『私だけの古代史第四部・邪馬台国編』



   第6章 唐古・鍵遺跡の謎



   1.唐古・鍵遺跡の謎〜その1.クルクルの謎


 先生は瓜の類(たぐい)が大好きである。瓜と付くものは、カボチャの南瓜から西瓜(スイカ)、果ては胡瓜と書くキュウリに至るまで大好きである。私は見ていないのだが、胡瓜に味噌を付けてかじっている様子は、どこから見てもカッパそのものだと瞳は言う。そんな先生だから、瓜の女王であるメロンを見逃すはずはない。


「先生、どうしてメロンが冷蔵庫にあると分かったんですか?」と瞳は解せない。

「それは、ここに来る途中のスーパーで店頭デモしていたから、瞳ちゃんなら釣られて買うだろうと思ったから。それに、いつもは冷蔵庫の中にある調味料が外に出ていたから、体積のある何かを冷蔵庫に収めたと分かったんだ…」

「なるほど、モグラ並みの嗅覚だけじゃなく、結構理詰めで推理できた訳ですね」

「うん、でもこうしてメロンを食べられるのも、ヨセフのお陰かもしれませんよ」

「えー、メロンにもヨセフが絡(から)んでいるんですか…」と瞳。

「だって、メロンは東アフリカが原産だし、古代エジプトで食べられていたようですからね。瓜や瓢箪(ヒョウタン)の種類を、ギリシャ語でpeponと言います。メロンはリンゴのような瓜という意味のmelonpeponの前半部分、本来ならリンゴの部分が独立して呼ばれるようになったようです」

「そうか、ヨセフのエジプト名パネアから、ペポンと呼ばれるようになった可能性はありますねー」と瞳も同意する。


 私は最近、先生がヨセフに瓜二つなのではないかと思うようになってきた。その理由の一つに、ヨセフを刻んだと思われるジェセル王像と先生の容貌が似ていることが上げられる。さらに、先生も土壇場のヨセフと同じく、兄弟によって二つの穴の一つに落とされて殺されそうになったという話もある。先生は、人間の生まれ変わりを否定する立場だから、血統的にヨセフに似た者として末の日に備えられたのだろうか。そんな私の感想を知ってか知らずか、先生は無邪気にメロンに舌鼓を打っているが、なる程その横顔はカッパに似ているかもしれない。いや、絶対に似ているぞ、これは。


「それで先生、西日本が二度も回転したとする根拠は何なんですか?」瞳は、食べ終わったメロンを片付けながら訊いた。

「瞳ちゃん、メロンというか瓜科の植物の特徴は?」と先生。

「えーと、蔓(つる)があります」

「はいそうですね。では石井さん、奈良県の大和盆地にあった唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡は知っていますか?」

「はい、田原本(たわらもと)町にある弥生時代の遺跡で、登楼(とうろう)の描かれた土器片で有名です」

「そうですね。その絵を元にして弥生時代の登楼を復元しているのです。でも、その登楼には変な特徴があったでしょう」

「えーと、クルクルですか…」

「ねー、クルクルって何?」と瞳。

「それは…、あっ、瓜科の蔓かー!」


 私はここに来てようやく、先生が瞳に瓜科の特徴を尋ねた訳が分かった。それは、唐古・鍵遺跡の登楼に特徴的なクルクルが、瓜科の蔓のデザインと考えることが出来るからである。
図−16参照

  

「ふーん、本当にクルクルですねー…」と、瞳は登楼のクルクル巻に感心である。

「先生、このクルクルは瓜科の蔓で間違いはないんですか?」と私は訊ねた。

「間違いはないと思います。何故かというと、このクルクルのルーツはエジプトにあるからです。そして、エジプトと言えばメロンの原産地でしょう」

「えー、クルクルがエジプトにあった…?」私と瞳は思わず顔を見合わせた。



   2.唐古鍵遺跡の謎〜その2.回転する建物


 唐古・鍵遺跡のクルクルがエジプトにあった。先生がそのように考える根拠は次のヒエログリフである。


 

のヒエログリフは、神官文字ではウズラのヒヨコの代用です」

「ということは、ローマ字表記ならwで読みはウですね。じゃ、ヤコブに関するものはウズラのヒヨコでしたから、クルクルもヤコブに関するものとなりますね」

「そうなります。だからこそ、瓜はウが付くのです」

「あっ、そうか!瓜のウはヤコブのウで、大きいを意味したんだ!」と瞳は納得してさらに続けた。

「でも先生、ウリのリは何ですか?」

「リというのは、古代イスラエルでは主に、特定の植物性食料を指したと思われます」

「植物ですか…?」瞳は首を傾(かし)げた。

「根拠はセンブリです。エジプト語で健康はセンブ。センブ・リで健康に良い草となりますからね…」

「千回振っても出るからセンブリ、ではなかった訳ですね」私も、千回振るって変だとは思っていたんだ。

「ですから、米自体もリと呼ばれた可能性があります。その証拠として、米を伸ばすと糊(のり)になるでしょう。ノばしたリでノ・リ」

「じゃ、海の海苔は糊のような海藻ですね」

「それで、リが食料を表すので、食料を加工するのが料理や調理となる訳です」

「なるほど」

「また、栗や瓜もリが付きますが、食料の中でも特に理があるので、リを付けて呼ばれたと思われます」

「理があるって…?」と瞳が質問する。

「理というのは宇宙の本質のことですが、神様が特別な思いを込めたという意味に受け取ってください」

「はい。すると、マナのように有り難い徳があるという訳ですね」

「でもウリに関しては、ウリエルという天使が存在しますから、こちらからの考察も可能です」

「ウリエル…?」瞳が聞き返した。

「そう、ウリエル。『エノク書』などの聖書外典に登場する天使で、7大天使に数えられるようです。カソリックによって禁止された天使信仰の中心にありました。意味は、我が光は神。あるいは神の光ですから、ウリが光となります」

「ふーん、ウリは光だったんだ…」

「ですからイスラエルにとって、ウリの蔓を文字にしたり、登楼のシンボルとすることは不思議ではないのです」

「先生、要するに掛詞(かけことば)ですね。光のウリと食物のウリをかけた…」


 唐古・鍵遺跡に特徴的なクルクルは、神の光のウリをウリの蔓で象徴したものであった。しかし、西日本の二度の回転については何一つ説明されていない。


「先生、西日本の回転の話はどう繋がるんですか?」

「あっ、そうそう、そこで唐古・鍵遺跡が重要なのです。というのも、唐古・鍵遺跡からは二棟の建築物跡が出ていますが、この二つは東西軸に対して平行ではないのです」


 先生はそう言うと、二枚の図を示した。二枚とも唐古・鍵遺跡で発掘された柱の跡であるが、東西軸に対してそれぞれに異なる回転角度を有している。
図−18参照

 

「右側の図は74次発掘の時のもので、紀元前200年位と考えられています。柱の中心で計測すると、南北11.4m、東西7mの規模の高床式です」

「7mは、2/3神聖キュビトの35pで20尺ですね」

「そうなります。対して、左の図は93次発掘のもので、やはり紀元前200年頃とされています。でも、古代には東西軸に対して平行に建物を配するのが基本なので、どちらも回転したことになります」

「というと、長辺が東西軸ですか?」

「僕はそのように考えています。法隆寺の金堂と同じ配置です」

「じゃ、回転角は左で40度位、右で80度位ですか…?」瞳が分度器を押し当てながら言った。



   3.唐古鍵遺跡の謎〜その3.滅亡の理由


 先生は、唐古・鍵遺跡の建造物の跡から判断し、過去に二度の回転があったと考えている。奇しくも、その大きい方の80度という角度は、邪馬台国の位置を特定したときに用いた地図に一致するのである。


「でも先生、邪馬台国の3世紀は弥生時代の晩年ですよね。紀元前200年頃から400年間は、比較的安定していたという事ですか?」

「それは分かりませんが、少なくとも唐古・鍵遺跡は滅亡したのです」

「滅亡とは穏やかではありませんね。滅亡の原因は何ですか?」

「実は、唐古・鍵遺跡は水没したのです」

「えっ、水没!」瞳は目を真ん丸にして驚いた。

「先生、どうして水没って分かるんですか?まるで見て来たみたいに…」

「それは簡単な推理です。というのも、古墳時代の初期には、唐古・鍵遺跡の周辺には古墳は造られていません。要するに、人が住んでいないのです」

「はい…」

「それで、大和盆地の古墳配置を調べると、水位52m位の湖があったと分かるのです」

「湖ですか…?」

「そう、古墳は土地改良のために造られたものですから、沼沢地や水際に造られたのです。従って、逆に見ると、古墳のある所は古代の水際なのです」

「ということは、古墳時代初期の大和の古墳は、大和西古墳群と纒向の古墳群ですよね。なるほど、二つの古墳群の間にある唐古・鍵遺跡は、水際と水際の間にあるということになるから、要するに大和西と纒向の間は湖が存在したことになる…」


 先生は、信貴山の南、関西本線沿いのどこかで土石流が発生し、大和川が塞がれた結果としてダムが形成され、大和全体が水没したと睨んでいる。それが古大和湖である。万葉集に秋津島と歌われた大和は、葦原の中つ国でもあった。これは決して強調などではなく、インカのチチカカ湖のような、葦に覆われた湖が本当に存在した事を伝えているのである。このようにして古代大和は崩壊し、住む人もなく放置された。それを、人が住むことが出来るように土地改良したのが大和民族であり、その現実的な方法として採用されたのが、古墳へ堀を設けて灌漑を押し進める技術である。


「先生、すると、弥生時代と古墳時代を隔てる決定的な違いというのは、土地改良の技術の有無ということになりますか?」私は、古墳時代が何となく理解できてきた。

「卑弥呼の時代の墓を見ても簡素で、古墳時代とは技術的に差が有り過ぎます。ここから、古墳に代表される土木工事の高度な技術を有しているイスラエルが、大和民族と考えられるのです」

「じゃ、弥生時代の人たちは…?」と瞳の疑問。

「弥生時代は、農業と窯業の技術を持ったイスラエルなのです。一部は青銅器の技術を有していました。唐古・鍵遺跡は高床式ですから米を作っていたのは間違いありません。でも、その米も作ることが出来ないほどの湖が出来てしまったのです」


 先生はそう言うと、唐古・鍵遺跡を飲み込んだ古大和湖の復元図を見せてくれた。

 

「なるほど、唐古・鍵遺跡は完全に湖の中ですね。斑鳩がちょうど水際」と私の感想。

「それで、古墳を造って灌漑を押し進め、中州を造りながら土地を広げる…」と瞳の感想。

「でも、右下の大和三山の辺りまで湖だったという説がありますから、これでも湖としては末期ですね。それで、斑鳩の北、生駒山の東がなだらかになっているでしょう」

「はい」

「これは、山を削って湖を埋め立てた跡なのです」

「なるほど、それで平城山(ならやま)か…」

「それって、均(なら)したという意味?」と瞳が訊く。

「瞳ちゃん、均したから平城(なら)の都で、奈良と書き換えられたので意味不明となったのです」

「なら分かる!」と瞳が駄洒落で答えたので、先生はここぞとばかりに拳固(げんこ)を見舞った。



   4.捏造されたデータ


 唐古・鍵遺跡が物語るのは、西日本が80度も回転した事、大和盆地が湖となって唐古・鍵遺跡を飲み込んだ事、などである。しかし、西日本の回転は古地磁気学では証明できない。いやむしろ、古地磁気学で否定されるのである。先生は果たして、この問題にどのような回答を示すのだろうか。


「先生、前に出てきた西南日本の地磁気偏角の推移からは、西日本の回転は証明できませんよね」

「確かに、あのデータが正しいのなら、元々の偏角は東に68度とかになりますから、あり得ない数値になります」

「じゃ、回転説に無理がある…?」瞳も混乱している。

「ところが瞳ちゃん、あのデータはおかしいのです」

「おかしいって?」

「前の図は、分かりやすいように僕が変化分だけトレースしたものですが、オリジナルはもっと複雑です」


 先生はそう言うと、オリジナルの図を提示した。そこには、長さの異なる縦の線が何本も引かれていた。

 

「先生、オリジナルでは縦の線があるのと、データが平均化されています。この違いですか?」私は、先生の作成した図の方が変化が大きいと分かった。

「確かに、オリジナルは変化がなだらかになるように、前後の時代との平均値としているようです。これがデータ捏造(ねつぞう)の一つ目です」

「二つ目は?」瞳が催促する。

「二つ目は、縦に何本も引かれた線が物語っています。長さが異なっているでしょう」

「そう言えば、只の補助線ではありませんね」

「要するにこの縦線は、採取したデータが示す、偏角の本当の範囲を表しているのです」

「という事は、紀元57年の奴國の時代には、西に32度、東に11度位の範囲に偏角分布は広がる訳ですね。その平均値が点で、それでも変化が急なので、さらに前後の時代との平均化が成された」

「要するに、二重に捏造されたデータだったんだ…」瞳が決めつけた。


 このように、元々のデータは東西に43度の間に存在した。仮に西に32度の偏角を示す古地磁気なら、80度回転させると東に47度となる。ところが、西暦100年頃の東側偏角の最大値は35度位で、平均値は西側に5度の位置にある。だが、点対称の位置にある西側は45度にはなるはずなのに、図では33度位でカットされている。逆に175年頃は東偏37度がカットされているのである。すると、先の43度の開きは、東西に82度という角度に拡大されるのである。ここに、第三の捏造が見られたのである。



   5.史書との連動


「えーと、データを修正して、西暦100年頃の西偏を45度とすると、80度回転させても東偏35度で収まりますよ」瞳は、回転説が成立する事で元気が出た。

「瞳ちゃん、西暦100年から175年頃だけ、突出して偏角の振幅が拡大しています。この175年頃が丁度、『後漢書東夷伝』の倭国大乱の時期に重なるのです」

「卑弥呼出現の前ですね」

「そうです。それで、卑弥呼の治世と考えられる200〜250年頃は、振幅も小さく比較的安定しています。さらに、倭の五王の5世紀ですが、やはり偏角の振幅が小さくなっています。ですから、地磁気の偏角が安定している時期は、中国の歴史書に日本が登場する時期と重なるのです」

「そう言えば…」


 先生は、地磁気の偏角が安定している時期は、日本国内の治安も安定し、結果的に中国へ使者の派遣も出来たと考えている。従って、逆に見ると、地磁気の偏角が安定していない時期は、日本国内も乱れた状態にあり、中国へ使者を派遣する余裕はなかった事になる。


「…すると、200年から300年頃は、卑弥呼の邪馬台国が倭を統治していた安定期ですね」と、瞳はグラフに書き込みながら続ける。

「次の安定期は倭の五王の5世紀、すなわち400年代ですね、ウンウン!」

「瞳ちゃん、問題は、卑弥呼の時代の安定期をどのように捉えるかという事なのです」

「というと?」

「325年から375年にかけての偏角の増大は、それ以降の時代に、例えば400年頃に西日本が回転した事を意味するのです」

「要するに、回転したから結果的に偏角が増大したという意味ですね」と私は考えた。

「そうです。ですから、卑弥呼の時代に偏角の安定が見られるという事は、400年頃の回転の影響を受けていない事を意味します」

「つまり…?」

「つまり、地磁気の偏角は最も東にあったという事なのです。400年頃の回転と相殺関係に置かれていたのです」

「具体的には?」

「具体的には、400年頃の回転が伊豆半島を含むフィリピンプレートの衝突で起こったとすれば、西日本は20度位反時計回りに回転して今の列島が完成された」

「すると、その前の回転の時に、すなわち東西日本が衝突した時に、現在より20度位時計回りに回転した状態でなくてはならない…」

「じゃ、逆ハの字に今の日本を折り曲げた形…?」と瞳が想像する。

「実は、その折れ曲がり説が、アカデミズムが唱えるフォッサマグナの形成過程なのです」

「ふーん、先生はそれを東西衝突に求める訳ですね。じゃ、東西衝突は何時なんですか?」

「それは、300年頃だと思います。それ以前の西日本は斜め倒立状態で安定していたのですが、その衝撃で邪馬台国はフォッサマグナに飲み込まれたのです」

 

 先生は、西日本は、西暦100年頃には80度の倒立状態にあったとする。この時の地磁気偏角は東偏35度である。倭国争乱の175年頃に、40度回転して斜め倒立の状態になった
(図−21の中央、地磁気偏角は西偏5度)。唐古・鍵遺跡の40度の回転は、この時期に形成されたのである。これより後、邪馬台国の安定期はしばらく続く。
 300年頃には、さらに20度回転して東西衝突が起る。これがアカデミズムが考えるフォッサマグナの形成に一致する。そして、この時に邪馬台国はフォッサマグナに飲み込まれて消失したのである。さらに、400年頃には伊豆半島が衝突して最後の20度の回転が起り、日本列島の完成に至るのである。

 唐古・鍵遺跡は弥生中期とされているが、邪馬台国の弥生晩期以前に古大和湖に飲み込まれた。だが、現在の日本列島は未だに、東西日本の干渉によって圧縮され続けているのである。

 参考、国土地理院HP地殻変動アニメーション




                            第6章 終わり



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