木地屋による伝承

木地屋(木地師ともいう)には二つの系統がある。文徳天皇の第一皇子、小野宮惟喬親王を職祖とする小野氏系の近江木地屋と、平家落人伝承をもつ木地屋であるが、人丸伝承に関係するのは近江木地屋である。近江の蛭谷・筒井八幡宮と君ヶ畑・大皇器地祖神社(ともに滋賀県東近江市永源寺)は、全国の小野氏系木地屋の二大拠点とされ、それぞれ東木地、西木地と称されている。ここには「氏子駈帳」(君ヶ畑のものは「氏子狩帳」)と呼ばれる記録が80数冊残され、正保4年(1647)から明治26年(1893)の約250年間にかけて、これに記録された全国の木地屋の延べ戸主人員の数は、6万人近くにのぼるとある。「氏子駈帳」は、筒井八幡宮の修築費用捻出ために、全国の山々に散在していた木地屋を歴訪(氏子狩り)し、冥加金を徴収した記録簿である。冥加金の対価として、木地屋の職祖といわれる惟喬親王縁起、綸旨、免許状、宗門手形、従来手形、印鑑、木札の7種類からなる「木地屋文書」を配付し、諸国往来勝手・商売の自由など職の保証をしたのである。

木地屋が史書に現れるのは、天平6年(734)の正倉院文書「造物所作帳」に“近江轆轤工”として載るのが最初というが、古墳時代前期の奈良県五条猫塚古墳から「轆轤鉋」が、弥生時代の唐古遺跡からはろくろ加工跡のある「高杯」が出土するなど、古くから存在していたと推測されている。宝亀元年(770)には、孝謙天皇が百万塔を木地轆轤で製作させ、これに日本最古の木版とされる陀羅尼経を納めて、南都十大寺に寄進している。


『木地師の世界』(渡辺久雄)には、石見・安芸両国にまたがる山地から周防部にかけて、「氏子駈帳」「氏子狩帳」に載るという集落のプロットが見られる。周防の木地屋は、筒井神社分の「氏子駈帳」にのみ載り、「周防国の木地師制度」(杉本壽、『山口県史・資料編、民俗1』所収)には、明暦3年(1657)から文政13年(1830)までの170年余の期間に8回の巡回で、延べ39ヶ所の地名が載り、貞享4年(1687)には錦町(岩国市)、鹿野(周南市)、徳地(山口市)で合計60軒の木地屋が集住していたとある。

沖本常吉の「職業集団と交易」(『西石見の民俗』和歌森太郎編所収)には、石見の木地屋は、安芸の奥地から山脈を越して四国系のものが入り、遅れてきた近江系とともに移動をはじめ、高津川上流の吉賀川流域(鹿足河内川、蓼野川、高尻川、木部谷川、椛谷川、横道川の各奥地)、匹見川上流域(広見、三葛、七村など)、宇佐川支流の深谷川奥地(金山谷、河津)には椀木地屋が多く集住していたとある。山口県へは県境に近いこれらの地から移住してきたのである。吉賀町柿木村からは、仏峠を経て山口市徳地へ、小峰峠を経て周南市鹿野へ、吉賀町六日市からは傍示ヶ峠を越えて錦町広瀬へ、匹見町三葛から河津越えで錦町宇佐への4ルートである。

そして徳地からは佐波川流域を、鹿野と錦町からは錦川流域を、瀬戸内沿岸部へとそれぞれ下っていった足跡が、各地に残る木地屋、木谷、木(固)屋、引地、ろくろ(轆轤、六呂、六郎)といった木地屋関連地名と、鳶ノ巣、鷹ノ巣など、漂泊する彼らの本拠地を思わせる鳥の名のつく地名と、そこに祀られている「人丸社」の存在から読み取れる。


木地屋と人丸の関係であるが、「文武天皇ノ御時、正三位木工頭ニ任ズ」(『古今和歌集注』)、「聖武の御時、従三位木工頭兼任太夫」(『続無名抄』)、「聖武の御時、春宮太夫木工権頭」(『人丸秘密抄』)と、人麻呂が木工寮の長・木工頭に就任していたとの記事が載っている。もちろん、これは後年に神格化された人丸を自分らの職長に置くことで、より大きな権威づけを図った木地屋集団によって作られた、とうてい事実とは思えない記事であるが、彼らが人丸神を伝承流布していった裏付けとなるものでもある。

木地屋が定住していたとされる「氏子駈帳」に載る周防国の集落は、錦町の宇佐、金山谷、河津、大原、美和町の大田原、周南市鹿野の大潮、米山、仁保谷、山口市徳地の柚木、滑、三谷、釣山などであるが、これらの地区で木地屋縁由とみられる「人丸社」は、錦町宇佐の宇佐八幡宮境内人丸神社、美和町大田原の河内神社配祀柿本人麿、徳地三谷の浮橋神社境内人丸神社の3社と少ない。宇佐八幡宮境内の人丸神社は夏焼地区から遷されたというが、隣接する玉蔵寺には木地師市右衛門妻の墓が残っている。そして浮橋神社境内のそれは、隣の集落・木地屋から遷されたのであろう。


島根県境に近いこれら中山間部地域では、大内氏の時代に石見半紙の製法導入によって、石見紙漉職人も多く招聘されている。紙漉きは毛利藩政にも引き継がれた。関が原合戦で敗れた西軍側に組した毛利氏は、防長二国減封で莫大な借財を負っていたが、この藩財政の立て直しに大きく寄与したのが紙漉きであったという。寛政10年(1798)、石見で撰述された『紙漉重寶記』では、柿本人麿を石見紙の「紙祖神」として崇めていることから、この地区にある「人丸社」の多くは、集落全体で営まれた紙漉きに縁由するものであろう。植楮・紙漉業と混在するこれらの地区では、良材を求めて山から山へと漂泊し、時には先住農民らと木材伐採で諍いをも生じることもあった木地屋という少数の職能集団のもつ信仰は、とうてい単独では残りえなかったものと思われる。ところが、徳地、鹿野から瀬戸内沿岸へと南下していく経路にある「人丸社」石祠に、移住していった木地屋の足跡を見出すことが出来た。手がかりとなったのは「人丸社」石祠に刻まれた菊紋である。

木地屋が墓石に菊紋を彫りつけている例は、群馬県多野郡上野村や長野県上伊那郡辰野町などでも確認されているが、島根県六日市町金山谷の木地屋小椋余右衛門の妻の墓に「16弁菊花紋」が、前述の宇佐玉蔵寺の墓石にも、菊紋を思わせる丸い掘出しがあるのを確認した。「人丸社」石祠の菊花紋も、惟喬親王を職祖とする小野氏系の木地屋が、墓石と同様にその身分の正当性を誇るために刻んだもので、木地屋による人丸伝承を証明するものとなろう。


「人丸社」石祠に刻まれた菊花紋の花弁数から、周防部に移住してきた木地屋を二つに分類することが出来る。「12弁菊花紋」の徳地系と「16弁菊花紋」の鹿野・錦系である。

「12弁菊花紋」の徳地系では、三谷木地屋から防府市久兼を経由して周南市へ、また山口市へは仁保から後河原にいたった経路が読み取れる。まず、周南市へ下っていった経路の菊花紋のある「人丸社」石祠は、防府市の奥畑麻生、久兼原河内(埴山神社境内)、周南市の戸田上苔谷、福川3丁目に建つものであるが、この他に、防府市久兼西河内の黄幡社石祠と周南市富田の山崎八幡宮境内の石祠にも「12弁菊花紋」があった。

文政13年(1830)の「氏子駈帳」には周防山口椀師の名があるが、これは山口市の後河原に集住した木地屋のことであるという。この徳地からのルートの中間点にあたる、仁保中郷原河内の人丸社石祠にも「12弁菊花紋」があった。

次に「16弁菊花紋」の鹿野・錦系木地屋の南下経路をみると、西から湯野ルート、須々万ルート、中須ルートの3経路に分けられる。湯野ルートにあたる高瀬・米光・湯野にも多くの「人丸社」があるが、ここもまた植楮・紙漉き業も盛んに営まれたところで、縁由類別することは困難である。しかし湯野柚木河内の観音岳山頂にある崩壊した石祠屋根に「16弁菊花紋」を確認した。須々万ルートでは、須々万本郷の東和奈古の人丸社を相殿とする河内神社境内に16弁の亜流と思われる「八弁菊花紋」石祠があり、一の坂、富田古市の「人丸社」石祠と御影町の「龍神社」石祠の人丸社石祠にも「16弁菊花紋」があった。以上2つは鹿野から発したルートであるが、中須ルートは錦町と考えられる。周南市の中須南市には人丸社を合祀している天満宮があるが、この参道入口に「16弁菊花紋」を刻んだエビス社石祠があった。もともとはこれが人丸社であったのではなかろうか。下松市の下谷の人丸社にも「16弁菊花紋」があった。


このように、石祠に遺された菊花紋を手がかりにして、木地屋のグループ分けと瀬戸内沿岸の各地へと南下していった経路を検証してみたが、当然この経路上に散在する人丸社のいくつかもまたこの範疇に含めて考えてよいだろう。防府市の奥畑赤山、久兼兵瀬、周南市の奥四熊、川曲樋ノ迫、下上岩屋、下上武井、中須北椿、中須南柏山、下松市の南花岡、岩国市錦町の高木屋などにある「人丸社」が候補にあげられる。

錦町から錦川を下る岩国市一帯では、創設当時のまま残存する「人丸社」石祠はなく、もちろん菊花紋も見出すことが出来なかった。しかし美和町の秋掛大田原から県道2号岩国佐伯線沿いの神社、白羽神社(北中山)、大元神社(田ノ口)に合配祀された「人丸社」も、木地屋職関連地名である六呂谷(北中山)の近くにあることから、木地屋伝承に縁由するものとしてもよいだろう。

なお、菊花紋が刻まれた石祠は、山陽小野田市から光市までの、瀬戸内沿岸部でも多く確認している。これらは金屋大工所がおかれるなど鍛冶・鋳物師の集住した地であり、木地屋とは縁由を別にするものとして、別稿(「鍛冶・鋳物師集団による伝承」)で考察する。


一方、平家落人伝承をもった木地屋は、瀬戸内海側より中国山地へ向かって移動し、各地に隠れ里をつくりながら定住していっている。岩国市の「六呂師」、錦町木谷の「大固屋」「引固屋」「木地屋」と木谷峡を遡り「平家屋敷」に至る経路などがそれといわれている。 熊毛郡大和町の田布施町との境に神籠石遺跡をもつ石城山があり、ここに興味深い伝説が伝わっている。「石城山には山姥が住みついていて、里の人が祭りに使う膳椀などを貸していたが、後に借りた者が一部の器を紛失してからは貸さぬようになった」という「椀貸伝説」である(「石城山伝聞」、松岡利夫『周防長門の伝説』所収)。柳田国男は、こういった「椀貸伝説」は各地に残り、そのかたわらに平家の落人伝承をもった「隠れ里」が控えている例が多いことから、平家落人系の木地屋と平地住民との交易の一端を示すものと考察している。ここ石城山の東南麓には、木地山(194.8m)があり、木地という集落名もある。

平家落人伝承をもつ木地屋は、その性質上、惟喬親王を職祖とする近江系木地屋の「氏子狩り」制度を受け入れることはなく、当然のことながら人丸伝承もないという。しかし周南市鹿野の氷見神社(秘密尾)も平家伝承のあるところであるが、同所石ヶ谷にあった「人丸社」(奥大町坂根にあった鹿野鉱山の採鉱職人伝承縁由か)が合祀されていることを思うと、後世にはその戒律も薄れていったのであろう。


なお、島根県との県境を流れる深谷川の奥に孤立したようにある、錦町の金山谷と河津の両集落には、那須の木地屋(広島県山県郡戸河内町)が宮島木地(杓子木地)の技術を導入して、明治前後から移住してきたという(「周防の木地屋・二題」金谷匡人、『山口県史・資料編、民俗1』所収)。

『戸河内郷土誌』によると、那須の木地屋は、江戸期末に佐伯郡の水内から移住してきたのを起源とし、明治33年に石見の木地屋の指導をうけてから漆器生産が盛んになった地方振興の木地屋とある。