ぺんぎん特別便
(身辺雑記エッセイ)
緊急特別企画! ぼくたちの好きな『西行花伝』その2
前回に引き続き、辻邦生の『西行花伝
●薄紅色の動機
法金剛院の花の宴で、枝垂れ桜の薄紅色に包まれて立つ待賢門院――若き佐藤義清(のちの西行)は、その貴やかな美しい姿を、忘がたいものとして心に刻みました。それ以来、待賢門院(女院)を回想するくだりには、必ずと言っていいほど「枝垂れ桜の薄紅色」といったフレーズが繰り返されます。この技法によって読者には、花の宴の場面の情緒が無意識のうちに喚起され、在りし日の女院の姿を情感ゆたかに現前させることが可能となります。これはまさしくライトモティーフ(Leitmotiv: 示導動機)の技法です。作者は若き日に読み込んだというトーマス・マンからこうした技法を受け継いだのでしょうが、マンは心酔していたワーグナーの音楽によって、それを編み出したのでした。
さてこの「薄紅色の動機」ですが、直接的な女院の思い出のみならず、様々に応用されてゆきます。女院の姫御子である統子(むねこ)内親王の手毬が「薄紅と紫の糸を巻いた手毬」(337頁)であるのも、そのひとつでしょうが、いっそう感銘深いのは白峰鎮魂の場面です。現世の権力を奪われ、歌による政治(まつりごと)によって立つという理想を抱いた崇徳院(新院)はしかし、保元の乱の首謀者に祭りあげられ、敗れて讃岐に配流され、恨みと憎しみのうちに狂死し、ついには怨霊となって荒れ狂います。西行はその魂を鎮めるべく白峰の御陵を訪れ、夜を徹して読経し、死せる新院と語らいます。すると夜明けに塚が静かに三度動き、「海から上る最初の光が峰の頂きを薄紅色に染めた」(614 頁)のです。荒れ狂う新院の魂が、ついに貴やかな美の世界へと立ち戻ったことが表されています。素晴らしきライトモティーフさばきではありませんか。ちなみに崇徳院もまた、待賢門院の御子です。こうしたライトモティーフを見つけ、それに共振してゆくことも、辻ロマンを読むたのしみのひとつでありましょう。
●森山直太朗と『西行花伝』
森山直太朗さんの〈さくら(独唱)〉が、私にとっては『西行花伝』のエンディング・テーマであると書きましたが、どのあたりがそうなのか?――いくつか書き出してみたいと思います。「霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる」のくだりは、耳で聞けば「歌」と同音であり、西行が打ち込んだ歌道に重なります。「偽りのない言葉」「本当の言葉」は、歌こそ真言と信じた西行を思わせます。「刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って」「移りゆく街はまるで 僕らを急かすように」「永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて」のくだりもまた、世の流転と無常を見つめ、歌によって永遠を希求した西行にふさわしいものです。「仏には 桜の花を たてまつれ わが後(のち)の世を 人とぶらわば」――全編を締め括るこの一首のあとの静寂のなかから、あの玲瓏なピアノの前奏が響きだしたら、どんなにか素晴らしいでしょう。
(2012年4月8日)



