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宮本武蔵ゆかりの泊神社

宮本武蔵が加古川にいた?

加古川市の加古川町のほぼ真中、木村という所に泊神社(とまりじんじゃ)がある。ここに大きな看板があり、宮本武蔵ゆかりの神社であることが書いてある。小説、映画で剣豪、ヒーロー、岡山で生まれた武蔵などのイメージしかないところに、なぜ加古川に?というのが正直な疑問。しかし、最近、高砂市が本当の生誕地という説が有力視され、宮本武蔵の顕彰が本格的になった。
 ことに、平成15年にNHKの大河ドラマ「宮本武蔵」が放映され、にわかにその話題がエスカレートしました。毎回、番組の最後に武蔵ゆかりの地などが紹介されましたが、第1回の放映では、武蔵の生誕地はいくつかの説があり、今までの岡山県大原町に対して、高砂説がしっかりと明言されており、その根拠となった武蔵の養子、宮本伊織の泊神社のことも語られておりました。また、番組では、さらに詳しく宮本伊織が再建した泊神社の棟札や36歌仙図絵馬の絵も映像で紹介されており、加古川市の泊神社が注目されました。

 右は、その後、境内に設置された話題となった資料を写真つきで紹介している説明板。


平成20年、国指定登録文化財に指定されました。
宮本武蔵の生誕地論争は岡山、高砂、姫路、太子町、佐用町などがありますが、 加古川の泊神社は、その論争に大きな影響を与えた武蔵生誕高砂説を証明する「棟札」のある神社です。詳しくは、以下をどうぞ、、、

泊神社御由緒

平成12年7月6日、泊神社の氏子らの手で石碑が設置されました。高砂・竜山の石を使った4トンもある大きな石碑です。
この神社の由緒をあらためて見なおそうとのことらしい。下に、碑文の原文を紹介します。(ただし、句読点は加えてあります。

 

神代に天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、大神の怒りを解く為に、群神事計り御鏡を造った。後に1つは伊勢神宮に祀られ、1つは海に流された。大和時代に、それが泊まり着いたところに檍の木があり、檍原泊大明神として祀ったのが当宮の起こりである。

 大昔は 此の辺りは海浜であり、泊の神号は以上から由来する。

 飛鳥時代には、聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の秦河勝が紀伊の国から自身の氏神である国懸大神を勧請し社殿を建立した。南北朝には石弾城が築かれていた。降って承応2年(1653)には、宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が小倉藩筆頭家老に就き故郷の氏神である当宮の荒廃を歎き武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し、全社殿一式を再建した。

以後宮本家氏神とし一族より崇敬された。社格正1位 社領十石を給わる。明治には郷社格に列せられる。主祭神は天照大神、国懸大神 小彦名大神 末神は稲荷神 八幡神 菅神等所願成就神徳

泊神社正門

 

 Ban Cal(バンカル)は姫路文化振興財団が発行している季刊誌。2000年冬号は宮本武蔵に関連する記事があった。主なものだけを見ても「新・宮本武蔵伝説」「生誕地・ゆかりの地を巡る(加古川 高砂 明石 太子 姫路 龍野 平福 大原町)」「宮本武蔵と太宰治」などなど。

 さらに、2002年冬号は、NHK大河ドラマで宮本武蔵が放映されることもあって、宮本武蔵の真実などの特集記事が掲載され、泊神社のことも紹介されている。

 ここに加古川との関係がしっかりと書いてあって面白い。

   Ban Cal 冬号

Ban Calという雑誌の巻頭言にも当あたる第1ページには次のような文があります。

「宮本武蔵   - 新たなる伝説 -

 宮本武蔵は謎の人物である。どこで生まれたのか。どこで修行をしたのか。どこで本当の決闘をしたのか。安住の地・熊本にたどりつくまで、どこで何をしていたのか。語り継がれる決闘の真偽は?

 史実とフィクションが複雑に絡まって、「武蔵の真実」は時と共に遠ざかっていくばかりである。どこか、歴史とドラマに翻弄される「忠臣蔵」に似たところもある。確実に言えることは、武蔵が登場する時代背景が、2つあるということである。

 1つは、ひたすらに強さを求めるときである。明治以降、富国強兵路線を突っ走ってきた日本が求めてきたのは強さであった。明治の後半になり、突如、武蔵顕彰会が岡山県にできたのも、太平洋戦争を前にして、吉川英治の長編小説に全国民の目が集まったのも、そんな理由によるのかもしれない。

 もう一つは、弛緩した時代にあって、ひたすら道を求める生き方に、人間の真の美しさを感じ、そんなあるべき姿を自らに投影したいとの願いが強まるときである。古くは元禄時代の武蔵ブームがそうだったとの説もある。

 そして、今、2000年。武蔵を後者の立場でよみがえらせたい。生誕地論争も、「播磨説」が大勢を占めてきた。姫路、高砂、明石などに残された足跡を訪ね、播磨人・宮本武蔵の中に、新しい人間像、新しい生き方をさぐってみよう(中元) 」

 これ以上の内容は、Ban Calを読んでいただくとして、ここでは泊神社の関係のみ、その一部を紹介しておきます。

  Ban Cul 春号

 2000年の春号の特集は、「古代播磨を楽しむー遺跡と遺物が語る播磨の古代」というもの。内容は、イナミの太郎姫と景行天皇、播磨の古代史ノート、播磨考古散歩などの記事があり、加古川の行者塚古墳など、古代歴史を知ることが出来る。

 2002年も引き続き刊行されています。

 この本、本屋によっては扱っていないところもある。加古川総合文化センターで販売しているそうです。

 宮本武蔵の生誕地は高砂

 Ban Cal(バンカル)の特集「新・宮本武蔵伝説」副題は「武蔵は高砂生まれに決っている」というのです。たしかに最近、高砂市で宮本武蔵・伊織顕彰会が武蔵の生誕地は高砂市米田町(旧・印南郡米堕村)だとして顕彰活動が活発化していることを新聞で見ていましたが、この本を見るとより現実的に見えてきて面白い。

武蔵の年表や系図など多くの資料もあって思わずひき込まれます。武蔵の生まれは1584年天正12年、作州(岡山県)、または高砂市の説。その他の説もあるとか。

  この本では武蔵は高砂説の方が資料もあって有力だと言ってます。吉川英治が小説宮本武蔵に生まれは作州とし、これが世に広まったのでそうなってしまった、本当は高砂だと言うのです。

             (右は拝殿、下は本殿の写真)

「生国播磨の宮本武蔵 双剣の客人」(左)は、寺林 峻氏の小説で、宮本武蔵が播磨の生まれであることを元に、綴られている。
 寺林氏は、この小説のあとがきに、「小説として武蔵野人物を浮き立たせるため、当然ながら<あり得たであろう真実>で構成している。しかし、武蔵を播磨生まれとする骨格については特にフィクションを加えるまでもなかったことを申し添えておきたい。」とあります。
 つまり、寺林氏は、宮本武蔵を研究すると、吉川説でなく、宮本武蔵は播磨の国、今の高砂市米田町に生まれ、美作国、今の岡山県英田郡大原町に8歳で養子に行ったとして、話を展開しています。出生については高砂説に確信をもって論じておられる。

 この本、アールズ出版から市販されています。

 宮本武蔵・伊織顕彰会「加古川支部」(通称:泊神社・伊織会)を設立

高砂の「宮本武蔵・伊織顕彰会」では、平成13年1月に寺林氏を招いて、講演会を開くなど活動を続けています。その効果もあってか、平成14年放映されたNHK大河ドラマ「武蔵」では、高砂誕生説を取り上げ、泊神社も紹介されておりました。
 平成17年には、泊神社に宮本武蔵・伊織顕彰会の「加古川支部」(通称:泊神社・伊織会)を設立し、講習会や周辺整備などのまちづくりに取り組みはじめたそうです。

宮本伊織と加古川

 境内にある説明板には、次のようにあります。

承応2年(1653年)宮本武蔵の養子であった宮本伊織が、浄財を寄進して社殿を改築しました。今の社殿はこの時のものであろうと思われます。神社には、市指定の文化財の三十六歌仙図絵馬、宮本伊織寄進の棟札や石灯籠などが残っており、家庭平和・夫婦和合・家業成就を祈願して、数多くの参拝者があります。



宮本武蔵がNHKで放映されることになり、当時、テレビガイドの本など多数出版されました。そのいずれにも、武蔵の生誕地を諸説交えて紹介していますが、いずれにも泊神社の伊織の棟札は、かなり信憑性の高い物として紹介し、武蔵が播磨誕生説は有力と書いているものが多い。加古川市民にとっては、武蔵は身近な存在だったと信じてよさそうです。

 宮本伊織(みやもといおり)は宮本武蔵の養子で、播州浪人であった宮本武蔵の足跡を資料としてよく残しているというのです。

 泊神社に保存されている棟札は、武蔵が亡くなって8年後に郷里の鎮守であった泊神社が荒廃しているしていることを知った伊織が地元にいた一族と共に社殿の修復をした時の記録であり、武蔵研究の第一級のものだそうです。

  泊大明神は木村、西宿村、船本村、友澤村、稲屋村、古新村、上新村、米堕(よねだ)、中嶋、今市など17か村の氏神であったことが書いてあり、宮本武蔵と加古川とのつながりが見えてくるのです。

 ここで、誤解があってはいけないので加古川と高砂の関係を補足しておきますが、武蔵と伊織の生家と伝わる田原家跡には石碑があり、それは兵庫県高砂市米田町。元は印南郡米堕(よねだ)村と言う所です。米堕村はその後、米田町となり、市と合併する時に、高砂市米田町と加古川市米田町とに分かれたのです。つまり、今、米田町は両市ともその町名があるので区別が必要です。伊織が残した泊神社は加古川市にあるのです。

宮本伊織が寄進した石灯籠

この石灯籠は大きなもので、泊神社本殿裏にあります。加古川市教育委員会が設置した説明板には次のようにあります。

これは、宮本伊織とその一族である田原正久が寄進したものです。

2基とも花崗岩製で、承応2年3月に寄進したものであることが、銘文によって明らかです。

宮本伊織寄進のものは全高279cm、田原正久寄進のものは全高165cmあります。(以上要旨)

泊神社の立看板には、、、、

聖徳太子が鶴林寺を建立したとき、その大工の棟梁である秦川勝(はたのかわかつ)が工を起こして社殿を建てたと伝えられ、また南北朝時代には石弾城があったと思われる。

祭神は、天照大神・少彦名神・国懸大神(くにかかすのおおかみ)です。境内には、南北朝時代の石弾城の石垣と思われるものがあります。



高砂市米田町に「宮本武蔵伊織生誕地碑」があります。
その碑文を右に書きました。(一部旧漢字等で原文と異なる箇所もあります)
宮本武蔵伊織について
宮本武蔵は当地播州印南郡雁南庄米堕邑(現高砂市米田町米田)にて田原甚衛門家貞の次男として生まれ(田原家は村上天皇の血脈にして赤松氏を名乗り持貞の時改称して田原氏となる)天正年間作州の宮本無二之助「 」(新免とも称し平尾太郎右衛門とも名のった)の養子となった剣に秀れ生涯六十数度闘い敗れることがなかったが慶長十七年(一六一二年)巌流佐々木小次郎と舟島で闘いそれ以後再び剣をとることがなかった武蔵は剣のみならず書道絵画等芸術にも秀で後半生は深く仏教に帰依し剣禅一致の境地を開き後世剣聖と讃えられている
 宮本伊織貞次は武蔵の兄田原甚兵衛久光の次男で同じく米堕邑に生まれ後に武蔵の養子となる武蔵の縁故により明石小笠原家に小姓として仕え以後累進し一小倉小笠原家の筆頭家老となる、
伊織は九州に移った後氏神である故郷の泊神社と米田天神社の両神社を家兄田原吉久舎弟小笠原玄昌及び田原正久等と再建奉納している
伊織が泊神社及び米田天甚J者に献上した棟札は田原家及び武蔵伊織の出生について貴重な史料である。
武蔵の当地出生についての史実解明は武蔵研究家丸岡宗男氏宮本一族会その他の方々のご努力によるものであり特に生誕地碑建立のための田原家ゆかりの土地の提供関係記念碑の建設等については田原家末裔梅本武氏から多大のご配慮をいただいている
ここに武蔵伊織の業績を顕彰し、当地が二人の生誕地であることを示すために宮本武蔵伊織生誕地碑を建立する
        平成一二年六月
                 宮本武蔵伊織顕彰会


宮本武蔵・関連リンク
かなり詳しい宮本武蔵玄信伝。週刊松本忠也にあるサイト
宮 本 武 蔵 播磨武蔵研究会のホームページで、本格的な武蔵研究の成果を掲載している。
必見のサイト。
    
  
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