青山学院の歴史

 

 

★青山学院教育方針

青山学院の教育は
キリスト教信仰にもとづく教育をめざし、
神の前に真実に生き
心理を謙虚に追求し
愛と奉仕の精神をもって
全ての人と社会とに対する責任を
進んで果たす人間の形成を目的とする。

 

★青山学院大学の理念

青山学院大学は、「青山学院教育方針」に立脚した、神と人に仕え社会に貢献する
「地の塩・世の光」としての教育研究共同体である。
本学は、地球規模の視野にもとづく正しい認識をもって
自ら問題を発見し解決する知恵と力を持つ人材を育成する。
それは、人類への奉仕をめざす自由で幅広い学問研究を通してなされる。
本学のすべての教員、職員、学生は、相互の人格を尊重し、建学以来の伝統を重んじつつ、
おのおのの立場において、時代の要請に応えうる大学の創出に努める。

 

 

★青山学院の始まり

1.創立
 幕末から明治にかけて、日本へのキリスト教の布教活動は盛んに行われ、新しい日本が成長していく上で大きな影響を与えた。 この宣教師の中で1873年(明治6年)に布教を始めた米国メソジスト監督教会が3つの学校を東京と横浜に建てた。 この3つの学校が、明治7年創立の「女子小学校」、明治11年創立の「耕教学舎」、翌年の12年創立の「美曾神学校」であり、 やがて1つに相合して青山学院が形成されることとなるである。
A.女子小学校
 女子小学校は明治7年に麻布新堀町につくられ、女子部初代校長はスクーンメーカー(D.E.Schoonmaker)[1851〜1934] というニューヨーク生まれの女性で、23才の若さであった。 当時はまだ女子の教育は全くと言っていいほど普及されていなかったが、なんとか女子5名、男子2名の生徒を集め、 明治7年11月16日に「女子小学校」は開校に漕ぎつけた。
 
◎救世学校へ
 しかし当時の学校に使われていた場所が人手に渡ることになったために場所が二転三転し、 明治8年11月には芝の三田北寺町の真言宗の大聖院の一部を借りて移り、校名も「救世学校」と改められた。 校舎が転々とする中でスクーンメーカーは努力を重ね、日本語を習得し、伝道活動も忘れなかった。 学校は明治9年7月には生徒数が28人にまで増え、上級、下級の2クラスに分けられた。 学科は国語、漢文、数学、歴史、地理、裁縫、科理、作法、体操に加え英語も教えていた。 また、授業の始めと終わりには欠かさず祈祷をし、讃美歌を歌った。日曜日には礼拝説教が行われ、福沢諭吉も参観しに来たという。
 
◎海岸女学校
 救世学校となってからの運営は軌道に乗ってきたが、仏寺でキリスト教の教えを行っていたために檀家からの非難が激しくなってきた。 そのため、築地の外国人居留地に移転し、名前を海岸女学校と改称した。明治10年1月のことであった。 こうして海岸女学校は明治期の女子教育の開拓的役割を果たすこととなった。
B.耕教学舎
 明治11年4月、築地1丁目2番地(当時)に耕教学舎は開校した。初代校長にはハリスより受洗した美以教会の信徒である菊池卓平が就いた。 しかし菊池は明治14年春に伝道活動に専念するために校長を退き、学舎は新しい経営陣に引き継がれた。 この時、校名は「東京英学校」と改称し、銀座の旧原女学校に移転した。 この頃から生徒数は激増し、京橋に分校を開くまでになったが、 借りていた本校舎が売り渡されることになったので、明治15年9月に美会神学校と合同するまでの間、校舎は転々とした。
C.美曾神学校
 美曾神学校は米国メソジスト監督教会日本宣教部と日本伝道総理ロバートS.マクレイによって1879年(明治12年)、横浜に開校した。 美曾神学校は当初、英学を希望する学生が多く、神学生の倍以上いた。 学科も神学科と普通科に分けられ、聖書、神学、英語、地理、歴史、物理を漢学があり、漢学以外は全て英語で授業が行われた。 美曾神学校は順調に発展していき、東京に移転したのを機に「東京英学校」と合同することになった。

 

★青山学院の誕生

1.青山へ
 美曾神学校と東京英学校の合同に際して、新たな土地が検討された。そこで挙げられたのが青山だった。 マクレイも好適地と認め、米国メソジスト監督教会のジョン・F・ガウチャーの寄付によって、1882年(明治15年)の秋、この土地を総額6,000円で購入することになった。 この時、築地からこの地へ移った東京英学校は名称を「東京英和学校」と改称し、9月に総理(院長のこと)マクレイのもとに開校した。 1889年(明治22年)、当時の東京英和学校には予備学部、高等普通学部、神学部が設置され広々とした構内に洋風の建物が建ち並ぶ、恵まれた教育環境となっていった。
2.東京英和女子学校
 米国メソジスト監督教会の夫人宣教師や日本人教師の尽力により海岸女子学校は1886年(明治19年)の時点で100名を突破し、新たな校舎が検討された。 そこで注目されたのが東京英和学校の広大な敷地であった。海岸女子学校は40年契約で敷地を借り、木造2階建ての校舎を建て、「東京英和女学校」と名付けた。 その後、1894年(明治27年)に東京大地震が起きたため、海岸女学校の校舎は大破してしまったために、閉鎖され、本校が青山に移ることとなった。
3.「青山学院」へ
 1890年代になると欧化主義に衰退の兆しが見え始めてきた。このことから日本の学校の名前に「英」の文字が入ることに不満があらわれ、1894年(明治27年)7月、当時の校長である本多庸一は、青山の地名をとって「青山学院」と改称した。 また、1903年には専門学校令が公布され、青山学院高等科と神学部は、翌年から同令に準拠する専門学校となった。 また、1906年(明治36年)4月には新ガウチャー・ホール、翌年には新講堂(弘道館)が創設された。
4.青山女学院
 1894年(明治27年)に東京英和学校が「青山学院」に名前を改称したことから、東京英和女学校も、校名を「青山女学院」とし、その後、本格的な女子教育を目指し、一貫教育の実現のために1898年(明治31年)にクランドン・ホールを完成させ、分散していた校舎を統合した。 そして1903年の専門学校令公布によって私立の女子専門学校として認可された。そして1908年(明治41年)には生徒数300人にもなった。 大正期に入り、エジンバラの世界宣教大会(1910年)での、”各派連合のキリスト教女子大学を東京に設立するための女子キリスト教主義学校の申し合わせ”に従い、1918年(大正7年)に「私立東京女子大学」が創立されると、同校の英文科基礎固めに協力するため伝統ある英文専門科本科を閉鎖し 、代わって実務科、家政科、裁縫研究科を新設した。

 

★現在の形へ

1.関東大震災
 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、時間が昼前だったこともあって、地震から火事に発展して東京は火の海と化した。 この時、青山学院は校庭と神学部寄宿舎を、女学院は体育館を開放し、 さらに専攻科の裁縫研究科・家政科の生徒が中心となって500人分を超える衣服類を仕立て、被災者の救済にあたった。 また、両校の教職員・学生・生徒が協力し震災救援団を組織して、避難者を収容、夜間は警備に当たった。 青山学院の被害状況も甚だしく、構内のレンガ建ての建築物はほとんどが崩壊した。 さらに災難な事に、関東大震災の2年前に青山女学院は、渋谷代官山に土地を移転するため約8000坪の土地を購入し、翌年に一部完成した校舎で授業を開始していたが、 震災によって建物が大破し、移転を中止せざるを得なかった。 しかし、米国メソジスト監督教会から応急措置として7万円の寄付をうけ、また、全米のメソジスト教会の中で日本援助復興費募金運動が盛んになり、 結果として同教会に約160万ドルが集まった。この募金の一部が青山学院の復興資金にあてられ、復興の足踏みとした。
2.青山学院と青山女学院の合同
 皮肉にも青山学院と青山女学院が合同されるのは関東大震災が原因だった。それは両学校を復興させるよりも、合同して再建した方がより経済的になるからとの理由だった。1923年(大正12年)9月、両校委員による合同委員会が組織され、翌々年には青山学院財団と青山女学院経営の主体であった米国メソジスト監督教会夫人外国伝道社会との間に、「青山学院と青山女学院合同計画」に関する協定が成立した。1926年(大正15年)に開催された青山学院臨時理事会は両校の合同を全員一致で決定した。これにより青山学院は約3000人の学生生徒を擁する学院となったのである。また1932年(昭和7年)11月には青山学院の前身でもあった「美曾神学校」と「東京英学校」の合同50周年に当たるとして、(男子系の)創立50周年祝賀式が盛大に行われた。
3.戦争と青山学院
 1941年(昭和16年)に日本がハワイ真珠湾攻撃を行ったことによって太平洋戦争が勃発した。 これによって日本の教育方針は「天皇ノ道」を目的とする方向に変換されたのである。その余波は当然、青山学院にも及ぶことになる。 青山学院在勤の宣教師に対しては帰国命令が出され、学院の教育方針は変更を余儀なくされた。1943年(昭和18年)には60余年の伝統のある神学部を閉じることとなった。 そして同年「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって青山学院専門部は関東学院高等商業学部と共に明治学院に合併され、 やむなく専門部は翌年に閉鎖された。この結果、学校の維持が不可能となったために1944年(昭和19年)、「青山学院工業専門学校」が設立されることとなった。
 1945年、この頃になると日本軍の敗戦色は色濃くなっていて、アメリカ軍の本土上陸も度々起こるようになっていた。 そして5月25日の夜間大空襲によって青山学院の約7割の建築物が焼失するという結果を招いた。 このような悲惨な結果を残しながら同年8月15日に戦争は終結となる。同年9月15日、文部省は「新日本建設教育方針」を発表し、翌月には日本を占領管理するGHQ(連合国最高司令部)から、 基本的人権思想の実践と確立を奨励する「日本教育制度ニ関スル管理政策」が発表された。 さらに10月15日には「文部省訓令第12号」(注:1899年以来この訓令により私立学校の宗教上の教育や儀式が禁止されていた。名目上は教育から宗教色を払拭することとされてい たが、実質的にはキリスト教教育を行う私立学校の弾圧であった。)が廃止され、遂にキリスト教主義学校は、宗教の自由な発展を手に入れることが出来たのである。 そして1949年、専門学校を母胎とした「青山学院大学」(文学部・商学部・工学部[横須賀分校])が4月に開校された。

 

★戦後の復興

 戦後の青山学院は1947年(昭和22年)の「教育基本法」「学校教育法」を反映するように新しい教育体制を目指して努力していった。 昭和26年には前年に施行された「私立学校法」により「学校法人青山学院」が誕生した。 その後も青山学院の戦後復興計画は進み、1954年(昭和29年)より財界の長老万代順四郎を財務理事とした「10年計画」が始まった。 なお、万代理事長は奨学金制度を昭和30年に開始し、万代氏の没後もこれを「万代奨学金」として、その基金をさらに充実し、規模の大きな奨学金制度を運営していった。
 また、1965年(昭和40年)には世田谷キャンパスが完成し理工学部が、翌年には経営学部が設置された。

 

★大学紛争、そして現代へ

 昭和40年代に入ると青山学院は大きな曲がり角を迎えることとなる。教育界はいわゆる学園紛争、学生運動の混乱期に入っていた。 そして1968年(昭和43年)には青山学院にも学生運動が活発になり、翌年にかけて集団デモ、建物バリケード封鎖、破壊や授業阻止が次々と起こり、大学の運営は大きく混乱した。 この騒ぎはデモを起こしている学生に機動隊をぶつけるなどして収まったが、紛争に関するトラブルはすぐ解決できるわけもなく、のちのちまで後遺症が残ることとなった。
 その後は過激派学生の処分を通して1973年(昭和48年)には学内における過激な行動は収まり、大学キャンパスに平穏な日々が戻ってきた。 そして1974年(昭和49年)には創立100周年、1982年(昭和57年)には厚木キャンパスが完成、1994年(平成6年)には創立120周年を迎え、現在の青山学院に至る。

 

★青山学院の創立記念日

 青山学院は、1874年(明治7年)に開校した「女子小学校」、1878年(明治11年)に開校した「耕教学舎」、翌年に開校した「美曾神学校」の3つの学校を源流に 変遷を重ねて1つになったことから、女子系と男子系では創立記念日を別としていた。しかし、キリスト教に基づく教育を行う総合学院の観点から、1949年(昭和24年)に当時の豊田院長によって、 3つの源流の中でも最も開校が早い女子小学校の開講年を青山学院創立の年と定め、開校日である11月16日が創立記念日になった。

 

 

★青山学院の歴史 人物紹介

○ジョン・ウェスレー
 イギリスのエプワースにある英国国教会で生まれ、オックスフォード大学の助教授になり、「神聖クラブ」という学生たちの会の指導者となった。 そのあまりにも几帳面な生活態度からメソジストと渾名された。当時の産業革命の結果、多くの人々が都市に流入し教会の数が足りなくなったために、 彼は「教会以外で聖書を語ってはいけない」という規則を破り、野外説教に踏み切った。 それ以後、彼は各地に「会」をつくり信仰の訓練をなし、組織化し、87年の生涯を信仰に捧げた。 このメソジスト会は1795年に英国国教会から分離して米国で「メソジスト派」として誕生。 青山学院は、このメソジスト派の1つである米国メソジスト監督教会によって創立された学校の1つである。
○ドーラ E. スクーンメーカー
 1851年ニューヨークに生まれる。イリノイ州モリスで公立学校の教師をしていたが、異国への伝道の志を持ち、1874年(明治10年)10月、米国メソジスト監督教会婦人会外国伝道会社から宣教師として派遣され、来日する。 同年11月16日青山学院の最も古い源流である「女子小学校」を開校する。女子小学校は救世学校を経て海岸女学校に発展、1879年(明治12年)に帰国するまで校長を務める。 帰国後も海岸女学校校舎焼失の際には、復興資金募集のため米国内を巡行し、校舎再建に尽力した。
○ロバート S. マクレイ
 1824年ペンシルバニア生まれ。 1845年ディキンソン大学卒業後、米国メソジスト監督教会ボルティモア年会で按手礼を受け巡回教師などに従事する。 東洋への伝道を決意し、1848年から中国で活動を行い、1872年の帰米中にメソジスト監督教会伝道局会議で日本伝道の急務を説いた。 翌年に日本伝道総理として全権を託され、夫人と共に来日。宣教活動と共に神学教育を努め、1879年に美曾神学校を開校した。
○万代順四郎
 1880年(明治16年)に生まれ、同40年青山学院高等科を卒業して三井銀行に入り、1937年(昭和12年)同行の取締役会長に就任。 財界、金融界の多くの要職に任じ、同行退職後にはソニー株式会社の取締役会長をして同社の飛躍的発展に寄与した。 母校青山学院にも力を尽くし、1952年(昭和27年)以降財務理事として復興に努め、昭和34年に永眠した。

 

※この文章は2000年度厚木祭にて展示された「青山学院の歴史」をWeb版に改変したものです。
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