半径1キロめーとる 24 まだ生きていたい
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 この日も学校が終わり、真っ先に実紅の病院へと向かった。 「散歩してみようか」  実紅に言われるままに、院内を当てもなく二人で歩く。  プレイルームの前を通ると、ケイがいる。  郁哉と繋いでいた手を離すと、実紅はケイの元へ駆け寄っていく。  大人気ないと思いながらも、わずかに嫉妬の感情を抱かずにはいられない。 「実紅ー。また郁哉と一緒かよ。本当にお前らデキてるんだな。もうケッコンしちゃえよ」  実紅は照れくさそうに笑ってケイの頭をなでている。  ケイは、この日やたらと元気に遊び回っていた。  近くを通りかかった看護婦が、微笑ましく見つめている。 「ケイタくんは、今日ひさしぶりに点滴がはずれたからね。嬉しくて仕方がないのね」  郁哉は、点滴に繋がれた経験などないので、どのようなものか分からない。  自分よりも十歳近く年下の幼い子どもが、日々点滴に繋がれているのだと思うと複雑な思いが芽生える。  二人で病室に戻ると、実紅は悲しそうな微笑を浮かべる。 「ケイくんはね、本当はこの春、小学校に入学する予定だったの。でも退院できなかった」  病院には、そんな子どもたちのための、学校のようなものが存在するらしい。  小児病棟ではないので、友達の少なかったケイは期待と不安を抱きつつ、通い始めたらしい。 「ママは、全然会いに来てくれないみたい」  実紅の切なげな顔を見て、郁哉の心は鈍く痛んだ。      検査だから、と言い残して実紅が病室を去ったので、手持ち無沙汰になった郁哉は病院を当てもなく歩いていた。  プレイルームの前を通りかかる。  偶然だったのか意図的だったのか、郁哉には分からない。  先ほどと同じく、ケイが遊んでいる。 「よお。郁哉」  ケイが手を振ってくるので、郁哉もそれに応える。 「実紅いねーじゃん。どうした? 振られたか?」 「うるせーぞ」  言いながらケイを持ち上げる。  六歳の少年とは思えないほどに、軽い。  その軽さに、言い知れぬ痛みを感じつつも郁哉はケイの頭をなでて見下ろす。 「なあ、肩車してやろうか?」 「え? マジ?」  ケイは嬉しそうに微笑む。  郁哉が屈むと、嬉しそうにケイは背中に乗り、肩にまたがる。  ケイの両足をしっかりと押さえて、郁哉は立ち上がる。  悲しくなるほどに、細い足だ。 「すげー! 郁哉お前、背高いんだな! 俺のパパよりもずっと高い」 「はは。ケイ、お前もこのくらいデカくなれよ?」 「おうよ!」  やがてケイの気が済んだ頃に降ろすと、ちょうどプレイルームの前を検査を終えた実紅が通る。 「あ、実紅だ」 「ケイくん。あれ、郁哉くんと一緒だったんだ?」 「うん! 郁哉に肩車してもらったんだ!」 「え?」  実紅は目を丸くして、郁哉は照れくさくなり顔をそむける。  郁哉のそんな態度に、実紅はすぐに勘付いたのだろう。  悪戯っぽい微笑を浮かべてから、嬉しそうな満面の笑顔に変わる。 「郁哉くんがね、ふーん。よかったね、ケイくん」 「うん!」  ケイの子どもらしい笑顔に、郁哉は初めて彼をかわいいと思った。      翌日、課題が溜まってしまい病院に行くことはできない状態にまでなってしまった。  学校が終わり、ノートと参考書、教科書を取り出すと、無意識のうちにパソコンを立ち上げる。  いつものように実紅の日記をチェックすると、新たに更新されていた。    七月x日    なんだか疲れた、何もかも。  毎日毎日、検査検査検査、採血、吸入、点滴、薬。  何の意味があるのだろう、って思ってしまう。  こんなことをしていて、何になるのだろうって。    必死で頑張って、何かにしがみついて、大丈夫、大丈夫って毎日自分に言い聞かせて。    ねえ橋本先生。  いつになったら治してくれるの?  いくつ傷ができたら終わるの?  もう二十年間付き合ってきたのだから、いいじゃん。  ああ、今月の二十八日には、二十一年になるね。  家に、帰りたいな。  前みたいに、普通に公園でデートしたいな。  普通の女の子みたいに、笑いたいな。      七月x日    昨日、私と同じ病気で入院していた、隣の部屋のおばさんが亡くなった。  部屋の前を通ると、娘さんの嗚咽が聞こえた。  どうしようもない不安が襲う。  どうしようもない悲しみが襲う。    検査も嫌、注射も点滴も嫌。  何もかもが嫌になって、扉の前に色々なものをおいて立てこもった。  無駄だったけどね。    悲しくて、泣いて、何が悲しいのかも分からないくらいに泣いて。  先生や看護婦さんに一杯当り散らした。    先生の「もう一度頑張ってみないか」  吉田さんの「今までもずっと頑張ってきたじゃない」 「頑張れ」「頑張れ」「頑張れ」  頑張れってなに? どういうこと?  これ以上、どう頑張れって言うの。  逃げ出したくて、仕方がなかった。   「完治することは、ない」  先生に言われたのは、もう随分も前のこと。  私なりに受け止めて、理解し戦おうとした。  でも、疲れた。  嫌、嫌、イヤ。  何もかも、どうでもいい、なるようになればいい。  なるようにしかならない。  どうせ頑張っても、治らないし女としての幸せも掴めない。  だったら、家に帰らせてよ。    泣いて、泣いて、目が痛くなるくらいに泣いて。  自分が惨めに思えてきて、自分のことが大嫌いだと思った。  もう私は戦えないのだから、郁哉くんと一緒にはいられない。  そんなことばかりを考えて、心を閉じ込めようと思った。  私の親友の真希は言い放った。 「そんなにつらいんだったら、別れれば?」  その一言が痛くて悲しくて、どれだけ彼を好きなのか思い知らされた。 「あんたなんかに、分かんない! 私の何が分かるって言うの! 普通の女の子として普通に恋したかっただけなのに!」  逆切れして、ぶちまけると真希は、私の腕を痛いほどに掴んで叫んだ。 「実紅は、まだやらなきゃいけないの! 郁哉くんを好きだったらやっつけなさい! 何弱気になってるの」  分かってる、そんなことは分かってる。 「真希、私の代わりに子ども産んでよ」  心の奥に潜んでいた一言だった。  私の言葉に真希は、目を吊り上げた。 「万が一、実紅が子どもが産めなくても、実紅なんだよ。子どもを産むことだけが愛情なの? あんたの彼はそんな男なの?」 「違う!」  私が真希に、掴みかからんばかりに怒鳴り睨みつけると、彼女はさらに倍の力で睨みつけてくる。 「だったら勝手に決め付けるな!」  返す言葉もなかった。    真希には、こう言ったけどさ。  郁哉くんの本当の気持ちなんて分からないよ。  どう思っているの?  重荷になんてなりたくないんだよ。  私のせいで彼の幸せを奪いたくはない。  これは本当なんだよ。  ねえ、私はどうしたらいいんだろう。    課題のことも予習のことも忘れて、気が付いたら自転車の鍵を手にしていた。  病院へ行こうと思った。  実紅が苦しんでいるのに、一人にしておくことはできない。  勉強なんてどうでもいい、学校なんてどうでもいい。  実紅が一番大切なのだ。      病室を訪ねると、実紅はうつむいていた。 「実紅?」  声をかけると実紅は驚いたように細い肩を震わせる。 「え、郁哉くん。今日は来れないって……」  実紅の態度に違和感を覚える。  全く郁哉のほうを見ようとしないのだ。  意図的に顔をそむけているような気さえする。 「実紅」 「ん。ちょっと待って」  実紅が郁哉とは逆の方向を向く。  わずかに鼻声だ。  気をつけて聞いていないと分からないほどの些細な違いだったが、郁哉にはすぐに分かる。  うつむく実紅の目から、透明なものがこぼれ落ちる。  瞬間、郁哉は心を強く掴まれたような、今までに感じたことのない痛みが広がる。  実紅が実際に涙を見せたのは、このときが初めてだった。  涙目になったり、泣き腫らした目をしていたりしたことは何度かあったが、実際に目の前で涙をこぼすのは初めてだ。  無理にこちらを振り向かせようとは思わない。  郁哉は実紅を背後から抱きしめると、手を握る。 「もし、実紅が」  懸命に言葉を紡ぎ出しながら、郁哉はそこで詰まってしまう。  目の奥が痛くなり、視界が揺らぎ言葉が止まってしまいそうになる。 「頑張りたくないなら、頑張らなくていい。実紅の体には何の不満もない」  郁哉の腕の中で、実紅が震える。 「実紅より、大事なものなんて何もない……」  実紅が、こらえられなくなった嗚咽をこぼす。  郁哉の手の甲に、実紅の温かい涙がこぼれ落ちる感触がある。 「こわいよ……」  しぼり出すように実紅が呟く。  実紅が見せた、初めての本音なのだろう。 「死ぬのが怖い。何より、郁哉くんと会えなくなるのが怖い。前はそうでもなかったの。でも、死にたくないって思うようになっちゃった。もっと生きていたいって。私、郁哉くんと知り合って、好きになってから前よりずっと欲張りになっちゃった……」  それ以上は、言葉にならないというように実紅が泣き崩れる。  面会時間が終わるまで、郁哉は実紅に付き添い抱きしめ、髪をなでていた。      家に戻ってから日記を確認すると、追記されていた。    自由にならない苛立ちと、一進一退を繰り返すこの体と、何度も手術に挑戦しなければならない不安と、死んでしまったらどうしよう、という恐怖。  打ち消しても打ち消しても、襲ってくる恐怖。  でも、郁哉くんを想う気持ちのほうが強かった。  郁哉くんに想われる幸せのほうが、何倍も大きかった。    腐りかけた体、私と一緒にもう一度戦って欲しい。  負けそうになったら、郁哉くんが手を引っ張ってくれるはず。  皆が、実紅って呼んでくれるはずだから。  生きていたい。  夢見ることを許して欲しい。  女としての幸せを願うことを許して欲しい。    ゴールは見えない、全く見えない。  でも、もう一度信じてみようと思う。  何でもないことだ、隣には郁哉くんがいるのだから。
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