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新楊貴妃伝

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     楊貴妃は天草に流れ着いたか   - 楊貴妃天草漂着伝説 -     
  

田中知啓 (自由塾研究員・熊本大学文芸プロジェクト深夜同盟代表)   入口紀男 (熊本大学名誉教授)

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photo00 竜洞山に立つ楊貴妃像
制作監修 石原昌一

【要約】

 熊本県の天草に「字」(あざ)として「楊貴妃」という古い地名が存在する。その地に残る「しんわ楊貴妃伝説」について、それを歴史的、科学的視点から検証した。楊貴妃が「安史の乱」を逃れて唐の都から天草に流れ着いたという可能性について、いくつかの「根拠」が存在する。


【1. 楊貴妃天草漂着伝説とは】

 熊本県天草郡新和町(しんわまち 現在の天草市新和町)の古い地図を開くと、竜洞山(りゅうとうざん)の一画に「楊貴妃」という「字」(あざ)名が残っている。この竜洞山の付近一帯には、遠い昔に異国から流れ着いたという女性について、ある伝説が残っている。


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天草市新和町(しんわまち)竜洞山 (りゅうとうざん)の位置


 今から千二百年あまり昔、竜洞山の一画にこつ然と見事な家が建っていた。その家には一人の美しい女性が住んでいた。あまりの美しさに村人たちは女性を恐れた。ある年の夏、疫病が流行し、村人は困っていた。それを知った女性は、唐の国から持って来たという薬草を村人に与え、疫病に苦しむ人々を救った。村人は女性を尊敬した。女性は「楊貴妃」と名乗り、唐の国から皇帝の使者が迎えに来るのを待っている身であると打ち明けた。ある日、一天にわかにかき曇り、雷鳴とどろく中で、巨大な竜が山頂に舞い上がった。竜とともに女性の姿も天高く消えていた。家も一瞬にしてなくなった。ただ、女性が用いていた匂い袋が一つ山中に残っていた。女性の家があった跡地は「楊貴妃」と呼ばれるようになった。
 これが楊貴妃が天草に漂着したという「しんわ楊貴妃伝説」である。竜が舞い上がった山には竜が住んでいたという洞穴があり、「竜洞山」の名がある。


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熊本県天草郡新和町字図

    


左図を拡大(「楊貴妃」の字名がある。)


 我が国にはかつて「義経ジンギスカン説」という風説があった。それはいわゆる「判官(ほうがん)びいき」によって、源九郎判官義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになったというものであった。林羅山、新井白石、徳川光圀、P. シーボルトらがそれぞれ著作の中で記述した。しかし、当のモンゴルに「義経渡来伝説」は存在しない。チンギス・ハーンは、モンゴルの正史である『元史』、『元朝秘史』、『集史』などに、父親イェスゲイと母親ホエルンの子テムジンとして出生したことがはっきりと記載されていることから、「義経ジンギスカン説」は、現在はそれらの証拠(モンゴルの正史)によって否定されている。
 一方、中国には、楊貴妃が安史の乱を逃れて日本に亡命したという伝説が根強く存在する。中国でそのような伝説が存在し得る根拠は、たとえば、楊貴妃が埋葬された(756年)といわれる翌年(757年)、その墓には楊貴妃の遺体も衣服も残っていなかったことが中国の正史『新唐書』に記録されるなど、楊貴妃の死そのものに不審な点が多く、日本亡命説を必ずしも否定できないからである。
 楊貴妃が天草に流れ着いた根拠として、「天草」という地名は楊貴妃が村民に伝えた薬草の名前であるという新説も創作されているようである。しかし、「天草」の地名は楊貴妃とは無関係である。なぜなら、勅撰史書『續日本紀』(しょくにほんぎ)の天平十六年(744年)の段に「五月庚戌(かのえいぬ) 肥後國雷雨 地震 八代 天草 蘆北三郡官舍」の記載がある。そのように楊貴妃が中国にいた744年には、天草はすでに「天草郡」と呼ばれていたからである。
 では、「しんわ楊貴妃伝説」について、果たして歴史的・科学的に事実はどうであったのか、以下検証の旅に出かけよう。

【2. 竜洞山】


      

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竜洞山よりのぞむ八代海 (海上に「長島」が浮かぶ)

 熊本県の宇土半島から国道266号線を車で南下し、パールライン橋を通って天草上島(かみしま)に入る。上島と下島(しもじま)の間の「海峡」はそのまま国道266号線として橋によって陸続きとなっている。下島の天草市中心部から県道26号線を南下すると宮地浦の深く切れ込んだ湾が見え始める。付近では真珠の養殖が行われている。その東に見える小高い山が竜洞山(標高317メートル)である。竜洞山は、下島の東部に位置し、その東には八代海が広がっている。八代海は、「不知火海」(しらぬいかい)ともいわれ、九州本土を対岸とする、穏やかな美しい内海である。
 八代海の東の沿岸には、南北に「日奈久(ひなぐ)断層」と呼ばれる長さ40キロの活断層が走っている。この日奈久断層を境に八代海側は北へ、九州本土側は南へ、毎年1ミリ程度ずれる。八代海には海底にも南北に無数の断層が走っており、八代海はこの地溝帯にできた陥没と見られる。天草上島には九州山地の砂れき層が見られるが、この砂れきは球磨川(くまがわ)が九州山地の奥から運んできたものである。先史古代において八代海は陸地であったからであり、九州本土の球磨川が天草上島を流れていた。そして約11万年前に九州の西側が陥没して八代海が生まれたと考えられている。竜洞山の周囲は、写真で見るように美しい海である。この竜洞山から天草の内陸を見渡すと緑深い森である。ここからすぐ海岸へ下りたところに古い焼酎工場がある。
『續日本紀』によれば、奈良時代末の778年11月13日に、唐よりある少女(推定14歳)が肥後國天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に流れ着いた。少女は、遣唐使として752年に入唐(にっとう)して玄宗皇帝に仕えた藤原淸河(ふじわらのきよかわ 光明皇后の甥)と唐の女性との間に生まれた藤原喜娘(きじょう)であった。喜娘は、同年唐で客死した父親(藤原淸河)の故国を見るため、遣唐使船の帰り船に乗り込んで11月5日に日本に向けて出航したが、四日目に海上で大しけに遭って船が大破。喜娘は、舳(へさき)にしがみついて海上を6日間漂流し、11月13日に長島に流れ着いて村民に助けられたものである。その長島がこの竜洞山からすぐ南の海上に見える(写真)。


【3. 日本人は「安史の乱」と長安の陥落をいつ知ったか】

 唐の玄宗皇帝(在位712-756)は、税制を改革し、節度使(せつどし。地方軍と地方財政を担う)の制度を導入するなど、優れた治世に努めていた(後世「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれる)。しかし、楊貴妃の美しさに心を奪われ、やがて国政を顧みなくなり、「安史(あんし)の乱」を引き起こす。そのため、楊貴妃は「傾国(けいこく)の美女」と呼ばれ、古代中国の四大美人(西施(せいし)・王昭君(おうしょうくん)・貂蝉(ちょうせん)・楊貴妃)の一人とされている。
『續日本紀』によれば、奈良時代、渤海(ぼっかい)国(現在のウラジオストック辺りにあった大国)に大使として派遣されていた小野田守(おののたもり)は、758年急きょ帰国し、日本の朝廷に対して、唐において安史の乱(安禄山・史思明による反乱)が発生した事実と、「燕」(えん 安史の帝国)によって長安が陥落したことを報告した。これを受けた朝廷は、燕が日本に侵攻することを恐れて大宰府に警戒を強めるよう命じた。これが、日本人が安史の乱の発生と長安の陥落を知った最初の記録である。
 白居易(はくきょい 白楽天 772-846)は、安史の乱の発生(756年)から50年経って長編の漢詩『長恨歌』(ちょうごんか)を賦した(806年)。それは最澄と空海が第18次の遣唐使として帰国した年(806年)である。白居易は、『長恨歌』の中で玄宗皇帝と楊貴妃の物語を美しく歌い、平安時代以降の日本文学にも多大な影響を及ぼした。紫式部の『源氏物語』の「桐壺の巻」にも、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋の描写に『長恨歌』をほうふつとさせる部分が多い。

【4. 天草の村民は「しんわ楊貴妃伝説」を創作し得たか】

 天草諸島は、古代から島原、長崎の文化圏に属し、中世以来文化的に高いレベルを有していた。日本に西欧から活版印刷の技術が最初に伝わったのは天草である。グーテンベルグ印刷機は、四名の天正遣欧少年使節団がヨーロッパから持ち帰ったものであり、1591年天草のコレジョ(イエズス会の学校。カレッジ)に設置された(現在の天草市河浦町)。日本にギリシャの『イソップ物語』が伝わったのは、1593年(文禄2年)に『ESOPO NO FABVLAS』(イソポ ノ ファブラス)として天草で出版されたのが始まりである。これはイエズス会の宣教師がラテン語から翻訳したものと考えられており、天草のコレジョで印刷されたローマ字のものであった。その後江戸時代初期から『伊曾保物語』として各種出版された。
 島原の乱(1637-1638)以降、キリスト教徒は天草諸島から形の上で一掃された。幕府は、そのうえで天草諸島に対して文化的な政策として著名な高僧など優れた知識人を多数送り込んだ。長い歴史を通じて天草諸島の村民の知的レベルは相当に高かったものと思われる。天草諸島の村民は、白居易の『長恨歌』や玄宗皇帝と楊貴妃の物語についても、遅くとも島原の乱以降であるならば知っていたであろう。それにしても、竜洞山にある「楊貴妃」という字(あざ)名の成立は、いつだったのであろうか。
 熊本県は、幕藩体制下では肥後藩と呼ばれた。一国一城とすべきところ、肥後藩は、例外的に一国二城(熊本と八代)とすることが許されていた。その理由は、八代城が二つの重要な役目をもっていたからである。一つは薩摩を監視することであった。薩摩はいずれ江戸幕府を倒す恐れがあった。八代城が薩摩からの攻撃で全滅したころに早馬の知らせで熊本城の守りが固まる。そのために八代城の存在が許されていた。八代城のもう一つの役目は、異国船の来航を監視することであった。そのように、八代海には古代から近世に至るまで異国の船がよく来航した。
 竜洞山に、あるとき中国から一人の女性が来航して住んでいた(と仮定する)。女性は薬草の優れた知識を持っていた。薬草によって村人を救った女性は、見れば見るほど美しかった。村人がその女性をきっと「楊貴妃」の生まれ変わりであると信じて尊敬したとしても不思議ではない。そして、女性が住んでいた一画を「楊貴妃」と呼ぶようになったのかもしれない。「しんわ楊貴妃伝説」は、おそらく何らかの事実を参考にして創作されたものであろう。
 しかし、「しんわ楊貴妃伝説」が単に後世に創作されたものでなく、本当は事実に基づいているのではないかどうか、以下その可能性を歴史的、科学的視点から検証することは、なお意義があると思われる。


【5. 楊貴妃とは】

 楊貴妃は、唐の皇帝玄宗(げんそう 685-762)の皇妃である。絶世の美女として後世に知られている。楊貴妃は、719年に生まれた(6月1日と伝えられる)。姓を楊(よう)、名を玉環(ぎょくかん)といった。美しい娘であった。蜀(しょく)州(現在の四川省のあたり)の出身で、父は官吏(蜀州の司戸)の身分であったとされ、良家の娘であったと推定されている。もっとも、当時の「良家」とは、三世代以上にわたって犯罪者、医者、巫(ふ。みこ)、工、商、賤民の者を出さない家系のことであったようである。
 楊玉環を市井から見出したのは高力士(こうりきし 684-762)であった。高力士は自ら楊玉環をめとることができない。高力士は宦官(かんがん)であった。紆余曲折を経て、高力士は楊玉環を「楊太眞」という戒名で出家させ、還俗させて玄宗皇帝の後宮に入れた。高力士は玄宗皇帝の腹心であり、玄宗の詔勅の多くは高力士が書いた。優れた策士として知られている。貴妃というのは名前ではなく、皇妃としての地位を表すものであった。
 白居易は、楊貴妃のことを『長恨歌』の中で次のように歌っている。
      

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徳冨香穂里 「楊貴妃と高力士」

「やわらかな髪、花のような顔、歩みにつれて金のかんざしが揺れる。芙蓉模様のとばりは暖かく、春の宵を過ごす。春の宵はあまりに短く、日が高くなって起き出す。これより王は早朝の執政を止めてしまった。王の意を受けて宴に侍って途切れる暇もない。春には春の遊びに従い、夜は夜で王の側に一人で侍る。後宮には三千人の美女がいたが、三千人分の寵愛をいまや一身に受ける」 (雲鬢花顏金歩搖 芙蓉帳暖度春宵。春宵苦短日高起 從此君王不早朝。承歡侍宴無閒暇 春從春遊夜專夜。後宮佳麗三千人 三千寵愛在一身)
 中国の正史『新唐書』(1060年)によれば、楊貴妃は歌舞音曲にも優れていた。また、宋代の『楊太眞外傳』によれば、彼女の琵琶は、蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。白居易の詩『新楽府』によれば、楊貴妃は西域の胡旋舞(こせんぶ)を上手に舞った。楊貴妃は、龍脳(りゅうのう。南方の香料)をつけていたため、遠くまでその香りがしたという。
 楊貴妃は、運命に翻弄された美女というイメージもあるが、本当は嫉妬深い、あるいは女性として強く息づく人物ではなかったかとも思われる。玄宗皇帝の近くに梅妃(ばいひ)という女性が居た。梅妃は、一般には架空の人物だったともされているが、楊貴妃が現れるまで玄宗皇帝の寵愛を一身に受けていた。玄宗皇帝は、楊貴妃を迎えてからもなお、梅妃に心惹かれるようであった。あるとき玄宗皇帝は、梅妃をこっそりと宮殿に召し還させた。それを聞きつけた楊貴妃は、その夜すぐに宮殿に行き、「梅妃はどこにいますか」と玄宗皇帝に問い詰めた。玄宗皇帝は垂れ幕の中に梅妃を隠していたが、寝室に梅妃が居ると確信していた楊貴妃は、玄宗皇帝に政務を行うように言い、自分は部屋で待っていると言った。玄宗皇帝は、楊貴妃のこのような他を寄せ付けない強い一面にも惹かれていたものと思われる。
 また、楊貴妃は、エジプト女王のクレオパトラにも負けない、男女の駆け引きにも優れていたようである。ある日楊貴妃は玄宗皇帝の意を損なって外邸に帰された。高力士が皇帝の使者を差し向けると、楊貴妃は「私の罪は万死に値するものですが、肌と髪のほかはみな陛下から賜ったものです。ですから一結びの髪をもってお別れのしるしにします」といって一束の髪を持って帰らせた。玄宗皇帝はこれを見て驚き、急いで楊貴妃を召し還して宮廷に入れさせたという。
 玄宗皇帝が出かけるときはいつも楊貴妃がついて行った。彼女が馬に乗ろうとする時には、高力士が手綱をとり、鞭を渡した。彼女には専属の絹織り職人が数百人おり、他に装飾品の職人が数百人いたという。また、争って様々な献上物を贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進したと伝えられる。楊一族の依頼への官庁の応対は、皇帝の詔勅に対するものの様であったと伝えられる。


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紀元700年の唐の版図
Albert Herrmann, “The Tang Dynasty, Boundaries of 700 A.D.”
History and Commercial Atlas of China, Harvard University Press, 1935


【6. 唐から見た倭国(日本)】

 倭国(日本)は、630年(舒明2年)の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)による第一次遣唐使以来、唐に朝貢使を派遣していた。唐は、663年10月5日に新羅(しらぎ)と連合して朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で倭国・旧百濟(くだら)連合軍を打ち破った。敗退した倭国の軍船は800隻、勝利した唐の軍船は170隻であったと伝えられる。百濟はそのとき完全に滅亡した。天智天皇はその後、665年、667年、669年に相次いで遣唐使を派遣した。
『旧唐書倭國日本傳』によれば、703年、遣唐使粟田真人(あわたのまひと)が則天武后(そくてんぶこう 623-705)の「周」に初めて「日本」(倭国でない)からの国使として朝貢した。真人は、経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美な人であったと絶賛されている。則天武后は、真人を特別に麟徳殿での宴の席に招き、「司膳卿」(しぜんけい)という官職を贈った。真人は、白村江の戦いで捕虜になっていた日本人を連れて704年に帰国した。
 玄宗皇帝の在位中(712-756)に、遣唐使は3~4回の派遣が行われている。717年に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、中国の風を慕い、留まって去らず、科挙の試験に合格し、姓名を朝衡と改めて「左補闕」、「儀王友」という官職を歴任した。 


玄宗皇帝在位時代(712年-756年)の遣唐使派遣

 次数  

    出発年    

     帰国年     

          使節           

 第9次 717年(養老元)  718年(養老2)   多治比県守(押使) 大伴山守(大使) 藤原馬養(副使) 
  阿倍仲麻呂 吉備真備 玄昉 井真成が随行。
 第10次 733年(天平5)  735年(天平7)   多治比広成(大使) 中臣名代(副使 平群広成 大伴古麻呂が随行 
  帰路第3船の平群広成は難破してベトナム(現)に漂着 
  帰路第4船は難破して帰らず 
 第11次 746年(天平18)    -   石上乙麻呂(大使)。中止となる。
 第12次 752年(天平勝寳4)  754年(天平勝宝6)   藤原清河(大使) 吉備真備(副使) 大伴古麻呂(副使) 鑑真来日 
  帰路第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず

 遣唐使船は、大阪の住吉大社(すみのえのおおやしろ)で海上安全の祈願を行い、住吉津(すみのえのつ 大阪市住吉区)から出港した。当時の航路は南島路といって、瀬戸内海、那津(なのつ 福岡市中央区)、坊津(ぼうのつ 鹿児島県南さつま市)、奄美大島、阿兒奈(あこなは 沖縄)を経由して東シナ海を横断した。遣唐使船は木造の帆船で横波に弱く、無事に航行できる可能性は低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。長江の河口域にある蘇州(江蘇省蘇州市)あるいは明州(めいしゅう 浙江省寧波 ねいは市)に上陸した。すなわち、当時の唐にとって、長江の河口の先には、日本が存在していた。

【7. 楊貴妃の最後】

 西域出身の安禄山(あんろくざん 705-757)は、玄宗皇帝に取り入り、楊貴妃の歓心を得るために胡旋舞を疾風のように踊ったという。安禄山は、楊貴妃の力で節度使に重用されたが、一方で、宰相となった楊貴妃の従兄(史資によっては又従兄)楊國忠(ようこくちゅう)との対立が深刻化した。755年、安禄山による「安史の乱」が起きて洛陽が陥落した。
 これにより、玄宗皇帝らは行幸という形で、楊一族の蜀州へと逃げ落ちる。一行は、玄宗皇帝、楊貴妃、玄宗皇帝の息子の李享(りきょう 後の皇帝粛宗 しゅくそう)、高力士、楊國忠、楊貴妃の姉(韓國夫人)、陳玄禮(ちんげんれい 龍武大将軍)とその兵士、宦官などの従者たち二千人ほどであった。
 その中で、陳玄禮は、玄宗皇帝の即位以前からの忠臣であり、純朴で謙虚な性格であったという。玄宗がかつて楊貴妃の姉の屋敷を訪ねようとしたとき、「まだ臣下に勅命を告げていないのに、天子が軽々と出るものではありません」と諫めて引き返させたことがあったと伝えられる。
『資治通鑑』によれば、玄宗皇帝は、長安から蜀州へと逃げ落ちるとき、宝物殿を焼き払おうとする楊国忠に「賊(安禄山)が宝物を得られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。また長安城西北にある渭水にかかる咸陽橋を渡るとき、賊の追討を防ぐために楊国忠が橋を焼き払おうとしたが、「後から逃げようとする士庶たちの路を絶つな」と言って制止している。
 長安から西方約50キロメートルの馬嵬(ばかい)に一行は留まる。十分な食料もなく、兵士はいら立っていた。
『楊太眞外傳』によると、陳玄禮は、部下の反乱を恐れていた。しかし、吐蕃(とばん チベット)からの使者が楊國忠を取り囲んで食料がないことを訴えたとき、乱兵たちは、楊國忠が吐蕃人と謀反を企んでいると叫んで楊國忠を殺害した。また、楊貴妃の姉を殺害した。陳玄禮は、やむなく玄宗皇帝に対して楊貴妃を殺害することを進言した。
『資治通鑑』によると、玄宗皇帝は、「楊貴妃は深宮にいて楊國忠の謀反とは関係がない」と言って楊貴妃を殺さないようにかばった。しかし、玄宗皇帝は、高力士の進言によって楊貴妃と別れ、高力士に対して楊貴妃に自害を命じるように言った。
 楊貴妃は、高力士によって梨の木の下の仏堂の中で縊(い)死(くびり殺し)させられたと記録される。このとき南方から楊貴妃の好物であった献上の茘支(れいし ライチ)が届いたと伝えられる。
 遺体は紫の刺繍の布で覆われた。その死は陳玄禮によって確認され、馬嵬から西へ一里ほど離れた郊外に埋められたと記録される。兵士の反乱は鎮まった。756年7月15日(至徳元年6月16日)楊貴妃37歳であったと記録される。
「西への行幸で馬嵬に至り、陳玄禮等近衛兵は天下のためとして楊国忠を殺す。楊国忠は死んだのに軍は解散しない。玄宗は高力士に理由を調べさす。高力士は、禍のもとはまだあるとして玄宗に楊貴妃との訣別を奏上。玄宗は、やむを得ず楊貴妃と別れた。楊貴妃は引いて去り、道端の祠で縊死(くびり殺し)させられた。遺体は紫の褥でつつまれ、道端に埋められた。三十八歳であった」(及西幸至馬嵬陳玄禮等以天下計誅國忠 已死軍不解 帝遣力士問故 曰禍本尚在 帝不得已與妃訣 引而去縊路祠下 裹尸以紫茵瘞道側 年三十八)(『新唐書』1060年)
「玄宗は、楊貴妃はいつも深宮にいて楊国忠の謀反など知るわけがないとかばった。高力士は、楊貴妃に誠に罪はありませんが近衛兵はすでに楊国忠を殺しました。楊貴妃が陛下の近くにいてはどうして安んじることができましょう。願わくは陛下どうぞこのことをお考えください。近衛兵の反乱がしずまって初めて陛下もご安心でしょうと申し上げた。玄宗は高力士に命じて楊貴妃を仏堂で縊死させた。遺体は庭におかれ陳玄禮等を招いて検死させた。陳玄禮は兜を取り鎧を脱いで首を差し出し罪を請うた。玄宗はこれを慰労し、近衛兵に対して諭させた」( 上曰貴妃常居深宮安知國忠反謀 高力士曰貴妃誠無罪然将士已殺國忠 而楊妃在陛下左右豈敢自安 願陛下審思之 将士安則陛下安矣 上及命力士引貴妃於佛堂縊殺之 與尸置驛庭召玄禮等入視之 玄禮等乃免冑釈甲頓首請罪 上慰労之令暁諭軍士」(『資治通鑑』1084年)

【8. 楊貴妃の「死」の真相】

 中国の正史である『新唐書』(1060年)や、『資治通鑑』(1084年)は、それよりも古い『長恨歌』(806年)の影響を強く受けているものと考えられる。
 高力士が楊貴妃の身柄を陳玄禮に渡さなかったことではすべての歴史書が一致している。また、玄宗皇帝が楊貴妃の遺体を見ていないことでもすべての歴史書が一致している。
 高力士は先ず楊貴妃を梨の木の下の仏堂の中へ連れて行き、高力士が(外傷がないように)白絹でくびり殺したとされる。その現場へ兵が乱入するのを「不敬罪」として制止したのは陳玄禮であった。
 高力士は、楊貴妃の鼻に手をかざすとひとり陳玄禮大将軍を呼んだ。そのとき遺体は、紫の刺繍の布で隠し覆われていた。陳玄禮は楊貴妃の首をもたげて「よろしい」と言って検死した(『楊太眞外傳』)。
 楊玉環を玄宗の後宮に入れた高力士の最後の秘策とは、陳玄禮の力を借りて楊貴妃を秘かに国外へ逃亡させることではなかったか。高力士と陳玄禮が申し合わせればそれは十分に可能な状況下にあった。楊貴妃を生かして逃がしたことが発覚すれば高力士も陳玄禮もその場で乱兵に殺されるであろうが、いずれ乱が鎮まったとき玄宗皇帝に対して申し開きが立つ。
 新しい棺が届いたとき、遺体は乱兵に辱められないようにすでに高力士が馬嵬の郊外に秘かに宦官を遣わして埋めさせた後であった。その間の経緯は、高力士と陳玄禮によって衆目から隠されていたのである。
 楊貴妃が宦官もしくは陳玄禮の腹心の兵士に守られて逃げた可能性がある。玄宗皇帝もそのことを知らない。
 玄宗は、翌年(757年)12月に蜀から長安に帰るとき、(楊貴妃に対する強い喪失感から)ひそかに宦官を遣わして楊貴妃のものといわれる墓を開けさせた。その墓に楊貴妃の遺体も衣服もなかった。楊貴妃を覆った紫の刺繍の布と匂い袋しか残っていなかった。宦官はその匂い袋を玄宗に献上した。
「玄宗は、楊貴妃を埋めたという場所に密かに棺榔を携えて葬るように宦官を遣わした。宦官が墓を開くと、もとの匂い袋はなお残っていた。宦官はこれを玄宗に献上した。玄宗はこれを見て感極まり、はらはらと涙を流した」(蜜遣中使者具棺榔它葬焉 啓瘞故香嚢猶在 中人以献 帝視之悽感流涙)(『新唐書』1060年)
 では、楊貴妃は、仮に亡命できたとして、いったいいずこの国へ亡命したのか。
 唐は大帝国であった。当時40余りの国々と交流していた。だが、そのすべてが友好国であったとは限らない。とくに安史の乱の前後から唐は弱体化していた。国境付近では、ウィグル、吐蕃、そして契丹(きったん)が力を強めていた。吐蕃は、安史の乱に乗じて唐に侵入し、河西(かせい)および隴右(ろうう)(現在の青海省東部および甘粛省)を占領していた。したがって、楊貴妃を吐蕃に逃がしても殺されることは必至であった。一方、朝鮮半島では、新羅が唐軍を駆逐して(羅唐戦争)、朝鮮半島を統一しつつあった。したがって、楊貴妃を朝鮮半島に逃がすことも危険であった。そのような中で、日本は、唐から学んだ「大寳律令」が702年に完成し、天皇の力が地方の隅々にまで及び、奈良の都では天平の文化が花開いていた。高力士にとって、日本は、楊貴妃を流す先としてかろうじて希望をもてる国であったと思われる。
 以上が、楊貴妃が安史の乱を逃れて日本へ亡命したという伝説が現在の中国に根深く存在する根拠である。

【9. 玄宗皇帝のその後】

 安禄山は、長安を奪ったが、乱の「目的」を達成することはできなかった。楊貴妃を奪うことはできなかったのである。
 高力士は、蜀の地まで玄宗皇帝に同行し、功により「斉國公」の位を贈られた。
 756年7月皇太子の李享が即位して粛宗(しゅくそう)皇帝となり、玄宗は上皇となる。
 757年1月安禄山は息子の安慶緒(あんけいしょ)に殺害された。
 粛宗皇帝はウィグルから援軍を得て長安と洛陽を奪還した。
 粛宗は757年10月に長安に入った。玄宗は12月に長安に入った。玄宗上皇は、やはり二度と楊貴妃を見ることはできなかった。玄宗がひそかに宦官を遣わして楊貴妃のものといわれる墓を開けたのはそのときである。墓に遺体はなかった。

      

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南の海上から見た竜洞山


 白居易の『長恨歌』では、その後、玄宗は道士に楊貴妃を探しに出かけさせている。白居易は、楊貴妃が遠い「海上の仙山」にいたとしている。
「(道士は)そのうち海上に神仙の山があると聞きつけた。山は、はるか遠くの果てしなく何もないところにぽつんと在った」(忽聞海上有仙山 山在虚無縹緲閒)
 白居易が『長恨歌』の中で歌った「海上の仙山」とは、
(1)唐から見て海のはるか遠くにある。
(2)周りに何もない「島」である。
(3)「山」である。
『長恨歌』のロマンの世界をこの現実の世界にそのまま当てはめることはできないであろうが、天草の竜洞山ならばこの三つの条件を満たすようである。
 道士の訪問について、清少納言(966-1025)は、『枕草子』の「木の花は」の中で、
「楊貴妃、皇帝の御使に逢ひて泣きける顏に似せて、梨花一枝春の雨をおびたりなど言ひたるは」と書いている。
  

【10. 楊貴妃が唐から天草に航行することは可能であったか】

 黄河は、青海省の高原を水源地域とし、中国の北部を流れて渤海へと注ぐ。「河」とは、もとは黄河をさす固有名詞であった。全長5,400キロメートル、流域面積980,000 平方キロメートル(日本の面積の2.6倍)である。馬嵬から約5キロメートルの近くを黄河が流れている。楊貴妃は、黄河を通って東シナ海沿岸まで短時間で移動できたかもしれない。
 長江は、青海省の高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れて東シナ海へと注ぐ。全長6,300キロメートル、流域面積1,175,000 平方キロメートル(日本の面積の3.2倍)である。日本では最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう)の名で良く知られる。馬嵬から約80キロメートルの近くまで、武漢から北西へのびる支流がある。楊貴妃は、長江を通って東シナ海沿岸まで短時間で移動できた可能性がある。
「大運河」は、現在の北京から中国大陸の東を通り、黄河を横断し、揚子江を横断して杭州に至る。1,800キロメートルの長さがある。隋(589-618)の時代に完成しており、現在でも世界最大の運河である。楊貴妃はこの大運河を通って東シナ海沿岸まで移動できた可能性もある。
 近年、天草に外国から流れ着く「漂流物」が問題になっている。環境省の報告書によれば天草下島の西側に位置する苓北町の富岡海岸に漂着したペットボトルについて、計5回の調査で回収された73個の製造国は、日本製39%、中国製23%、台湾10%、韓国1%、不明が27%であった。このことは、実際に物が中国から天草に流れ着くことを示している。
 次は、新暦7月中旬の九州・沖縄海域の海流図である(出典:気象庁「九州・沖縄海域旬平均海流」)。


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新暦7月中旬の九州・沖縄海域の海流


 赤い点は、天草市新和町の位置を示す。色と矢印は流れの速さ(単位: 1ノット(kt) = 0.5 メートル/秒)と向きを表す。流れの強いところは青く色分けされている。黒潮と対馬海流がはっきりと見て取れる。 日本の気象庁では、人工衛星、船舶、ブイ、フロートなどの観測データを総合的に解析してこの海流図を毎日作成している。この図からも、中国から天草に向かう海流があることが分かる。この海流パターンは、新暦7月中旬に特徴的なものである。他の時期に比べると、唐から天草に流れ着く可能性が高いように思われる。
 なお、揚子江河口から天草までの直線距離は約800キロメートルである。2ノット(kt)とはヒトがゆっくり歩く速度(3.6Km/時)である。また、帆船の通常の航行速度は4~8ノット(kt)である。
 また、環境省の報告書に掲載されているが、「漁業用フロート」を用いたと想定して次の図に示すように、中国沿岸からの漂流経路のシミュレーション計算が行われている。


   

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漁業用フロートの漂流経路のシミュレーション結果 (○印は投入場所)


 これは、1月1日を起点とし、毎月1日に1年間投入したと想定している。計算期間は投入期間(1年間)終了後、さらに2年間の計3年間である。中国から天草に到達していく様子が分かる。
 788年11月13日に唐から肥後国天草郡西仲嶋に流れ着いた喜娘(遣唐使藤原清河の娘)は、帆船(遣唐使船)で4日間航行し、その後大破した船の舳(へさき)にしがみつき6日間漂流して西仲嶋(現在の長島)に流れ着いた。この例でも分かるように、中国から帆船を使った場合は、比較的遅い4ノット(kt)の航行速度でも最短5日で天草に到達できる。帆のない筏でも比較的速い1ノットの海流に乗った場合には最短20日で天草に到達できるのである。
 唐は多数の軍船を保有する海洋帝国でもあった。楊貴妃の一行は、高力氏が書いた玄宗皇帝の詔勅をもって唐の軍船で天草に航行できたかもしれない。楊貴妃が軍船で天草に航行していれば、相当の物資と相当の人を伴って航行したであろうから、竜洞山に相応の家を建てることができ、その後の生活を維持できたであろう。


【11. 玄宗皇帝の最後】

 安史の乱は、安慶緒を殺害した史思明(703-761)らによって763年まで続いた。史思明も息子の史朝義に殺害された。
 玄宗は、楊貴妃によって国を傾け、唐に国難をもたらした責任を粛宗皇帝に問われ、軟禁されたまま762年5月3日に崩御した。高力士は、玄宗の死を知って慟哭したと伝えられ、同年(762年)死去した。
 日本からの遣唐使は、759年(天平寳字3年)に第13次遣唐使が渤海路より入唐しようとしたが、安史の乱のため目的を果たせずそのまま帰国した。761年(第14次)、762年(第15次)の遣唐使派遣は船が破損するなどして中止となった。


【12. 楊貴妃に薬草を使う知識はあったか】

 もとは深窓の令嬢であり、歌舞音曲に優れていたとされる楊貴妃に薬学のような実学の心得があったとは思われない。しかし、中国では周・漢の時代から薬学が高度に発達していた。高力士がいつか皇帝の使いを差し向けることを約束して楊貴妃を日本に流していたとすれば、その身を案じて楊貴妃自身が使えるような形で様々な薬草を最大限に持たせていたはずである。竜洞山の一帯で、ある年に疫病が流行したのは夏であったという。もしそれが発熱性の食中毒の類であったのならば、「葛根湯」や「人参湯」(いずれも後漢の張仲景が『傷寒論』などに記した)は、素晴らしく効いたかもしれない。「麻黄湯」(これも『傷寒論』)は、現代の抗ウィルス薬「タミフル」(ロシュ社の商品名)と同等の症状軽減効果があるという研究もある(2009年5月8日「読売新聞」など)。


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天草の竜洞山に立つ楊貴妃像 (制作監修・熊本大学石原昌一名誉教授)


【13. 楊貴妃の姿が竜とともに天空に消えることはあり得たか】


      

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竜洞山の洞穴

「しんわ楊貴妃伝説」によると、ある日、一天にわかにかき曇り、雷鳴とどろく中で、巨大な竜が山頂に舞い上がった。竜とともに女性の姿も消えていた。家も一瞬にして無くなった。ただ、女性が用いていた匂い袋が一つ山中に残っていたという。
 朝廷は、663年に白村江の戦いで唐に敗れると、唐からの進攻を恐れて大宰府に「防人」を配備した。防人は、最初は東国(静岡県以東)から徴兵したが、757年以降は九州から徴兵している。その翌年(758年)朝廷は安史の乱の発生と長安の陥落を知って警戒を強めた。もし唐の皇妃が天草の竜洞山にいて唐から皇帝の迎えの使者が来るのを待っていたとすれば、安禄山によって攻め込まれかねない。大宰府はその重大な事実をいち早く知らなければならない状況下にあった。
 一方、唐の粛宗皇帝は、玄宗から国家存亡の危機(安史の乱)を引き継いで戦乱に明け暮れた。
 他方、伝説にある巨大な竜の描写は、日本に多い、台風などに伴って発生する竜巻の様子とも一致する。
 気象庁のデータベースによると、熊本県内では、1963年から2009年までの46年間に計15回の竜巻が観測されている。竜巻は「藤田スケール」という尺度(シカゴ大学教授藤田哲也による)を用いて分類されており、熊本県内の竜巻の多くが、F0~F1という強度である。しかし、15回のうち1回だけF2に分類される竜巻が起こっており、その場所は天草の本渡市であった(昭和50年10月12日朝5時15分頃)。本渡市は、現在の天草市である。
 F2級の竜巻では、藤田スケールの定義によると、以下のような被害が予想される。
「大きな被害。家の壁ごと屋根が飛んだり、移動住宅などは破壊、貨車は脱線したりひっくり返ったりし、大木でも折れたり根から倒れたりする。軽いものはミサイルのように飛び、車がごろごろ転がる」
 また、F2級の竜巻に対してその4分の1程度の確率で起きるとされるF3級の竜巻では、次のような被害が予想される。
「重大な被害。建て付けの良い家でも屋根と壁が吹き飛ぶ。列車は脱線転覆、森の大半の木は引っこ抜かれ、重い車でも地面から浮いて飛んだりする」
 近年日本ではF3級の竜巻が1990年12月11日に千葉県茂原市で観測されている。また、1999年9月24日に愛知県豊橋市で、2006年11月7日の北海道佐呂間町で、この規模の竜巻が観測されている。
 そのような大きい竜巻が、約1,200年前に新和町竜洞山で起きた可能性を否定できない。それが楊貴妃を巻き込んで天空へ連れ去り、「しんわ楊貴妃伝説」になったのかもしれない。
  
   

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竜洞山の西に宮地浦の湾を望む


 楊玉環を14歳のとき市井から見出し、自らの命をかけて最後まで愛し通したのは高力士であったのかもしれない。そして、楊貴妃が唐の国から安史の乱を逃れて天草にやって来たかもしれないという可能性は、私達に大きな夢とロマンを与える。そのように考えながら、天草の竜洞山を後にした。


【参照文献】

  • 石原道博『旧唐書倭国日本伝』岩波文庫1956年
  • 古賀登『新唐書』明徳出版社1971年
  • 竹田 晃・檜垣 馨二『楊太真外伝』明治書院2007年
  • 竹内 照夫『資治通鑑』 (中国古典新書) 明徳出版社1971年
  • 宇治谷孟『続日本紀』(講談社学術文庫)1992年
  • 藤善真澄『安禄山と楊貴妃・安史の乱始末記』清水書院1984年
  • 大野実之助『楊貴妃』春秋社1969年
  • 田中克己『中国后妃伝』筑摩書房1964年
  • 井上靖『楊貴妃伝』講談社2004年
  • 村山吉廣『楊貴妃』中公新書1997年
  • 日高孝次『海流の話』築地書館1983年
  • 東京大学海洋研究所『海洋のしくみ』日本実業出版社1997年
  • 環境省ウェブページ http://www.env.go.jp/earth/report/h21-04/6kumamoto.html
  • 気象庁ウェブページ  http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/tornado/list/86.html
  • 呉偉明, "日本楊貴妃 伝説的流変及思想史考察." 学術月刊 43(7): 5-12, 2011

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