
マインドコントロールとは何か
もくじ
2.「マインドコントロールされる」ことと「自ら信じる」ことは異なる
4.自発的に信じている者に対しては、マインドコントロール論は意味を成さない
5.解信術
8.リンク集
「マインドコントロール」という言葉がある。
この言葉に関する明確な定義は、現在のところされていない。
「マインドコントロール」を日本語に直訳すれば「心理操作」となる。
だが、マインドコントロールとは単なる「心理操作」なのだろうか?
たとえば、友人と一緒に、食事をしに行こうという話になる。
友人は中華料理を食べに行きたい。
自分はフレンチを食べに行きたい。
友人は、中華料理を食べたいから、
「中華は身体にいいんだよ」などと、こちらの心理を操作しにかかる。
自分も、「そのフレンチレストランは千五百円で食べ放題なんだよ」と、
やはり、相手の心理を操作しようとする。
また、スーパーマーケットに行くと、
客が思わず買いたくなるような演出が数々、ほどこされている。
これもまた心理操作だろう。
このようなことを「マインドコントロール」と言ってしまえば、
誰もが「マインドコントロール」の加害者になってしまうだろう。
何でもかんでも「マインドコントロール」としてしまえば、
本来のマインドコントロールが隠れてしまう。
「マインドコントロール」とは単なる「心理操作」ではない。
相手を何日も監禁し、食事も睡眠も与えず、正常な判断力を奪う。
そこで、特定の考え方を植え込むようなことが
「マインドコントロール」であるはずだ。
相手を監禁状態において、
中華料理のヘルシーさを語るならばマインドコントロールだろうが、
相手がいつでもNOと言える状況下で、
中華料理の良さを語るのであれば、それはマインドコントロールではない。
つまり、マインドコントロールとは、
『相手がそれを拒絶する事が困難な状況下において、
ある思想、考え方に誘導する行為』
と定義すべきであろう。
2.「マインドコントロールされる」ことと「自ら信じる」ことは異なる
納豆を一日3パック食べ続けると痩せるというテレビ番組がキッカケで、
全国のスーパーから納豆が品切れになるという事件が起こった。
後に、この番組の中で、虚偽の内容が含まれていたことが発覚し、
テレビ局が責任を問われた。
番組に虚偽の内容を含んだわけであるから、悪質である。
だが、この場合、視聴者は身柄を拘束されていたわけではない。
その情報に乗るも、乗らぬも、視聴者自身が判断すれば良いことである。
情報に乗ってスーパーに納豆を買いに走った者は、
マインドコントロールされたわけではなく、情報を「信じた」のである。
納豆を買わなければ、その身に何らかの被害が及ぶという状況であれば、
「マインドコントロール」と言えるだろうが、
完全に、情報選択の自由が与えられている限りは、
マインドコントロールとは言えない。
教員が児童に対し、特定の歴史観を語っている段階はまだ、
マインドコントロールとは言えない。
ところが、児童がその歴史観を受け容れないことによって、
教員が何らかの報復を行うということがあれば、
それはマインドコントロールになってしまう。
宗教によるマインドコントロールもまた、同様である。
完全に自分の意志で、その宗教を選択したならば、
マインドコントロールとは言えない。
ところが、特定教団の信者である両親のもとに生まれた子供の場合、
その宗教を拒絶することは、親の庇護を受けられないということになる。
この場合は、他からの強制力が働いているので、マインドコントロールとなる。
つまり、「逃げるに逃げれない」という状況が、そこに発生していて、
その状況下において、
特定の思想や考え方を注入されることがマインドコントロールである。
よく、いじめられっ子に対し、
「いじめられる側にも問題がある。自分が変わらない限り、いじめは治まらない。」
という言葉が投げかけられることがある。
この場合、「いじめ」という、逃れられない状況下の中で、
「自分が変わらなければならない」
という考え方に、いじめられっ子をマインドコントロールしていることになる。
本当に、その子に変わって欲しいのならば、まず、いじめを止めることだ。
そして、自ら変わるように、対等な会話をすることである。
マインドコントロールには常に他からの強制力が働いている。
友人と一対一で喫茶店でコーヒーを飲んでいる時、
宗教団体に勧誘したとしても、
そこに強制力を働かせなければ、「マインドコントロール」とは言えない。
そして、友人が勧誘に乗って入会した場合も、
マインドコントロールされたわけではなく、「信じた」のである。
自発的に信じることと、マインドコントロールとは異なる。
この相違がわからなければ、宗教問題は解決できない。
「マインドコントロールから解放させる」という言葉がある。
これは、どういう意味になるのだろうか?
『相手がそれを拒絶する事が困難な状況下において、
ある思想、考え方に誘導する行為』
がマインドコントロールの定義であるならば、
「拒絶する事が困難な状況下」から相手を救い出すことが、
「マインドコントロールから解放させる」という本当の意味となる。
たとえば、ある人物が、複数の教団信者から、監禁状態で勧誘されていた場合、
その人物を、その場から救い出すことが
「マインドコントロールから解放させる」ということになる。
NO!と言えない環境下から、相手を解放することが、
「マインドコントロールから解放させる」ということだ。
宗教団体というしがらみの中に自分を置いている以上、
常にマインドコントロールにさらされていると言える。
その人物をマインドコントロールから解放させるということは、
その教団を抜け出させてあげるということである。
たとえば、教団を抜け出した後も、
その教団から貰った本尊を、一人で信仰し続けているとする。
この場合、その信仰は、やめようと思えば、やめれるのだ。
にも関わらず、信仰を続けているのだから、これはマインドコントロールとは異なる。
その区別を明確に付ける必要がある。
4.自発的に信じている者に対しては、マインドコントロール論は意味を成さない
あなたの友人が、世間的な評判の悪い、ある宗教団体の集会に誘われたとしよう。
そして、その友人は、集会で複数の信者に囲まれ、数時間も勧誘を受けた。
最初は、拒絶する心が強かったが、さまざまな体験談を聞かされるうちに、
「もしかして、この宗教は正しいのではないか」という気持ちが起きた。
そして、今度、教団の幹部に会って話すという約束をして帰って来た。
つまり、これがマインドコントロールである。
この状況から、友人を救うにはどうすれば良いだろうか?
『マインドコントロールとは、相手がそれを拒絶する事が困難な状況下において、
ある思想、考え方に誘導する行為である。』
そして、
『カルト教団とは、マインドコントロールによって信者を獲得し、
信者を行動させる宗教団体である。』
これらの知識を、友人に伝えることだ。
それだけで、友人は、自分がマズイことになっていると気づく。
マインドコントロール論で人を救えるのは、せいぜい、こういうケースまでだ。
当人が、すでに入信して何年も経過し、
自分なり信仰体験を掴んでしまっている場合は、
すでに「マインドコントロール」と言える領域を超えてしまっている。
つまり、自発的信仰に切り替わっているのだ。
この場合は、マインドコントロール論をいくら説いて聞かせても、何にもならない。
「納豆を食べたら痩せますよ」というテレビ番組を観て、納豆を買いに走った人は、
そのテレビの情報を、自発的に信じたのである。
自分の肥満解消を、そのテレビの情報に「賭けた」のである。
このような人は、そもそもマインドコントロールされていない。
マインドコントロールされていない人間に対し、
マインドコントロール論を説いても意味はない。
彼女は、納豆に賭けてみたいのだ。
幸い、この納豆事件は、デッチアゲ番組であることが露呈し、
全国の納豆まみれの主婦の頭に、水を浴びせることができた。
だが、もし、デッチアゲ番組であることが露呈しなかったら、
納豆嫌いな家族も、ずっと、納豆を食わせ続けられることになっただろう。
そして、自らの体験で、納豆のダイエット効果の有無を悟るしかなかっただろう。
特定宗教にはまっている人についても、同様のことが言える。
宗教の信者のすべてが、マインドコントロールされているわけではない。
その宗教を自発的に信じている人もいる。
その宗教に人生を賭けているのだ。
この場合、その人にマインドコントロール論を説くことは効果はない。
「たて板に水」となるだけだ。
自発的に、その宗教を信じているのだから、
信じられなくなるような材料を提示するしかない。
その教団のスキャンダル問題や、教義的矛盾をつくことも効果がある。
だが、それは決定打にはならない。
一番の決定打は、実効性を否定することだ。
「君の所属している宗教団体の会員は、
世間一般の人々と比較し、幸福であると言えるかい?
50年来の強信者である会員のAさんは、昨年、事業を失敗させて破産した。
教祖幹部のBさんは、若くして病気でなくなった。
ところが、隣のCさんは、君の教団が邪教とみなしている○○教の信者であるが、
事業を大成功させて、90歳の大往生だ。
君も、信心していない友人がいるだろう。
その友人と比較し、自分のほうが格段に幸せであると言えるかい?」
このように冷静に語りかけ、自分で信心の効果について分析させてみることである。
この場合、何よりも大切なのは、相手を馬鹿にしないこと。
見下さないこと。
馬鹿にし、見下せば、相手は精神的なバリアーを張る。
バリアーを張られては、対話をすることは不可能だ。
もし、自分が相手の立場ならば、自分もその宗教を信じようとしたかも知れない。
そういう対等な気持ちを持って、対話をすることが大切である。
相手から、宗教という心の支えを奪う行為というのは、
「愛」なくして、できることではない。
なぜならば、宗教をよりどころとしている者は、
心に隙間をかかえているからである。
その隙間は、相手を受け入れようとする、愛でしか埋まらない。
だが、愛をもってしても、相手がその宗教を捨てない場合、
もはや、言葉による説得ではどうにもならない。
もし、その人が恋人の場合、別れるという選択も、やむを得ない。
相手は、自分の意志で、その宗教を選択している。
だが、こっちは、その宗教を受け容れられないのだ。
ならば、絶対に噛み合わない。
他人の言葉に耳を貸さない者は、自分で挫折するまで、己の非に気づかない。
何かに依存して止まない精神状態を、広い意味での「神経症」と呼ぶことがある。
人間というのは、必ず、何かに依存している。
だから、誰でも大なり小なり、「神経症」的と言える。
問題なのは、それがどういう形で現れるか?である。
中には、宗教に依存して止まない人がいる。
ある宗教団体を離脱しても尚、他の宗教団体を求め、渡り歩く。
間違いなく、これは神経症的依存行動である。
宗教団体のマインドコントロールによって、この神経症的傾向は強化される。
宗教団体を渡り歩くことで、ますます、強化されて行く。
こういう人に対し、
「宗教団体を離脱しても、マインドコントロールの影響が抜けていない」
という言い方がされるが、それは妥当だ。
この場合、問題になるのは、どの宗教団体に行っても、
「報われていない」ということである。
安住の場所にはなっていない。
人は、大なり小なり、何かに依存しているものだ。
だが、依存する対象を間違えると、報われない。
宗教団体というものは、依存しても報われない。
人間は、存在そのものが不安であるから、何かに依存することは悪いことではない。
だが、依存する対象を間違ってはならない。
神仏に頼りたいのであれば、個人の信仰でも可能である。
人間関係を求めるのであれば、通常のサークルでも構わない。
宗教団体という、マインドコントロール性の高い場所に行くと、
神経症的傾向が強化され、ますます不安になって行く。
人生を宗教に賭けてみたいと思う気持ちは、誰にも否定することはできない。
神仏が居ないということを証明できる人間もいない。
ならば、仮に、世間からカルト呼ばわりされている教団であっても、
そこを拠り所としている者は、神経症的ではあるが、決して「精神病者」ではない。
宗教を信じる行為は、精神病ではない。
精神病でない以上、精神科医や精神カウンセラーには何もできない。
ただし、中には、宗教を信じることで過度の妄想に陥り、
通常の社会生活が困難になるケースもある。
この場合に限り、精神科医や精神カウンセラーは、
ある程度の援助をすることができる。
だが、精神科医や精神カウンセラーには、相手の思想を変えさせる力はない。
せいぜい、薬を与え、
普通の生活のリズムを取り戻すよう、アドバイスするのが精一杯である。
宗教に迷う人を救えるのは、宗教に迷った経験のある者だけである。