人丸(柿本人麿)神を祀る神社・叢祠(以下、「人丸社」という)は、『柿本人麻呂論』(桜井満・桜楓社)の巻末に載る「柿本人麻呂関係社一覧」によると、北海道から九州まで広く分布し、34都道府県252社がリストアップされ、なかでも山口県に92社が数えられている。

「人丸社」が、『石見国美濃郡神社明細帳』にいう、人丸が生まれ、そして死んだとされる、今の島根県に34社があるのは頷けるとしても、山口県がこれをはるかに上回る数で、1位になっているのには驚きであった。これほどの数がどのような由来で、山口県に伝わってきたのか興味をもち、これら神社・叢祠が今も残るのか、県内全社を踏査確認し、その伝承由来について考察してみた。

いったん途絶えてしまった伝承をつなぎ合わせようとするのは、とうてい無理な話であるとは十分わかっているが、山口県にかくも多くある人丸社のルーツについて、自分なりに考察し検証を試みたものである。


『防長風土注進案』、『神社明細帳』などの史料には、配祀・合祀などとして人丸神の名はあるが、すでにその伝承の途切れている神社や廃社、消滅している叢祠も少なからずあった。しかしその一方で、各市町村史や地方史研究会誌などの文献資料等から新たにその所在を教示された叢祠も多くあり、近郷の郷・村社に統廃合され消滅したとされる叢祠が、今も旧地に存在し、集落の回り講等で祭祀されている例も多く、確認できた「人丸社」総数は200社を超えるものになった。過疎化、離散等で今は無住となってしまった旧集落の山中などに埋もれたままになっているのも、まだ少なからずあることと思われる。

人丸社分布図

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現存する「人丸社」を地区別に比較すると、長門部の46社に対し、周防部は156社と3倍を超える多さであった。長門部は旧阿武郡(22社)に集中しているが、周防部は防府市(22社)、旧徳山市(33社)、旧玖珂郡(32社)が拮抗突出している。もちろん実際に存在した数は、これをかなり上回っていたものと思われるが、天保13年の淫祠解除令や明治39年の神社合祀令により、その多くは合祀され、また廃社・消滅の憂き目にあったのだろう。

県内の「人丸社」の大部分は島根県益田市高津の柿本神社からの勧請であった。これは、古来より石見地方は、周防・長門との結びつきが強く、大内、毛利と続いた藩政時代には一つに組み込まれるなどし、往来が自由であったためであろう。特に、1500年代に楮和紙業が、江戸後期からはたたら製鉄が藩政によって盛んになると、石見からこれら職人集団が多く招聘されているから、彼らによって高津の人丸信仰も一気に伝播したと思われる。

桜井満は前掲書のなかで

「こうした石見におけるタタラ師や木地屋の移動・土着と柿本神社の分布が重なるものもあることは、紙業ともかかわって極めて重大な点」とし、「中国山脈の石・防・長三国に足を踏み入れたタタラ師や木地屋の信仰の対象にもなり、タタラ師や木地屋の移動の跡に楮畑を広げて行った農民が紙祖として祀り、五穀豊穣、疫病・火難防除の神としての信仰を広げて行ったものと思われる」
と書いている。


人丸神の効験は「疫病除け」、「火難除け」、「眼病治癒祈願」、「五穀豊穣祈願」、「水難海上安全」と続き、もちろん万葉の歌聖である人麻呂から、菅原道真公とならぶ「学芸の神」にもなっているが、圧倒的に「疫病除け」に効験をもとめるものが多い。これは享保18年(1733)に、県内全域で17万8千人を越す病餓死者を出したのをはじめ、各地では疱瘡麻疹・コレラ・赤痢等が頻繁に流行したのを契機に、これらの除難祈願に集落ごとに勧請したためであろう。

しかし、このような淫祠(藩の根帳に載らない社祠を淫祠といった)は、後世のたびたび発せられた神社整理の対象になり、その多くは廃社となったが、信仰する集落ではその勧請由来をもっともらしく創り改め、形ばかりの合祀・廃社や藪に隠すなどして、令の緩和を待ち存続を図ったのである。