3日(火)『パソコンで森暮らし』荒川じんぺい著 光文社

 荒川じんぺいさんを知ったのは、つい最近です。NHKBSの『週刊ブックレビュー』という番組の「おすすめの一冊」のコーナーに、ゲストで出演されていたのを見て、自然体でそれでいて知的なおじさま、という第一印象をもちました。装幀家、流木造形家、エッセイストということだけど、美術系のお仕事の方には、とっても憧れてしまいます。私も、絵や版画なんかで自己表現できたらなあ、ってできもしないのに時々思ったりしてね。「ものづくり」っていいですよね。その番組で、荒川さんは、緑色のジャケットにオレンジ色のシャツ、奇抜な幾何学模様のネクタイをとってもすてきに、渋く、着こなされていました。

 で、肝心の本の内容は、題名のとおりです。パソコンさえあれば、どんな辺鄙な所にいてもOKですよね。私も、年を重ねていくと、大自然の中での暮らしに憧れないでもないけれど、車運転できないからなあ。やっぱりいろいろと不便ですね。それに、土いじりも大の苦手だし。でも、「何もしないで1日寝転がっていようと思ったのだが、風で落ちた唐松の三メートルほどの枝を見ていたら、工作の意欲がわいてきてしまった。枝元が直径五センチほどあり、長さ六〇センチに切り玄関に置く靴ベラと、その靴ベラを立てる台を作った。長い靴ベラは、ほとんど立ったまま靴が履ける」という生活は、やっぱりよいなあ。

 この本には、森でのパソコンライフを日記形式で書いてあるけれど、とってもわかりやすいパソコンの実用書でもありますね。強制終了で消えたデータの復活法や等幅フォントのことなどなど、以前から疑問に思っていたことが、簡潔に説明してありました。

 それにしても、このカッパ・ブックス、何十年ぶりに読んだかなあ(年がばれちゃいますね。ムムム・・・・)。


6日(金)『ホンモノの文章力』樋口裕一著 集英社新書

 最近(というか、ここ数年)、書店で目にする小論文の問題集は、樋口裕一さんのものが多いですねえ。別に、彼のものを選んで手にとっているわけじゃないのだけど、これがよいみたい、と思って買ってみたら、樋口さんのものだったという感じです。

 大学入試に小論文なるものが出現したしたのが、今のセンター試験の前身にあたる共通1次試験(の2次試験だけど)が始まってから。それまでは、全ての大学が個別試験だったのですよ。若い人はわかんないだろうけど。この共通1次試験が始まったのが、なんと、私が大学入試を受けた次の年からなのです。

 私は、国文科でしたから、1年後輩の者たちからは、小論文の洗礼を受けて入学してきていました。で、私は、大胆不敵にも、コンパの席で、国文科の教授に「小論文って、どういうふうに採点するんですか。出来のよしあしって、わかりにくいかと思うのですが」みたいなことを質問したのであります。返ってきた答えは一言。「いいものはいい、悪いものは悪い」でした。当時は、なんだかはぐらかされたような気になったものですが、今考えると、ごもっとも!

 これも、学生時代の話なんだけど、教養の講義で(何の科目だったかは忘れてしまいました)、「今度入学してきた1年生たちは、小論文の勉強をしてきているから、どんなレポートを書かせても、一見そつのないうまいものを書く。しかし、よく読んでみると、論文の体裁をとりつくろっているだけで内容がない」と言われました。で、私たちは、それからいばって、彼らのことを「新人類」と呼んだのです。弁舌巧みだけれど、実は、人間的な深みがなくて、軽佻浮薄とか何とか言っちゃってねえ。うー、お恥ずかしい。

 で、話はどんどん脱線するのだけど、2、3年前だったかなあ、子どもの高校の保護者会に行ったときのお話。その学年は、20代の先生が多くって、学年主任の30代半ばの先生が、「私は共通1次世代です」と、いかにも古い世代の人間だあ、みたいなことを言われたのです。私は、心の中でひそかにつぶやきましたよ。「私たちは、あんたたちのことを『新人類』って呼んでいたのだよ」ってね。ほんと、あのときばかりは、歳月の流れの早さを痛感させられましたね。

 そんなこんなで、肝心の本のお話なんだけど、この本を読んだからって、いきなり「ホンモノの文章力」がつくようになるわけじゃありませんよ。もちろん。でもね、小論文のテストまであと1ヶ月もない、とか、1週間のうちに大学の志望動機書(もしくは、自己推薦書)を提出しないといけない、という方々には、お勧めかもしれませんね。


8日(日)『結婚の条件』小倉千加子著 朝日新聞社

 心理学を専攻され、医学博士でもある小倉千加子さんは、ある本(『ザ・フェミニズム』筑摩書房)の著者紹介によると「日本で一番芸のあるフェミニスト」だそうです。

 この本には、日本の少子化の原因を女性の晩婚化にあるとして、で、なぜ彼女たちは結婚を急がないのか、彼女たちのこだわる「結婚の条件」とは何か、を芸能人や女性誌をひきあいにだして、小気味よく語ってゆきます。若い女性の「結婚の条件」について書かれているんだけれど、「時代を斬る」っていうかんじで、現代という時代を語ってあるので、女性問題や少子化対策なんかにあまり興味のない人でも、おもしろく読めてしまいますよ。

 「なるほど、ごもっとも!」って思いながら読んでたんだけど、ひとつだけ「違うかなあ」と思ったのは、『VERY』という雑誌の表紙を飾っている三浦りさ子さんのこと。彼女の夫は、言わずと知れたJリーガーの三浦知良さん。この雑誌の読者層は「白金や二子玉川や芦屋に住み、夫の金で消費と社交に明け暮れる三十代前半」のママたちです(だから、私はこの雑誌を読んだことがない)。このママたちは、りさ子さんのテイストや生き方に憧れているわけですが、ほんとのところは、りさ子さんとて働く主婦のひとりでしょうね。

 わが家のハイティ−ンの息子たち、まだかわいい小学生だったころ、三浦知良さんに憧れてサッカーを始めました。「オーレ、オレ、オレ〜♪」って歌いながら、あのころのサッカー少年の目標は、みんな三浦選手だったよね。歌手の田原トシちゃんと友人で、相撲の若貴兄弟とも親交のあった彼は、どんな芸能人より輝いていました。そんなとき、3角関係の勝利者となって三浦選手の妻の座をゲットしたのが、りさ子さんです。その後、年齢的なこともあり、三浦選手、ぱっとしませんね。岡田監督から日本代表から外されたあたりからどんどん下り坂です。でも、Jリーグで現役選手として今でも頑張ってる。きっと彼は、自分からサッカーをとったら何も残らないことを知ってるんでしょうね。それはとってもすてきなことなんだけど、家計はたいへんだと思うのです。サッカーは、プロ野球みたいにお金にならないとも聞きますし。だから、それまでの生活レベルをキープしようとしたら、りさ子さんが働くしかなかったのじゃないかなあ。

 ほら、最近、ピンクレディーが復活しましたよね。あれほど再結成を拒んでいたケイチャンが、結婚したとたんなぜ?って思ってたんだけど、ケイチャンの夫の会社が倒産という記事を見て納得。もしかして、彼女もダメンズウォーカー?

 ま、その件は、ポイと向こうに置いておくことにいたしまして、この本に書かれていることでいたく感動したところを2箇所ばかり。

 「東大を出ても、一橋を出ても、いくら勉強ができても、そのことで人は自由になることはできない。十八歳の時の頭の良さで一生が決まるのではない。三十歳の時に賢いかどうかがよほど大事なのだ」〜なるほど!私って、三十歳の時何してたっけ、と考えてしまいました。

 「女はギャグの『受信機』でなければならないが、『発信機』になってはいけない」〜ギャー!知らなかったなあ。今さらそんなこと言われても・・・・。常に発信してました(今もね)。

 ま、そんなこんなでなかなおもしろい本でした。


11日(水)『鬼哭啾啾』辛淑玉著 解放出版社

 韓国籍を持つ在日三世である作者の個人史。「国家と国家のはざまに翻弄された在日朝鮮人の個人史」です。

 2002年の9月に、日朝会談が開かれ、北朝鮮による日本人拉致が判明しました。それから1ヶ月後、拉致被害者5名が帰国されました。その被害者の方々は、私と同年輩の方ばかり(そして、この本の作者の辛淑玉さんとは、同じ年の生まれです)。私が青春時代を謳歌していたころ、北の海では、あのような悲しい出来事が起きていたのですね。話には聞いていた拉致問題ですが、それまで現実の出来事とは、どうして思うことができませんでした。

 被害者が帰国すると、テレビでは連日北朝鮮問題がとりあげられました。独裁政権による北朝鮮の過酷な現状を、時には面白おかしくからかい半分に報道することはあっても、私たち日本人が、在日朝鮮人に対して行ってきた差別の歴史が報道されることはありません。在日朝鮮人の人たちが、1959年(これは、私が生まれた年でもあります)に始まる帰国事業にのって日本人妻を連れて北朝鮮へ渡ったのは、「差別の現実は、北の現状がわかっていても、それを否定する気持ちにさせるほど熾烈なものだった。多くの在日にとって、日本に希望を見出すことができなかった」からなのです。

 大学生のとき、教養部の日本史の教授が『強制連行と従軍慰安婦』という本を推薦されました。よくわからないまま、赤い表紙のその本を書店から取り寄せて読みました。そこには、中学や高校の歴史の授業では習わなかった、もうひとつの日本の歴史がありました。でも、その本を読んだとき、私は何も反応できなかった。活字として受け入れることしかできなかったのですよね。

 在日朝鮮人の人たちは、好きで日本へ来たのではない。自ら希望して海を渡ってきたのではなかったのです。そんなこともよくわからないまま、私たちは、拉致問題が大きくクローズアップされている今、また差別の歴史を繰り返そうとしています。知らなかった、ではすまされませんよね。無知や無邪気は、時には大きな罪を作るもの。何か行動を起こすわけでなくても、真実の歴史を知ることだけでも大切ですよね。


13日(金)『ホンモノの思考力』樋口裕一著 集英社新書

 『ホンモノの文章力』の著者でもある樋口さんは、この本の「はじめに」で、「小論文のノウハウがそのまま思考力を高めるのにつながる」と書かれているけれど、逆も真なりです。論理的な思考力ができる人は、論文を書いてもすばらしいものが書けるはず(たぶんね)。

 小論文の練習なんて、受験生でもなければやりませんよね。でも、この本に書かれているような論理的な思考や会話の訓練なら、日常の生活の中でも、意識して心がけていればやれでしょう。私も以前から、ディベートと小論文は、ほとんど同じものと思っていました。どちらも、自分の支持する結論をいかに相手に納得させるかってこと。小論文のテーマって、「臓器移殖について」とか、「携帯電話は必要か」とか「個性重視の教育についてどう思うか」など、賛否両論あるようなものばかり。つまり、結論が大事なんじゃなくって、自分が支持した結論に対して、本論でいかに納得させるようにもっていくかってこと。読み手が、膝をポーンと叩いて「ごもっとも!」と言えば、大成功なわけ。

 書くことって、書く技術自体はそうたいしたことではないのです。何も難しい表現を使って書いたものがよいわけでもないわけだし。9年間の義務教育を受けていれば充分なこと。実は、私の子どもたちは大の作文嫌いでした。もう、読書感想文なんて宿題にでようもんなら、1週間も前からふさぎこんでいたっけなあ。で、わかったのは、書けないんじゃなくって、本を読んでも感想をもたないんだってこと。ま、何にも感じていなかったわけじゃないのだろうけど、言語化できるほどの強い気持ちにいたらなかったのでしょう。

 でもね、長男が小学生のときに書いた作文で、「これは、うまい!」と思ったものがありました(たった1度だけですが)。それは、「給食の日」のために学校で書いた作文です。食いしん坊の彼は、いかに自分が毎日給食の時間を楽しみにしているか、どんなに給食はおいしいかを、心をこめて書いているのです。「ぼくは、給食を食べていてわかったことがあります。それは、ほとんど毎日にんじんが使われているということです」という部分を読んだとき、わが子の作文ながら感心してしまいましたねえ。何と鋭い観察眼!

 で、「給食の日」に、各クラスから代表者が1名、校内放送で作文を読んだらしいのですが、残念ながら彼は選ばれなかったそう。最後の2名までには選ばれたらしいのですがね。ま、しかたないかな。だって、肝心な部分がポッカリ抜けてるんだもんね。それは、調理士さんに対する感謝のことば。小学校の「給食の日」って、昔っから作ってくれた人へ感謝する日って決まっているのですよ。私が小学生のころから「給食のおばさん(私たちのころは、こう言ってました)、ありがとう」は、はずせないフレーズでしたね。

 作文の場合、書くことと感じることは表裏一体のもの。論文の場合は、書くことと論理的な思考力が表裏一体ってことですね。


14日(土)『忌中』車谷長吉著 文藝春秋

 車谷さんの『赤目四十八瀧心中未遂』は、昨年映画化されて、たくさんの映画賞をとりましたねえ。これから上映されていくみたいだから、原作もこれからどんどん読まれるのでしょう(実は、私もまだ読んでいません)。

 日本では「死」について真正面から語ることは、タブー視されているところがあって、この本のように「死」そのものがテーマの小説集には、一瞬どきりとさせられますね。でも、長く生きていればいるほど、「死」は身近なものとして迫ってくるし、「死」について語ることを避けるのは、人生そのものについて語ることを避けていることになるような気がしてなりません。

 「死」というのもは、それがどんな形のものであっても、たとえ周りの人たちから「大往生」と言われるようなものであっても、残された身近な者たちにとっては、理不尽で不条理なもの。しかも、ここでとりあげられているのは「心中」がほとんどです。最近この「心中」を描いた作品で大ベストセラーとなったのが、言わずと知れた『失楽園』でした。ま、あの本は、最後に赤ワインを飲みながらとか、あまりに演出されすぎていて、どーも、ねえ。

 この本は、失意の末に自らの(もしくは、配偶者や子どもの)命を絶ったり、「古墳の話」では、学校帰りの女子高校生が見知らぬ男性に絞殺されるという、絶望のストーリーでありながら、読後に、悲壮感だけではないほのぼのとした何かが残るのは、そこには「愛」が描かれているからなのでしょう。「死」によってその「愛」がなおさら強く心に残るのです。

 私が12歳のとき、ひとまわりしか違わない若い叔母が、自らの命を絶ちました。私の家に遊びにきた2日後のことでした。詳しい事情は、知らされないままなのだけれど、叔母は「愛」に絶望して旅立ったのです。だから、私は叔母の冥福を今も祈らずにはいられません。


22日(日)『ブリージング・レッスン』アン・タイラー著 文春文庫

 天国に行ったら生前に失ったものを全部返してもらえるとしたら、あなたは何を返してもらいたいですか?主人公マギーが働く老人ホームには、天国の<真珠門>で、聖ペテロから、返してもらいたいもの全てをつめた麻の袋を渡してもらえている、と信じている老人がいるんです。私?私は、あんまり思いつかないなあ。だって、私たちはもともと何も持たずに生まれてきたんだものね。でも、48歳になる主人公のマギー・モランは、手に入れたものをひとつずつ失っていくのが、人生だと考えているのです。でも、まあ、そんな気難しく考えなくても、幼い頃に買った初めてのレコードとか、お気に入りだった服とか、小学校の入学祝にもらった犬の絵のついた舵の形をした温度計とか、そう考えていくと、忘れかけてた思い出がよみがえってきて、ちょっとセンチになってみたりもしますよね。

 この本は、家庭の主婦である主人公のマギーが、幼なじみの夫の葬式に出席するため、2歳年上の夫と90マイル離れた田舎町まで車で出かけたある1日の出来事が描かれています。1日の出来事と言っても、主人公の回想が何度も出てきて、マギー夫婦ふたりの人生がみごとに描かれています。アン・タイラーの小説に登場するのは、いつもごく普通のアメリカ人なんだけれど、50年代のアメリカが基点となっているらしい。「ごく普通のアメリカ人」を描くには、「車」と「離婚」と「ダイエット」はキーワードみたいです。まあ、そうした生活の周辺の小道具は、国や時代によって違いがあるのだろうけれど、「ごく普通のアメリカ人」の心情は、「ごく普通の日本人」の心情でもあるのですよね。

 アン・タイラーの小説を読むと、ストーリーの展開のさせ方にうなってしまいます。読者をひきつけて放さない、似たような主題の作品を手法を変えて飽きずに読ませるんです。彼女の作品を読むと、小説なんて、自分が書ける範囲のことだけを気負わずに書いていけばいいんだよ、と励まされているような気になりますね。


24日(火)『オークション大魔王』金井覚著 文藝春秋

 文藝春秋社から出ている本を読んでいたとき、中に挟まっていた同社の本の宣伝用のパンフレット(?)を見て、『オークション大魔王』というばかばかしい題名にひかれて読み始めました。読んでみてどうだったかって?ただ、もう、ばかばかしいだけでした。これって、<オークションオタク>用の本なの?オンライン書店で注文して買ったんだけど、書店に足を運んでいたら、買ってなかった。絶対!

 この本が届いたとき、服やポータブルMDプレーヤーなんかネットオークションで購入してる16歳の息子に、「お母さんが読んだら、貸してあげるね」なんて言ったけど、撤回します。忘れてください。ま、自分で買ってきた本ならまだしも、思春期の子どもに親が勧めて読ませる本ではありませんね。アダルト系のおもちゃとかいっぱい載ってるし。ま、先刻ご承知かもしれませんが・・・・。

 うーん、おばさんには、ちょっとした社会勉強になったかなあ???


26日(木)『ソクラテス・カフェにようこそ』クリストファー・フィリップス著 光文社

 「ソクラテス・カフェはなにも別にカフェで開かれなくたって、少しもかまわない。どこであろうと、何人かの人が、いや、たった一人だけだって、とにかくそこに行って、みんなにあるいは自分自身に、哲学的な問いかけをしてみよう、と思ってやって来るなら、そこがソクラテス・カフェになるのだ。ダイニング・ルームのテーブルだろうと、教会だろうと、コミュニティ・センターだろうと、山のてっぺんだろうと、老人ホームだろうと、ホスピスだろうと、学校だろうと、刑務所だろうと、高齢者のためのセンターだろうと、どこでも良いのだ。(中略)もっとほんとうに、純粋に『哲学を知りたい』、と望むその場所で。自分一人でも或いは何人かのグループでもいい、問いかけを重ねあって自分自身を哲学的に探求したい、と思ったその場が、どこでも、ソクラテス・カフェになるのだ」そうです。

 「人はなぜ死ぬの?」「死んだらどうなるの?」「どうしてこの世には男と女がいるの?」こんな疑問、幼いころに誰だってもってなかった?私は、「人はいつか死ぬのになんで生まれてくるんだろう?」って思ってましたよ。だって生まれてきたからには、必ず1度は死を経験しないといけない。そのときは、待ちこがれていた遠足の日が、いつのまにかすぐにやってくるように、意外に早くくるのかもしれない、って考えたら怖くてたまらなかったから。でもそんな疑問を母親なんかにぶつけたら、なぜだか叱られてましたね。「答えきれないからじゃないの」って思ってたけど、いつの間にか疑問をもつこと自体を封印するようになっていました。

 小学校高学年のとき、何の教科だったか忘れたんだけど、目的地までの道順を教えるっていう問題がありました。答えは「東にまっすぐ行って。信号機があったらその道を北に進み、・・・・」という具合に答えなきゃあいけなかったんだけど、それより「四つ角を右におれて・・・」という方がわかりやすいと思って方角を使わずに答えたら、だめだと言われました。「でも、この方が私ならわかりやすい。実際は、地図を使って説明するわけじゃないから」と反論したら、その先生は烈火のごとく怒られました。そして、その時間の最後に「このクラスには、人の意見を聞けない者がいる。そんな者がクラスにいたら、そのクラスは絶対まとまらない」と言われたのです。その先生は、その日欠席されていた担任の先生の代わりに来られていた先生なのだけど、私は自分の人間性が全否定されたようで、とっても悲しくてたまらなかった。私はただその答え方がなぜいけないのかを、納得がいくように説明してほしかっただけなのですけどね。

 日本人は論理的思考が苦手と言われるのは、このあたりに問題があるんじゃないかって思います。理屈っぽい人って、あんまり歓迎されないものね。でも、「何のために生きるのか?」「生きるってどういうことなのか?」「愛するってどういうこと?」「愛って何?」そんなことをちゃんと考えておかないと、仕事や、人間関係なんかで行きづまったとき、身動きとれなくなるよね。もちろん、はっきりした答えはでないだろうし、答えはひとつじゃないんだろうけど。

 今、村上龍さんの『13歳のハローワーク』(幻冬舎)がベストセラーになっているけれど、若い人が自分の進路を考えるのなら、その本を読む前に、池田晶子さんの『14歳からの哲学』(トレビュー)を読んでみたほうがいい。だって、自分って何なのか、人生って何なのか、わかってなくっちゃ自分にあった職業なんて選べないはず。ま、私も、あんまり偉そうなことは言えませんがね。



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