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宮本武蔵が加古川にいた?
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加古川市の加古川町のほぼ真中、木村という所に泊神社(とまりじんじゃ)がある。ここに大きな看板があり、宮本武蔵ゆかりの神社であることが書いてある。小説、映画で剣豪、ヒーロー、岡山で生まれた武蔵などのイメージしかないところに、なぜ加古川に?というのが正直な疑問。しかし、最近、高砂市が本当の生誕地という説が有力視され、宮本武蔵の顕彰が本格的になった。 |
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| 平成20年、国指定登録文化財に指定されました。 宮本武蔵の生誕地論争は岡山、高砂、姫路、太子町、佐用町などがありますが、 加古川の泊神社は、その論争に大きな影響を与えた武蔵生誕高砂説を証明する「棟札」のある神社です。詳しくは、以下をどうぞ、、、 |
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平成12年7月6日、泊神社の氏子らの手で石碑が設置されました。高砂・竜山の石を使った4トンもある大きな石碑です。 この神社の由緒をあらためて見なおそうとのことらしい。下に、碑文の原文を紹介します。(ただし、句読点は加えてあります。) |
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神代に天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、大神の怒りを解く為に、群神事計り御鏡を造った。後に1つは伊勢神宮に祀られ、1つは海に流された。大和時代に、それが泊まり着いたところに檍の木があり、檍原泊大明神として祀ったのが当宮の起こりである。 大昔は 此の辺りは海浜であり、泊の神号は以上から由来する。 飛鳥時代には、聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の秦河勝が紀伊の国から自身の氏神である国懸大神を勧請し社殿を建立した。南北朝には石弾城が築かれていた。降って承応2年(1653)には、宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が小倉藩筆頭家老に就き故郷の氏神である当宮の荒廃を歎き武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し、全社殿一式を再建した。 以後宮本家氏神とし一族より崇敬された。社格正1位 社領十石を給わる。明治には郷社格に列せられる。主祭神は天照大神、国懸大神 小彦名大神 末神は稲荷神 八幡神 菅神等所願成就神徳 |
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高砂市米田町に「宮本武蔵伊織生誕地碑」があります。 その碑文を右に書きました。(一部旧漢字等で原文と異なる箇所もあります) ![]() |
宮本武蔵伊織について 宮本武蔵は当地播州印南郡雁南庄米堕邑(現高砂市米田町米田)にて田原甚衛門家貞の次男として生まれ(田原家は村上天皇の血脈にして赤松氏を名乗り持貞の時改称して田原氏となる)天正年間作州の宮本無二之助「 」(新免とも称し平尾太郎右衛門とも名のった)の養子となった剣に秀れ生涯六十数度闘い敗れることがなかったが慶長十七年(一六一二年)巌流佐々木小次郎と舟島で闘いそれ以後再び剣をとることがなかった武蔵は剣のみならず書道絵画等芸術にも秀で後半生は深く仏教に帰依し剣禅一致の境地を開き後世剣聖と讃えられている 宮本伊織貞次は武蔵の兄田原甚兵衛久光の次男で同じく米堕邑に生まれ後に武蔵の養子となる武蔵の縁故により明石小笠原家に小姓として仕え以後累進し一小倉小笠原家の筆頭家老となる、 伊織は九州に移った後氏神である故郷の泊神社と米田天神社の両神社を家兄田原吉久舎弟小笠原玄昌及び田原正久等と再建奉納している 伊織が泊神社及び米田天甚J者に献上した棟札は田原家及び武蔵伊織の出生について貴重な史料である。 武蔵の当地出生についての史実解明は武蔵研究家丸岡宗男氏宮本一族会その他の方々のご努力によるものであり特に生誕地碑建立のための田原家ゆかりの土地の提供関係記念碑の建設等については田原家末裔梅本武氏から多大のご配慮をいただいている ここに武蔵伊織の業績を顕彰し、当地が二人の生誕地であることを示すために宮本武蔵伊織生誕地碑を建立する 平成一二年六月 宮本武蔵伊織顕彰会 |
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| 宮本武蔵・関連リンク | |
| かなり詳しい宮本武蔵玄信伝。週刊松本忠也にあるサイト | |
| 宮 本 武 蔵 | 播磨武蔵研究会のホームページで、本格的な武蔵研究の成果を掲載している。 必見のサイト。 |
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