

パラグアイ日系社会福祉センター
アスンシオン市に隣接したフェルナンド・デ・ラ・モラ市に日系福祉センターがあります。日本での老人ホームの機能を主体としていますが、日系社会の診療センター、日本人・日系人の宿泊設備としても利用されています。日本国際協力財団(神内良一理事長)からの多大な援助で建設された経緯もあり、「パラグアイ神内福祉センター」とも呼ばれています。
詳しい情報は下記のページにあります。
パラグアイ日系社会福祉センター
日系社会福祉センター(2005年12月08日)
この福祉センターが出来たのは1995年です。それ以降、日系社会の中で医療・福祉面での中心的な存在となっています。堂々たる3階建ての建物です。

(写真:入り口付近から外観)
日系の診療所としての機能があり、内科、小児科、胃腸科、眼科、歯科など各専門の日系医師が診療に当たっています。どの医師もスペイン語は勿論、普通に日本語が使えますので年配の移住者の皆さんも安心して診療に来る事が出来ます。例えば痛い時に日本語ですと「チクチク痛い」「ピリピリする」「ずきずきする」など色々な表現が可能ですが、スペイン語ではこのような繊細な表現方法は無く、日本語を理解していただける医師の存在は我々日本人にとっては大変ありがたいものです。

(写真:日系福祉センター診療所の看板)
事務所はなんとなく日本風です。書や天皇陛下・皇后陛下のお写真もあります。

(写真:事務所の様子)
事務所に常駐されているのは事務局長の佐藤隆一さんです。佐藤さんは山形県出身でこのセンター設立に尽力され、完成後はセンターの管理を担当されています。パラグアイでの生活は長く、飲んでいるのも薬草を入れたテレレですね。

(写真:事務局長の佐藤隆一さん、テレレを飲みながら)
佐藤さんに館内を案内していただきました。最初に紹介していただいたのが入り口にある2つの胸像です。胸像の中央に佐藤さんに入っていただき記念撮影をしました。このセンター建設には多くの方が尽力し協力されていますが、中でもこのお二人が中心となり、その功績を称えて2003年に胸像を作ったのだそうです。

(写真:尽力のあったお二人の胸像と佐藤さん)
パラグアイ日系社会福祉センターに対して多大な尽力をされ、実現させた功労者が故・笠松尚一さんです。2001年1月に91歳で他界されましたが、遺言により葬儀はこの福祉センターで執り行いました。この施設への思いは大変大きかったと思います。

(写真:故・笠松尚一さんの胸像)

(写真:故・笠松尚一さんの胸像の下にある碑文)
そして当地の日系社会の熱い思いに応えていただいたのが神内良一さんです。笠松さんと同じ香川県の出身という事もあり、理事長をしている社団法人・日本国際協力財団を通じて50万ドルを寄贈し当センターが建設されたという事です。

(写真:神内良一さんの胸像)

(写真:神内良一さんの胸像)
内側には広い庭があります。かなりの敷地があり、将来何か新たなプロジェクトを考える事が出来ると思います。

(写真:中庭から外観)
敷地は6千平米以上でかなりの大きさがあります。

(写真:中庭-01)

(写真:中庭-02)
離れもあり、こちらの上の階は長期滞在の宿泊施設になっています。こちらには主に地方から出て来て勉強に来ている若い学生さんが泊まっているようです。佐藤さんの話では「ここは老人と若い学生さんとが一緒に暮らしているので、活気があり、老人の方も楽しそうです」との事でした。確かに「老人だけ」というよりは孫の世代の20歳前後の皆さんと一緒に居た方が元気が出るのかも知れません。

(写真:離れ)
地上階は会議室と診療センターになっています。各種会議イベントなど多目的に利用されています。

(写真:会議室)
隅の方に大きな剥製があるのが目に付きました。

(写真:剥製)
上の階は泊めれるような設備になっています。主に老人ホームとして機能していますが、地方から来た方の宿泊設備としても利用されています。

(写真:宿泊施設)

(写真:室内の様子)
奥の方に行きますとちょっと小さ目の部屋が並んでいます。こちらも宿泊施設なのだそうですが、値段は1泊万グアラニ(400円)なのだそうです。日本人・日系人に限定しているそうです。「日本からのバックパッカーの方でも泊まれるのですか?」と尋ねたところ、「問題ありません。バイクで南米周遊」というような方が多く利用しているとの事です。若い方で南米を周遊されている方には絶好の場所だと思います。

(写真:格安の宿泊施設)

(写真:格安の宿泊施設の内部)
一番上の階は大きなイベントなどに利用する設備になっていました。老人クラブ創立20周年の看板が残っていました。大きな誕生日会、結婚披露宴等に利用されているそうです。

(写真:上の階の様子)
診療所を見学しましたが、訪問した時にも内科等は診療中でした。歯科を見せていただきましたが、立派な医療機器があり、日系の歯科医師が治療に当たっていました。

(写真:診療所受付)

(写真:診療所・歯科)
離れにはレントゲン室がありました。

(写真:診療所・レントゲン室)
訪問しての印象は単なる老人ホームというだけでは無く、多目的文化設備なのだという事です。診療所として機能しており、各種イベントそして宿泊施設としても重要な存在で在ることがよく理解出来ました。
ブラジル・ニッケイ新聞・より(2003年)
二〇〇一年一月、パラグアイ日本人移住の草分けである笠松尚一氏がアスンシオンで死去した。九一歳。同国最初の日本人移住地、ラ・コルメナ移住地の創設に携わり、戦後も長年にわたりパラグアイ日系社会とともに歩んできた先人の死であった。移住開始から今年で六十七年。一世世代の高齢化が進む中、晩年の笠松氏が力を注いだのが「パラグアイ日系社会福祉センター」の建設だった。パラグアイ日本人移住の歴史は一九三六年のラ・コルメナ移住地開設にさかのぼる。この、同国最初の邦人移住地には当初三百家族の入植が計画された。しかし太平洋戦争の開始により中断。戦前の移住者は百二十三家族七百九十人にとどまる。戦後の移住は五四年に再開。現在の日系人口は約七千人といわれる。「パラグアイ神内日系社会福祉センター」は九五年十一月、アスンシオン市の近郊、フェルナンド・デ・ラ・モラ市に完成した。日本の財団法人「日本国際協力財団」(理事長・神内良一プロミス名誉会長)から五十万ドルの資金援助を受け建設されたものだ。敷地六一七五u。居住施設やサロンを備えた三階建ての本館には診療所も設置され、パラグアイ日系医師会の医師がボランティアで診療に当たっている。同センターを運営する組織として「パラグアイ日系社会福祉協議会」がある。センター落成の二年後に設立された。各地の日本人会をはじめ農協、婦人団体、老人クラブなど全国の日系団体が加入する、パラグアイ日系社会の福祉の中心的存在だ。同センターはこれらの団体からの「協力金」をもとに運営されている。しかし、地理的な要因からもセンターの利用はアスンシオン中心にならざるをえず、各地の日本人会がそれぞれ高齢者福祉に取り組んでいるのが現状だ。パラグアイ国内の日系集団地は首都アスンシオンをはじめとする国内主要都市と、各地の日系移住地に分散している。戦前に開設されたラ・コルメナ移住地を除き、あとの大半は戦後の入植地だ。長いところでも五十年足らず。まさに今、開拓初期の時代を知る一世が高齢期に差し掛かっていると言える。昨年六月、国内各地の日本人会を対象に日系社会の人口調査が実施された。それによると、日系社会全体に六十五歳以上の高齢者が占める割合は平均約一四%。多いところでは二一%に上る。その四割以上を七十五歳以上の高齢者が占める。この調査を行ったのはJICA日系社会シニアボランティアの石田節子さん。福祉担当のボランティアとして二〇〇〇年からパラグアイで活動している。日本では社会福祉士として、導入前後の介護保険の現場に携わってきた。石田さんは「今はまだ皆さん現役でお元気です。問題はこれからでしょうね」と、高齢者福祉への取り組みの必要性を強調する。その一つとして現在福祉協議会が取り組んでいるのがデイサービス制度の導入だ。構想は、現在の福祉センターの診療所部分を改造して、デイサービスのモデルケースを実施するというもの。これに併せてセンターの敷地内に新たに総合診療所を建設しその機能を拡大するとしている。この案は昨年の定期総会で承認され、現在関係機関への助成金申請を行っている。しかし、資金面に加え、送迎手段や専門職員など人材確保の面で、実現に向け今後解決すべき課題は多い。こうしたアスンシオンでの動きがある一方、地方の日本人会でもそれぞれ新たな取り組みを始めている。パラグアイ国内の日系移住地のうち、ラ・パス、ピラポ、イグアスの三つはJICA直営の移住地だ。これらの地域では事業団により移住地内に診療所が設置され、長年医療活動に当たってきた。四十数年を経た今、利用者の多くを非日系のパラグアイ人が占めるようになってきているが、町から離れた移住地で診療所が果たしてきた役割は大きい。最近になってこれらの移住地で、老人クラブが中心になって移住地内に高齢者のための施設を整備する動きが進んでいる。日本人会の協力を受けて移住地の施設を転用したもので、幼稚園の校舎や診療所の看護婦宿舎、民家などを改装して集会所として利用を進めている。今年の十月にはJICAが独立行政法人に移行する。新組織への移行が福祉面での日系社会支援にどのような影響を及ぼすかは現時点でははっきりしないが、移住事業の縮小に伴い、今後は日系社会の側にもより一層の自助努力が求められてくるだろう。パラグアイの日系社会には、かつての日本が持っていた「子が親を見る」という価値観が今も根づいている。しかしそうした伝統も少子高齢化や女性の社会進出によって変わりつつある。親を残して日本に出稼ぎに行っているケースもある。こうした状況の中、将来的に日系社会全体で高齢者を支えていくシステムが必要になってくるだろう。開拓の時代が終わり、パラグアイ日系社会の目は少しずつ、福祉へと向かい始めている。