第二章 異常な太陽信仰
酒船石に特徴的なのは、溝と皿(凹み)の作り出す幾何学模様である。頭部の凹みから分かれた三本の溝が構成する角度は正確に28.5度。この角度の意味は、天文学者の斎藤国治氏が『飛鳥時代の天文学』において、明日香の地における冬至と夏至の日没角度であると説明している。氏はこのことから、酒船石を太陽観測器と推量している。しかし、溝の説明はできても凹みの説明は十分にできていない。
実は、古代の太陽観測術には大変な精度があって、酒船石のような巨大なものは必要とされない。同じ事は、数キロ離れた丘にある益田岩船にも言えることである。斎藤氏は、益田岩船も太陽観測器と考えておられるが、そのような単純なものではない。益田岩船に付いては後述するが、これは大変なものなのである。
ところで、酒船石の溝は28.5度だけではなく、図−6のように69度のものもある。69度という半端な数値には意味があるのだろうか。もしかしたら70度の間違いではないのか。この疑問は意外なもので氷解した。それは耳成山である。
耳成山は大和三山の一つで、酒船石と結べば東西軸との間に69度の角度を作る。東西軸とは地図上の正確な東西で、磁石による不正確なものではない。方位磁石は真北を正確には指し示さないで、6.5度から7度ほど西に偏向している。日本では反時計回りに回転しているのである。ここにも、自然界の法則において、当の時計以外は全て反時計回りで回転しているという原則が当てはまる?それはともかくとして、今度は耳成山と畝傍山から香具山へ向けて線を引いてみよう。この角度(∠香具山)は66.5度の角度を持つ。この角度の説明は後にするが、この線と藤原京の北端の稜線が交差する地点、ここと益田岩船を結ぶとやはり69度となる。このように、69度という角度は明日香においてスタンダードな角度なのである。なぜだろうか、その理由は、明日香の緯度が半分の34.5度だからである。要するに、ここには「太陽角度二倍の原理」が働いているのである。
太陽角度二倍の原理という耳慣れない言葉は、もちろん僕の造語である。だが、明日香はというより世界中の古代遺跡は、この角度二倍の原理で埋め尽くされているのである。例えば、耳成山と酒船石から益田岩船に引いた線が作る角度は64度だが、これは冬至の南中高度32度の二倍したものに等しい。同じく、耳成山と酒船石から 貝吹山に引いた線は57度になるが、これは先の日没角度28.5度の二倍したものに等しい。このように、角度二倍の原理と明日香の緯度における太陽角度によって、明日香の遺跡や遺跡間に見られる角度の大半が理解できるのである。図−7は、大和三山と、酒船石、益田岩船、 貝吹山を相互に結んで見たものだが、全て太陽角度で構成されているのが理解できると思う。
また角度というのは相対的な性質もあり、直角から地軸の傾き23.5度を差し引くと、余角として∠香具山の66.5度が導かれる。このように、特定の緯度における太陽がもたらす様々な角度が理解されていたということは、古代の明日香人にとって、地球は丸かったのである。何故ならば、太陽の作る角度は作図で求められるが、丸い地球を想定しない限り、緯度という概念にたどり着けないし、緯度を指し示す数字も理解できないからである。図−8

図−7 大和三山の作る三角形
さて、耳成山と益田岩船を結んだ線は、東西軸に対して73度になるが、この角度は明日香の緯度では説明がつかない。しかし、益田岩船の章で詳しく説明するが、岩船には73度という角度が何度も登場するのである。ある意味では、この73度という角度は、この謎解きの決定的な鍵を握る数字なのである。ヒントは、73度を二倍の原理の産物として捉え、半分の36.5度で考えてみることにある。これも、先に言った「酒船石の指し示す場所」に関係しているのは、気の早い読者には自明のことと思う。


図8 太陽角度の原理
太陽角度二倍の原理は、緯度34.5度、冬至の南中高度32度、夏至と冬至の日没角度28.5度、地軸の傾き23.5度に見られる。それぞれ、69度、64度、57度、47度である。そしてこれらを直角から差し引いた余角として、21度、26度、33度、43度が求められる。
また、二倍の原理によらない夏至の南中高度79度、およびその余角11度を含め、緯度の余角55.5度、冬至の南中高度の余角58度、日没角度の余角61.5度、地軸の傾きの余角66.5度が古代遺跡から見つかる太陽角度である。この場合、明日香以外の土地でも基本的に明日香の緯度の数値で通用する。その理由は、「明日香の緯度が特別な意味を持っているから」ということになる。
なお、太陽角度以外にも、幾何図形の基本的な角度である、30度、45度、60度、36度、72度も古代遺跡から見つかる。以上の角度を表− にまとめておいたが、注意するのは、地図は国土地理院の2万5千分の1を基本として、細部は昭文社の1万3千分の1を用いたということである。益田岩船は国土地理院には載ってないし、酒船石の位置も違う。昭文社版の明日香の地図は極めて正確で、0.1ミリのサインペンが必要になる。仁徳天皇陵の解析に用いた、縮尺が1万分の1の版になると、地球の丸みを反映した樽現象で四方が湾曲してしまう。従って、古代遺跡同士の位置確認はケースバイケースで、最も誤差の小さい方法で行うことになる。また、2万5千分の1の地図を張り合わせて巨大な地図を作成する場合、糊を付けた部分がふやけて伸びるので、水っぽくない糊を用いるなどの注意が必要である。張り合わせが成功すると、畝傍山と三輪山が一望でき、結んだ線が東西軸に対して冬至の南中高度32度を示すことが分かる。
僕は最終的に、2万5千分の1の地図を24枚張り継いで、明日香と奈良と大阪を一望できるようにした。そのために多くの発見が可能となった。これはほんの一例に過ぎないが、藤原鎌足を祭った談山神社は、石段の稜線が東西軸に対して85.5度の傾きを持っている。この角度は日没角度28.5度の3倍したものである。真北に対しては北北西に4.5度ということになる。驚くのは、この石段は山中にあるにもかかわらず、北北西5キロ先にある北茶臼山古墳の東側稜線を舐め、遥か彼方の春日大社の稜線にぴったりと重なるのである。春日大社も建物全体が西偏4.5度回転で造られていたのである。春日大社と談山神社という、藤原氏にとって重要な二つの神社が、日没角度の三倍の角度で結ばれている。それは、古代に極めて精密な地図が存在した証拠として。
2.異常な太陽信仰
今まで見てきたように、明日香の古代遺跡は太陽角度で構成されている。さらに、太陽角度が見つかるということは、それが山であれ、人の手が入ったものであることを物語る。一見すると自然に溶け込んでいるかのような遺跡も、実は高度に設計配置された人工的なものなのである。そう理解すると,飛鳥文化の本質が見えてこないだろうか。
そう、前章の冒頭で提出した、飛鳥文化の根幹にある思想とは、高度に体系化された太陽信仰である。ここには原始的なシャーマニズムは存在しない。存在するのは、太陽幾何学とも、太陽建築学とも呼ぶべき、高度な抽象概念である。目に見える形で太陽を表現するのは、ある意味で幼稚である。太陽の画家といわれたゴッホが、太陽をそのまま描いただろうか。実に具象表現の難しさというのは,こういうところにあるのである。それは、具象も抽象性から成り立っているという認識がなくては、造形として意味をなさないと言うことである。抽象性のない具象は、ただの説明に過ぎない。
明日香の遺跡を残した人たちは、太陽信仰という目に見えないものを、太陽遺跡という抽象的な形で表現した。だが、その抽象性の程度がまだ見えていないのである。絵画にたとえると、具象の中の抽象なのか、それとも抽象の中の抽象なのか分からないということである。一本の線がレオナルドのものか、それともピカソのもなのか、線を見ただけでは全体が分からないのと同様に。明日香の遺跡で分かっていることは、都市設計の基本理念として太陽角度をあらゆる物に盛り込むということ。その目的はまだ分からない。分かるのは異常といって良いほどの情熱である。なぜに太陽にこだわるのか。この異常なる太陽信仰の本質を見極めなくては、酒船石をはじめとする古代遺跡の謎解きは意味を失う。そう、これは古代遺跡の謎解きであると同時に、太陽信仰の意味を探る求道の旅でもあるのだ。
世界中の神話が太陽神を中心としているように、古代日本も天照大神を神々の主役においている。天照という太陽神と明日香の太陽遺跡の関係。ここに、常識的な古代史観は通用しない。斉藤国治氏の『飛鳥時代の天文学』によると、酒船石の北側の溝は現在、春土用における水稲播種の時期の日没角度に一致しているとしている。現在というのには理由があって、酒船石は回転させられた可能性が高いからである。酒船石の中央の溝は元々、真西に正対していた。だが、現在の方角は真西に対して13度も時計回りに回転しているのである。だから、酒船石を回転させて以降は、日の沈む方角で、農作業のカレンダーの代用をしているわけである。というのも、陰暦(太陰太陽暦)では毎年の月日の変動が激しい。一年が13ケ月になることさえある。これでは、5月の何週に田植えなどと計画はできない。そこで、土用のような二十四節気が必要とされるようになった。
節気では、太陽の沈む方角が農作業のカレンダーの代わりとなるが、決して正確な太陽観測の必要はない。なぜならば、2〜3年の間に、太陽の沈む方角と農作業のスケジュールを照らし合わせて、簡単なデータベースを作り上げてしまえば、それで足りるからである。ここには、地軸の傾きや緯度などから計算すべき、精密なデータは何ら必要とされない。だからこそ、太陰太陽暦なのである。陰暦というのは月の満ち欠けの周期を一ヶ月として計算する方法で、ユダヤ陰暦のように354日で一年となる。これでは具合が悪いので、冬至と夏至,春分と秋分という二分二至を用いた簡単な太陽暦を併用した。これが太陰太陽暦である。しかし、基本が陰暦なので,調整用の閏(うるう)月という13番目の月が必要になったりする。だから、グレゴリオ暦となった明治以前の事件を取り扱う場合、新暦では何月なのかを確認しなくてはならない。毎年12月に行われる赤穂浪士討ち入りの記念行事は、本来は春間近のドカ雪の頃に行われるはずである。
話が逸れてきたが、古代の暦については分かっていない部分も多いと思う。だから、遺跡そのものに記された太陽角度が重大な意味を持つのである。さらに、明日香の太陽遺跡のポテンシャルから推測できるのは、高度な太陽暦を用いている人々の存在である。太陽暦を用いない人には精密な太陽観測は必要ないし、精密な太陽観測を継続するには、太陽暦は絶対に不可欠なものだからである。第一、冬至と夏至の日没角度や南中高度を正確に知っていたのに、その周期が約365日であると知らないほうがおかしい。ということは、酒船石が現在のように回転させられたのが、日本が陰暦を導入した日ということになる。酒船石が造られたころの暦法は太陽暦だったのである。ところが何らかの理由で暦法の改正となり、以後長い陰暦の時代に入ったのである。ここに、酒船石は土用の日没方向を指し示す役割を担い、本来の役割を封印することになったのである。
酒船石が造られたころは太陽暦だった。そう推理して調べてみると、同じように考えている本に出会った。吉村貞司著『日本古代暦の証明』では、持統4年(690年)に元嘉暦と儀鳳暦が始めて用いられたとある。元嘉暦は推古朝の602年頃に百済から伝わった宋の太陰暦で、儀鳳暦は天武朝に伝わった唐の太陰暦である。それが690年まで使われなかったのである。吉村氏はそれを、「陰暦に対する拒否反応」と表現しておられる。要するに、古代日本は太陽暦の国だったので、中国に習っての陰暦導入は抵抗が大きかったということである。大化の改新のときに太陰暦を導入しようとしたが受け入れられず、持統朝まで待たねばならなかった。ということは、酒船石が割られ、位置を動かされたのも大化の改新後、あるいは持統朝の頃となる。僕は持統朝の頃と考えているが、それは天文観測に変化が起こっていたからである。
『飛鳥時代の天文学』では、日食や月食などの予測や記録は正確であったという。ところが、ある時期(持統期)から不正確になった。斉藤氏はこの現象を、儀鳳暦の導入によって日食などを推算する方法が確立されたので、逆に観測がおろそかにされ、推算した結果のみを記述したためとしている。それも理由の一つだろうが、やたらに予測しては外しまくるという姿勢には、天文学というよりは政治の投影の趣を感じる。日食の予測は陰陽寮の仕事であり、天皇の健康や国の乱れなどと結び付けて考えられていた。本来は天の予兆に過ぎないものが政治に利用され、結果的に天文観測が形骸化したのではないか。
古代の天文記事の中心は日食や月食で、どちらも月が関係する。これが政治に利用される場合、機敏に前兆を把握することが次の行動を素早くすることにつながる。このことから,月の動きを観測の中心に据える陰暦が発達したのではないか。もっとも、自然のバイオリズムが月に支配されているというのも理由となるが。
以上のように、古代日本で太陰暦が用いられる前は、太陽暦が保持されて来たのではないか。これは直感だが、当時としては最新のユリウス暦すら知っていたのではないか。そういう人たちが明日香の太陽遺跡を残したのだとすると、精密過ぎる太陽観測の疑問は氷解する。神話の世界の太陽信仰という偏見を取り除きさえすれば、太陽遺跡の本質は太陽暦と深く関わっていることに気が付くはずである。そう、酒船石の謎解きの第二ヒントは太陽暦にある。明日香の地図としての酒船石、太陽暦と関係が深い酒船石。次はどんなヒントを提出しようか。