はじめに

 私は、ゴータマ・ブッダの仏教を理解するには、ゴータマ・ブッダ以前にインドではどんな思想・宗教・哲学がどんな人々に支持され、考究され、信じられていたのかを知る必要があるという中村元氏の考えを重んじてきました。中村氏は、膨大なインド思想・哲学・宗教の研究を発表されております。
 中村氏らの本によれば、ゴータマ・ブッダ以前の思想・哲学・宗教は、大きく二つの勢力に分かれると思います。

 その一つは、インドに侵入したアーリア人が持ち込みインドで発展させたヴェーダの宗教と思索(哲学)です。
 もう一つが、ゴータマ・ブッダ出現の少し前に急発展した、出家・沙門による思索(哲学)・宗教(?)です。

 後者の出家・沙門の思索(哲学)は、アーガマなどに六師外道の説とか、六十二の見解があったとか述べられている。このテーマのインド思想の歴史的展開の引用にも叙述されているが、「原始仏教の思想 上」の中のアートマンについての叙述には、次のようにある。
 「当時アートマンに関しては種々の見解が行われていた。『梵網経』のなかでは、当時存在していた種々の形而上学的見解を六十二数えたてて六十二見としてまとめて、組織的に分類し叙述しているが、その中には、アートマンに関する多数の異説が含まれている。もちろんそれらは当時の仏教内における学者が理論的に構成した分類組織であり、それらの諸説が当時の思想界に実際に存在していたとは考えられない。しかし、その中の相当数は当時実際に存していたものにちがいない。」
 アーガマの記述以外には、出家・沙門の思想は残されていないようです。
 このタイトルでは、インド思想・宗教の大きな流れであるヴェーダについての基本的な知識に関して、「Century Books 人と思想 ヴェーダからウパニシャッドへ」(針貝邦生著 清水書)の説明を利用させていただきました。


1.ヴェーダとは何か?

 私が理解しているヴェーダとは、アーリア人が自分達を取り巻く、自然を含むあらゆる存在(特に通常の感覚では感じ取れない、ものの背後に在って、人やものに多大な影響を及ぼす潜在的な隠れた力という存在)に恐れや畏敬を感じ、それらが自分達に益をもたらすと思えばそれら(神など)の力がさらに大きくなり、さらに自分達に益をもたらすことを願って讃頌し、自分達に害をなす恐れがあれば、害をなさないようにするために祈る、そうやって編み出した祈りをどんどん高度にしたもののようです。祈りは文言です。その祈りの文言は、聖仙(リシ)といわれる人たちが苦行やソーマ酒という麻薬らしきものによって通常でない精神状態の中で感得したものだとされます。考えたのではなく、感得したのだということが重要なようです。したがって、その文言は絶対的な権威があり、威力があると信じられたのです。
 ただ、感得されたといっても、その文言がキリスト教の聖書の文言と違うのは、聖仙が感得した文言によって祈る(祭祀をする)と、神などの力を増大させることも減少させることも出来るとされるほどになったことです。
 キリスト教では、神は全能だそうですから、人がいくら祈っても(祭祀をしても)、神はびくともしないし、そもそもキリスト教徒は神に楯突くなんていうことは考えないでしょうから、ヴェーダの宗教と全く違うといっていいのでしょう。
 ですから、ヴェーダと呼ばれるものは、自分達の不利益を退け、自分達の願いを実現できるようにと祈る祭祀・祭式に関する集成であるということです。
 ただ、時代にがくだるにしたがい、思考・思索が深まり、知識の蓄積もあり、次第に、哲学的内容が追加されていったようです。それがブラーフマナやウパニシャッドです。
 ヴェーダ聖典はインドに侵入したアーリア人の言語、サンスクリット語(梵語)で書かれています。


2.ヴェーダの構成

 次の四つによって構成されている。

@ ヴェーダ本集(サンヒター)

 ヴェーダは本来ヴェーダ本集(サンヒター)を指した。
 ヴェーダ本集(サンヒター)は内容によって四種類に分かれる
  (1)リグ・ヴェーダ
  (2)サーマ・ヴェーダ
  (3)ヤジュル・ヴェーダ
  (4)アタルヴァ・ヴェーダ

(1)リグ・ヴェーダ
  神々への讃歌の集成。祭式行為において神格を勧請するために用いる聖句(讃歌リチュrc)。リグ・ヴェーダ讃歌が当時のバラモン達によって具体的な祭式において神々に捧げられたものであったことは疑い得ない。
(2)サーマ・ヴェーダ
  バラモンの祭式行為において歌われる歌詠の集成。内容はリグ・ヴェーダの讃歌からとった。
(3)ヤジュル・ヴェーダ
  祭式行為の執行に際して唱えられる祭詞の集成。内容はヤジュスと呼ばれるバラモンが祭式で唱える聖なる言葉(真言・マントラ=祭詞)と、リグ・ヴェーダからとった讃歌からなる。
  *黒ヤジュル・ヴェーダと白ヤジュル・ヴェーダの違いは、前者がマントラとその説明散文を持ち、後者がマントラだけということだそうである。
(4)アタルヴァ・ヴェーダ
  後世になってヴェーダの地位を得た。呪法を行なう祭事行為で唱える呪文の集成。
  *祭式(祭式行為)と呪法(祭事行為)の違い…どちらも人為的に神々と人間の間の関係を司る能力をもつ宗教儀礼。祭式はインドラなどのアーリア人の由緒ある高級な神格に対してその恩恵を乞う手段である。呪法は、それら高級な神格のほかにも悪神、魔人を神格として利用して自分の幸福、他者の不幸を祈願する手段となる。

A ブラーフマナ(梵書)

 @の四つのヴェーダ本集(サンヒター)にそれぞれ付属しているもので、ヴェーダ本集の神学的意義を説明する散文よりなる文献。ヴェーダ本集が直接祭式で用いられるのに対して、ブラーフマナはヴェーダ本集のマントラの祭祀への適用に当たってその理論的基礎を明らかにしたものだから、直接祭祀では用いられない。

B アーラヌヤカ(森林書)

 事実上、ブラーフマナ(梵書)の一部分であるが、祭式の説明だけでなく、ウパニシャッドのような哲学的な内容も含む。

C ウパニシャッド

 ウパニシャッドとは、特有のウパーサナーという観法で得られた思惟の内容を表現する簡潔な定型句をいみするらしい。また、ウパニシャッドはヴェーダ聖典の最終末尾(anta)にある聖典なのでヴェーダーンタとも呼ばれ、antaが最終末尾のほかに、究極・奥義という意味もあり、ヴェーダの奥義を述べた聖典ともいわれる。ウパニシャッドには、ヤージニャヴァルキヤ、ウッダーラカ・アールニ、シャーンディリヤなどの哲学的思索が含まれている。


3.ヴェーダの伝承と「言葉」への信仰

 ヴェーダの詩節は数千年もの間、口伝によって伝承されてきた。一つの音節、一つのアクセントも絶対におろそかにされてはならないものだった。
 ヴェーダの本集(サンヒター)は司祭階級であるバラモンの執り行う儀式、祭式において用いられる聖なる言葉である。ヴェーダの本集(サンヒター)の中でもリグ・ヴェーダは祭式において神格を勧請するために用いる聖句である。
 ヴェーダの祭式の方法は、恩恵を乞うべき神に向かって聖なる火に捧げものをし、煙となって天に昇る供物(捧げ物)をその神格(神)が喜納して、その祭式を行った人々(祭式を依頼した人)に恩恵を垂れてくれることを祈願するというものであったと考えられる。
 ヴェーダとは<知識>の意味である。知識は言葉で表され、言葉を知るもの(知識を知るもの)はその言葉の対象を支配できる、というのが、古代人の言葉に対する基本的な考えである。(だから)言葉を知る(知識を知る)司祭階級であるバラモンは、言葉によって神々をも動かすことができる絶大な力を持つにいたる。そのような言葉は呪力を持つものであり、(それゆえ)一つのアクセントの誤りも許されず厳密かつ正確に伝えられなければならなかった。


4.天上に秘められた神々の言葉と人界で人が語れる言葉  ヴェーダの詩人(聖仙=リシ)たち

 リグ・ヴェーダ本集10巻の内の2から7巻までが最も早く成立した。これら(2巻から7巻まで)は、何人かの聖仙(リシ)を祖先とするそれぞれの家に家伝の書として、伝えられた。各家の祖先とされる聖仙(リシ)の名前は、グリッツァマダ、ヴィシュヴァーミトラ、ヴァーマデーヴァ、アトリ、バラドヴァージャ、ヴァシシュタ、カンヴァなど。
 ヴェーダの詩人(聖仙=リシ)は、言葉に対する非常に鋭い感覚と、言葉に対する聖なる意識をそなえ持っていた。言葉の技は困難を伴うものである、というのがヴェーダの詩人たちの意見であり、<思慮を欠く者>、<単純な精神構造の者>、<年少者>、<(言語能力の)低い者>、<洗練を欠く者>には、作詩は不可能である、という。聖なる言葉は、太古の聖仙の発明であり、それを人は祭式によって跡をたどることができる、とも述べられている。作詩の行為はまずもって、神々に対する感謝と祈願であった。それゆえその行為は、神々への捧げ物、贈り物という側面を持つ。
 しかも、ヴェーダの讃歌を構成する言葉は<天啓>と呼ばれるにふさわしい言葉でなければならず、世俗的な言葉であってはならない。そのような言葉は人間にとって普通の状態で生まれてくるものではない。しかも一人で静かな状態にある瞑想状態で生まれるのでもない。讃歌は詩人の恍惚状態、没我的状態で生み出される。そのような状態は例えば神酒ソーマを飲んだ時に生まれる。またはブラフモードゥヤと呼ばれる作詩の競技会において生じる。言葉によって成就される讃歌の詩作に先立って、詩想が詩人の中に生じる。それは言葉が生み出される以前に詩人に生じる直感である。詩人のこの時の状態をヴェーダは多く<震える>を意味する動詞と、その派生的な語形を用いて表現する。また輝く<光><火>にその直観をたとえている。そこからまた詩想は苦行をも意味する<熱>によっても表現される。この熱は火による詩人の内部の燃焼に他ならないが、詩人に湧き起こる詩想がその燃焼に喩えられているのである。火神アグニが詩人と彼の詩作に大きな頻度でかかわってリグ・ヴェーダの中で詠われているのもここにその理由を見出すことができる。そのような詩人の状態から生み出される言葉は日常的な言葉とは異なるものでなければならない。多くはヴェーダの言葉は秘密の意味を付与されたものであり、<秘密の><隠された>言葉、<秘密語>であることをヴェーダ自らが述べている。リグ・ヴェーダに「謎の歌」なるものが、残されているが、謎はヴェーダの言葉それ自体でもある。詩人は作詩の競技においてことさらに意味不明瞭な言葉を用いて作詩する、というようなことも頻繁に行われた。
 詩想の発現はたしかに通常の経験的日常性を超えた体験である。その発現、到来を祈って詩人たちはサラスヴァティー女神(弁財天)やヴァーチュ女神(言葉の女神)を呼ぶ。
  「サラスヴァティーは詩想を与えてください。」(リグ・ヴェーダ 6,49,7)と。
 ヴァーチュは女性名詞で<言葉>という意味であり、それを神格化したのがヴァーチュ女神である。リグ・ヴェーダの詩人は、言葉としてのヴァーチュについて興味ある詩節を残している。
  「言葉は、測定すると、四分の一、四個より成っている。霊感あるれるバラモンたちはそれ
   らを知っている。(四個の中の)三個は秘密に隠されていて、(通常の言葉としては)通用し
   ない。ヴァーチュの中の(残りの)四分の一を人間は語る。(リグ・ヴェーダ 1,164,45)
 つまり、人間の話す言葉は言葉全体の四分の一に過ぎず、残りの四分の三は人間には隠匿されているというのである。その人間に隠匿されている四分の三とは「神聖なものとして天上に秘められ、人界に通用しない」言葉と解される。リグ・ヴェーダ詩人たちの主要な関心は、そのような聖なる言葉、秘密に隠された言葉に向けられているのである。


5.讃歌の例

1.パリジャヌヤ讃歌(五巻第八十三讃歌)
  パリジャヌヤは夕立の雷雨が神格とされている。彼の雷は悪鬼(raksas)と悪人に命中する。彼はそれにより善人を守る。彼がもたらすモンスーンの雨は、植物を再び新鮮に発芽させる。彼はこのようにしてミルクあるいはそのエッセンスたるバター脂を保ち、活性化する作用とその植物の成長促進力を与えることにより子孫を作る。彼はそれゆえに植物、動物、人間のための種子(精液)を保つ。

   o 力強きもの(であるパリジャヌヤ)をこれらの歌により招待せよ。パリジャヌヤを賛えよ。敬礼して我らのために彼を得させて下さい。咆哮しながら、生気あふれる湿潤となる牡牛が、胎児であるその精液を植物の中に置く。
   o パリジャヌヤよ、汝が咆哮しながら、雷鳴を轟かせつつ悪者たちを殺戮する時、広き大地のうえにあるおよそ一切のものは歓喜する。
 2.インドラ讃歌(二巻第十二讃歌)
  武勇の神、雷霆神ライテイ。リグ・ヴェーダの讃歌の四分の一がインドラ讃歌。インドラは別名シャクラ、これを漢訳で釈と、帝王である釈すなわち帝釈(天)となったそうな。インドラは、悪魔ヴリトラを退治したことをリグ・ヴェーダではなんども讃えている。

   o 生まれて最初に思慮をもつ神として(他の)神々の能力を凌駕し、その荒い気性により、また、男たる者の偉大さにより天地をも驚かす、人々よ、彼がインドラである。
   o 彼なしに人々は勝利せず、戦う者たちは(戦いにおいて自らを)鼓舞するために彼を呼ぶ一切のものと同じ力となる者、動じないものを動かす者、人々よ、この者を信ぜよ、彼がインドラである。

6.二分されたヴェーダ聖典とその継承者

 ウパニシャッドの思想家たちが、知識を重視し知識に異常な神秘力を認めたため、次第にヴェーダの祭式(祭祀)を軽視するようになる。「知識の重視という思想は、ヴェーダ聖典一般における宗教的行為の重視の思想と相い対立するものであるから、後世のバラモン学者は、ヴェーダ聖典全体を二分して、
  @ 祭事部(karmakanda)
  A 知識部(jnanakandaまたはbrahmakanda)
の二種としている。@は祭事の実行を規定し、その果報を説いている部分であり、主としてヴェーダ本集(サンヒター)ならびにブラーフマナ文献一般がこれに相当する。Aは、真理の認識を教えている部分であり、ウパニシャッドをさしていう。したがってこの点において、ウパニシャッドはヴェーダのうちに含まれながら、ヴェーダ一般の思想とは非常に異なっている。のちには、@にもとづいてミーマーンサー学派が、Aにもとづいてヴェーダーンタ学派が成立したのである。(「ウパニシャッドの思想」中村元 春秋社)


7.ブラーフマナ(梵書)  祭祀至上主義とウパニシャッドへの歩み

(1) 祭祀至上主義

 祭式によって神々に恩恵を求めたリグ・ヴェーダの時代から、ブラーフマナ(梵書)の時代に移ると、神々についての観念が大きく変化していったらしい。
 バラモン達は祭式のいわば研究を発展させ、ブラーフマナ(梵書)で、リグ・ヴェーダ時代とは異なる祭式理論を展開した。祭式理論のキーワードの説明があるが、正直言って、簡略すぎるからか、もともとむずかしいのか、理解しにくい。なにやら、同じ事を別な角度から説明しているようにしか見えないのだが。以下、四つのキーワードとその説明を私が理解した範囲。
  @ バンドゥ(親縁関係bandhu)
     リグ・ヴェーダではバンドゥは、神々と人間の親戚関係(利益を与え合う親しい関係)のような親密な関係を意味した。ブラーフマナの祭式理論では、バンドゥは、異なる二つのものの間にある呪術の効果の及ぶ類似性親縁性すなわち呪術的同値性を意味するようになる。呪術的バンドゥが豊かになるほど、それを知り所有する者は強力になる。
  A アーヤタナ(領域ayatana)
     祭式の課題は,各呪術物質に正しいアーヤタナ(領域)をあてがうこと,すなわち各々の呪術的物質が落ちてしまうことのないように、それらにふさわしい作用局面に固定することである、すなわち、祭主のためにアーヤタナをかくとくすることであるという。また、ブラーフマナ(梵書)が、アーヤタナをもつという場合は、ニダーナをもつ、バンドゥをもつというのと同様に「呪術的に確実である」ということを意味する、ともある。さらに、敵を滅ぼすためには敵からアーヤタナを奪えばよいことになる、ともいっている。また、もし人がアーヤタナを支配するならば、同時にこのアーヤタナに結びついている全ての物質を支配できる、また、二つの物質の同値性を知れば、アーヤタナを支配できる、同値である二つの物質は同じアーヤタナをもつから、とある
  B プラティシュター(人の依るべき確固たる立場、基盤pratistha)
     祭式の課題は、呪術的物質を相互に支えることである。あるものが、別のある物質に基礎づけられていることはこの物質を呪術的に支配し所有していることを意味する。その際に呪術的同値性(バンドゥのこと?)が重要な役割を演じている。すなわち、あらゆるものは他の物質の中に呪術的に基礎づけられている(プラティシュター)。また、祭式によってプラティシュターを獲得した人はには平和(寂静santi)が到来し,その人の立場が確固となるとしている。
  C ニダーナ(因果関係、因縁nidana)
     @〜Bから考えて、ニダーナとはある物質と他の物質がアーヤタナ(領域)の部分で結びつく接着剤(因果関係、因縁という)であるといえる。当然この二つにはバンドゥがあるはずだ。

 とんだ勘違いかも知れないが、この四つのキーワードからわかることは、ブラーフマナ(梵書)では、物と物は関係性を持つと考え、特に呪術的同値性という関係を考え出し、物と物の関係にアーヤタナという概念を見つけ、その操作で、呪術的に人為的に物を支配する方法を見つけた。ニダーナは物と物を関係づける力であろう。
 こうなると、人にとって神は恐れ敬い恩恵を請い願うべき超越的存在(人知を超えた存在)ではなくなり、祭式に関する知識こそがあらゆるものの運命を左右できるものとなる。つまり、祭式至上主義の始まりである。

(2)ウパニシャッドへの道

 ブラーフマナ(梵書)は、求めるものを、神を媒介とする祭式によって得ようとするやり方の頂点を極めたが、同時にそのブラーフマナ(梵書)の中から、人に恩恵を与える祭式(とその神)以外の新たな道、哲学が芽を大きく伸ばした。
 人間の外(自然の中に)にあって、人間の幸不幸などを左右する力の源泉としての神(神格)に天啓の言葉(讃歌リチュ)などで恩恵を望んでいた人々が、次第に、リグ・ヴェーダに芽生た哲学的天啓の詩節に触発され、ブラーフマナ(梵書)の思索を経て、ヴェーダの終点・ウパニシャッドの哲学・思想に至る。このように見るとヴェーダ(ウパニシャッドまでを含む)は、素朴な自然神崇拝から、人間を見つめ、一切の根元を明らめようとする哲学へと深まっていく深い思索の道でもある。インド同様高度の文化を発展させた中国人が、なぜ、仏教を熱烈に求めたのかいまだ疑問は解けないが、あるいは、インドと中国の違いがここにあるのではないかと思う。
 リグ・ヴェーダ時代とブラーフマナ(梵書)時代の違いを宇宙創生、死の観念・輪廻について抜き書きしてみたい。

@ 宇宙創生

ア.リグ・ヴェーダにおける

  リグ・ヴェーダでは、最も新しく成立した第十巻に宇宙創生の詩節があるそうだ。宇宙創造神話が作られた背景には、我々が住むこの宇宙・世界はなぜ存在しているのかという問いがリグ・ヴェーダの詩人たちに生まれたことを意味する。そこには素朴な形ではあるけれども、存在しているものの本原あるいは、根拠といったものを問う哲学の萌芽がみられる。主な神話の形態

 a、宇宙創造を建造・鍛冶にたとえるもの
  創造神をヴィシュヴァカルマン、ヒラニヤガルバ、ブラフマナスパティとする。下は、ヴィシュヴァカルマン讃歌の一節

     拠り所は何であったか。素材は何であり、如何にあったか。
     それから全てのものを見るヴィシュヴァカルマン(造一切者)が大地を創出し、
     彼の力によって天を創造したところのもの(たる拠り所、素材)は。

 b、宇宙(世界)創造を祭式にもとめたもの
  祭式の供犠として捧げられた祭獣・巨人(プルシャ)を祭式で解体してこの宇宙(世界)が出来たとする。下は、プルシャ讃歌の一節

     彼らがプルシャを解体したとき、彼らはいくつの部分に作ったのか。
     ・・・。
     ブラーフマナ(バラモン)が彼の口であった。彼の両腕は王族となった。
     ・・・。
     月は意から生じた。目から太陽が生じた。
     口からインドラとアグニが、呼気から風が生じた。
     へそから中空が生じた。
     頭から天神が、二本の足から大地が、諸方角は耳から生じた。
     このようにそれらは世界を造った。

 c、中性原理の<唯一者>による宇宙生成
  ナーアサド・アーシーティヤ(非無非有)讃歌。有無を絶した混沌状態からの創造を説く。この讃歌群の中に、創造活動を表現する「多様な流出(visrsti)」という語が注目に値するといっている。後期の哲学文献で何らかの原理からの創造を表す語として、流出に由来する語を用いるが、その淵源がここにあるからだという。下は讃歌の一節

     その時無も有もなかった。大気も存在しなかった。
     さらに遠くの天もなかった。
      ・・・。
     死も不死もそのとき存在しなかった。夜と昼の光もなかった。
     風なくして、自力によって<かの一なるもの>が呼吸していた。
     それとは異なる他のものは存在しなかった。

イ、アタルヴァ・ヴェーダにおける

 リグ・ヴェーダより遅れて成立したとされるアタルヴァ・ヴェーダの創生神話は、リグ・ヴェーダの創造神話の続編ともいうべきものがほとんどであり、あたるヴァ・ヴェーダの詩人たちはリグ・ヴェーダの創造神話をさらに進化発展させることに意を注いだと理解される。ここには、やがてウパニシャッドで主題的に言及され批判される思想や、仏教に伝わる外教説に比定される思想も見られる。

 a、呼吸(プラーナprana)を宇宙の最高原理とみなす思想。以下その讃歌

     プラーナに帰命する。その支配の中であらゆるものは存在し、
     彼はあらゆるものの主であった。
     彼にあってあらゆるものは確固として安らいだ。

 b、時間を宇宙的原理とする思想

     時間はかなたの天空を、またこれらの大地をも生み出した。
     ・・・。
     時間は地を創造(流出)し、時間の中で太陽は燃える。
     時間の中にあらゆる存在者はあり、時間の中で目は多様に見る。
     時間の中に思考力はあり、時間の中にプラーナはあり、
     時間の中に名称はあつめられた。

 アタルヴァ・ヴェーダの中にあって、ウパニシャッドへの道を開いているものに、人間についての考察が指摘されてよいであろう。人間の生理心理的構造、運命についての疑問である。疑問として提示されただけだが、そういう疑問はリグ・ヴェーダには見られない。以下讃歌の一部。

     英雄的行為をなすべしと、誰が人の両腕をともにすえたのか。
     どの神が身体の上においたのか。

ウ、ブラーフマナ(梵書)における

 宇宙創造神話は、リグ・ヴェーダの中で数篇の讃歌に説かれ、アタルヴァ・ヴェーダでも発達し一元論思想への方向を示した(最高原理プラーナや時間による説明)。しかし、宇宙創造者としての最高神の名前は統一されておらず、創造の過程の説明も不統一であった。ブラーフマナ(梵書)においては、宇宙創造者たる最高神としてプラジャーパティ<生類の主>が登場する。「ヴェーダからウパニシャッドへ」(針貝邦生 清水書院)には、プラジャーパティの創造神話は二種類載っている。以下その二種類の讃歌の一部

    プラジャーパティの創造神話 その一

     世界は初め水であった。波立つ満々たる水であった。
     それは多となることを欲し、苦行して懺悔した。
     それが懺悔した時、黄金卵が生じた。
      ・・・
      その中から、一年で一人の男プラジャーパティが生まれた。
      ・・・。
      一年間の後彼は語ることを欲した。彼はbhurと言った。
      すると大地が生まれた。彼はbhuvarと言った。
      すると空が生まれた。彼はsvarと言った。
      すると天が生まれた。
      それゆえ子供は一年間の後に語ることを欲するのである。

    プラジャーパティの創造神話 その二

     プラジャーパティは創造しようと欲した。彼は苦行した。
     彼は思った。「よし、わたしは確固たる拠り所を創造しよう。
     それによって創造する生類がそこに安定して住むことができ、
     ふらつくことなく歩くことができるように」とプラジャーパティは
     この世界(地界)と空界とかの世界(天界)を創造した。

A 死の観念・輪廻

ア、リグ・ヴェーダにおける

 厭世的な苦duhkhaという語はでていない。輪廻思想はまだ生まれていない。行為とその結果に関する基本的な思想である業報思想(業)の萌芽はみられる。地獄観念の先駆的なイメージがみられる。

    「インドラとソーマよ、悪人達を穴に、拠り所のない暗黒に、
    そこから再び誰も上がってこないように、落下させてください。(RV7.104,3)」

 アートマンは現象として観察される「息」の意味で使われる。アスasuが霊魂のような不滅のもの(生命原理)を意味した。人は死後、火葬の火(アグニ)に焼かれ肉体は解体されるが、アスは残り、アグニに導かれ、ヤマの支配する天界に赴く。この時代は、ヤマは地獄の支配者(閻魔)ではなく、天上の楽園の支配者であった。天界には、善人が行ける。すでに天界に行っている者たちは、生前経験に神々に対する奉仕を行なった者、苦行を積んだ者、真理を育んだ者、勇敢な戦士として自らの身命を捨てた者、膨大な布施を行なった者、詩人、苦行を行なった聖仙達である。
 現世享楽的、楽天的な人生観・世界観を持っていた。リグ・ヴェーダの詩人たちにとっては、一般的に言ってこの世は享楽されるべき世界であった。
 しかし、人は死ぬ定めにあることも承知していて、死を恐れ、それを超克し、死から逃れようとしていた。

イ、ブラーフマナ(梵書)における

 輪廻思想は完成していない。厭世的な死後の世界への見方が現れている。リグ・ヴェーダ時代のような、善人は死後ヤマの天界に行き、永遠の幸福を享受できるという楽天的な考えはもはや見られない。ヤマ天の楽土での生存は永遠なのか、再死が待っているのではないかと疑い始めた。
 祭式によって不死を獲得できると考えていた?祭式は物質間の同値性に基づいて構築された一種の呪術であると言うことができよう。その課題はまず第一に人間の幸福を確固とし、そのために幸福をもたらす物質を獲得し、敵の攻撃や危険を防ぐことである。そして第二に、そのような個人的なことがらを超えて、永遠で絶対的に妥当する秩序に従って呪術的関係立てること、呪術的法則を実現することである。小宇宙である人間は次のような場合にだけ繁栄する。それは宇宙という「大きな世界」が繁栄し、各々の物質がその適切な拠り所(pratisthaプラティシュター)の上に成立し、確固として支えられ、因縁バンドゥのきずなにより支えれれている時である。人間が祭式によって獲得しようとしている最高善―死後の不死性―は確固とされた秩序の状態、すなわち呪術的<規範>の実現された状態である。そして死から解放された者は、日と夜の循環を天の高みから見下ろす。それゆえに「あたかも彼は車の上に立って回転する車輪を見る如くである。(シャタパタ梵書)


8.ウパニシャッドの種類

 このブログは、ゴータマ・ブッダに始まる仏教を考えているので、ここでは、ゴータマ・ブッダ以前の成立にこだわる(一応、ゴータマ以後成立の中期古ウパニシャッドもあげているが)。針貝氏と中村氏の作成した一覧表を参照した。

(1)古ウパニシャッド
   (「ヴェーダからウパニシャッド」針貝邦生著 清水書院2000.7.10刊)参照
    * ウパニシャッド名の後の( )内は、その所属ヴェーダの名前

<初期(前9〜前5世紀頃)>
   「ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド」(白ヤジュル・ヴェーダ)
   「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」(サーマ・ヴェーダ)
   「アイタレーヤ・ウパニシャッド」(リグ・ヴェーダ)
   「カウシータキ・ウパニシャッド」(同上)
   「タイテリーヤ・ウパニシャッド」(黒ヤジュル・ヴェーダ)
   「ケーナ・ウパニシャッド」(サーマ・ヴェーダ)
<中期(前4〜前3世紀頃)>
   「カタ・ウパニシャッド」(黒ヤジュル・ヴェーダ)
   「イーシャー・ウパニシャッド」(白ヤジュル・ヴェーダ)
   「ムンダカ・ウパニシャッド」(アタルヴァ・ヴェーダ)
   「シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド」(黒ヤジュル・ヴェーダ)
   「マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド(黒ヤジュルヴェーダ)

(2)古ウパニシャッド
   (「ウパニシャッドの思想」中村元著 春秋社1990.7.20刊)参照

<初期(ゴータマ・ブッダ以前、B.C.800ころから?)>
  第一期
   「ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド」(白ヤジュル・ヴェーダ)
   「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」(サーマ・ヴェーダ)
  第二期
   「アイタレーヤ・ウパニシャッド」(リグ・ヴェーダ)
   「カウシータキ・ウパニシャッド」(同上)
   「ジャイミニーヤ・ウパニシャッド・ブラーフマナ」(サーマ・ヴェーダ)
   「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」(黒ヤジュル・ヴェーダ)
  第三期
   「ケーナ・ウパニシャッド」(サーマ・ヴェーダ)
   「イーシャー・ウパニシャッド」(またはイーシャーヴァースヤ・ウパニシャッド 白ヤジュル・ヴェーダ)
<中期(ゴータマ・ブッダ以後)*ただしこの中期をゴータマ以前の成立とする学者も多い
   「カタ・ウパニシャッド」(黒ヤジュル・ヴェーダ)
   「ムンダカ・ウパニシャッド」(アタルヴァ・ヴェーダ)
   「プラシナ・ウパニシャッド」(同上)
   「シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド」(黒ヤジュル・ヴェーダ)


9.ウパニシャッドの哲人たち

 ウパニシャッドは、ヴェーダ本集(サンヒター)に付属する聖典(文献)であり、ヴェーダとは独立のまったく別個のものではないようである。ウパニシャッドを編纂したのも、バラモンたちであるとされている。ところが、ウパニシャッドには、以下にあるような個人名で伝えられる哲人の思想が載せられている。
 ヴェーダはバラモン階級が専門的に取り扱う聖典であり、ヴェーダに基づく祭祀を行なえるのはバラモンだけであった。ところが、ウパニシャッドの哲人の中には、明らかにバラモン以外の者がいたようである。
 ブラーフマナ(梵書)の時代はいわば、バラモン中心の時代であったようだが、ウパニシャッドの時代になると、バラモン以外の勢力が強くなり、宗教・思想界に大きな影響を及ぼしたようだ。その様子を、針谷氏「ヴェーダからウパニシャッドへ」と中村氏「ウパニシャッドの思想」から引用する。

 『ある場合には、学識あることを自他共に認められたバラモンがクシャトリャとの論争に負けて、そのクシャトリャがバラモンにさらに新たに教義を示すといったエピソードがウパニシャッドに記録されている。(例として、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王、アシュヴァパティ・カイケーヤ王、アジャータシャトル王の場合をあげて)ウパニシャッド文献がヴェーダ聖典の最終部門を構成する重要な一部分としてバラモンにより伝承されたことを考える時、このようなバラモンにとって不名誉な事実がウパニシャッドに記録されていることは奇異の感に打たれる。この事実はバラモン階級とクシャトリャ階級とが相互扶助的関係にあったことを示しているのであろうし、そのようなエピソードを記録することが、必ずしもバラモンにとっては不利なものとして働くことがなかったような事情があったことを物語るものと考えられる。また、クシャトリャ階級出身の偉大な思想家ゴータマ・シッダールタとヴァルダマーナというそれぞれ仏教とジャイナ教との開祖が、初期ウパニシャッドの成立場所とさして隔たっていない同じ北インドに出現するのもほぼこの時代であることを考えると、バラモンにとっては自分たちの因習的な思想に対して固執することの許されない新しい時代がクシャトリャに(の?)人々によって開かれつつあったことも否定され得ない事実である。要するにウパニシャッド文献はバラモンとクシャトリャの相互作用の産物というべきものなのである。』(針貝氏)
 『ウパニシャッドは、当時のバラモンたちに知られかつ採用された種々の秘説の集成であり、それを編纂した者は疑いもなくヴェーダを奉ずる正統バラモンであったが、しかしウパニシャッドの中のいくたの新しい教説の説者は、かならずしもバラモンばかりではなかった。当時の王族からの影響の著しいことは、すでにしばしば学者に指摘されている。また婦人が堂々と哲学的論議に参与していて、豪も臆することがない。[マイトレーイーやガールギーの場合はその適例である。]また卑賤の身分のものがバラモンや王侯に対して鋭く自説を展開している。[浮浪者ライクヴァはその適例である。]いかに卑しい素性の者であろうとも、真実を語るものは、バラモンと同じ資格があると認められた。[婢女の私生児サトヤカーマの場合がその適例である。]』(中村氏)

 以下に主なウパニシャッドの哲人たちを列挙します。

 ヤージュニャヴァルキャ(ヤージニャヴァルキヤ中村)---ブリハドアーラニヤカ・U 2.4、3、4
   ヤージニャヴァルキヤの人物 p346、ヤージニャヴァルキヤの思想 p445、厭世観の萌芽p763

 ウッダーラカ・アールニ---チャーンドーギャ・U 6.1〜16
   火の形而上学 p137、有の形而上学 p254

 ジャナカ王---ブリハドアーラニヤカ・U 4.1
   ヤージュニャヴァルキヤとの対話 p386

 プラヴァーハナ・ジャイヴァリ---チャーンドーギャ・U 1.9
   プラヴァーハナの思想 p97

 アジャータシャトゥル王---カウシータキ・U 4、ブリハドアーラヌヤカ・U 2.1・〜201
   ブラフマンについてのアジャータシャトル(アジャータシャトゥル針谷)とバーラーキとの対話 p491

 シャーンディルヤ(シャーンディリヤ中村)---チャンドーギャ・U 3.14
   シャーンディリヤのブラフマン・アートマン一体説 p243

 サトヤカーマ・ジャーバーラ(サティヤカーマ・ジャーバーラ中村)---チャーンドーギャ・U
   究極の原理  息(呼気 プラーナ)について p104

 アシュヴァパティ・カイケーヤ王(アシヴァアパティ・)---チャンドーギャ・U 5.12
   アシュヴァパティのアートマンとブラフマンに関する教示 p219

 ガールギー・ヴァーチャクナヴィー(女)---ブリハドアーラニヤカ・U 3.6
   ジャナカ王の祭式におけるヤージュニャヴァルキャ(ヤージュニャヴァルキヤ中村)八人の師たちとの   議論 p361

 マイトレーイー(女)---ブリハドアーラニヤカ・U
   やージュニャヴァルキヤの妻


10.ウパニシャッドの内容(目次) (「「ヴェーダからウパニシャッド」針貝邦生 参照)

(1) 一例として、「ブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッド」の内容(目次)

 ブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッドは、白ヤジュル・ヴェーダのシャタパタ梵書(ブラーフマナSatapatha・Brahmana)の最後の章を構成する。このウパニシャッドは三つのセクションからなる。@1〜2章は蜜の章、A3〜4章はヤージュニャヴァルキャの章、B5〜6章は補遺の章である。全体としてブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッドはウパニシャッドの中で最も古いものとして認められている。しかし、部分的にはチャーンドーグヤよりも新しい部分がある。チャーンドーグヤとともにブリハドアーラヌヤカは古ウパニシャッドの三分の二を占めるのみならず、ウパニシャッド文献の最も重要な部分を代表する。

1章
 1.1-2 宇宙と同一化される犠牲の馬
 2.1-7 死から現れる創造
 2.7 馬祠祭の起源
 3.1-28 神々と悪魔の間の戦い
  3.1-18 口の中における呼吸の優位
  3.19-23 呼吸の相同性:サーマンとしての呼吸
  3.24-28 サーマンによって人が獲得するもの
 4.1-17 創造
  4.1-8 アートマンからの創造
  4.9-10 自我としてのブラフマン
  4.11-15 ブラフマンからの創造
  4.15-16 自己の世界としてのアートマン
  4.17 アートマンからの創造
 5.1-13 食物の7種類
 5.14-15 年とプラジャーパティと同一化される人
 5.16 三つの世界
 5.17-20 息子に移す儀礼
 5.21-23 機能の間の抗争:呼吸の優位
2章
 1.1-20 ドリプタ・バーラーキとアジャータシャトルのブラフマンに関する対話
  1.15-20 睡眠の本性
 2.1-4 中心の呼吸
 3.1-16 ブラフマンの二つの可見の姿
 4 ヤージュニャヴァルキャと妻マイトレーイーとの対話
  4.5-14 自我に関する論議
 5.1-19 蜜に比せられる全実在
 6 師の相承
3章 ジャナカ王の祭式におけるヤージュニャヴァルキャ:八人の師たちとの論議
 1.3-13 アシュバラとの祭式論争
 2 把捉者と死後の運命についてのジャーラットカーラとの論争
 3 ブジュユとの論争:馬祠祭主はどこへ行くのか
 4 ウシャタとのブラフマン、アートマンについての議論
 5 カホーラとのブラフマンについての議論:欲望を放棄して
 6 ガールギーとの議論:宇宙は何の上に織られているか
 7 ウッダーラカとの議論:世界は何の上に配置されているか
 8 ガールギーとの議論:宇宙は何の上に織られているか
 9.1-26 ヴィダグダとの議論:神々はいくたりいるのか
 9.27-28 ヤージュニャヴァルキャの論敵への問い
4章
 1-2 ジャナカ王とヤージュニャヴァルキャとの対話(Yはヤージュニャヴァルキャ)
   1.2 ブラフマンは語であるというジトヴァンの見解をYが破る
   1.3 ブラフマンは気息であるというウダンカの見解をYが破る
   1.4 ブラフマンは眼であるというバルクの見解をYが破る
   1.5 ブラフマンは耳であるというガルダビーヴィピータの見解をYが破る
   1.6 ブラフマンは心であるというサトヤカーマの見解をYが破る
   1.7 ブラフマンは心臓であるというヴィダグダの見解をYが破る
   2.1-4 ヤージュニャヴァルキャのアートマンについての教え
 3-4 ジャナカ王とヤジュニャヴァルキャのさらなる対話
   3.1-8 光の源泉としてのアートマン
   3.9-34 夢と夢を見ない眠りについて
   3.35-4.2 死に際して起こることについて
   4.3-6 欲望を持つものの死後
   4.6-25 欲望なき者の死後
 5 ヤージュニャヴァルキャと妻マイトレーイーとの対話
   5.6-15 アートマン論
   6 師の相承
5章
 1 ブラフマンは空間である
 2 プラジャーパティによる神々と阿修羅への教え
 3 ブラフマンは心臓
 4 ブラフマンは実在
 5 水が実在を作り、実在が宇宙をつくる
 6 心臓内部のプルシャ
 7 ブラフマンは稲妻
 8 語は雌牛
 9 一切人火と消化のプロセス
 10 死後の人の運命
 11 苦行としての病気
 12 食物と呼吸としてのブラフマン
 13 呼吸としての祭官と王威
 14 ガーヤトリー詩節の宇宙的対応
 15 死後の行く先への祈願
6章
 1 機能の間の抗争:呼吸の優位
 2 プラヴァーハナのシュヴェータケートゥへの問いとウッダーラカの教示
   2.8-14 五火説と輪廻
   2.15-16 死者の行く二つの道の説
 3 願望を保全するための機能への供養
 4 性交について
   4.1-6 女性と交わる義務
   4.7-11 愛と妊娠を保全するための儀礼、妊娠を避けるための儀礼
   4.12 妻の愛人を害するための儀礼
   4.13-23 異なるタイプの子供を獲得するための儀礼
   4.24-28 新生児のための儀礼
 5 師の相承

(2)チャーンドーグヤ・ウパニシャッドの目次

1章
 1.1 高声歌詠 om、万物の本質との同質化
  2 高声歌詠を使用する神々と阿修羅との抗争
  3 2.2-14 真の高声歌詠としての口の内部の気息
  4-5 omとしての高声歌詠
  6-7 リチュ、サーマン、高声歌詠の宇宙的、身体的対応
  8-9 高声歌詠についてのプラヴァーハナと二人のバラモンとの対話
    9.1-3 空間としての高声歌詠
  10-11 ウシャスティの物語:呼吸、太陽、食物と同一化される高声歌詠
  12 犬の高声歌詠
  13 サーマンにおける諸間投詞の対応
 2 1 サーマン崇拝
  2-7 五重のサーマンの宇宙的、身体的対応
  8 語としての七重のサーマン
  9-10 太陽としての七重のサーマン
  11-21 五重のサーマンの宇宙的、身体的対応
  22 サーマンを歌い発音する方法
  23.1 法(ダルマ)とブラフマンの抗争
  23.2-3 プラジャーパティよるヴェーダとomの創造
  24 ソーマ献供の果報を確実にする方法
 3 1-11 蜜としての太陽
     1-5 あらゆる種類の聖なる知識から抽出される太陽の蜜
     6-10 その蜜の諸部分に依存して生きている神々のさまざまな種類
     11 沈まない太陽
   12 宇宙全体としてのガーヤトリー韻律
   13 心臓の五つの開口部:それらの宇宙的、身体的対応
   14 心臓内部の自己としてのブラフマン
   15 胸郭に比せられる宇宙
   16-17 人生と人の活動に比せられる祭式
   18.1 こころと空間としてのブラフマン
   18.2-6 ブラフマンの四方位としての生命機能
 4 1-3 ジャーナシュルティとライクヴァの物語:摂取者としての風と呼吸の理論
   4-9 サトヤカーマ・ジャーバーラの物語:ブラフマンの四方位
   10-15 ウパコーサラの物語
      10-14 三つの祭火の諸対応
      15 目の中のプルシャとしてのアートマン
   16-17 祭式上の誤謬を修正するブラフマン祭官の仕事
 5 1-2 諸生命機能間の抗争
    1-2.3 呼吸の優位
    2.4-9 なんらかの偉大なものを獲得するための生命機能への諸献供
   3-10 プラヴァーハナのシュヴェータケートゥに対する問い ウッダーラカの教示
      4-9 五火説と輪廻の理論
      10 死者の赴く二つの道、神道と祖道
   11-24 アシュヴァパティのアートマンとブラフマンに関する教示
   12-17 宇宙的実体とアートマンの同一性を破する
   18 アートマンの叙述
   19-24 五つの呼吸への食物の献供
 6 ウッダーラカとその息子シュヴェータケートゥとの対話
   1.3-7 知られていないものを知らしめる代置の規則
   2 存在からの創造
   3 創造されたものの三つの起源
   4 事物の三つの現れ:赤、白、黒
   5-6 さまざまな身体部分を形成する食物と飲み物の三部分
   7 人の十六の部分
   8.1-2 睡眠について
   8.3-6 人の根元としての存在
   8.7-16.3 アートマンの本性
 7 サナトクマーラによるナーラダへの教示
   1-15 名称から呼吸に至る実在性の階程
   16-23 思考から充実に至る諸活動を知る必要性
   24-26 充実とアートマンの間の対応
 8 1-6 あらゆるものを含むものとしての心臓内部の空間
     1 老年と死から解放されたアートマン
     2 思考のみによる意欲の成就
     3 実在としてのブラフマン
     4 この世とブラフマンの世界を分ける橋としてのアートマン
     5 梵行期称讃
     6 心臓内部の脈管
     7-12 プラジャーパティによるインドラとヴィローチャナに対する真のアートンについての教示
     7-8 身体的現れとしてのアートマン
     9-10 夢の中のプルシャとしてのアートマン
     11 熟睡位におけるプルシャとしてのアートマン
     12 真のアートマン
     13-15 完成されたアートマンの称讃


11.ウパニシャッドの時代背景

 ウパニシャッド聖典が成立したおよそ紀元前七世紀ごろに始まる時代は、社会的・経済的・宗教的に見てインドの大きな変動期にあたる。宗教的には古いヴェーダの祭祀主義から新しい思想への移行期である。
 初期のウパニシャッド文献が成立してほどなく、バラモンを中心とするヴェーダの宗教とは全く異なる宗教、仏教・ジャイナ教が登場する。この時代はインドのみならず、ギリシャ・中国にもその後の思想史を決定づけるようなソクラテス、プラトン、孔子らが登場した。
 インドにおいてはその精神史の最も中心的な観念となる業、輪廻の思想、ヨーガの行法と関連づけられる精神集中の技法、苦行、富や家族を放棄して出家遊行するというような宗教的生活の形態が明確な形で現れた時代である。
 ウパニシャッドが成立する時代には、国家と呼ばれてもよいほどの大国がガンジス川流域に出現した。初期ウパニシャッドに記録されているように、これらの国家を統治する王たちは、政治経済を支配するとともに、宗教や思想の方面でも重要な役割をはたすようになった。
  * 王達すなわちクシャトリャが再び宗教・思想の面に大きな役割を果たすようになったわけであるが、針谷氏はブラーフマナの説明の中で、以下のように記述していた。

  『リグ・ヴェーダの時代も祭式は重要であったが、祭式は神々の恩恵を得るための手段であり、その意味で神々が主、祭式は従の関係であったことは明瞭であろう。しかしこの梵書(ブラーフマナ)の時代になるとその関係は逆転する。すなわちこの時代には、祭式を執行すること自体が主要目的となり、バラモンはその手順作法を厳密に規定し、その一つ一つの行為にそれぞれ意味を付与した。さらに神々も宇宙も人的世界も祭式によって動かされる存在と見なされるようになった。ここで神々はもはやその独立の意義をもたず、祭式の傀儡となった。祭式を掌握するのはバラモンである。バラモンは神々をも掌握する。なぜこのような事態に陥ったのであろうか。あるいんど学者は次のように推測する。それは気候風土の影響のほかに、当時マハーバーラタに記録されたような全土にわたる大内乱があって、最も健全であるはずのクシャトリャ(武士)階級の人々が思想界の出来事に注意するいとまがなく、教学の主導的立場がバラモンに握られたために、・・・と。
 そしてウパニシャッドの時代になると、そういうブラーフマナ(梵書)の時代の状況が再び変化して、クシャトリャが思想界に大きな影響を及ぼすようになり、やがてまもなく、バラモン階級出身でないゴータマやヴァルダマーナ(マハーヴィーラ、ニガンタ・ナータプッタ)の仏教、ジャイナ教が起ることになる。
 国家の基盤は都市であり、都市の発達は、物品の広域の交流のみならず、宗教・思想の交流をも活発にした。ウパニシャッド文献の記録では、ウパニシャッドの思想家たちの活動範囲は北西部のガンダーラ地方から、南東部のヴィデーハ地方にいたるおよそ1600kmに及ぶ。


12.ウパニシャッドの思想とその影響

 私が、自分でサンスクリット原文でヴェーダやブラフマナ、ウパニシャッドを読んだり、研究したわけではなく、針貝氏、中村氏、北川氏の論や引用を勉強しただけなのですが、それでも、ヴェーダ、ブラフマナ、ウパニシャッドといわれるものが、それぞれ一つの思想で統一されていたり、一つの方向に発展したりというようなのでなく、いずれにも、さまざまな(多様な)思想が盛り込まれているらしいなと感じ取れました。
 針貝氏、中村氏の本によると、ウパニシャッドは17世紀中頃、ペルシャ語に翻訳され、さらにそのペルシャ語訳がラテン語に翻訳されて「ウプネカットOupunek'hat」の名で19世紀初頭にヨーロッパに入り、大きな影響を与えたらしい。以下の文は、針貝氏の本からの引用であるが、引用の原著者はショーペンハウエルで「余録と補遺」(服部正明訳)である。

 『ウプネカットは全篇を通じて何とヴェーダの神聖な精神を呼吸していることか。精読してこの比類のない書のペルシャ語―ラテン語に精通した人は、その精神によって心の内奥にどんなに感動を受けることか。その一行一行は確固とした、明確な、そして首尾一貫して調和のとれた意味に満ちていることか。どのページからも深い、根源的な、崇高な思想がわれわれの前に断ちあらわれてくるとともに、気高い神聖な厳粛さが全体に漂っている。ここでは、すべてがインドの空気を呼吸し、始原の、自然と調和した生存を生きている。そしてここでは、精神は古くからそれに接木されたユダヤ的迷信や、それに隷属するすべての哲学から何とさっぱりと洗い清められていることか。それはこの世にありうる最も読み甲斐のある、最も高貴な作品である。それは私の生の慰めであったし、また私の死の慰めとなるであろう。』

 中村氏によれば、ウプネカットは,A.D.1656〜7にムガル帝国のシャー・ジャハーンの王子ダーラー・シュコーが、デリーでインドの学者たち(ヴェーダーンタ学派のシャンカラの系統で、シャンカラの思想で解釈した)に命じて50篇のウパニシャッドをペルシャ語に翻訳させたという。以下は、中村氏の説明である。

 『ところで、ウパニシャッドの翻訳はシャンカラの思想で一貫して註解されているからこそ感銘を与えるのであって、もしもその原文がそのとおり忠実に翻訳されて白日のもとにその内容を露呈するならば、人々はその異様なことに驚き、感銘を与えるということも薄弱になってしまう。若干の学者が説くように、「ウパニシャッドの哲学」というまとまったひとつのものがあるのではなくて、別々の個別的な思想の集成だと考えると、そこに思想の発展の歴史が考えられる。そういう立場での研究としては、バルアの書がある。この立場をとると、「ウパニシャッドの哲学」というものはなくなってしまって、個別的に種々の異なった思想をいだく哲人が次々と現れたということになる。そうだとすると、ウパニシャッドの哲人たちの思想の変遷も、ソクラテス以前のギリシャの哲人たちの思想の変遷も、たいして違ったものではないということになってしまう。この点を指摘したのは、ドイツのルーベンであった。』(「ウパニシャッドの思想」)

 以下に、再び針貝氏の本から、ウパニシャッドの中心思想についての記述を引用しておく。そして、このブログ内の「仏教の思想的土壌 ウパニシャッド」に、ウパニシャッドの哲人たちの思想と輪廻などの各思想について個々にまとめてみたい。

 『古ウパニシャッドの中心的な思想は、ブラフマン「梵」やアートマン「我」といった一元論的な絶対者を設定し、その認識を通じてそれと一体化するという、帰一思想を特徴とするといってよいであろう。また、インド思想史の上で重要なことは、インドの倫理思想の根幹を業報輪廻思想が確立されたことである。帰一思想も輪廻的生存からの解放の思想、言い換えれば解脱の思想にほかならない。さらにこのような解脱への志向性が明確にされたという事実は、現世に対する不安、苦観がウパニシャッドの時代において生存についての一般的な見方として受け入れられていたことの証左である。
 ウパニシャッドはヴェーダの最終部を形成する文献とみなされるが、その後のインド思想史に決定的な影響を今日に至るまで与え続けている点で他のヴェーダ文献の中にあって異彩をはなっている。インド思想の枠組みを構成する中心となる諸要素・観念は初期ウパニシャッドの中ではじめて明らかにされた。それらは業と再生・輪廻の教理であり、ヨーガ・瞑想・苦行といった行法であり、個人我を超越する普遍我(アートマン)の教えであり、世界の多様性の背後に秘められた一なる実在(アートマン・ブラフマン)の教えである。それらの教えは今日のヒンドゥーにとっても霊感の源泉であり続けている。
 インド思想史の中で今日でも最も優勢な学派はヴェーダーンタ派である。この派の名称は<ヴェーダの終わり><ヴェーダの究極>を意味するウパニシャッドを指しており、その思想の源泉がウパニシャッドであることを意味する。ヴェーダーンタ学派の中で最も名高い哲学者が紀元後8世紀のシャンカラである。シャンカラは<不二一元論(アドヴァイタ)>を唱導した哲学者として名高いが、彼によればウパニシャッドは<宇宙の多様性は究極的な一なる実在に帰する>ということを教えているという。しかしウパニシャッドはヴェーダーンタ思想がシャンカラを超えてさまざまに展開したことが示しているように、シャンカラの解釈のみで論じつくされるものでないことも明らかである。』

 * ウパニシャッドの読み取り・研究にとってのシャンカラの重要性について中村氏は次のように述べている。

 『ウパニシャッドの諸箇所、諸文章を解釈するのは、非常に困難な仕事である。シャンカラの註釈を十分に利用しなければならないが、しかしウパニシャッドの原文の原意を解明するためには、シャンカラの註釈を批判的に検討し、また異なった諸見解がある場合には適切な選択をしなければならぬ。』(「ウパニシャッドの思想」)

 
 湯田 豊氏の「ウパニシャッド――翻訳および解説――」(大東出版社 2000年2月刊)の湯田氏の説が重要な意味を持っていると思い、以下に、湯田 豊氏の「ウパニシャッド――翻訳および解説――」(大東出版社 2000年2月刊)の解説(あとがき)を引用します。
 『・・・。
さて、ウパニシャッドとは何か、ということを、われわれは確かめなければならない。ウパニシャッドについて確実に言えることは、一つしかない。ウパニシャッドは、古代インドの哲学書であり、この書物あるいは小冊子の中には、さまざまな教えが説かれている――このことは疑い得ない。それ以外のことは不確定的である。ウパニシャッドを"奥義書"ないし"秘密の教え"などと翻訳するのは正しくない。普通そのように翻訳されているけれども、そのような翻訳は無根拠である。
 要するに、ウパニシャッドはヴェーダの終りに来るテクストであり、その中に種々のテーマ――哲学的、非哲学的な――が見い出されるだけである。ウパニシャッドを正しく読むためには、ウパニシャッドのオリエンテーションが有益であろう。この機会に、わたくしは、ウパニシャッドの簡明なオリエンテーリングを試みたいと思う。

 (ウパニシャッドの語義

 ウパニシャッドという言葉を確かめるために企てられたのは、ウパニシャッドupanisadの語源解釈である。学界に流布している学説によれば、師匠から教えを受けるために、弟子が師匠の近くにupa下にni座るsadことがウパニシャッドの語義である。そして師匠から弟子に伝えられる秘密の教えとは何かと言えば、大宇宙の原理としてのブラフマン=小宇宙の原理としてのアートマンであるという思想であるといわれる。ブラフマンは梵であり、アートマンは我である。ブラフマン=アートマン説を、人は"梵我一如"説と呼ぶ。しかし、初期のウパニシャッドには"梵我一如"という表現は存在しない。
 初期の主要ウパニシャッドに関する限り、弟子が師匠の足もとに坐って教えを授けられることを例証する箇所は全く存在しない。少なくとも、わたくしはそういう箇所を見い出すことができない。しかし、師匠の足もとに坐ることがウパニシャッドである、という解釈は可能である。しかるに、多くの人はそのような解釈を一つの仮説と見なす代わりに、万人によって承認されるべき真理であると信じて疑わない。ウパニシャッドが師匠の近くに、下に坐るというのは一つの解釈にすぎない。それは、一つの視点からのアプローチにすぎない。わたくし自身は、そのようなアプローチをしない。それゆえに、そのようなアプローチに基づく解釈をわたくしは拒まざるを得ない。文献学的証拠を示すことなく、師匠の近くに、下に坐ることを正しいと思い込む発想を、わたくしは受け入れない。
 ウパニシャッドが、近くに下に坐るということを、わたくしは一つの比喩として解釈する。東アジア文明、例えば、中国あるいは日本において最も高く評価されるのは人と人との関係である。しかし南アジア文明、例えばインド文明において決定的なのは事物と人間自身の関係である。それゆえに、ウパニシャッドによって示唆されるのは、師匠の足もとに弟子が坐ることではなく、人間が事物の近くに、下に人間自身が坐ることである。人間が師匠の近くに、下に坐るのではなく、事物の近くに、下に人間自身が坐ることを示すのは、ウパース(ウパーアースupa-as)という言葉である。ウパーサナ=ウパニシャッドという公式が認められれば、ウパニシャッドの基本的な意味は何かあるものに近づく、何かあるものを得ようと努力する、あるいは、何かあるものを熱心に求めることに他ならない。ある事物を他のものと同一視しようというのがウパニシャッドであり、本来的自己としてのアートマンを"熱心に求める知的認識行為"が初期のウパニシャッドにおける重要なテーマの一つである。初期の主要なウパニシャッドには、”ウパース"という語は少なからず見い出され、われわれは、ウパニシャッド=ウパーサナ説をテクストに基づいて証明できるはずである。
 ウパニシャッドは、事物の近くに、下に坐ることを意味する。それゆえに、ウパニシャッドは"秘密の教え"であるというよりも、ある事物を他の事物の下に従属されることを意味したに違いない。そして、事物の間に相関関係が成立するためには、事物の間にヒエラルキーという"階級序列"が存在しなければならない。ウパニシャッドは"階級序列"の上に築かれる思想のシステムである。ある事物を他の事物に従属させることはウパニシャッドの根底に横たわる価値のシステムである。あらゆる事物は相関関係に有り、事物の関係を支配するのは相互依存である。"より高い事物の近くに、下に坐ること"――それがウパニシャッドである。そして、ウパニシャッドの第一級の哲学者たちは、アートマンという名の本来的自己を"熱心に求めたの"のである。人間自身を事物と同一であると見なし、そして自己自身を事物と関連させること――それがインド的なもののエッセンスであり、ウパニシャッドそのものである。
 ウパニシャッドは"秘密の教え"であるという考えは、今日においては、もはや通用しない、古い学説である。初期のウパニシャッドにおいて師匠によって弟子に"秘密の教え"が授けられることを証明する箇所が全く存在しないからである。ブリハドアーラニヤカからマーンドーキヤ・ウパニシャッドに至るまで、師匠の近くに、下に坐るという意味でのウパニシャッドという語が用いられたケースは、ただの一度もない。それなのに、師匠の足もとに坐るという意味でウパニシャッドという語が語源解釈され、世界中、至るところで、ほとんど、すべてのインド学者は、今でも、ウパニシャッドを"秘密の教え"として理解している。わたくしはウパニシャッドとウパースを同義語と見なし、価値のある事物を熱心に求める行為をウパニシャッドの本来的意味であると解釈する。古代インドの人々は恭しく師匠に近づいたのではなく、彼らによって評価される事物に近づこうとした――このように、わたくしは考える。

 (ブラフマン=アートマン説の批判

 師匠が弟子に伝えた"秘密の教え"は、大宇宙の原理としてのブラフマンが小宇宙の原理としてのアートマンと同一であると見なされるべきである、と一般に信じられている。そして、ヴェーダーンタ学派においては"偉大な文章Mahavakya"という命題が有って、ヴェーダーンタにおいてはブラフマンと人間の自己アートマンの同一性が真理として認められている。我国においては、この真理は、"梵我一如"と名づけられる。"偉大な文章"の中で最も重要なのは、チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、第六章、8-16に見い出される、"タット・トヴァム・アシtat tvam asi"というリフレーンであろう。"タット"によって意味されるのはブラフマンであって、”トヴァム"によって意味されるのはアートマンである。それゆえに、タット・トヴァム・アシによって意味されるのは最高原理としてのブラフマンと人間の自己の同一性であるという真理である――このように多くの人によって信じられている。しかし、タットによってブラフマンが意味されないことは、文脈上、全く明白である。タット・トヴァム・アシという、リフレーンが含まれる全セクションにおいて、ブラフマンと言う語は見い出されないからである。もちろん、ウパニシャッドの注釈者シャンカラはタットによって意味されるのは"存在sat"であると言う.アメリカのインド学者、ブレレトンの言うように、タットは副詞としての機能を有する指示代名詞であり、"そのように"と解釈されるべきである。"トヴァム"は人称代名詞であり、父のウッダーラカは息子のシュヴェータケートゥを指して"トヴァム"と言う。"トヴァム"は、"お前"ないし"あなた"を指し示す。「お前は、そのようである」というのが、"タット・トヴァム・アシ"の真意であろう。少なくとも、チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、第六章に見い出されるtat tvam asi に関する限り、この偉大な文章は決してブラフマンとアートマンのの同一性(梵我一如)を示唆しない。このことは確実である。
 "偉大な文章"として知られるものの一つに「わたしはブラフマンであるaham brahma asmi」という文句がある。わたしahamという語によって意味されるのは"本来的な自己"(小宇宙の原理)、"ブラフマンbrahman”によって意味されるのは究極の実在(大宇宙の原理)である。それゆえに、「わたしはブラフマンである」という文章はブラフマン=アートマン説の公式として知られている。さて、「わたしはブラフマンである」という文句は、ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド、1.4.10に見い出される。そこでは、次のように述べられている――「ここには、最初、まことにブラフマンが存在していた。"わたしはブラフマンである"と言って、それは、まさにそれ自身を知った』と。"わたしはブラフマンである"という際の"わたし"は人称代名詞であり、文字通り、"わたし"を意味する。"わたし"によって示唆されるのはブラフマンである。「わたしはブラフマンである」と言って、ブラフマンは「まさに、それ自身を知った」のである。ここで用いられているアートマンは本来的自己ではなく、ブラフマン自身を指し示す。アートマンはここでは再帰代名詞にすぎない。このアートマンは、本来的自己を指し示さない。このことは明白である。
 全ウパニシャッドの中で最も哲学的に深遠なのは、ヤージニャヴァルキヤの思想であろう。彼の基本的な教えはブラフマン=アートマン説であろうか?ジャナカ王との対話において、ヤージニャヴァルキヤは次のように言う――「まことに、これが大いなる、まだ生まれていない自己である。それは老いることなく、死ぬことなく、不死であり、恐れを知らない――それはブラフマンである。まことに、ブラフマンは恐れを知らない。なぜなら、このように知っている人はブラフマンになるからである』と。一見、この文章はブラフマン=アートマン説を示唆する。しかし、ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド、第四章4.22―23のテーマはアートマンである。アートマンを見ることによって人は解脱するというのが、問題のセクションのテーマである。ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話は、第四章、4.23の文句[・・・わたしは、尊敬すべきお前にヴィデーハ、そして同時に、お前に隷属させるために、わたしさえをも与える]を以って終わっている。ドイツのインド学者、ハーネフェルトの言うように、「まことに、これが大いなる、まだ生まれていない自己である・・・なぜなら、このように知っている人はブラフマンになるからである」という文句[4.25]は、その直前の文句24と共にアートマン=ブラフマン説を信奉する編集者によって後から追加されたに違いない。ヤージニャヴァルキヤとジャナカの対話においてさえ、ブラフマン=アートマン説は存在しない。それに、大いなる、まだ生まれていない自己を、老いることなく、死ぬことなく、不死であり、恐れを知らないブラフマンと同一視するのは、きわめて不自然である。問題の箇所におけるブラフマンは、明らかにバラモン神学の概念、すべてを包括する、きわめて抽象的な究極の原理である。それは、いわば、"白紙の公式"と名づけられてよいであろう。ブラフマン=アートマン説は、初期のウパニシャッドに果たしてそんざいするであろうか?

 (3)ウパニシャッドの三大哲学者の教え

 ウパニシャッドを代表するのは、ヤージニャヴァルキヤ、およびウッダーラカである。彼らと並んで重視されるのはシャーンディリヤである。これら三人の古代インドの哲学者は、果たしてブラフマン=アートマン説を説いているであろうか ? チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、3.14.1―4において、シャーンディリヤはアートマン=ブラフマン説を説いている、と言われる。心臓の内部にあるアートマンはブラフマンである、そして人が死んだ時に、人はブラフマンになる――このように説明される。しかしシャーンディリヤによってアートマン=ブラフマン説が示唆されている、とは、わたくしは考えない。シャーンディリヤによって言われていることはあまりにも短く、そして曖昧である。たしかに心臓の内部にあるアートマンはブラフマンであると言われる。しかし、人は死後にブラフマンの中にではなく、アートマンの中に入るのである。
 シャーンディリヤによって教えられたのはアートマン=ブラフマン説ではなく、再生説に他ならない。そして人間の再生を決定するのは、生前における彼の意図kratuである.チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、3.14.1―4のテーマは"意図"である。そして、その際に、シャーンディリヤは人間自身の"自己"について語っている。この自己は一切を含み、微細なものであり、心臓の内部にある。このアートマンは、大地、大気、および天という三界よりも優れているjyayas。ジヤーヤスというのは、物理的により大であることではなく、質的により大であることを意味する。シャーンディリヤは極小であるアートマンを極大である事物と同一視したのではない。心臓の内部にある、わたくしのこの自己は大地よりも、大気よりも、天よりも優れているのであり、それは"この一切"をみずからの中に含んでいる――それが彼の言おうとしたことである。シャーンディリヤは、冒頭において「ブラフマンは、良く知られているように、この一切である」と語っている。心臓の内部にある人間のアートマンは、"この一切"をその中に含んでいる。アートマンが、"この一切"と同一であるべきはずがない。アートマンは、驚くべき能力を備え、きわめて微細である。そして、このようなアートマンが、ブラフマン、すなわち、"真理の公式"である。人は自己自身の意図を定め、死後に、驚異的な能力を有するアートマンの中に入るのである。シャーンディリヤは決してアートマン=ブラフマン説を教えていない。
 ウパニシャッド最大の哲学者、ヤージニャヴァルキヤの哲学説の中で最も重要なのは、ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話[ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド、4.3―4]およびヤージニャヴァルキヤと愛妻マイトレーイーの対話[4.5および2.4]である。ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話において共通のテーマであったもの――それはブラフマンではなく、プルシアないしアートマンであった。しかし、ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話のハイライトである箇所、4.4.22―23において両者が論じているのはプルシアではなくてアートマンである。ヤージニャヴァルキヤはアートマンについてだけジャナカに説明している。ヤージニャヴァルキヤによれば、人間の目標は"善悪のかなた"にあって、今、ここで解脱することである。ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話の根底にあるのは、アートマン=ブラフマン説ではなく、アートマンの認識によって解脱することである。人間の本質はアートマンであり、人間は、この一切をアートマンであると認識すべきである。彼らの対話において、アートマン=ブラフマン説は存在しない。中心的術語はアートマン[本来的自己]である。一切をアートマンとして見る人はブラフマンになるという表現において、ブラフマンによって実質的に何一つ意味されない。ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話には、アートマン=ブラフマン説は見い出されない。
 ヤージニャヴァルキヤとマイトレーイーの対話は二箇所に存在する。ハーネフェルトは、Aブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド、2.4.1―14[シャタパタ・ブラーフマナ、14.5.4.1.16]、Bブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッド、4.5.1―15と分けて考察する。そして、彼は、"アートマン・テクスト[A]、およびマハド・ブータム-テクスト[B]というふうに区別している。Aのテーマがアートマンであるのに対し、Bのテーマはマハド・ブータム(大いなる存在)である。しかしBにおいても、ヤージニャヴァルキヤはアートマンを話題にしている。ヤージニャヴァルキヤと愛妻マイトレーイーの対話において、アートマン・ブラフマン説は存在しない。ウパニシャッドのテクストを正しく理解するためには、われわれは、アートマン・ブラフマン説を信奉するシャンカラの解釈から解放されねばならない。一切はアートマンであるというのが、この夫妻の対話の結論である。
 チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、第六章は、第一部[セクション1―7]、および第二部[8―16]から構成されている。第一部の中心的な術語は、サットsat、三つの形態trini rupani、および思考/息/言語manas/prana/vakである。第二部の中心的術語の中で最も重要なのは、生命としての自己jivatmanである。第二部の結びの文句は、タット・トヴァム・アシtat tvam asiである。そして、タット・トヴァム・アシは、アートマンとブラフマンの同一性を示す文章として引用される。しかしタット・トヴァム・アシという文句は、『お前がそれである」という意味ではなく、「お前は、そのようである」ことを示唆する。チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、第六章の第二部における中心テーマは、微細なものであるジーヴァ・アートマン、あるいは同じことだが、生命力ないし生命としての自己が生きとし生けるものの核心であることである。そして、このことは、シュヴェータケートゥにも適用される、つまり、「お前は、そのようである」ということが、ここで例証されているのである。
 第一部の主要な教えは、三つの元素に関する教えである。しかし三つの元素に関する教えはアートマン=ブラフマン説から独立している教えである。すべての存在しているものは、火、水、食物という三つの元素に還元される。三つの元素に関する教えにおいて述べられているのは、ただこれだけである。そして、第一部、セクション2においてサット[存在しているもの]からの世界の生成が説かれている。「愛しいものよ!ここには、最初、存在しているものだけがあった」という言葉を以って、このセクションは始まる。存在しているものから、熱、水、食物が生じたと言われる。このセクションは、挿入されたものであるように思われる。サット、あるいは存在しているものによって何が意味されるか――それが問題である。それは、果たして不変的な、究極の実在なのであろうか? いや、相ではない。サットの中から熱、水、および食物が生じるからである。結局、サットからの世界成立を、わたくしはハーネフェルト流に、存在しているものは、生命としての自己によって三つの元素の中に入り、そのようにして個別的な生きもの[名称と形態]を創造するというふうに解釈せざるを得ない。もちろん、このサットはブラフマンではない。サットを、わたくしは無造作に"存在しているもの"と翻訳した。サットが何かは依然として不明である。
 ヤージニャヴァルキヤ、ウッダーラカ、およびシャーンディリヤは、初期のウパニシャッドを代表する哲学者である.しかし、彼らはアートマンとブラフマンを同一視して、いわゆる"梵我一如"を説いていない。わたくしの関知する限り、彼らによって説かれるのは本来的自己である。シャーンディリヤの場合には、彼の哲学の中心的テーマは再生の種類を決定する"意図"である。しかし、彼によって言及されるアートマンは、一切を含む、きわめて微細なものである。それは、心臓の内部に見い出される。このアートマンを、彼はブラフマンと呼ぶ。しかし、シャーンディリヤによって発見されたのは、驚異的な能力を有するアートマンである。チャーンドーギヤ・ウパニシャッド、第六章の第二部において中止的な位置を占めるのはタット・トヴァム・アシという文句である。しかしタットは"ブラフマン"を意味しない。ウッダーラカによって説かれるのは、微細なものを本質とする生命としての自己、あるいは、死ぬことのない生命そのものである。そして、そのような生命力は、決して形而上学的な概念ではなく、死ぬことのない生命という、きわめて素朴なコンセプトである。それはアニミズムの視点から考察されるできである。
 ヤージニャヴァルキヤと愛妻マイトレーイーの対話においてキーワードと見なされるのは、アートマンである。この対話においてヤージニャヴァルキヤによって語られたのはアートマンについての教えであり、この対話の中に"ブラフマン"という術語は一度も現われない。ヤージニャヴァルキヤとジャナカ王の対話においても全く同じである。結局、初期のウパニシャッドにおいてアートマン=ブラフマン説は重要な役割を果たしていない。たとい、ブラフマンという語がテキストに用いられているとしても、この言葉は術語として用いられていない。初期のウパニシャッドの中にブラフマン=アートマン説を読みいれることは、私見によれば、きわめて浅薄であると言わざるを得ない。なぜ、圧倒的に多くのインド学者は、アートマン=ブラフマン説を真理として受け入れて来たのであろうか? シャンカラのウパニシャッドについての視点を、彼らは受け継いだに違いない。ヴェーダーンタの基礎としてのアートマン=ブラフマン説が、初期ウパニシャッドの基本的な教えとしてシャンカラによって認められたのである。われわれは、今や、シャンカラの解釈から解放されるべきである。

 (4)自己自身の探求

 初期ウパニシャッドの中心思想を、圧倒的多数のインド学者は"秘密の教え"の中に見い出した。弟子たちは師匠の近くに、下に坐って、師匠から大宇宙の原理としてのブラフマンと小宇宙の原理であることが同一であるという、"秘密の教え"を授けられる――これが学会の定説である。このような定説は、色あせた現代の神話であろう。ウパニシャッドによって意味されるのは師匠の足もとに坐ること、あるいは師匠からブラフマン=アートマン説を授けられることではない。事物の近くに、下に坐ること――それがウパニシャッドである。人間は自己自身を事物と等しいと見なし、事物と自己自身の間に相関関係を見出そうと努力する。このような努力は事物を"熱心に求めること"であり、事物を"認識しようとすること"である。ウパニシャッドにおいて最も重要なのは、人間自身である。アートマンという言語によって意味されるのは"自己"である。自己とは何か? 自己とは"身体"であり、身体の有する欠くべからざる力、および身体の、もろもろの機能である。人間にとって認識のプロセスも重要である。そして、人間存在の本質的な核も自己である。プラーナを始めとする五つの息、視覚、聴覚などの五つの感覚器官、思考などあるいはプルシアと呼ばれるもの――これらは、すべて、自己と深いかかわりを有し、ウパニシャッドにおいて論じられている。人間自身、つまり、"自己"がインド思想の中心的な関心である。
 アートマンatmanは優れて身体である。しかし、それは死体であるよりもむしろ生きている身体である。それは呼吸をしている身体である。しかし、それは単なる身体であるだけではなく、同時に精神的な自己、あるいは人間の内部に見い出される自己でもある。人間の内部に見い出されるアートマンは人間の最も内奥の核であり、本来的自己と名づけられるべきものである。しかし、それは単なる再起代名詞、"自己自身"としても理解される。しかし、歩行、排泄、射精、呼吸、話すこと、考えることなども、五つの感覚器官の作用と共に、アートマンと結び付けて考えられる。呼吸すること、考えること、話すこと、見ること、および聞くことという五つの感覚器官は、"プラーナprana"と呼ばれる。それらの中で特に重要なのは呼吸することである。幾つかのウパニシャッドは、呼吸あるいは息を生命そのもの、あるいはアートマンとさえ同一視する。プラーナ[吐き出される息]、アパーナ[吸い込まれる息]、ウダーナ[上へ行く息]、ヴィヤーナ[アパーナとプラーナの間にある息]、およびサマーナ[等しくする、あるいは連結する息]はウパニシャッドにおいて詳しく扱われている。
 ウパニシャッドにおいてアートマンが探求されるようになった。思想史的にアートマンの探求は決定的に重要である。アートマンは自己である。そして、この自己は、さまざまに解釈される。自己は、自己の身体であり、自己自身であり、本来的自己であり、超現象的自己である。それは、身体に固有の性質あるいは機能を具え、認識するという作用さえ、アートマンには欠けていない。アートマンは"自己"である。そして、人間の自己は創造者でさえある。
 しかしアートマンを発見すること自体がウパニシャッドではない。自己自身と事物の間に隠されている関係、ないし関連を発見することがウパニシャッドである。ウパニシャッドは師匠の近くに、下に坐ることではなく、事物の近くに、下に坐ることである。つまり、自己自身と事物の間の相関関係を見い出そうと努力することが、事物を"熱心に求める"ことに他ならない。儀式、外界の事物、およびアートマンを相互に結び付けている関係を見い出すこと――それがウパニシャッドである。宇宙は一つの全体、関係のネット・ワークであり、孤立しているように見える事物は、現実には、相互に結び付けられ、相関関係の状態、相互依存の状態に置かれている。しかし、関係のネットワークは普通の人間の視界から隠されている。隠されている関係のネットワークを発見するのは"知識"であり、そして"認識"である。
 人間の自己と事物の間の相関関係を知ろうという努力――それがウパニシャッドである。ウパニシャッドというのは、師匠の近くに、下に坐って、師匠からアートマン=ブラフマン説という"秘密の教え"を授けられることだという古い解釈を、わたくしは拒絶せざるを得ない。ウパニシャッドは"等価"の教えであり、"関連"の教えである。
 ウパニシャッドは、近くに、下に坐ることであり、当然、ある事物を他の事物に従属させることを意味する。ウパニシャッドの"関連"は階層的に配列され、それゆえに、階層的に連結している宇宙の頂点に立っているものの探求がなされるべきである。そしてサミットにあるのは人間のアートマンである。人間のアートマン、あるいは人間の身体/自身を知ることは、一切を知ることであり、一切の相関関係を知ることである。あるものを他のものとして"瞑想する"というのは、それら二つの間に横たわっている関連をウパースupasするということである。"瞑想する"とわたくしは翻訳したけれども、ウパースの基本的な意味は、"何かあるものを得ようと努力すること"、あるいは、"何かあるものを熱心に求めること"である。事物の関連を知る人は、その関連が認められる事物と彼自身を同一であると見なすはずである。ウパニシャッドは、あるものと他のものの間の等価である。最も価値の高いウパーサナは事物と自己自身[アートマン]の間に横たわる、隠されている関係を認識する行為である。初期のウパニシャッドにおいて最も熱心に探求されたのはアートマン、すなわち、人間自身であった。アートマンとブラフマンを同一であると見なすことではなく、事物と人間のアートマンの相関関係を発見することであった――このように、わたくしは考える。人間は、万物の一部である。いや、万物のセンターである。そして、万物のセンターであるものは人間自身[アートマン]であり、このアートマンを知る人は事物のネット・ワークを知っている人である。このように瞑想する人、このように知っている人――彼は、この世において力、富および名声を獲得するようになる。ウパニシャッドにおける最大の関心は、人間存在、人間の自己に他ならない。

    ―― ・――・――

 初期ウパニシャッドの中心的なテーマはアートマンとブラフマンの同一視[梵我一如]であるという学界の"定説"に対して、わたくしは否定的である。ウパニシャッドを代表する三人の大哲学者によっても例証されるように、初期のウパニシャッドの最大の関心は人間自身である。アートマンが"この一切"あるいは宇宙と同一視されるのがウパニシャッドの世界ではない。ウパニシャッドの世界においては、この一切、あるいは世界はアートマン、すなわち人間自身によって創造されるのであり、人間自身によって形成されるのである。外界も内界も、等しく人間自身によって作られ、人間自身をそれの本質としている。身体は生きているのであり、アートマンは人間の心臓に宿る。しかしながら、ウパニシャッドにおいて、アートマンは、見ること、あるいは、知ることと結び付けて考えられるようになった。見ること、あるいは、知ることは、変化しないこと、ないし生成しないことを示唆する。このようにして人間自身は生成しない何かあるもの、存在、あるいは純粋意識と見なされるに至った。
 ウパニシャッドupanisadという、この一語の中に、古代インドの哲学思想のすべての内容が、いわば、凝結されている。ウパニシャッドとは何か? われわれは、それを確かめねばならない。ウパニシャッドは、師匠の近くに、下に坐って師匠から秘説を受動的に授けられ、あるいは知識を恵まれることなのか、それとも、人が主体的に、積極的に認識することを欲する精神的営為、生産的活動なのであろうか?』

 湯田氏は「ウパニシャッド ―翻訳および解説―」(大東出版)の序文に『インド思想をを理解する上で最も重要な文献の一つはウパニシャッドである。いや、ウパニシャッドほど重要なテクストは存在しない。ウパニシャッドを知らないで、古代インドを理解することは不可能である。ウパニシャッドはヒンドゥー教のルーツであり、きわめて重要なヴェーダの聖典である。輪廻転生、カルマンの法則、解脱、超現象的なアートマン、あるいはヨーガのテクニーク、欲望の否定などという概念は、ウパニシャッドにおいて形成され、そして発展したのである。インド的一神教あるいは唯一の神に対する献身的な愛の思想も、ウパニシャッドにそのルーツを有する。』と述べています。
 そして、同書のブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの解説で湯田氏はこう言っています。『要するに、ウパニシャッドは古代インドの哲学書であると同時に、古代インド人の心理を反映しているドキュメントでもある。ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの冒頭において「オーム! 祭祀に適した馬の頭は、まことに曙である」と言われているのは示唆的である。祭祀に適した馬が"この一切"、すなわち、全宇宙と同一であると見なされるというのは、何を意味するのであろうか? ウパニシャッドにおける真のテーマは人間に他ならない。身体、身体のもろもろの機能、認識のプロセスあるいは人間そのもの――要するに、人間がウパニシャッドにおける中心的な関心である。他のウパニシャッドにおけると同様、ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの底流は、ブラフマンないしアートマンというような抽象的なアイデアであるというよりも、むしろ人間自身、"肉と血"を具えた生身の存在ではなかろうか? ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドは実に人間の思想のドキュメントとして理解されるべきである。』
 さらに、湯田氏はチャーンドーギヤ・ウパニシャッドの解説ではこう言っています。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド第六章においてウッダーラカによって教えられているのは、ヤージニャヴァルキヤの場合と同じようにアートマンである。ウッダーラカはブラフマンについて、全く言及していない。しかし、ウッダーラカによって説かれるアートマンは、本来的な自己というよりも、むしろ"微細なもの”、あるいは、われわれの肉眼によって認められない生命ないし生命力として理解されるべきであろう。ウッダーラカによって説かれたアートマンは、決してブラフマンを意味しない。タット・トヴァム・アシtat tvam asiという、ウッダーラカの文句におけるタットがブラフマンを意味しないことは明白である。ウッダーラカのタット・トヴァム・アシの真意が何か?――そのことを確かめるためにも、読者はこのウパニシャッドの第六章を注意深く読むべきであろう。』
 ウパニシャッドというと、すぐに哲学であると考え、ヤージニャヴァルキヤ、ウッダーラカを考え、梵我一如を考えていました。はっきりいえば、この湯田氏の解説を読むまでは、ウパニシャッド=ヤージニャヴァルキヤ・ウッダーラカの哲学と思い、ブラフマンとアートマンについての思索であると思っていました。つまり、二大哲人の章以外は無視していたのです。
 しかし、漠然とですが、ウパニシャッドを純粋な哲学書であると考えると、ウパニシャッドがヴェーダの最後尾にあり、ヴェーダに付属している意味がないのではないか、という疑問を持っていました。ブラーフマナは、解説書によれば、ヴェーダの祭式の理論的説明補強というように考えられますが、ウパニシャッドを哲学と言ってしまうと、ヴェーダ(やブラーフマナ)の祭式との関係が分からなくなってしまっていたのです。
 しかし、湯田氏の「あとがき」「序」「解説」を読むと、ヤージニャヴァルキヤ・ウッダーラカの哲学も、実は、ヴェーダの祭式の延長上で思索を続けているらしいことが読めるように思います。

 そして、私にとって最も肝心なのは、ウパニシャッドの思想そのものではなくて、ゴータマ・ブッダ当時、誰がどの程度に、ヴェーダ・ブラーフマナ・ウパニシャッドの体系を身につけていたのか、信奉していたのか、そして、ゴータマ・ブッダは、この体系の何を取り入れ、何を否定したのか、その理由と共に知らなければならない。


 また、中村元氏の「原始仏教の生活倫理」(春秋社)の第一章に次のような文があります。
 
 『仏教の興起する以前のインドにおいては、なお呪術的なものが支配していた。バラモン教全体についてもそのように概括していうことができる。そこで独立の哲学的思索を徐々にめざしていた人の思想の集録であるウパニシャッド聖典においては、呪術的なものからの離脱をめざして真実の自己(アートマン)を把捉すべきことを強調していた。しかし具体的な倫理については、体系的な思想はほとんどなにごとも説かれていない。ただ散説されている(原注:タイッティリーヤ・ウパニシャッドの三つの章の第一である、シークシャー・ヴァリーsiksavalliを挙げている)だけである。』
(中村氏の原注で言うシークシャー・ヴァリーの倫理思想とは、シークシャー・ヴァリーの最後の方にある次のような記述部分を指しているのだろうか。出典:湯田豊訳「ウパニシャッド―翻訳と解説―」(大東出版)の、「3 タイッティリーヤ・ウパニシャッド」です。

 『ヴェーダを読誦したあとで、師匠は弟子に教える――真理を語れ! 法を守れ! ヴェーダの学習を怠るな! 師匠のために大切な贈り物を持って来たあとで[結婚して]子孫を絶やさないように!
人は真理を無視すべきではない。
人は法を無視すべきではない。
人は健康を無視すべきではない。
人は福祉を無視すべきではない。
人はヴェーダの学習と読誦を無視すべきではない。
人は神々および祖先に対する儀式を無視すべきではない。
母を神のように敬え!
父を神のように敬え!
師匠を神のように敬え!
客を神のように敬え!
他の行為ではなく、全く欠点のない行為――それらの行為が実践されるべきである。他の行状ではなく、われわれの間の良い行状――それらの行状は、お前によって行なわれるべきである。われわれよりも優れているバラモンに、お前は座席を与え、彼らを休息させるべきである。
信頼を以て人は与えるべきである。
信頼することなく人は与えるべきではない。
威厳を以て人は与えるべきである。
恐れを以て人は与えるべきである。
了解を以て人は与えるべきである。
しかし、お前にとって行為に対する疑惑あるいは行状に対する疑惑が存在するならば、その事柄において判断力のある、法を愛し、経験豊かで、資格のある、しかも優しいバラモンが存在すべきである。その事柄において彼らが行動するように、その事柄においてお前もそのように行動すべきである。さて、中傷されている人々に関して――その事柄において判断力のある、法を愛し、経験豊かで、資格のある、しかも優しいバラモンが存在すべきである。それらの事柄において彼らが行動するように、それらの事柄において、お前もそのように行動すべきである。これが置き換えadesaである.これが教えupadesaである。これが、ヴェーダのウパニシャッドupanisadである。これが、教訓anusasanaである。このように、人は瞑想すべきである。このように、これは瞑想されるべきである。』
仏教の思想的土壌  ヴェーダ
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