| 時 | 遊 | 人 | Bohemian soul | 3 F | series 1 |
| 十二支物語 (1) |
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| @ 「えと」の秘密=十干と十二支 |
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今年は西暦では二○○六年。 年号(=元号)では平成一八年。 干支では丙戌(ひのえいぬ・音読みなら「へいじゅつ」)となる。この「西暦」 |
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も「元号」も「干支」もすべて紀年法の一種である。 「紀年法」とはある年を基準にして年を数えていく方法である。その基準になる年を「紀元」 |
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と呼ぶが、たとえばキリストの生誕年を基準にしているのが西暦 (キリスト紀元)である。 従って、釈迦の没年や孔子の没年を紀元としたもの(仏 |
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滅紀元・孔子紀元)、ローマ建国を紀元としたもの (ローマ建国紀元)、など様々な紀年法のバリエーションがありえるわけである。 一方、年号 |
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は中国、朝鮮、ベトナム、日本など、主として中国文化の影響下にあった東アジアの漢字文化圏で伝統的に用いられてきた紀年法の一種で |
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ある。 皇帝や天皇の即位などに際して新しい元号が定められ、その年 (=元年)を基準にして年を最初から数えなおす、 というのが年号紀年 |
| の大きい特徴である。 |
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さて三番目の干支であるが、これは十干と十二支を組み合わせた紀年法である。 |
| 十干はもともとは古代中国で用いられていた一から十までの順序を表す序数の一種であった。 「 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 」 の十 |
| 種類の漢字で書き表わされる。 古代中国では一○日周期で日が循環すると考えられていたが、その各々の日に 「甲・乙・丙・丁…」と名を付 |
| けたのが十干の起こりであるとも言われている。(日数を十日で一まとまりとしてとらえる感覚は、月を十日毎に上旬・中旬・下旬と分ける現代の |
| 習慣の中にも生きている。) この十干は中国古来の五行思想と組み合わされて暦として用いられるようになった。 五行思想とは簡単に言えば |
| 宇宙は 「木・火・土・金・水」の五つの成分 (「もく・か・ど・こん・すい」と早口言葉のように唱える) によって構成されている、という世界観である。 |
| 五行と十干、つまり五個と十個の要素の組合せであるから、十干を二つずつにまとめて区切って五行の 木・火・土・金・水 をそれぞれ割りふった |
| わけである。( → 図参照 )この暦法は推古天皇の時代に日本に伝えられたが、日本ではさらに陰陽思想 (すべてのものは陰と陽の二 |
| つに分類できるという思想)と結びついて十干をそれぞれ陽と陰の二つに分類し陽を「兄」、陰を「弟」と呼ぶようになった。 「兄」は「え」 |
| と読み「弟」は「と」と読む。 中大兄(なかのおおえ)皇子は大海人皇子の「兄」である。 「弟」は「おと」とも言うが男女を問わず年下を表 |
| す語である。 浦島太郎が竜宮城で会ったのは乙姫(弟姫)である。( ただし、浦島太郎の乙姫は単に 「若く美しい姫」 の意味であると |
| 思われるが、もともとは妹の姫を表す語である。 姉の姫を意味する 「兄姫(えひめ)」という語もある。) 十干を五行の「陽」 (=「兄」)と |
| 「陰」(=「弟」)に分けると意味の上では「木の兄」「木の弟」「火の兄」「火の弟」…ということになる(「金の兄」は「かのえ」「金の弟」は「かのと」 |
| と読む )。従って、十干を意味意味に従って読めば、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かの |
| え)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)ということになる。 このことからも分かるように「兄」と「弟」を一まとめにした「えと」という |
| 語は、本来の意味では十干を指す語であったが、現代では十二支を「えと」と呼んでいる。 ( 十干と十二支を組み合わせた 「干支」 も |
| 「えと」 と読みならわされている。 ( → 後の「干支」の項・参照 ) |
| 五行と十干との相関関係を図にまとめると次のようになる。 |
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一方、十二支は古代中国の天文学から生まれたものである。最も神聖な星と考えられていた木星が十二年間で天球を一周するところから天 |
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球を十二分割し、その順番示す記号が十二支であった。 十二の周期が一年の月数とも一致するところから十二支で月を表わしたり、 さらに時 |
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刻や方位を示す記号としても利用されるようになった。 また、十干と組み合わせて六十年を一周期とする暦として年月日を数えるためにも利用 |
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された。 これが、いわゆる「干支(=六十干支)」である。十二支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の漢字で示されるが、その起 |
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源からも分かるように本来は順序を示す記号であった。各文字に動物を当てはめているのは暦を覚えやすくするための工夫であったとも言われて |
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いる。 現代では年賀状のデザインに登場する時ぐらいしか出番のなくなった十二支であるが、 かつては年月日、時刻、方位など日常生活の基 |
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礎システムとして重用されていたのである。( 音読みする時は次のように読む→ 子し・丑ちゅう・寅いん・卯ぽう・辰しん・巳し・午ご・未び・申しん |
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酉ゆう・戌じゅつ・亥がい 。ついでに付け加えると十干の「干」は「幹」の意味であり十二支の「支」は「枝」の意味でもあり、「幹」と「枝」が対比され |
| ていることになる。 さらに「日本昔ばなし」風の余談を一つ二つ…。 十二支に動物を当てはめる時は 「子(鼠)、丑(牛)、寅(虎)、卯(兎)、辰 |
| (龍)、巳(蛇)、午(馬)、未(羊)、申(猿)、酉(鶏)、戌(犬)、亥(猪)」 となる。身近な動物もあるが架空の動物もある。犬はあるが猫はない。 |
| 昔話の常連である狐や狸は出てこない。 なぜ鼠が十二支の一番に置かれているのだろう …。 ある時、神様が動物達に「元日の朝、集まるよう |
| に。早く来た者から順に十二支にと入れてあげよう」とお触れをお出しになった。 生真面目で足の遅い牛は集合時間に間に合うように他の動物 |
| より早く家を出た。ちゃっかり者の鼠は牛の背中に乗って行き神様の前に着くとサッととび降りて見事、一番乗りを果たした。それ以来、鼠は十二 |
| 支の一番に座ることになったのである。 神様は鼠の悪知恵に気がつかなかったのか、すべてを知った上で寛容であったのか、その真相は不明であ |
| る。鼠について、エピソードをもう一つ …。 集合時間を忘れてしまった猫は鼠から二日の朝だとウソの時間を教えられる。 鼠のおかげで遅刻した |
| 猫はもちろん十二支に入れてもらえなかった。猫はこの時の恨みが忘れられずに今もしつこく鼠を追い回しているのである。この場合はだました鼠 |
| 悪いのか、時間を忘れた猫の自己責任か。読者諸氏の裁定はいかが? |
| (ところ変われば…。 チベットやベトナムやタイの十二支には猫も含まれているそうである。) |
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A 甲子園球場が出来たのはいつ?=干支と年表 |
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「干支」についてもう少し詳しく見てみよう。 十干と十二支を「甲」と「子」、「乙」と「丑」というように十干と十二支の奇数番と奇数番、偶数番と |
偶数番を順に組み合わせていく。この方法で十干と十二支を順に組み合わせていくと計六○通りの組合せが生まれる(一○と一二の積の一二 |
○通りではなく、最小公倍数の六○通りの組合せとなる )。 従って「干支」は六○年を一周期とする暦ということになり、別名六十干支ともよば |
れる。いわば六○年カレンダーである。年号紀年では新しい年号 (元号)が定められるたびに、また一年から数えなおすことになる。たとえば 「大 |
宝律令」で知られる「大宝」という年号は三年で終り、「和同開珎」で知られる「和銅」は七年で終わっている。 しかし、干支は六○年周期で切 |
れ目なく連続していくので、 起点さえはっきりすれば歴史年表の上のどの重大事件の年月日も正確に特定することができる。 干支が歴史的事 |
項の名称として使われている例は日本史や世界史の舞台のあちこちに多数顔を出しているが、 中でも日本史でおそらく最も有名な例は「壬申 |
(じんしん)の乱」であろう。これは「壬」の「申」の年に起った乱であることから命名されたものである。この「壬申」の年は西暦では六七二年に当た |
る。 他にも「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(「庚」「午」の年に作られた最古の戸籍。 この 「庚午」 は西暦では六七〇年に当たる ) 「戊辰(ぼし |
ん)戦争」( 「戊」「辰」の年、明治政府軍と旧幕府軍との間に起った一連の内戦。西暦では一八六八年、年号では慶応四年に当たる)などの |
例が思い浮かぶ。世界史では( と言っても、それは当然、中国では、ということになるが)「辛亥(しんがい)革命」 (「辛」「亥」の年・一九一一年、 |
中国で起こった革命。孫文が中心的役割を果たした)や「戊戌(ぼじゅつ)の変」 (清朝末期の「戊」「戌」の年・一八九八年に起った政変 ) な |
どがよく知られている例と言えよう。干支は、他にもたとえば「甲子園球場」の名前の中にも顔を出している。 球場が完成したのが「甲」「子」の年 |
であったところから「甲子園球場」と名付けられたのである。一九二四年・大正一三年のことである。 文芸作品の名前にも干支は出て来る。芭 |
蕉の「野ざらし紀行」は「甲子吟行(かっしぎんこう)」の別名で呼ばれることもある。 芭蕉が旅立った一六八五年・貞享元年はが 「甲子」 の年で |
あったからである。 また平戸藩(長崎県)の藩主であった松浦静山は随筆「甲子夜話(かっしやわ)」を残している。 書名は一八二一年・文政 |
四年一一月一七日の夜に執筆を始めたことに由来している。その日が暦の「甲子」に当たっていたからである。これは干支が日付けも表わすこと |
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を示している例である。二つの作品では、いずれも「かっし」と読みならわされているが、書名に含まれる「甲子」の文字は干支による年や日の表し |
| 方に基くづものである。 |
われわれの身の回りにも干支を名前に冠したものをいくつか発見できるはずである。十二支がもっと生活に密着していた時代には、人名にも十 |
二支が多用されていた。 たとえば瀬川丑松 (島崎藤村「破戒」の主人公)、寺田寅彦 (物理学者。漱石の友人。 「天災は忘れた頃にやって |
くる」の名言は彼の言葉だとも言われている。)、堀辰雄 (作家。「聖家族」「風立ちぬ」など。) 車寅次郎( ご存知、フーテンの寅さん)、伊東甲 |
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子太郎 (新選組参謀。本名は鈴木大蔵。 新撰組に入隊したのが甲子の年であったことから甲子太郎を名のった。)……。挙げればきりがない |
| ほどである。 かつては「 丙午」生まれの女性は夫を食い殺す、などという俗信が幅をきかせていた時代もあった。 |
| 蛇足をさらに二つ、三つ…。十干十二支は六○年で一巡し、六一年目に元にもどるので数え年六一才を 「還暦」と呼んでいる。 かつては六 |
| 一才は長寿であったので還暦は盛大に祝われたものである。 他にの年齢の呼び方としては「論語」を出典とする 「志学」 (一五才・「吾十有五 |
| しにて学に志す」) 「而立」(三○才・「三十にして立つ」) 「不惑」(四○才・「四十にして惑わず」)「知命」(五○才・「五十にして天命を知る」) |
| 「耳順」 (六○才・「六十にして耳順う」)などがある。 「古希(=古稀)」(七○才・杜甫の詩の中の一節「人生七十古来稀なり」から) 「喜寿」 |
| (七七才・喜の略字が七、十、七の組合せになるから) 「傘寿」 (八○才・傘の略字が八+十となるから) 「米寿」 (八八才・米の字が八、十、 |
| 八に分解できるから) 「卒寿」 (九○才・卒の略字は卆となるから)、「白寿」 (九九才・白は百の字から一を取り除いたものであるから) 「茶寿」 |
| (一○八才・茶の字が十、十、八十、八に分解できるから)など、ちょっとなぞなぞのようなものまで並んでいる。 |
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「古典の回廊」 次回は 「十二支物語(2)」 です。 |
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