲みは労せずして解けましょう」と。はたして、展開は司馬懿の言ったとおりになり、関羽は帰るべき本拠を失い、捕らえられて斬首となった。 | |
韓 | 「韓非子」にはこんな話が載っている。春秋時代の鄭の国に桓公と言う君主がいた。彼は[會β]という国を攻略して自分のものにしようと思い立った。[會β]は小さな国だったので、正面から武力で攻め立てても、それほどの難敵ではないが、相手が必死に抵抗すれば、かなりの失血を覚悟しなければならない。そこで桓公は相手を骨抜きにする一計を考案した。まず、[會β]の臣下で見所のある人物、才能のある人物、腕っ節の強い人物などを調べ上げて一覧表を作った。さらに、[會β]の良田を選んで賄賂として与えること、また、官職を提供する旨を制約した文書を作った。そうしておいて、ある夜、わざと[會β]の城門の外に祭壇を作ってそれらの書類を埋め、その上に鶏や豚の血を注いで、いかにも盟約までしたように見せかけておいた。翌朝、それを発見した[會β]の君主は、てっきり内奥者が出たものと思い込み、その一覧に載っていた者全員を処刑してしまった。桓公はそこですかさず攻撃を加え、難なく[會β]の国を滅ぼしてしまった。 | |||
ヒ | 1936年当時、ソ連にはトハチェフスキー元帥という有能な将軍がいた。ちょうどスターリンによる粛清の嵐が吹き荒れた時代である。 トハチェフスキーのような有能な人物がこの機に粛清されれば、ドイツにとって状況は大いに有利になると考えたヒトラーは、情報機関にトハチェフスキー反逆の証拠をデッチあげるように命令する。 そこでドイツ情報部は、トハチェフスキーがドイツの将軍と取り交わした私信、情報を売った報酬額の一覧表、ドイツ情報部からの返書のコピーなどを作成。これにまんまと乗せられたソ連は、このいわゆる「動かぬ証拠」を巨額の金を出して買い入れ、それをもとにトハチェフスキーら八人の「反逆者」を逮捕した。彼らは申し開きをする暇も与えられず、わずか数十分の尋問だけで死刑を宣告され、十二時間以内に全員処刑されてしまった。「借刀殺人」がものの見事に成功した現代の例といえるだろう。 | |||
ソ | 「借刀殺人」は共産主義外交の「お家芸」のような外交戦略と言われることもあるようだ。1939年、ソ連はドイツとの間に独ソ不可侵条約を締結する。それには、ヒトラーに背後のロシアは安全だと思わせて、フランス、イギリスに侵攻させようとの狙いがあったと言われている。また1941年に締結された日ソ中立条約も同様で、日本の南進を奨励し、アメリカとの衝突をうながすという狙いがあったようである。もっとも、これは外交における一つの側面から見た見方に過ぎない。独ソ不可侵条約には秘密協定が付属しており、ドイツの側からすればポーランド侵攻にソ連を巻き込むことができるという思惑もあった。日ソ中立条約にしても、日本からすると、既にアメリカとの関係が極端に悪化していたため、最終的には日独伊三国同盟にソ連を引っ張り込み、4国の同盟を持ってアメリカに対抗しようとの狙いがあった。なんにせよ、それぞれの国にそれぞれの思惑があって、互いに相手を利用しながら他の勢力に対抗しようというあたり、どの国の外交戦略においても「借刀殺人」は基本的な戦略であると言えるのではないだろうか。 | |||
第 | 敵ノ勢ヲ困ムルニハ、戦イヲ以ッテセズ、剛ヲ損シテ柔ヲ益ス。 味方は余裕のある状態を保ちながら、敵の疲れを待つという策略。「孫子」の兵法の中には「敵より先に戦場におもむいて相手を迎え撃てば、余裕を持って戦うことが出来る。逆に敵より送れて戦場に到着すれば、苦しい戦いを強いられる。それゆえ戦上手は、相手の作戦行動に乗らず、逆に相手をこちらの作戦行動に乗せようとする(虚実篇)」。また、「有利な場所に布陣して遠来の敵を待ち、十分な休養を徒って敵の疲れを待ち、腹いっぱい食って敵の飢えを待つ(軍争篇)」とある。 ここで言う「待つ」というのは、天をたのみ、僥倖を期待して、ただ漫然と時間をつぶしているという意味ではなく、打つべき手を抜かりなく打ちながら鋭気を養い、力を蓄え守りを固めて、相手の疲れを待つということである。そして、相手に疲れが表れてきたところを一気にたたくというものである。つまりは、戦いの主導権をどのようにとるかということであり、重要なのは「後の先」をとることにある。 |
陸 | 呉の将軍陸遜は、劉備の大軍を迎え撃った「夷陵の戦い」で、この策略によって大勝することができた。劉備が全軍を挙げて進撃してきたとき、呉軍の武将たちは色めきたって迎え撃とうとした。ところが陸遜は、こう言って、武将たちをたしなめた。「敵は天然の要害を利用して布陣しているゆえ、思うようには攻め破れまい。ここはしばらく味方の士気を緩めることなく、万端の手はずを整えて情勢の変化を待とう。敵は山づたいに進撃しているゆえ、山道の行軍に疲労も募ろうというもの。わが方は、じっくり腰を据えて敵の疲れを待つのだ」 こうして持久戦に持ち込むこと半年。この時に及んでとうとう陸遜は 反転攻勢の準備にとりかかる。しかし武将たちは「今はもう五、六百里も敵に攻め込まれ、敵は多くの要害を陥れて守りを固めている。とても勝ち目はない」と出撃に反対する。それに対し陸遜はこう言った。「いや、それは違う。今は戦線が膠着状態に陥り、敵の疲労はその極みに達して士気も衰え、その上、これといった打開策も持ち合わせておらぬ。今こそ包囲殲滅する絶好の機会だ」 こうして陸遜は総攻撃をかけ、ついに劉備の大軍を打ち破ったのである。 | |
唐 | 太宗といえば、「貞観の治」「貞観政要」などによって知られる名君であるが、この人物の用兵思想の特徴はこの「以逸待労」にあるようである。創業間もなくの頃、唐王朝は国内に幾つもの対抗勢力を抱えていた。太宗は自ら軍を率いて討伐にあたり、次々に彼らを滅ぼして創業の基礎を固めた。そのときの戦い方を見ると、多くの場合、対陣した当初は持久の構えをとってむやみに動かず、相手が奔命に疲れたと見るや一気にこれを撃破すべく攻勢をかける、といったパターンが見られるようである。このある意味必勝パターンともいえるような戦術によって、太宗は短期間のうちに中国統一に成功したのである。 | |||
豊 | 太宗と同様の戦術を得意としたのが、わが国の豊臣秀吉である。秀吉の戦い方を見てみると、織田信長のような激しい戦い方はほとんどしていない。むしろ、じっくりと相手の疲れを待って、不戦勝を狙うことが多かったようである。いわゆる「小田原攻め」などはその典型と言えるようだ。太宗と同様、このような効率的な勝ち方を心がけたことが、、無駄に犠牲を増やすことなく、比較的短期間に日本全土の統一を完成させることを可能にした一因と言えるようである。 | |||
第 |
敵ノ害大ナレバ、勢イニ就キ利ヲ取ル。剛、柔ヲ決スルナリ。 「趁火打劫」とは、もともと人の弱みにつけこんで押し込み強盗を働く、つまり、火事場泥棒の意である。相手の弱みにつけこみ、嵩にかかって攻めたてること、これがこの策略のポイントである。敵が派閥争いに明け暮れていたり、外部からの圧力に苦しんでいたりするとき、これをまたとない進攻のチャンスとみなし、躊躇なく進攻して息の根を止めてしまう、これが「趁火打劫」の策略に他ならない。 |
劉 |
劉邦と項羽の戦い、いわゆる「楚漢の戦い」。3年余り続いたこの戦いの中で、両者ともに疲弊し、停戦協定が結ばれた時のこと。項羽は直ちに帰国の途につき、劉邦も軍をまとめてひきあげようとした。しかし、張良と陳平がこの時劉邦にこう進言した。「わが方は天下の半分を領有している上、諸侯も味方についています。ところが項羽は兵力も消耗し、食糧も底をついている有様。天はもはや項羽を見限っております。今、この機会をおいて攻撃をかけなければ、それこそ、「虎を育てて禍のタネをまく」ようなものです」 つまり、今息の根を止めなければ、いつまた手をかまれるか分からない。相手の弱みにつけこんで、徹底的に叩くべし、というのが二人の主張であった。まさに、「趁火打劫」の発想である。劉邦はこれに大きく頷き、直ちにとってかえして追撃に移り、ついに項羽を滅ぼしたのである。 |
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宋 | これは全く逆の例であるが、敵に情けをかけてみすみす絶好の機会を逃し、大敗を喫してしまったのが宋の襄公である。春秋時代のこと、楚が大軍を動員して宋に攻め込んできた。宋軍はこれを泓水のほとりで迎え撃った。宋軍は既に陣形を整えて待ち構えていたが、楚軍はまだ河も渡り終えていなかった。この時、目夷が、「敵が河を渡りきらぬところを攻めたてましょう」と進言したが、襄公は「いや、そんな卑怯なことはできぬ」と言ってとりあわない。そうこうするうち、楚軍は渡河を終えて陣形を整えにかかった。目夷が重ねて攻撃を進言したが、襄公は「いやいや、陣形が整ってからだ」と言って、なかなか攻撃しようとしなかった。結果、多勢に無勢で、宋軍はさんざんに蹴散らされ、襄公自身も傷を受け、総崩れで敗走することになってしまった。当時の人々からも、「宋襄の仁」と言われて嘲られることになったという逸話である。 | |||
第 | 敵の志乱萃シ、慮ラザルハ、坤下兌上ノ象ナリ。ソノ自ラ主ドラザルヲ利シテコレヲ取ル。 この策略の手順としては、 @東を撃つと見せかけて陽動作戦を展開する。 Aそれにつられて敵が東に移動して守りを固めると、西が手薄になる。 B手薄になった西にすかさず攻撃をかける。 ということになる。 「通典」という書に、「声言撃東、其実撃西(東ヲ撃ツト声言シ、ソノ実ハ西ヲ撃ツ」とあるのが出典である。この策略は、相手がこちらの陽動作戦にうまくひっかかってくれることがキモである。逆に言えば、敵の司令官が冷静な判断力を失わず、こちらの手の内を読んだ対応策を整えてくれば、かえってこちらが裏をかかれて大敗を喫することになりかねない。つまり、この策略を成功させるには、敵の指揮官、参謀などの性格や能力、戦い方の傾向に対する的確な洞察が重要ということになる。 |
曹 | 曹操と袁紹が激突した「官渡の戦い」の時のことである。袁紹は10万の大軍を率いて曹操の本拠地許に進攻してきた。その際、袁紹はまず曹操の前進基地ともいうべき白馬を包囲した。それで曹操は自ら主力を率いて救援にかけつけようとした。そのとき、荀攸がこう進言した。「彼我の兵力差がありすぎます。ここはなんとしても敵の兵力を分散させることです。そこでまず延津に向かい、黄河を渡って敵の背後に回るように見せかけるのです。袁紹は必ず西に軍を移動させて迎え撃とうとするでしょう。その隙に、白馬に急行し、不意をつくのです。これなら敵をたやすく撃破することができるでしょう」曹操はこの策を採用した。はたして袁紹は、曹操が延津を渡河して攻め寄せてくると聞くや、軍を二手に分かち、一軍を率いてこれを迎え撃った。それを見届けた曹操は、すぐさま全軍を撤収して白馬に急行し、袁紹の包囲軍を完全に撃破したのである。 | |
毛 | 毛沢東が率いた八路軍の遊撃戦術も、この「声東撃西」を一つの柱として採用していた。「持久戦論」の中で、毛沢東は次のように書いている。「計画的に敵に錯覚を起こさせ、不意打ちをかけて優勢を作り上げることは重要である。「東を撃つと見せかけて西を撃つ」というのは、敵に錯覚を起こさせる一つの方法である。情報が漏れるのを防げるような優れた民衆的基盤がある場合、この方法をとれば、しばしば効果的に、判断を誤り行動を誤るような苦境に敵を陥れることができる」日本軍は、このような陽動作戦に振り回され、しばしば苦境に陥ることになったのである。 | |||
ナ | 1798年、ナポレオンがエジプト上陸作戦を行なった時、地中海の制海権は名将ネルソン提督の率いるイギリス艦隊に握られていた。上陸作戦を成功させるためには、まずイギリス艦隊を何とかしなければならない。そこでナポレオンは、艦隊をツーロンに集結させたとき、遠征の目的地が実はエジプトではなく、ジブラルタル海峡を越えてアイルランドにあるという情報をさかんに流した。これを信じたネルソン提督は、イギリス艦隊をジブラルタルの近くに集結させて待ち構えることにした。その隙にナポレオンは、まんまとエジプト上陸作戦に成功したのである。 このような陽動作戦は、昔から使われてきた古典的ともいえる手法であり、敵も味方も十分にこのような手があることを承知しているはずである。それでも、今なおよく用いられているということは、やり方の巧妙さ次第では、現代でも十分有効性のある策略とみなされているからではないだろうか。。 | |||