映画「千と千尋」を見に行った。正直に打ち明けると、私は宮崎駿監督のファンである。「トトロ」が好きで「ナウシカ」は苦手。「千と千尋」はストーリーと音楽と映像のすべてを十分に楽しめた。が、映画以上におもしろかったのは、映画館内の光景だ。親子連れがいる。大学生らしきカップルがいる。背広姿のサラリーマン集団が人気の秘密を探ろうというのかメモを片手に座っている。ぽつんと一人、文学少女風の高校生が制服姿のまま座っていたりもする。小学4年の少女が主人公のアニメ映画がなぜ老若男女を夢中にさせたのか。若手哲学者、東浩紀さん(30)に「千と千尋」現象を生んだ日本の状況を「哲学」してもらった。
2001年12月
――「千と千尋の神隠し」は見に行かれました?

 ◆もちろん見ました。僕はもともと宮崎アニメが好きだし、「風の谷のナウシカ」
以降は全作品を見ています。
 ただ今回の「千と千尋」には、僕は否定的なんですよ。

 これまで宮崎監督は繰り返し、「少女の成長物語」を描いてきました。しかし今回の「千と千尋」だけは違う。主人公の少女「千尋」は物語の中でちっとも成長しない。
 異世界に迷い込んだ「千尋」は、常に指図されるがままに行動する。指示通り新しい場所に向かい、人に会い、次々に襲い来る困難をクリアしていく。このプロセスはロールプレイングゲームとそっくりです。

 「千尋」自身はその過程で、迷いもしなければ、悩みもしない。主体的な決断を下すこともほとんどない。「自分は本当はどうしたいのか」と自問する場面がない。主人公の内面の葛藤(かっとう)が一切描かれていないのです。

 これまでの宮崎映画では、主人公は悩みに直面し、自分の人生を主体的に選び直す人物として描かれてきました。ところが「千尋」は、迷いや悩みの契機となるはずのさまざまな困難を、幸運なハプニングやアイテムだけで解決してしまう。

 ――主人公の内面が描かれていないなら、なぜ人々を夢中にさせているのですか。

 ◆ヒットした理由は、まさにこの点にあるのです。実は「ロールプレイングゲーム的な物語」と「内面の葛藤が描かれない主人公」というのは、最近の娯楽映画に共通する特徴です。「猿の惑星」(バートン監督)も、「A.I.」(スピルバーグ監督)も、同じ傾向にある。
 時代がそんな物語や主人公を求めている。
 宮崎監督が自覚していたかは知りませんが、この時代にこのような映画を作ったのは見事な勘だと思います。

 この20〜30年の間、社会は徐々に変質してきた。面倒くさい内面を必要とせず、適切に役割分担(ロールプレー)することで円滑なコミュニケーションをはかる社会へと変わってきた。誰も「自分の本当の願い」などに直面しなくても生きていける。

 僕はこの変化を「動物化」と呼んでいます。人間も、文化も、社会のあらゆる領域が「動物化」してきていると言っていい。

 ――「動物化」ですか。確かに動物には「内面の葛藤」はないのでしょうが……。

 ◆ヘーゲル学者として著名なアレクサンドル・コジェーブは、人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」の差異と定義してます。人間は欲望を持ち、動物は欲求しか持たない。動物の「欲求」は「おなかがすいた」というようなもので、食べてしまえばそれで満たされる。
 人間の「欲望」は、食事にありついたとしても「誰と食べたい」「うまそうな食事だ、と他人に思われたい」など、尽きることがない。言い換えれば、人間の「欲望」は本質的に他者を必要とし、動物の「欲求」は他者を必要としないわけです。

 今の社会は、欲求を満たすのに他者を必要としない。消費者は、他者との面倒なコミュニケーションの介在なしに、瞬時に機械的に欲求を満たしてもらえるシステムを好みます。言葉を交わさず買い物ができるコンビニ、マニュアル化されたファストフード店、面倒なやりとりのいらない性風俗……。社会全体が「他者を必要としない」、つまり動物化の方向にどんどん進んでいるのです。

 ――つまり動物化された主人公が人気を集めている、というのですか。

 ◆そう。文化もまた動物化している。
 映画や文学はかつて人の悩みや葛藤を描くものだった。葛藤の深さが受け手の感動を誘った。
 今は感動より身体に快楽を与えるものが求められる。音楽におけるカラオケやダンスがそうだ。映画の世界でも、90年代のハリウッド映画のヒット作はたいてい「快楽」を重視している。
 一定時間スクリーンの前に座る客に激しい視聴覚刺激を与え、最後に派手な音楽を流して客を泣かせる。そういうモノが一番喜ばれる。「泣く」ことは身体にとって大きな快楽です。

 すでに若い世代は「動物化」された社会の価値観になじんで生きています。この点で、40代以上の世代とは大きな断絶がある。いま言論の世界は「動物化」に激しいアレルギーを示している。「最近の若者は内面がない」「浅はかで野蛮になった」という言葉が毎日のように紙面をにぎわしている。しかし、多くの若者たちのあいだでは、すでに社会や文化自体の持つ意味が変化してしまっている。

 ――他者を必要としない時代、というのはどうでしょうか。「人とつながりたい」と口にする若者が増えている気がします。

 ◆「他者を必要としない」ことと「つながりたい、と願うこと」ということは、一見矛盾して見えますが、実は同じ「動物化」現象の表裏です。

 「つながりたい」という人が本当に近所付き合いを好んでいますか。そうではない。彼らがコミュニケーションを求める先は、家族や学校ではなく、ネット掲示板やカルト集団です。現実の世界で人間的な関係を築き上げるのではなく、非現実な虚構の世界に逃げ込んでしまう。

 よく「癒やしの時代」などといいますが、いまの「癒やし」は、面倒な社会関係なしに達成される安直な感情充足です。出会い系サイトなどで求められている「つながり」は人間同士のコミュニケーションというより、動物のグルーミングに近い。

 動物化した社会では、「つながり」の求め方も、求める対象も、昔とは違います。
ところが、メディア上ではまだ、「本当の恋愛をしよう」「生きがいのある人生を送ろう」というメッセージが躍っている。現実との落差を埋めているのが、ドラッグだったりバーチャルリアリティーだったりするわけです。

 ――「社会的ひきこもり」に詳しい精神科医、斎藤環氏との対談で、東さんは「引きこもり」を「動物化されていない人間的な人」と指摘しています。

 ◆引きこもりの人と話をして感じたのは、彼らは動物化した社会になじめないのだということ。僕の研究テーマの「オタク」の場合、ある種の記号を身にまとうことで、動物化した消費社会に上手に入っていける。
 
 しかし「引きこもり」の人はできない。
 「生きる意味」を考えてしまう。

 だから、「引きこもり」の人たちは、実は動物化した今の社会で最も人間的な存在だとも言える。私たちの社会はもう、かつて文学が描いてきたような人間的な生を、「引きこもり」という形でしか許容できない。

 「引きこもり」の数はどんどん増えているといいます。社会全体が動物化するほど、そこになじめない「引きこもり」は増えるでしょう。そして、動物化した若者が元気にストリートをかっ歩し、動物化できない若者が引きこもるのです。動物的になれる、ということはある種の強さです。

 ――東さんは、実は「動物化」の流れを憂いたりはしてないのですね。

 ◆僕は肯定も否定もしていない。
 ただ「動物化」は変えようもない現実だ、と言っているだけです。確かに、これまでの文化の文脈では、「動物化」は否定されるべき現象でしょう。「生きる意味を考えてこそ人間だ」と考えられてきたわけだから。
 でも「生きる意味なんて考えなくていい」という生き方も否定できない。それでも新しい文化は生まれる。すでに映画や音楽はそういう段階に入っている。

 ただ、哲学や文学はどうなるのだろう。動物化した社会では、哲学や文学は、動物化しきれないほんの数%の人を救うためだけに存在するのかもしれない。そんな時代が、すぐそこにきているように感じます。


<後日談>

 この記事が新聞に掲載された時は、たくさんの反響がありました。多くは宮崎映画ファンからで、「主人公の内面の葛藤も描かれている」という指摘のほか、ご自身の映画評を大量に書き連ねて送ってこられる方もいました。
 私自身は、それでもやっぱり「千と千尋」は映画として気に入っています。東さんに言わせれば、これも「動物化」の一歩かも……。

 ただ、友人の娘さん(小学生)が映画を見た後、真剣な顔でぽつりともらした言葉が今も印象に残っています。
 「私がもし、千尋だったら、こんなことできないよ」。

 この言葉を聞いた時は、軽い嫉妬を覚えました。
 「ああ、私も10歳くらいでこの映画に出会ってみたかったなあ」と。
 仕方ないことですけどね〜。